生徒さんは先生にメロつかないでください! 作:あばなたらたやた
雨が降る。冷たい。肌を刺すような水滴が、私の髪を、頬を、手首を濡らす。公園のベンチに座る私は、びしょ濡れだ。木々の葉がざわめく音、雨の打つリズム、遠くの街灯の滲んだ光が私の心を包む。いや、押し潰す。
胸の奥で、叫びが響く。助けてほしい。なのに、唇は動かない。笑顔の仮面は、雨に濡れても剥がれない。
手首の傷が疼く。薄い赤い線。細い、まるで糸が切れたような傷。リストカット。自分で引いた線なのに、遠い。血は雨に流され、赤は薄れる。
だけど、痛みは消えない。
胃が軋む。吐き気が、黒い波のように押し寄せる。吐きたい。吐いても、胸の重さは消えない。みんなの期待、みんなの「アヤメなら」、みんなの「ありがとう」。それが、私を縛る鎖だ。善意の毒だ。
『助けてほしい』
その言葉が、喉の奥で凍りつく。
私は、七稜アヤメ。優しい。完璧。決して弱音を吐かない。助けを求めるなんて、許されない。だって、そうしたら、私は崩れる。積み上げた信頼、尊敬、笑顔――コンドル効果と名付けられた、愚かな恐怖が私を縛る。失うのが怖い。だから、私は自分を握り潰す。手首を切り、胃を空にし、心を削る。
足音。雨音に混じる、誰かの足音。顔を上げる。そこには、シャーレの先生がいた。傘を手に、静かに立つ。雨に濡れたコートが、街灯の光を反射する。先生は、私を見下ろす。
穏やかな目。
穏やかすぎて、胸が締め付けられる。
「こんにちは、大丈夫? 風引いちゃうから、すぐに帰った方が良いと思うけど、どうかな?」
声は柔らかい。なのに、その優しさが、胸を刺す。笑顔を貼り付ける。いつも通りの、完璧な笑顔だ。
「……ありがとうございます。すぐに帰りますね」
と答える。だが、体は動かない。足は地面に縫い付けられたように重い。帰りたくない。
もう、他人のために動きたくない。
笑顔でいるのが苦しい。
涙が滲む。雨と混じる。気づかれないように、俯く。なのに、先生の目は、私を見透かす。まるで、私の仮面の裏を知っているかのように。
「何か事情があるなら、私の宿に来るかい? 話を聞くだけならできるから」
無償の優しさ。初めてだ。誰も、私にこんな言葉をかけたことなどなかった。いつも、期待が、頼み事が、善意の重荷が、言葉の裏に潜んでいた。なのに、先生の声には、何もない。ただ、純粋な気遣いだけ。胸が震える。助けてほしい。叫びたい。なのに、唇は動かない。助けを求めることは、私を崩すことだ。
完璧な七稜アヤメを、殺すことだ。
「……」
沈黙。雨音だけが響く。
先生は待つ。急かさない。無理強いしない。その静かな時間が、私を追い詰める。だって、私は、助けを求められない。求めたいのに、求められない。喉の奥で、叫びが凍りつく。
それでも、言葉が溢れる。なぜだ。わからない。なのに、口が動く。手首の傷、胃の吐き気、みんなの期待、善意の鎖、完璧を演じる苦しみ。全部、全部、吐き出すように話した。
先生はただ聞く。
黙って、頷いて、聞いてくれる。その眼差しが、温かい。温かすぎて、怖い。
先生は、難しい顔をする。唸る。
「難しいね。自分からは助けてほしいと言えないけど、頼るのはやめて欲しいと思っている……だけど、立場や今までの行動として、頼られる立場にいないといけない……か。うーん」
その言葉が、胸に刺さる。まるで、私の心を切り開いたかのようだ。先生は、私の境界線を見た。私の仮面の裏を、覗いた。なのに、先生はまだそこにいる。逃げない。拒まない。助けてほしい、と願う私の叫びを、受け止めてくれる。
雨が止まない。先生の傘の下で、私は震える。涙か、雨か、わからない。助けてほしい。なのに、声は出ない。
私の境界線は、どこにある?
この傷の先、この吐瀉の底
この仮面の裏に、私の救いはあるのか?
先生の優しさは、私を救えるのか?
私は、助けを、求められるのか?
先生の声が、雨を裂く。
「まずは、一度休んでみよう。解決はまだできないから、一時的に保留にしよう。そうすれば考える余裕ができる。それは、私から伝えようと思うけど、どう?」
「え? え?」
言葉が、頭の中で跳ねる。休む? 保留? そんなこと、許されるはずがない。
七稜アヤメは、優しい。
七稜アヤメは、完璧。
七稜アヤメは、みんなの期待を背負う。それが私の役割だ。
それが私の価値だ。
休むなんて、崩れることだ。
先生の目は、穏やかだ。まるで、私の仮面の裏を見透かしているかのようだ。
「……」
沈黙。雨音だけが響く。助けてほしい。叫びたい。なのに、喉の奥で、言葉が凍りつく。手首の傷が疼く。薄い赤い線。リストカットの痕。胃が軋む。吐き気の記憶。吐いても吐いても消えない、善意の重さ。みんなの「アヤメなら」の鎖。それを、先生は、ほどいてくれると言うのか?
「そうですね、お願いします」
声が震える。自分で出した声なのに、遠い。まるで、別の誰かが喋ったかのようだ。先生は頷く。穏やかに、静かに。
「じゃあ、シャーレにおいで。少しずつ、考えていこう」
その言葉が、胸に刺さる。温かい。温かすぎて、怖い。なのに、なぜか、涙が滲む。雨と混じる。気づかれないように、俯く。
先生の傘の下で、私は震える。助けてほしい。初めて、その願いが、凍りついた喉を抜ける気がした。先生は、私を救おうとしている。無償の優しさで、私を包もうとしている。
ああ、好きだ。
先生、貴方が好きだ。私のことを想ってくれる貴方が、好きだ。
頼らないでいてくれる貴方が、好きだ。
私の重荷を、そっと降ろそうとしてくれる貴方が、好きだ。
軽い女だと笑えばいい。チョロい人間だと嘲笑えばいい。どうせ、私は弱い。手首を切り、胃を空にし、心を削ってきた、脆い人間だ。だけど、先生だけは、違う。先生だけは、私を大切にしてくれる。先生だけは、私の境界線を、優しく撫でてくれる。
先生は、私だけのものだ。絶対に、逃さない。誰も、先生を奪えない。みんなの期待、みんなの善意、みんなの「ありがとう」――それらに縛られた私は、先生だけを握りしめる。
私の救いは、先生の中にしかない。
雨が止まない。先生の傘の下で、私は歩き出す。シャーレへ。少しずつ、考えるために。だけど、心の奥で、別の声が響く。先生を、離さない。
足音が、雨音に混じる。私の心臓の鼓動も、雨のリズムに重なる。
重い。重い。重い。
胸の奥で、叫びが響く。助けてほしい。なのに、唇は動かない。笑顔の仮面は、びしょ濡れのまま、私を縛る。
シャーレの扉が開く。温かい光が、冷えた体を包む。先生は、静かに微笑む。
「座って。温かいものでも飲むかい?」
声は柔らかい。柔らかすぎて、胸が締め付けられる。私は頷く。言葉を出すのが、怖い。だって、言葉を出したら、仮面が剥がれる。七稜アヤメは、優しい。七稜アヤメは、完璧。七稜アヤメは、決して弱音を吐かない。それが私の役割だ。それが私の価値だ。なのに、先生の前では、すべてが揺らぐ。
「少しずつ、考えていこう」
先生が言う。テーブルに置かれた温かいココアが、湯気を上げる。その温もりが、胸に刺さる。
考える? 何を? 私の重荷を? 私の傷を? 私の吐き気を? 考える余裕なんてない。だって、私は休めない。休んだら、崩れる。完璧な七稜アヤメが、消える。なのに、先生の目は、穏やかだ。まるで、私の境界線を、そっと撫でるかのようだ。
「アヤメは、頑張りすぎてる。誰も、完璧を求めてないよ。少なくとも、私は」
先生の声が、静かに響く。その言葉が、胸を刺す。鋭い。鋭すぎて、涙が滲む。誰も、完璧を求めてない?
嘘だ。みんな求めてる。みんな私に「できるよね」と言う。みんな私に笑顔を求める。なのに先生だけは、違う。先生だけは、私の仮面を、剥がそうとする。
シャーレの光が、温かい。ココアの湯気が、揺れる。
先生の目が、私を見ている。
私は、七稜アヤメ。完璧な私。助けてほしいと願う私。先生を、私だけのものにしたい私。