喫茶ヘクセンナハトの夏休み   作:海野波香

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夏の陰りにプチパンケーキを

 雨音はもはや粒を越え、ホワイトノイズのように続いていた。

 僕がこの喫茶『ヘクセンナハト』に来たときにはまだ空は夏らしい晴天を誇っていたというのに、少し目を離した隙にこれだ。空というものはまったくもって信用ならなかった。

 

「お姉さん」

「んー」

「おかわりください」

「んー……」

「自分で注いでもいいですか?」

「あー……ちょっと待ってね」

 

 呻いていたお姉さんがのっそりと立ち上がり、冷蔵庫からオレンジジュースのパックを取り出して僕のグラスに注いだ。

 どうにもお姉さんは不調そうだった。それは今日が結局連日続く雨の3日目に突入してしまったせいもあるかもしれないし、雨のせいで午後に入ってからお客さんがひとりも来ないせいもあるのかもしれない。

 お姉さんが冷蔵庫の扉を閉じると、カウンターの上でフラダンス人形が揺れた。

 

「あーあ、気晴らしで散歩でもしようかと思ったけど、この土砂降りじゃあな……てか、少年帰れるのか、これ。帰りは車出すからね」

「ありがとうございます。……でも、そんなにお店空けて大丈夫なんですか?」

「んー、まあねえ」

 

 コーヒーの入ったマグカップを手に、お姉さんが僕の隣に座った。

 ふわりと香るのは、コーヒーと紙、それから少し埃っぽいにおい。少し甘く、少し煙たいその香りが僕は大好きだった。

 僕の食べかけのプチパンケーキをひとつ摘んで、お姉さんは何かを思い出すように天井を見上げた。シーリングファンがくるくると回って空気をかき混ぜている。

 

「こっちの商売が儲からないのは覚悟してたからねえ」

「こっちの商売?」

「喫茶店のほう。君が特別なんだよ。難しい本ばっかりのブックカフェに出入りしてる小学生なんて、中々いるもんじゃないよ?」

 

 なんだか照れくさくて、僕は誤魔化すようにオレンジジュースのグラスを傾けた。

 お姉さんはマグカップを口元に運んで、「あちっ」と呟いた。それから僕のグラスから氷をひとつ奪って、口に放り込んだ。

 

「あっ、僕の氷ですよ」

「そしてここは私の店なのだ。……この『ヘクセンナハト』はさ、大叔父さんの夢だったんだよね」

「夢?」

 

 お姉さんは氷で口をもごもご言わせながら、静かな目でどこか遠くを見つめていた。

 

「うん。あの人、いっつも書庫に籠もってる割には人と話すの好きだったんだよ。こんなキッチン付きの応接間作るくらいだからね。もちろん、おいしいもの作るのも好きだった。だから、喫茶店のマスターになりたいーって昔こぼしてたんだよ」

「なるほど……じゃあ、お姉さんは夢を継いだんですか?」

「夢を継いだ、か。なかなか詩人だね、少年」

 

 お姉さんがクスリと笑った。

 このお屋敷をお姉さんが相続して、応接間を改造しブックカフェを初めてからもうすぐ2年が経とうとしている。そろそろ地域の人達もこの喫茶『ヘクセンナハト』があることに馴染みつつあった。

 お姉さんは立ち上がり、併設されている古書店ブースの棚から一冊の本を手に取った。白い表紙にシンプルな印刷。比較的近年に出版された哲学の本で、僕でも読めるほどわかりやすく書かれている。お姉さんのお気に入りだ。

 しかし、そんなお気に入りも長らく棚に積まれたままだった。

 

「少年は将来、何になりたい?」

「……難しい質問です。母さんはいい大学を出て、いい会社に入ってほしいと言っています。でも、父さんはやりたいことをやれって」

「はは、父親ってみんなそうなのかね。……まあでも、そうだね。お母さんの気持ちもわかるよ、夢を追うって意外と大変なんだ」

 

 お姉さんはカウンターの向こうで椅子に座って、頬杖をついた。

 どうやら少し疲れているようだった。昨夜はあまりよく眠れなかったのか、目の下に薄っすらと隈がある。お姉さんは「豆の匂いがわからなくなるから」とあまり濃いお化粧をしない。だから、僕にはすぐにお姉さんの疲労がわかった。

 

「眠れなかったんですか?」

「ん? あー……隈、目立ってるか」

「隈が出ててもお姉さんは綺麗です」

「ふふ、生意気を言いよる」

 

 お姉さんの腕が伸びてきて、僕の頭をわしわしとかき乱した。

 

「わっ……」

「それで? 君自身は何になりたいのさ」

「僕自身?」

 

 頭を揺らされながら、僕はなんとか考えをまとめようと試みた。

 できれば楽しいと思える仕事がしたい。何か専門的なことを究めていきたいとも思う。世間がどう言うかはともかく、親しい人たちに自信を持ってその仕事を誇れるようなことをしていたい。

 ただ、母が心配するように、ブラック企業で使い潰されるのは嫌だ。ニュースでも自殺やうつの話が沢山流れている。ホワイトな働き方をして、仕事上がりにこの喫茶『ヘクセンナハト』に寄れるような生活をしていたい。

 それはきっと、わがままなのだろう。

 実現できるのは一体どこまでなのか。僕が頭を悩ませていると、お姉さんが僕の脳天を鷲掴みにして揺らしはじめた。

 

「あわわわわ」

「今余計なこと考えたでしょ。お姉さんはね、君の夢を聞いてるんだよ。叶うだけの夢しか抱えないなんてちっぽけがすぎるだろ?」

「だ、だって」

「いいから、聞かせてみなさい」

 

 お姉さんが僕の頭から手を離した。

 まだくらくらしていて、目が回るような気がする。視界の端でフラダンス人形がチカチカしながら揺れていた。

 ややあって、僕はぽつりと吐き出した。

 

「お姉さんみたいな働き方がしたいです」

「……私?」

 

 お姉さんはぽかんとした表情で僕を見つめていた。

 夕飯の席で、父はよくお姉さんのことを褒めている。若い身で夢を叶えているのは立派だと言うのだ。喫茶『ヘクセンナハト』はこの2年間潰れない程度にお客が入っていて、お姉さんはどこからの援助も得ずにブックカフェからの収入で生活している。

 料理をして、コーヒーを淹れて、本を読んで。常連客とは親しげに会話し、初めてのお客さんでもにこやかに迎え入れるが、だからといって必要以上にサービスをするわけでもない。

 そんな生活は、僕にとっても憧れだった。

 

「私かあ……」

 

 お姉さんは困ったように眉を曲げて、小さく呟いた。

 

「もっと憧れるのに適した人が君の周りにはいっぱいいると思うけどなあ」

「でも……僕はお姉さんがいいです」

「そっか。私がいい、か」

 

 大きく息を吐いて伸びをして、それからお姉さんは本を手にしたまま僕の隣に座った。

 お姉さんがパラパラとページを捲る。雨の音がサラサラと軒先を撫でる。

 

「じゃあ、もう少し頑張んないとな、私も」

「お姉さんはとっても頑張ってると思います」

「頑張ってないんだなー、これが。ちっとも頑張ってない。頑張らずに生きるのは結構好きだったんだけど……少年に真似されちゃたまんないからね」

 

 そう言って、お姉さんは小さく笑った。

 

「実はね、この店を売らないかって話が出てるんだ」

「えっ……嫌です」

「なんで君が決めるのさ。あるアトリエの経営者がね、書庫をギャラリーに改装して個展を開けるカフェにしたいんだって。悪くない額を提示してきたよ。屋敷には住み続けていいって言うしね」

 

 僕はぞっとして、グラスを両手で握りしめた。

 体温が下がっていくような気すらした。

 この喫茶『ヘクセンナハト』がなくなってしまったら、僕は一体どこでお姉さんと会えばいいのだろう。お姉さんの作る料理を食べて、一杯だけカフェオレを飲ませてもらって、そんな日々は二度と帰ってこない。

 しかし、僕の不安を追い払うように、お姉さんは僕の頭を撫でた。

 

「でもま、君がそこまで私に憧れてるっていうなら? いずれ君に店を継がせるために頑張らないといけないよね」

「……売らないってことですか?」

「まあ、そうなる。他の仕事にも支障が出るしねー」

 

 僕が安心して大きく息を吐くと、お姉さんは何が面白いのか、笑いながら僕の髪をめちゃくちゃにかき乱した。

 

「はあ……他の仕事って、魔法ですか?」

「んー? そうそう、魔法魔法」

「……適当に言って誤魔化そうとしてますよね。僕、そういうのわかるんですからね」

「君は賢いねえ。はー、だいぶ気分よくなってきた」

 

 お姉さんはマグカップを持ち上げて香りを楽しみ、それからゆっくりと口元へ運んだ。

 ともかく、喫茶『ヘクセンナハト』はすぐにはなくならないらしい。僕は安心する一方で、妙にぞわぞわする感覚が残った。

 いつかはこのお店はなくなるのかもしれない。

 僕はどこかで、お姉さんのいるこのブックカフェがずっと続くと思い込んでいたのかもしれない。僕が大人になった時、果たしてお姉さんはこの街でブックカフェを続けているだろうか。

 

「あの、お姉さん」

「んー、なんだい少年。今ならなんでも答えてあげちゃうぜ」

「……お店、ずっと続けてくださいね。僕がお爺さんになっても、ずっと」

「おいおい、どうした急に」

 

 僕は込み上げてくる不安のような何かを隠すようにぐびりとオレンジジュースを呷って、それから椅子を飛び降りた。

 

「何か面白い本入ってないですか?」

「急だねえ君は。んー、そうだな……」

「魔法の本でもいいですよ」

「君にはまだ早い。まあ……ないこともないか。おいで、書庫を開けよう」

 

 お姉さんは立ち上がり、エプロンから鍵束を取り出した。

 半ば誤魔化しに近い形でおねだりをしたわけだが、お姉さんがおすすめしてくれる本が読みたかったのも確かだ。僕はお姉さんの後に続いて書庫に入った。

 お姉さんは立ち止まらず、どんどん奥へ進んでいった。

 書庫はとても広く、市立図書館の棚よりも多いくらいの本棚がずらりと並んでいる。まだ僕が入ったことがないくらい奥まで進んでいくと、だんだん僕は不安になってきて、お姉さんの後ろ姿をじっと見つめた。

 

「こんな奥まで本が並んでるんですね」

「このへんは大叔父さんのコレクションがそのまま残ってるところだね。たまにネット注文が入ると持ち出すこともあるけど」

「ネット注文?」

「古本業はね、最近は通販が一番多いんだよ。まあでも、このへんの本は単価が高いからあんまり出入りは多くないね。貴重品だから店頭にも並べないし」

 

 意外な事実を知りながら、僕はお姉さんの後ろをついていった。

 そして、僕達は書庫の端、書斎に通じる扉へと辿り着いた。以前聞いた話の通りなら、書斎はお姉さんの私室になっているはずだ。

 お姉さんが鍵束を取り出すと、僕はドキドキしながらそれを見上げた。

 ついに、お姉さんの部屋に入る日が来たのだ。

 

「まだ開けてない箱の中なんだよね。ちょっと待ってねー……よし開いた、最近鍵の建付け悪くてさ」

「お、お邪魔します!」

 

 そこは、思っていたよりずっと普通の部屋だった。

 パソコンが置かれたデスク。大きな洋服箪笥。細々とした雑貨が並べられたラックに、山積みの段ボール。

 そこには不思議はなくて、ただ生活が満ちていた。

 僕外入口で立ち尽くしていると、お姉さんは何かを悟ったように笑った。

 

「悪かったね、つまらない部屋で」

「そんなこと……」

「顔が正直なのは君の美徳だ。一緒に本を選んでくれる? 君が選んだやつにPOPを付けてしばらく店頭の看板にしよう」

 

 僕は頷いて、お姉さんと一緒に段ボールの前に立った。

 

「魔法の本は入ってますか?」

「んー、どうだろう。買い取りで入ってきた本だから、そういうのはあんまりないかも。でもまあ……探してみれば意外とあるかもね」

 

 お姉さんはくすりと笑って、段ボールを山からひとつ引っ張り出し、閉じていたガムテープを引っ張った。

 僕はその中から魔法の生き物の骨格標本を集めた写真集を借りて、部屋の隅で開いた。

 どこからもお姉さんのにおいがして、なんだか落ち着かなかった。ずっとお姉さんに包まれているような気分がした。

 お姉さんがデスクの前に置かれた革張りの椅子を指さした。

 

「椅子、使っていいよ」

「ここで読んでいいんですか?」

「軽く目通しておきなよ。借りてくでしょ? ここの整理が終わったらテーブルも出すね。食べかけのプチパンケーキ、持ってきてあげる」

 

 部屋は静かだった。

 いつもと違って店内BGMも流れていないし、雨の音もどこか遠くに聞こえる。お姉さんが段ボールの中を丁寧に整理していく音とわずかな衣擦れすら聞き取れてしまう。

 少し高い椅子によじ登り、腰掛ける。

 この椅子はいつもお姉さんが座っている椅子なのだ。そう思うと、革張りの表面に僕の体温が染み込んでいくのが申し訳ないような、嬉しいような気持ちで僕は思わず身震いした。

 僕は大きく息を吸って、ゆっくり本を開いた。

 この部屋には少しも不思議がない。それなのに、お姉さんは僕をドキドキさせる。やはり、お姉さんは正体を隠した魔女なのだ。

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