ということで、親子仲の良い、パラヤ家の日常から、物語は始まります。
第1話:青い瞳の少女、宇宙(そら)の憂鬱
宇宙世紀0092年。
一年戦争の傷跡も遠い過去の記憶となり果て、人々がスペースコロニーという人工の大地での生活を当たり前のものとして受け入れて久しい時代。
地球をその引力圏に抱くサイド1に位置するコロニー、「シャングリラ」は、その名が示すような理想郷とは程遠い、ありふれた日常と、どこか息の詰まるような閉塞感を孕(はら)んで、今日も静かに回転を続けていた。
そのコロニーの、高層マンションの一室。広々としたリビングの大きな窓から、人工の太陽光が斜めに差し込み、床に埃の軌跡を微かに映し出している。
一人の少女が、高価そうなソファに深々と身を沈め、肘掛けに頬杖をつきながら、その光の筋をぼんやりと眺めていた。
クェス・パラヤ。
艶やかな髪を肩まで伸ばし、意志の強さを感じさせる眉の下に、吸い込まれそうなほど深く、そしてどこか遠いものを見つめているかのような青い瞳を持つ少女。地球連邦政府で宇宙移民局の高官を務めるアデナウアー・パラヤの一人娘。
歳は、間もなく十三になろうとしていた。
「……また、同じ朝。同じ光。同じ……退屈」
小さな、しかし芯のある声で呟かれた言葉は、誰に聞かせるでもなく、部屋の空気に溶けて消えた。彼女のその青い瞳は、コロニーの外壁に投影された、作り物の青空を見ているのではない。
その向こう側、幾重にも隔てられた真空の先に広がるであろう、真の宇宙(そら)の深淵を、あるいは見透かそうとしているかのようだった。
だが、その瞳に宿るのは、星々への純粋な憧憬というよりは、むしろ持て余した時間の重さと、満たされない何かへの漠然とした渇望がない交ぜになった、複雑な色合いだった。
クェスには、時折、不思議な感覚が訪れることがあった。
例えば、隣の部屋で父が書類に目を通しているその集中力や、微かな疲労の色。あるいは、遠くマーケットで交わされる人々の会話の断片、その声色に含まれる些細な感情の揺らぎ。
それらが、まるで微弱な電波を受信するように、彼女の意識に流れ込んでくるのだ。
時には、これから起こるであろう些細な出来事――来客の予定時刻が少し早まることや、管制トラブルで輸送船の到着が遅れることなど――を、何の根拠もなく予感し、そしてそれが的中することもあった。
それが、世に言う「ニュータイプ」の兆候であるなどと、彼女はまだ明確には意識していない。
ましてや、その能力に選民意識や焦燥感を抱くこともなかった。むしろ、その鋭敏すぎる感覚は、時として彼女を疲れさせ、周囲のノイズから身を守るために、無意識のうちに心を閉ざさせることさえあった。
それは、彼女にとって息をするのと同じくらい自然なものであり、同時に、この世界の生きづらさを増幅させる厄介な感受性でしかなかった。
「クェス、起きていたのか。おはよう」
控えめなノックの音と共に、書斎からアデナウアー・パラヤが姿を現した。歳の頃は四十代半ばだろうか。
銀縁の眼鏡の奥の瞳は、徹夜明けのせいか僅かに充血しているが、娘に向ける表情は常に温和だ。連邦政府の高官という立場は、彼に多くの心労と不眠を強いているのだろうが、その重圧を家庭に持ち込むまいとする、父親としての配慮が感じられた。
「おはよう、パパ。また、書斎でお泊まり?」
クェスはソファから身を起こし、軽く伸びをしながら答えた。その声には、父への親愛の情と、彼の多忙さを理解しているが故の、ほんの少しの諦めが混じっている。
「ああ、少し立て込んでいてね。君こそ、昨夜はあまり眠れなかったのではないか? 少し顔色が優れないようだが」
アデナウアーは、鋭い観察眼で娘の体調を気遣う。クェスが時折、原因不明の頭痛や倦怠感を訴えることを、彼は知っていた。
医師には、成長期特有の自律神経の乱れだろうと診断されているが、アデナウアーは、それがもっと別の、娘の特異な感受性と関係しているのではないかと、心のどこかで感じていた。
「ん……ちょっと、変な夢を見ただけ。パパこそ、無理しないでよ。地球のお偉方との会議が近いんでしょ? また、面倒なことばっかり押し付けられてるんじゃないの?」
クェスは、父の淹れたコーヒーの香りが漂ってきたキッチンへと向かいながら、子供らしからぬ的確さで父の状況を言い当てる。
「はは、手厳しいな。まあ、否定はしないがね。だが、それが私の仕事だ。それに、地球に縛られた人間というのは、どうにも業が深いものらしい。我々スペースノイドには理解し難い理屈で、物事を動かそうとするからな」
アデナウアーは、自嘲気味に笑いながら、トーストを焼き始めた。彼の言葉の端々には、地球中心主義への批判と、宇宙で生まれ育った新しい世代への期待が滲む。
クェスは、父のそういう、どこか達観し、物事の本質を見ようとする姿勢が好きだった。
彼は、政府の人間でありながら、体制に盲従することなく、常に疑問を持ち続けている。そして、その葛藤を、娘である自分に隠そうとはしない。
彼は、クェスを一人の人間として尊重し、彼女の意見に真摯に耳を傾けようとしてくれる。だからこそ、クェスもまた、父の仕事の重圧を理解し、彼を支えたいという気持ちを自然と抱いていた。
「パパが大変なのは分かるけどさ。でも、私たち子供にとっては、地球なんて、ただの青くて丸いお星さまでしかないのよね。そこで大昔に人間が生まれたからって、どうして今も、あんなにたくさんの人が、あの星の土くれに執着するのかしら。不思議だわ」
焼きたてのトーストにバターを塗りながら、クェスは素朴な疑問を口にする。それは、宇宙で生きる子供たちが抱く、どこか冷めた、しかし本質的な問いかけだった。
「……それは、我々人類が、まだ本当の意味で宇宙(そら)の子になりきれていない証拠なのかもしれないな。あるいは、故郷という幻想に、いつまでも囚われているだけなのかも」
アデナウアーは、娘の言葉に静かに頷きながら答えた。
食卓を挟んで交わされる父と娘の会話は、時に哲学的であり、時に他愛もない日常の話題へと移り変わる。
この家には、クェスの母が数年前に病で亡くなって以来、父と娘の二人だけだ。その不在がもたらした喪失感は、今も確かに残ってはいるが、二人は互いを思いやることで、その空白を少しずつ埋めてきた。
「そうだ、クェス。今日の午後、少し時間が取れそうなんだ。久しぶりに、二人でどこかへ出かけないか? 新しい服でも見に行くとか、あるいは……少し足を延ばして、植物園の新しいセクションを見に行くのもいいかもしれないな」
アデナウアーの提案に、クェスの青い瞳が、ほんの僅かだが輝きを増したように見えた。
「……植物園、いいかも。最近、なんだか緑が見たい気分だったの」
「そうか。では、そうしよう。パパも、少しは息抜きが必要だからな」
父のさりげない優しさが、クェスの心の澱(おり)を少しだけ洗い流してくれる。
このコロニーでの生活は退屈だが、絶望的というわけでもない。ただ、何かが足りない。その「何か」の正体を、彼女はまだ掴めないでいた。
だが、その漠然とした欠落感こそが、彼女を新たな出会いへと導く、運命の呼び水となるのかもしれない。
青い瞳の少女の、宇宙(そら)の憂鬱は、まだ始まったばかりだった。