初めは、ただの偶然だった。お互いの連勤や徹夜、気の緩みによって生まれた、ただのほんの偶然。
でも、その初めの一回で嫌だと。そう思えなかった時点で、きっと遅かれ早かれこの関係に陥っていたのだ。
照れも。恥も。
”じゃあ……”
シャーレの執務室。座席は先生の椅子。何の変哲もない、普段通りのモノ。いつもと違うのは、そこに二人で腰掛けているという事。
背もたれに密着してなお深く座り直すように先生が腰掛け、その空いたスペースに私が……言うなれば二人羽織のような形で。
「ええ、どうぞ」
私の言葉を合図に、先生の右手が私の後ろ髪を掬い取る。その手つきが優しさと蠱惑さに満ちていて、知らずと背筋が震えた。
掬ったまま自らの掌に広げ、そこに顔を近づけている……のが、感覚で分かる。そして、呼吸。
吸って、吐く。その単純な動作がしかし、自らの髪を経由して行われているというだけの事で、私の鼓動が否応なしに暴れる。
一呼吸一呼吸、丁寧に丁寧に。まるで呼吸の仕方を復習するかのように深く息を吸って、そして吐く。
「……っ」
吐き出された──一呼吸毎に熱を帯びていく──その息が首筋に触れる度に。私の匂いを深く体に取り込んで、染みわたらせているのだと。そう告げるかのような熱さの吐息が首筋をくすぐり、否応なく私自身の熱も高まっていくのが分かる。
それでもようやく。ようやく。その熱さに慣れ始めた時。
”次、行くね”
「──ちょ、とまっ」
先生の右手が、私の後ろ髪をかき分けて首筋を露わにする。その動作によって風が起こり、首筋に籠った熱が出ていくのを感じる。でも、それは直ぐにかき消され。熱を帯びた息が、いや、正確には鼻先が、今度は私の首筋……うなじに直接、触れた。
「んあっ……」
自分の口から漏れた……息。そう、断じてただの息だ。思わず出たそれを抑え込むかのように左手を口元へ運ぼうとし──先生の左手に防がれる。
右手では私のうなじを。左手では私の左手を、指の一つ一つを絡めとる様に押さえつけられ。振り払える強さのはずのそれは、私のモノではない、人の、熱を私に伝えてきて。その心地よさに「振り払う」という選択肢は消え去っていた。
私の左手を絡め取っている最中も私のうなじを吸うことはやめず。先ほどよりも近く、零距離で匂いを嗅がれているという事実に、私の吐き出す息さえ熱を持っていく。
先ほどよりも、吸って。吐く。その一動作をゆっくりと噛みしめるように。いや。呼吸ではなく、私の匂いを反芻しているその動作が。うなじに当たる、まるで火傷するかのような熱さ──錯覚。その筈だ──の息が。
恥と。優越感と。照れと。艶と。それらを薪に私の脳髄を焦がしていく。
助けを求めるかのように空を掴もうとする私の左手が、先生の手によって捕まり、優しく机の上に広げられる。
こちらも丁寧に丁寧に。絹を扱うがごとく優しい手つきで掌を天に向けられ、手首を抑え込まれた。
手首から指先へ、指先から手首へ。先生の指が私の掌を滑っていく。指の腹でなぞられているのに、折り返しのところで一瞬だけ立つ爪が、私の指先を引っ掻く。その痛みとも呼べない刺激は甘さに変わり、私の脳を痺れさせる。
左手だけではなく、気づけば右手も同じように抑え込まれていた。ただしこちらは掌を弄ぶようではなく、指と指を絡ませられている。掌にかいているであろう汗さえも潤滑油にして、指の先から掌まで余すところなく握られている……嘘だ。私だって握り返している。つまるところこれは……恋人繋──
「ひぅっ……」
思考が何かに及びかけそうな瞬間、声が漏れた。もう抑えようなどという理性は残っていない。手首から、密着している背中から、うなじにもたらされる吐息の熱さから、掌に与えられる甘さから。彼の高まりに呼応して私の躰の奥を熱く燃やしていく。
「先生ぇ……?」
未だ先生の鼻先は私のうなじにあるが、内側からあふれ出す、抑えきれない何かの衝動によって私が振り向く。
目と目が合う。その瞳の奥には確かに、普段の彼からはあり得ない、けれど誤魔化しようのない「色」の火が灯っていて──。
足音。
*
「失礼します、先生。ちょっとご相談が……あら? あなたは……」
「ヴァルキューレ警察学校、公安局……いや、公安局の尾刃カンナだ。本日は、その、シャーレの当番で」
「どうも。私はミレニアムのセミナー、会計担当の早瀬です。早瀬ユウカ。よろしくお願いします。……ところでお二人とも。随分と目の下にクマが出来ているようですが」
「……おっと、それは失礼。自分では気が付かなかったが、このままでは手伝いとはいえ当番の業務も捗らないかもしれません。……先生、すみませんが、少し顔を洗ってきます」
”……ああ、いってらっしゃい”
*
足早にその場を去る。そして部屋から出て行きざま、目に入ったのは。先生と生徒、早瀬ユウカ……だったか。
ミレニアムの生徒と先生が楽しそうに話す様子。そこに宿る視線に、「色」の気配が無いかをしばし探してしまう。……先生と生徒の間には。そういったものは無かった。少なくとも、先生からは。
……一体何を馬鹿なことを自分はやっている。さっさと宣言通りに顔でも。そう思った瞬間、先生と目が合った。
「……ッ」
その目に宿って、でも正しく瞬きの合間に消え去った「欲」の色に弾かれるように。私は化粧室へと歩みを進めた。
二度、三度。それでも収まらず重ねて数回。先程宿った熱を冷ますかのように、顔に、文字通りの冷や水を浴びせる。
しばし俯いて。顔を上げた時に、鏡越しの自分と目が合う。鏡の中の、自分の瞳には。
──冷まし切れない、