アイスランドのラキ火山。
氷語でラーカギーガル、"反芻する火口"を意味するこの火山は富士山のような分かりやすい火口はない。
マグマを地底にため込んだ割れ目がどこまでも続く。
──ぼこり。
その一角で、夜色の大鎌と金メッキの施されたディスクが出現した。
やがて大鎌は人の形を得た。大鎌は人の柔かさを得た。鉄が熱で鋳潰されるように。氷が熱に溶かされるように。
大鎌が成り代わったのは幼い少女。
十二、三歳ほどの幼い躯体。閉じられた両の
神祖。
人よりも神に近く、命の根拠を神にもつ人ならざる少女は、生まれた瞬間にすでに完成されている。人が短い人生で答えを出す難問の多くを悟ってしまっている。
夜色の少女は弁えていた。
己の誕生過程も、己の生かされた意味も、己の使命ですら。
ゆえに彼女には数多くのタスクが存在する。使命という名のタスクが。
カンテラに火を灯し、大きくため息をついた。
「は──────、めんどくさ」
だから生まれて早々、言ってのけた。めんどくさい、と。
世に隠れなき怪物の名を冠した若き神祖、だが今はまだ人より少し強いだけの素っ裸の女の子でしかない。
ぱちん。
指を鳴らして草木から一着のローブを編み出す。
辺りを見渡せば──なるほど? いるところにはいるものだ。
「へぇ、近くに"神殺し"がいるじゃない。あれ、今の時代だと"カンピオーネ"が流行りなんだっけ? んふふ合縁奇縁。古き私の逆縁の担い手と再会するのも悪くはないけれど……今の私は、私の縁を紡ぐとしましょう」
これもなにかの縁だろう。まずはかの神殺しを見定めるとしようか。
それにカンピオーネは騒乱を生む。あのラークシャサも近くでなら、己の使命が非常に楽になるのは間違いない。きっと。
桜色の唇に触れながらそう思案する。
同じく自分と一緒に出現したディスクを手にしながら、神祖は身をひそめた。閉じられた目はそのままにカンテラを揺らしながら去っていく。
ディスクの縁にはまだ真新しい装飾があった。これは墓碑銘。
かつて力ある少女たちが遺した最後の
今は──雌伏の時。
「着いたぞ、ガソリンスタンド」
「?」
「? ……じゃなくて。残念だがここで俺たちはお別れだ。もう少し歩けば民家がある。地図に載ってる。そこで警察に頼るか
そう言い渡すが、分かっているのかいないのか。レンタカーから下りたシギュンは赤い本を抱えながら、突っ立ったままだ。
シギュンの胸から赤い本を引き抜きながら、リングロードから別れた小道を指差す。
「あの道を行けばそのうち着く。俺は用事があるから付き合えない。これでお別れだ。分かったか?」
「…………?」
「おいおい大丈夫かよ。……ん? つか、お前スリッパなのか……」
たしかに靴は履いている。でも靴は靴だが部屋の中で履くようなスリッパ。それも前足だけ覆うタイプ。
外出するには不向きすぎる。
靴下すら履いてない。
「お前、靴は? 平坦な道が多いけど凍ってるからトレッキングシューズくらいないとキツイぞ」
というかこの女、ここらを散歩して迷子にでもなったのかと思ったが……それにしたって装備がえらく貧弱だ。
シギュンは白珊瑚の髪をこぼし小首を傾げるのみだ。
「はぁ。わかった。俺の負けだ。俺の予備を持ってけよ。サイズは違うだろうがスリッパよりマシだ」
車のシートに横向きに座らせてスリッパを脱がしてやると、白い素足が出てきた。
綺麗な足だ。
別にやましい感情はない。が、そうとしか言いようがない。まるで
そう、白と言うより真っさらなのだ。
だからまっさらな足首の少し上にある──紫に変色した凍傷がより痛々しく見える。
なんなんだこれ……。
紫の凍傷と白い足の境界はあまりにも綺麗に分かれていた。
まるで。そう、まるで……使えなくなった足をギロチンで切り飛ばしてまた新しく生やしたとしか思えない。異様だ。禍々しいのに神々しくも見える傷跡だった。
「ブカブカ……」
「え、あ……。も、文句いうなっての! こんなに面倒見てやってんだから感謝しろよ、ったく。……まあ、詰め物でもするか?」
思わず見入ってしまった。
それを悟られないようつっけんどんに言い放ってから、頬をかいた。
靴に履かれていると表現した方がいい。
一度脱がせて厚手の靴下やインソールを何枚も詰めてやる。
「ヘン」
「うっせぇ。まぁ、あとは靴紐をきつく締めればどうにかなるだろう」
シギュンの足元で太い指でえっちらおっちら靴紐を縛ってやる。
さあ──
ぽた、ぽた。
シギュンに履かせてやったトレッキングシューズの上に……赤い斑点が生まれた。
「え?」
呟いたのはシギュンだった。
「ごほっ! ゴホゴホッ!! あ…………?」
出てきたのは言葉ではなく赤黒い血だった。
四つん這いになって喉から迫り上がる血を吐き出す。腹から、肺から、耐えがいたい痛みが襲う。
内臓がやられている!? 肺もダメなのか息ができない!
「こひゅ、こひゅ!」
大丈夫だ、大丈夫。痛い内はまだ大丈夫。少しづつなら息も何とかできる。思考も淀みない、まだ生きている。
それより──
「──仕留め切れなかったのは予想外だった」
重い吐息が含まれた声音が
ガソリンスタンドから繋がる道路、その先にある苔むした岩陰。あそこに誰かいる。
「素直に謝罪しよう。君を痛みもなく殺すはずだったのだが」
岩陰から謝罪とともに老紳士が出てきた。
人種は黒人。年齢に寄るものか動きは緩慢でぎこちない。フィールドワークに有利そうなマウンテンパーカーにクラッシャーハット。
テンプル騎士団と呼ばれる魔術も剣術もこなす魔術師はいるらしいが、その騎士と呼ばれる人種ではないのは明白だ。
シンプルに魔術師としてのスキルツリーを伸ばした老人。
しかし怖い。
明確に殺意がある。
──俺はあの男を知っている!
「
サー・アイスマン、アンドレア・リベラ……世に名だたるカンピオーネの介添人と目される声望極まる米国の
そして潰せなかったのがあの老紳士なのだ。
「──私の要求はたった一つ」
厳かな声で宣言した。
「邪術師集団《蝿の王》のメンバー……
老紳士の視線がめぐり、やがてシギュンと
「それを返却してくれさえすれば、私は即刻引き下がり君へ手を出さない事を約束しよう」
『召喚』の魔術で呼び出した小さな種を潰すと、呪力が弾けた。
「でなければ、強引な手を使ってでも奪うことになる」
つまり呪詛。
すべてアウトレンジの距離で目標を確殺できる魔術師。そんな歴戦の男がここまで距離を縮めたとなれば、すでに
「い、嫌だ……」
虚勢を張って、拒絶を呟く。
「残念だ……我は捧ぐ。贄なるは仇なす敵の肺とウバメガシの種」
攻撃対象と生贄対象を宣言する呪言。魔術はその言霊より、どれくらい魔術の仕組みを理解しているかによって威力の大小が決定される。
北米で三賢人とも称され、魔術の本場である欧州にも並ぶ者なしという
普通なら。
「──求めるは癒し! 呪詛>>>再生、ひっくり返れ!!!」
潰されていた肺腑や内臓が息を吹き返す。破裂していた内臓たちが糸もなく縫い合わされていく。
「ほう……人体破壊の呪詛を癒術へと変換したのか。私の記憶にない術だな。興味深い。では検証してみるとしよう。我は捧ぐ。贄なるは仇なす敵のアキレス腱とアラカシの葉」
真逆の結果を得たにも関わらず、驚きはない。
今だって言い様に呪詛を放ってくる。確実に止めるために足を狙ってきた。
「──求めるは報復! 呪詛>>>反転! 行け!」
「ふむ。呪詛返しもできるのかね」
弾き返したはずの呪詛が通り抜けるように過ぎ去っていく。クラッシャーハットの縁に触れながら飄々と受け流している。
「くそっ」
やばい、やばい、やばい! 焦燥で舌が乾く。
老練な重みと知性を感じる。この厚みを突破できる気がしない。凌げるとすら思えない!
「少しづつ削いでいこう。君は身体が大きい。出血死させるまで時間がかかりそうだが仕方ない……我は捧ぐ。贄なるは仇なす敵の鼻頭とシラカシの根」
……怖い。
あの国の人間はいつもそうだ。敗者の命など毛ほども思わない。
犯罪を犯せば取り押さえる前に射殺が日常化してるし、怪我をしても保険だってまともに存在しない。本当のゴミはゴミ箱にすら入れてもらえない。
呪詛を弾くが全ては無理だった、鼻血を噴出させながら身体が恐怖におののくのが分かる。歯の音が鳴る。
だから。
「シギュン、お、お前は一人で逃げろ! 逃げられるよな! あいつの狙いは俺とその本だ、お前は関わってない! それまでだ!!」
「そうだな、その少女は手は出さないと約束しよう。それに君の境遇には同情する」
そういう割には酷く無機質な声音だった。
「記憶喪失者としてストリートチルドレンとなった君は、その恵まれた体躯と特異体質を買われ《蝿の王》に拾われた。我々、
「記憶……喪失……?」
シギュンが不意に視線を送ってきた。
沈黙は肯定だった。
「同情すべきだ。しかし邪術師たちに手を貸したのも事実。……今、現在も」
「それはっ──勝者だから言える言葉だろうが!」
「否定はしない」
ふたたび『召喚』の術で呼び出す。今度は最上級のオーク樫の杖。40cmはあるか。おそらく愛杖なのだろう切っ先を地面に叩きつけると草木が踊り狂う。
「Fa──te」
杖の触れた地面から、幾つもの不可視の影が駆け抜けていく。きゃはは。きゃっはは。囃し立てる幼声に応えて、植物が躍動する。
無人のガソリンスタンドが何十年、何百年と放置されたように樹木に犯される。
コンクリートが割れ、花が咲く。
鉄筋の壁や柱に葛のつるが巻き付き、ひび割れ崩れていく。
道路への道は全て草木に封じられた。逃げ場はない。
終わりだった。
「──ねぇ、記憶喪失ってホント?」
死地にあってなお、場違いなほど無垢な声が響いた。
浮世離れしすぎて危機に無頓着で無垢な小公女。そんな印象すら感得できるほどシギュンは身に迫る脅威に無感動だった。
いや、というよりこれは……。
(脅威だと
バカな、ありえない。
この呪力の奔流の鋭さや異様な現象は、魔術を知らない一般人ですら生命の危機を覚えるはずだ。シギュンのような触れれば溶ける淡雪じみた儚さの少女なんてひとたまりもない。
多少でも本能というものが備わっているなら、逃走を選ぶのが自然だ。
けれどとうのシギュンは異常繁殖・異常成長を続ける魔術に対して、春先だけに生える珍しいつくしでも見つけたくらいの興味しかない。
「…………なんだ、その子は……?」
ジョー・ベストの喉からも疑問が飛び出た。初めて聞く、
それもそうだ。
うごめき続ける浸食の魔術が、シギュンの周りだけ
サイズのあっていない不格好なトレッキングシューズの近くには、雑草の一本だって生えていない。放棄され廃墟になったような建物のなかで彼女の周りだけ時間に置き去りされている。
転がった赤い本を拾い直しながら、シギュンは問いかけてくる。
「記憶喪失ってホント?」
「あ、あぁ……」
「ふーん」
シギュンは深く被っていたフードを払った。白い髪を飄々とふぶく風に晒せば、白銀が舞う。
「だったら、助けてあげる」
「──眠れよ子らよ」
氷島の冷たく澄んだ空気に、清眀な調べが響く。空虚なのに情念を感じさせる不思議な調べ。
空っぽな楽器ほどいい音を奏でる。そんな空々しさすら思い浮かぶ言霊だった。
「──」
嫋々たる調べに、酔いしれそうになった。しかしそれも一瞬。
轟。轟。轟。
正気に戻したのは自分と比較するのも馬鹿らしくなるほどの莫大な呪力の出現。
寒々しい空に突如としてハリケーンが投げつけられたような異様さだった。
「馬鹿な」
ジョー・ベストの現実を受け止めきれないと言った風の驚愕が聞こえる。
パキパキ……。
先ほどまで絶対の死神にすら思えた老紳士の呪力がが無惨なほどに引き裂かれ、砕け散り、草木の生えわたる大地に霜が降りる。
「幼いあなたたちの柔き足では、凍れる大地はまだ早く、そして痛い──」
かつては神々の詔だったはずの聖句が渾々と少女の薄い唇から湧き出す。
これは偉大なる母が子に捧ぐ、寿ぎの
次の瞬間には、シギュンも
一人取り残された氷漬けの廃墟で、唇を震わせながらジョー・ベストは慄いた。
「これはj.p.sと同じ。あの噂は本当だったのか……!」