父アデナウアー・パラヤの口から「シャア」という名を聞いて以来、クェス・パラヤの日常に、その名は不気味な頻度で侵入し始めた。
コロニーの公共ホロニュース、大人たちが交わすひそひそ話、そしてハサウェイとのビデオ通話で彼が漏らす、父ブライトの周辺の不穏な空気。それら全てが、赤い彗星の再来という、忌まわしい現実を少しずつ、しかし確実にクェスの意識に刷り込んでいった。
宇宙世紀0092年も後半に入ると、ネオ・ジオンを名乗る勢力の活動は、もはや噂の域を超え、公然とした脅威として地球圏を震撼させ始めていた。そして、その指導者として再び歴史の表舞台に姿を現したシャア・アズナブルの演説は、電波ジャックという形で、サイド1のコロニー群にも強制的に配信されることがあった。
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『地球に魂を引かれた人々よ! 何故、その汚染された星にしがみつくのか! 宇宙(そら)こそが、我々人類の新たな故郷であり、未来であるということが、まだ理解できぬのか!』
リビングの大型ホロスクリーンに映し出された、素顔を晒し、しかしその声には奇妙なカリスマ性と扇動的な熱量を帯びた男の姿。シャアが語る言葉――地球環境の限界、特権階級による地球の私物化、スペースノイドの権利、そしてニュータイプによる人類の革新――は、確かに一部の人々、特に現状に不満を抱えるスペースノイドや、旧い体制に絶望した若者たちの心を捉え、熱狂的な支持を集めつつあった。
しかし、クェスは、その言葉の奔流を、どこか冷めた、そして居心地の悪い感覚で受け止めていた。
彼女のニュータイプ的な感性は、シャアの言葉の裏に潜む、ある種の歪んだ自己陶酔や、他者を自分の理想の駒として利用しようとする冷たいエゴイズムを、生理的な嫌悪感と共に感じ取ってしまうのだ。
「……また、あの金髪の男の演説ね。パパ、どうしてあんなものを、みんなありがたそうに聞いているのかしら。言ってることは、なんだかすごく偉そうだけど、結局は自分の思い通りにしたいだけじゃないの、あの人」
アデナウアーが珍しく早く帰宅し、二人で遅い夕食をとっている最中、ニュース番組で再びシャアの演説の一部が引用されたのを見て、クェスは顔をしかめながら言った。
「……彼の言葉には、確かに一理ある部分もあるのかもしれない。地球環境の問題や、連邦政府の腐敗。それらは否定できない事実だ。だからこそ、多くの人が彼の言葉に耳を傾けてしまうのだろう。だが、クェス、忘れてはいけない。正しい問題提起が、必ずしも正しい解決策に結びつくとは限らないのだよ」
アデナウアーは、静かに、しかし諭すように娘に語りかけた。彼の目には、シャアという存在の危険性への深い警戒と、それに対する連邦政府の対応の遅れへの苛立ちが滲んでいた。
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「ニュータイプが人類を導く、ですって? 馬鹿馬鹿しい。そんな大層なものじゃないわよ、きっと」
ハサウェイとの通話の中で、クェスはそう吐き捨てたことがあった。
彼女自身、自分が持つ漠然とした特殊な感覚が、シャアの言う「ニュータイプ」という言葉と何らかの関係があるのかもしれないとは感じ始めていた。だが、シャアが語るような、選ばれた指導者としてのニュータイプ像には、全く共感できなかった。
『でも、シャアの言うことにも、考えさせられることはあるよ。地球の環境は、本当に限界に来ているのかもしれないし……。父さんも、アムロさんも、昔はシャアと考えが近い時期もあったって聞いたことがある』
ハサウェイは、父ブライトから聞かされた過去の断片や、彼なりに集めた情報から、慎重に言葉を選びながら答える。
彼自身、シャアの思想の全てを肯定するわけではないが、その問題提起の鋭さには、無視できないものを感じていた。偉大な父を持つが故の葛藤、そして地球という故郷への複雑な想いが、彼の心を揺さぶっていた。
「地球がどうなろうと、それで人が人を支配していい理由にはならないじゃない。それに、ニュータイプだから偉いなんて、誰が決めたのよ。そんなの、ただの傲慢だわ。私のこの『感じやすさ』だって、別に誰かを導くためなんかじゃなくて、ただ……そうね、目の前の人が本当に悲しんでいるのか、それとも嘘をついているのかが、少しだけ分かりやすいってだけのことよ。それで、私が誰かより偉いなんてことには、絶対にならない」
クェスの言葉は、常に本質を突いてくる。彼女にとって、シャア・アズナブルという男は、過去の亡霊に囚われている大人に見えていた。
それはクェスには、ララァ・スンという女性の名が、彼の演説の中に時折、狂信的な響きを伴って現れることを、クェスは不快感と共に察知していた。
クェスにとって、シャアはそれに取り憑かれ、大仰な理想論を振りかざして人々を扇動しようとしている、ただの「危険な大人」の一人に過ぎなかった。
ソレに操られて、シャアに協力する大人達も同じ。シャアの言葉で慌てふためく大人も滑稽。
大人たちの姿を、クェスはどこか冷めた、そして憐れみにも似た視線で見ていた。
「シャアは、ララァという女性の幻影を追いかけている……。そんな噂を、パパの部下の人たちが話しているのを、この間聞いちゃった」
『そうなの?クェス』
溜息をひとつ吐いて、そして、言葉をも吐き捨てる。
「ええ。ハサウェイ。なんだかみっともないわよね、いい大人が。新しい時代を作るなんて言いながら、シャアって人が、一番過去に囚われているじゃないの。」
その言葉には、子供らしい残酷なまでの的確さがあった。
「本当に、気持ち悪いわ」
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コロニーのホログラフィックスクリーンに、時折、ネオ・ジオンのプロパガンダ映像が紛れ込むことがあった。
最新鋭のモビルスーツ、整然と行進する兵士たち、そしてその中心で、シャアがカリスマ的な演説を行う姿。
ある者はそれを救世主の到来と熱狂し、ある者はそれを破滅の序曲と恐れた。
だが、クェスの青い瞳には、その全てが、壮大な虚構、危険な茶番劇としか映らなかった。シャアの言葉は、彼女の心には少しも響かなかったのだ。
むしろ、その言葉の裏に隠された、冷たい炎のような破壊衝動と、選民思想にも似た歪んだ正義感を鋭敏に感じ取り、クェスは無意識のうちに身震いするのだった。
シャアの影が地球圏を覆い尽くそうとする中、クェスの心の中には、その不協和音に対する明確な拒絶感が、日増しに強くなっていった。
それは、まだ形を持たない、しかし確かな抵抗の意志の芽生えだったのかもしれない。