実にいい風呂だった。
ホカホカと程よく温まった体で浴室を出る。
水気を払って、服を着ようとして。そういえば着ていた、というか羽織っていたのは布切れだったなと思い至って。
布切れを入れた籠を見る。身に着けていたものは片づけられたのか無くなっていて。代わりに、衣服が二着置いてある。あのメイドさんが用意してくれたらしい。
一つはローブ。寝巻らしく、ゆったりと袖丈が取られていて。締め付けがなく、肌触りのいい布地をしている。ネグリジェ、とかと言うのだろうか。
もう一つはいかにも女の子といった服で。ああ、これは明らかにアイリーンのものだろうなと思っていたのだが。
「あなたのは、こっちね」
……と。予想を外れて、アイリーンはこちらに差し出して。思わず狼狽える。
「いっ、いやいや! 冗談だろ? こういうの俺には似合わないって! 第一、その、俺は」
「男だって、そう言いたいのでしょう? でも、それとこれとは話が別。いくら男性用の衣服でも、あなたのその翼と尻尾を詰めてしまえば息苦しくなってしまうわ。だからほら、これを着た方がずっと楽なはずよ。それに、きっと可愛いわ。ね?」
「ね、って言われたって……」
聞き分けの無い子を窘めるようにアイリーンは言う。
可愛い、なんて。言われても困る。困ってしまう。
最後の言葉の方が本音じゃないだろうな、と睨みつけてみるも、まるで効いていない。にこやかに受け流されて。ほら、着てみなさい。そう言うように、服を押し付けてくる。
うう、と。寄せられる圧に若干身を引きながら、服を見てみる。
広げられた服はワンピースのようだった。黒い布地がひらひらと揺れる。
背中の方が開いていて、なるほど確かに。これなら翼を通しても邪魔にならなさそうではある。スカートの部分も、尻尾を妨げることはない。敢えてズボンを履いて、お尻の部分に尻尾で穴を開ける羽目になるよりはずっといいだろう。
アイリーンのチョイスは確かに的確だった。実用的なところも考えられてある。実に理にかなったものだ。けれど。
「……その。やっぱりちょっと女の子っぽすぎるというか。俺には似合わないっていうか。出来ればその、男物がいいなーって」
「そんな! 駄目よ、もったいない。ほんとはね、初めて会ったときからずっと思っていたのだけれど、あなたってとても綺麗な顔かたちをしているんだもの。やむを得ないとはいっても、あんな毛布一枚の時はなんてもったいないことをって、思ってたくらい」
「そ、そうかなぁ?」
「そうよ。絶対そう。似合うかどうかは、私が保証するわ。だから、ね?」
……結局、こちらが折れることになった。アイリーンはにこやかに妙な圧を感じる笑みを浮かべて動かないし。誰かが助け舟を出してくれるわけでもないし。
なんとなく、覚悟を決めてワンピースを受け取る。
なんだかよくないことをしているような気がしないでもない。もっとも、肉体は女性体ではあるのだから。対外的に見れば何も問題はないのだが。
意識的にはまだ自分が男性であったということが抜けきらない。つまるところ、『女装』をしている。そんな感覚がどうしてもあって、恥ずかしさもある。
ぐだぐだ考えてもどうしようもない。
ええいままよ、と。一息で袖を通すことにした。もっとも、角や翼が引っかかってしまうので結局アイリーンに手伝ってもらう形にはなったのだけれど。
着終わってみれば、案外なんともないものだった。太ももの間をすうっと空気が通り抜ける感覚が慣れないといえば慣れないが。怪物の牙が突き刺さってもなんともないのに、風一つの方が気になるのかよ、なんて。自分に突っ込みを入れる。
少しだけ落ち着かないものを感じるままに、アイリーンが部屋の隅から持ってきた姿見に自分の姿を映してみる。
「ううむ」
鏡に映る姿は、やはり、まだ自分とは思えない少女の姿だった。
目が覚めたときに、湖面を鏡代わりにしてだいたいは把握したと思っていたけれど。しっかりとした鏡ではよりよく観察できる。
自分ではいまいちわからないが、アイリーンの言う通り、顔の造形は整っていると言えるかもしれない。あの時は裸だったが、ちゃんとした服を着るとまた印象が違って見える。角や翼に目を瞑れば、どこかのお嬢様と言っても通じるかもしれないな、なんて思う。自画自賛というには、あまりにも他人事な感想ではあるけれど。
ワンピースも合わせて、黙っていればどことなく気品というか、神秘的なものを感じなくもない表情だ。もっとも、油断するとすぐにそれは崩れて、気難しそうだったり気の抜けた顔だったりと、内心が顔に出てしまうようなのが弱点ではあるか。
口元にきらりとしたものが覗いた。口元を寄せてみると、鋭く尖った犬歯のようだった。大型の肉食動物のような牙。やはり肉食の類なんだろうか、己は。
「どうかしら?」
感想が気になるのか、横合いからひょっこりとアイリーンが顔を出す。
とはいっても、自分に服の知識はない。なんとなく着心地がいいなぁだとか、いい生地を使っているんだろうなだとか、その程度のものだ。
「うーん……いいんじゃない? かな?」
結局、なんともぼんやりとした返答になってしまった。
アイリーンが望むような感想ではなかったとは思うが、少女はそれでも満足らしい。うんうんと、私の目に狂いはなかった。とでもいうかのように頷いて。
「やっぱり、似合ってるわ。可愛いわよ、セレン」
「かわいいって……。言われても、困る」
こちらを見ながらニコニコと笑うアイリーンの瞳からは、どこか年下の妹をほめそやす姉のような挙措があって。
やはり気恥ずかしさを感じて、ふいっと翼で顔を隠してしまう。
「こら、恥ずかしがり屋さんのセレン。もっとよく見せてちょうだいな」
「勘弁してくれよ……」
でもまあ。アイリーンが楽しそうにしているからまあいいか、とも思った。
※
廊下に出ると夜の気配がした。少し、肌寒い。街中とはいえやはり、山だからだろうか。建物の壁でも遮り切れない僅かな冷たさが漂っている。
そんな廊下に二つの人影があった。一人は先のメイドさん。静かに佇んで。目が合うと、優雅な仕草で会釈を返してきた。どうやら、お風呂から出てくるのを待っていたらしい。
もう一人は、見たことのない人だった。知らない人。もっとも、知らない人の方が多いのだけれど。
初めて見る人。少女。小柄な体躯。身長だけでいえば、アイリーンよりも少し低い。なら、子供? そう思ったけれど、身に纏う静かな、植物のような空気が子供らしさを感じさせない。
銀色の髪。紫色の瞳。先の折れたとんがり帽子に白いドレスローブを纏って。銀髪の隙間から覗く耳の先は、驚いたことに尖った形をしていて。まるで妖精。森の魔女。あるいは、フィクションの中でしか見たことのない『エルフ』。そんな言葉が、イメージとしてぴったりとハマる。そんな人だった。
「いい夜だな、アイリーン。それに見慣れないお客人も」
紫色の視線がこちらを見やる。
深い、知性を宿した瞳。口調の端々からどこか老成した雰囲気を感じさせた。
白の少女を見て、アイリーンが驚いたように目を丸くする。
「ファルーニャ先生! どうしてここに」
「ああ。そりゃあ呼ばれたからここにいる。なあ?」
「…………カリサぁ」
むう、と不満げに頬を膨らせて。アイリーンはメイドさん―――カリサ、というらしい―――を睨みつける。けれどカリサさんはしれっとしながら受け流して。どうやら彼女の『告げ口』はいつものことではあるらしい。慣れた様子で素知らぬ顔をしている。
「……まあ、いいわ。いいでしょう。セレン、紹介するわ。こちらファルーニャ先生。私の魔法の師で、王都学院の教授でもあるの」
「うむ。よろしく」
アイリーンの紹介をさらりと受け止めて、先生と呼ばれた少女は軽く返事を返した。
こちらの目線に気が付いたのか、アイリーンが身を寄せてくる。少しだけ声を潜めて、耳打ちをして。
「ほら。耳がつんと尖っているでしょう? 師はね、
「聞こえてるぞ。まったく、目の前でひそひそ話とは感心しないな。それにあの引きこもり共と同じくしてもらっては困る。私はもっとこう、すごいのだからな」
「具体的には、どのあたりが?」
「どこがってそりゃあ…………うむ。まあ、いいだろう。この話はおしまいだ」
ファルーニャはアイリーンの問い掛けに、指をくるくると所在なげに彷徨わせていたが、やがて誤魔化すようにコホンと咳払いをした。
「わざわざこんな夜更けにお呼び立てしなくとも、明日私の方から先生のところへ伺うつもりだったのに。怪我だってほら、大したことないわ。それに先生だってお忙しいでしょうに」
「ああまったくだ。カリサの心配性には敵わん。腕の一本や二本、取れたところで死なせやせんというのにな。呼び立てたのがお前さんではなく、あの筋肉達磨の兄の方なら放っておいて書でも認めようと思っていたところだ。しかし……」
そこで一つ口を閉じて。きょろりと、瞳がこちらに向く。
「聞いたぞ。何やらおもしろいものを拾ってきたらしいな」
スミレのような瞳はきらきらと、好奇の色で輝いて。先ほどまでの落ち着いた印象とは打って変わって、まるで見た目相応の子供のように。微笑さえ浮かべながら、ずいっとこちらへと踏み込んでくる。
「ほう。
「うわっ、ちょっ、っとと」
顔に手を添えられて、そのままぐいと引き寄せられる。必然、互いに顔が近づいて。少しだけ花の香りがする。しゃらりと、片耳で揺れる耳飾り。三日月のようなペンダントが目に入った。
そのままぺたぺたと、小さな両手で頭やら角やらを触られて。遠慮のなさがくすぐったい。
「素晴らしい……! ……ふむ。手を出せ。少しばかりその血肉をもらいたいが、構わんな?」
「えっ」
「いいや、やはり私の部屋に来い。そう、今からだ。服も脱げ。お前さんの全身を隅々まで見せてくれ」
「え、ええっ?」
「―――ちょっと、先生! 何しようとしてるんですか!」
ぐいぐいと手を引っ張って、どこかへ連れて行こうとするファルーニャ。その間に、アイリーンは慌てたように割り込んで。
「どうかしたか」
「どうかしたか、じゃありませんっ! この子に何しようとしてるんですか!」
「ふむ。駄目か?」
「ダメに決まってますっ! セレンも、黙って言いなりになってないで!」
「す、すまない……?」
肩をいからせて怒っているらしいアイリーン。残念そうに溜息をつくファルーニャを引きはがして、まるで彼女の視線を遮るように間に立つ。その仕草は子供を守る母親のようで、少し微笑ましい。
「なに。別に取って食おうというわけじゃあるまいに。過保護だな」
「うるさいです」
揶揄うように笑う『先生』にぴしゃりと言う少女。
ファルーニャはそれに特に気にした様子もなく。
「まあいいさ。本題を済ませてしまおう。ほら、早くみせない」
促されたアイリーンは渋々、といった様子で怪我をした方の手、すなわち右手を差し出した。
ファルーニャは慣れた様子でくるりと包帯を巻き解くと、軽く手で触れて触診をするようにして。
「捻挫。それに……罅が入っているな。折れていなくて幸いだった。転んだだけではこうはなるまい。剣か?」
「はい。森でオークとワーグの群れに。知識としては、学んでいたはずなんですけど。実戦は違いました」
「なるほど。魔法はどうだ。使えたか?」
「加護を一つだけ。弾いて、身を守るのが精いっぱいで……」
「だろうな。戦場で自在に魔法を扱える者など、そうはいない。お前さんの年頃であれば……そうだな。お前の兄くらいだろう。その年で己の身を守れる程度に使えたのならいい方だ」
「…………」
会話をしていながらもその手際は鮮やかだ。とはいっても、自分には何をしているのかさっぱりわからないのだが。
ファルーニャの手がアイリーンを撫でる。その指の先に光のようなものが灯って。微かな光の粒が、溶けるように少女の肌の下へと潜っていく。
光。どこかで見た覚えがある。思いついたのは、アイリーンと初めて出会ったとき。大きな狼を小さな盾ひとつで弾き飛ばしたときも、このような光があった。そのことを思い出す。
魔法。そのようなものが存在するらしい。詳しくはわからないけれど。自分のような摩訶不思議なナマモノがいるのだから、そういうこともあるだろうと納得する。
これが魔法なのだろうかと、隣でその光景を覗きなが考える。
光はやがてすぐに消えた。それに合わせて少女の手の腫れも引いていく。
ぐっ、ぱっ、と。軽く手を握って開く。その動作は淀みなく、少女の怪我は問題なく治癒されたようだった。
エルフの少女は仕事は終わった、とでもいうように立ち上がって。
「これでよし。それじゃ、私はいくからな。カリサ、部屋を一つ借りるぞ。今日は泊まる」
「承知いたしました。ご当主にもお伝えしておきます」
「ああ、それと」
去り際にくるりと振り向く。いたずらげな瞳はこちらを見て。
「さっきのは、冗談じゃないから。その気になったらいつでも部屋に来てくれ。歓迎するぞ。ま、その気じゃなくとも来てほしいがね」
そう、言い残して。さっさと歩いて廊下の奥へと消えていった。
……なんというか。
「嵐のような人だったな…………」
「悪い人では……悪い人ではないの。ちょっと変なところというか、学者肌なところがあるだけなのよ」
「だいぶ言葉を濁したな」
「素晴らしい人ではあるのよ。……きっと!」
そう、誤魔化して。曖昧な笑みを浮かべていたアイリーンではあるが。ふと、気づいたようにはっとした表情でこちらを見る。
「あの人の言うことを真に受けて部屋に行ったり、なんてことはしないでね。あなた、生まれたばかりの仔猫のような顔をしてるから。きっとうまく丸め込まれて食べられてしまうわ」
「仔猫て。それにさっき悪い人じゃないって自分で言ったばかりじゃないか」
「ダメって言ったらダメよ! ……そうだ。今日は一緒の部屋で眠りましょう。ええ、それがいいわ。あなたには誰にも、指一本触れさせないんだから」
「お、おいおい。そんな、子供じゃないんだから……」
それはちょっと、と宥めてみても少女はふんすと鼻息を荒げるだけで。
―――どうやら。
―――少女の中にある何かのスイッチが押されてしまったらしい。
※
カリサの案内で館を歩く。
星明りとの差し込む廊下の先。分厚い扉。コンコンコン、と。規則正しいノックの音。
「アイリーン様とお客様をお連れしました」
呼びかけからややあって、扉の向こうからくぐもった返事が聞こえた。それを合図にカリサは扉を開く。
執務室。おそらくはそのような役割の部屋だった。
部屋の左右には本棚が立ち並ぶ。ぎっしりと書物が詰まっている様子で。立て掛けられたランプと暖炉の炎の灯りが、部屋を照らしている。少し、暖かい。
部屋の中央に主の姿はあった。
机の向こうに座っている大きな影がある。
初老の老人だった。整えられた髪はほとんどが白くなって。結構な年なんだろうか。目元には深く刻まれた皺がある。
けれど、日に焼けた肌と、その肌の下に薄く走る古傷の跡が衰えを感じさせない。元は武人か何かだったのだろうか。そう思わせるほど。
書類仕事か、あるいは本でも読んでいたのだろうか。小さな眼鏡の向こうから、興味深そうな、あるいは見定めるような、そんな視線が覗いている。
「なるほど。またえらいものを拾ってきたようだな、アイリーン」
呟いて。老人は笑みを深めて立ち上がる。いかにも厳めしい武人のようになのに、こうして表情が和らぐと気のいい好々爺にも思えるのだから、不思議だ。
「挨拶が遅れましたな。当主のベルモンドと申します。だいたいの話は聞いています。何やら記憶を無くしておられるとか。こうして出会えたのも風の導き。アイリーン嬢の客人とあらば、力を貸しましょう」
「ええっと……。ありがたいのはありがたいんだけど、本当にいいのか? 実際、俺はこんなんだけど」
角を指さしながらバタバタと翼を動かしてみたが、ベルモンドはさして気にした様子もなく頷いた。
「無論だとも。この街は山際の街だ。異民族の往来もまた多い。角や翼の一つや二つで目くじらを立てる者もいない、それに、そこの見立ては信用している。アイリーン嬢が選んだ者であれば、なに。邪なものではあるまいよ」
「もう、おじいさまったら。嬢はやめてっていつも言っているでしょう」
老人は傍らの少女を見て、ふっと相好を崩す。どこかむずがゆそうに頬を掻くアイリーン。
なんだか。祖父と孫。そのようなものを感じる。
けれど、血のつながりとはまた別のような。もしかすると、養子か何か? 気にはなるけれど。今はまだ聞くときじゃない。そう思う。
「しかし今日は夜も遅い。カリサに部屋を……ああ、夜食を、何か暖かいものを用意させよう。それでゆっくりとまずは休むといい。詳しい話はその後聞こう。それでいいかな」
そうして。長い一日が終わった。