夢の終わりとも
枕元からビピピっと電子音が、何度も鳴り響く。
人様の睡眠を妨害する不届野郎は誰かと睨むと、その正体はデジタル目覚まし時計。
時刻は朝六時三十分。
学校があるのではやく起きろと、愛想なく鳴っている時計を止め、上体を起こして背伸びをする。
睡眠不足の飼い主に追い打ちをかける可愛げのない、目覚まし時計だよまったく。
アレから一週間経った。
習慣とは簡単にやめれないように、取り巻く環境が劇的に変化することはそうない。
家族には自責の念に駆られ、クラスメイトと親睦を深まることもなく現状維持。
日常も大して変わらない。放課後、
毎日のように足を運んでたんだ小僧が、一週間の内に3日も来なかったんだ。心境の変化が起きる出来事があったと見破られたことに疑問は持たなかった。
個人的な付き合いは司書さんが一番長い。数年間の付き合いは伊達じゃないってことよ。
意識が鮮明になってきたら、俄然として頭の中に響く煩い声を無視をして学校に向かう準備をする。
心変わりが原因なのか分からないが、独りじゃない時も聴こえるようになったので悪霊に取り憑かれている説が浮上してきた。
そしたら幽霊が一番付き合い長いことになるね。嫌だな……交友関係ぐらいは選ぶ権利あるだろう。
お祓いを真剣に考えるか。救えとか、力を使えとか語彙力ない悪霊(?)は迷惑極まりない。
姿を現したら塩ぶん投げてやるからな! 小学生の頃から付き纏われている怨み舐めんじゃねえぞ!
学生服に着替えて、鞄を手に取ってリビングへ。
変わり映えのしないリビング。自分以外の誰もいなくて、静かな空間だが前ほど嫌っていない。
単純と苦笑いすべきか、成長したと自画自賛すべきか。精神衛生上、成長したということにしとこう。
冷蔵庫から用意されていた朝食を取り出して、リビングのソファに座ってテレビの電源を付ける。
目的はもちろん、街で新たな行方不明者が出たかの情報収集。ここ最近頻度は減っていたりするが。
行方不明者が少なくなってきているのは、要するにシエル先輩が死者を順調に狩っているということ。このペースなら事態が解決する日も近いだろう。
解決すると彼女と別れることを考えると、なぜか胸が苦しくなってしまうが……気のせいだろう。
胸の痛みはともかく、幾つか思ったこともある。
ずっと自分のことで手一杯だったので頭が回らなかったが、吸血鬼にしては規模が小さくないか?
ニュースで行方不明が出るだけで、街の一部が崩落したりと物理的被害がまったくない。ビルが爆発したらガス爆発にすり替えられるとしても、その一件はニュースに大々的に取り上げられるはず。単に眷属を増やしている親元と、シエル先輩が邂逅しておらず戦闘に発展していないだけかもしれないが。
憶測では限界があるし、超能力を持ってること白状したわけだから
幾つか疑問点もある。真祖の姫も潜んでいるのか、魔術師らしき人物を暗躍している可能性もあるとか。
関わるつもりは毛頭ないけど、
「……ん?」
総耶区ではなく、修羅区に一変したことに頭を抱えてると、ポケットに入れていた携帯から着信音が。
交流関係の少なさから、滅多に連絡がくることはないというのに珍しいな。
セールスマンか、それとも迷惑電話か? 何にしても朝から連絡してくるなんていい度胸じゃないか。気分転換の一環で話し相手になってもらおう! お題は、テンション上がってきたで会話を成立できるかだ!
『——無事に繋がった! いやー! ごめんね! こんな朝早くから連絡を入れて! 僕のこと覚えてる——』
着信ボタンを押したら、セールスマンではなくまさかのオレオレ詐欺だったでござる。
つい反射的に切ってしまった。詐欺電話はちょっと予想してなかったからビックリしたよ……?
「……うわっ。また同じ番号だ」
さっきと同じ番号から連絡が入ってくる。問答無用で切ったのが気に入らなくて嫌がらせか?
なら、自称108個の特技を披露するしかあるまい! その技名はセルフ伝言メッセージ!
『——繋がった! いきなり切るなんて酷いじゃないかっ!?』
「この電話番号は、貴様のようなヘタレ様に対しては一切使用されていません。おかけになった電話番号を、もう一度そのちっこい脳味噌と節穴な目をお確かめの上に、クソ改めておかけ直しください。P.S、次かけてきたら、サンマ入りDHAパン食わせるぞクソ野郎」
『食べたら気絶しそうな気配がするねそれぇ!? というか僕のこと忘れたのかい!?』
「一人称僕の知り合い1人もいないんだよ! ボクボク詐欺するなら、選ぶ相手を間違えたな阿呆め!」
第一友人と呼べる、友人もいないんだよ馬鹿め! 詐欺をする人選をミスをしたんだよ!
……おかしいな。前が霞んで見えなくなってきた。詐欺を回避できたのにちっとも嬉しくない。
『うん! 記憶の片隅に捨てられてるっぽいね! 僕だよ! 僕! 2週間前に君たちに助けられた人! 財布を一緒に探してくれたじゃないか!』
「……あー。合った。合ったわ、そんな出来事」
必死に弁明する様ではなく、君たちを誰のことを指しているかで連鎖的に思い出す。
シエル先輩がお礼と主張して繁華街に出かけた時に、財布を落として困っていた情けそうな人か。
御礼をするとか言いながら、かれこれ2週間音沙汰なかったからすっかり頭から抜けてた。
『よかった! 思い出してくれたんだね! いやー! 警察に連絡されるんじゃないかってヒヤヒヤしたよ!』
「紛らわしい電話しないでくんない? 朝から詐欺師から連絡きて寿命が縮んだっすけど? 責任とってくれません?」
『いやいやいや!? 撃退する気満々だったよね!? クソ野郎とかいってたよね!?』
「気のせいじゃない? というか、朝から何の用っすか? 話し相手が欲しくて2週間ぶりに連絡入れたわけじゃないんでしょ?」
『そうだった! 本題なんだけど、君たち今日学校が終わったら時間あるかい? この前のお礼にスイーツを一緒にどうかなって』
「オレの方は問題ないっすよ。先輩は一度聞かないとわかんないっすね」
オレの方は放課後、特に用事はないので無問題。
図書館で司書さんと駄弁るか、シエル先輩の住んでいるアパートで一緒に夕食を食べるかの2択だし。
逆にシエル先輩はそんな素振りを全く見せないが、多忙だろうから聞くまでは分からない。
この前連絡が来たら教えるとも伝えてるし、都合が合えばいい返事を返してくれるはず。
「まぁ、放課後なったら連絡返しますよ」
『楽しみに待ってるよ! おっと! 人に呼ばれたからこれで失礼するね! 朝早くから連絡を入れてごめんね! それじゃあ、また後で!』
最初から最後まで慌ただしい連絡が終わる。
本当情けなさそうな人だったけど、白衣着てたし、医療関係に勤めてるから多忙なんだろうな。
「オレもそろそろ向かわないと」
空っぽになった食器を洗い場に浸す。先ほどの通話でほどよく時間も潰せたのでそろそろ向かおう。
自宅の窓が閉まっているのかを確認して、外に出て扉を施錠して目的地へと歩みを進める。
日常に大した変化は訪れていないが、一部変わったこともまた事実。
もう一度言うが交友関係は増えていない。しかし、とある人物と最近親睦が深まった。
目標地点——アパートまで辿り着くと、外で制服姿で待っているシエル先輩の姿。
受動的な生き方で何事にも中途半端な男が、自らの意思で行動をした末に手に入れた光景。
これまで想像すら付かなかった身に余る至福に、だらしなく頰が緩んでしまう。
シエル先輩は視線を感じからなのか、顔を此方に向けるとバッチリと目が合った。
「おはようございます。天王寺君」
「おはようございます。シエル先輩」
朝から暖かな笑顔を向けられるのなんて贅沢か。
日常で変わったことは、彼女と偶に朝一緒に登校する、そして夕食を食べることが追加された。
オレにとっての幸福の定義は彼女といること。
毎日は無理だし、タイミングが合った時でいいとお願いしたら考える素振りもなく彼女は頷いてくれた。
幸せを望んでいいと背中を押され、それを実行に移したというわけ。正真正銘自分が手に入れた幸せだ。
「偶には私の方からお迎えに伺ってもいいんですよ? というよりも、そうすべきかと思いませんか?」
「アンタ、頼まれてる側なのお忘れ? あと、迎えに行く方がバスから近いんだよ」
「むっ、理論武装ですか。たまに遠回りすると新しい発見や出来事があったりしますよ」
「新しい発見はしばらくパス。目の前にある幸せを心ゆくまで噛み締めたい気分なんでね」
本心を交えて軽口を叩くと、捻くれ者が素直に話すのが嬉しかったのか彼女はにこやかに笑う。
人前でおふざけの貴公子を装ってる時も、こんな風に理解してるって温かな眼差しを向けられるんだよ。
冗談八割、本音二割を混ぜるトーク力が、2人に通用していないのは結構致命的なんだよな。
シエル先輩除いて、あと1人は誰かって? そんなの赤い髪をした管理人以外いません。
「お話をしながら、バス停まで向かいましょうか」
「遅刻したら怒られますからね。無欠席はともかく、無遅刻は優等生として維持しときたいっす」
3年間無欠席はもう成し遂げられないので、3年間無遅刻の称号は意地でも獲得したい。
優等生って言葉を辞書で調べなさいと、脳内の司書さんから厳しい一言を貰ったが無視しよう。
あの人いい加減で無責任だから、学生時代は絶対問題児だったはずだぜ? オレの財布を賭けてもいい。
もし違ったら、あの人と今度外食行く時、全額奢ってやろうじゃないのウハハハハ!
「どうかしましたか?」
にやけていたのが顔に出ていたようで、シエル先輩には適当にはぐらかす。
不思議そうにしているシエル先輩と一緒に、通学路をのんびりした足取りでバス停へと向かった——
◇◇◇
あっという間に時間は過ぎて昼休み。
前日スーパーで、事前に惣菜パンを買っていたので購買へと向かう理由はない。缶コーヒーは、いまだ謎の部室へ寄る前に自動販売機で買いましょうかね。
「なんだよ。また、シエル先輩のところか?」
席から立ち上がると、それを見越していたかのように田中に声を掛けられる。
「名推理だな。頭が冴えてるじゃないか、タナカ君」
「ワトソンみたいなニュアンスで言うなよ。1週間前から登下校一緒で羨ましいご身分なこって」
「彼女持ちが嫌味なんて正気か?」
「クラスの男子の心を代弁してるだけだぜ?」
なんて都合のいい言い訳。クラスの男子の嫉妬と羨望の対象、君も含まれてるの自覚した方がいいぜ。
田中の言う通り、一週間前から偶にシエル先輩と登下校をしているから妬みの視線が多い多い。
直接なにかされたわけでもない。なんでアイツが? って悔しそうに睨んでくる、よくある展開。
居心地が多少悪い程度。死人の剥き出しの濁った目と視線が交えた時に比べれば全然怖くない。
「なーに? 天王寺は、またあの人のところに向かうワケ?」
そうこうしていたら今宮も合流。このクラスの男子の中で唯一嫉妬を向けてこない貴重な人材。
当人曰く、女子と登下校は羨ましいがシエル先輩はパスとのこと。
不真面目タイプ、というか不良に片足突っ込んでいるので本能的に苦手意識を抱いているのだろう。
「たまにはオレと食べようぜ? 最近、ハブられてオレってば淋しいのよ」
「悪いがパス。シエル先輩と先に約束したわけだから」
「俺も彼女と食べるからパス」
「かー! 田中も天王寺も友情に薄情すぎるって! あの日の熱い誓いはどうしたよ!?」
あの日の誓いってなんだよ。涙を流しながら熱弁されても、そんな記憶一切ないから怖いんだが。
田中と今宮との会話は適当に切り上げたいが、友情に飢えている今宮からどう逃げたものか。
「アンタら煩い。迷惑だから静かにしてくれない?」
タイミングが良いことに、我らがクラスの冷血お嬢様の西九条が冷たい眼差しで睨んでくる。それが癪に触ったのか、今宮の意識は彼女へと向けられる。
クラスの空気は凍るどころか、いつもの口喧嘩かと視線を一瞥した後何事もなかったように過ごす。
これもウチのクラスのちょっとした見世物。慣れ親しんだ日常の一部なので誰も止めはしない。
「オレらの友情を邪魔するの、いくら西九条だからって黙ってはいられないわけよ」
「そんなの知らないわよ。絆を深めたいなら他所でしてくれない?」
「ここがオレらのホームグラウンドなんだっての! なに? オレらの友情に嫉妬みたいな?」
「嫉妬? あり得ないから。約束を優先するのは当然でしょ? 友情を語るなら笑って見送りなさいよ」
西九条さんによる正論に、今宮の威勢が嘘のようになくなりは意気消沈する。
もっと粘れよと声援を送りそうになるが、それで立ち直られると更に遅くなるからいいや。
西九条に手を合わせて助かったと伝えたら、視線でさっさっと行きなさいと返ってきた。
その厚意に甘えよう。近いうち西九条に飲み物でも奢ろうかと考えながら教室を後にした。
◇◇◇
「失礼します」
「はい。お待ちしていました」
名称不明の部室、もとい空き教室へと入室すると先に来ていたシエル先輩が優しく迎えてくれる。
昼休み一緒に過ごすようになって、それなりに経つが彼女より早く此処に来れたの一度もないだよな。いったい、どのタイミングで足を運んでいるのやら。
彼女が事前に準備してくれた椅子へと腰を掛け、自動販売機で買った缶コーヒを渡す。
「毎度お馴染みの缶コーヒー。本日は購買部でなく、自動販売機産だけど」
「ありがとうございます。ついつい受け取ってしまいますが毎日渡さなくていいんですよ?」
「人によっては経済を回すタイミングがあるように、オレが出費を惜しまないタイミングが今なのさ」
これは必要経費。彼女の貴重な時間を一缶のコーヒーで買えるなら格安で惜しむ理由はない。
苦笑しながらも、理にはかなっていると納得してくれたようでそれ以上言われることはなかった。
封に包まれた惣菜パンを開けて、そのまま惣菜パンことカレーパンに齧り付く。
数日間一緒に夕食を食べ続けた影響か、好物がカレーへと変化しているような気がする。
お邪魔している立場だし、合法的にシエル先輩の手料理が食べられるのを考慮するとそれ一択な訳で。
まるでシエル先輩に染められているよう。これ、ちょっと、卑わいに聞こえるな……?
容姿端麗な彼女の手によって、彼女好みに染められるのをちょっと想像してみよう。
そう、例えば——
『——カレーを食べないと生きられない身体に染めちゃいます。まずはカレーを大好きになるところから。72時間カレーを食べさせてあげますね』
椅子に縛られたオレの前に、カレーを掬ったスプーンを片手に持ち晴れやかな笑顔のシエル先輩。
なんだろう。なんか違う。求めているのは、こう、思春期男子を刺激するような妄想のはずなのに。
72時間カレーを食べさせて貰えるのなら、胸焼けしそうなぐらいに胃と心は満たされそうだが。
「……アホくさ」
小さな独り言は幸いにも聞こえなかったようだ。
その場のテンションに身を任せるのは、睡眠不足という脳からの
放課後になったら自宅か、図書館のどっちかで仮眠をとった方が良さそう——
「——あっ。忘れてた」
早朝に例の男性から連絡あったと、シエル先輩に伝えるのを失念していた。
睡眠不足で若干頭が回っていないのと、朝一緒に登校できると浮かれていて記憶から抜け落ちてたな。
決して男の存在感が薄いが理由じゃない。うん。本当だよ。嘘じゃない。
「どうしました? まるで誰かとの約束を思い出したかのような顔をしていますよ。これは! 天王寺君が遂に誰かと出かけるということでしょうか!」
「なんで嬉しそうなんだよ。あー、違う違う。誰かと遊びに行くわけじゃない。アンタ、覚えてるか? 学校帰りに外食したの」
「もちろん覚えています。大切な思い出ですから」
さらっと大切なんて言わないでほしい。微笑んでいる顔を直視できなくて困るんだよ。
生暖かい視線を咳払いで誤魔化して、話が明後日の方向へと脱線しないように続ける。
「その時にさ出会った人がいたじゃん。財布失くして、頼りにならなそうな白衣を着た人がさ」
「天王寺君の中でその人の印象はやや気になりますが……もしや、その人からご連絡が?」
「そういうこと。朝に電話あってさ。今日の放課後時間あるかなって。オレは行けるって返事したけど、アンタは大丈夫かなってお誘い」
朝の件を伝えると彼女は眉を寄せる。
険しい顔は不快感によるものではなく、間が悪いと嘆いているように見えた。
「あー……都合が悪い?」
「そんなところです。どうしても外せない私用がありまして。その方とは繁華街で会う予定だったりしますか?」
「まだ決まってない。アンタの予定を聞いて、放課後折り返すって伝えて連絡切ったから。ただ、スイーツを一緒にどうかって誘われたから繁華街の確率が高いだろうな」
「まだ場所は未定と……その約束違う日に変更することできたりしませんか?」
そんなに甘いものを食べたいのか、っと揶揄おうとしたがそれは言葉にできず呑み込んでしまう。
予定が合わないことは珍しくない。
その時は申し訳なさそうに眉を落として彼女が謝罪して、「次の日一緒に過ごしましょう」と微笑みながら子供のような約束をしていつもは終わる。
だけど今日は違った。目の前にいるシエル先輩の目は何かを訴えるように真剣だった。
真面目な顔つきは学校の先輩ではなく、吸血鬼を狩る代行者として忠告をしていると悟ってしまう。
つまり今日繁華街で何かが起きる。それか繁華街で彼女が死徒を探すため巡回する。このどちらか。
「聞いてみないと分からない。仕事忙しいのか、朝から忙しそうにしてたからさ」
「二週間後に連絡が入るぐらいですからね。日を改めるのも難しいと考えておくべきでしょう」
「まぁ、暗くなる前に帰るつもりだから。繁華街の治安がどれだけ悪くても明るい時に喧嘩売ってくる奴はいないさ」
前向きに会おうと考えていることを、シエル先輩は驚いて目を大きくする。
彼女の反応は最もだ。オレのスタンスは変わっていないのは彼女は知っている。
オレとあの男の関係は一度出会っただけで、それに対して固執するような思入れもない。
街中で偶然すれ違ったらもしかしたら話しかけるかも知れない。細い糸で繋がっている薄い関係。赤の他人当然の相手だというのに、この約束を先延ばしにしたら二度と会えないような予感があった。
それだけは避けろと誰かが背中を押すようにに訴えられて、会うべきだと自分でも納得している。
「……わかりました。新たな出会いを私情で台無しにするわけにもいきませんから。ただし、遅くならないよう帰宅するよう心がけてください」
「ああ。約束するよ」
「破ったら針千本です。——それではコレお返しします」
どこからか取り出したのか、シエル先輩は机の上に十徳ナイフを丁寧に置く。
それはいつの間にか失くしていたモノ。体液操作を使う時に血を出すために使う護身用の道具。
「失くしたと思ってたのに……アンタが拾ってたのか?」
「はい。私たちが初めて出逢った場所で。天王寺君。もう一つ約束してください」
「もう一つ?」
「なにが有ろうと
光の消えた鋭い眼差しが、力を使えば死徒と同じ運命を辿ると、そう言われたような気がした。
「ほら、路地裏って暗くて危険じゃないですか。近道で踏み入れても転ばないように足元気をつけてくださいね」
それもほんの一瞬で代行者シエルではなく、ただのシエル先輩として小さく微笑んだ。
冗談で場を和ませることもできず曖昧に笑って誤魔化した。いいや、する余裕なんてなかった。
射抜くような視線で睨まれた時生きた心地がしなかった。代行者として看過できないモノだとハッキリと明言され、彼女が何者か知らないフリをしているのにそれすら見透かしていると思ってしまう。
改めて感じた。彼女とは敵対したくない。怖い。死にたくないし、なにより彼女に武器を向けたくない。
「天王寺君?」
「い、いや、気にしないでくれ。約束は守るから。破ったらカレー奢ります」
自分が抱いた感情に戸惑っていると、怪訝な顔を浮かべるものだから慌てて誤魔化してナイフをズボンのポケットにしまう。
敵わない相手なのは百も承知だ。だけど逃げることに特化すれば可能性はゼロじゃない。
寿命を代償に俊敏に特化すればあるいは。その時間稼ぎで戦う可能性があるってのに、まるで彼女とは戦いたくないと言ってるみたいじゃないか。
「カレーときましたか。その時は遠慮しないで食べちゃいますよ? 本当に食べちゃいますからね?」
「……お好きなように」
こっちの感情などお構いなしに、カレーに釣られた彼女は目を輝かせるので頷いてしまう。
口は災いの元。誤魔化すための冗談ですって、今更ながら言えない雰囲気。
まぁ、シエル先輩がカレーを食べて嬉しそうに笑うのを眺められるなら安いものか。