術者である鹿紫雲が「そう」とどの技に対しても、定義しなかったからだ。
だから、今ここで、
極ノ番。領域展開に並ぶ、呪術師のもう一つの奥義だ。
実際のところ、極ノ番というものはそこまで特別なものではない。
その術式に宿った最強の一撃を各々が極ノ番と呼称しているに過ぎないからだ。
術師全体に広く知られている呪霊操術や相伝の術式などは「これが極ノ番である」と定められた技こそあるものの、鹿紫雲の操雷術式のように、個人が一代で研究したような術式は、あくまでその使い手が自由に極ノ番となる技を定める。
とはいえ、それでも「極ノ番」という名前は軽くない。何故ならば、古来より呪術師の間では「極ノ番は一度そうと定めたら決して変えてはならない」という
「極」とは「極み」。つまり、終着点。その術師の極致を意味する。別に「極ノ番を二回決めてはならない」という縛りがあるわけではないが──そうしている術師も存在する──、元々、呪いというスピリチュアルで儀式的なものを扱う分野の人間にとって、言葉というものはそこに呪術的意味が伴わずとも非常に重い意味を持つ。その術師が極みと発言する価値は並大抵のものではないのだ。そこには一種の「覚悟」が伴うほどに。
前述の通り、極ノ番はその者にとって最強の奥義が該当する技である。本来その意味に従えば、操雷術式の極ノ番には雷霆があたるべきだ。術式によって予め出力上限が設定されているという彼の術式の都合上、威力を上げる創意工夫を全て添加した雷霆こそが彼の最大火力なのだから。事実、鹿紫雲はそれで何人もの術師を葬ってきている。
では、なぜ鹿紫雲は雷霆を極ノ番としなかったのか?
それは……
(認めたくなかった、んだろうな。俺の可能性を。目の前に袋小路が立っていることを)
極みとは、究極とは、決してポジティブな意味のみを孕んでいるわけではない。
完成したということは、それ以上は全て蛇足ということだ。そこから先の成長が存在しないということを自分で定義するということだ。人にとってそれは誇りとなりうるが、その根底に劣等感を抱える鹿紫雲はそれが克服されていない状態を認めることができなかった。
(悔いのない死、ね)
選択のパラドックスという概念がある。
(感謝するよ、宿儺。俺から悔いを一つ、消してくれて)
選択肢がある状況において、人は逆に、何一つも選ぶことができなくなる現象。
目の前に「死」以外がなくなった──選択肢が一つしかなくなった今、ようやく、鹿紫雲は自身を認める決心がついたのだ。
さて。
そんな鹿紫雲の内心は
鹿紫雲の目の前には現在もっと、切実な問題がある。
それはこのままでは宿儺を倒せないということだ。
元より既に、鹿紫雲は完全開示をしてしまっており、更にそれによって放電の出力を向上させている。加えて、本来操雷術式の極ノ番に相当する技である雷霆も出してしまっている。
要するに、とっくに鹿紫雲は既に全力も全力なのだ。これ以上威力を上げる余地などほとんど残っていない。可能性があるとすればより制限を強めた縛りを自身にかけることくらいだが、それをした瞬間完全開示の効果が失われる。追加で縛りなどすれば「宣言をした時点で縛りの内容が全てである」という前提が崩壊するからだ。加えて言えば、そんな選択肢を取る時点で完全開示の縛りそのものを破ることに等しい。その場合、当然縛りを破ったことによる不確定のペナルティが待っている。
だが、「ほとんど」残っていないだ。ほとんど。まだ選択肢はごく僅かではあるが、残っている。
一つは、完全な受肉を済ませること。肉体を生前と全く同じ状態に持っていき呪術的価値を高めることで、より効率よく術式を運用できる状態にする。鹿紫雲が現在老人の姿に戻った理由はこれである。
そしてもう一つ。
たった一つだけ、完全開示を破ることによるデメリットを考慮してもなお、それを上回る威力向上を見込める縛りが存在する。
落命の縛りだ。
「操雷術式・極ノ番──」
落命の縛り。「この技の終了と同時に死ぬ」という縛りを己に新たに課したことにより、完全開示分の出力向上が撤廃され──新たに、術式の出力上限が完全に解除される恩恵が追加される。当然、鹿紫雲はそれによって残り全ての電力を一撃に込める選択をした。
鹿紫雲が背負う光球が、400年の歳月が、全て両腕に集中する。
「宿儺ァ!!! 言っておくけどな!!! 避けられるとか考えるんじゃねえぞ!!! その巨体だ!! 目を瞑っていても当てられる!!!!」
(まあ)
鹿紫雲は少しだけ、技を撃つ直前、自分の人生を振り返った。
呪術師として鍛錬を続けた時代。江戸時代最強として君臨した時代。羂索との契約により受肉を果たし、現代人の肉体で人生を再スタートした僅かな時代。
生前は長く、退屈な時間もあったが……受肉をしてからは、まあ、それなりに、悪くない時間を過ごしていたと感じている。
いや。
退屈。鹿紫雲はここに至って、自身がかつてその生に退屈していたということを思い出した。
(そうだな。退屈だったはずだ。つまらないと、こんなものなのかと、そう感じていた。俺の生は、決して劣等感ばかりじゃなかったはずだ)
むしろ、振り返ってみれば自分の生は強者の驕りのようなものにばかり満ちていたように思う。
常に自分と対等に戦える相手を探していたし。
見どころのある相手を見つけては、少しでも戦いを楽しめるようにしていたし。
そもそも、だからこそ、自分より強いという両面宿儺との戦闘を心待ちにしていたのではないか。
(俺は最強だった。それは間違いない。自分の強さの証明がしたいだなんて目的、とうに達成していたはずだ。それでも俺は強者を求めていた。俺と対等である人間を探していた。何故だ? 何故、俺はそんなことをしていたんだ?)
鹿紫雲はかつて、確実に飢えていた。渇望していた。強い者を求めていた。
そこには理由があったはずだ。
(友を求めていたのか? 違うな。俺は互いを高め合いたかったわけじゃない。あくまで殺し合いは殺し合いだった。なら……)
理由なんて、一つだ。
自分の強さを証明したかった。鹿紫雲の望みがそれであることは変わらない。
ではなぜ、不満だったのかといえば。
「最強」が故に──「測定不能」であったことだ。
例えば。1グラム単位で計れる代わりに1キログラムまでしか計れない精密な重量計があったとして、それを用いて人間の体重を測定しようとするのは適切な用途ではない。1キロまでしか計れない道具で数十キロある物体を計ろうとしても、当然結果はただ「測定不能」となるだけだ。
それと同じだ。
鹿紫雲は誰よりも強く……圧倒的に強すぎたために、比較対象がいなかったのだ。とりあえず誰よりも強いことは確かであったが、誰と比べてどの程度強いか、ということが判然としなかった。手加減をしても勝ってしまうほどに圧倒的だったから。
要するに、新たな欲求を獲得してしまったのだ。「最強になりたい」という目的を達成してしまったから、人間の底のない欲望は「自分はどれだけ強いのか知りたい」という次の目的を求めた。ただそれだけのこと。だから自分の物差しとしてすら機能しない十把一絡げの弱者たちに苛立っていた。自分と同じだけの強者を求めていた。そうであるらしい両面宿儺と戦うためだけに、呪物になってまで次の生を選んだ。
(くだらねえ)
それは鹿紫雲から言わせてもらえば、弱者の思考だった。十把一絡げに扱ってきた雑魚と、他の人間たちと似通った、ごく普通の思考論理。
江戸時代生まれの鹿紫雲から言わせてみれば、さっさと死ねば良かったのだ。目的は達成したのだから、どこか見知らぬ強者と出会って死ぬなり、満足して老衰で死ぬなり、病死するなり……こんな、 みっともなく、生にしがみつく必要などなかった。
半端に強すぎたから。
人格的に超越者になることもできなかったから。
こんなところまで、ずるずると生き延びてきてしまった。
一瞬の輝きを残して、歴史に「鹿紫雲一あり」と刻み付けて、消えていけば……それで全て、満足だったのに。
だから。
今から放つこの技の名前は、こう決めた。
「──『閃光』!!」
光のように。
最後に輝いて消えてゆく、線香花火のように。
世界に輝きのみを残して、消えてゆけ。
鹿紫雲の両手から一際強い煌めきが放たれる。