001:自裁王
【二十世紀、小説家アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』から抜粋】
神を欺いたことで、シーシュポスは神々の怒りを買ってしまい、罰を受けた。
神々がシーシュポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであった。
しかし、ひとたび山頂にまで達すると、岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった……。
【グリニッジの賢人議会により作成された、シギュン・ビョルンストライドについての調査書より抜粋】
すでに述べた通り、シギュン・ビョルンストライドがスカジより簒奪した権能『|雪靴の小公女(öndur konungs dóttir)』は、神の眷属を億兆単位で殺戮しうる常軌を逸した殺傷能力を秘めた権能と推察できます。
権能のからくりは全て謎に包まれ、未知数の『王』。我々賢人議会は強い懸念と警鐘を鳴らさざるを得ないでしょう。
接触に成功した妖精博士ジョー・ベストの証言によれば年齢は十三、四歳ほど。白い髪と紫の瞳。一見すれば無害にも見える白人少女だったという。
つまりローティーンで人畜無害な外見をした少女だというのです。
ですが、ゆめゆめ忘れないでいただきたい。
まちがいなく彼女はカンピオーネである。か弱き人の子に過ぎない我ら魔術師を凌駕する魔王のひとり。
尚、彼女に侍る者にロサンゼルスの邪術師集団《蝿の王》の構成員が居たことを注記させていただく。シギュン・ビョルンストライドが《蝿の王》と繋がりを得たとしても驚きなく受け入れる必要があります……。
サマンサ大学の研究棟に割り当てられた一室で、人文学部の教授の身分にあるジョー・ベストは最奥の椅子に腰掛けていた。
老人の右膝から下は、分厚いギプスで覆われている。
アイスランドから帰還した彼は、右足に大きな傷を抱えて帰ってきた。
「無茶をしたわね、ジョー」
研究室の来客席に座った赤毛の女性……アニー・チャールトンは硬質な声色で、十年来の友人を気づかった。
アニーは今年で二十七。黒人の老人とは親子以上に歳が離れているが、同じ組織に所属し、背中を預けあい、信頼しあった固い絆があった。
とはいえアニーの声色は硬いが……友人のケガによる心痛からではない。
生来ずっとこの調子なのだ。アイスランドの淡雪さながらの少女と比べれば、まさに氷の彫像じみた鋭さがある。
「ありがとうアニー。他でもない君にそう言って貰えると、危険に身を晒してまでもアイスランドに向かった意味があったと言うものだ」
「だから言ったじゃない。年寄りの冷や水というものよ。アメリカでは数少ない"善の魔術師"の、それも"三賢人"とうたわれるあなたがそんな無茶をしては皆が不安に感じるわ」
「やれやれ。返す言葉もない」
ベストのような善の魔術師は少ない。
アメリカの魔術界隈には世界中から曰く付きの品々や人物が濁流のごとく押し寄せる。
善も悪もなく、さまざまなものが。
英国の植民地時代から欧州より幾人もの魔術師がアメリカに乗り込んできたが、その中には"邪術師"と呼ばれる輩も混じっていた。
欧州に居れば抹殺される彼らだったが、新天地では大手をふるって活動できた。そしてドブ川に適応できない魚が姿を消すように、まともな魔術師はやがて離れていった。
"魔都ロサンゼルス"の出来上がりだ。
そして己の正義を燃焼させ、悪の勢力に立ち上がった者もいた。"邪術師"と敵対を選んだ魔術師たちは敢えて自分たちを"善の魔術師"と呼ぶ。
実際のところ正義の味方というより、悪の敵と表した方が正確かもしれない。
「……でもケガの代償に、対価以上のものを持ち帰ったわ。さすがね」
善の魔術師の一人であるアニーは、賛嘆混じりに机に広げられた紙束を手に取り、パラパラとめくった。
「グリニッジの賢人議会に送った資料も見させてもらったわ。アイスランドの事件は驚くべき出来事ばかり。ロサンゼルスから持ち去られた『赤牛の書』の顛末。それに絡んだアイスランドでのまつろわぬモリグナ降臨劇。それに──」
ベストはアニー・チャールトンの理知的な瞳の奥底に、わずかな好奇の光が瞬いたのに気が付いた。
「まつろわぬモリグナを討伐したと推察される──八人目の『王』の示唆」
ジョー・ベストは眉をひそめた。
アニー・チャールトンは冷静沈着な理知的な女性だ。しかし時折、タチの悪い悪癖が顔を出す。
でなければ人格破綻者ばかりが集うカンピオーネの一人──"ジョン・プルートー・スミス"のメッセンジャーなど正気ではやっていけないのだ。
「アニー。ロサンゼルスに君臨するチャンピオン"ジョン・プルートー・スミス"のメッセンジャーである君も……
ベストは何故だろう。
強い語調で、言い含めるように、念押しして。アニーに言い渡す。
示威行為ともとれるそれを、アニーは涼しい顔で紅茶に口をつけながら頷いた。
「そうね、彼も動けないでしょう。あたしも同じく」
「そうだとも。今は邪術師たちがロサンゼルスの暗流を活発に泳ぎ回っている。我が『王』が興味本位でアイスランドへ行くなどと早まった真似をしないと信じているよ」
「まさか」
邪術師のはびこる魔都ロサンゼルスの住民は、銃弾や暴力だけが人を害する手段ではないと知っていた。欧州の人間が、尋常ではない災害の正体に薄々気づいているように。
民衆は音もなく忍び寄る《蝿の王》をはじめとする邪術師たちに怯え、そして──
名をジョン・プルートー・スミス。
彗星のごとく現れた
身元不明の死体に使われる『ジョン・ドゥ』『ジョン・スミス』を名乗った彼は、やがて『王』と称えられ崇められ、冥王やロサンゼルスの守護聖人など数々の異名を持つに至った。
邪術師集団《蝿の王》の暗躍が隆盛を極めるこの時期に、かのチャンピオンを欠くことは死に等しい。冥王の不在が、人々に死を与えてしまう。
好奇心に負けてアイスランドに乗り込み、その先で倒れた……などというシナリオはベストには絶対に認められないシナリオだ。
視線をピタリと貼り付け、強い熱視線を送ってくる老人のアニーは小さくため息をついて両手をあげる仕草を取った。
「OK、ジョー。降参よ、彼にはあなたの言葉を伝えておくから安心して。……一字一句間違いなくね」
「ああ、よろしく頼むよアニー」
「──いいや。アニー、そしてジョー。その必要はないとも」
美しいテノールが研究室の一室に響き渡った。
いつの間にか来賓用のソファに昆虫の複眼じみた漆黒の仮面があった。忽然と現れた黒き仮面は、素顔をまったく見通すことを許さない。
彼こそロサンゼルスの民衆が奉じる『王』、その人。
ジョン・プルートー・スミスだった。
「やあアニー、私のメッセンジャーである君の仕事を奪う形になったのを詫びよう。無駄な努力をしないのが私のスタイルだが、無駄な努力を他人にも強要しないのが私のスタイルでもあるのでね」
「構わないわ、ジョン。あなたが遅れるのは何時ものことでしょう?」
「……………。……はあぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜…………」
ロスの闇に君臨する魔王の登場。
音も、予兆もなく、いつの間にかアニーの対面の席に座っていたカンピオーネの来訪に……何故か頭を抱えたベストが盛大にため息をついた。
神出鬼没にして千変万化。
そんな『王』なのだ、彼は。
まあベストがため息をついた理由はそれだけではないが……。
とはもうせ、カンピオーネはことごとくが性格に難があるのは事実。
そしてカンピオーネの中で最も風変わりなものを選べと言われたら満場一致でこの──何故か来賓用のソファで"仮面"だけしか姿を見せずに喋っている魔王になるだろう。
派手好きで目立ちたがり屋曲者揃いのカンピオーネだが、わざわざ素顔を覆い隠す仮面をかぶって芝居を打つカンピオーネなど有史以来彼だけ。
その代わり、と言ってはなんだが。
異彩を放つ趣味嗜好とは別として、神殺しの魔王としては異例なほど理性的でもあった。
自分から騒乱を起こすタイプではなかったのは、ベストにとってもロサンゼルスにとっても救いだろう。
民衆はそんな彼を受け入れた。
偽りの王を、進んで守護者に据えた。
彼らが欲するのは中身だけだったからだ。
仮面の。
ちらりとアニーに視線をやれば彼女は普段のクールビューティーな表情を崩さず涼しい顔で紅茶を飲んでいた。
思わず胡乱な目になってしまいそうなのを何とか堪え、目元を揉みながら仮面の『王』へと文句をつける。
「最初から"居た"のなら、教えて欲しかったな。ジョン」
「ははは。私の気まぐれさは知っている所だろう? ジョー」
仮面から笑声が漏れ、仮面が揺れた……ような気がした。風に揺れただけかもしれない。再びため息をついた。
『王』の趣味に付き合わされるベストの気苦労は耐えない。
「嘆かわしいことに、また我が同族が現れたことはアニーから聞いている。私がカンピオーネへと転生して、もう何年になるだろうか」
「1998年から少し。十年の歳月が流れた」
「…………そうね。それほどになるかしら」
「サルバトーレ・ドニや草薙護堂……そして今度はシギュン・ビョルンストライド。ジョー、アニー。聞いてくれるかな。私は、新しいカンピオーネが生まれる度に"ある話"を思い出すようになった」
「ほう」
「ギリシャ神話のホメロスが記した物語さ」
仮面に王の肉声があたり、くぐもった声が部屋に響く。
「……シーシュポスという人間がいた。もっとも聡明で、もっとも慎重だったが、恐れ知らずで神すら激怒させる数々の悪行を働いた男だった。彼は悪行の果てに、神の定めた死に抗い、罰を受けた。休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げる。しかし、山頂にまで達すれば岩はころがり落ちてしまう」
「ハゲタカに内臓をついばまれ続けるプロメテウスや世界を背負うアトラスの類話だな」
プロメテウスやアトラスも、神の怒りをかって途方もない罰を与えられた人物だ。
プロメテウスは火を盗んだ咎で。アトラスはゼウスらに敗北という罪を負ったために。
「だがシーシュポスは因果報応だ。死の神タナトスに手錠をかけ、やがては冥府の神との約定を違えてまで世に居残ろうとした……」
「そうかしら?」
アニーが納得の言っていない声音で反発した。しかしベストは静かに続けた。
「そうとも。私は魔術師であるが、人だ。仮にその永遠につづく残酷な苦役を受ければ自らを裁きだろうな。自害という選択を選ぶ。余人がそのようにあるように」
そう。この話は自殺をテーマにした話なのだ。
百年ほど前アルベール・カミュというフランス人が随筆のなかでそのように書いた。
「しかしチャンピオンである君は、そうはしないはずだ。シーシュポスの神話は君に取って終わった話ではないか? 不条理な罰を下す神へ、銃口を向けて弑逆を成し遂げた……神殺しの君は」
「違うな」
スミスはカンピオーネであるからこそシーシュポスに違う視点を垣間見る。
彼は永劫の苦役を決定づけられた、罪深くも哀れな人間だろうか?
通常の人間なら自害する、想像を絶する責め苦を浴び続けるシーシュポス。
彼は神の思惑を飛び越え、運命を超克し、不条理な世界で神々の苛烈な責め苦を受け続ける。
それほどまでに生き汚く、地上に執着し、生を謳歌する。
岩を押し上げ、人の身でありながら神との戦いに勝利し続ける彼を……スミスはそのような人間たちの名を知っている。
なにせスミス自身が通って来た道そのものだから。
ゆえに。
──シーシュポスはカンピオーネである。
後世に神話として組み込まれ、綴られ、現代にまで到達するカンピオーネの存在を、スミスは時折察知する。
《鋼》の英雄神や、あるいはフン族英雄。それこそ羅刹王ラークシャサにも、その片鱗を感じる
シーシュポスもまたカンピオーネだ。
不屈と反逆の英雄こそ、カンピオーネ。
カンピオーネこそ、不屈と反逆そのもの。
天上の神々を出し抜くその頭抜けた才覚と、永劫の苦役を鼻歌を歌いながら喰らいつづけるシーシュポスにこれ以上なく共感を覚え……同時に、苛立つ。
後の世に物語として遺った同族の在り方、それがカンピオーネ"ジョン・プルートー・スミス"の興味と敵愾心を刺激する。
冥王だけではない。全てのカンピオーネがそうに違いない。
狼王も、教主も、聖女も、黒王子も、剣王も、主人公も。神々に怒りを吼え、そして己の生を絶対的に支配し、そして勝利のために岩を押し続ける。
罰を下した神々の精神が磨耗し、擦り切れ、根負けするまで、反逆しつづける。
カンピオーネ最大の支援者たる義母パンドラは義息たちの中でも、スミスをもっとも風変わりと評する。
スミスは思う。
ならばもっと風変わりな『王』が……この不条理のなかで、反逆ではなく──自裁を選ぶような同族がいたら?
自裁を
諦めるカンピオーネなどカンピオーネではないからだ。
そしてそれ以上に興味が尽きない。
自裁を選んだ『王』の動因。心情。経緯。新しいカンピオーネが出現するたびに風変わりな『王』はさらに風変わりな同族を見てみたくなる。
「シギュン・ビョルンストライドは……どのような答えを持っているのか。会ってみたいものだな……」
なんのことはない。
どれだけ言葉で取り繕おうと、つまりはそういうこと。
スミスは新しい同族への好奇心に満ちていた。
彼の《介添人》たるジョー・ベストは天を仰いで、本日最大のため息を吐いた。
もう1シーン入れたかった