トレーナーから言われた言葉。凱旋門賞を全力で楽しめ、という願い。どうすれば全力で楽しむことができるか、その答えが出ないまま当日を迎えた。
控室でも同じことを聞いた。私にどう走ってほしいのか、と。
トレーナーの言葉は変わらない。私は、私のために走っていいって言うだけ。
「やっぱあれか、分からないか、カイザー」
「そうだね。楽しむと勝つことは両立しないと思うよ」
「そうだなぁ……なら、初心を思い出すのもいいんじゃないか? うん」
勝利を願うことはなかった。私は私らしく走ればいいって言うだけだった。
それにしても、初心を思い出す、かぁ。
(あんまり変わってない気がするけど。思い出して何とかなるものなのかな?)
トレーナーも、どういう意図があって言ったのか。なんにせよ、もうすぐパドックだ。準備しないと。
パドックでは何事もなく終わり、ロンシャンレース場のターフへと足を踏み入れる。練習で1回来ただけだから、少し新鮮だ。
《ここでターフに姿を見せました、凱旋門賞の1番人気ハレヒノカイザー! ドバイターフから欧州へと渡り、圧倒的な強さで瞬く間に頂点に上り詰めたウマ娘。現時点において、名実ともに世界最強と呼ぶに相応しいウマ娘です!》
《ほとんどのレースを5バ身差、それも欧州では珍しいラビットスタイルでの勝利ですからね。彼女の逃げはほぼ対処不可能、どうあがいても避けることはできません》
《避けることができない、というのがハレヒノカイザーの恐ろしさ。日本では【太陽の皇帝】と呼ばれておりますが、ここ欧州においては【月の暴君】と呼ばれています。冷酷無慈悲に他のウマ娘を下すその姿はまさしく暴君! 今日も天真爛漫な笑顔で、ファンを魅了します!》
周りのウマ娘の視線が突き刺さる。私を一番に警戒していることが分かる。うんうん、この視線にも慣れたものだね。
視線を受けても変わらない。私は私のやるべきことをやるだけだから。
私の次に来たのは、プイちゃんだった。プイちゃんが入場すると、また大きな歓声がレース場に響く。
《日本からやってきた刺客、本レースの2番人気【衝撃の英雄】ディープインパクト! 芝への対応が心配しされていましたが、前走のアイリッシュチャンピオンステークスで不安は払拭。2着に6バ身差をつける大楽勝を披露してくれました》
《こちらもハレヒノカイザーに負けず劣らずですからね。今回の凱旋門賞は、日本勢が注目されていますよ》
《しかし、欧州勢も負けておりません。3番人気には連勝で勢いに乗っているパプテマスがいます。パプテマスはまだ今年度無敗、好走が期待できますよ。さらには》
プイちゃんは私を一瞥すると、少し笑みを浮かべていた。分かるよプイちゃん、楽しみなんだよね。
(だけど、今回は敵同士。なにより、本気で挑まないと負ける)
私も念入りに準備運動しないとね。全力を発揮するために。
それにしても、ファンの声も凄い。日本から来てくれたファンもたくさんいるみたいだ。
「ハレぽん今日も爆逃げかましてけ~! ウチらで新しい逃げシス結成すんべ~!」
「自分のレースをするんだ、カイザー。君の力を十全に発揮できれば道は」
「カイチョー固すぎ! もっと気楽にいかないと。カイザー頑張って~!」
ヘリオスさんにルドルフ会長、テイオーさんの声援が届く。そして。
「おっしゃあ! 頑張れよカイザー! カイザーしか勝たん!」
「頑張ってくださいカイザーさーん!」
トレーナーと、クラちゃんの声。クラちゃんはアベイ・ド・ロンシャン賞を勝った後だから、ちょっと声に張りがないけど。それでも力をもらえる。
さらには出血大サービス。
「頑張ってねぇねー! ファイトだよー!」
「……」
「ほら、応援しよう母さん。頑張れー! カイザー!」
「そう、ね。頑張って、カイザー」
お父さんもお母さんも、ポラちゃんも応援に来てくれた。なんでも、トレーナーがお金を出して連れてきてくれたらしい。私の大一番だからって。
これは気合が入る。とても気合が入る。ふんすふんす。
(うん、頑張ろう)
力が湧いてくる。ファンの声援が、みんなの声が私に力をくれる。
「さて、と。行こうか」
ゲートへと歩を進める。決戦の舞台、凱旋門賞へと。
《各ウマ娘がゲートに入ります。ハレヒノカイザーは真ん中の枠番からスタート、しかし今回は9人という少人数での出走となります。ロンシャンレース場2400m、芝の状態は良バ場と発表されています》
《天候も悪くありません。太陽が結末を見届けようと見下ろしております。素晴らしいレース日和ですね》
ゲートの中で静かに待つ。ピリピリとした空気、ゲートが開くその瞬間を待つ。
(ゲートが開く時だけ、空気が変わる。その空気の歪みを、私は見逃さない)
いつもと変わらない。いつもと同じスタートを決めるだけ。それだけでいい。
待って、待って。わずかに空気がゆがんだその瞬間を見逃さずに私は身体を動かす。隣にいる子も、私から一拍遅れて身体を動かした。
(なるほど。何時ぞやのハーツさんと一緒のことをしているわけだね)
関係ない。私は、このまま駆け出す。
身体が完全に倒れ切る前にゲートが開いた。一瞬の間の出来事、私は誰よりも早くゲートから飛び出す。少し遅れて、隣にいた子が着いてきた。
《凱旋門賞がっ、スタートしました! 真っ先に飛び出したのはやはりこのウマ娘ハレヒノカイザー。ハレヒノカイザーが一気に飛び出して先手を奪います。その後ろ、こちらも最高のスタートを切ったイリスウィール、イリスウィールがハレヒノカイザーについていきます!》
《おっと、これは最高のスタートだね。イリスウィールが果敢に着いていってますよ!》
《他も揃って綺麗なスタート。飛び出したのは2人、ハレヒノカイザーとイリスウィール。どこまで着いていけるか、それとも下すことができるか。注目が集まるハナの取り合いだ》
私に着いてこようとするイリスウィールさん。特に問題はない。
(今回は11秒台前半を刻み続ける。私の本気を、全力をこのレースにぶつける)
11秒台で逃げ続ければ勝つことができる。問題は、ロンシャンレース場のコース設計でそれをするのは凄く難しいってこと。
ロンシャンレース場の高低差は10m。最初のコーナーに入るまでは緩やかな上り坂が続いている。
この坂がまぁキツい。スタミナを削り、やる気を削いでくる。だから、ここではみんな位置取り争いに終始する。
(その位置取り争いは私に関係ない。ハナを取っているし、ペースを極端に落とさなければ維持できる)
上り坂を11秒台前半で駆け抜けようなんて普通思わないからね。私はこなせるからやるけど、他の子達がやれるかは別問題だから。
だから、この坂は特に注意しなくていい。唯一プイちゃんが来るかどうかだけど、プイちゃんが来る気配はない。
コーナーに入ると、今度は下り坂に入る。ここで重要なのは、スピードを出しすぎないことだ。
あまりスピードを出すと外に振らされる。曲がりの、しかも下り坂だ。コーナーを曲がるのに自信はあるけど、実は繊細な動きが求められる。
コーナーを過ぎたらロンシャン名物のフォルスストレート。偽りの直線と呼ばれる、最後の直線に見せかけた直線。
ここでスピードを出しすぎるのも厳禁。しっかりと記憶して、スタミナを温存しておく必要がある。
フォルスストレートを越えたら最後の直線。約533mの距離を、一気に駆け抜けることになる。これがロンシャンレース場のコース設計だ。
コースのことは頭に叩き込んである。ペースも乱れていない。何も問題はない。
問題はない。そう、問題はないはず。
(トレーナーの言ってたことが、頭から離れない)
もし問題があるとすれば、トレーナーの言葉。全力で楽しめという言葉が、私の頭から離れない。
今の私が間違っている? ううん、トレーナーは間違ってないって言ってた。なら、問題はないはず。
問題はないはずなのに、どうして頭にこびりついているんだろう? 問題がないなら、このまま走ればいいだけなのに。
(何かが、決定的に食い違っている? 私は、何かを忘れている?)
頭に残っているということは、今もこうして考えているってことは、なにか大事なことを見落としているということ。だからこそ、トレーナーの言葉が頭に残っている。
《順調に飛ばしていきます。先頭を走るのはハレヒノカイザー、素晴らしいスタートダッシュを決めたハレヒノカイザーが先頭で走ります。続くのはイリスウィール2番手、ハレヒノカイザーから2バ身遅れての2番手です》
《積極的に前に詰めよう、という感じではないね。自分のレースができているよ》
《無理に着いていって自滅。この選択を迫られるのもハレヒノカイザーの逃げの一端。プレッシャーをかけつつ、2番手をキープしますイリスウィール。3番手はさらに離れて3バ身差ディープインパクト。ディープインパクトが3番手の位置につけています》
トレーナーは初心に戻ってみるといい、って言ってた。なんだろう、私は何かを忘れている?
(何がだろう、私は何を忘れているんだろう?)
なにも忘れていないはず、だけども。
答えを出さないといけない。けれど、あまり考えすぎると走りに影響が出る。ペースが乱れて、最後までスタミナが保たなくなる。
そうなると勝てない。勝てなかったらみんなが悲しむ。悲しい表情は好きじゃないから、だから勝つ。最初からそうしてきた……?
(そう、だったかな?)
違う気がする。最初からそうだったわけじゃないはずだ。
《さぁ、先頭のハレヒノカイザーは第3コーナーに入ります。第3コーナーの先頭はハレヒノカイザー、少しペースを落とすか? 勢いのままにコーナーの坂を下るハレヒノカイザー。隊列は変わらない、4番手にパプテマス差がない5番手タンペートクルール。縦に長いバ群、少人数ながらバ群はばらけています》
《ハレヒノカイザーの影響だね。彼女の逃げに着いていこうとするウマ娘と、そうじゃないウマ娘に分かれている。3番手のディープインパクトが境目だ》
《ただ、ハレヒノカイザーは単騎の逃げ。2番手イリスウィールは2バ身離れた位置につけています。イリスウィールに近づく3番手ディープインパクト。坂を利用してイリスウィールとの差を縮めます。ディープインパクトが前を窺う》
走りに集中しなきゃいけないのに、トレーナーの言葉が離れない。身体に染み付いた走りでどうにか先頭をキープしているけど、11秒台を記録しているかは怪しい。まぁ、たぶんできてるだろうけど。
(どうして初心に戻れと言ったのか。私は最初、何を考えながら走っていたのか?)
考える、考える。イリスウィールさんら後続を引き連れて逃げる。
考えて、ふと頭に浮かんだ。思い出した。私は最初、勝ちを意識していたわけじゃないってことを。
(けれど、状況が何もかも違う。あの時は世代限定のG2やG3で、今は世界最高峰のG1。考え方が違うのは当たり前で)
いろいろと頭に浮かぶ。けれども、いつの日か忘れていた気持ちを思い出す。楽しみながら走るということを。
いつから忘れていたのか? それはきっと、有馬記念の頃からだ。
ハーツさんの本気に触れて、楽しむだけじゃダメだってことに気づいて。ファンの願いや勝利を祈る声を聞いて、本気で走らなきゃって思うようになって。
海外遠征ではずっとそうしてきた。表情に出すことを止めて、口を割って走ることをやらなくなった。本気だってことを証明するために、全力で戦っていることを示すために。
《第3コーナーを越えてロンシャン名物フォルスストレート。この直線は最後の直線ではありません、偽りの直線へウマ娘達が踏み込みます。先頭を走るのはハレヒノカイザー、イリスウィールとディープインパクトが差を詰めてきた》
《パプテマスを筆頭に、後続も詰めてきたね。ハレヒノカイザーを捕まえるには、ここで追いつきたいところだ》
《先頭ハレヒノカイザーはまだ余裕そうだ。この逃げをどこで捕まえるかが、ハレヒノカイザー攻略のカギとなります。先頭を走るハレヒノカイザー、差を詰めてきた後続。まもなく最終局面へと移ります凱旋門賞》
自分が異端寄りの考えなんてことは分かっていた。それでも、自分を貫いて走っていたのが過去の自分。
今の自分は? 周りに合わせて、本気を出すことに力を尽くして。
(それも悪いことじゃない。よく言えば、普通になったってことだから)
成長した、ってことなんだと思う。大人になった、子供じゃなくなった。そう解釈することもできる。
でも、トレーナーはそれじゃダメなんだって言いたいんだ。私には、もっと楽しく走ってほしいと思っている。
(初心に返る。それはきっと、楽しんで走れってことなんだろう。全力を注ぎ込みすぎないように、良い感じのバランスで走ってもらうために)
楽しく走ったうえで勝つ。それが理想。理想だけど、凄く難しい。
(トレーナーは、私ならできるって言った。誰も見たことがないスタイルを、誰も到達できなかった景色を、私なら見ることができるって)
《フォルスストレートで一気に差を詰めますイリスウィールとディープインパクト。ハレヒノカイザーとの差を1バ身まで縮めてきたか。ハレヒノカイザーはまだ動かない、差を縮められてもお構いなしだ》
《このメンタルの強さが彼女の強みだね。ただ、長く脚を使えるディープインパクトとは相性が悪そうだけど?》
音が近づいてきた。プイちゃんと後続が私に迫ってきている。
このまま差を広げて逃げるか? いや、それは悪手。私のスタミナじゃ最後まで持たない。仕掛けるにしても、300mから先じゃないと。
(……ううん、後先考えない方がいい)
脚に力を込める。もう、あれこれ考えるのは止めた。
所詮は子供の理想だ。楽しんだうえで勝つなんてできるはずもない。
(知ったことじゃない。トレーナーができるって言ったんだ。なら、私ならできる)
バランスよく走ったところで、どっちつかずになるに決まってる。ちょうどいい塩梅なんてものは存在しない。
(関係ない。私ならやれる、私ならできる)
ルドルフ会長がつけた枷を無意味にするつもりか。私のためを思ってつけたこの枷を、私はふいにするのか。
(もう、大丈夫。漠然とだけど、そう思う)
フォルスストレートももうすぐ終わり。もうちょっと走れば、視界が開ける。最後の直線へと入る。
いつもより脚に力を込める。カーブを勢いよく曲がる。リスクとか何も考えない、衝動のままに走る。
(あぁ、忘れていた。この感覚)
気づけばレースを勝つために注力していて。それこそが最適解だと納得して。
(風を切って走るこの感覚は、何物にも代え難くて)
大事なことを忘れていた。私の原点、走ることが大好きだって気持ちを。
(いつの間にか、勝つから楽しいなんて思考になっていた。でも、そうじゃない。そうじゃない!)
「楽しんだうえで、勝ったら最高! それが、私の走りだ!」
そう声にした、刹那の出来事。
ガラスの割れる音が聞こえた。ヒビが入って、ぴしぴしって音が聞こえて。ガラスが砕け散る音が、私の耳に入ってきた。
同時に、なにかが変わる感触を覚える。殻を破って、新しい私に生まれ変わったかのような感覚に陥る。
楽しいって気持ちに溢れていて、嬉しいって感情が止まらなくて。ファンの声を近くに感じて、不思議なくらいに聞こえてきて。
気づいたら口角が上がってて。笑顔が止められない、楽しいって気持ちが抑えきれない。
(あぁ、そうなんだね。これが)
「アハハ」
今までずっと封印していた。その封印を今ここで解こう。
もう大丈夫、もう問題ない。私は、どこまでも走って行ける!
「さぁ、行こう! 私も知らない、未知の世界へ!」
スキル【王手】に新しい進化先が追加されました
王手→笑福の太陽
スキルの進化条件を満たしました
無限の極光→条件1 暴虐の月の進化条件を満たす
↳条件2 笑福の太陽の進化条件を満たす
王手が進化しました
王手→無限の極光
コンディション【ガラスの身体】が解消されました
新たにコンディション【無垢なる輝き】を獲得しました
領域が解放されました