月一くらいのペースで更新していけたらいいなぁと思います。
進む。進む。
揺れる。揺れる。
もうどれだけの距離を進んだだろうか。時折空を行き交っていた小鳥たちの姿も見えなくなって。
平地をゆったりと伸びる道。
街へ近づくごとに、その様相も徐々に様変わりしていた。
なんというか、よりしっかりと整備されている、とでもいうか。一つの橋を渡った先がより顕著だった。
単純に硬い石を埋め込んだ、そんな道から、しっかりとした石畳のようなものへ。
それと溝。レールウェイのように。ちょうど馬車の車輪が通れるような金属の溝がある。
なんでも、これがあると馬車が走りやすくて馬が疲れにくいのだとか。大型の馬車用ということで、アイリーンの馬車は使えないようだが。
幅もまた広くなって。大きな馬車が二列並んでも余裕を持って通れるくらいには広くなった。まさに街道といった道。
揺れる。揺れる。
進む。進む。
頂点近くにあった太陽も傾いて。
西から差す夕日で大地が赤く染まりだしたころ。ようやくその街が見えてきた。
鋭く切り立った山々に三方を囲まれた、薄く煙る町。
正面を守るのは石造りの壁だろうか。立派な門。城壁とさえ言ってもいい。大きな街。
偉容に感嘆の声が漏れる。
「ようこそ。
歓迎するように。隣で少女は笑みを浮かべる。
山間の街。カスレッド・マウル。山の肋骨、という意味らしい。
斜面を段々畑のように整えて、それを縫うように道が走る様は、なるほど確かに。山の腹に抱かれた白い骨を思わせる。
ガタガタと音を鳴らす馬車を引きずりながら石造りの壁へと。松明の赤々とした灯が灯り始めた門へと向かう。
「少し待っていてね。話を通してくるわ」
大人しく頷いて、毛布の裾を握りなおす。
アイリーンはするりと御者台を下りて、代わりに手綱を引きながら、先導して門へと。門番のいるらしい詰所の方へと歩いていく。
車輪が軋む音で気づいたのか。ひょいと門兵らしき若い見目の男が顔を出す。アイリーンとは顔見知りらしい。気軽な様子で片手を上げて。
「遅いおかえりですね、アイリーン嬢。兄君が何度か尋ねに来てましたよ」
「……野宿してから帰ると伝えていたのだけれどね。相変わらず心配性なんだから」
憮然として、少しむくれるアイリーンに、門兵の男は苦笑する。まるで、いつものだと言うかのように。
「はは。男っていうのはいつまで経っても身内が心配なものです。僕も、兄君の気持ちは大変わかるつもりです。ましてや最近は狼も魔物共もうろついてますからね。……ところで、遅れたわけというのが」
ちらりとこちらに視線が向く。怪しげなものを見るかのような目。顔と、それと身を包んでる服とは言えない布切れと。視線が撫でていく。
―――うう。見てる。見られてる。
当たり前だけれど、真っ当な生活を送ってる人の見た目じゃない。服も無しに布切れ一枚なんて変質者だ。そうでなくても、角とか、翼とか、尻尾とかが付いてるわけだし。
―――化け物って、追い出されたり、しないよな。しない、よね?
もしそんなことになったら、せっかく連れてきてくれたアイリーンにまで迷惑がかかってしまう。そうなってしまったらどうしよう。急に、不安が強くなる。
「私の客人よ。外で助けてもらったの。お礼もしたいのだけれど訳有りのようだから、ね。しばらくうちで面倒を見ることにしたの。……通っても?」
「ああ、はい。そういうことであれば。どうぞ、お通りください」
けれど、そんな心配は無用のようだった。
胡乱なものを見る目つきの門兵にも動じずに、アイリーンは言って。
門兵の男も、得心がいったように頷いて、警戒の目線を解いた。
「一応、他の荷も検めさせてもらいますがね。この包みは?」
「足りなくなってきた触媒と薬草を。先生から頼まれたの」
「なるほど。であれば、いいでしょう。……ああ、後ろの車輪が歪んでいますね。厩舎の前に停めておいていただければ、後で修理に出しますが」
「頼むわ。なら、後は任せていいかしら」
「もちろんです。では、良き夜を」
「ええ。良き夜を」
良き夜を。
この辺りに住む人たちの挨拶か、祈りのようなものらしい。そんな言葉を交わして、門を抜ける。
ほら、おいで。そう差し出されたアイリーンの手をとって、馬車から降りる。
厩舎に繋がれたハイネスは既に桶からもそもそと飼葉を食べていた。
ねぎらいも込めて、首筋の辺りを揉むように撫でてやると、ふすと鼻息を吹きかけられる。……嫌がってはいないようだった。
「こっちよ」
手を引かれながら街へ入る。
綺麗な街並みだった。整備が行き届いて。黒と灰色、それと赤茶色の壁の家が山の麓に連なっている。山の裾を枕に抱いた、大きな町。
門を抜けた先にはすぐに大きな広場が広がっていた。市が開かれているらしい。露店もいくつも出ているらしくて。風に運ばれて美味しそうな匂いがここまで漂ってくる。肉と油の匂い。食べ物の他に、衣服や小さいアクセサリーなんかを並べている古物商なんかも見えて。夕闇に反してたくさんの人で賑わっていた。
聞くともう夕餉の時間らしい。一日の仕事を終えた民たちの憩いの場だそうだ。酔っ払いたちの笑い声。怒声。罵詈雑言の類。騒がしいが、どことなく元気をもらえる。そんな騒がしさ。
その広場からはいくつかの道が伸びて。ゆるゆると斜面に沿いながら家々を繋いでいる。白い道。街の動脈と見える。
アイリーンはそんな人々の喧騒には混じらずに、まずは先に、と。街の奥へと道を行く。知り合いらしき顔ぶれがいたときには軽く挨拶を交わして。
隣にいる自分に好奇や警戒の視線が飛ぶこともあったけれど、アイリーンが一言添えると強く追及されることはなかった。夜の影で異形が見えずらくなっているから、というのもありそうだが。きっと、隣にいるのが彼女だからなのだと思う。
彼ら。この街の住人がアイリーンを見る目はいずれも暖かいものばかりで。
「随分慕われてるみたいだね。お嬢とかって」
「ん……。別にそういうわけじゃないわよ。やめてって言ってるのに、みんなやめてくれないだけ。いつまで経っても子ども扱いなんだから」
言って、拗ねたように頬を膨れさせる少女。その横顔は、剣を振るっていた姿と比べるとやや幼い表情に見えた。少し拗ねる顔。年相応に、子供扱いに不満を見せる表情は背伸びをしているようでまた可愛らしい。
ひどく頼れるように見えた姿も。もしかすると、気を張っていた彼女の努力の賜物なのかもしれない。
気づくと、じとりとした目でアイリーンがこちらを睨みつけていた。考えていたことが表情に出てしまっていたのかもしれない。
「ちょっと。何よその顔」
「いや、なんでも。アイリーンはすごいなぁってだけ」
「だからそんなんじゃないってば。あんまり揶揄うようならご飯抜いちゃうわよ」
「それは……困るな。すごく、困る」
「……もう。本気で受け取らないでよ。冗談です。悪かったわ」
思わず切なく音を上げそうなお腹をさすると、少女も困ったように眉根を寄せた。二人して顔を見合わせて、噴き出して。くすくすと笑い合いながら道を行く。
坂道を歩く。ゆるやかに曲がりくねりながら街に張り巡らされたような道を。ぽつぽつと、次第に灯りも灯り始めて。街の随所から立ち昇る白い煙のようなものがぼんやりと街灯りを反射している。
坂を上って。階段を上って。上へ上へと登っていく。ちょっと不思議な気分だ。街といえば平坦なところにあるものだったから。記憶はないというのに、そんなことを思う。
目指していたのは街の上の方にある館らしい。少し歩いて、見えてきた。
―――館。白い館。とても大きい。立派な建物。
華美な装飾が施されているわけではないけれど、この夕闇の中でも目を引く。きっと、日が昇っているときに見ればもっと綺麗に見えるだろう。素朴な美しさを感じる。別に詳しいわけではないけど、手の込んだ作りなのだろうと思う。
「<白石の館>よ。ここ、アルバロック辺境領を治める方が住まう場所。二百年ほど前に、当代の領主が会合の場所として作らせたそうよ。あくまでも執務の場所としてね。当時はそれなりの大きさだったのが、いつの間にか増築が進んで今ではこの通り。よほど集まりが好きな方だったのかもしれないわね。人が住み込めるまでにしてしまって。ほら、見える? あそこに別館もあるのよ」
「おお、本当だ。こうして見ると随分大きいんだな」
「この街では一番、と言えるかしら。今代もここに住まわれているの。今から会いに行くのがその方ね。ベルモンド=アルバロック卿。七人の辺境伯の一人ね」
「辺境伯。ええっと……地方ですごい権力を持つ人、ってことだっけ」
「確かに、そういう力を持つ人でもあるわ。でも、気さくな方よ。小さいころからおじさまはそう。怖がることはないわ」
貴族。領主。辺境伯。なるほど、そういった高い地位を持つ人なら、こんな立派な館に住んでいるのも納得である。
穏やかな表情で話す少女。その顔を見ながら、まだ見ぬその人を少しだけ想像する。
けれど、それよりも気になることは、やはり。彼女のこと。
彼女。アイリーンと名乗る少女。
辺境伯。偉い人。そんな人をおじさまと慕う彼女。
一体、何者なのだろうか。一体、どんな関係なのだろうか。
孫娘? 血縁? なんだか、どれも合っているような気もするし、外れている気もする。わからない。彼女のことは、何も。この出会って一日にも満たない中で見た彼女以外には。
そんな内心を読んだかのようにアイリーンがくすりと笑う。思わず、といったような笑み。
「……なにさ。だって、気になるだろう」
「ごめんなさいね。揶揄うつもりはないの。ただ、あなたがとても可愛らしくて、ね」
「……う。それこそ揶揄ってるだろ。一応男だぞ、俺は」
「おあいこね。さっきの仕返しよ」
くすくすと笑われる。なんだか落ち着かなくて頬を掻く。
アイリーンの笑顔。笑うとやはり、どこか幼げな雰囲気がある。年相応の笑顔。
「……気になるようなら、いずれ話すわ。私のことなんて、取り立てておもしろいようなことでもないけれどね」
ひとしきり笑って、少女は遠くを見る。ここではない、どこか遠く。視線は街の外を向いているけれど、きっと瞳に映っているのは別のところ。
「……いつか、ね」
少女は静かに。一つだけをつぶやいて。
※
ぽつりぽつりと道に沿って灯されるオレンジ色。カンテラの灯りを眺めていたら、いつの間に白い館が随分と近くまで来ていた。
ぐるりと敷地を区切る壁。正面入口ではなく、路地の方から回り込んで裏手にある小さな門へ。
敷地の中には聞いていた通り。大きな白い館。それと、渡り廊下で繋がれたもう一つの棟。そちらは離れらしい。今は使用人の住まいとして使っているのだとか。あとは、ちょっとした菜園だろうか。窓明かりに照らされて、植物の影が見える。
まずは話を通す、とのことで足は本館の方へ。
「この時間ならまだおじさまは起きているはずだけれど……」
アイリーンの声が途切れる。館の入り口を見て。
つられて視線の先を追うと、一人の影があった。
「遅いおかえりですね。アイリーンさま」
綺麗な声だった。落ち着いた響きのある声。
灯りを持った一人の女性がそこにいた。
服は給仕服というのだろうか。黒地に白いリボンをあしらって。
カンテラの炎が瞳を照らしている。暗闇に浮かぶ青の瞳はまるで宝石のようで。
それだけに、目を細めてこちらを見やる視線は恐ろしくある。
「お、遅くなると最初に言っておいたでしょう。許容範囲よ」
冷ややかな目線。肝が冷える思いだ。直接それをぶつけられているアイリーンは自分以上に圧を感じているのだろう。やや上ずった声で返事をする。
初めて見る。あからさまに動揺している彼女の姿。野盗に囲まれている最中でも平然として見えた彼女が、いたずらの見つかった猫のようにおどおどとしている。
「遅くとも昼には、とも言っていたはずです。それと護衛もつけるとも。その様子では、おひとりで出かけられたようですが」
むう、ぐう。と。
アイリーンは口の中でもごもごと、何度か言い訳をしようと試みていたようだが、やがて観念したかのように肩を落とした。
「……ごめんなさい。私が、悪かったわ」
「はい。それでよろしい。おかえりなさいませ、アイリーンさま」
少女が素直に謝ると、氷のように冷たかった女性の表情は鳴りを潜めて、代わりににこにこと柔和な笑みを見せる。
「心配しましたよ。ご当主も兄君も大層気をもんでいらした様子です。早くお顔をみせてやると安心なさるかと。……ところで、そちらの方は」
カンテラの灯りと青色の視線がこちらを向く。たった今こちらがよく見えたのだろう。驚いたように目を丸くして、口元を押さえる。
「私の客人よ。おじさまには後で説明するから、ひとまず浴場と彼女の着替えを」
「用意しております。それと先生もお呼びしましょうね。その右手、お怪我をされているようですから。治療を頼まなければ」
「はいはい。わかってるわよ」
さっと隠したはずの右手の包帯を目ざとく見つけられ、苦い顔でふいと顔を背けるアイリーン。
どうやら、アイリーンもこの女性には頭が上がらないようだ。
―――この街を抱く山は、今も生きているという。
活火山というわけだ。火を噴き上げるほどではないが、年に一度か二度、重く音を響かせるという。そして、その活動で温められた水脈が地上へと汲み上げられる。
ようは温泉だ。街を登ってくるときに見えた白い煙は煙ではなく、温められた水から立ち昇る水蒸気だそうな。日の終わりに温泉へと浸かって疲れと汚れを洗い流すのがこの街の文化、特色らしい。
館を案内されるときに聞いた説明を思い出しながら、その浴場へと入る。服代わりに纏っていた布は脱衣所として用意されたスペースに脱ぎ置いて。
扉を開けると、もわりと熱い蒸気が顔に触れる。
湯気に満たされた浴場。黒い石で作られた浴場。そのつるつるとしたよく磨かれた感触を足に感じていると、どことなくこうなる以前を思い起こさせる。
―――温泉に入れるなんて、思わなかった。
てっきり水で体を流すくらい、というのは覚悟していたけれど。清潔な温水で体を洗えるというのはそれだけで少しうれしいものだ。体に染みついたルーティーンを朧げに思い出す。
中はまさに公衆浴場といった雰囲気だ。館の住人が使うということで、そこそこ広くもあった。
借りた桶に湯を汲んで、少しずつ手で掬いながら体にかける。大まかに汚れを洗い流していく。
「ふぅ―――」
―――熱い。
思わず声が漏れる。
湯気の量からも想像はついていたけれど。とても熱い。湯に触れた瞬間だけ僅かに痺れるほどに。
湯を汲んで体にかける。掛け流す。熱い。熱いけれど、痛いほどではない。心地よい熱さ。湯が体の表面を伝っていく感覚が気持ちいい。
しばらくそうして体を流した後。改めて、自分の体を見てみる。
大きな翼と、尻尾。ぐいと伸ばして軽く振ってみる。やはり動く。どうにもこうにも、自分の体らしい。
体。異形を持つ自分の体。とても人とは思えない部分を除けば、一人の少女にしか見えないこの体。年頃の女の子らしく柔らかい曲線は、傷一つなく綺麗なもので。
「……うん、やっぱりない」
……男だったころであれば、この体を見て反応するものもあったかもしれないが。悲しいかな、今は何もない。ないのだ。本当にない。かわりにゆらゆらと所在なげに尻尾が揺れるだけで。
なんというか、そういう気持ちのところも、ストンと抜け落ちてしまったかのようだ。
不確かな記憶。不確かな自分。
はたして、今の自分は何者と言えるのだろうか。
ぼんやりと、詮無いことを考える。
自分が何者なのか。意味の無い問いだ。
こうなる前の自分は、はたして自分が何者かなどと答えられたのだろうか。
「…………ぬぅ」
「考え事?」
ぎゃっ、と。堪らず叫びそうになった。
振り向くと、そこにはアイリーンがいた。体に白い布を巻いて。
白い肌が目に映りそうになって、とっさに目を逸らす。
「な、なんでここに」
「あなたの手だけではその広い翼の全部に届かないでしょう。私が代わりにやってあげるわ」
いや。そうではなくて。
近づいてこようとする少女を身振り手振りで抑えながら、なんとなく自分の体を翼で隠す。ちょっと、恥ずかしい。
「その。俺は一応、男っていうか」
「ええ、聞いたわ。大丈夫よ、どこからどうみても今のあなたは女の子よ」
「意識的な話で! ……そ、それに怪我だってしてるだろ。無理すると悪化しちゃうんじゃないか」
「できないことをやるとは言わないわ。それに、あなた一人だと浴場は不慣れでしょう。私が責任もって面倒みるわ。だから、ね」
ね。ではないのだけれど。
あーでもないこーでもないと言い争ってもするりと受け流されるし。既にもう浴室には入っているしで。結局、こちらが折れることとなった。
「それじゃあ、ここに座って。楽にしてていいから」
「はい……」
小さな腰掛に座らされて。なすがままとされる。気分はまるで処刑される罪人か。年下の女の子に自分の体を洗ってもらうなんて! ……外見だけなら少女二人に見えるから問題ないのかもしれないけれど。それでも羞恥が勝る。恥ずかしい。
ささやかなプライドを盾に体の前側についてはなんとしてでも死守して。あとはもう、どうにでもなれ、という心地である。
アイリーンの手を大人しく受け入れる。
こちらにも石鹸らしきものがあるらしい。柑橘でも使っているのだろうか。泡立てるとほのかに酸味のある香り。刻まれたオレンジ色の粒々が表面にちらほらと見える。
石鹸の溶けたお湯を纏った少女の手が背中を触る。つるりと滑って体を洗っていく。
―――くすぐったい。
特に翼の根本と尻尾の付け根が困った。触れられたり握られてしまうと力が抜ける。
そしてやはり恥ずかしい。身を縮こませてしまう。
無言のままに洗われて、流されて。そしてそのまま浴槽へ。恥ずかしいやらなんやらで、困ってしまって黙りこくって。これではまるで、借りてきた猫だ。竜なのに。
そんな気恥ずかしさを誤魔化すように湯舟に浸かっていると、アイリーンも同じように入ってくる。浮かび上がりそうになったタオルにまた目を逸らす。再び無言の時間。
「…………」
「…………」
ちゃぷちゃぷと。水が揺れる音だけが響く。
「……なぁ」
無言に耐えきれずに口を開く。ずっと、感じていた疑問を。
「なんで、こんなに俺にいろいろしてくれるんだ? だって」
―――ひとでは、ないのに。
そう。ヒトではない。怪物。化物。そう言い換えてもいい。爪と力を持つ怪物だ。
口の中でそう言葉にする。ひどく、胸が冷える感覚があった。こんなにも熱い湯に浸かっているというのに。
体ではない。心が。……まともな心が残っているのであれば。だけれど。ひどく、冷えるのを感じる。
そんな化物を前にしたなら、自分なら積極的に近づきたいなんて思わない。だって、怖いから。自分を傷つけることができる存在は誰だって怖いはずだ。
だから、どうして。
揺れる水面を見つめながら、半ば独り言のように呟く。
「……そうね。初めて会ったあの時、本当はもう駄目だと思ったの。魔物に対してもそうだけれど、現れたあなたにも。……怖い、と思ったわ」
やはり、そうなんだ。そうだろう。それが普通だ。当たり前のことだ。
手に力が籠る。体。いいや、心が。ひどく冷えて。凍えそうで。
「でもね」
声。そんな冷たささえ溶かすような声があった。
「それよりもずっと嬉しかったの。あなたを怖いって思うよりずっと強くね」
少女は言う。謳うように。そうではないのよと言い聞かせるように。
「あなたは私を、見知らぬ誰かのはずの私を助けようとしてくれたわ。あなたが何者であろうと、何を思っていようと。それは確かな真実。……ね? それだけなの。私の理由は。それで、全部なの」
息を飲んで、思わず、少女の方へと振り向いた。
至近の距離。肩と肩さえ触れ合うところに、少女の瞳があった。
翡翠の瞳。きらきらと輝いて。まっすぐに、この自分の顔を映して。
「だから、それだけ。私にとって、それが全部」
気づけば手を取られていた。
少女の手。包むように握られて。
それはひどく、温かだった。