夏休みの最終日に相応しい日差しの中、僕は喫茶『ヘクセンナハト』への坂を駆け上がっていた。
飛び込むと、ドアベルがカランと乾いた音を立てる。
修理された空調が僕の汗をすっと引かせていく。コーヒーやよく焼けたホットサンドの香りが僕を包んで離さない。
「いらっしゃーい……あ、少年! ちょっと待っててねー」
一体どんな魔法を使ったのか、ブックカフェは繁盛しつつあった。
ホットサンドの写真を撮ってSNSに投稿する若い女性。古書店ブースを興味深そうに眺める老人。テーブル席で話し込む客もいるし、カウンター席で静かにコーヒーを楽しむ客もいる。
テーブル席は満席で、僕がいつも座っているカウンター席すら空席はまばらだった。お姉さんはお客さんたちの注文を華麗に捌き、コーヒーを淹れ、食事を用意していた。
僕がしばらくその姿に見惚れていると、しばらくして、僕の指定席が空いた。
「君、ここの子かい? 小さいのに静かに待てて偉いねえ」
老人が皺だらけの手で僕の頭をぽんと撫でた。
僕は会釈をして、その老人と入れ替わる形で席に飛び込んだ。ほとんど間を置かず、お姉さんが僕の前にアイスカフェオレがたっぷり入ったグラスを置いてくれた。
「ごめんねえ、この盛況具合だからしばらく手が離せなそう。あっちの鍵預けとくから、好きな本持っておいで」
「いいんですか?」
「これを信用というのだよ、少年。でも他のお客さんがいるから、静かにこっそりね」
僕は頷いて、お姉さんから鍵束を受け取った。
ずっしりとした鍵束の重さが妙に嬉しくて、僕はそれを胸の前でぎゅっと抱えた。僕はこれをお姉さんに預けてもらえたのだ。
しばらくアイスカフェオレをちびちびと舐めたあと、僕はついにひとりで書庫に旅立った。
「し、失礼します」
僕は誰もいない書庫に向かって挨拶をしてから、鍵を回した。
ぎい、と重い扉がゆっくり開く。
背中に突き刺さる好奇の視線を感じながら、僕は急いで書庫に入り、扉を閉じて内鍵を閉めた。他のお客さんが入ってきたら大変だ。
そして、僕は本棚の整然と並ぶその空間にひとりで立っていた。
「……すごい」
静かだ。
いつもお姉さんの背を追っていたから見えていなかった全容が、僕を圧迫するように積み上がっていた。
入ってすぐのエリアはお姉さんが仕入れた本が積み上がっている。国内で流通している古本の中からお姉さんの琴線に触れたものを厳選して……とお姉さんは言っていたが、この物量を見るに厳選している気配は感じられない。
さらに奥へ進む。このあたりから棚に洋書が混ざりはじめる。英語もあるし、僕の知らない言語で書かれた本も多い。大叔父さんのコレクションや、お姉さんが個人的に集めているものたちだ。
そして、さらに奥へ進むと、大叔父さんが遺したという書庫の真髄に辿り着く。
「すごい」
同じ呟きが再び漏れた。
タイトルで内容がわかるものはほとんどなかったが、それでも圧倒された。
以前お姉さんに軽く紹介してもらった本もある。ヴィクトリア朝イギリスを代表する作家の最も有名な作品の初版本や、その当時に出版された観光ガイド、古地図。他にも、様々な言語で書かれた古書が山ほど並んでいる。
僕はしばらくそれを見上げて、頭を振った。ここにある本の素晴らしさを理解するためには、僕はもっと勉強しなくてはならない。
預けられた鍵束をちらりと見て、僕は書庫の奥に目をやった。
「……本を探すだけ」
お姉さんは僕に鍵束を預けた。
それはつまり、この奥にある書斎――お姉さんの私室にだって入っていいということだ。
悪いことをしているようで気が咎める一方で、罪悪感が募れば募るほど僕の精神は高揚した。お姉さんがそこまで僕を信用してくれていることが嬉しかった。
僕はゆっくりと歩みを進め、書斎につながる小さめの扉に鍵を挿した。
鍵は、静かに開いた。
「――あれ?」
扉を開けて真っ先に感じたのは、ぬめるような温かさだった。
空調で徹底的に管理された書庫とは違う、少し湿度を感じる空気。それが暗がりから這い出てきて、僕の手を掴んだ。
誘われるように、僕は部屋へと入っていった。
暗い。
記憶を頼りにお姉さんがつけていた電灯のスイッチを探して壁に手を這わせ、しばらくしてようやく明かりを灯すことに成功した。
「……お邪魔します」
お姉さんの部屋にひとりで入ってしまった。
僕はゆっくりと扉を閉めた。なぜだか、音を立てないようにしなければという焦りにも似た何かが僕の手を震わせた。
それから、ゆっくりと部屋を見渡す。
前回来た時からそこまで部屋の様子は変わっていなかった。段ボールは積み上がっているし、パソコンは付けたままだし、椅子の背もたれにはタオルがかかっている。
僕は奥にベッドを見つけて、少し躊躇ってからおずおずと腰掛けた。
タオルケットからお姉さんのにおいがする。
僕は誰か見ていやしないかと怯えながら、タオルケットを手繰り寄せてくるまった。公園でお姉さんに腕枕されて眠った時を思い出して、心臓が早鐘を打った。部屋が暑いのか、僕の体温が高いのか、もはやわからなかった。
「あっ……これって」
視線をさまよわせていると、ラックに写真立てを見つけた。
僕はタオルケットを羽織ったまま立ち上がり、ラックに駆け寄った。
それはどうやら、家族写真のようだった。僕が七五三のときに写真館で撮った写真と構図がそっくりだったから、すぐにわかった。
青い目をした彫りの深い外国人の男性が真ん中に立って、椅子に座った女性の肩に手を置いている。女性はお姉さんによく似ているが、お姉さんよりも少し年上のように見えた。
そして、その女性が小さな女の子の手を握っている。女の子は少し不機嫌そうにカメラを見つめていて、反対側の手はいじけるように黒いドレスのスカートを握りしめていた。
僕はその女の子がとても綺麗だと感じた。こんなに綺麗な人を見たのは、人生で二度目だった。
そして、おそらくだが、そのふたりは同一人物だ。
「これ……お姉さん?」
面影はあった。
さらさらの黒い髪、くっきりした鼻筋、柔らかな頬の輪郭。僕の大好きな顔によく似ている。
「――そうだよ」
僕は飛び上がった。
いつの間に入ってきたのか、僕のすぐ後ろにお姉さんがいた。悪戯が大成功したかのように笑って、彼女は写真立てを手に取った。
「ヘクセンナハト、ブロッケン山で開かれる魔女の夜。パパはブロッケン山の山頂にあるラジオ局で働いてたんだ。そして素敵な旅行客に出会った。私のママだね」
「ど、ど、どうして」
「どうしてここにいるのか? そうだね、本を取りに行ったはずの少年が帰ってこないことを心配したのかもしれないね。まあ、無用な心配だったわけだけど。……寒い?」
僕は慌ててタオルケットを脱ぎながら首を横に振った。
お姉さんは少し不思議そうに首を傾げたあと、写真立てをラックに戻して、懐かしそうにどこか遠くを見た。
「パパもママもいい人たちだったんだと思う。でも、パパは職場に泊まり込みの日が多くてね。パパを心配させたくなかったママは、病気のことを隠してた」
「病気、だったんですか」
「うん。……ほとんど寝てるママと、夢を追い続けるパパ。結局、うまくいかなかったよ」
お姉さんはパタリと写真立てを倒して、小さく微笑んだ。
いつものお姉さんとは違う、どこか遠くて、今にもいなくなってしまいそうな笑み。それを見ていると胸がとても苦しくなって、僕は何も言えなくなってしまった。
「ママの親戚の大叔父さんに引き取ってもらって、私は幸せに育った。今だって、こうやって大叔父さんの屋敷を改装して夢だった喫茶店をやらせてもらえてる。でもね、たまにちょっとだけ……君のことが羨ましかったりする」
「……僕のことが?」
「うん。君はなんていうか、すごく……大事にされてる子だ」
お姉さんの指先がそっと僕の髪に触れた。
「今更、誰かに大事にしてもらう子どもにはなれないからさ。ならせめて、誰かを大事にできる大人になりたいなって思った。あの頃の私がしてもらいたかったことを、君にいっぱいしてあげたいんだ」
「僕……僕、お姉さんにすごく大事にされてます」
「うん。そのつもりだよ」
お姉さんは柔らかく笑って、膝を屈めた。
そして、硬直する僕の手をそっと握って、僕の目をじっと見つめた。
「夏休みが終わるね」
「……はい」
「お姉さんさ、ちょっと頑張ってみる。このお店を繁盛させてみようと思う。最近は色々挑戦してみてるんだよ? うまくいかないこともあるけどね」
「応援、してます」
「うん。だけど……たまにはさ、またどこか楽しいところ行ったり、一緒にだらだらしたり……そういう日があるといいよね」
僕は気付いた。
お姉さんは僕にお別れをしようとしているのだ。
夏休みが終わる。僕には学校があるし、お姉さんはこの喫茶『ヘクセンナハト』を盛りあげていかないといけない。ふたりで公園に行ったり、お客さんが帰った後に秘密の料理を食べたり、そういう時間はもう終わったのだ。
魔法はいつか解ける。
「僕の、せいですか」
「何が?」
「僕がお姉さんに憧れてるなんて言ったから、だから」
柔らかいぬくもりが僕を包んだ。
気づくと僕はしゃくりあげるように泣いていて、お姉さんは僕をそっと抱きしめてくれていた。鼓動から熱が伝わり、僕の身体を強張らせていた何かを追いやっていった。
「いつかは頑張らなきゃいけなかったんだよ。お姉さんも大人にならなきゃいけない日が来たってことかな、うん」
「大人……じゃあ、僕、大人になんて」
「こら、少年」
お姉さんは僕を強く抱きしめた。
「大人になりたくないなんて言わないでくれよ。君が憧れた大人として、私はできるだけ頑張るんだからさ。そこで君が張り合ってくれなきゃ、またやる気なくしちゃうよ」
その声はとても優しくて、僕はただお姉さんの身体に体重を預けて泣くことしかできなかった。
「君はきっと、あっという間に大きくなるんだろうなあ。私が君をこうやって可愛がっていられるのも、あと少しなのかもしれないね」
「僕……大きくなんてなりたくない」
「でも、なるんだよ。大きくなってさ、好きな仕事見つけて、楽しく暮らしなよ。君は紳士だから、きっといいお嫁さんも見つかるさ」
「嫌、です」
僕はお姉さんに力の限り抱きついた。
「僕――お姉さんが好きです」
「……ふふ、ありがとう」
「本気です。お姉さん以外の人とは結婚しません。だから……」
「じゃあ……早く大きくならないとだ。あんまり長く待ってると、お姉さんよぼよぼのおばあちゃんになっちゃうよ」
お姉さんは茶化すようにそう言って、僕の髪を撫でた。
どれだけの間そうしていただろうか。次第に自分の心臓の音なのかお姉さんの心臓の音なのかわからなくなって、僕は時間の感覚を失った。
しばらくして、お姉さんは「よし」と言いながら立ち上がった。
「お店の方もいつまでも開けてられないからね。どうする、ここにいる? それともいつもの席でなんか飲むかい?」
「……いつもの席で」
「よし、いい子だ」
お姉さんに手を引かれて、僕は書斎を後にした。
それから、僕は閉店ぎりぎりまで居座って、お姉さんが注文を捌いて色々な料理を作ったり飲み物を出したり、古本についての質問に答えたりするのを眺めていた。
「はい、お会計1600円になります。あ、アボカドたまごサンドのお客さん少し待っててね! 今焼き上がるから! 古本の会計? ああうん、一緒で大丈夫です。それなら合算して――」
いつものぐーたらしたお姉さんからは想像できないほどてきぱきと動く彼女は、きっと一生懸命に働いているのだった。その姿は今までの少し怪しげな空気を纏った魔女とは異なり、ハキハキとしていて、華やかだった。
そして閉店の時間になり、最後のお客さんが会計を終えると、お姉さんはエプロンを畳んで放り投げ、僕の隣の席に崩れ落ちた。
僕がつい先程のことを思い出してそわそわしていると、お姉さんは当たり前のように僕のグラスに手を伸ばした。
「あー……少年、オレンジジュース一口ちょうだい」
「ど、どうぞ」
僕の飲みかけのオレンジジュースを一口飲んで、お姉さんは唸り声を上げた。
「つ、疲れた……混みすぎて途中で何組かお断りしたもんね。繁盛するってこんなに大変なんだ……」
あのハキハキとした華やかな姿がまるで幻か何かだったかのように、お姉さんはいつも通りのお姉さんだった。
もしかしたら、書斎で起きたあのできごとは夢だったのかもしれない。
そう思うほど、お姉さんは当たり前のように僕の隣にいた。
「……お疲れ様でした。肩とか、揉みましょうか」
「うん、お願い。はー、早めにバイト募集しないとな」
お姉さんの肩を揉みながら、僕は考えた。
少し前まで、僕は大きくなりたいなどと思ったことはなかった。いつまでもこうした日常が続くのだと、そう思いたくすらあった。
しかし、僕は大きくなる。そして、この喫茶『ヘクセンナハト』のアルバイトに応募して、お姉さんを助けるスタッフになるのだ。
それはきっと、常連客としてお姉さんに甘やかされていたころとは全く違う景色なのかもしれない。そこには不思議も魔法もなくて、ただ大変な労働が待っているのかもしれない。
「お姉さん」
「んー、なんだい少年」
「……待っててくださいね」
しかし、その景色もきっと案外悪くない。