001:北北西の凍土にて
茫漠たる北北西の凍土にて。
ひゅうひゅうと吹く風と野鳥もいない灰の空。草木も生えぬ氷の大地。命少ない無人の地平にて、一柱の女神が息絶えようとしていた。
女神。
そう。死せる者は神だった。真の意味で神だった。
死ぬのだ、神が。不死と権威と力ある神が。生命溢るる地母の女神が。
彼らは不死だ。彼らの魂魄は永遠だ。だがその道理に反し、氷上の女神は花嫁が婚礼で纏うような白いヴェールを鮮血で染めながら、地上での生を終えようとしていた。
道理に合わない。矛盾している。神が死ぬはずがない。
だがもし現世に神が降り立つとしたら?
神話を骨子とし、概念や自然を下僕としたかのような神々が本当に現れれば?
神話に
そうして神話のなかに繋がれているはずの神が地上に下り時が経てば、やがて狂う。
そうして狂った神々は、神話を紡ぐ人の縛鎖を引き千切らんと人へ仇なす。
初めから矛盾しているのだから当然の帰結。はるかに矮小な存在に討たれるのも、或いは順縁なのだろう。
傷付き、討たれ、死に迎い……だが女神の顔にたたえるのは苦痛でも恐怖でもなく、愉快そうな微笑。神を殺めるなどという逆縁を成し遂げたものへの賞賛。
順縁と逆縁を為した者を激賞する笑みなのだ。
────────。
風は止んだ。雲は影で女神を翳らせた。
命はない。命はない。神とたった一つの命を除けば、ここには氷しかない。
誰も見てはならぬ。誰も居てはならぬ。誰も聞いてはならぬ。誰も触れてはならぬのだ。
ここは神域。これは秘儀。神を贄として初めて行われる、神の尊厳に傷つくるが如き忌まわしい儀式。
「死ぬのか、妾が! 生者の狩人にして死の具現たる妾が!」
なんたる諧謔。このような僻地など数多の神々が熱望し、そして夢敗れた、貴顕なる女王が果てるにはあまりにも相応しくない。
ああ、だが死に方は悪くない。悪くは無いぞ。むしろ気に入った。
決して口にせず、地母の女王たる威厳をもって雄々しく笑う。
どうせ死など通過点、微睡むような永遠のなかの刹那の恥辱。よろしい、納得した。ならばこの死を受け入れよう。
それに見よ、我が身体から流れだす神力は止まることはない。死や時は不可逆だ。それは神たる我らが下した鉄の掟。故にこの死を覆すことは他でもない己が許さない。それが神の裁定。己が死すら定められる女王の選択。
この儀式は不可逆だ。
「ならば刻め、妾から簒奪する権能を! 妾から奪い取った力をせいぜい魂魄に刻み込め! 妾の代行者として数多の死を齎さんがために!」
今際の哄笑が、不動の氷山を揺るがす。
その光景を偉業だと評する者もいるだろう。その光景を異様だと慄く者もいるだろう。その光景を奇跡だと感嘆し、心震わす者もいるだろう。
だが誰も知りはしない。余人の介さぬ氷の大地で、馬鹿げた儀式が執り行われているなどと誰も知りはしない。
そう。この聖なる供犠を知るものは酷く少ない。
神と人のいるところに必ず現れる魔女だとか。
捧げられる贄たるまつろわぬ女神だとか。
──弑逆したまつろわぬ女神を看取る人だとか。
その光景を偉業だと評する者もいるだろう。その光景を異様だと慄く者もいるだろう。その光景を奇跡だと感嘆し、心震わす者もいるだろう。
でも偉業で、異様で、奇跡を為したその人は何一つとして感慨はなかった。感情の乱れは少なく、そして虚ろに死せる神を看取っていた。
「世には七人の神殺しがいると聞く──汝は、これより忌々しい魔王どもの末席を穢す王となる!」
「そうだ、穢せ! 妾の遺したる、死で以って贈られる力で! 同胞たる神々に、神殺しどもに、死を賜うがよろしい! 汝こそ──
祝福と憎悪の言霊を最期に、女神は乱吹きはじめた風にさらわれ消え去った。
不死の死。
遂げた逆縁こそ、どれほど時を重ねても褪せない原初の記憶。
コーヒーなんて結局、飲めればいいのだ。
コポコポと、フィルターとドリッパーにお湯を流しこみ大して美味くもないコーヒーをわたす。
「火傷するぞ」
受け取った女の子はケトルのお湯と大して変わらない熱さのコーヒーをマグカップをひっくり返す勢いで飲み干し、そしてまたマグカップを差し出してきた。
「おいおいまだ飲むのか?」
アジア系の青年、
「5,6杯は飲んだだろうに……ああ、分かったよ。作れば、作ればいいんだろ」
空のマグカップとともに突きつけられる無言の要求に、すぐさま降参し何度目かのコーヒーを淹れる。
眼前の少女は変わっている。
出会い方もそうだが、空腹に耐え兼ねるように砂糖もミルクも入れない熱湯のようなブラックコーヒーを早くよこせと要求してくる。
明らかにL単位で飲み干しているが、その矮躯のどこに詰め込んでいるのか真剣に問いかけたくなるほど小さな花弁から吸い込まれていく。
それからは少し地獄だった。一生分のコーヒーを作ったんじゃないかと錯覚するくらいコーヒーを淹れさせられ、北極圏で汗だくになるという貴重な体験を得るに至った。
何杯もコーヒーを飲み干し落ち着いたのか、少女はジャケットのフードをかぶりヘッドホンから流れる音楽とともに自分の世界に篭ってしまった。
「しっかし、アイスランドくんだりで行き倒れを拾うとはな……」
一人の時間が長いと独り言が酷くなる。幸い、聞き手はいない。ボールを投げても返ってこないから仕方ない。
頬のニキビを擦りながら
湖畔で水を汲んでる時だった。この女の子が倒れているのを見つけたのは。
白珊瑚の髪に
背丈は自分の腹部あたりまでだろうか。抱えた時も、淡雪でも運んでいる気分になったものだ。
ランニングでもしていたのか不釣り合いなほど大きなヘッドホンにグレーのジャケットと青のパンツといった服装。
ジャケットのせいで体格が分かり難いのに、それでも線の細さが際立つ。
それでもアルビノのような危うさは感じないから不思議だ。行き倒れていたのに助けを呼ばなかった理由もそこにある。
とはいえ救急車なんて呼んだら医療費で破産しかねない国出身の彼は最初からその選択肢はなかったが。
「白いの、お前家はどこなんだ?」
「………………」
「おい、聞こえてるか?」
「…………、……?」
「あー、英語通じないのか? アイスランドの人間はみんな喋れるって話だったが」
氷語、つまりアイスランド語と英語は似ている。ルーツが同じだからだ。だからアイスランド国民はほぼ英語話者だ。彼女はその数少ない例外らしい。
「家だよ家。ho、u、se。発音結構似てるからニュアンスで察してくれよ」
それでも白い少女は首を傾げるのみだ。
「言葉は分かんねぇのか。でも、家は分かるんだろ?」
応答はない。
やれやれ。ずいぶんと割に合わない人助けだ。嘆息しつつ、だが、十分義理は果たしたろう。
元々、湖を眺めに立ち寄ったのだが妙なのを見つけてしまって時間を食ってしまった。
さっきレイキャヴィークから持ってきていた水は少女のおかげで完売御礼。
使い込んだ水を補給しに空のタンクを抱えて湖から水を汲む。普通の人間なら生水なんて怖くて飲めたものじゃないが、
さっきの少女じゃないが何杯だって飲めるし、泥水だろうと硬水だろうと腹を壊したことは無かった。
ぴちゃん、と何処かで魚の跳ねる音がした。
「ん?」
空タンクに水を注いでいると影がさして、振り向くと白い少女が立っていた。
「どうかしたか。またコーヒーを飲みたいのか? だが残念ながら営業時間は終わりだ、そんなに飲みたいなら家に帰るんだな」
そんなに嫌味を含めた言葉にも反応を示さず、そのまま
「へぇ、見えるのか」
体格差がありすぎる
首筋を首筋を近づけ少女の人差し指が触れると──ぐるりと弧を描いた。
「はは。目ん玉こぼれ落ちそうだ」
紫の目を見開いて視線だけで問いを投げかけてきた。
「生まれつきだ。おまえ、蒙古斑知ってるか? ……って、まあ白人のおまえが知るわけないか」
注ぎ終わった重そうなタンクを軽々と持ち上げ、つぶやくように説明した。
「あれはそのうち消えるらしいが、この妙な痣は消えなくてな。昔は引き剥がそうと肌を裂いたりしたもんだが結局戻って来ちまうから諦めた」
痣はやがて
「この痣が見えるヤツはほとんどいねぇ。その手の才能がないと、とことん見えない、そういう類の特異体質だとか言われた」
身体を泳ぐ丸い魚は一匹だけではない。もう一匹いる。丸い魚は二匹もいるのだ。
「もう慣れたけどな。でも二匹も身体中を動き回って……いや、泳ぎ回っているのが、気持ち悪い」
諦観のため息をついた。
「で、お前も魔術師ってやつか? アイスランドの人口は少ないつってもいる場所には居るもんだな。いや、女だから魔女になるのか?」
色素の存在しないような透き通った瞳が
答えはなかった。
火と氷の国アイスランドはその立地や人口に比して豊かな国だ。
火山も多く、温泉も多い。欧州では珍しく鯨が食卓にあがる。そこそこ共通点はあれど、真逆な点も多い。
同じ島国だが鉄道が走り回る日本と違い、アイスランドは鉄道なし国だ。
日本の国道一号は東京都から大阪府までを横断するが、アイスランドの国道一号は島を一周する。リングロード、と呼ばれる氷島で円を描く。
名山、名湖、名瀑が軒を連ねて陸地となったような島は観光客が絶えない。観光客の移動手段はレンタカーが主流だ。
ハイキングやサイクリングする者もいるが北極圏で露営ほど
「さて行こうか相棒」
駐車していた
ふと隣を見たら"白"があった。
「いい性格してるよ全く」
儚げなのは見た目だけらしい。譲歩すればするほど踏み込んでくるタイプ、というのはこれまでのコミュニケーションで強く印象づけられた。
「少し行けばガソリンスタンドがある、そこまでで勘弁してくれよ」
分かったのか分かってないのか。
どちらでも構わないか、そこまで着いたら本当にお別れだ。最後まで見届ける義理もなければ道理もない。それがのんびりとした旅路の中でも。
いつの間にか乗り込ん少女はそのままダッシュボードに置いておいた一冊の──"赤い本"を手に取った。
「……?」
牛皮の装丁をした古ぼけた本で、相当な逸品なのは見て取れた。見るものが見れば千年以上昔の本だと見抜いただろう。
間違っても車のダッシュボードへ乱雑に放置されていいような代物ではない。
だがこの場にその価値を介するものも気遣うものもいなかった。
オークションに出せば一財産築けそうな逸品を無遠慮に扱われても
「俺は
そういえば名前を聞いていなかった。必要ないなら放置する性質の
わかんねぇか。
いくら待っても返って来ない返事に諦めて、クラッチを離したのと同時だった。
「……シギュン」
「え?」
「シギュン・ビョルンストライド」
少女が、シギュンが初めて喋った。
慎ましやかな、可愛らしさを残した美しい声だった。ヴァイオリンやピアノが空っぽなのに、耳心地の良い音を奏でるようにシギュンの声も良いものだった。
何より会話のキャッチボールが成立したことに何故か深い感慨を覚える。ずっとソロだったから当然だ。
「へぇ、女神様みたいな名前だな。居たろ、北欧神話かなにかに」
学も知識はないが必要とあらば詰め込む。その時にそんな名前も紛れ込んでいた。ただ会話のボールは投げ返されたのは気まぐれだったようで、シギュンは興味を無くしたのか赤い本に目線を落とした。
そのうち
ごろごろとタイヤが地面を転がる音が車内を騒がせる以外は無音の車内は気まずい。
思わず聞き取れもしない氷語のラジオを最大音量で流しはじめた。ラジオの音量を上げたからか、煩わしそうにフードを目深にかぶってヘッドホンに繋がる端末を操作する。
『───♪』
何が気に入らないのか。運転している
「……鬱陶しい声…………」
シギュンの無意識に零れ落ちたらしき声は、嫌に耳にこびりついた。
土生アザミという性癖の正中を穿つ女性と出会ったんですが蛇属性が癖なの明らかにカンピオーネのせいなんだよなぁと思ったので初投稿です。