Fate/Grand Order、最高の物語ありがとうございました。
「……家の前か」
いつの間にか、自宅の前まで戻ってきていた。
繁華街の裏通りから、どうやってここまで戻ってきたのか、よく思い出せない。
バスに乗って返ってきたのか、それとも繁華街から住宅街まで歩いてきたのか。
どちらにしろ、住宅街までどうやって戻ってきたのかなんてどうでもいい。身体を早く温めたい。
「……寒いな」
降ってきた雨から身を守る道具は持っていなかったので、全身びしょ濡れで寒い。
服が肌に張り付いていて気持ち悪くて、靴も水が溜まっていて歩きにくい。体温を奪われ、このままだと明日に風邪を引いてもおかしくない。
横になりたい。何も考えたくない。
楽な体勢で頭を空っぽにできるなら、リビングだろうと私室だろうと何処だっていい。
身体を休める。それが最優先事項。他のことや、これからのことは一度寝てから考えよう。
身体を休める為に玄関の扉を引く。
水が溜まった靴を脱ぎ捨て、不快だった靴下も廊下に放り投げる。
濡れてる素足で私室に向かおうとしていたら、リビングから妙な音が聞こえてくる。
「……なんの音、だ? それに、なんだ、この匂い……」
ぐちゃぐちゃとなにかを咀嚼する音に、生臭い匂いがリビングと廊下を遮る扉から漏れてきている。
勘違いだと見過ごすわけには出来ない異臭。匂いに耐えきれず指で鼻を抑える。
リビングに誰かがいる。オレ以外の何者かが、この家に居るのは間違いない。
「……護身用になにか持っておくか? いや、十徳ナイフだけでいいか……」
書き換えたことを思い出す。
超人になって、まだ半日も経っていない。上手に手加減ができる自信は、生憎と持ち合わせてない。
泥棒に襲われ、抵抗のために殴ったら相手を殺してしまった、なんて事が起こるのが超人だ。
下手に道具を持つよりも、使い慣れた十徳ナイフと素手の方が穏便に済ませられるはず。
「…………ふうぅぅ。行くぞ」
十徳ナイフがポケットに入っていることを確認し、音を立てないようにリビングの扉を開ける。
「……なんだ、これ?」
扉を開けた先にあったのは——地獄だった。
飲んでいる途中で落としたのか、中身が零れている銀色の缶が床に転がっている。
溢れているジュースの汚れを塗り潰すかのように、床は真っ赤に染まっていた。
見慣れた女が、見慣れた男を食べていた。
渇いた喉を潤すため、空いたお腹を満たすため、目の前の豪華な料理を無我夢中に喰らっていた。
「な、なにしてるんだよ……」
目の前の事態が飲み込めず声をかけてしまった。まずいと咄嗟に口元を押さえるが、もう遅い。
動かない遺体を食べていた女はぴたりと止まり、声をした方にゆっくりと振り向いた。
2度と喋ることのない父親を食べているのは別人だと、抱いていた淡い期待は、その顔を見て粉々に打ち砕かれた。
振り向いた女——母親の口元は、子供が口まわりにソースを付けているように赤く染まっていた。
「———こた、ろう……?」
振り向いた先に息子がいることに、動揺を隠しきれない母親は震えた声でオレの名前を呼んだ。
「————っ」
声を出そうにも、母親の意識が残っていたことに衝撃を受けて出せなかった。これまでの
自分の母親は自我が残って人間を襲っている。出来の悪い悪夢でも、こんな悲劇は見せるものか。
「こたろう……っ! いま、今すぐ、ここから逃げなさい……っ」
「な、なに言ってるんだよ……?」
「わたし、おかしくなってるの……っ! あなたを、みてると、またおなかがすいちゃうの……っ! だいじな、むすこまで、おそいたくないの……っ!」
息を荒くし血走った目の母親は、食欲という本能を理性で押さえ込むように自分の腕に噛み付いた。
歯を立てて何度も何度も。腕から出血し、肉を食いちぎっても本能に抗う。
「……はやく、い”っ”て”、こた”ろう”……っ!」
呆然としていたが、懇願するような叫ぶ声によって現実に引き戻される。
そうだ。逃げるべきだ。異変に気づいて来るであろう
田中とは状況が違う。自分の中で譲れないものと、自我がなかったからあの時はやり遂げられたが、これは違う。
無理だ。
「……っ」
オレには殺せない、そう思っているのに身体は意思に反して膠着して動かせない。
逃げていいのか? 愛している息子を手に掛けたくないと、死に物狂いで抗っている人を見捨てて。
ここから去ればこの人の自我はきっと消える。これは我が子に対する無償の愛だから起きている奇跡だ。
意識が消えれば家から離れ、代行者が現れるまで人間を食べる怪物として暴れ狂い、ただの化け物として代行者によって殺されるだろう。
「……駄目だ。それだけは絶対に駄目だ」
それは許容できない。怪物として、処断されることだけは避けなければならない。
彼女が助からないとしても、死ぬ運命だとしても怪物ではなく、1人の母親として死なせるべきだ。
看取るのは代行者ではない。偽物でも、息子として育ててもらったオレが果たすべき責務だ。
やるか、やらないかじゃない。これはやらなきゃいけないことなんだよ。
「もう少しだけ耐えてくれ。いま楽にしてやるからさ……」
ポケットから十徳ナイフを取り出し、血が止まっていた傷跡を再びナイフで切り付ける。
田中の時と同じサイズの血の短刀を造る。慣れてきたのか裏通りの時よりも早く出来上がる。
「……こたろう。それ、は……う、ううん。ちがうわね、あなたにつたえなきゃいけない、ことばは……これじゃないわよね……」
突然と血を使って刃物を作り上げたのを目撃した彼女はそれ受け入れ、これから自分がどうなるのかを悟りながらも穏やかに笑った。
「——ありがとう、そしてごめんね。こたろう、愛してる」
「…………っ」
それが母親からの最後の遺言。涙を流し我が子に愛の言葉を伝えた母親の首に短刀を振り下ろした。
視界に広がる惨劇に呆然と立ち尽くす。持っていた短刀はすり抜けるように手元から落ちていく。
フローリングに染み渡っていく真っ赤な血。食い荒らされた遺体に、首と胴体が離れた遺体。
悪い夢だと瞼を閉じて目を開けても、地獄のような光景は変わらず現実だと残酷に叩きつけてくる。
「……ああ。つかれた」
もう休ませてくれ。こっちはどれだけ心身共に疲労が溜まっていると思ってるんだ。
一度横になろう。私室まで歩いて戻る気力はさっきので尽きてしまった。
「……よかった。ナイフはそのままか」
落としていたナイフを拾い上げ、切れ味の上がったナイフをそのまま首元に押し付ける。
超人になったにしろ2人の人間の首を刎ねたんだ。切れ味の実績としては充分すぎる。
後はこのまま腕を引け。そうすれば全てが終わる。何もかもから解放されて楽になれる。
だというのに———
「———なんで動かないんだよ!」
2人の命を奪ったはずの腕はぴくりとも動かない。
生きていたいと訴えるように鼓動が速くなり、次第に呼吸が浅くなっていく。自分の首を掻き切る覚悟は一向に決まらず、ナイフを持った手の震えが止まらず腕を動かすことが出来なかった。
「2人も殺したのに死ぬのが怖いのかよっ! ふざけるな……っ! ふざ、けるな……っ!」
生きることに執着している自分自身に腹が立って感情のままにナイフを床に投げ捨てる。
人間を辞めた身体の影響か、それとも元から壊れかけていたのか地面にぶつかった衝撃で柄が割れた。
長年使っていた物も感情に身を任せて壊したり、他人の命を正当性があると誤魔化して奪ったくせに、自ら命を断つことは出来ないなんてなんて醜悪か。
「生きていたところで待ってるのは破滅じゃないか! 何のためにそれまで生きろっていうんだよ……っ!」
未来は決まっている。オレは死ぬ。
寿命でもなく、事故でもなく人類か星の為に命を捧げなくてはならない。
人類史を焼却した獣と相対した時か、または1人の男の手によって白紙化された未来を取り戻すためか。
運命を知っていれば覚悟が決まるなんて大間違いだ。待っているのは深い嘆きと絶望だけだ。
「……どうして、こんなことになっちまったんだろうな」
答えがわかっているのに下らない自問自答をするのが馬鹿馬鹿しくて嗤ってしまう。
そんなのはあの日からだ。
本物の天王寺瑚太朗なら、友人を殺すことも家族を殺すような惨劇を引き起こすことはなかった。
そうだ、オレではなく本物なら———
「———そうか。人格を書き換えればいいんだ。方向性を決めれば恐らくはできるはずだ」
身体能力を上げるだけではない。知能を上げることも、毒が効かない身体になることも、それこそ樹木になることだって出来る。
命を削り不可能を可能へと変える、そんな無限の可能性を秘めている力の前に人格を書き換えるぐらい簡単だ。どうしてこれまで思い浮かばなかったのか。
「そうやって本物の人格を、それが無理でも限りなく彼に近い天王寺瑚太朗を引っ張ってくればいい。彼ならきっと上手くやれる、きっと成し遂げられるはずさ」
だってオレには無い。世界を取り戻す覚悟も、戦いに飛び込む度胸も、未来に託すような高潔も。
ポケットの中に何も入ってない奴が命を賭けて世界を救う大役なんて荷が重すぎる。
「……でも、人格を書き換えるってことは、今のオレは間違いなく消えるんだよな。多分、これまでの記憶とか……」
世界を背負うことから逃げる代償として妥当で文句の一つない。当然の報いと納得するさ。気になるのは記憶がどうなるのか。二重人格なら人格が替わってる時はその時の記憶がないと聞いたことはある。
「こればかりは一度やってみないと分からないか……残しておくべき情報は紙にでも遺しておけばどうにかなるさ。
これが最後になると考えれば未練や、後悔に襲われるがそれ以上に立っていることが苦しくて疲れた。
なんせ———残っていない。偽物に世界を救うため立ち上がる燃料なんて無いのだ。
天王寺瑚太朗には合った。覚えていないはずなのに魂に刻まれていた一つの約束が。
親愛も、友愛も、愛情を切り捨てでも果たしたかった想いと信念がオレには無い。無いのは当然だ、紛い物だから。天王寺瑚太朗の皮を被った偽物なのだ。
だから本物へと返却しよう。約束を果たし、世界を救い、ある少女たちの運命すら書き換えた男に。
「我が儘を言うなら助けになるよう記憶が———」
『———天王寺君』
向日葵のように微笑んで、苗字を呼ぶシエル先輩がまぶたに浮かぶ。
記憶に残ればいいという言葉は喉が詰まって出ることはなかった。彼の今後を考えたら記憶は残る方がいい。ロマニと関係があるのは絶対に役に立つ。
だというのに——
「———いやだ……渡したくない。
出逢って一緒に過ごしてきた記憶が蘇れば途端に胸が熱くなる。
わからない。どうして、そう思ったのか。考えてもわからない。
劇的な運命でもなくて、ただの偶然で勘違いから始まった出逢い。
頭を撫でてくれたことも、一緒にご飯を食べたことも、手を握ってくれたことも。
彼女の暖かな体温も、優しく微笑んでいる顔も、大事な
「———やはり此処に居ましたか。天王寺瑚太朗」
心のどこかで待ち望んでいた声が聞こえ、振り向くとそこには修道服を見に纏ったシエル先輩の姿。
名前を呼んだ声には感情が込められてなかった。それは身を案じているわけではない。彼女は先輩としてではなく、埋葬機関の代行者として現れたのだ。
「首を撥ね一撃ですか」
彼女は赤く染まったリビングを何が起きたのか探るよう一瞥する。
その間、オレは指一つ動かなかった。
身体を書き換え逃げるなんて発想はない、否、書き換えたところで逃げ切れないと本能が察している。
怪しい行動をすれば問答無用で殺すと射るような眼差しに辛うじて呼吸を繰り返す。
時間としては5分も経っていないのに、身体を縛る緊迫感に精神が限界が近い。
「此処に来る前に繁華街の裏通りである遺体を発見しました。死因は頸部の切断、それ以外の外傷は一切ありませんでした。そこにある一つの遺体と同様に———犯人は貴方ですね」
「……そうだ。オレが殺したよ」
「その潔さは評価しましょう。警告はしていました。天王寺瑚太朗、貴方を殺します。その力は個人が持つには
袖口から柄を取り出すと、無かったはずの刃が突然と生えてくる。
手に持っているものが命を刈り取る鎌、黒鍵だと理解するのに時間は掛からなかった。
シエルはオレが能力を使ったと確信を得ている。当然だ、普通の人間が短時間で首の切断なぞ不可能だ。
理不尽な判決に怒りは沸かない。寧ろ、当然の結果だと受け入れてすらいる。
彼女は冷徹だが非情じゃない。昼間に力を使えば見逃せなくなると親切な警告から予想はしていた。
それが現実になった。他でもない自分自身が選択をして生じた結果。互いの暗黙の了解は破られ彼女は代行者として仕事を熟すだけ。
仕事を果たそうとしているのを責めるのも恨むのもお門違いだ。
「これから殺されると宣告されたのに随分と落ち着いているんですね」
殺害予告を受けたのに取り乱さないオレの不自然な態度に彼女は眉を顰める。
疲弊して心が折れているんだ。リアクションを返せないのぐらいは見逃してほしい。
そもそも戦力差は絶望。用意周到で油断もしない相手にどうやって切り抜ければいい。現に黒鍵という過剰武装をしているのだから。
チャンスがあるなら一度だけ。
「沈黙ですか。逃げる機会でも探っているのですか? それとも時間稼ぎですか?」
「これでも混乱してるんだよ。喋るのも、反応を返すのも
「抵抗する意思もないと自白しますか。まるで裁かれること望む咎人ですね。……主の代理として懺悔は聞き入れましょう」
「懺悔よりも一つ質問があるんだけど。今宮と西九条はどうなったのか教えてくれよ。あの後どうなったのか気になっていてさ」
「彼らは無事ですよ。この地の
淡々と語るが2人の記憶を弄ることに思うところはあるのか、シエルは僅かに眉を顰める。
神秘を隠蔽する以上は仕方ない。最善の判断だ。
化け物になった同級生に追いかけられる
しばらくは記憶が戻らないか経過観察はするだろうが、始末するようなことはなくて安心した。
「そっか。ああ、残ってたしこりが1つなくなった。心置きなく横になって休めそうだ……」
「……首根に残っている血の跡は戦闘による負傷ではないのですか?」
「えっ? ……ああ。切れてはいたのか。気が付かなかった」
指摘されて初めて気付いた。皮膚は切っていたようで出血した痕跡は残っていたらしい。
無意識に体液操作を使って止血しているだろうから触って確認するまでもない。
「天王寺瑚太朗、一つ答えてください。自分の安穏をどうして手放したのか。なぜ自身の未来を捨ててまで"普通"を辞めたのですか」
「そこに"無駄"があったから」
「無駄があったから……?」
理解ができないと困惑している様子に鋼鉄の仮面から初めて感情を引き出したような気がした。
「オレは死んでも直らない自己保身の臆病者さ。2人を助けたのも特別な力がある使命感や正義感じゃない。それは一番理解してくれてるだろ?」
「同意を求められても迷惑です。……貴方の人間性について一定の理解はしていますが。それで? 先の発言と自虐にどのような繋がりあると?」
「そんな臆病者にも曲げられない信念があったんだよ。無駄を愛するって、信条が。それを捨てたらオレじゃない。あそこから逃げ出しても永遠に引き摺ることなってた。肉体は生きていても心が死んで負け犬以下の存在になっちまう」
「貴方にとって、あそこで起きた出来事は何よりも信念を優先すべきだったと。渇望していた安然を切り捨てでも」
「そうだよ。あの行いが
「最後まで捻くれた解答ですか。自分の首を絞める結果になっても友に降り掛かる悲劇を見逃せなかっただけ。つくづく素直じゃないお人好しですね」
「そんなのじゃない。ただの意地さ。男の子にはあるんだよ、意地ってやつが」
その意地を張って無駄を愛して最期を迎える。他人からすれば不可解に映ろうとも上等な死に方だ。
「質問は答えた。あとはそっちの好きなタイミングでやってくれ」
「思い残す言葉はもうないと?」
「思い残すって云っても……あー、まぁ、2人ぐらい遺言はあるかな」
「今宮新と、西九条灯花にですか。可能な限りになりますが伝言ぐらいなら引き受けましょう」
「あー、その2人じゃなくてね。いや、その2人にも残しておいた方がいいのか。じゃあ、ついでに頼んだ」
呆れて言葉が出ない代わりに静かに息を吐くが、断られなかったので伝えてくれるだろうよ。
こんな状況じゃなければ寛大な心へ傾倒して信仰者として拝んでいたところだ。
「今宮と西九条はこの先も元気で過ごせって言っておいてくれ。今宮は羽目を外しすぎるなってのも追加。西九条は、まぁ、目つき悪いの気にしすぎるなってことで」
「今宮新は雑だと云うのに、西九条灯花には随分と気配りをするんですね」
「……なんか視線の棘が痛いが。他意はないよ」
2人に差があるのは日頃の態度を知る身としては仕方がない。
真面目な人と、日頃から羽目を外してる人の今後を心配するかは火を見るより明らかだ。
西九条は多分教師になるので、その時に目つきが鋭いことでちょっと苦労するしな。
今宮も超人じゃないので、将来どんな職業に就くか不明だがコミニケーション高いしどうにかなるだろ。
放課後遊びに誘って何度断られようと不貞腐れるが、めげずに誘ってくれた今宮なら大丈夫さ。
「ただの勘違いですよ。2人にはそれとなく伝えておきましょう。彼ら以外にもいるのでしょう?」
「この家から少し歩いた先に幽霊屋敷みたいな図書館がある。そこを管理してる、赤い髪の女の人に伝えてほしい。無駄を愛することが出来たってさ。あの人なら、それで伝わってくれる」
「曲げられない信念はその人からの啓発ですか。貴方の人生に彩りを与えたのが、その女性なのでしょうね」
「オレには勿体無いぐらい、最高の姉貴分だよ」
偶に外食をしたり、下らないことで口論することもあったり。学生らしく道草をしろと、呆れながらも最後まで見捨てないでくれた人。
司書さんと出逢わなければ、とっくの前に折れて今の人格は存在してなかっただろうな。
「長々と頼み込んだけど次で最後。その人学校の先輩でね、沢山世話になった。そう、たくさんだ。返し切れないぐらい色んなものをさ」
「……多くのものですか。仰ってる先輩と言う人がどのような人物か想像に過ぎませんが、その者の行いが、善意ではなく打算から生じたものだとしても、そう言えるのですか」
「すべてが偽りだろうと言える。一緒に過ごした日々は夢のように幸福で救われてたって」
初めは警戒していたが、今となってはそれすらも懐かしくて頰を緩めてしまいそう。
人生の歩き方を教えてくれたのが司書さんなら、シエル先輩は幸福を与えてくれた人。
毎日が窮屈で息苦しくて、明日を迎えることが苦痛だった男が明日に希望を見出して追い求めた。
シエル先輩と過ごす、楽しくて幸せな日々をポケットの中に詰め込みたくて———。
「だから伝えるよ。———ありがとう。アンタと一緒にいた時間は人生の中で一番幸せだった」
最後に笑いながら本音を伝えられた。幸福な時間を思い出しながら瞼を閉じる。
罪人として刑が執行されるのを待つだけ。断罪の刃がこの身を塵も残さず消滅するだろう。
「…………」
彼女は靴を鳴らして無言で近づいてくる。
超人として鋭くなった感覚で、代行者はオレの前で止まっていることがわかる。
首を刎ねられるか、それとも心臓を一突きか。襲ってくであろう痛みに覚悟を決める———。
「———天王寺君っ!」
意を決していた覚悟に訪れたのは苦痛ではなく、優しくて温かな抱擁だった。
「ごめん、なさい……っ! ごめんなさい! 私たちが、もっと速やかに解決していれば覚悟も背負うことも、悲劇が起こることもなかったのに……っ!」
「……人間、辞めたんだ。ダメだろ、殺さないと」
「できない! 私にはできません……っ!」
「人を殺して、友達も家族も殺して涙も流さない奴を生かしちゃダメだろ……」
「もう我慢しなくていいんです……っ! 悲しいことや辛いことを我慢せず泣いていいんです! 大事な人の死を悼んでいいんです……っ!」
シエル先輩は「ごめんなさい」、と震えた声で繰り返し、冷たいこの身体を強く抱き締める。
優しい声、温かな熱で凍っていた心身がゆっくりと溶けていく。
「たなか、ころしたんだよ……っ! しゃべらなかったけど、しにたくないってさけんでさ……っ!」
「……はい」
「かあさんだって、ころした……っ! なのに……っ! さいごは、わらってたんだ……っ! これから、ころされるのに……いみわかっねぇよ!」
視界は滲んでいてよく見えない。田中と母親が笑っている姿を思い出すと更に涙が溢れてくる。
「ごめん、なさい……っ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……っ!」
どんな理由があろうと、この罪はきっと赦されない。いや、赦してはならない。
だけど、この瞬間だけは大事だった2人の命を失くして悲しむことを赦してほしい。
喉を痛めようと、涙が枯れようとも何度も何度も2人に謝り続けた。
「……天王寺君、ごめんなさい……っ」
シエル先輩は肩を震わせ、消え入りそうな声でそう呟いた———