空の凪   作:灯火011

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第27話:語られる記憶、宇宙(そら)を見上げて

 湖畔の家での日々は、まるでゆったりと流れる大河のように、穏やかに過ぎていった。

 

 気づけば八つ、季節は過ぎて、クェス・パラヤとハサウェイ・ノアは、心身ともに、あの地獄のような戦場にいた頃とは比べ物にならないほどの成長を遂げていた。

 

 クェスとハサウェイは共に十五歳になり、その顔には、少年少女のあどけなさと、過酷な運命を乗り越えてきた者だけが持つ、深い落ち着きとが同居していた。

 

 クェスの心を苛んでいた嵐は、今ではほとんど凪いでいた。ハサウェイという絶対的な安全地帯と、人の思念が届かない、この雄大な自然に抱かれることで、彼女の過敏なニュータイプの感性は、ようやく穏やかな安らぎを取り戻していたのだ。

 

 それは、もはや他者の死の恐怖に怯える呪いの力ではなく、風の音に隠された森の囁きや、湖の水面に映る月の光の優しさを感じ取る、祝福にも似た力へと変貌しつつあった。彼女は、よく笑うようになった。その笑顔は、ハサウェイにとって、何物にも代えがたい宝物だった。

 

 だが、彼らの心の奥底には、今なお、決して消えることのない戦場の記憶が、静かに横たわっていた。それは、普段は意識の底に沈んでいるが、ふとした瞬間に、不意にその姿を現す、癒えることのない傷跡。

 

 彼らは、これまで、互いにその傷に触れることを、無意識のうちに避けてきたのかもしれない。あまりにも痛々しく、そしてあまりにも重すぎる記憶だったからだ。

 

 

 その均衡が、破られたのは、ある夏の終わりの夜のことだった。

 

 その夜は、空気が澄み渡り、天の川が、まるで空に架かる光の橋のように、くっきりとその姿を現していた。二人は、湖のほとりに敷いたブランケットの上に寝そべり、満天の星々を眺めていた。

 

 無数の星が、瞬いては消え、また瞬く。その光景は、どこまでも美しく、そしてどこか、あの戦場で見た、モビルスーツの爆発の閃光を思い出させた。

 

「……綺麗ね」

 

 クェスが、ぽつりと呟いた。

 

「ああ……。ラー・カイラムの窓から見るのとは、全然違うな。宇宙が、邪魔をしないから」

 

 ハサウェイが、そう答える。

 

 しばらくの沈黙の後、クェスが、静かに口を開いた。

 

「……ねえ、ハサウェイ。あの時のこと……覚えてる? あなたが、私を助けに来てくれた時のこと」

 

 その言葉に、ハサウェイは息を呑んだ。それは、二人が、この場所に来てから、初めて明確に「あの戦い」について語り始めた瞬間だった。

 

 ハサウェイは、ゆっくりと頷いた。

 

「……忘れるわけないだろ。君の識別信号が、モニターから消えた時……。僕、本当に、世界が終わったんだって思った。頭の中が、真っ白になって……何も考えられなくなって……。でも、その時、君の声が聞こえたんだ。ここにいるって……。理屈じゃない。ただ、そう確信したんだ。だから……」

 

「……うん。私も、聞こえた。あなたの声。暗くて、冷たい場所に、一人で沈んでいく途中で……あなたの声が、私を引き上げてくれたの」

 

 クェスは、ハサウェイの方へと身体を向け、その瞳を真っ直ぐに見つめた。

 

「……私ね、あの時、あのモビルアーマーのパイロットを撃った時のこと……今でも、時々、夢に見るの。彼、本当は、ただ寂しかっただけなのよ。シャアに認められたくて、自分の居場所が欲しくて……必死だった。なのに、私は……彼の心を、一番痛い言葉で抉って、そして殺した。私に、そんな権利、あったのかなって……今でも、思う」

 

 その告白は、彼女がずっと一人で抱え込んできた、重い、重い罪の意識だった。

 

 ハサウェイは、黙って聞いていた。そして、クェスの、震える手を、そっと両手で包み込んだ。

 

「……クェス。君は、悪くないよ。あれは、戦争だったんだ。君がやらなければ、君が殺されていた。僕は……僕は、君がいなくなってしまう方が、ずっと、ずっと嫌だ」

 

 彼の言葉は、朴訥で、飾り気のないものだった。だが、その中には、クェスを全肯定する、揺るぎない愛情が込められていた。

 

「それに、君は、僕を助けてくれたじゃないか。僕が、ブリッジで、何もできずにただ絶望していた時……君を助けに行かなきゃって、そう思わせてくれたのは、君自身なんだ。君が、僕に、戦う勇気をくれたんだよ」

 

 クェスは、ハサウェイの言葉に、瞳を潤ませた。

 

「……私、怖かった。宇宙(そら)を漂流している時、本当に、怖かった。でも、それ以上に、あなたや、パパに、もう一度逢えないことが、悲しかった。だから……だから、呼んだの。必死で……」

 

「……うん。聞こえたよ。ちゃんと、届いた」

 

 ハサウェイは、クェスの身体を、優しく引き寄せ、その肩を抱いた。二人は、互いの温もりを確かめ合うように、しばらくの間、ただ黙って、星空を見上げていた。

 

 それは、彼らにとって、初めての、本当の意味での「記憶の共有」だった。互いが、自分の知らなかった、相手の痛みや、恐怖や、そして想いを知ることで、彼らの心の傷は、単なるトラウマではなく、二人だけが分かち合える、かけがえのない絆の証へと、少しずつ姿を変えていった。

 あの地獄のような戦いを、共に生き延びた。その事実が、何よりも強く、彼らを結びつけていた。

 

「……宇宙(そら)って、不思議ね」

 

 しばらくして、クェスが、落ち着きを取り戻した声で言った。

 

「あの時は、あんなに怖くて、憎らしくて、見たくもない場所だったのに……。今、こうしてあなたと見上げていると……なんだか、すごく、懐かしい場所に思える。私たちの、本当の故郷は、やっぱり、あそこなのかもしれないわね」

 

 彼女の言葉に、ハサウェイは、静かに微笑んだ。

 

「……そうかもしれないな。いつか、また、行けるかな。戦いのためじゃなく、ただ、星を見るために」

 

「ええ、きっと。あなたと一緒なら」

 

 クェスは、ハサウェイの肩に、安心しきったように、そっと頭を預けた。

 

 満天の星空が、そんな二人を、祝福するように、優しく、そして静かに見守っている。彼らの魂は、ようやく、過去の戦場から解き放たれ、未来へと続く、無限の宇宙(そら)へと、再びその視線を向け始めていた。

 

 それは、長く続いた、魂の夜が明ける、確かな兆しだった。

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