空の凪   作:灯火011

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最終話:空の凪

 湖畔の家で四度目の夏が訪れた頃、クェス・パラヤとハサウェイ・ノアの世界は、完全な調和と、穏やかな凪(なぎ)の中にあった。

 

 クェスとハサウェイは十七歳になり、その姿には、もはやあの戦場の硝煙の匂いを纏った少年少女の面影はなく、互いの存在を深く理解し、尊重し合う、成熟したパートナーとしての落ち着きが備わっていた。

 

 クェスの心は、湖面のさざ波のように、静かで穏やかだった。

 

 戦場の記憶は、もはや彼女を苛む悪夢ではなく、自分という人間を形作った、遠い過去の風景の一部となっていた。

 

 彼女のニュータイプ能力は、その感性を、自然の美しさや、生命の息吹を愛でるために使っていた。森の木々が風に囁き交わす言葉を、湖を渡る風が運んでくる季節の匂いを、そして何よりも、隣にいるハサウェイの心の、深く、そして揺るぎない愛情の波動を、彼女は常に感じていた。

 

 それは、彼女にとって、世界で最も心地よい音楽だった。

 

 そしてハサウェイは、逞しい青年へと成長していた。

 

 毎日の森仕事や、家の補修作業で鍛えられた身体は引き締まり、その眼差しには、どんなことにも動じないであろう、静かな自信が宿っていた。

 

 彼は、クェスの全てを受け入れ、支え、そして彼女の笑顔を守ることが、自分の人生における最も重要な使命だと、固く信じていた。

 

 この湖畔での生活は、彼に、人間が生きる上で本当に必要なものは何かを教えてくれた。それは、地位でも、名誉でも、ましてやイデオロギーでもない。ただ、愛する人と共に、穏やかな一日を重ねていくこと。

 

 その、あまりにも当たり前で、そしてあまりにも尊い営みこそが、全てなのだと。

 

 

 その年の夏は、例年になく晴天が続き、夜には、まるで宇宙(そら)の天井が抜け落ちたかのような、満天の星が降り注いだ。二人は、よく湖畔にボートを出し、オールを漕ぐのも忘れ、ただ仰向けになって、その星空を眺めるのが習慣になっていた。

 

「……星って、見てると飽きないわね」

 

 ボートの上で、ハサウェイの腕を枕にしながら、クェスが呟いた。

 

「一つ一つ、色も、明るさも、瞬き方も違う。……私たち、人間みたい」

 

「……そうだな」

 

 ハサウェイは、クェスの髪を優しく撫でながら、答えた。

 

「僕たちは、あの星の海から生まれて、そしていつか、またあそこへ還っていくのかもしれないな」

 

「……うん。でも、還る時は、一緒がいいわ。一人じゃ、寂しいもの」

 

「……ああ、もちろんだ。絶対に、一人にはしないさ」

 

 ハサウェイは、クェスの手を、強く握りしめた。

 

 その時、ハサウェイの心の中で、一つの決意が、固く、そして明確な形を結んだ。

 

 彼は、この数年間、ずっと考えていた。自分たちの未来について。

 

 この湖畔の家での生活は、確かに楽園のようだ。だが、いつまでも、この聖域(サンクチュアリ)に閉じこもっているわけにはいかない。

 父ブライトが、クェスの父アデナウアーが、その地位と権力の全てを賭けて、守ってくれているこの平和。その父達も、いつまでも元気でいてくれるとは限らない。

 

 そして、シャア・アズナブルという大きな脅威は去ったものの、地球圏には、未だに多くの矛盾と、新たな争いの火種が燻り続けていることも、彼は定期的に送られてくるニュースデータで知っていた。

 

 いつか、自分たちは、この家を出て、現実の世界と向き合わなければならない。

 

 その時、自分は、クェス・パラヤを、どう守っていけばいいのだろうか。いや、守るだけではない。彼女と共に、どう生きていけばいいのだろうか。

 

 ――答えは、もう、ずっと前から、一つしかなかった。

 

 

 数日後の、月のない新月の夜。天の川が、ひときわその輝きを増している、そんな夜だった。ハサウェイは、クェスを、湖に突き出した小さな桟橋の先へと誘った。

 

 

「どうしたの、ハサウェイ? なんだか、改まって……」

 

 

 クェスは、不思議そうな顔で、彼の横顔を見上げた。ハサウェイは、深呼吸を一つすると、クェスの両肩に手を置き、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめ返した。

 

 

「クェス……。聞いてほしいことがあるんだ」

 

 

 その声は、少しだけ震えていたが、その奥には、彼の人生の全てを賭けた、真摯な響きがあった。

 

 

「僕たちは、あのパーティで出会って、戦争を経験して……そして、この場所で、二人で生きてきた。辛いことも、悲しいことも、たくさんあった。

 

 君が、どれだけ苦しんだか、僕には本当の意味では分からないかもしれない。

 

 でも、僕は、ずっと君のそばにいて、君を見てきた。君が、少しずつ元気になって、笑ってくれるようになるのが、僕にとって、何よりの幸せだった」

 

 

 ハサウェイは、一度言葉を切り、夜空を映す湖面へと視線を移した。

 

 

「これから先、僕たちの未来が、どうなるのかは分からない。

 

 また、辛いことがあるかもしれない。

 

 この穏やかな日々が、いつか壊される日が来るかもしれない。

 

 ……でも、どんなことがあっても、僕は、君の隣にいたい。

 

 君を守りたい。君と一緒に、笑ったり、泣いたり、そして歳をとっていきたいんだ」

 

 

 彼は、再びクェスへと向き直った。その瞳には、彼が持ちうる全ての愛情と、誠実さが溢れていた。

 

 

「クェス・パラヤ。僕と……結婚してほしい」

 

 

 それは、朴訥で、飾り気のない、ハサウェイらしいプロポーズだった。

 

 

「僕の、生涯のパートナーになってください」

 

 

 だが、その一言一言には、これまでの二人の全ての時間が凝縮され、何よりも重く、そして何よりも温かい響きとなって、クェスの心の奥深くにまで届いた。

 

 クェスの青い瞳から、大粒の涙が、止めどなく溢れ出した。

 

 だが、それは、悲しみの涙ではなかった。喜びと、安らぎと、そして愛されているという確かな実感が生んだ、温かい、温かい涙だった。

 

 彼女は、しばらく、言葉を発することができなかった。

 

 ただ、何度も、何度も、涙に濡れた顔で頷き、そして、ハサウェイの胸へと、飛び込んでいった。

 

 

「……はい……! はい……ハサウェイ……!」

 

 

 ようやく絞り出したその声は、喜びの嗚咽に震えていた。

 

 ハサウェイは、愛しい少女の身体を、壊れ物を抱きしめるように、しかし力強く、抱きしめた。二人の心は、完全に一つになった。もう、どんなものも、彼らの絆を引き裂くことはできない。

 

 

「……ありがとう、クェス。愛している」

 

「私も……私も、愛してるわ、ハサウェイ」

 

 

 二人は、どちらからともなく、そっと唇を重ねた。それは、初めての、そして永遠を誓う、清らかな口づけだった。

 

 満天の星空が、そんな二人を祝福するように、ひときわ強く、そして優しく、その輝きを増している。

 

 かつて、戦場(そら)で出会った少年と少女は、多くの傷を負い、多くの悲しみを乗り越え、今、ここで、未来へと共に歩むことを誓った。彼らの物語は、まだ始まったばかりだ。

 

 だが、その手と手が、固く結ばれている限り、彼らは、どんな困難をも乗り越えていけるだろう。

 

 空(そら)の凪。

 

 それは、彼らが、自らの手で掴み取った、かけがえのない平和と、そして。

 

 時がすこやかに育てた、愛の形だった。

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