『きゃはははははははははははははははははは!!!!!!!』
『La──、La、La────』
「はあっ! はあっ!」
背にかかる魑魅魍魎どもの奏でる魔曲を振りきるために
少しでも遠く、戦場から逃げ去りたかった。
家へ帰りたい。
涙ぐましく貯めた金でやっと拵えたベッドへと身体を横たえて、後ろに広がる悪夢をさっさと忘れて穏やかな眠りが欲しかった。
だが現実は非常だ。
『大地の精の煮汁を飲み、男に組み敷かれぬ女の烈々しさを思い出すがいい! 古き太母の威容を刻むがいい! 《鋼》に降り、剣に組みする土も水も、我が元へ還りたまえ!」
幾百万の鴉と赤々と燃える岩漿を従え、巨神となった戦女神が領域を支配していた。
水平線の先まで続く火山の列が、示しあせて真っ赤に染まる。宇宙まで舞い上がったマグマは重力に引かれる。
重力とは大地の力。ならばかの地母神の胎へと帰るのが道理。
──火閃く流星群が、アイスランドに着弾する。
それはアイスランドを逃げ出そうとする
「ぎぃ、……ああああああぁぁぁ!?」
でも死ねない。
半身が木っ端微塵になったのに身体も意識も無くならない。
血は消えても痛覚は存在する。感情は消えず、思考も曇らない。肉体を欠損しても、超再生する訳でも、細胞が勝手に動いて元に戻る訳でもない。
痛みに耐えながら砕けた身体を拾い集めていると──
『生まれ落ちる子らのために──』
──耳に馴染みにのある声が耳元へ届いた。
歌が聴こえる。
歌姫が。孤独な『王』が。シギュンが。
静かに独唱している。
「なんだよあれ……バケモンじゃないか……」
紅の女神の腹底で、白一点。
神出鬼没な白氷の『王』を、
フィギュアスケートの一幕のように白氷で白色の瞬光が駆け巡る。スポットライトのように。火花のように。閃めく鏃のように。
何者にも染まらぬ純白。
『王』は歌う。マグマと流星の乱れ飛ぶ地獄でさえ……まるで薄暗いBARで、人知れず静かに歌う無名のシンガーソングライターのように。
『天高くゆらめく焔は禍わざわい。子らの時を止める禍々しい炎! 轟く館へ遠吠えする雪狼よ! かの天の火を追え! 輝く神を追い立てよ!』
軽銀の安っぽい王冠を戴く小さき姫。
しかし。
少女もまた『王』──白氷に立つ乙女は臆さない。
気儘に振舞おうと、気だるさを隠さなくても。
人類唯一にして最後の藩屏たる戦士は──矢を番え、歌を捧げる。
誰にともなく。
己の意思で。
『汝:天の火をさえぎる一列の雲。
赤い流星群と白い雹がぶつかり合う。
女神の矯声と愚者の歌声は止む気配はない。
「怖ぇ……怖ぇよ。……なん、なんだ……あれ……!お、おっかしいだろ! なんであんなのがこの世に存在するんだ……」
ぶるぶる。かちかち。ぶるぶる。かちかち。
膝を抱えて、頭をぐしゃぐしゃに掻きむしるが恐怖が消えない。すくんだ足は動かず、歯の根は鳴り続ける。
「
知らなかった。自分のいる世界が、こんなおかしな世界だったなんて。
これなら邪術師の凄惨な儀式の後始末でもやっていた方が何倍もマシだ。血と脂、腐臭のなかで、それでも理解の及ぶものだった。
あれは。あれらは。
「
あれらは存在しちゃいけない。
人を不幸にする。
悪夢は夢の世界へ。
この世とは違う、他界へ戻らなくちゃいけない。
そうに決まってる
だから逃げた。気持ち悪さと恐ろしさで逃げたのだ。
でも。
それはストリートチルドレンからの鉄則。逃げた先に、楽園なんてありはしない。
「──君の嘆きは正当だ。しかし遥か昔から、この世はそのように決まってしまっている。私はとっくに諦めてしまったよ。そう"在る"のなら可否を論じて仕方がない。ならば、その労力をよりより今日のために使うべきと私は考える。君はどう思うかね、
「ジョ、ジョー・ベスト……!」
まつろわぬ神やカンピオーネの強大さは奇想天外すぎていまいち現実味なかった。しかしジョー・ベストに刻まれた生々しい血の通った恐怖は
怯える
「君は"神婚"を知っているかね。異類婚姻譚の一種でね、その言葉通り神と人が結婚し、子をなす物語をさす」
「な、なんの……話を。こ、こんな状況で……!」
「いいから聞きたまえ。……古代の世界では、よく物事を象徴的にとらえる。女性を畑のうね。そして男性を農具の鋤に」
それは生殖行為そのものだった。
大地に農具を突き立て、種を巻き、作物を芽吹かせる。どの時代、どの国でも、連想しては神話に加えた要素だった。
「君が滅ぼした神具『赤牛の書』はケルト神話のテキストだ。そしてケルトの
──むかしむかし。
男やもめの農夫のもとに女が訪ねてきた。
女はなにも言わずに農夫の家事をしてやり、褥をともにした。
やがて女は妊娠し、二人は結婚した。
ただ超常の力を宿した女で、馬より早く走れる瞬足だった。妻となった女はこの秘密を絶対に喋ってはいけないと夫となった農夫へと告げた。
その国で開かれた祭りで馬の競走があり、農夫はつい周囲に自慢して言ってしまった。
「自分の妻は馬より速く走れる」、と。
妊婦だったにも関わらず、その大会へと引きずり出された。
女は馬より早く駆けた。
だが無理の祟った女はそこで双子を産み、戦士たちを呪いながら死んだ。
「女の名をヴァハ」
「アルスターの首都エウィン・ヴァハの語源となり、死を叫ぶ女妖精バン・シーの源流とされる女神──ちょうどあそこにいる、まつろわぬ神だ」
厳格な面持ちで断じた。
「神婚の逸話が残るほど人に寄り添った神。いや、寄り添おうとした神でも……地上に現れれば本来の最も自由だった時代へと回帰しようとする。無慈悲な災害という姿へと」
「…………」
「狂っているな。間違っている。君が気持ち悪いと評したのもわかるとも。だが人は荒ぶるまつろわぬ神々へと生贄を差し出し、満足させ、なんとか生き残って来た。それを」
口元を引き結んで
「まつろわぬ神が地上に降臨する理由は謎につきる。だが今回ばかりはかの戦女神が降臨した理由は明確だ。──君が、呼び寄せたんだ」
ずん、と。
下腹に重いものが伸しかかった。
「私はSSIに所属する組織ではなく、正義を愛する一人の人間として君を裁く。──君をアメリカへと連れ戻し、法廷に引きづり出し、正義の鉄槌を下す。……我は捧ぐ。贄なるは仇なす敵の脛骨とウバメガシの榾木」
殺される!
恐怖に思考が白に染まる。予期した死が、感情を圧縮する。
生存欲求が、声を振り絞らせた。
「──求めるは
あれ?
死に抗うように反射的に術を放ち、強烈な異質な感覚をおぼえた。……思えば、まつろわぬバズヴに不死を与えられて術を使うのは初めてだった。
だからだろうか。
今まで
「なッ──ぐあっ!」
鉄風が、熟練の魔術師を打ち崩す。ジョー・ベストのスネに一条の太刀傷が生じる。
立っていられなくなったジョーが地面にくずおれる。転がる石に頭を打ち付け、額からドロドロと血を流す。ジョー・ベストほどの使い手なら有り得ない間抜けな失態だ。
「ぐ、ぅ」
見ている側が不安になるほど多くの血を零しながらジョーは
「……魅入られたな」
恐ろしいほど底冷えした声だった。
「昨日会った君は一介の魔術師相手にすら遅れをとるマフィアくずれでしかなかった。……だが今は違う。術の強烈さなら大騎士の位階にある。考えられる可能性はそう多くない。それほどの力の膨張は──魔性を秘めぬ限り不可能だ」
短期間でここまでの成長は不可能だ。
どんな魔術の天才でも、人である限り成長には限界がある。
──人の理屈では。
「
足を大きく負傷し這いつくばっている老黒人に脅威はないのに、
覗き込んでくる異様な目だったから。
──
「君には責任がある。曲がりなりにも神を招来してしまった。そしてその褒美に魔性の力を得てしまった。……力があるなら責任を果たすべきだ。罪科を償え。為すべきことをなしたまえ」
「せ、責任つったって! 俺に何ができるって言うんだッ!? あんなバケモノたちの戦いに割って入れるワケないだろうっ」
「言っておくが──例え人の身でまつろわぬ神を弑逆したカンピオーネは、"絶対"ではない」
「は? ンなワケないだろ……?」
人間の身で神を殺めたような連中だ。負ける通りが見つからない。
どうせ、なんでもかんでも上手くいく成功者だ。人生の勝者、勝ち組に違いない。シギュンだって。
「そうだよな……?」
「違う。カンピオーネは人から外れた『王』と呼べる戦士だが……やはり人の延長だ」
だから。
ジョーはピタリと
「
冷徹なようでいて、耐えがたい業腹さを隠しきれていない無表情でジョー・ベストは言った。
「役に立てる、と思い上がるな」
「そして」
「役に立たたない、とも思い上がるな」
奇っ怪な忠告だった。
だが夸父《コホ》は思い出した。
ジョー・ベストは《介添人》だ。
カンピオーネは『王』。不思議なカリスマを備えた彼らのもとには人が集まり、決まって実力者がそばに侍るようになる。まるで神と人とを繋ぐ、司祭や巫女のように。
その近侍するもの達の中でも特に抜きん出た実力者じぇ、人々は彼らを尊敬を込めて《介添人》の敬称を送った。
そんな彼が先達と言った。
それは、即ち──
「──なんなんだよ! 俺に、一体……
「…………」
ジョー・ベストからの返答はなかった。
老いた身体に傷と出血で消耗した彼は、呆気なく気を失ってしまった。
答えのない迷宮にでも迷いこんだ気分だった。
「くそ、くそ、くそっ……チクショウ……っ」
地団駄をふみ、癇癪を起こした子供さながらに悪態をつく。
呪いの言葉だ。
逃げ出そうとした一歩が、もう踏み出せなくなっていた。
だって分かってしまった。
やらかした事の大きさを。
責任は取らなきゃいけないことも。
死を奪われても恐怖は抱く。
足が怖気いて、震えが止まらない。
「怖いんだ……怖ぇよ。怖くて仕方ないんだ……」
でも身体は勝手に動く。
恐怖に涙を滲ませながら。
たどたどしい歩みは、やがて疾駆へと代わり──。