アムロ・レイとの対話は、クェス・パラヤの荒れ狂う内界に、一条の細い光を投げかけた。
それは、暗闇の中でようやく見つけた、頼りなげだが確かな道しるべだった。彼女は、あの日アムロから教わった精神集中の方法――呼吸を整え、意識を内側へ、そして外側へと、波のように広げ、収束させるという、禅の修行にも似た瞑想法――を、自室で、あるいは人気のない訓練デッキの片隅で、来る日も来る日も繰り返した。
もちろん最初からうまくいったわけではない。
目を閉じれば、依然として遠い宇宙(そら)の彼方から、名も知らぬ誰かの恐怖や絶望の思念が、ノイズのように押し寄せてくる。
そのたびに、クェスは歯を食いしばり、アムロの言葉を反芻した。
『情報の奔流の中で溺れるな。自分の意志で、何を感じ、何を感じないかを選択するんだ』
それは、言うは易く行うは難い、過酷な精神の闘争だった。だが、クェスは諦めなかった。彼女の中には、あのどうしようもない無力感に再び囚われたくないという、強い意志が芽生え始めていたのだ。
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そんなクェスの変化を、ハサウェイ・ノアは誰よりも敏感に感じ取っていた。以前のように、原因不明の体調不良でふさぎ込むことは減った。だが、代わりに、彼女は時折、まるで深海に潜るダイバーのように、自分の内面へと深く沈潜し、周囲の呼びかけにも気づかないことがある。
そして、ふと我に返った時の彼女の青い瞳は、以前にも増して深淵な光を宿し、同年代の少年であるハサウェイには、計り知れないほどの孤独と重圧を抱えているように見えた。
「クェス……あまり、無理はするなよ。アムロ大尉も、焦る必要はないって言っていたじゃないか」
食堂で、ほとんど手付かずの食事トレーを前に、ぼんやりと虚空を見つめているクェスに、ハサウェイは心配そうに声をかけた。ラー・カイラムの食事は、軍隊食とはいえ、栄養バランスも考えられ、味も決して悪くはない。
だが、最近のクェスは、食が細くなっているようだった。
「……うん、分かってる。でもね、ハサウェイ。なんだか、少しだけ……ほんの少しだけだけど、あの嫌な感じを、自分でコントロールできるかもしれないって、思えるようになってきたの」
クェスは、力なく微笑んでみせた。その笑顔は、まだ弱々しかったが、以前のような絶望の色は消え、代わりに微かな、しかし確かな意志の光が灯っていた。
「それに……あの感じは、ただ怖いだけじゃないのかもしれないって、最近思うようになったの。遠くで、誰かが本当に助けを求めている声が、混じっているような気がする時があるから……」
その言葉は、ハサウェイの胸を締め付けた。クェスは、自分には想像もつかないような世界で、一人で戦っているのだ。自分にできることは、ただ彼女のそばにいて、その手を握り締めることだけなのかもしれない。
そしてハサウェイ自身もまた、ラー・カイラムでの日々に必死で食らいついていた。MSシミュレーターでは、相変わらずクェスのような華麗な戦果を上げることはできなかったが、彼は基礎的な操縦技術を反復練習し、教官役のベテランパイロットから出される課題を、一つ一つ粘り強くクリアしていった。
その真摯な態度は、当初彼を「ブライト艦長の息子」として特別扱いしていた一部のクルーたちの見方をも、少しずつ変えさせていた。
また、彼は父ブライトの許可を得て、非番のブリッジクルーに混じり、戦術情報分析や艦隊運用の基礎を学ぶ機会も得ていた。
巨大なホロスクリーンに映し出される複雑な戦術マップ、飛び交う専門用語、そして一瞬の判断が勝敗を分ける艦隊指揮の厳しさ。それらは、ハサウェイにとって目眩がするほど高度なものだったが、同時に、父が日々背負っているものの重さと、その責任の大きさを、肌で感じる貴重な経験でもあった。
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そんなある日、ラー・カイラムがサイド1の資源衛星「ルナツー」に補給のため寄港した際、事件は起こった。表向きは定期的な物資搬入と人員交代として、連邦軍としてスケジューリングされたものであった。
そのため、ブライトらも油断していたのだろう。
その中に、巧妙に身分を偽装したネオ・ジオンの工作員が数名、紛れ込んでいたのだ。
彼らの目的は、ラー・カイラムの主機関部への破壊工作と、そして可能であれば、艦内に保護されている「特異な才能を持つ少女」――クェス・パラヤの拉致、あるいはその能力に関するデータの窃取だった。
艦内の警備システムが、いくつかの区画で不審な人物の侵入を探知したのは、補給作業がほぼ終了し、ラー・カイラムがルナツーから離岸しようとしていた矢先のことだった。
艦内に、けたたましい警報音が鳴り響き、通路の照明が赤色の非常灯へと切り替わる。
『艦内非常警報! 第3デッキ及び第5エンジンブロック付近に、身元不明の侵入者を確認! 各員、第二戦闘配置!』
ブライト艦長の冷静だが緊迫した声が、艦内放送で響き渡った。
その時、クェスとハサウェイは、非戦闘員であるため、居住区画で待機するよう指示されていた。だが、クェスのニュータイプ的な感性は、艦内に漂う「悪意」の気配と、侵入者たちの焦りや殺気を、まるで自分のことのように感じ取っていた。
「……ダメ……あっちに行っちゃダメだわ……。あそこには、罠がある……!」
突然、クェスが叫び声を上げ、居住区画の扉とは逆の方向へと走り出した。彼女の脳裏には、侵入者たちが仕掛けた爆発物の位置と、それを回避しようとして逆に窮地に陥る警備兵たちの姿が、断片的な映像として流れ込んできていたのだ。
「クェス、待って!どこへ行くんだ!?」
ハサウェイは、驚きながらも、咄嗟に彼女の後を追った。
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クェスは、まるで何かに導かれるように、艦内の複雑な通路を迷うことなく駆け抜けていく。その先には、侵入者たちが立てこもっていると思われる、第5エンジンブロックへと続くサービスハッチがあった。
「ここよ……。この中に、爆弾が……そして、誰かが……危ない!」
クェスがハッチに手をかけようとした瞬間、その内側から、数発の銃声と、鈍い爆発音が響いてきた。
「伏せろ!」
ハサウェイは、咄嗟にクェスを庇うように床に押し倒した。爆風と熱波が、彼らのすぐ側を通り過ぎていく。ハッチの向こう側からは、怒号と、さらに激しい銃撃戦の音が聞こえてくる。ラー・カイラムの警備部隊と、侵入した工作員との間で、本格的な戦闘が始まってしまったのだ。
クェスの脳裏には、今まさに目の前で繰り広げられている戦闘の光景が、直接流れ込んでくる。恐怖に駆られながらも必死で応戦する若い警備兵の姿、冷静に指示を出す工作員のリーダーと思しき男の冷酷な思考、そして……無慈悲に放たれる銃弾が、誰かの命を奪う瞬間の、魂の絶叫。
「ああ……ああああ……!」
クェスは、両耳を塞ぎ、頭を抱えて蹲った。あまりにも生々しい「死」の感触が、彼女の精神を再び激しく揺さぶる。
だが、その時、彼女の脳裏に、アムロの言葉が蘇った。
『情報の奔流の中で溺れるな。自分の意志で、何を感じ、何を感じないかを選択するんだ』
クェスは、奥歯をギリリと噛み締めた。そして、震える手で、ハサウェイの手を強く握り返した。
「ハサウェイ……私……私、大丈夫だから……。それより、あのハッチの向こう……警備の人たちが、危ない……。敵は、三人……。一人は、通路の右奥に隠れてる……!」
彼女の言葉は、まだ途切れ途切れだったが、そこには、恐怖に立ち向かおうとする、確かな意志が込められていた。
ハサウェイは、クェスのその変化に驚きながらも、彼女の言葉を信じ、動き出した。彼は、近くにあった艦内通信機を手に取り、震える声で、しかし正確に、クェスから得た情報をブリッジへと伝えた。
「こちらハサウェイ・ノア! 第5エンジンブロック、サービスハッチBポイント! 侵入者は三名! 一名が通路右奥に潜伏中! 警備隊に伝えてください!」
その情報は、膠着状態に陥っていた戦闘に、僅かな、しかし決定的な変化をもたらした。ブリッジからの指示を受けた警備部隊は、クェスの情報に基づいて的確な反撃を行い、数分後には、侵入者たちを制圧することに成功した。
仕掛けられていた爆発物も、爆発前に全て解除された。
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戦闘が終結し、艦内にようやく静けさが戻った時、クェスは、ハサウェイの腕の中で、ぐったりと意識を失っていた。彼女の顔は蒼白で、額にはびっしりと冷や汗が浮かんでいたが、その表情は、どこか安堵したようにも見えた。
この事件は、ラー・カイラムのクルーたちに、ネオ・ジオンの脅威がもはや対岸の火事ではないことを、そして、クェス・パラヤという少女が持つ特異な能力が、使い方によっては強力な武器にもなり得ることを、改めて認識させることになった。
そして何よりも、クェスとハサウェイの二人の間に、言葉だけでは言い表せない、過酷な状況を共に乗り越えた者同士の、深い絆が芽生え始めていることを、彼ら自身にも、そして周囲の大人たちにも、明確に示し始めていた。
揺らぐ日常の中で、彼らの運命は、確実に戦いの渦へと近づいていた。だが、その手の中には、見え始めた確かな絆の温もりがあった。