アクシズ・ショックがもたらした、あの虹色の奇跡から、季節は一度巡った。
地球圏は、シャア・アズナブルという巨大な存在が残した熱病のような狂騒から少しずつ覚め、瓦解したネオ・ジオンの残党狩りと、緩やかな復興という、退屈で、しかし平和な日常へと回帰しようとしていた。
南米の海辺に立つ政府の保養施設で、クェス・パラヤとハサウェイ・ノアは、二人だけの、静かで閉ざされた時間を過ごしていた。
クェスの心に深く刻まれた戦争の傷跡――PTSDは、ハサウェイの献身的な支えと、専門の医療チームによる手厚いケアによって、その最も激しい嵐の時期を過ぎ去ろうとしていた。
夜中に悪夢にうなされて絶叫することも、幻聴に怯えてパニックを起こすことも、少しずつ、しかし確実に減っていった。だが、彼女の魂は、今なお、薄い氷の上を歩くように、危うい均衡の上でかろうじて立っているに過ぎなかった。
ふとした物音、不意の閃光、あるいはニュースで流れる戦災の映像。それらが、いとも容易く、彼女を再びあの地獄の記憶へと引き戻してしまうのだ。
そんなある秋の日の午後、一機のVTOL、垂直離着陸機が、保養施設のヘリポートに静かに舞い降りた。降りてきたのは、数ヶ月ぶりに見る、父アデナウアー・パラヤだった。
連邦政府高官として、戦後処理の激務に追われる彼の顔には、深い疲労の色が刻まれていたが、娘を見るその瞳は、以前と変わらぬ、温かい慈愛に満ちていた。
「クェス、ハサウェイ君。少し、遠出をしないか。君たちのために、新しい家を用意したんだ」
アデナウアーは、穏やかな口調でそう切り出した。
「新しい……家?」
クェスは、不思議そうな顔で父を見上げた。
「ああ。ここは、あくまで療養施設だ。君たちが、これから本当に自分たちの人生を取り戻していくためには、もっと静かで、誰にも邪魔されない、本当の意味での『家』が必要だと思ったんだ」
半信半疑のまま、クェスとハサウェイは、アデナウアーと共にVTOLに乗り込んだ。機体は、音もなく浮上し、眼下に広がる青い海を後に、大陸の奥深くへと向かっていく。
数時間の飛行の後、彼らの眼下に現れたのは、まるで地球創世の姿をそのままに残したかのような、雄大な大自然だった。どこまでも続く深い針葉樹の森、雪を頂いた険しい山脈、そして、その山々に抱かれるようにして、鏡のように静かに広がる、コバルトブルーの湖。
VTOLは、その湖の畔に立つ、一軒の家の隣にあるヘリポートへと着陸した。その家は、周囲の自然に溶け込むように、温かみのある木材と、大きなガラス窓を多用して建てられていた。モダンでありながら、どこか懐かしい、山小屋のような佇まい。
家の周囲には、人の手が入った痕跡はほとんどなく、ただ、森のざわめきと、湖のさざ波の音、そして澄み切った空気があるだけだった。
「……すごい……。なんて、綺麗な場所……」
機体から降り立ったクェスは、目の前に広がる光景に、思わず息を呑んだ。都会の喧騒とも、コロニーの人工的な環境とも、そしてラー・カイラムの無機質な艦内とも全く違う、圧倒的なまでの、生命の息吹。
その空気を胸いっぱいに吸い込むと、彼女の心の奥底にこびりついていた、戦場の硝煙の匂いや、血の鉄錆の味が、少しだけ洗い流されていくような気がした。
「ここは、北米大陸の、ロッキー山脈の奥地にある。かつては、政府要人のためのプライベートな別荘地だった場所だ。今は、ほとんど使われていない。ここなら、マスコミも、政府の人間も、誰も君たちの邪魔をしに来ることはない」
アデナウアーは、家の扉を開けながら、静かに説明した。
「もちろん、君たちのための医療チームや、警備の者たちも、この森の少し離れた場所に待機している。だが、彼らが君たちの前に姿を現すことは、緊急時以外にはないだろう。ここは、君たち二人のための、聖域(サンクチュアリ)だ」
家の中は、外観の印象通り、温かく、そして居心地の良い空間だった。
リビングの中央には、大きな石造りの暖炉があり、湖に面した壁は、一面が床から天井までの大きなガラス窓になっていて、まるで一枚の風景画のように、静かな湖と森の景色を映し出している。家具の一つ一つ、食器の一枚一枚に至るまで、アデナウアーが、娘の心の安らぎを願って、心を込めて選んだであろうことが、見て取れた。
「パパ……どうして、ここまで……」
クェスは、言葉を詰まらせた。父が、どれほどの愛情を、そしてどれほどの犠牲を払って、この場所を用意してくれたのか。その想いが、痛いほどに伝わってきたからだ。
アデナウアーは、娘の頭を、少し不器用に、しかし優しく撫でた。
「……父親が、娘の幸せを願うのに、理由などいるのかね。それに……私は、君を、そして君が大切に思うハサウェイ君を、あの地獄のような戦場へと送り出すことを、最終的に認めてしまった。そのことへの、私なりの、ほんの僅かな償いだと思ってもらえればいい」
彼の声には、深い悔恨の念が滲んでいた。彼は、連邦政府の高官としてではなく、ただの父親として、娘の心の傷を、自分の傷として感じていたのだ。
「それと、ハサウェイ君。少し君と話がしたい、いいかな?」
「は、はい」
「クェス。申し訳ないけど、ハサウェイ君を少し、お借りするよ」
■
「さて、ハサウェイ君」
クェスを先に別荘に送り届けてから、アデナウアーとハサウェイは、湖畔のベンチに腰を据え、相対していた。
「君のこれからの話をしたい」
「僕の、これらか、ですか」
「ああ。……君は十分にクェスに優しくしてくれている。この数ヶ月、クェスを献身的に見てくれていた。だから、そろそろ君は、御父上と御母上の、そしてご兄妹の元に帰るべきだ、と私は思う」
ハサウェイは目を見開き、驚いたような声でアデナウアーに尋ねる。
「……それは、僕の父と母がそう言っていたのですか?」
「いや。私の一個人としての意見だ。いつまでも、君をクェスに縛り付けておくわけにもいかないだろう。君のキャリアのこともある。君が戻りたいというのであれば、私の特権で、直ぐに宇宙に送り出すことも可能だ」
アデナウアーの言葉は、ハサウェイの事を想って言ってくれている事は明白だった。タダでさえ戦乱から1年以上は学業を疎かにしている。これ以上は、ノア家の長男としてのキャリアに瑕が付くのは、誰の目から見ても明らかだ。
だが、ハサウェイの心は決まっている。
ベンチから立ち上がり、アデナウアーの顔を正面に見据え、その強い眼差しを向け、ハッキリと言葉を告げた。
「父さんからは、『お前が信じる道を見つけなさい』と言われています。だから……僕は、クェスが立ち直るまで、彼女の傍にいます」
「そうか。……そうか。……ありがとう、ハサウェイ君」
アデナウアーは、それ以上言葉を紡がなかった。
■
その夜、クェスとハサウェイは、暖炉に燃える炎の揺らめきを、ただ黙って見つめていた。パチパチと薪のはぜる音だけが、静かな室内に響いている。
「……なんだか、夢みたいだな」
ハサウェイが、ぽつりと呟いた。
「ラー・カイラムでの日々も、あの戦いも、全部が、遠い昔の、悪い夢だったんじゃないかって……思えてくるよ」
「……そうね」
クェスは、静かに頷いた。
「でも、夢じゃない。あれは、全部、本当にあったこと。そして、これからも、私たちは、その記憶と一緒に生きていかなくちゃいけない」
その声には、もう以前のような絶望の色はなかった。そこには、自分の傷を、そして運命を、静かに受け入れ、それでも前を向こうとする、新たな強さが宿り始めていた。
この湖畔の家は、まさに、父アデナウアーが願った通り、二人にとっての聖域となった。
ここで、彼らは、戦争が奪っていった「日常」という、あまりにも尊い時間を取り戻していくことになる。
傷ついた魂を、雄大な自然と、そして互いの存在だけが放つ温かい光の中で、ゆっくりと、しかし確実に、癒やしていくのだ。
それは、長い、長い、再生の物語の、静かな始まりだった。