〈第4節 夜の語らい・未来への一歩〉
夜の帳が降りた頃、カナズミシティは静かな空気に包み込まれていた。
アマネの泊まる石造りの宿の屋上は風通しがよく、星がよく見える。喧騒から離れたその場所にふたりの影が並んでいた。
「……良い風ですわね」
夜風に髪を揺らしながらツツジがつぶやく。
アマネは無言で頷き、手すりに身を預けて空を仰いだ。
ふたりの間に流れる沈黙は、居心地の悪いものではなかった。
「アマネさん、今日はあなたと一緒に過ごせて…本当に良かったですわ」
「……わたしも。楽しかった」
ぽつりと漏らした言葉は、素直な本音だった。
家族と幼馴染を除いて、誰かと並んで穏やかな“普通の時間”を過ごせたのは…初めてかもしれない。
「……わたくし、幼い頃から“正しくあろう”と努力してきたような気がいたしますの」
アマネがそっとツツジに視線を向けると、彼女は星空ではなく何かを振り返るようにじっと手元を見つめていた。
「ジムリーダーであるということは、町の誇りであり責任でもあります。今思うと…幼くしてジムリーダーになったわたくしは、誰にも弱さを見せてはいけないと思っていたのでしょう。己を律して生きてきた。でも…あなたと歩いている間は、少しだけ肩の力を抜くことができました」
「……わたしも、かも」
アマネは言葉を探すように口を開いた。
彼女のそれはツツジのような正義感や責任感によるものでは無い。
しかし、気を張って生きていたのは同じ。
「ずっと、ひとりで旅をしてるって思ってた。私の隣にはアブソルだけだっ…て。」
何も旅立ってからのことではない。アマネの人生は迫害から始まる苦難に彩られている。
『人生は苦難の旅』と、今まで考えていた。
悲しいことが多くあった。
…でも。
『それだけの道ではなかった』と、今ならそう思える気がする。
「わたし、…私が勝手に周りを遠ざけただけだったのかもしれない。自分から“ひとり”になってたのかもって。ツツジさんと一緒にいて、やっと気づいた」
故郷の人々を思うと冷たい瞳ばかりが脳裏をよぎる。
愛する家族と友人の笑顔を思い浮かべても、嘆き悲しむ声が…悲痛な弟の叫びが脳裏に響く。
そして同時に思う。私はいつから相手の顔を見ることをやめたのだろう。
相手と深く言葉を交わしたのは?
私たちは、きっと向き合わなければいけなかった。
少なくとも家族は、友人は!私を愛してくれていたのだから。
やめたのは、諦めたのは…心折れたのは。
私、だったのかもしれない。
静かな夜空のもと少女たちはゆっくりと想いを交わし、アマネは物思いに沈んでいく。
そして過去に沈む彼女を引き戻すのはいつもツツジの言葉だった。
「…ねえ、アマネさん。もし、もしもですが…」
ためらいの後、意を決したように力強くアマネを見据える。
「──わたくしも旅に着いていきたいと言ったら…ご一緒しても構いませんか?」
不意に向けられたその問いに、アマネは目を見開いた。
そして、少し迷ったあとぐっと噛み締めるような表情で手元を見つめて呟いた。
「……うん。いいよ。……でも、ツツジさん。」
「なんでしょう」
「その、すごく遠くまで行くかもしれない。」
遠回しに「来るな」と言っているようにも聞こえる迷いを示す言葉は、きっと拒絶ではない。アマネの優しさであり…人に対する僅かな恐れ。
「道も、ぜんぜん分からないかも」
「でしたら」
ツツジにはその言葉がアマネ自身を傷つけるものに思えてならなかった。
そう、まるで『自分は不幸を振り撒くのだからついてこない方が良い』と言われてるような。
瞳はこんなに寂しげなのに。
だからこれ以上は言わせない。
「はぐれない様に手を握りましょう。一緒なら迷いながら進むのもきっと楽しいですわね」
その軽やかな返しに、アマネは思わず笑ってしまった。
その頬をぽろっと一粒だけ、涙が流れていった。
世界はこんなに綺麗だったんだな。そんなことを思った。
二人の笑い声が夜空に溶けていく。
静かで、あたたかい音だった。
──その夜、アマネはツツジの横で深呼吸をした。
(……名前、言えたらいいのにな)
──仮の名ではなく本当の、私の名前を呼んでほしい。
心の奥に小さく芽生えた思いが、風にさらわれて星に滲んでいく。
それでも、まだ言えない。
でも、いつか伝えたい──そう思えた。
この夜の優しさが、彼女の心を少しずつ変えていく。