一息ついて。改めて、剣士の少女と向き合う。布切れ一枚を被った状態で。
毛布らしきそれは、少女から「目の毒よ」と言われて渡されたものだ。浴びてしまった血は湖ので洗い流せたからよかった。
……花の匂い。毛布からは微かに、香料らしき甘い匂いがする。
「―――とにかく、助かったわ。あとできっちり、お礼をさせて頂戴」
凛とした声で言って、礼儀正しく頭を下げる少女。気の強そうな気配のある切れ長の瞳がこちらを見る。
その目の奥には未だ、張り詰めた糸のような緊張感が漂っていて。けれど、やはり。近くで見るとはっきり見える少女の整った顔立ち。綺麗だな、と。なんだか場にそぐわない感想を抱いてしまう。
面と向かって言われるとなんだかむずがゆくて。羽織らされた毛布の中で身じろぎする。
「ええと、その。こちらこそ、どういたしまして?」
どう返したらいいのかわからずに、なんだか曖昧な返答をしてしまう。結果的に助けられたことはよかったけど、ひどく失敗したような気もしているから。
戸惑いを察したのか。くすりと笑う少女。
「素直なのね」けれど、すぐに取り直して。「でも、やはり気になるわ。どうして裸でこんなところに? それにあの膂力。その翼。……あなた、何者なの」
問い詰める目は真剣そのもので。刃先を突きつけられるような気持ちにもなる。
ただ、それを聞かれると困ってしまうのだが。
「答えたいのは山々なんだけど……」
自分でも自分のことがわからないからどう説明したものか。誤魔化そうにも誤魔化せないし。なんというか、失敗するとこの先二度とこんな出会いはないような気さえするし。
言葉を選んで悩んでいるうちに、少女の詰問は中断された。
鳴り響く、腹の虫の音。
「…………その。本当に情けない話なんだけど」
「……お腹が、空いているの?」
「はい……」
どこか、ぽかんとした表情に変わる少女。心なしか呆れた雰囲気さえある。
しくしくと泣く腹を押さえて少女に頼み込む。なんとも情けない話だった。俺も泣きたい。
※
殺し合いの場となった森の入り口からはさすがに離れて。草原に一本生えた木の影に腰を下ろす。少女が馬車から持ってきたのは籐らしきもので編まれた籠だった。バスケットの中にはまるまるとした大きなパンと、包み紙に包まれたものがふたつ。聞いてみると、一つはチーズでもう一つは羊肉の燻製らしい。
「ごめんなさい。今朝には街に戻るつもりだったから、有り合わせのものしかないのだけれど」
少女は手早いながらも、どこかぎこちない動作でパンを切り分けていく。
「右手」思わず、口に出す。「大丈夫なのか?」
少女の右手は腫れあがってしまっていて。見るのも痛々しい。先の戦いの折に怪我をしてしまっているらしい。きっと、少し動かすだけでも激痛が走るだろうに。
「ええ」少女は端的に答える。「ナイフを握る程度なら、問題ないわ。痛みは我慢できるもの」
けれども、少女は右手を庇いながらも平然としている。……そういうのなら、そうなのかもしれないが。
どこかに伸ばそうとした手が所在なげに宙を彷徨う。何か手伝えればとも思ったけれど、馬鹿力で迷惑をかけてもいけないし。
ふと、思う。
殺し合いの現場に立ち会ったことも、ましてやその当事者になることなどの経験はなかったはずだけれど。随分、冷静だな、と。自分に対して思う。
冷静とは少し違うかもしれない。そもそもあまり感じ入ることがなかった。化け物を叩きつけたことも、引き裂いたことも。あまりにも現実離れした状況に気持ちが麻痺しているのだろうか? それとも。体が変わってしまったのと同時に。心も人ではないものに、変わってしまったのか。だから何も感じることがなかったのか。
……わからない。結論はでない。
だが、もしそうだというのなら。そう考えると、どこか、胸の内に冷たい風が通りすぎていくような。そんな空虚を感じる。自分は果たしてどちらなのだろうか。
「―――はい。どうぞ。お礼というには簡素すぎるけれど。ひとまずこれで我慢していただけるかしら」
ぐるぐると空転しかけていた思考を遮るように、言葉と共に目の前にパンが差し出された。どうやら即席のサンドイッチのようだった。少女の技量ゆえだろうか。単にパンを切り分けて具材を挟み込んだだけというシンプルな作りというのに、実に旨そうに見える。
たまらずかぶりつく。大きく一口を噛み切る。咀嚼する。
チーズに独特の風味があるように感じるのは羊の乳から作られているかららしい。臭みもあるにはあるが、それよりも濃厚な味わいがある。羊肉の燻製は塩が刷り込んであって、これもまた実にパンとチーズに合う。旨い。空腹には堪らない一品だった。
もう一口と行こうとして、ふと気づく。視界の端で、苦笑いしている少女の顔。
………うむ。そういえば。受け取る前から夢中になって、そのままかぶりついてしまっていた。野生動物か、己は。
「ご、ごめん」
自分が恥ずかしい。羞恥に身を縮こませながら、両手で齧りかけのパンを受け取る。
「いいえ。むしろ嬉しいわ、そんなに夢中になってもらえるなんて。作り手冥利に尽きるもの」
言いながら頬を緩める少女。こちらを眺める目はどこか生暖かい視線をしていて。やはり、気恥ずかしくなってしまう。耳まで熱くなりそうだった。ゆらゆらと。この気持ちを発散するように、尻尾が揺れる。
恥ずかしさを誤魔化すために目線を逸らしながら口を開く。
「そういえば。きみは、もう食べたの? ええと、朝ごはんになるのかな」
「ううん。私、朝は食べなくても平気な質なの。あまり強い方じゃないのね。それは全部食べていただいて構わないわ」
気にしないで、と。軽く答える少女。
……ううむ。唸って、少し思案する。少女はそう言うけれど、バスケットに入っていたのは今あるこれだけで。
だからこうすることにした。もぎりっとパンを更に分けて。少女に向けて突き出す。
「やっぱり二人で食べよう。きみが見てる中で一人で食べるのはなんだか落ち着かないし。それにさっき、あんなに動いたばっかりだろ」
……なんだか。へんな言い方になってしまったような気もするけど。
そっと少女の顔を窺う。少女はきょとんとして何度かパチパチと瞬きをして。くすりと笑って顔を綻ばせる。
「変なの。……でも、言われてみれば確かにお腹が空いたような気がするわ。ええ、いいわ。お言葉に甘えて、私もいただくとしましょうか」
少女は微笑みながら傍に腰を下ろして。二人並んで柔らかいパンを食む。
……やはり。妙に気恥ずかしい。微妙に落ち着かない空気のまま、無言で食べ終えて。まだ、小さな口で黙々と食べ進めている少女へと疑問を投げかける。
「きみは、なんでこんなところに?」
「薬草摘みと、兼、見回りのようなものね。近頃街に窃盗団が出ていて、そいつらの拠点がこの森の付近にあるらしいなんて噂があったものだから。……まさか
「その。ワーグとオーグ……っていうのは?」
「魔物よ。邪なるもの。奴らに人と組む知性があったとは驚きだったけれど。知らないの? ……そう。そういうことも、あるものね」
こくりと頷くと、少女は何かの理屈を自分の中に見つけて納得したようだった。問い詰められても、まるで何も覚えていないので説明のしようもないのだが。
誤魔化すように次の疑問を追加していく。
「薬草摘みっていうのは、あの森で?」
「ええ。街の近くにはないものも、ここには豊富にあるわ。だから時々、入り用になる前に今日のように来るようにしているのよ」
「じゃあ結構街は近いところにあるんだ」
「ここから街道に戻って、北にいけば馬で半日ってところね。実際、私が街を出発したのも昨日だし。一晩野宿してから戻る予定だったのよ」
馬。そういえばあれは馬車である。今は横転して横倒しにはなっているけれど。言われてみれば馬車なのに馬が見当たらない。首を傾げる。
「襲われたときに逃がしたのよ。手綱だけ外してね。私が無事であれば口笛で呼び戻せるし、もし死んだとしても街に戻ってくれるわ。あの子は賢いから。それで私のことは伝わるでしょう」
なんてことを。さらりと言ってのける。
可憐な少女に思える見た目に相反して、数々の修羅場を乗り越えている。そんな風格さえ感じられて。やはり、疑問に思う。……ひとまず、自分のことは棚に上げておいて。
「なあ、思ったんだけど。きみは何者なんだ?」
「やっぱり気になるかしら。……なんだと思う?」
丁寧な所作で残った包み紙を折りたたみながら、少女はいたずらげに笑みを浮かべる。
こう見るとやはり、どこかのお嬢様か、お姫様のように見えなくもないのだが。
「……どこかのお嬢様があんな怪物と盗賊相手に大立ち回りなんてできるとは思えないんだけどなぁ」
「あら。多少の剣術は淑女の嗜みよ」
「あれを多少と言うのもどうかと思うけど。……じゃあ、正解?」
「残念、外れです。ただの町娘なのでした」
揶揄うようにおどけて言う少女。なんだか、微妙に納得がいかないが。
「そうふくれないでよ、悪かったわ。……っと、ごめんなさい。そういえばまだ名前も言ってなかったわね。私はアイリーンというの。あなたは?」
ふと思い出したように首を傾げる、アイリーンと名乗る少女。
名前。そう、名前か。口の中で呟いて。やはり、自分のそれがさらりと口から出てきてくれないことに気が付いた。
「……思い出せない」
うんうんと唸りながらたっぷり三十秒も掛けて考えて、結局何も思いつかなかったのでそれをそのまま言うことにした。やはり、どうにも自分に関することは思い出せない。中途半端な知識だけはあるのだが。
「思い出せない?」
予想外の答えだったのだろうか。アイリーンは怪訝そうな顔で眉をひそめて。
「思い出せない、っていうのも不思議な話だけれど。ではあなたは何処から来たの? それも裸で」
「気が付いたら森の奥にある洞窟っぽいところで目が覚めてさ。それで森の中を歩き回ってうろついてたら、きみのとこについたって感じなんだけど」
「……ええっと。なら、あなたは何者なの?」
「それは俺も知りたいところ。自分のことはほとんど覚えてないもんだから、困ってるんだ。どうにも俺は、竜、らしいんだけどさ」
「竜」
尻尾をゆらゆらとさせながらそう言うと、アイリーンは口元に手を当てたまま、絶句したように押し黙ってしまった。俺の顔と、角と尻尾と翼と。何度か目線が往復する。「作り物でも、紛い物でも、ないものね」と小さく呟く声。
「竜なんて言葉、おとぎ話の中でしか聞いたことがないと思っていたけれど。……いろいろ、訳ありのようね」
なんとか、という様子でその言葉だけを絞り出すように言って。
頭痛でもするかのようにしばらく頭を押さえていたが、やがて気を取り直すようにかぶりを振って、こちらに視線を戻す。二つの視線が交わる。
「……とにかく。あなたが何者であろうとも、助けてもらったことは事実だもの。だから」
アイリーンはそこで、少しだけ言い淀んで。
「……だから、私と一緒に来てくれないかしら。……あなたさえ良ければ、だけれど」
最後は心なしか小声で。少女はそう言った。
ふむ、と。考える。
断る理由は、ない。自分に関することがまるでわからない今。どこかに行こうと思う宛もなければ目的も思いつかない。強いて言えば自分を思い出す、ということが目的になるのかもしれないが。今のところとびきり重要というわけでもない。
それならば、彼女についていくのも悪くはない。そう考えて。口を開く。同意の言葉は、思っていたよりもさらりと出てきた。
「わかった。いいよ」
「そう。…………よかった」
よかった。端的に少女は返事をする。返事。少しだけ間があって。どこか息を吐くような音が混じった。首を傾げる。なんだろう。安心、している?
覗き込むように顔を近づけると、驚いたようにアイリーンの肩が跳ねた。
「な、なによ」
「いや、なんでもないけどさ。……俺が言うのもなんだけど。こんななりでも、本当にいいのか?」
ぐぐっと少しだけ翼を広げる。
落ちる、大きな影。地面に映る影の形は辛うじて人の形を保ちながらも、ひどく異形で。異物、怪物。そんな言葉が頭の中を過る。
けれど少女は揶揄うような笑みを浮かべて。
「あら。私はいいと言っているのに、あなたはそのつもりがないのかしら。それとも……後ろから私を襲ってみる?」
「―――そ、そんなわけ。ない」
「なら、何も問題はないわね。いきましょう。日が落ちる前には着きたいもの」
おもむろに立ち上がって馬車へと向かう少女の背中を、慌てて追う。
冗談めかしたような口調に、なんだか毒気を抜かれたような気がした。
※
がたんごとんと揺れる馬車の上。
御者台に座るアイリーンの隣に腰を下ろしてあてどなく視線を彷徨わせる。荷台のほうにいることもできたが、アイリーンが頑なに隣へと勧めるので仕方なく、である。もっとも手綱を操れるわけでもなし。なにかできることもないので、緑の景色へとあてどなく視線を彷徨わせる。
森から少し離れて草原を行くと、一気に視界が開けたように感じる。木々は鬱蒼として緑の塊となっていた森と比べると、なだらかな稜線にぽつりぽつりとあるくらいで。
風が吹く。足首ほどの高さの下草がざあざあと音を立てている。遠くの空には猛禽らしき影が円を描きながら飛んでいて。どことなく、牧歌的な雰囲気があった。
時刻はどうやら昼下がりといったところか。傾きかけた日差しがさんさんと降り注いで。直接日の当たる御者台にいると、ちりちりと感じる熱がある。けれど本格的に汗ばむ前に、涼やかな風が吹き抜けて熱を拾い集めていく。肌の上を吹き抜けていく微風が心地いい。……太ももの辺りがスースーし過ぎるのがちょっと気になるけど。
失ってしまったものを自覚してしまって、思わず微妙な顔になる。なんだか切ない気持ちがあった。
目の前でぐんぐんと上下に揺れる茶色の塊。
栗毛の、額に白い流星のある牝馬。名はハイネスというらしい。アイリーンの呼び寄せた愛馬。フンフンと鼻息を上げながら馬車を牽く。少しばかり牽きづらそうにしているのが申し訳ないが。
横倒しになってしまっていた馬車は見た目よりはひどい状態ではなかった。ただ、車輪のひとつが歪んでしまっていて。平坦に均された街道に戻るまでは、多少の小石や起伏で大きく揺れてしまうのが気になるところではあった。まるっきり使えないくらいほどに壊れてしまっていたよりはましではあるけれど。
驚くべきはそんな馬車を苦も無くひっくり返したこの体の力だろうか。いくら小型のものとはいえ、自身より大きい木の構造物を紙のように持ち上げることができたのは自分のやったことながらドン引きした。
ガタガタと。不規則に揺れる車内。
元より一人用の馬車だからか、いくらか狭い。大きく揺れる度、少女が手綱を繰る度に、僅かに肩が触れ合う。
……そのたびに。ちょっとだけ体がびくりとしてしまう。思わぬ怪力で少女を吹っ飛ばしてしまったりしないか、だとか。そんなことをつい思ってしまう。
いや、半分くらいは嘘だ。本当は、外套一枚というほとんど着の身着のままで、女の子と一緒という状況そのものに緊張している。だって、体はこんなことになってしまっているけれど、自認はまだ男であるのだから。せめて服があれば、もっとマシであるのだが。
変に身に力が入ってしまう。
アイリーンの方は気にしていないのだろうかと横目で窺うと、そんなことはないようだった。時折、鼻歌まで聞こえてくる。これではただの独り相撲かと息を吐く。
少女は手綱を繰る。右手を使わずに、左手だけで。
その右手は厚く布が巻かれて木で固定されている。力加減に苦労しながらやったものだ。
……本当に、大変だった。ちょっと油断すれば布が裂けるし、強めに縛って固定しようとするとぎちぎちに締め付けすぎそうになるし。アイリーンの手をハムのようにしなくて済んで、本当に良かったと思う。
左手の僅かな動きだけでも馬が反応しているように見えて感嘆する。少女の技量もそうだが、彼らの積み重ねた信頼関係を垣間見たような気がして。
「……そういえば」
ふと、思いついたようにアイリーンが口を開く。
「名前、それと自分のこと。何か思い出せたかしら」
「うーん…………。どうにも、駄目っぽいなぁ」
何もすることがない手前、自己に埋没するようにぼんやりと思い出そうとはしてみたのだが。やはり、自身のことに関しては思い出せなかった。
記憶の欠落。それとはまた違うような気がする。記憶のあるところにいこうとすれば、微かな耳鳴りと共に深い霧に囲まれて迷わされてしまうような。どうしても手の届かない場所にある。そんな気配。
気にならないといえば噓になる。何より自分のことだ。自分のことを自分が知らないなんて、落ち着かない。けれど、考えたところでどうにもならないような。そんな勘めいたものもあって。
「まぁ、今はダメでもそのうち思い出すだろ。自分がわからないのは不便と言えば不便だけれど。今は特に困ってないし」
「気楽なのね。でも、呼び名がないと私が困るわ。あなたを呼んであげられない」
「ぬう。……名前、なあ?」
言いながら首を傾げてしまう。
呼び名。名前か。確かに、必要ではあるけれど。
もともとあったはずの名前は思い出せないし、ぱっとうまいこと思いつけるような感じもしない。どうしたものかと腕を組む。
「……うむ。思いつかないからアイリーンが決めてくれよ」
「私が? ……いいの? 名前はとても大切よ。そんな、軽く他人に任せるのはよくないわ」
「別に構わないよ。きみが決めたならなんでもいいからさ。元々、アイリーンに会えてなかったらどうなってたかわからない身だし。そう思えば運命みたいなものだし。名前くらい、任せるよ」
結局、丸投げすることにした。特別こだわりというのもないし。任せても何も問題はない。
そう思いながら、ふと視線を感じて隣を見ると、不思議な顔をして固まっているアイリーン。鳩が豆鉄砲を食ったような、とでもいえばいいのか。ぽかんと口を開けて。
「……思うのだけれど。あなたのその言い方、時々すごくずるいわ」
「え?」
「いいえ、何でもありません。名前を考えてあげればいいのでしょう。ええ、考えてあげますとも。あなたが言ったのだから、文句は受け付けないっていうこと、忘れないように」
ぽつりと呟かれた言葉に思わず聞き返すと、頬に手を当ててふいっと顔を背けられてしまった。拗ねたような、どこかつんとした口調。なんだろう。怒らせてしまったのだろうか。
顔を覗き込もうとする。また微妙に顔を逸らされて逃げられる。……よく見れば。金色の髪から飛び出した耳の先に赤みが見えて。
……なんだか。途端に気まずさを自覚して、こちらも目を逸らした。
先とは違う理由で景色に目を向ける。
幾ばくかの沈黙。ガタゴトと、何度目かの馬車の音が響いて。
そうね、と。考える素振りを見せていたアイリーンが呟いた。
「セレン。というのはどうかしら」
「セレン」
飴玉のように、その名前を口の中で転がす。
響きは悪くはない、けれど。
「なんだか女の子っぽすぎないか? おれには、ちょっと」
「あら。不服なの? 大丈夫よ、とても似合うわ」
「……そ、そうかなぁ」
もうちょっとだけ男っぽい名前のほうがいいんじゃないか。そんな気持ちもあったけれど、アイリーンが随分と満足そうな顔をしていたのでまあ、それでもいいかと思うところもある。
「ん……。じゃあ、それでいこう。文句は言わないって約束だしな」
「ええ。改めてよろしくね、セレン」
言って、微笑む少女。まるで我が事のように喜んで、楽し気な。蜂蜜を梳ったような金髪が、喜びを纏うように、日できらめいて、跳ねる。幻想めいた綺麗な姿。
そこで、ふと気が付いた。―――どうも自分は。この少女の笑顔に弱いらしい。