ベーカーストリートの朝
ベイカーストリート221Bの主人の朝は早い。
雇っている使用人は既に朝食の準備の為にキッチンに火を入れ、市場で手に入れた卵の黄身を白身と共にフライパンへ。
そしてもう一つのフライパンにはいつもより少しだけ肉厚なベーコンが、滲み出た油の弾ける音と立ててそのこんがりと焼けていく匂いがいっぱいに広がる。
「おはようございます。バーバラ」
「あっ! おはようございます! ハドソンさん!」
バーバラと呼んだ少し変わったメイド服に身を包んだ少女がにこやかに答える。
メイド服と修道女の服を掛け合わせ、その上に黒いマントを羽織った珍しいメイド服こそ、彼女がれっきとした祓魔メイドである証。
サザーランド家が起こした訓練されたメイド、執事を派遣する会社「シルキーアシュアランス社」から雇ったメイドだ。
祓魔メイド。
使用人として仕えるだけでなく、主人を悪党や壊異と言った脅威から守る護衛としての役目も果たす。
サザーランド公爵家が発祥とされ、今では公爵家で訓練されたメイドや執事達を使用人を必要とする場所へ派遣する会社を設立するに至った。
サザーランド家当主直属の祓魔メイドとして尽くし、この会社にいた事もある夫人からすれば、バーバラは可愛い後輩になる。
「そんなにかしこまらなくても良いのよ?」
「いえ! 私にとっては憧れの"オリジンシルク"ですから!」
「もう、それは昔の話でしょう? 今の私はただの下宿の主人よ。手伝うわ」
「そんな! 今日は私がやるって決めたんです! ハドソンさんはゆっくりしてて下さいっ!」
新人ながらよく働くこの若きメイドが仕事熱心で何よりだ。その熱心な瞳がこっちにまで向けられてしまうのは難点だが、そこもまた可愛いところではある。
一生懸命に朝食を作るその背中は小さくも頼もしい。
「うふふっ。それじゃあお願いしますねバーバラ」
バーバラに微笑んでみせ、自分の部屋に戻ろうとキッチンから出た時だ。コンコンと玄関の扉が小さくノックされる。
こんな時間から依頼が来るのは珍しい。いつもなら来ても昼前くらいなはず。
「うーん、まだ皆さんが寝てますが…………
依頼の方でしたら時間を改めて貰いましょうか」
ゆっくりと階段から降り、ドアノブに手を掛けてゆっくりと開けた。
爽やかな朝の風が入り込み、少し霧掛かったいつもの玄関先の風景が目に入る。だが肝心の客人の姿が全くない。
朝早くから誰かがイタズラしてくるとは。
またこの221Bの住人が誰かの恨みを買ったのだろう。
その時。
一発の銃声が轟いた。
「っ!!」
昔の癖で右手が自分の右腰に当たる。だが、当然ながらそこにホルスターは存在しない。それに撃たれたのは自分じゃなかった。
穿たれたのは自分の足元。そしてその足元の弾痕のすぐ近くに一枚の手紙が落ちている。
差出人は不明だが、明らかに好意的な意図で送られてきたもの。
そして宛先には自分の名前。ここから考えて、相手の目的は大方検討がついた。
「…………なるほど。そういう事ですか」
手紙を拾い上げ、弾痕と撃てそうな場所を頭の中で結ぶ。
そして一番可能性のある場所右斜め前のアパートな屋上に見上げる。
人々が何事かと銃声に釣られて表に出てくるが、夫人は手紙をエプロンのポケットに入れて下宿へと戻った。
騒然とする通りから中へと入るやいなや、そこにはシャルロット・ホームズが腕を組んで立っている。
何か言いたそうだが、シャルロットが口を開く前に先手を打つ。
「おはようございますシャルロットさん。今日はお早いお目覚めですね」
「あぁ、今日は随分と鳥が騒がしくてね。どうやら静かな朝を楽しむという趣向が理解できない人間が居るらしい」
「ふふっ、色んな人がいますからね。致し方ありませんよ」
目を細めた胡散臭い笑みを浮かべるシャルロットに夫人はただ微笑んだ。この人に手紙の内容を話せば確実に自分の件に介入してくる。
いや、この下宿に住む数多の探偵に悟られてはならない。
いつもの微笑みを絶やさず、朝食の匂いを嗅ぎとる。
丁度いいタイミングだ。
「どうやら朝食が出来たようですね。私は皆さんを起こしてきますので、シャルロットさんは先に食堂の方へ…………」
「この香ばしい匂いと軽い食器の音色。さてはベーコンエッグだね?
夫人が育てている可愛いメイドの腕前を見させてもらおう」
好物が出される朝だからか、目の前の探偵は何処か機嫌が良さそうだ。
階段を上がっていくその背中を見送りながら、置き手紙を片手に自分の部屋へと戻る。
整頓されて手入れの行き届いた自分の部屋はやはり安心する。
少し深呼吸してから扉を閉め、事務作業用の机に向かいペーパーナイフを静かに取り出す。
手紙の封をそっと切り、便箋を手に取った瞬間に夫人の表情が少し険しくなる。
「やはり来ましたか…………」
手紙の内容にため息をついた。どうにも自分の持つ"白手袋"を欲する他のメイドがいるらしい。
少しだけ顎に手を添えて考えてから、便箋と羽根ペンを取り出した。
「良いでしょう。受けて立ちましょう」
くすりと微笑み、夫人は便箋の上でスラスラとペンを走らせた。