「なにしてるの」
「……あ?」
反射的に返事をしたのすら遅ればせながら気づいた。次いで、首を切り飛ばされた事も。
「いやいやいやおかしいおかしい…………」
もちろんデュラハンでも飛頭蛮でもないから死ぬべき。だが意識があるなら生きている。
……と思うのだが確信が持てない。
混乱の渦中にある
「うおっなんだ、浮いて……っ」
ぐらりと視界が歪み、重力を感じる。体が
シギュンに片耳をつままれて生首となった自分を運んでいるのだ。
「お、俺の身体だ……、うそ、だろ……」
絶句する
「ん、これでいい?」
胴体と繋がった。ちょっと右寄りだが。
指先が
生きている。生きている。だけどちっとも嬉しくない。気持ち悪い。
こんなの、間違っている!
「「「ふふふふふ」」」
女神が笑う。
少女のようで、妙齢の女のようで、老女のような三相の女神は笑い続ける。
蟻の前に砂糖でも落として
笑い声が続くほど地面が蠕動する。母の帰りを心待ちにしていた幼子が咽び泣いているのだ。
そうか。
そうだ。
あれは。あれは。
──まつろわぬ大地母神なのだ!
あまねく全ての地盤たる女神の来臨に呼応して、眷属たる大地が揺れ、地に眠る熔岩が猛っている。地表がひび割れ、赤々とした灼熱が噴き上がる。
血の気が引いた。
知識としては知っていた。世には神が現れるのだと。神が。これほどとは思わなかった。そうだそれが分かったなら捧げなければ。女神へと。
──血を。
女神に血を。
血だ! 血を大地に染み込ませ、死肉を鴉へ! 不滅なる魂を母なる御元へ返さねば!
ここに剣さえあれば地面に直立させ、飛び降りて見せるのに!
思考が汚染されていく。
これが神! まつろわぬ神!
現れるだけで人を狂わす自儘に世を狂わす狂いきった神! 卑賤なる我らなどその眼窩に映し出される栄誉の極みだ!
ゆえに称揚せよ!
俺が先駆けとなり戦場を生み出さねば! 捧げ物で我らが母を饗応せねば! 血だ! 死肉だ! 同胞の死骸を戦車で引き潰し、敵の血と肉の袋を暴いて!
戦場に花咲く彼女こそ──
「──
シギュンが呟いた。
「たぶん、あれの名前」
バズヴ。
ケルト神話の女神一覧にそんな名前があったような気がする。鴉を意味する戦女神だと。
いや、それよりも。
「お、俺は一体何を叫んでいたんだ……?」
思考が狂気に犯されていた。
初めて邂逅した理外の超越者へ、混乱どころではない醜態を晒していた。
当たり前だ。正真正銘の神と対峙しているのだ。青ざめて無駄にデカイ身体を縮こまらせて震えるしかなかった。
それなのに。
──鮮烈で、清冽で、苛烈な女神を前にしても普段と変わらないシギュンの態度は異様だった。
「我が名を看破する良き瞳のドルイダスがいると思いましたが……望外の邂逅ですね。よもや地上に現れてそうそうに当代の
断じられた女神はうっそりと微笑み、慈愛を秘めた表情で感嘆した。その目に宿るのは興奮と愉悦。食欲旺盛な鳥獣が獲物を見つけた胡乱な目。
「神……殺し?」
神殺し、つまりカンピオーネと言ったのか。あの女神は?
確かに神は地上に現れる。まつろわぬ神という形と名をえて地上を彷徨う。現実という手の届く場所に、触れられる場所にいるなら、寸毫の可能性だが殺めることはできるのかもしれない。
だが夢物語だ。信じられない。それがよもや短くとも旅の侶伴だったなどと。
シギュンを見れば、一目瞭然だった。
まつろわぬ女神の威容に欠片も怯むことなく、それどころか喉元から頬までが桜色に色付いている。
気味が悪いほど白い肌にその色味はいやに目立ち、口唇も零れる笑みを堪えるように強く引き結ばれていた。
「お前、か、神様が怖くないのかっ!?」
ヘッドホンをなんとか受け取って、押し抱きながら叫ぶ。
「あ、あんな神様と戦うつもりなのか!馬鹿げてるぞッ!?」
自殺願望者にしか見えないシギュンをなんとか翻意させようと叫ぶ。そしてやっと、シギュンはこちらへ視線を寄越して薄い口唇を開いた。
「──9回」
「へ?」
「あれがその気になってたら殺されてる」
なんて事ないように言った。
シギュンの首筋に大小合わせて九つの蚯蚓脹れがあった。いや、蚯蚓脹れにしてはあまりに鮮やかな横一文字。
傷痕なのだ。
シギュンが垣間見た戦女神の太刀筋なのだ──降りかかる死の予見なのだ!
反射で叫んだ。
「お、お前っ馬鹿!!」
「だったら尚更だろ、死ぬぞ! 逃げよう!」
「なっ、逃がしてくれないなら……頭下げて、下げまくって、見逃してくださいもう許してくださいってお願いしたら許してくれるはずだから!!!」
へろへろの腰に喝を入れてシギュンの腕を取る。ちょっと前に抱えたときは羽を思わせる軽さだったのに、今のシギュンは小動ぎもしない。
不動なる泰山か、八千代に苔むす厳さながらだ。
シギュンは頬を上気させて首を傾げた。
「どうして?」
「どうして私が死ぬの?」
冷たい。
手を取ったシギュンの手が冷たい。
頬は赤く高揚しているのに、酷く冷たかった。
死体の冷たさだった。
「うふふふ。"
「少女なれど心地よい戦士の在り方。好ましいの一言に尽きます」
「我が英雄を求める旅路のはじまりを神殺しの血で彩り、神殺しの首を手土産にするのも一興ですか」
まつろわぬバズヴはにこりと擬音が付きそうなほど素晴らしい笑みで称える。まさに彼岸に咲く朱色の花の笑み。
「悪趣味……」
それに対し、シギュンの歯に着せない。何を考ているのか見透かせない無を浮かべている。
変わらないのだ。女神と相対しようと自然体なのだ。
シギュンが遠い存在に見える。
きっと。まつろわぬ神と同じ、いと高き高座まで離れてしまった。
「なんなんだ……コイツら……? お前らおかしいだろ……イカれてる、イカれてるぞ」
「……人間じゃねぇ……」
ああ、そうか。
こいつらは姿形が一緒でも、似て非なるバケモンなんだ。人間や生物の理から外れた森羅万象の上にある……理解不可能な怪物なのだ。
こんな奴らと一緒の居てはいけない。
まともな人間がこんな場所に居てはおかしくなってしまう。狂い咲く花々に魅入られ狂ってしまう。
──聞こえてしまった。
「……?」
大きな目をぱちくりと瞬かせて、どうしてそんな事を言うのか分からないという風に。
──
姦しい三羽烏が囃し立てる。三相の女神が
──
「な、なんだよぉ! なんだってんだよ!!!」
女神の哄笑をふりはらうように腕を振って錯乱する。それでも声は聞こえてくる。シギュンの困惑した視線は衰えない。
バズヴが口笛を吹いて天空を漆黒に染めあげる鴉を呼んだ。掲げた指先に、一羽の黒い鴉が止まる。
太陽の光が、濡れ羽色の羽を反照する。抜き身の刃のごとくに。
「まつろわぬ身たる私が人間ではない?」
「あはは。エリンに刻まれた赤枝騎士の肩口に止まる鴉を、大地の主権たるまつろわぬいにしえの夢魔の女王を、死を叫ぶ垂れた乳房の老婆を……"人"と呼ぶとは終ぞ知りませんでした」
「──……そして、分からないのですか?」
慈しみに満ち満ちた貴婦人の微笑だった。
「
──黒光一閃。
その閃きは烈婦のそれ。鴉の一羽が鏃となって、狙い違わず
「ひっ」
喉がなったのは痛みや恐怖からではない。
皮膚を貫通し肉を穿って心臓に穴が空いたのに、血が出ない。水しか出なかったからだ。
喉から何かがせり上がり吐いたのは、吐瀉物でも血でもない。水だったからだ。
遅れて悟った。
──俺は"死"を取り上げられたのだ!
バズヴは死の具現だ。
戦士の死を予言する妖精バンシーの源流たる戦女神。戦場で戦士に死を告げる不吉なる預言者。
故に。
定命なる者から死を取り上げるなど造作もない。
止まらない嘔吐きに膝をついて水を零す。穴の空いた心臓からドバドバと水が吹き出す。
なのに生命が消えない。
「おえっ、なんだよぉこれ……っ。き、気持ち悪い……ッ」
不死とは福音なのか? 定められた死から外れることは幸福なのか?
そんなはずがない。
暗くて狭い──肉の檻に永劫閉じ込められるなど! もう土に還ることも、もう天に還ることも叶わないなどと!
「うぁっ……!!!」
「うわああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああぁぁあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああぁぁあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああぁぁあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああぁぁあ!!!!!!!!!」
混乱の極致に達した
それも仕方がない。
彼は偶然神を招来してしまったとはいえ、命知らずではない。生粋の戦士でも、王者でもなく。
ただそこに居合わせただけの、臆病さもちゃんと持ち合わせた、少し特異なだけの人なのだから。
「──くふ。
「ああですが、男は振り返らぬくらいが丁度良い。こちらへくずおらせる楽しみがふえるというもの」
「我が英雄もそうでした。最後には"
先達が後進にアドバイスを送るような慈愛を込めた華やかな笑みでシギュンに語りかける。
相変わらず独善的で、相手の言い分など一切介するつもりのない仕草。
だがそれでいい。不遜、傲慢。大変結構。
まつろわぬ神の在り方はそうでなければ。
自尊心、プライド、矜恃。
それらが成層圏を貫くほど堆く積み上がれば彼らは力を増し強大となれる。
何人も犯せぬ狂いきった神こそまつろわぬ神なれば。
そして。
まつろわぬ女神の吐息が白く
驕慢に満ちた熾烈な女神の炯眼が、ゆっくりと、眇められる。
神の吐息だ。昏い昏い、寒々しい冥府神の吐息だ。
人が吐く息とはまったく違う。なのに人のそれと同じように白く色付いている。
慈愛に満ちた母の微笑から、夥しい血に酔う殺戮神の表情で縁取られていく。
合図はなかった。
──灼。
大地が張り裂ける。
ラカギガル火口列が赤熱に染まる。地表が破れ"熔岩"が吹き飛ぶ。
──翳。
太陽に雲がかかる。
ラキの大地に大いなる影が差す。赤々とした熔岩に"雪"が降り積もる。
カンピオーネとまつろわぬ神に従属する呪力が制空圏を奪い合い、擦れ合い、異常気象を誘発している。黒と緑の火山に、熔岩の赤と氷雪の白がぶちまけられる。
法衣じみて目深にかぶったフードのその奥。
まつろわぬバズヴの炯なる瞳は、神殺しの眼光に、
「嫌い」
シギュンの赤みが増した頬に霜が降る。
カンピオーネは総じて無尽蔵の呪力を秘めることによりあらゆる魔術を無効化する。生半可な神の一撃すら無視しうる
ならばこの霜のみなもとはカンピオーネが発する権能。弑逆した神から簒奪した権能の氷山の一角。
「勝手に早くなる心臓も。逸る血も。沸き立つ心も。全部。全部、私から離れてる……」
苛立ちに満ちた声の主の頭蓋には、様々な単語が乱れ飛ぶ。
8世紀に作成されたラテン語写本に残る"3つのモリガン"という単語が彼女たちの最古の記述である。
バズヴは「鴉」を意味する。
ケルト神話で登場する鳥のその多くが大いなる女神の化身であり、白鳥などの水鳥はその好例である。
鴉もまた
死肉を貪り、天空へと飛翔する鴉は、魂の不滅と死からの復活を基層的に持つケルトの人間たちに取って死の象徴であり、聖なる象徴であった……。
「うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい……」
それに、この雑音。
「本当に、鬱陶しい……!」
「眠れよ子らよ。幼いあなたたちの柔き足では、凍れる大地はまだ早く、そして痛い──」
「!」
シギュンの唄いあげる祝詞に、まつろわぬバズヴ反応した。
中空を滑降する鴉たちを無数の鏃へと変化させ、箭の雨を生成する。必死を目前としながらもシギュンは気怠げで微動だにしない。
なぜなら。
──シギュン・ビョルンストライドはカンピオーネである。
世に仇なすまつろわぬ神を弑逆せし『王』の末席を穢す戦士。愚者の神エピメテウスと魔女パンドラが世に落とした忌み子どもの一人。
人類最後の藩屏たるカンピオーネは強靭にして剛健。須らくそうでなければならない。でなければ野垂れ死ぬ修羅界の示現。
しかしシギュンは他のカンピオーネと比して貧弱だ。
戴冠する王冠の多くが、大きすぎ、重すぎ、そして似合わない。
戦場に似つかわしくない嫋やかなる乙女。
人類を背負って立つには、か細き身体には頼りなく。
世を導くにはその身の上は軽すぎる。
──だが『王』は王であるがゆえに王冠を戴く。
シギュンもまた諦観とともに王冠を被った。
黄金でも、白銀でも、螺鈿でも、鍍金でも。ましてや
莫大な呪力が弾け飛び、シギュンが聖句を口遊む。
振り積もった雪上に数え切れないほどの"ᛁ"──縦線の形をした秘文字が浮かび上がる。
「汝:峻厳なる道の征服者。いつか巣立つ子供たちの道しるべ」
威がなく、軽く、安っぽい。がらんどうの王冠。
『王』が戴くにはチープすぎる。だが、それゆえにシギュン・ビョルンストライドは比類なく軽捷な『王』となれる。
──颯。
「なんと」
驚嘆が口から飛び出る。炯なる眼のバズヴが敵を見失った。
予備動作はなかったはずだ。
だがいない。どこにもいない。予兆も仕草も、女狩人の秘めやかな御業に覆い隠されたように、シギュンは淡雪じみて消え去った。
「「「うふ」」」
バズヴは欣喜雀躍と背の翼を広げた。蕩ける眦から熱烈をあらわす。
「戦場で敵を見失うなど如何ほどぶりでしょう! 侮りでした──なんと食いごたえある敵手か!」
バズヴは戦士の死肉を喰らって、天に舞う鴉の女王。戦場という広大な地平を見透かす、天上の俯瞰者。
敵を見失うなど天地がひっくり返ってもありえない。
なら天と地は
不可逆の逆縁を為した神殺しと相対しているのだという実感が湧く。
危険すぎる戦人。我が身が神話に謳われる真なる女神ならば、問答無用で首を落とすべき魔獣だ。
だが面白い。
浮かべるのは陶酔。敵への尽きせぬ感謝。殺意の火花。
戦場で身の危険を感じるなど如何程ぶりか。
血に飢え、死を告げ、殺戮しかできぬ無敵の不死神が危機に陥ることなど数える程しかない。
一対二枚の翼で空へと飛翔し、好戦的で抜け目ない双眸が戦場を一巡する。
だが捉え切れない。
気配はあるのに、姿を見通せない。
やがて。
「──いずれ目覚める子供たちのために」
妙なる調べは地上から。
偉大なる母が子に捧ぐ、寿ぎの
まつろわぬ神は、神であるがゆえに言霊を無視できない。
「透明な肌のあなたたちの指先では
バズヴはついに白き小公女の姿を視界に収めた。
ラキの大地を行き交う雲の影。
その影のなかで神殺しが立ち尽くしていた。見失った瞬間から、指先ひとつ動いていない姿で。
そしてバズヴは幻視した。
息をひそめて獲物を見定める……寡黙なる狩人の姿を!
「汝:凍てつく大地に生い茂る恩寵。子らに牙向く
「──ッ!?」
まつろわぬバズヴの胸を、姿なき透明の矢が穿った。
直後。
水平な翼が傾ぎ、鴉の女神は堕天した。
まつろわぬ神とカンピオーネの戦い書くの久しぶりやなって笑ってたら4年ぶりで真顔になるなどした。