喫茶ヘクセンナハトの夏休み   作:海野波香

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夏の盛りにローストビーフを

 天気予報によれば、今日はこの夏最後の涼しい日のようだった。

 お姉さんは「こんな天気の日に遊びに行かないのはもったいない」と言い張り、お店を閉じて僕を引き連れ、車のエンジンをかけた。

 

「どこに行くんですか?」

「んー、そうね。でっかい公園とか」

「とかって」

「こういうのはね、何も決めずに流しはじめるところから始まるのよ」

 

 大叔父さんから相続したという丸いランプのカルマンギアを唸らせながら、お姉さんと僕は開いた窓から吹き込む風を楽しんだ。

 カーステレオからはお姉さんが喫茶『ヘクセンナハト』でもよくかけているボサノヴァが流れている。その音量に負けないよう、僕は気持ち大きな声でお姉さんに呼びかけた。

 

「このへんの大きな公園って言うと、上野とかですか? 科学博物館に連れて行ってもらったことがあります」

「あー、いいね上野。でも、うーん……あそこらへんの駐車場、絶対満杯だよねえ。夏休みだし」

「うーん、確かに」

 

 僕達はしばらく道なりに車を走らせた。

 車窓の向こうに街並みが流れていく。住宅街を出て大通りに乗り込み、店々の派手な看板を傍目に、僕らを乗せたカルマンギアは道をすいすいと駆けていった。

 しばらくして、お姉さんは閃いたように声を上げた。

 

「よし、水族館行こう」

「水族館? せっかく涼しい日だから外に出たのに」

「大丈夫、ちゃんと公園もあるから!」

 

 お姉さんが鼻歌でボサノヴァをなぞりながらハンドルを切った。

 それからしばらくして、僕とお姉さんは葛西にある大きな公園に来ていた。東京湾が雲越しの日差しを受けてキラキラと輝いている。

 風に吹かれて飛ばされないようにお姉さんが帽子を押さえて、反対の手でお弁当のバスケットを持ったまま東の方を指さした。

 

「ほら、少年! あそこにでっかいお城が見えるよ!」

「お弁当、持ちますよ」

「なんだよ、冷めてるなあ。私が小さいころはあのテーマパークに行きたくて、床に転がって泣いて駄々こねたのに」

「お姉さんにもそんなころがあったんですね」

 

 少し意外だった。

 お姉さんはあまり自分の小さいころの話をしようとしない。それは彼女が大叔父さんに引き取られたという過去と関係しているのかもしれない。

 僕はお姉さんの過去がずっと気になっていたが、父からの根掘り葉掘り質問しないようにという言いつけをずっと守っていた。父曰く、女の子の秘密は語られるまで探らないのが紳士というものらしい。

 

「まあね。11時半かあ。先にお昼にする?」

「僕はけっこうお腹空いてます」

「よし、じゃあお弁当だ。ふっふっふ、夏休み明けたら自慢してもいいよ? 現役カフェ店主のカフェ飯お弁当でピクニックなんて、中々できることじゃないんだから」

 

 自慢するつもりはなかったし、なんとなく気恥ずかしくてそっけない態度を取ってしまったが、内心で僕はとてもワクワクしていた。

 だって、これはデートではないか。

 いつものエプロン姿ではない、紺のジャンパースカートに白のシャツとカンカン帽を合わせたお姉さんはとても夏らしく、華やかで、綺麗だった。今日のお姉さんは特別で、なんだか眩しくて仕方がなかった。

 

「お、いい感じの木陰発見。少年、レジャーシート敷いてきて」

「はい!」

 

 僕はお姉さんからレジャーシートを受け取って、木陰にそれを開いた。安っぽいチェック柄のビニールは少し小さかったが、それでも僕とお姉さんがお弁当を囲むには十分だった。

 それからお姉さんはレジャーシートの真ん中にバスケットを置いた。

 

「少年、ドラムロール!」

「は、はい。どぅるるるるるる……」

「じゃじゃーん!」

 

 お姉さんがバスケットの覆いを外した。

 そこには色鮮やかなお弁当が詰められていた。ミックスサンド、サラダ、串に刺したチキンソテー、そしてカットされたオレンジ。見るだけで食欲がますますそそられた。

 

「お手拭きとー、あと飲み物か。アイスカフェオレ作ってきたから、1杯だけね」

「やった!」

 

 紙コップに注がれたアイスカフェオレはよく冷えていて、涼しいと言えども夏の昼らしい気温に汗をかきはじめていた僕にぴったりだった。

 

「いただきます!」

 

 僕は最初にミックスサンドから取りかかった。

 今日のサンドは特別だ。いつも使っている食パンではなく、バケットで挟んでいる。僕が選んだのはローストビーフサンドだった。ローストビーフはお姉さんの得意料理なのだ。

 一口かじると、肉の強い旨味にレタスのシャキシャキ感が合わさって最高だった。

 

「おいしい……これ、おいしいです!」

「だろー? どれどれ、お姉さんはたまごサンドにしようかなー」

 

 お姉さんはたまごサンドを手にとって一口かじり、幸せそうに目をつぶった。

 

「んー、これこれ! マスタード多めにして正解だったわ」

「お姉さんは料理の達人ですね」

「ふふ、それほどでもない」

 

 サラダもよく水気が切られていて新鮮だったし、チキンソテーもジューシーに焼き上がっていて香ばしく、抜群の仕上がりだった。最後にオレンジにかぶりつくと、満腹感からやってきていた眠気が酸味によって一気に追いやられた。

 

「酸っぱーい! 最後の最後でオチがついちゃったな」

「でも、スッキリしてちょうどいいですよ」

「そうかも。君は紳士的だねえ」

 

 お姉さんはカラカラと笑って、オレンジ果汁で汚れた僕の手を優しく拭いてくれた。

 

「んー……いい気分。少しお昼寝してから水族館行こっか」

「お昼寝?」

「うん。ほら、横になって」

 

 僕はドギマギしながらお姉さんの隣で横になった。

 しかし、レジャーシートは小さいし、バスケットはかさばるしで、昼寝をするには少し窮屈だった。試行錯誤の末、お姉さんは結局バスケットをレジャーシートの外に追いやってしまった。

 つまり、このレジャーシートには僕とお姉さん、ふたりきりだった。

 

「もう少し大きいの買えばよかったか。ほら、こっちおいで」

「えっ……」

 

 言われるがまま、僕はお姉さんの腕を枕にした。

 二の腕に頬が触れる。柔らかくて、しっとりとしていて。

 普通なら立場は逆であるべきだろうとか、こんなにくっつくなんて破廉恥だとか、僕の中を色々な感情が駆けていった。

 それでも、最後に残ったのはお姉さんの腕の柔らかさと、ほのかに感じる甘い香りだった。

 

「んー……気持ちがいいねえ」

「そ、そうですね」

 

 僕の心臓は張り裂けそうなほど鼓動をかき鳴らしていた。到底眠れるわけもなく、僕はすぐ目の前で微睡むお姉さんの吐息を感じながら一生懸命に目を瞑った。

 瞼の隙間から木漏れ日がちらちらと覗いている。

 海から吹く冷たい風が気持ちいい。

 お姉さんの肌に触れている腕からはもっとひんやりとした感触が伝わってくる。

 

「――ねん、少年」

 

 気づくと、僕は草原に立っていた。

 いつからここにいたのだろう。僕の髪を風が撫でつけていく。

 そして、遠くからお姉さんの呼び声が聞こえていた。

 僕は駆け出した。

 

「少年、こっちだよ」

 

 遠くに、なにかキラキラしたものがある。

 僕はそれを目指して一生懸命に足を動かした。それなのに、僕の足はゆっくりと草原に沈んでいく。足が空回りして、下草に絡め取られていく。

 

「ここ、ここだよ」

 

 両手も使って這うように進んでいくと、いつの間にか草原は終わり、岩肌がむき出しになっていた。

 ごつごつとした岩が転がり、細かい砂が僕の脚を滑らせる。

 そして、僕が目指す山頂には見たことのない輝きが待ち受けていた。きっとあれこそがお姉さんの秘密、お姉さんの魔法の源泉なのだ。

 

「おいで、少年」

 

 僕は返事をしようとしたが、喉からはぜえぜえという呼吸しか出てこなかった。

 山肌を這い上がる。汗が滲む。爪がぴしぴしと音を立てる。

 それでも僕は諦めずに登って、登って、そして――

 

「危ない!」

 

 足元を支えていた岩が崩れた。

 僕は奈落の底へと転げ落ちていった。全てが真っ暗になり、何も見えず、何も聞こえない。

 僕は死んでしまったのだろうか。

 

「――ねん、しょうねーん。そろそろ起きないと、水族館閉まっちゃうぞ」

 

 はっ、と僕は飛び起きた。

 お姉さんが困ったように笑いながら、僕が枕にしていた腕を振っていた。理科の授業で習った通りなら、日の傾き具合から見るに今は14時くらいといったところだろうか。

 

「いやー、痺れちゃった。ぐっすりだったねえ」

「……不覚です」

「難しい言葉知ってるじゃん」

 

 せっかくのデートだというのに、僕はお姉さんの腕を枕にして熟睡してしまった。こんなに悔しいことがあるだろうか。僕はお弁当を食べ終えてからおおよそ2時間も寝ていたのだ。

 こんな間抜けなことがあるとは思えず、僕は思わず落胆して肩を落とした。

 

「何落ち込んでんのさ」

「だって……せっかく遊びに来たのに、すごい寝ちゃいました」

「確かに。でもさ、そういう日があってもいいもんだよ」

「そうでしょうか」

「そうでしょうとも。いつかきっといい思い出になるよ。……あてて、まだ痺れてる。君の頭ってぎっしり詰まってるからなあ」

 

 そう笑って、お姉さんは僕の頭をぽんと撫でた。

 それから僕たちはお弁当の片付けをして、荷物をロッカーに預け、そしてとうとう水族館に入った。

 少し混雑していたが、各水槽をゆっくり回るのには十分だった。薄暗い館内で、熱帯魚やクラゲ、普段は捌かれた姿でしか見ないような魚たちの姿を見上げた。

 

「熱帯魚って、こんなに鮮やかな色で鳥に見つかったりしないんでしょうか」

「ふふ、水槽になんでサンゴが生えてると思う?」

「……そっか、保護色なんですね!」

「君は賢いねえ。そう、色鮮やかな海では色鮮やかな魚が育つんだよ。他にも仲間に見つけてもらう識別色だったり、威嚇するための警戒色だったり、あとは求愛の色だったりする」

「きゅ、求愛。詳しいですね、お姉さん」

「って、そこの看板に書いてあった」

 

 指さしながら自慢げに胸を張るお姉さんに、僕は呆れて彼女を見上げた。

 魚は求愛で色鮮やかに鱗を着飾る。それならば、お姉さんも愛によって姿を変えたりするのだろうか。その時お姉さんはどんな顔をしているのだろうか。

 僕が愛について深い哲学を繰り広げていると、水槽の列が途絶え、吹き抜けを貫く大水槽に辿り着いた。

 

「わ、見て少年、サメだよサメ」

「本当だ。他の魚と一緒に混ぜて大丈夫なんでしょうか。食べちゃいますよね」

 

 自分で言ってから、妙にゾッとして僕は足がすくんだ。

 今まで見てきた水槽には、東京湾にはいないであろう魚たちが沢山泳いでいた。もしこの水族館が潰れてしまったら、魚たちはどこへ行くのだろうか。

 誰かに餌をやってもらわなければ生きていけない魚たち。それを見て喜んでいた自分が邪悪に思えて、僕の大水槽へと向かう足は止まってしまった。

 お姉さんは僕の手を引きながら、のんびりと大水槽を見上げていた。

 

「んー、必要な分しか食べないんじゃない? それか、水槽の魚よりももっと美味しい餌をやってるとか?」

「……なんか、人間って勝手ですね」

「ん? そうだね。でもその勝手があの魚たちを生かしてもいるんだよ。種の保存、教育、研究……水族館は人のためだけでなく、水場の生き物のための施設でもあるからね」

「……でも、なんか、こう」

 

 僕の考えがおかしいのだろうか。

 そう悩んでいると、お姉さんが膝を屈めて、僕と視線を合わせた。

 お姉さんはいつになく真面目な表情をしていた。眉の形が綺麗で、その下で瞳が水に乱反射した光を受けてキラキラと輝いていた。

 お姉さんは僕の目をじっと見て、そしてこう言った。

 

「そっか、君はそこが引っかかるんだね。それなら、その気持ちを大事にするんだよ、少年。君が大事だと思ったことを突き詰めていけば、それは君の信念になるんだから」

「……魚を大事に扱う信念?」

「そのままの形でなくてもいいさ。たとえば、命を弄ばない、食べ残しをしない、みたいなね。君が生きていく中でいろんなものを見て、その中で少しずつ悩んで、決めていけばいい。それが生きるってことだと、私は思うよ」

 

 難しい話だ。

 僕は曖昧に頷いて、少し遠くの大水槽を見上げた。サバとイワシの群れがギラギラ輝きながら交差し、その底をちっとも興味なさそうにサメがうろついていた。

 まだ足はすくんでいたが、それでももう自分が邪悪だとは思わなかった。僕はこれから色々なことを見て決めることができるからだ。

 

「来てよかったね」

「……はい」

 

 お姉さんの言葉は少し難しくて、少しも僕を子供扱いしてくれなくて、それでもすっと僕の心にしみた。

 もしかするとそれは、お姉さんが魔女だからなのかもしれない。

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