正直な話、シニア級相手にいつものレーススタイルは厳しいと思っていた。良くも悪くも王道の走り、対策も知っていて腐るほど相手にしてきただろう歴戦の猛者相手に貫くのは難しい。そう考えていた。
ただ、うん。なんて言えばいいのだろうか。レース前にスキルが進化したこととか、明らかに逃げウマ娘がヤバいことになってるとか、そんなことは抜きにして。
「単純にレースが巧い。あれ本当にクラシック級か?」
「担当しているのは榊トレーナー、あなただろう!」
「いや、レースのイロハとかシンボリルドルフが教えてるし……」
文乃先輩にツッコまれるが、あんなにスキルが豊富なのはシンボリルドルフの教えが大きい。俺の介入している余地はない。
加えて、カイザー自身飲み込みが恐ろしく早い。スポンジのように吸収していくのだ。何もしなくても勝手に成長していく。それこそ、クラシック級から逸脱するレベルには。
現在宝塚記念は向こう正面に。カイザーは8番手から9番手付近でレースを進め、先頭からは退いている。これも見事なものだ。
「……カイザーの強みだ。先頭に固執せず、相手が来るなら自分は控えることができる」
ウマ娘には気性の関係から逃げる子もいる。大抵差を詰めてきたら突き放そうと躍起になるものだが、カイザーにはそれがない。控えてレースをすることができる。
その結果、自分のペースを崩さずに巡行。周りが焦っている中、ただ一人悠々としたペースで走っていた。
堪らないだろうな。自分たちよりも経験の浅いウマ娘が、とんでもないことやってのけてるんだから。
「これほどやりづらい相手もいないだろう。まさか、シニア級相手でも実践できるとは。驚愕する他ない」
「スピードシンボリ、これが君が推薦しようとしていたっ」
「そうだ、メイ。あれこそがハレヒノカイザー。俺達の悲願を、夢を。叶えてくれるかもしれないウマ娘だ」
シンボリルドルフ達の驚くような声。不利だと思っていた、敵わないという意識があった、経験の差は埋められないと思っていた。
だからこそ、驚きも倍以上だろう。いつもと変わらないのだから。
にしたって、本当に恐ろしいのはあのスタートだ。
「あ、あの。トレーナーさん」
「どうした? クラフト」
「ペース、凄く早くないですか? なんというか、過去と比べても早いような」
クラフトの疑問。ペースが早いという疑問は当たりだ。今回の宝塚記念は例年よりも早いペースで進んでいるな。
「その疑問は当たりだ。例年以上のペースで進んでいる。その理由はやはり……カイザーの存在だろう」
「カイザーさん? 確かにもの凄いスタートを決めてましたけど」
「もの凄いなんてものじゃない。あんなスタートを決められたら、逃げウマ娘は誰だって掛かる」
割り込むように会話に入ってくる文乃先輩。話題に挙がったから、割り込まずにはいられなかったのだろう。あのスタートがどれほどのものかを物語っている。
「……普通、ゲートは開くのを見てからスタートするものだ。古今東西、あらゆるウマ娘は開いたその瞬間に飛び出すように練習している」
シンボリルドルフの言うように、スタートってのは普通ゲートが開いてから走り出すものだ。失敗したらゲートに激突、こじ開けようものなら発走のやり直し。開く前に動くなんてリスクが大きすぎる。
そうなると、求められてくるのは反応速度。開いたゲートにすぐさま反応できるような反射神経が求められる。逃げウマ娘ってのは、この反応速度が早い連中が多い。
ただ、それでもラグがあるってのが事実。これも当然だ。
「どんなに早いスタートを求めようとしても、結局はゲートが開いてからしか動けない。突き詰めようとも、反応速度には限界がある……それが常識だ。スズカだって、開くのを見てからしか動けない」
文乃先輩の言うように、ウマ娘の反応速度には限界がある。突き詰めたところで、必ず超えられない壁にぶち当たる。どんなに努力を重ねても、極まった者同士ならお互いに五分のスタートしか切れないのだ。
しかし、カイザーのスタートは違う。明らかに開く前から動いていた。スタートの態勢を整えて、開くのとほぼ同時のタイミングで飛び出せるようにしていた。
開くタイミングが分かっていたからこその芸当。タイミングに合わせて動き出すことで、誰よりも早くスタートを切れる。一歩早く飛び出すことができる。序盤で差をつけることができる。
それがあのロケットスタートの正体。カイザーが習得した、恐ろしい技術。
「どこまで進化するんだろうね、彼女は」
「……分かりません、スーさん。ただ、私は今初めて、カイザーに恐ろしさを覚えました」
未だ驚きが拭えないシンボリルドルフ。レースへ視線を向けるが、先頭を走るタップダンスシチーは明らかに掛かっていた。
タップダンスシチーだけじゃない。先行勢は例外なく掛かっている。カイザーのいる位置が本来の適正。そのペースを逸脱して走っている。
(対峙する側からしたら余計に、だろうな。あんなスタート決められたらどうしようもねぇ)
《向こう正面半分を過ぎました。かなり早いペースで飛ばしているタップダンスシチー、タップダンスシチーが逃げています。リードは5バ身から6バ身程、タップダンスシチーの大逃げが炸裂しています》
《ただペースが早すぎるような気がします。落ち着けるといいのですが》
《ゼンノロブロイは先行集団に交じります。前から4番手、5番手につけている。ハレヒノカイザーは9番手の位置、先頭からは10バ身以上は離れているでしょうか? 最後方にはスイープトウショウとスティルインラブ、ティアラ路線の両雄は後方待機だ》
破滅的なペース。最後の直線を迎えることなく自滅するだろう。もはや先行勢が勝てる可能性は万に一つもない。そう思わせるレース展開だ。
「で、でも。確かにカイザーさんのスタートは凄かったですけど、それがどうしてこのペースに? 冷静さを取り戻せたら」
「それは厳しい。リズムを狂わされているからな」
クラフトはまだ分からないことがあるのか、疑問を口にしていた。その疑問に答えるのは、シンボリルドルフ。
「逃げウマ娘はなんとしてもハナを取りたい。これは気性的な問題もあるが、一番は自分の望むペースを作りたいからだ」
「自分の、ペースを?」
「あぁ。これは逃げウマ娘だけではなく、我々にとっても大事なことだ。君も分かるんじゃないかい? ラインクラフト」
少し考えた後、納得がいったように頷く。どの位置だろうと変わらない、自分のペースで走るってのは凄く大事なことだからな。
逃げウマ娘に限らず、自分のペースで走るのは大事なことだ。例えばの話になるが、長い距離を一定のペースで走れってのとガタガタしたペースで走るのとではスタミナの減り方が違う。
狂ったペースで走れば、加速と減速の手間がかかる。筋肉が余計に疲れるし、その分体力の減りも早くなるから。
対して一定のペースで走れば、幾分か消耗を抑えることができる。乱れたペースで走る時よりも筋肉の負担が少ないからだ。
逃げウマ娘はペースを特に大事にしている。最後までスタミナを残して逃げなきゃいけないんだから当然の話。誰もがやっていることだ。
だが、カイザーのスタートがペースを乱した。ハナの取り合いにさせず、単独で抜け出したからこその結果だ。
「飛び出したカイザーを捕まえるために、逃げのウマ娘は躍起になる。しかしここで活きてくるのがカイザーの加速力だ」
「カイザーさんの加速力はスプリンター並……追いつくのは容易じゃない」
「その通りだ、ラインクラフト。あのスタートに加えて、カイザーにはスプリンター並の加速がある。今回のレースでも、追いついたのは400mを過ぎてからだ」
第3コーナーに入るウマ娘達。いつも以上に感じる疲労を隠せていない前のウマ娘達を見ながら、シンボリルドルフは解説を挟む。
「自分のペースで走るのにはハナを取るのが必要不可欠。しかし、自分よりも前を走るウマ娘がいる……元々、逃げは気性的な問題から逃げている子が多い。追い抜こうと躍起になる」
「え、え~っと、そうなると」
「本来走りたかったペースから逸脱する。結果、スタミナの消耗が激しくなる。それに、他のウマ娘もいるんだ。道中も楽に息をつかせてもらえないだろう」
取りたかったハナは取られ、追いつこうと躍起になって余分に消耗。乱れたペースを修正することもできず、後続のウマ娘がどんどん迫ってくる。
結果、乱れたペースで走らざるを得なくなる。走り抜くための体力をなくすことになる。
つまりは、逃げのウマ娘にとっての詰み状態を作り出しているんだ、あのスタートは。
「……スズカ。君に聞きたい」
「なんでしょうか? 文乃さん」
第4コーナー。すでに落ち始めている先行勢。文乃先輩は、隣にいるサイレンススズカに一つの疑問を口にする。
「もし君がカイザーと戦ったとして……ハナを取ることはできるか?」
「……」
カイザーのロケットスタートを見て、サイレンススズカは勝つことができるか、という疑問。苦しい表情は、すでに答えを悟っているんじゃないか、とも思わせる。
言うまでもなく、サイレンススズカは逃げの名手だ。大逃げというスタイルを確立し、かつては黄金世代のエルコンドルパサーとグラスワンダーを完封するほどの実力を見せつけた。彼女の逃げに勝てるウマ娘は、かなり限られている。
ハナを取ってからの高速巡行。卓越したスピードを誇るサイレンススズカが可能にする大逃げ。スタートに関しても、逃げウマ娘の中で最上級レベルだ。
そんな彼女が、あのカイザーにハナの取り合いで勝つことができるか、という疑問。最強格の逃げウマ娘が出す答えに、この場にいる全員が注目していた。
悩む素振りは、ない。おそらくだが、あのスタートを見た時からずっと考えていたのだろう。よどみなく答えた。
「あまり口にしたくはありませんけど、難しいです」
全員が驚く。サイレンススズカほどの逃げウマ娘が、負けを認めたに等しい発言をした。
「あのロケットスタートに並ぶのはちょっと難しい、です。私でもできるかどうか……さらにはスプリンター並の加速力。私が加速しきる前に、彼女の加速は終わっていることでしょう」
「……スズカ」
「レース全体での勝敗なら、私は負ける気はしません。ですが、毎回あのスタートを決めることができるのなら」
第4コーナーから最後の直線。すでに先頭へ立とうとしているカイザーを睨みつけていた。
「こと立ち上がり1ハロンにおいては……カイザーに勝つのは不可能に近いです」
強く握りしめている拳。勝てないと思わされたことに悔しさを覚えているのかどうか。睨んでいる視線からは、憧れのような気持ちさえも感じ取れた。
しかし、恐ろしい。サイレンススズカであっても、立ち上がりの1ハロンに限ればカイザーには勝てないと宣言した。これがどれほど凄いことか。
《最後の直線に入ります。先頭に立っているのはハレヒノカイザー、ハレヒノカイザーだ! クラシック級の若武者がシニア級を抑えて先頭に立つ! タップダンスシチーはもはや苦しい! 先行勢と同じように落ちそうになっている!》
《けれど、それでも根性で耐えていますよ! ここからです!》
《ハレヒノカイザー先頭だ先頭だ! 見果てぬ偉業を見据えて、ハレヒノカイザーが進軍する! すでにゴールを射程に捉えた、ハレヒノカイザーの勢いが増している!》
すでに先頭に立ったカイザー。先行勢は総崩れであり、脚を残しているのはゼンノロブロイくらいしかいない。他は例外なく沈んでいた。
そのゼンノロブロイさえも、カイザーの勢いに負けている。カイザーはあっという間に先頭を取り返し、そのまま駆け抜けようとしていた。
「カイザーさん凄い……」
「ディープ。君のライバルは、恐ろしい早さで進化を遂げているぞ」
「は、はは……! ディープインパクトに負けない逸材がここにいたなんて。これは、次こそは海外のレースを勝てる。凱旋門賞を勝てる!」
感嘆しているようにカイザーの名前を口にするディープインパクト。より強く警戒するように呼び掛けている文乃先輩。興奮気味にカイザーの強さを認める佐岳さん。
かくいう俺も、カイザーの進化にはびっくりしている。というか、あの爆発的初速はなんだよ本当に。
(効果としては最大集中と大して変わらない。けれど、加速と前に出続けるが複合しているのがヤバい)
なんだあのぶっ壊れスキルは。下方しろ下方。
こうなれば後はカイザーの独壇場、とはならないのがレースだ。
確かにカイザーのスタートは凄かった。先行勢が落ちていくことからもそれは分かる。
ただ、レースは先行勢だけじゃない。後続のウマ娘、とりわけあの魔女が飛んでくる。
《ここでスイープトウショウが上がってきた! スイープトウショウが大外から一気に上がってくる! 全てを一掃する魔法の末脚、スイープトウショウが追い上げてきたぁぁぁ!》
《ティアラウマ娘の意地を見せるといっていました。さぁまだ勝負は分かりませんよ!》
《粘るゼンノロブロイを振り切るハレヒノカイザー! ハーツクライも来ている、スティルインラブはどうか! トリプルティアラのスティルインラブはどうか!? 勢いはスイープトウショウだ、スイープトウショウが瞬く間に追い上げていく!》
後続に控えていたウマ娘達。スイープトウショウを筆頭に、ハーツクライたちが上がってくる。先行勢が落ちてくるから当然といえば当然だ。
「あわわわ……! が、頑張れカイザーさーん! もう少しで逃げ切れますよ~!」
クラフトが必死に応援している。周りのファンも、気づけばカイザーのことを応援していた。
「フン! ちょっと予想外のことが起きたからって驚きすぎよ! 最後に勝つのはこのスイーピーなんだからぁぁぁ!」
そんな言葉が聞こえてきそうなスイープトウショウの気迫。もはや何も考えていないだろう。ただ、カイザーに追いつくことだけを考えている。
ただ、その中でも俺は冷静にレースを見ることができていた。
俺だけじゃない。この場にいる全員が気づいている。応援しているクラフトも、きっと内心では分かっているだろう。
「……崩されていないからもしや、と思っていたけれど」
「ここまでやれるのか、彼女はっ」
感嘆の息が漏れるほどの鮮やかさ。残り100m、スイープトウショウがカイザーに追いつきかけていた。凄まじい末脚、これこそがスイープトウショウの強さ。
追いつくのは時間の問題。追いつくな、そのまま逃げ切れ。カイザーのファンは、そう声にしていることだろう。
その瞬間の出来事。
「しっかりと脚を残していた。文句のつけようがない」
「カイザーさんの、完勝」
カイザーは、スイープトウショウと同じだけ加速して、追いつかせることないまま逃げ切り態勢に入る。
当然だ。カイザーは自分のペースを守って走っていたんだから。最後の末脚だって残しているに決まっている。脚が残っているんだから、後方待機のウマ娘は追いつくことができない。
恐ろしい強さだ。序盤で逃げのウマ娘を封殺して、追込のウマ娘には追いつかせない。自分と同じ位置での真っ向勝負以外を許さない走り。
好位追走の代名詞、ルドルフ戦法をさらに発展させた、カイザー独自の走り。他人の自由は許さず、自分だけが自由に走ることを可能にする、皇帝の走り。
「名づけるなら、カイザースタイル、ってとこか?」
「……しっくりくるね。アレはもはや、ルドルフ戦法とは言えないだろう」
カイザーは揺らがない。シニア級すら圧倒して駆け抜ける。
《ハレヒノカイザーが突き放す! 詰められた差を再度突き放す! しっかりと脚を残していた、これほどの舞台で、シニアの強敵相手にしっかりと残していた! 彼女は本当にクラシック級なのでしょうか!?》
《い、いやぁ~。ディープインパクトといい、今年のクラシック世代はとんでもないですねっ》
《ハレヒノカイザー独走独走! ハレヒノカイザーが宝塚記念を駆け抜けたぁぁぁ! 夏のグランプリ、制したのはまさかのクラシック級ウマ娘! 11番人気の伏兵が、シニアの猛者たちを完封しました! 2着スイープトウショウに3と半バ身差! 完勝としか言えない内容です! 今ここに、初の偉業が達成されましたぁぁぁ!》
二の足。最後は鮮やかに逃げ切って、宝塚記念を勝ったのは、カイザーだった。
「うおおおぉぉぉ! やったぞカイザー! やったぁぁぁ!」
「やりましたぁぁぁ!」
「ハレぽんサイコー! ハレぽんしか勝たんな!」
クラフトと一緒に喜び合う。レースの内容にお見事って言葉はあるけれど、担当の勝利に喜ぶ以上の感情はないね。こっちの方が大事だ。
なお、気づいたらダイタクヘリオスもいた。俺達とは違う場所で観戦していたらしい。声が聞こえた。
クラシック級での宝塚記念制覇。ハレヒノカイザーは、見事に成し遂げた。
ちなみに、まだ完成形ではないです。