喫茶ヘクセンナハトの夏休み   作:海野波香

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夏の始まりにアボカドサンドを

 ドアベルがカランと乾いた音を立てた。その音はどこか、飲み終わったカフェオレのグラスで氷が立てる音の涼しさによく似ていた。

 

「毎度ぉー、また来てねー」

 

 カウンターの向こうでお姉さんがブレンド1杯で2時間粘った客を見送るのを、僕はオレンジジュースをちびちびと舐めながら眺めていた。本当はカフェオレだっていいのだが、1日に2杯以上飲むと眠れなくなるからとお姉さんに禁止されていた。

 この喫茶『ヘクセンナハト』にはほとんど常連さんしか来ないから、今帰っていった客が最後の客だろうということは察しが付く。

 つまり、ここから僕のお迎えが来るまではお姉さんと二人きりということだ。

 

「なにニヤニヤしてんのさ」

「してないです」

「いーや、してるね」

 

 お姉さんの指が僕の頬をつつく。

 先程まで洗い物をしていたお姉さんの指先はよく冷えていて、空調の効きが悪いこの喫茶店でグラスの中の氷と同じくらいに気持ちのいいものだった。

 しかし、お姉さんは僕にお仕置きをしているつもりなのだから、僕はお姉さんに遠慮して、わざと「ぐえ」と声を上げてやる。そうするとお姉さんは嬉しそうにくすくす笑って、洗いたてのグラスを拭っていたタオルを干し台に引っ掛けた。

 

「少年、君好みのが入ってるよ」

「どんなの?」

「ナポレオン戦争の時代にドラゴンの空軍がいた、ってやつ。翻訳が途中で途切れてたんだけど、最近別の出版社から改めて刊行されたんだ」

「読みます!」

 

 ナポレオンもドラゴンも僕の大好物だ。

 僕がオレンジジュースを飲み干して椅子を飛び降りると、お姉さんはエプロンを外してするすると畳みながらそのポケットから鍵を取り出した。

 隣の部屋に続く扉の鍵穴に真鍮製の鍵を差し込み、扉を引くと、そこには僕の大好きな書庫が広がっていた。

 変わった設計の喫茶店だと思うかもしれない。元々この建物はお姉さんの大叔父さんが建てたお屋敷で、ブックカフェ部分は本来応接間だったのだ。本の蒐集家だった大叔父さんは来客にいつでも本を見せびらかせるよう、応接間の隣に書庫を作ったらしい。

 ともかく、そのおかげでお姉さんはこのブックカフェを開けたし、僕はお姉さんと一緒に沢山のコレクションを読むことができるのだ。

 

「えーっと、ちょっと待っててね……」

 

 お姉さんが積み上がった段ボールを隅に除けながら目的の本を探すのを見守りながら、僕は書庫に満ちた紙とインクと少しの埃の香りを肺いっぱいに吸い込んだ。

 母は僕がいつもここで色んな本を読んで勉強していると思っている。お姉さんに月謝を払ったほうがいいだろうかとも言っている。勉強にならないわけではないが、お姉さんがおすすめしてくれるのはもっと特別で愉快な本たちだった。

 コレクションは図書館のように整然と並べられている。いくつもの本棚に渡って揃えられたその背表紙を眺めているだけでも面白いことがたくさん書かれていた。僕はこの本棚を歩き回るのが大好きだった。

 ここには様々なテーマの本が並んでいる。

 大叔父さんはとても博学な人だったらしく、中でも歴史の研究でとても偉い学者先生だったらしい。僕も学校で一生懸命に歴史を勉強しているけれど、大叔父さんから歴史を教わったというお姉さんにはちっとも勝てやしない。

 そういうわけだから、歴史や地理、宗教に文化、そういった本がぎっしり集まっている。少し変わったところだと、お姉さんが毎朝チェックしている占いの本もあるようだった。

 僕にはまだそのすごさは一端しかわからない。僕はまだまだ勉強が足りない。

 けれども、お姉さんがそれらのコレクションを指して「大叔父さんには敵わないなあ」と笑う時の顔から察するに、これはとんでもない偉業なのだ。だから、僕はここに踏み入るたび、神社に参拝するような気分で頭を下げている。

 

「あったあった。はい、どうぞ。丁寧に日本語訳されてるけど、用語で躓いたら教えるからね」

 

 手渡された本はシンプルなタイトルで、表紙では海に浮かぶ帆船を守るようにドラゴンが輪を描いていた。いかにもなファンタジー小説だ。

 しかし、軽く目次に目を通してみるとそこにはタイトルからは読み取れない重みがあるのを感じた。

 きっとこの本は少し難しいのだろう。それでいて、僕にならギリギリ読めるくらいの難しさなのだろう。お姉さんが僕のためにこれを選んでくれたのだと思うと、僕はたまらなくなって、本を胸に当ててぎゅっと抱きしめた。

 

「ありがとうございます」

「よろしい。んー、私もなんか一冊持ってこうかな」

 

 お姉さんはしばらく本棚の前でうろうろしていたが、決心したような表情で手をエプロンで拭うと、僕には読めない言語でタイトルが書かれた重そうな本を引っ張り出した。

 

「今日こそこいつを読破してやるんだから」

「それ、先週も読んでました」

「なーんかねー、眠くなるのよね。そういう魔法でもかかってるのかしら」

 

 それはお姉さんの集中力がないせいだと思うが、これを言うとつつき回されることを知っている賢い僕は沈黙を貫くことにした。

 

「ちょっと待っててね、ノートとペン持ってくるから」

 

 お姉さんはぱたぱたと駆け足で書庫の奥に向かった。

 このお屋敷を建てた大叔父さんはものぐさな人で、書庫と書斎を往復する時間ができるだけ短いようにしたいと設計士に依頼したそうだ。その結果、応接間と書斎を繋ぐ形で書庫が作られた。

 今はその書斎はお姉さんの私室になっている。お姉さんは仕事中でもたまに閃くとお店の看板をCLOSEにひっくり返して書斎に引っ込んでしまうことがある。

 僕はいつか、あの書斎に入ってみたいと思っていた。それでいて、なんとなく頼む勇気が湧かないでもいた。

 

「お待たせー。ん、18時か。いい時間だね。少年、お腹空かない?」

「だいぶぺこぺこです」

「なんかつまむかー」

 

 お姉さんはまたぱたぱたと書庫を抜けて、僕に手招きをした。

 僕が本を抱えながらお姉さんの後についていくと、お姉さんは書庫の鍵を閉めて、それからカウンター裏のシンプルなキッチンに立った。

 初期投資は惜しむべきではないとかなんとかで、お姉さんは沢山の調理道具を揃えていた。オーブンは僕の背丈の倍ほどあるし、ファストフード店の厨房に見えるようなフライヤーもあるし、ホットサンドメーカーはプレス式の大型だ。

 

「さて……パスタはー、こないだ出したね。ドリア……あちゃ、ホワイトソース缶切らしてた。あるのは6枚切りの食パンと、ドーナツと、冷凍野菜が少しと……何食べたい?」

「ホットサンドを焼くのがいいと思います」

「天才だ。アボカドと……味玉、チーズもあるね。アボカド味玉チーズサンド!」

「天才だ!」

 

 僕達は笑いあって、それから準備をした。

 お姉さんがホットサンドの具材を食パンに挟んでいる間に、僕はお姉さんのグラスと僕のマグカップを棚から取り出した。お姉さんのグラスに氷を放り込み、カウンターに置く。飲み物を注ぐのは僕の身長では危ないので、いつもお姉さんに任せている。

 僕が慌ただしくしていると、プレス式のホットサンドメーカーの上でじゅわっとバターが融ける音がした。

 

「ひゅー、あちあちだ」

「いい香りですね」

「バターの香りはね、人を短期的に幸せにする魔法なんだよ」

「短期的に?」

「ふふ……健康診断を終えたお姉さんは無敵なのだ」

 

 お姉さんはもう少し運動をすべきだ。歩いて10分のスーパーまで買い出しに行くのすら車を出している。今度僕はお姉さんに縄跳びの仕方を教えてあげようと思う。

 お姉さんがホットサンドメーカーの鉄板を押し上げると、香ばしく焼かれたホットサンドが現れた。

 

「んー、焼き加減ばっちし」

 

 お姉さんは焼き上がったアボカド味玉チーズサンドをまな板に移し、半分にカットして、そのとろけ具合に満足そうに頷いてからお皿に乗せて僕の前に置いた。

 

「名付けて……魔女の気まぐれホットサンド!」

「ツナチーズサンドのときも同じ名前でした」

「まあ細かいことはいいのよ。冷める前におあがり、今麦茶注いであげるから」

「ありがとうございます!」

 

 僕は椅子の上で足を揺らしながら、お姉さんが焼いてくれたホットサンドにかぶりついた。

 そのとろとろ具合に僕はびっくりして、思わず声にならない声を上げた。

 半熟の味玉がとろけたチーズ、程よく潰れたアボカドと絡まって、濃厚なソースのようになっている。その熱々のソースがこってりとしていて、カリカリに焼けたパンとの相性が抜群だ。

 

「おいひい!」

「ふっふっふ、よきにはからえ。火傷しないようにね。はい、麦茶」

「ん……ありがとうございます、おいしい……」

 

 もっと言葉を尽くして褒めたいといつも思っている。しかし、僕はお姉さんの料理を食べると感動してしまって、上手く言葉が出てこなくなってしまうのだ。

 お姉さんはニコニコしながら僕を眺めた後、ホットサンドを一口かじり、目を丸くした。

 

「ほんとだ、おいしい。定番メニューにしてもいいな。……あー、でもアボカドの仕入先がなあ」

「いつものスーパーじゃ駄目なんですか?」

「定期的に仕入れてる野菜は全部農家さんからの直販なんだよね。でもアボカドって輸入だよなあ……まあいっか、一旦いつものスーパーで仕入れよう」

 

 お姉さんは鼻歌交じりにレシピをメモした。

 

「日持ちしないものはあんまり仕入れたくないんだよねー、客入りがそんなにいいわけでもないし」

「最近、同じお客さんしか見ませんね」

「お、いい観察眼だ。そうねー、常連さんがいるのは嬉しいことなんだけど……うーん、やっぱSNSとかやるべきなのかなー」

 

 僕としては複雑な気分だった。

 この喫茶『ヘクセンナハト』が繁盛してくれたらもちろん嬉しい。しかし、繁盛すればお姉さんと過ごす時間はその分減ってしまう。これをジレンマと言うのだ。

 

「……まあ、いっか。今のとこ黒字だしね」

「そうなんですか?」

「お、なんだーその疑わしそうな目は。確かに喫茶店の収益はギリギリだけど、古本屋のほうで黒字出せてるからトータルで黒字なの。君は安心してホットサンド食べてなさい」

 

 よくわからないが、今のままでも大丈夫なようだ。

 それなら安心だった。僕はもう一口ホットサンドを頬張って、半熟の卵黄がアボカドとチーズを絡め取る食感を堪能した。ちょうどいい具合に効いた黒こしょうの辛味が鼻に抜けて、少しくしゃみが出そうになった。

 お姉さんはカウンターの向こうに自分の椅子を引っ張ってきて座り、ずんと音を立てて本を置いた。カウンターが挟まって、ちょうど僕にはその本の内容が見えなかった。

 

「食べ終わったらお迎え来るまで読書タイムだ。今日こそ読み進めてやるんだから……!」

「その本、どういう本なんですか?」

「ふふ、気になる? 魔法の本」

「魔法の……」

 

 お姉さんは時々、意味深な笑い方をする。

 僕は麦茶を飲みながら、カウンター越しにお姉さんを見上げた。お姉さんはすらりとしていて、僕からすれば見上げるほど背が高く、そして姿勢のいい人だった。だから、目を合わせようと思うと僕も背筋を伸ばす必要があった。

 姿勢を伸ばした僕の視線の向こうに、お姉さんの瞳があった。栗色の瞳の中で、僕の目がキラキラしていた。

 

「ねえ、少年。この世には不思議なことがあるものだね」

「そうかもしれません。お姉さんの料理はいつも不思議なくらいおいしいです」

「おや、嬉しいことを言ってくれる」

 

 お姉さんはクスクスと笑った。

 この世には不思議が沢山あった。なぜ僕のグラスの氷はいつまでも溶けないのか。なぜCLOSEの看板をかけていないのにぴたりとお客さんが入ってこなくなったのか。なぜ誰もお姉さんの名前を知らないのか。

 不思議を感じるたび、僕はいつもドキドキした。

 学校ではきっと教えてくれないであろう不思議が、この世には沢山ある。そして、もしかすると、この喫茶『ヘクセンナハト』はそうした不思議の宝庫なのだ。

 

「その本を読んだら、わかりますか?」

 

 僕がそう問いかけると、お姉さんは小さく首を傾げた。

 

「うん、もしかしたらわかるかも。でも、少年にはまだ早いかな。この世にあまたあふれる沢山の不思議を味わって、それからまだ読みたいと思ったら戻っておいで。そしたら貸してあげるからさ」

「えっと……はい」

「いい子だね」

 

 何もわかっていない僕の頭をお姉さんはかき乱すように撫でた。

 この世に不思議があるとすれば、それはお姉さんその人だ。僕はずっと、お姉さんの秘密を暴きたいと思っていた。

 お姉さんは、魔女なのだ。

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