地球圏を覆う不穏な空気は、日増しにその濃度を深めていた。
ネオ・ジオンを名乗る勢力の影がちらつき始め、それに対抗するかのように地球連邦軍の動きもまた、目に見えて活発化している。
その余波は、当然ながら連邦政府高官であるアデナウアー・パラヤの日常を、これまで以上に苛烈なものへと変えていた。彼の書斎の灯りが深夜まで消えることは稀になり、クェスが朝、目を覚ます頃には、既に父は官邸へ向かうエレカの中にいる、という日も珍しくなかった。
「パパ、また今日もこんな時間……。少しは眠れたの?」
ある夜、時計の針がとっくに午前様を指し示した頃、ようやく帰宅したアデナウアーの疲労困憊した姿を、自室で読書をしていたクェスは玄関ホールで出迎えた。
彼の顔には深い隈が刻まれ、いつもは手入れの行き届いたスーツも、心なしか皺が寄っているように見える。
「ああ、クェスか。まだ起きていたのか。すまない、少し手間取る案件があってね。もう子供ではないのだから、あまり夜更かしは感心しないぞ」
アデナウアーは、眼鏡の奥の目を細め、努めて穏やかな声で娘に語りかけた。だが、その声の掠れ具合や、肩にかかる見えない重圧を、クェスの鋭敏な感性は痛いほど感じ取っていた。
■
父が抱えているものの正体は、クェスにはまだ具体的には分からない。それは、ただの仕事の忙しさではない。地球圏全体の未来を左右しかねない、巨大な意思決定の奔流。
その中で、父は良心と現実との間で板挟みになり、時に非情な決断を迫られ、あるいは不本意な妥協を強いられているのかもしれない。
クェスは、父の書斎のデスクに山積みになった機密書類の束や、彼が深夜に極秘回線で交わす、緊迫した声色の会話の断片から、その一端を垣間見ていた。
しかし、アデナウアーは、その複雑怪奇な政治の世界の暗部や、間近に迫りつつあるかもしれない戦争の汚れた現実を、決してクェスに押し付けようとはしなかった。
彼が娘に見せるのは、常に変わらぬ父親としての顔。彼女の学業や友人関係を気遣い、他愛ない冗談を飛ばし、そして時には、亡き妻の思い出を二人で静かに語り合う。
その姿勢が、クェスにとっては救いであり、同時に、父の優しさの裏にある深い孤独を感じさせ、胸を締め付けるのだった。
「ねえ、パパ。私に、何かできることってないのかな……。パパの仕事のこととか、よく分からないけど……でも、見てるだけじゃ、なんだか……」
リビングで、アデナウアーがようやく手にした遅い夕食のスープをスプーンでかき混ぜる傍らで、クェスはぽつりと呟いた。
それは、彼女の心からの言葉だった。父の重荷を少しでも軽くしたい。だが、自分はまだ子供で、無力だ。そのもどかしさが、彼女を苛んでいた。
アデナウアーは、娘の健気な申し出に、一瞬スプーンを止めた。そして、疲れた顔の中に、柔らかな、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「ありがとう、クェス。その気持ちだけで、パパは十分に救われているよ。君が、毎日元気に学校へ行き、自分の頭で物事を考え、そして時にはパパにこうして生意気な口をきいてくれること。それが、私にとっては一番の力になるんだ」
そう言って、彼はクェスの頭を優しく、しかし少し不器用に撫でた。その手の温もりが、クェスの心にじんわりと広がっていく。
親子関係の希薄化が叫ばれて久しいこの宇宙世紀において、アデナウアーとクェスの関係は、ある意味で稀有なものだったのかもしれない。
彼らは、血の繋がりという絶対的な絆の上に、互いを一個の人間として尊重し、理解しようと努める、成熟した関係性を築いていた。
それは、アデナウアーが、クェスを子供扱いするのではなく、彼女の持つ独自の感受性や洞察力を、無意識のうちに認めていたからなのかもしれない。
■
ある週末の午後、珍しくアデナウアーが自宅で過ごせる時間ができた。彼は書斎の整理をしていたが、クェスはコーヒーを淹れてそこに顔を出した。
「パパ、最近よく『シャア』って名前を聞くけど……。その人、そんなにヤバい人なの?」
クェスは、ニュースや父の部下たちの会話の断片から、その名を拾い上げていた。その名が口にされる時、大人たちの表情が僅かに強張り、空気が緊張するのを、彼女は見逃さなかった。
アデナウアーは、手にしていたデータパッドから顔を上げ、娘の真っ直ぐな瞳を見つめた。そして、少しの間逡巡した後、静かに口を開いた。
「……シャア・アズナブル。かつて、ジオン・ズム・ダイクンの理想を歪んだ形で体現しようとし、世直しを行おうとした男だ。そして今、再び、その亡霊が蘇ろうとしているのかもしれない。彼の言葉は、時に甘美で、人々を熱狂させる力を持っている。だが、その先にあるのは、破滅と混乱だけかもしれん。だから、もし君がその名を聞くことがあっても、決して深入りしてはいけない。いいな?」
彼の言葉は、警告であり、同時に娘の判断力を信じるが故の、最低限の説明でもあった。彼は、クェスを無菌室で育てるつもりはなかったが、不必要な危険に晒したくもなかった。
「ふぅん……。よく分からないけど、パパも大変ね、そんな昔のオバケの相手までしなくちゃいけないなんて」
クェスは、あっけらかんとした口調でそう言った。だが、その青い瞳の奥には、父の言葉の重みが、確かに刻まれているようだった。
父の背中は、時にあまりにも大きく、そして時にあまりにも脆く見える。
その背中が、自分を、そしておそらくは多くの名もなき人々を守ろうとして、見えない敵と戦い続けていることを、クェスは確かに感じていた。
そして、その父の想いに応えたいという気持ちが、彼女の中で静かに、しかし確実に、一つの形を取り始めていた。それはまだ、漠然とした願いに過ぎなかったが、やがて来るべき選択の時、彼女を導く内なる声となるのかもしれなかった。