「そいつの名前は『赤牛の書』つって、ケルト人の
「……牛?」
「ん、ああ……その本、紙じゃないだろ。羊皮紙ならぬ牛皮紙なんだよ。千年くらい前にケルト神話を写本しようとして牛をなめして紙にしたんだ。神話の名前も牛の名前がついてて……なんだっけ……? "クアルンゲの牛捕り"だったか」
「クアルンゲ……。牛捕り?」
「結構有名な話らしいぞ。ケルト神話語りたいならこれ抑えとけばどうにかなるみたいなことを魔術師のおっさんが言ってたからな」
内容はよく知らん、ガタガタ揺れる車内で肩をすくめた。
「ケルトって一口に言っても島ケルトと大陸ケルトって大きく二つに分けられるらしい。んで、そいつは島ケルトの伝承なんだと。まあ要するにアイルランドとイギリスに居たケルト人だ」
たぶん、と付け加える。
「ケルト人ってなぁ、
そんなことをダラダラ話しているうちに"ラキ火山"を示す看板が見えてきた。
少し先には渓谷地帯が広がる。
ラキ火山──目的地はもうすぐだが、そこへ向かうには少々険しい道を進まなきゃいけない。
「こっから先は車は使えない。歩きになるから覚悟しとけよ」
なお、いつの間にかヘッドホンで耳を塞いだシギュンから返答はなかった。
「はぁはぁ! アイツ、すぐバテると思ったけど……ふーっ、ふー……結構余裕あるな……」
車を降りて荷物を抱えながらの登山を開始した訳だが、曇天のなか霧雨混じり天気。それに強い風のせいで歩きにくい。体力がみるみる削られていく。
草や苔むした砂利道をひたすらすすむが、苔やシダに足を取られて中々進めない。
シギュンはと言うとなんでもないように遥か先を進んでいた。
「いやいや、おかしいだろうが! 毎日トレーニングは欠かさないし、組織のミッションだってやってるんだぞ……!」
しかしシギュンは少し常軌を逸している。もはや人間というより猿や猫を思わせる身軽さだ。
明らかに運動不足な
やっとの事で追いつくと。
「勝った」
「コイツ……!」
なぜ、いつ、勝負になったかは知らないが丘の上で座り込んでいたシギュンに追いつくと開口一番そう言われた。
「おそらく……だな。……俺は足がデカくガタイも良いため、燃費が少々悪くなっただけでだな……。普通の平地のランニングなら絶対に……」
「ふっ」
「あっ! テメ、鼻で笑ったな!」
動かない表情そのままに鼻を鳴らし、相変わらずぴょんぴょん跳ねて岩と砂利の道を進んでいく。
そうして何かを思い出したように、懐から『赤牛の書』を取り出した。
「これ」
「あん? それがどうかしたのか?」
「なんで壊すの」
「あー、その事か。まあ命令だよ」
「命令?」
「そ、うちのボス直々のな」
よく分からないといった風に頭を傾げるシギュンから白珊瑚の髪がこぼれた。
ウィッグやエクステに回したらいい金になりそうだな、と悪の組織に属する卑賤の輩である
「『赤牛の書』はアイルランドにもあるんだ。アイルランドにあるのは歴史的・学術的な本物で間違いない。んで、お前の持ってる方も本物なんだ」
「……? 二つある?」
「俺もよく知らんが魔術的に本物だって話だ。どっちの"書"も、元々アイルランドにあったんだけど150年くらい前にひどい大飢饉があったらしい。かなりの大飢饉でな……こりゃたまらんと島を脱出した魔術師たちが家財と一緒に"書"も持ち出したんだ。その先が丁度ゴールドラッシュに湧いていたアメリカで、結局巡り巡ってロサンゼルスの魔術師が保管してた訳だ」
そして保管していた魔術師を襲撃して奪ったのが
「うちのボスにとって"書"は目障りらしい。鉄臭さが堪らないだとか」
「鉄……?」
シギュンが"書"を鼻に近づけてスンスン匂いを嗅ぐ。
「臭いけど、臭くない」
「だよなぁ。俺も嗅いだけど匂いしなかったし……。あの方、シンソ様は、まあ、わりと雑というか……抜けた所のある方だから。たまに訳分からないこと言うし。捨てにいけって言ったのも気まぐれかもしれん」
魔術師が見れば目を剥いて悪罵しながら殴りかかってきそうな光景だが、残念ながら"書"にあんまり興味のない連中しかいないため止める者は皆無だ。
そうこう話しているうち、ラキ火山の一帯に入った。
「バッ、カでけぇ……!」
何十キロと続く、長い長い火口の列。
地球という風船を引きちぎったような裂け目がどこまでも続く。
今は少しだけ穏やかで、冷えて固まった黒い溶岩の上に、苔や草が生えて緑がある。
チョコレートケーキにグリーンティーパウダーでもふりかけたおかしさする感じられる。
だけど、あれは全てまやかしだ。
あれらがその気になれば人類史は痛烈な打撃を受ける。人類にまつろわぬ
18世紀におきた大噴火。
アイスランド人はこの悪魔を忘れない。欧州中に飢餓をばらまいた人の死と自然の畏怖で彩られた大火山。
『赤牛の書』に現実の本物と、魔術的な本物というふたつの真実があるようにラキ火山も魔術的な顔を持つ。
ラキは死の火山だ。この世のどんな火山よりも殺意に溢れている。ゆえに獄炎の殺意を孕むラキ火山はそこらの霊地よりも格段に上位にある。
「神具が壊せる場所なんて限られる。アメリカは魔術的には結構若い国だから手頃な霊地がなくてなぁ……さっき襲ってきたジョー・ベストな厄介な連中もいるしアメリカ国内じゃ神具の破壊はけっこう難しい」
「カナダも同じ事情だし、その点メキシコは歴史も古くていい場所がいくつもあるんだが……ある意味ロス以上のカオスだから治安が悪すぎて近づけない。で、消去法で一番近くてそこそこアクセスの良いラキ火山に放り込むしかなかったんだ」
とある指輪を火口に捨てに行く名作があるが、あんな感じでエッホ、エッホと
「まー俺はサウロン側だけど……ん? アイツ、いないじゃないか──いや、あんな先まで進んだのか!? というか俺の話聞いてなかったろ!」
と、話している間にも"書"を小脇に抱えながら遙か先をシギュンは歩いていた。
おそらく魔術的な感が働くのか、
「もうアイツに頼んじまった方が楽なんじゃないのか? 神具の破壊……」
いやいや、それはあの方への裏切り行為だ。
うぉぉおお! と気炎を吐いて走り出した。
「わりぃ! 休憩にしよう!!!!」
追いつく気がしなかった
めちゃくちゃ嫌がってそうな雰囲気を感じたが、コーヒー豆をゴリゴリ削ってお湯を沸かし始めるとすすっと寄ってきた。
「ん」
「はいよ」
雑に作ったまっずいコーヒーの何がいいのやら。
手を差し出して催促するシギュンへ、湯気の沸き立つブラックコーヒーを渡す。
一気に飲み干され、追加のお湯を沸かしてやる。
「というかもう午後の五時回ってるじゃねぇか」
お湯の温まる間に時計を見れば、示された時刻はPM17:00。
外は明るいがこの時期の
アメリカから飛行機で飛んできた訳だが、時差ボケも相まって気が狂いそうだ。
「その上、こんな時間にブラックコーヒー……か。俺の自律神経はどこへ向かうんだろうな。はは……」
なんて自虐的なことを呟いていてみたりする。
というか。
「正直、意外だったよ。お前が運動できたって」
「なんとなく、分かる」
「分かる?」
登山の極意的なやつだろうか。言霊の極意を悟るという"千の言語"を使いこなすやつなのだ、そんな事も出来るのかもしれない。
やっぱり記憶があった時のコイツは相当な魔術師だったらしい。
「
「いや、呼び捨てかい」
初めて自発的に口をひらいたシギュンに笑いながらツッコミを入れ……
「魔術師じゃないの」
目を伏せた。
「……俺は、違う」
「俺はただの特異体質だ。この痣のお陰でな」
小さな水溜まりで二匹の魚が乱舞する。
「木>>>火」
魚一匹に体内の水を注ぐと、薪が弾けて火の勢いが増した。
「土>>>水」
魚二匹に体内の水を注ぐと、土が蠕動し地中から水が噴水のように湧き出した。
トリガーは水。
魚相手だから当然と言えば当然だが、
シギュンが不快そうにデコピンすると慌てて
自由なやつだ。
「俺を拾った組織もこの体質を物珍しがってくれてな。ろくな組織じゃなかったけど……ま、それまで糞の掃き溜めから飯探すような地獄だったんだ。抜け出した先でなんでもするさ」
「……」
「実際なんでもやったしな」
「……そう」
追加のブラックコーヒーを注ぐと、それきりシギュンはヘッドホンをはめて黙り込んだ。
少し休んで──
「────」
強烈な大地の精。異様な熱気。吹き上がる赤々とした呪力が大地の奥底からごうごうと渦巻いている。
莫大なエネルギーが鋼を精錬する溶鉱炉のごとく、人に仇なそうと虎口を開いているようだ。
決して人に支配されぬ大自然。いや、もとより
生物に過酷な地だ。
草木の根付く土は全ての生き物の源。だがアイスランドは絶え間ない火山活動によって燃やし尽くし、溶岩で固め、氷で覆い隠す。生き物は生き辛く淘汰を強いる。
火と氷にて死を招く。それが
今も眼前の火口から何人も寄せ付けぬ気高さと無慈悲さが、
眼下の赤熱する火口を目下ろしながら、じっとりと汗ばんだ手で『赤牛の書』をつきだす。
指輪物語では指輪を捨てるために数々の冒険があった。しかし
シギュンを拾い、ジョー・ベストと対峙したというハプニングはあったが……結局、特に苦労もなくたどり着いてしまった。
本をつきだし、そして火口へ放りこむ。
簡単だった。
放物線を描いてマグマへと落ちていった神具は──赤熱する溶岩のなかで
「──嫌な感じ……」
シギュンがヘッドホンを抑えて小さく零す。
「──あは」
童女が笑った。
「ホントに壊したんだ」
嗤うように。嘆くように。厭うように。
「愚か。愚か。"愚者の申し子"は伊達じゃないわね。止めようと思えば止められたのにね……くふふ、神殺しに着いていけば……って思ったけど……」
カンテラを揺らす。髪から伸びる、蛇を腕に巻きながら。
「まつろわぬ神と神殺し──出会い、縁生まれれば、やることはひとつだものね」
ゆえに刮目するとしよう。比類なき愚者の猛りを。
──肩に一羽の
「は?」
音も、気配もなく。忍び寄る"死"を思わせる唐突さで鴉が肩口に小休止していた。慌てて振り払い、辺りを見回すと……。
──地獄があった。
鴉。鴉。鴉。鴉。鴉。鴉────
夥しい数の鴉が
一体今までどこに潜んでいたというのか。いや、潜んでいたという規模ではない。虚空から、影から、闇から這い出てて飛翔してきたとしか思えない唐突さと数の暴力。
──轟ッ。
──轟ッ。
黒と赤の膨大な呪力が、ラキ火山の火口から噴き上がる。
夜の帳のごとく穹を覆う漆黒の鴉たちと、水蒸気爆発のごとく天高く噴き上がった呪力は、やがて一点に集中した。
『────』
鴉の翼が聖堂内のモザイクさながらに荘厳な女かんばせを形成し、火口から噴き上ったマグマが灼熱する赤髪を織り成す。
それも一瞬のこと。
夢幻だったかと錯覚するほど容易く、鴉とマグマは解け……やがて静謐を得た。
「来る」
シギュンが呟き、聞き返そうとした瞬間。
無音の支配する空間で──
「「「キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!」」」
姦しい声が響いた。
不死の領域にあるべき女が、地上への来訪を告げた。
赤き有翼の烈女だった。
真っ赤な赤髪に尖った耳。血のように赤黒いドレスに、もうもうと烟る煙じみた灰のマント。
ベルトを巻いた柳腰には、おぞましいほど鋭光輝く二枚の"刃"を佩いていた。いや、違う。あれは刃と見紛うほどの一対の翼。陽光を受けて輝く濡れ羽色の"翼"なのだ。
そして最も異様なのはその眼球。
ぎょろ。ぎょろ。ぎょろ。一つの目玉のなかに
完全無欠の美貌ゆえにその異形はひどく目立つ。純白の紙に墨を飛び散らせたような違和感があった。
血色の女神から同口異音──一つの口から、三重の言葉が吐き出される。
「我、この世に生を得たるは烈愛する至高の英雄がため」
鳥葬の喪主が言う。
「ゆえに果てなき英雄への一歩を生み出しましょう」
瞬足の死神が言う。
「我が千里の旅路の始まりに、若人よ」
夢魔の大女王が言う。
「「「我が手づから──"褒美"を取らせましょう」」」
三位一体の姦神が告げた。
「え」
刹那。
バシュ、と遅れて小気味良い音が聞こえた。
ぐるり、ぐるり。世界が暗転する。血圧が異常に低下し、意識が吹き飛ぶ。
そうか、俺は、
──