「髪を乾かさせて欲しい……ですか?」
一緒にシャワーで汗を流した後、パウダールームにて。横を見ずとも正面を見れば、鏡に映る私達。一方は髪にタオルを当てて、もう一方はドライヤーを当てながら。特有の騒音越しに私に向けて、そう声が掛かる。
自分に熱風を向ける分には頓着していない癖して、私の髪にはご執心とは。
今までではあり得なく、そしてこれからは日常になりえるだろう光景。それでも初めの一回はどうにも新鮮で、意識を緩めると口元が緩みそうになってしまう。
”うん。前々から一度で良いからその髪、手入れさせて貰いたかったんだよね。あ、もちろん無理にとは言わないから”
「こほん……。はあ、まあ特にこだわりはありませんから、お好きにしてくだされば」
もちろん必要な身だしなみとして整えることは前提として、私自身はそこまで頓着しているものでもない。
それで先生が喜ぶのであれば。こういう関係になった以上、やぶさかではない。
その思いから返答を返すと、響くように打ち返される喜びの声。
”ありがとう! 実は色々準備してたんだよね……”
そう言って取り出されたのは、普段の私では購入の検討にすら及ばないヘアトリートメント剤の数々。
「……あの、先生」
”いやー、何の気なしに雑誌を読んでたら使わないのに欲しくなっちゃってさ。でもこれ、カンナの綺麗な金髪に使ったらきっと今よりもっと素敵になると思うんだ! ”
何を考えてこんなものを。呆れと共に続けようとした言葉は、あまりにストレートな物言いに出鼻を挫かれる。
まったく。ずるい人だ。そんな笑顔を向けられて、真正面から「素敵」などと。よくもまあ躊躇いも無く。
風呂上がりだというのに、頬と耳まで、全く別の理由で赤くなっていることが気づかれない様に願って。声に押されて、こくりと。思わず顔を背けながら頷く。
無意識に頬に当てた掌にはしっかりと。熱を持っている事が伝わって来た。
”じゃあ始めるね”
所はシャーレの執務室、ではなく。その奥にある居住スペース。その一角にあるソファに腰掛ける私と、その後ろに立つ先生。
「……お願いします」
誰かに髪を、頭を預けるだなんて経験、美容院以外では久しい。そういった「経験不足故の緊張」と「女の命である(頓着しないとはいえそれでも)髪を誰かに預ける故の緊張」。それらがない交ぜになる私へ、その頭にふわりと。解きほぐすかのように優しくタオルが当てられる。
”髪を痛めたりしない様に勉強はしたんだけど。もし何か間違ってたりしたらすぐ教えてね”
言葉ではそう確認を取りつつも、その手つきは迷いが無い。頭頂から毛先まで、まずは表面を。擦らずに、柔らかく押さえつけて余計な水分を取り除いていく。
上が一通り済めば、次は裏面、というか、うなじから頭頂までを遡るように。そしてまた、順番に毛先へと。……途中、声が漏れてしまいそうになるくらいには心地よく、またスムーズだった。
そして最後は頭頂の耳。タオルを手の形に沿わせて、簡易な手袋の様にして。布越しに触れられる。……右耳。反射的にぴくん、と震えたそれを宥める様に。ゆっくりと。初めは根元を。こちらは二度三度と擦るように。頭へ与えられる刺激とはひと味違うその感触が、マッサージのような快感をもたらしてきた。
そのまま中腹も撫で上げ、水分を飛ばす。耳のてっぺんは擽るように撫でられて、そのくすぐったさに思わず身が震える。
そうして裏面が終われば最後は耳の表面。つまりは、内側。
先程よりも慎重になった先生の手つき。タオルの繊維が触れるその一本一本までが分かってしまうかのように敏感になってしまっている私の耳へ、丁寧に触れられる。
「ん゛っ……」
”あっごめん、痛かったかな? ”
「いえ、そういう訳ではありませんので……続けて頂いて」
”……そう? 問題あったらすぐ言ってね? ”
思わず漏れ出た声を手で押さえつけて、その中で軽く息を付く。まったく、人の気も知らないで。
その間にも先生の手つきは止まらず、私の耳を揉み解す。
手で触れられる時とは違い、繊維越しの肌触りもまた気持ち良い。
右耳が終われば、当然次は左耳。
同じようなマッサージ、もといタオルドライを受けながら、ぼんやりと思い至る。
恐らくこれは、物理的なマッサージとしての気持ち良さもさることながら、信頼できる相手に「頭」を。つまりは急所を預けている事そのものへの心地よさを感じているのだと。
言い換えれば、安心感。
そんなとりとめのない思考を中断するように、右耳からタオルが離れていく。……せっかく気持ちよくなって来ていたところだったのに。そんな名残惜しさが無いとは言えないが。
”よしっ。だいぶ水分も取れたから……次は、軽く櫛を通していくね”
先生の声と共に、私の内心は。当初の気恥ずかしさは薄れて、一抹の甘さを持つ安心感を味わうかのように、次の手を心待ちにしていた。
大きめの櫛が頭部に当てられ滑らせるように。少し毛先が絡まっている部分は一度櫛を止め、手でそれを解いてくれる。その手付きには先刻までと違い、優しさが込められていて。そんな些細な所で「ああ、本当に関係が変わってしまったんだな」と実感してしまう。
.その、先程までが優しく無かった訳ではなく。情熱が先に来ていたというか。ただそうなるように仕向けたのは他ならぬ私な訳で。こほん。
”ドライヤーを当てる前は、こうして絡まってる髪を解くといいんだって。でもやり過ぎは良くないみたいで、中々加減が難しいよね”
言葉通りこのタイミングではブラッシングに長い時間はかけないのか、思いの外短く終わってしまった。
”じゃあ次はトリートメントを塗っていくんだけど、香りの希望はあるかな? 結構色々種類が”
などと言いつつ、目の前に結構な種類の瓶が並べられていく。オイル、ミルク、クリーム、ete.思わず半眼を先生へと向け、言葉が溢れる。
「どれだけ買い込んでいるんですか?」
”いやあ、買ったのもあるしクラフトチェンバーで作ったのもそれなりに.ってほら、そんなことより。どれ使うか選んでよ”
ふむ。と少しの時間逡巡する。別段香りに対してこれと言ったこだわりは無い。しかし選んでと言われた手前.と思考を巡らせて閃く。特別なこだわりは無いが、こだわるようになりたい。その思いを込めて。
「では、先生のお好きな香りのものをお願いします。それを私も、私の好みにしたいです」
そう伝えた筈なのだが、しばらく待っても反応が無く。振り返って見上げてみれば顔を抑えている先生の姿が見える。
「? どうかしましたか?」
”いや、別に.結構そういうことさらっと言うよねカンナ……”
別に、以降は小声で聞き取れはしなかったものの。何故か心にはやり返してやった感が登ってきている。
先程のお返しです先生。でも、本心ですよ。
”じゃあ、これなんてどうかな”
そう言って先生が渡してくれた瓶を開ける。そうすればすぐに、さわやかな清涼感を感じさせる柑橘系の香りが華やいだ。
「これは.シトラス、ですか?」
”うん。花の香りやフルーティな香りも好きではあるけどね。私の好みはどちらかと言うとこっちかな。そして、カンナに一番ぴったりだとも思ったから”
私に似合う香り。そんなこと考えたことも無かったが。でもきっと、あなたがそう言ってくれるのであれば。
”それにさ。アップするらしいよ? ”
「何がです?」
”親しみやすさ”
「あの……先生?」
若干、わざとらしくも剣呑さが混じった私の声に、カラカラとした笑い声で返して。
”なら、今回はこれを使ってみるね”
私の手の内から瓶を取り、自らの掌へとオイルを広げた。すると体温で揮発したのか、より一層鮮明になるシトラスの香りが、私へと近づいてくる。
”量は少なめに、足りなければ足せばいいくらいにしてっと。そして根元へは軽く中間地点を中心に.”
私の髪を軽く一さじ分掬い、オイルをなじませる。くしくしと。髪と掌が絡む音と、更に広まる柑橘系の香りが支配する空間。その私達だけの「場」を、しばしの間堪能する。
しばらく楽しんでいたら。
”よし。オイルはこんな感じかな。どうカンナ? 問題無さそうならドライヤーかけていくけど”
そう声がかかる。勿論、問題ある筈もない。
「はい。ドライヤー、お願いします」
そうして、この私の髪が手入れされるという、なんともむずがゆい時間も最終盤に差し掛かる。
始めは高温の温風を。しっかりと髪との距離を開けて。
風と共に通される手ぐしがなんとも心地よく、またヘアオイルの香りも、ドライヤーの風に乗って拡散されていく。
根元、中間、毛先。ある程度の水分が飛ばされた所で、風が冷風に切り替わる。
手ぐしから通常の櫛へと替わり、ドライヤーの風に合わせて髪が梳かされていく。
その髪を通る感触で分かる、いつもとは別物と呼べる程の櫛の通り。それに他人事のように感心しつつ。
カチッ。ドライヤーのスイッチを切る音。同時に風と騒音も収まり、この時間が終わりであることを告げてくる。
”さ、どうカンナ? 我ながら結構上手く出来たと思うんだけど”
改めて鏡を注視する。反射された私の姿。特に髪を見れば一目瞭然。
明らかに普段より滑らかで、艶もある。手入れ一つでここまで変わるものなのか。
少し首を振れば、ふわりと広がるシトラス。あなたが好きな香りを、身に纏って。
好きな人に、頭を預けて手入れされるこのひととき。
早くも、次が待ち遠しくなってしまい。
「はい、ありがとうございます.正直自分でも驚きです。あの、先生」
”ん? ”
「また、お願いしても良いでしょうか? その、お時間がある時で構いませんので」
”! もちろん、こちらからお願いしたいくらいだよ。私も楽しかった! ”
私の趣味爛へ一つ項目が追加された。最も、恥ずかしくて誰にも言うことは出来ないけれど。
身に纏うシトラスの香りが、新たな趣味の。無言の証明だった。
多分翌日毛並みがつやっつや(Inシトラスフレーバー)になった局長(狂犬のすがた)を見てヴァルキューレの部下達はきゃいきゃいはしゃぐし、
キリノには「なぜか今日の局長は一段と輝いている気がします!!」って言われるし、
ネムガキコノカにはいつもの3割増のニヤニヤ顔が向けられてる。