番外編 採点の裏側(前編)
「……ふう」
国立心奏学院教師、1-B担任の
慣れ親しんだクッション性が疲れた身体に心地良い。
と言っても今日はデスクワーク中心だったのだが。
椅子に座ったままだから疲れないとは限らないのが辛いところ。
さっきまで向日葵は試験の採点に追われていた。
試験結果は最終日の翌日午後には生徒たちに通知されるスケジュール。
なので、採点はそれまでにすべて終了し順位づけをしなければならない。
終わった試験から採点を始めていくにしても、それはもう忙しい。
特に最終日に行われるユニットのパフォーマンス試験なんて採点するほうもまさに戦いである。
──というか、普通にやったら絶対終わらない。
短期決戦の秘密は当然、能力である。
採点に参加する教師、一年生であれば担任五名と科目担当数名は全員、全一年生ユニットの映像記録を
感覚的には、何十倍にも加速した時間の中でえんえん映像を見せられるようなもの。
めちゃくちゃ疲れるが、三十組近くいるユニットのチェックがあっという間に終わる。
心奏の教師になるにはこれくらいの能力行使は必須条件だ。
「時間は、っと」
全部の映像を見終えたあとは採点担当者全員で話し合い、採点を微調整する。
思考操作でデバイスに時刻を表示すると会議までにはまだ五分あった。
紅茶でも淹れよう。
自席から立ち上がって室内を見渡す。
心奏学院は教師にもできるだけ良い環境で働けるよう気配りをしてくれている。
連絡や相談はだいたいデバイスで済んでしまうため『職員室に教師全員が詰める』必要はあまりなく、そのため教員用の部屋は一年生担任、二年生担任、などというふうに複数に分かれている。
同じ学年を指導する仲間五人だけの空間は気安く、心地いい。
さて、残る四人のうち三人は現在、二時間以上もある映像記録と格闘中だった。
集中している際に声をかけると作業が中断されてしまうので、向日葵は紅茶を二人分だけ淹れることにした。
と言ってもティーバッグだが。
意識を加速させる前に指示を出しておいたため、ポットには熱湯がたっぷり蓄えられている。
湯気と共にいい香りを放ち始めたカップを手に取り、片方を学生時代からの親友であり、今は同僚でもある真昼の机に置いた。
「はい、真昼ちゃんの分」
そこで彼女──高峰真昼はようやく気づいたのか「あ、うん。ありがとう」と微笑んだ。
カップを両手で包み、ほっと息を吐く彼女。
あつあつの紅茶も、『歌姫』ならば手のひらから適度な冷気を発することでちょうどいい温度まで調整できる。
二人で一息入れて、
「もしかしてお疲れ? あんまり無理しちゃだめだよ、真昼ちゃんはまだ新人なんだから」
「……ん、ありがとう、向日葵」
二人が同僚になったのは実は今年からだ。
向日葵は最初から教師になるつもりで大学に行き、教員免許を取った。
卒業後すぐ心奏に籍を置き、科目教師を経て今年は担任に選ばれた。
しかし、真昼はそうではない。
大学に行ったのは本人曰く「普通っぽい生活もしてみたいから」。
教員免許を取ったのは向日葵が誘ったのと、もしもの時のため。
結果的にその「もしも」は現実になった。
約三年前──作戦中の失敗で、真昼は一人の中学生に大怪我を負わせ、その治療のためにエナジーのほとんどを失った。
通常、エナジーは消費することはあっても保有上限が下がることはない。
エナジーを満たす器そのものの譲渡──それは『歌姫』としての才能をまるごと明け渡すようなものであり、成功したこと自体が奇跡。
おかげでその中学生──小鳥遊万桜は助かったものの、真昼は『歌姫』としての力を大きく減じることになった。
「さすが、教師四年目は頼りになるなあ」
「ふふん。もっと頼りにしてくれてもいいよ?」
一時期、真昼はひどく塞ぎ込んでいた。
力を失ったから、ではない。
時期的にはもう少し前。万桜に生死の境を彷徨わせてしまったことでひどく自分を責めていた。
『私のせいだ。……歌姫は人を助けるものなのに。人を傷つけて、未来を奪うなんて、私は』
あの時の真昼は手に負えなかった。
向日葵がなにを言っても聞いてくれない。
自分を責め続け、彼女まで倒れてしまうんじゃないか、と思うほど必死に万桜の治療を行っていた。
万桜の双子の妹にだいぶ責められたせいもあっただろう。
『兄さんを死なせたら、あなたを一生許さない』
呪い殺そうとするかのような形相で真昼を睨みつける彼女──小鳥遊奏音の姿は、向日葵でさえ今なお鮮明に覚えている。
結果的には、万桜は助かり奏音と真昼も仲直りした。
向日葵はそのことに心底ほっとしている。
あの頃に比べたら真昼はずっと落ち着いた。
一線を退いたお陰で危険な仕事も少なくなったし、こうして一緒にいられる時間も増えた。
だから、向日葵はこの時間がもっと続けばいいと思う。
そんな思いはできるだけ心の中にしまったまま。
微笑み、ティーカップの中身を飲み干して。
「さて、そろそろ時間だね」
残り三人の同僚たちも映像の確認を終えて復帰してきた。
もっとも、このあとすぐ、今度は思考を加速したうえで意識共有を行い、通常の何十倍もの効率で会議をしなくてはならないのだが。
真昼が苦笑し、
「この会議、長引きやすいのが玉に瑕だよね」
「うん。まあ、グダグダしても大丈夫って思うとつい長くなるよね」
それでも実時間では十分もかからないわけで。
これがないと、総勢約百名の生徒に公平なジャッジを行うなんてなかなかできない。
公平なジャッジといえば、あの小鳥遊万桜について真昼はどう思っているのだろう。
事故によって重傷を負い、真昼の力を受け継いだことで『歌姫』になった
向日葵は彼──もとい彼女との接点がほとんどない。
知っているのは眠っている時の彼と、学院に通い始めてからの彼女。
今の万桜にしても、担当ではないので話す機会がまずない。
特になにもしなければ、彼女はきっと今度は向日葵のクラスか、あるいは1-Cに所属することになるだろう。
果たして、真昼は。
……本当に、悩みの尽きない親友である。
よりによって彼女のクラスには実の妹まで所属しているようで。
せめて、自分が少しでも支えてあげないと。
向日葵は空になった真昼のぶんのカップを奪い取ると、「じゃあね」と小さく手を振った。
またしても苦笑する真昼の様子に少しいい気分になりながら、またお気に入りのチェアに身を預けて。
最も慣れ親しんだ歌を口ずさめば、意識は自然と加速し、会議の場となる仮想空間へと落ちていった。