氷島の王より両儀は生じて   作:につけ丸

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008:ノインデン・ウラド

「…………はあっ、はあっ……」

 

 肩で息をする。

 シギュンは疲弊の極みにあった。

 ただ疲弊しているわけではない。

 

 ……夥しい数の女神のしもべを対価として、だ。

 

 赤く染まっていたはずのラキ火山は今や黒一色。モリグナの下僕たる鴉の死骸が至るところに転がっていた。

 数十、数百ではきかない。幾万、幾千万を超えて億兆の死骸が積み重なる。

 

「……ごほっ」

 

 咳き込んだ喉から血が噴出する。

 億千万をカラスを屠殺し続けた代償。聖句を歌いすぎて喉が張り裂け、気管に粘性を帯びた血が絡む。

 

 カンピオーネの治癒力は異常極まる。頑丈さには定評があるはずのカンピオーネの身体が悲鳴をあげている。

 喉は裂け、肺は破れ、息が詰まる。

 

 それでも──鴉どもをすべて殺せたわけではない。

 漆黒の鴉たちはまだまだいる。あれら総てが女神の眷属にして鏃。カンピオーネの肉体すら傷つける疾風の刃翼である。

 

 損傷に対して追いつかないほどの物量戦。

 物量とはそれだけで脅威だ。

 尽きせぬ漆黒の嵐はどれだけ奮戦しようとも終わりがない。

 

 

 そして。

 

 

 

 積み上がった鴉たちの墳墓に、玉座があった。

 カラスの死骸と骨で構築されたおぞましい玉座に女神が腰掛けていた。醜悪な玉座に似合わない美麗なアルカイックスマイルで疲弊したカンピオーネを見下ろした。

 

()()()()

 

 シギュンはその身に宿る権能で鴉を殺戮した。大したものである。人類の枠内では到底及ばない偉業と認めてもいい。

 

 だが億千万の鴉を従える鴉の女王(バズヴ・カタ)は死に絶えた鴉たちへ一厘も気をやることはない。感謝も、心痛も、興味も向けない。

 死にゆく者など気に止める必要はない。

 それどころか。

 

 モリグナ(バズヴ)は思う。喜ばしいことだ、と。

 

 殺戮の女神に、殺戮を捧げてくれるとは。

 これほどの捧げ物、有志以来はじめてだ。永生の女神ですら覚えのない椿事。

 死骸の玉座で悠然と口角を吊り上げる。

 

 やはり戦は良い。

 

 死力を尽くし、死に抗う様は何よりの好みだ。

 我が()()()をふり払おうとする幼子との戯れは楽しくて仕方がない。

 

 だがもう頃合だ。

 この祭りの終わりは見えた。

 霧は晴れてしまった。

 肩肘をつけて少し残念そうに右頬を指で叩く。

 

「楽しめましたよ神殺し。ですが……底は見えました」

 

 数十匹の生き残った鴉の一匹が指先に止まる。生き残った鴉たちには()()()()()()があった。

 モリグナ(バズヴ)の指先に止まった鴉は、耳を()()した個体。耳の聞こえないカラスのみ。

 

「あなたの"矢"は──"()()()()"ッ! 声の届くすべてを射殺す矢だったのですねっ!」

 

「くくっ、瞬足も靴任せ。矢すら口任せ! なんたる横着者(おうちゃくもの)でしょう! ですが……」

 

「もう聴き飽きました。その矢は耳にすれば必中と化す矢。ならば……私に耳は必要ありません」

 

 モリグナは双槍を掲げ──両耳を削り取った。

 音が消える。伝わるのは己の骨と猛った血流の音のみ。

 しかし耳を失ったとて問題は無い。

 我は神。絶対にして無謬。モリグナは間違えることがない──己こそが正義。正義の体現こそ己なのだから。

 ゆえに他人の言葉に耳を傾けたことなど、ありはしない。聴覚など初めから必要がなかった。

 

 

「────!」

 

「うふふふふ。神殺しよ、無駄なあがきです。あなたの矢はもう届かない!」

 

 口を動かし、言霊の矢が飛来するが──モリグナの肌の上を滑って通り過ぎていく。耳にすれば突き刺さる矢は、耳にしなければ届かない。

 

 お遊びは終わった。モリグナを"多少"本気にさせてしまったのだ。天上の神々という──同位階の女神を屠った人間に、腰を据える程度には本気になった。

 

 瞬間、シギュンは絶体絶命の危機に瀕した。

 

 ──シギュンのまつろわぬ神から簒奪した権能《雪靴の小公女(öndur dóttir konungs)》は、"言霊の矢"以外の攻撃手段がない。

 スキーの女神として称えられる北欧神話の女神スカジから簒奪したこの権能は、簡単に言えばシギュンを雪中の狩人とする権能だ。

 

 雪山を軽快に駆け(イース)獲物の足を鈍らせ(ハガル)矢で仕留める(エイワズ)。この三矢の異能によってシギュンを神を狩る狩人たらしめる権能。

 

 剣王と呼ばれる『王』のこの世のすべてを切り伏せる権能や、大巨狼に変貌したり十個の必殺技を与えるような……白兵戦に特化した権能ではない。

 

 矢が届かければ弓兵はただの人となる。それは神殺しの戦士ですら変えようのない事実。

 シギュンは、無表情から一転して険しく眉を寄せた。焦燥が浮かぶ。

 

 手も足も出なくなったシギュンに、モリグナが嗤う。大きく背の翼を広げて、跳躍とともに空へと駆け上る。

 その様をシギュンはただただ見送る他なかった。

 飛翔は止まらず、空中を突き抜け、雲を突き破り、成層圏を超え、水平線が丸くなるほどに、高く、高く。

 

 女神は震わす空気もない宇宙で、言霊を謳った。

 

 

「「「滅びがゆえに。私は偽りに満ちた世界を見ることはないでしょう」」」

 

 

 天上から"声"が堕ちてきた。

 

 それは世界の終わりを預言した滅びの言霊。

 勝敗を決定づけた三柱による運命神の詔。トゥアハ・デ・ダナーンとともに戦った三相の女神(モリグナ)は敵軍に恐怖と混乱を振りまいた。

 

 霧の雲と、猛烈な火の雨によって。

 

 その神話が──顕現する。

 

 

 噴火の続くラカギガル火口列は、不思議なことに噴き上がった熔岩の一欠片として落ちてきていない。石ころの一個に至るまで、すべてが。

 

 何故か。

 

 天と地を統べる女神が、そうあれかし、と思ったからだ。

 

 だが……今は。

 

 

「「「花のない夏、ミルクのない朝。慎みのない女、志のない勇敢な男。王なき征服。幹のない森。産物のない海」」」

 

 

 朱に染まった雲と霧が女神となる。朱唇を開いて高らかに歌う。

 

 

「「「老人の誤った判決。弁護士の誤った判例。誰もが裏切り者!」」」

 

 

 星降りの厄災が、開幕する。

 宇宙から赤熱した流星が、無数に飛来する。その雪崩は止まることなくアイスランド全土を爆撃していく。

 

 

「「「息子は父親を欺き、娘は母を欺く。すべての息子が略奪者! 息子は父親のベッドに行き刃を突き立て、それぞれ兄妹は義理の兄妹。彼は家の外で女を求めない!」」」

 

 

 流星群が不動たる大地を殴打し、破き、砕く。外殻を破壊された地表に再びマグマが吹き荒れ、蠕動する鼓動がさらなる噴火を呼ぶ。

 

 猛烈な滅びへの疾駆。

 

 真下にホットスポットを抱え、海上に突き出た海嶺の島は、大地女神の言葉一つで崩壊寸前と化す。

 死に狂奔する赤き戦女神の猛りはラキ火山から空前絶後の大噴火を呼び込むだろう。そうなれば数百年前、大飢饉やフランス革命すら呼び起こした破滅の訪れだ。

 いや、今度はそれ以上の──。

 

 誰かが止めない限り、その厄災は起きる。

 狂乱する火山に静謐なる氷山でもぶつけない限り。狂った神へ、神殺しの魔王をぶつけない限り。

 

「生まれ落ちる子らのために──!」

 

「天高くゆらめく焔は(わざわい)。子らの時を止める禍々しい炎! 轟く館へ遠吠えする雪狼よ! かの天の火を追え! 輝く神を追い立てよ!」

 

 乱れ堕ちる流星群へ向けて、呪力を横溢させて権能を行使する。氷の色をしたがらんどうの目に火の矢を写しながら軽やかに聖句を歌う。

 

 人類最後の希望(エルピス)は、どこまでも反抗する。愚かしいまでの叛逆こそ、カンピオーネの精髄に刻まれた業なれば──! 

 

 

ハガル

 

 

「汝:天の火をさえぎる一列の雲。雨粒は(いと)しき子らへ流す、祈りの涙!」

 

 

 シギュンの足元と頭上から白の息吹が吹き荒れ、強襲する流星群へと激突する。

 轟、轟、轟。ボルテージを上げていく濃い赤に白い光が瞬く。呪力と神力がねじれ、赤々とした地獄が裂ける。

 

 マグマが急速に冷やされ黒々とした岩へと変わる。流星群が勢いを失い、浮力をまとい、音も立てずに地面に着地する。

 

 

「「「厄災の火の粉を払い、我が肉体すら傷つける極寒の呪い! ですが、その技は一度視ました」」」

 

 

 朱色の霧となったモリグナに悠然と見下ろされる。女神の息吹が雹の嵐を中和させていく。

 

「……っ」

 

「ふふ。途方に暮れているのが手によるように分かりますよ神殺し」

 

 人の身でありながら神を殺めた神殺しなれど、やはり地力の差は顕著だ。神話に裏打ちされた厚みはそうそう抜けない。

 膨張していたモリグナが霧を衣としながら人間サイズとなってシギュンの眼前に降り立った。

 隙だらけなのに打つ手のないシギュンはその一挙手一投足を止める術がない。

 

 モリグナはそのまま雄大な足取りでシギュンの目の前に立つと──指を揃えて、手を掲げた。

 鼠径部へと一直線に向かった手刀は狙い違わずずぶり。一種の刀剣じみた手刀が、シギュンの細い腹部に突き刺さる。

 

「くぅ、あっ……!」

 

 シギュンの苦悶を吐く。その声色は少女の高音のなかに官能があった。

 死には常に官能がある。それが女神の精神を泡立たせ、興奮を覚えた。

 そして女神は嗜虐的に嗤うだけで行為は止まらない。鼠径部の白い肌から侵入した指先が、薄い脂肪を引き裂き、やがて骨盤の真上に到達した。

 そこに納められた内臓は──子宮。

 親指、人差し指、中指、薬指、小指……五指がゆっくりと重ねられていくのを知覚する。

 

「うふ。お可愛いこと……男を知らぬおぼこの腟ではありませんか」

 

 神殺しの少女の白磁の面貌が、色を変える。屍蝋のように蒼白な顔色に変えた。無表情も相まって、屍の領域に入っている。

 優れた霊感のシギュンは女神の思惑を正確に察知した。してしまったのだ。

 

 死と暴力による恍惚の責め苦を。

 

 女神の指先が純潔なる乙女の子宮体をなぞりながら──呪詛を放った。カンピオーネは等しく膨大な魔力を秘める。

 それゆえ有象無象の魔術はもとよりまつろわぬ神の権能すら無効化する。しかしこの無敵の体質にも落とし穴がある。

 

「神殺しの肉体には呪詛が届きにくい。ですが……肉体内部に直接流し込んでしまえば話は別。神殺しの乙女よ、怒りと恥辱に震える地母神の恨み言をその腹に受けよ! いにしえの戦士たちを苦しめた"衰弱の呪い(Noínden Ulad)"よ、我が怨敵の最も苦しき窮地を彩るがいい!」

 

『赤牛の書』に綴られた物語。

 "襲撃(トーイン)"あるいは"クアルンゲ牛捕り"において敵軍の迫るアルスターで、死を恐れない戦士たちを九日間苦しめた産褥の呪い。

 孕めぬはずの男に出産の痛みを投げつけた恐るべき呪い。

 臨月の妊婦を辱め、やがて殺した、まつろわぬ女神の怒りの顕現。

 

 

 

「────────!!!」

 

 

 

 内臓が、裏返った。そう錯覚するほどの激烈な痛み。

 呪いという名の神威を孕んだ処女(おとめ)が絶叫する。

 

 痛みのみではない。肉体が蝕まれ、瞬く間に弱体化する。

 どんどんやせ細り、骨ばっていく。少ない脂肪が消え、アバラが浮き、頚椎の肉が削がれ頚椎が浮く。そこには死後、数日を迎えた少女の躯体があった。

 戦士としても狩人としても終わった身体。

 

 カンピオーネがまつろわぬ神の前に跪く。

 

「く、あっ……! っ……ぁぁぁああああああっ……!!!」

 

「あ、あ、あぁ……! その苦悶に満ちた秀麗な表情、たまりませんッ! パルテノスゲネシス、男を知らず精虫の受胎を覚えぬ乙女が産褥の痛みに震えるなど、なんという諧謔でしょうか!?」

 

 男を知らぬ処女(おとめ)では決して有り得ない痛み。聖書に綴られる受胎告知を受けた聖母でもなければ決して訪れない痛み。

 互いに相反する概念を無理やり癒着させる。因果を乱す。それが許されるのが天上のまつろわぬ神。

 

 しかし無敵の神でも、敵を侮らない。この魔獣は、追い詰められた時が一番恐ろしい。

 

「うふふふふ……」

 

 モリグナが哄笑し、愉悦に湧く──刹那。

 

「──求めるは報復! 呪詛>>>反転!」

 

 白と黒の二魚が地表を駆けた。地面に伏したシギュンの口元から侵入し、呪いが裏返る。

 

「これは……呪詛返し」

 

 つぶやくバズヴの下腹部にも激痛が走る。しかし女神は慣れたように不遜な姿勢を崩さなかった。

 死を孕み安らかな眠りについた生命のことごとくを腹に納める女神は今更そのような痛みなど痛痒にも介さない。

 それよりも。

 

「何用ですか不死者(アンデット)

 

 まつろわぬバズヴが無感動に視線を向ける。生まれたての小鹿のように足を震えさせながら立つ、夸父(コホ)へと。

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