「すぅー……はぁー……」
深く、異国の地の空気を吸い込み、吐きだす。
晴れ渡る青空の下。ここ、夏のアスコットレース場ではまもなく行われるレースに出走するウマ娘がその時を今か今かと待っていた。
『格式ある英国レース。G1、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスに、日本のハーツクライが挑みます。ディープインパクトを破り、さらにドバイでも圧巻の走りを見せた彼女。ここでもその実力を見せてくれるのか』
英国レース。世界最古と言える歴史を持ち、その地で行われる重賞レースの格式の高さは言うまでもない。
そのG1レースが行われるレース場に、日本のウマ娘、ハーツクライが立っていた。その立ち姿に、『シルバーコレクター』や『善戦ウマ娘』と呼ばれた頃の面影は、もう見る影もない。
「……ふっ」
出走するウマ娘達を見回し、ハーツクライは軽く笑みをこぼす。
人数は6人。G1というのにたったのこの人数。これには日本と世界のレース事情の違いによるためだが、説明は省く。
「三強、か……そこまで評価されるとは、昔のアタシじゃ想像できなかったな」
かつての時代を思い返し、自嘲するように空を仰ぐ。
「凱旋門賞ウマ娘の『ハリケーンラン』。そしてイタリア王者の『エレクトロキューショニスト』。文句ねえ強敵だ、はっきり言ってレベルが違え……」
「だが」と一言発し、視線をゲートへと戻した彼女表情は、先ほどとは違う笑みを浮かべていた。
「相手が強ければ強いほど燃えるのがアタシだ!」
それは、まるで強大な山脈に挑む登山者のような、もしくは獲物を眼の前にした獣のような、獰猛で不敵な笑みであった。
その笑みを崩さぬまま、堂々とした足取りでゲートへと向かう。
『各ウマ娘、ゲートイン完了。体勢整いました』
「ふぅー……」
ゲートに入り、呼吸を整えてスタートの姿勢をとる。
スターターがやけにゆっくり見える……それほど彼女は集中していた。
『勝たなければいけないと語ったトレーナーの……日本の夢を乗せ、ハーツクライ―――』
ガコンッ、とゲートが開くと同時にすべてのウマ娘達が飛び出した。
『今スタートしました!好スタートは内で、1番のチェリーミックスが切って行きました。ハーツクライは今三番手で緩やかに下りながらストレートを流していきます』
先頭は最内のウマ娘が取り、ハーツクライはそれを見るような形で三番手を走る。
(チッ、ハナは取られたか……)
『チェリーミックス』。今回5番人気の彼女だが、ハーツクライは彼女に関してある情報を掴んでいた。
(これでエレクに有利な展開になるか……厄介だな)
そう、彼女はエレクトロキューショニストのペースメーカーとして、このレースを走っている。
彼女が先行することで、このレースの展開はややエレクトロキューショニストに有利になることだろう。
(だが、想定していなかったわけじゃない。だったらそれに合わせて調整すればいい)
スッと自身の脚勢を整え、ハーツクライは前を見据えながら追走する。
いつの間にか下りのストレートとコーナーが終わり、向こう正面に差し掛かる。
ここからは登りに入る。未だチェリーミックスが先頭を走り、その後ろをハリケーンラン、さらに順位を上げたエレクトロキューショニストが続く。ハーツクライは四、五番手に落とすも、いたって冷静に追走する。
まもなく最終コーナーが終わる。先頭を走っていたチェリーミックスのリードもなくなり、ハーツクライも順位を上げていく。
『ハーツクライはハリケーンランの外に併せていって今三番手を伺って直線コースに向かいました500m!』
「uuuuugh!!」
直線コースに入り、各ウマ娘がスパートを掛ける。先頭を走るチェリーミックスはもう一杯となり、その横をエレクトロキューショニストが並んでいった。
(オマエの献身、無駄にはしない。あとは、任せろ!!)
チラ、とチェリーミックスに一瞬だけ目線を向け、エレクトロキューショニストは踏み締める足に力を込める。
「さ、せるかあぁぁぁぁあ!!」
「Whats!?(何ッ!?)」
しかしその外からハーツクライが並んでくる。いや……!
『外から併せていった、ハーツクライ!一気に先頭に変わった!!』
かつての一気の末脚を彷彿とさせる豪脚で、ハーツクライはエレクトロキューショニストをかわして先頭に立つ。残り200m。
(しまった……!油断したわけじゃないが、これほどとは……だが!!)
ギリッと歯を噛み締め、エレクトロキューショニストもまた加速する。
(くっ……流石といったところか。だからこそ、負けたくねぇ!!)
バ体を寄せてくるエレクトロキューショニストに、ハーツクライも脚に力を込める。
「勝負だイタリア王者!!」
「Haaaaaahhh!!」
追いすがるエレクトロキューショニスト。逃げるハーツクライ。このまま二人のマッチレースになるかと思われた。
「Unfortunately, the inside is completely open.(生憎、内がガラ開きだ)」
「「ッ!?」」
しかし、エレクトロキューショニストが勝負を仕掛けるために開けた内から、ハリケーンランが飛び込んできた。
『内側からハリケーンラン!ハーツクライ耐えれるか!?』
一気にエレクトロキューショニストをかわしたハリケーンランは、そのままハーツクライをも捕らえるかという勢いだ。
(途中は上手く行かなかったが、最後まで脚を溜めた甲斐があったというものだ!)
(ハリケーンランまで……ここまでか……いや!!)
ネガティブな思考を振り払い、エレクトロキューショニストは前だけを見据えて脚を伸ばす。
『ハリケーンラン、ハーツクライ!二人が並んだ!!真ん中エレクトロキューショニストが再び伸びる!三人が並んだ横一線!!!』
「ハァっ……ハァっ!」
ついに上位人気三人が並ぶ。ハーツクライのリードはもう無い。ハリケーンランの伸びは凄まじく、エレクトロキューショニストも差し返してくる。
ハーツクライにとってはかなり厳しい、絶望的な状況だ。
(くっ!?脚が……それに……)
ハーツクライの顔が歪む。もはや彼女は限界と言ってもいい。しかしそれでも、彼女の思考は変わらない。
(だけど……そんなのは言い訳にすらならない。アタシは負けたくない、勝ちたい……いや)
歪んでいた表情が変わる。それは、かつてディープインパクトを破り、世界の強豪を相手に堂々逃げ切った時と同じ。
「アタシは……勝つ!!」
ハーツクライの走りが猛る。内のハリケーンラン、真ん中エレクトロキューショニスト、外からハーツクライ。もはや観客の目には、この三人しか映っていない。
(流石だ二人共……だが、凱旋門賞ウマ娘の誇りにかけて、一着は譲れない!!)
(負けられるか!祖国から離れ、世界で戦い続けてきた覚悟にかけて!!)
(ジャイアントキラーだなんだと呼ばれたが、そんなのはどうでもいい!!アタシは、この強い二人に勝ちたい!日本の……アタシの意地に賭けて!!)
ただの偶然か、その瞬間、三人の脚が同時にターフを蹴り、同時に前へと突き進んだ。
「Haaaaaaaaaahhhhhhh!!」
「Uuuuaaaaaaahhhhhhh!!」
「うぉぁぁぁぁああああ!!」
叫ぶ。三人が同時に叫ぶ。その咆哮は、脚音は、アスコットレース場全体を揺らし、見るものの心を揺さぶる。
残り100。
譲れない、負けられない、勝ちたい。各々の思いがターフの上で交差する。
観客も、実況も、音や空気さえも置き去りにして、三人は永く、短い距離を、駆け抜けた……。
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『ハリケーンランゴオォールイン!1着はハリケーンラン!2着にエレクトロキューショニスト!残念!!ハーツクライは3着!!』
激戦を制したのは、凱旋門賞ウマ娘ハリケーンランだった。2着には差し返したエレクトロキューショニストが入り、ハーツクライは3着に敗れた。
しかし、激戦による消耗は凄まじく、ゴール後エレクトロキューショニストは両手両膝をつき、ハリケーンランは内ラチへともたれ掛かり、ハーツクライもまた、ターフに大の字で寝転んでいた。
「ハァッ……ハァッ……負けちまったか」
荒い呼吸のまま、ハーツクライは空を見上げて独り言ちる。
「不思議なもんだ……全力で走ったからか、妙に清々しい気分だ……」
彼女の胸のうちは、自分でも驚いたほどスッキリしていた。
敗北したとはいえ、世界の強豪と権威ある舞台で全力を出し切り、堂々渡り合ったゆえか。
「ああ……でもやっぱ……」
そう呟き、ハーツクライは自身の顔に手を被せる。その隙間から、雫が垂れていったのに気づいたのは、彼女以外はいなかった。
「負けるのは……悔しいな……ちくしょう」