ラー・カイラムでの体験から一月ほどが過ぎた頃、クェス・パラヤの日常は、表面上は以前と変わらぬ静けさを保っていた。
だが、水面下では、彼女自身も気づかぬうちに、巨大な運命の歯車が音を立てて回り始めていた。
アムロ・レイに見出された彼女のニュータイプとしての資質――その噂は、光の速さで宇宙(そら)を駆け巡る情報の奔流の中で、あるべき場所へと吸い寄せられるかのように、ネオ・ジオン総帥シャア・アズナブルの耳にも届きつつあった。
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最初の異変は、些細な形で訪れた。
クェスが通うシャングリラのハイスクールに、臨時講師として赴任してきた一人の若い女性。彼女は、心理学と古代哲学を専門とし、その知的な物腰と魅力的な語り口で、すぐに生徒たちの人気を集めた。
特に、感受性の強いクェスは、その講師の言葉の中に、どこかシャア・アズナブルが語る「人類の革新」や「宇宙(そら)に適応した新しい価値観」と通底するものを感じ取り、微かな興味と、それ以上の言い知れぬ警戒心を抱いた。
『パラヤさん、あなたのような鋭い感性を持つ方は、既存の社会システムや道徳観に、疑問を感じることも多いのではありませんか?』
放課後のカウンセリングルームで、その講師は穏やかな笑みを浮かべながら、クェスの心の奥底を探るような質問を投げかけてきた。
『人は、もっと自由であるべきです。地球の重力に魂を縛られた旧い世代ではなく、あなたのような新しい世代こそが、未来を切り開く鍵を握っているのですよ』
その言葉は、甘美な毒のように、クェスの心に染み込もうとする。
だが、クェスのニュータイプ的な直感は、その美しい言葉の裏に潜む、冷たい計算と巧妙な誘導の意図を明確に感じ取っていた。これは、罠だ。
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時を同じくして、アデナウアー・パラヤもまた、娘の周囲に漂い始めた不穏な気配を察知していた。
連邦政府内の情報網からもたらされる断片的な情報、そして何よりも、父親としての直感が、シャア・アズナブルがクェスに何らかの形で関心を持ち始めていることを彼に告げていた。ラー・カイラムでのシミュレーターの一件が、思わぬ形でシャアのアンテナに触れてしまったのかもしれない。
あるいは、もっと以前から、パラヤ家の令嬢という立場と、彼女が持つかもしれない特異な資質に、ネオ・ジオンは目をつけていたのか。
「クェス、最近、学校や、あるいはプライベートな通信で、見慣れない人物から接触を受けたり、奇妙な思想に触れたりするようなことはなかったか?」
ある夜、アデナウアーは、いつになく真剣な表情でクェスに問い質した。クェスは、一瞬ためらったが、臨時講師との会話や、時折パーソナル回線に届くようになった、シャアの思想に共鳴する若者からのものと思われるメッセージ、とはいえ発信元は巧妙に偽装されていたのだが、のことを正直に父に話した。
その告白を聞いたアデナウアーの顔からは、血の気が引いていくのが分かった。彼の最悪の懸念が、現実のものとなりつつあったのだ。
シャアは、クェスを、その未知数のニュータイプ能力を、自らの野望のために利用しようとしている。それだけは、絶対に阻止しなければならない。
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翌日、アデナウアーは極秘裏に、ロンド・ベル隊司令ブライト・ノアに緊急の通信を入れた。
『ブライト大佐、折り入ってお願いしたいことがある。私の娘、クェスの身柄を、一時的にラー・カイラムで保護してはいただけないだろうか』
その言葉は、連邦政府高官としての立場を超えた、一人の父親としての必死の懇願だった。彼は、シャアがクェスに本格的な接触を試みてくるのは時間の問題であり、そうなれば、もはや自分一人の力では娘を守りきれないと判断したのだ。
ブライトは、アデナウアーのただならぬ様子と、その言葉の裏にある深刻な事態を即座に理解した。彼自身も、アムロからクェスの驚異的な才能については聞かされており、その存在がシャアのような男に知られれば、どうなるかは火を見るより明らかだった。
『……状況は理解しました、パラヤ局長。クェス嬢の保護、およびロンド・ベルでの受け入れについて、アムロ大尉とも協議の上、前向きに検討しましょう。しかし、彼女の安全を保証するためには、相応の準備と覚悟が必要です』
ブライトの返答は慎重だったが、その中にはアデナウアーの苦衷への理解と、協力への意思が明確に示されていた。
そして数日後、クェスは父から、シャングリラを離れ、当面の間、ラー・カイラムで生活することを告げられた。
「どうして!? 私、別にどこにも行きたくないわ! パパと離れるなんて、絶対に嫌!」
クェスは、最初、激しく抵抗した。父の元を離れることへの不安、自由が奪われることへの反発、そして何よりも、自分の運命が、自分の知らないところで決められていくことへの怒り。
「クェス、聞いてくれ。これは、お前を守るためなんだ。今のシャングリラは、もはやお前にとって安全な場所ではない。シャア・アズナブルという男が、お前に目をつけている。奴の手に渡れば、お前は……お前のその特別な力が、恐ろしいことに利用されてしまうだろう」
アデナウアーは、娘の肩を掴み、必死に説得した。その瞳には、深い悲しみと苦悩が浮かんでいた。
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クェスは、父の真剣な眼差しと、その言葉の裏にある切実な想いに、徐々に心を動かされていった。そして、ラー・カイラムで出会ったアムロ・レイの姿、νガンダムの圧倒的な存在感、そして自分の中に眠る力の予感が、彼女の中で新たな決意を形作らせたのかもしれない。
「……分かったわ、パパ。ラー・カイラムへ行く。でも、それは逃げるためじゃない。私、自分の目で確かめたいの。シャアって人が何をしようとしているのか、そして、アムロさんたちが、それにどう立ち向かおうとしているのかを」
その言葉は、もはや子供のそれではなく、自らの運命に立ち向かおうとする、一人の人間の覚悟を示していた。
そして、アデナウアーの計らいと、ブライトの許可のもと、もう一人、ラー・カイラムへの同行者が決まった。それは、ハサウェイ・ノアだった。
表向きは、年若いクェスの精神的なケアと話し相手として。そして、ブライトにとっては、息子の安全を確保し、同時に彼の成長を促すための機会として。ハサウェイ自身もまた、クェスが一人で危険な場所へ行くことを座視できず、自ら同行を強く申し出たのだった。
シャングリラを発つ日、クェスは父アデナウアーと固い抱擁を交わした。
「必ず、無事で戻ってくるんだぞ、クェス」
「うん……パパも、元気でね」
その別れは、二人にとって、これまでにないほど重く、そして切ないものだった。
ハサウェイと共に乗り込んだ連絡艇の窓から、遠ざかるシャングリラの姿を見つめながら、クェスは胸に込み上げてくる不安と、それ以上の、まだ見ぬ未来への微かな高揚感を感じていた。
赤き彗星の触手は、確かに彼女に迫っていた。だが、その運命から逃れるのではなく、自らその渦中へと飛び込んでいくことを、彼女は選んだのだ。
その隣には、固い決意を秘めたハサウェイの姿があった。二人の少年少女を乗せた小さな艇は、一路、ロンド・ベル隊旗艦ラー・カイラムへと、その針路を取った。