転移
夏の夕暮れ、剣道場で一人稽古を終えた青年が、ぼんやりと空を見上げていた。
「つまらんな、この世界は」
青年の名前は
『現代には斬るべき敵も、命を懸ける戦もない』
そう言われれば刃は苦笑するが、実際、彼自身がそう感じていた。
スポットライトを浴びるたび、拍手を受けるたび、心は冷えていった。
俺の師匠にして育ての親だった祖父が、亡くなる間際に俺に遺した言葉がある。
――
「いいか、刃。
剣とはな、武とはな――大切なものを守るためにある。人を傷つけるためではない。
決して、その使い方を誤ってはならん。
……だが、わしはお前なら大丈夫だと思っておる。
わしの愚息……つまりお前の親の子とは思えんくらい、立派で、そして優しい子に育ってくれた。
お前なら、必ず“守るべきもの”を見つけられる。心の底から、大切だと――そう思える誰かをな。
それが……わしから出す、最後の宿題じゃ」
――
それから俺は、祖父の言葉を胸に、一人で新しい生活を始めた。
気づけば、もう三年が経っている。
だが──
この時代に、命を懸けてでも守りたいと思えるものなんて、本当にあるのだろうか。
祖父が願っていたような“誰か”を、俺はまだ見つけられずにいる。
一度は捨てたくせに遺産目当てで寄ってきた血のつながった家族。
欲望の色に染まった視線で俺を値踏みするような連中。
何を見ても、何を感じても、世界はどこか薄っぺらく、色が抜けて見えた。
剣を振るう意味も、誰かと笑い合う価値も、すべてが霧の向こうにあるようだった。
どれほど鍛えても、誰も傷つけてはならない世界。
俺の剣は、ただの娯楽でしかないのか――そんな虚しさが、胸にこびりついて離れない。
祖父の“宿題”は、いまだに白紙のままだ。
……なら、せめて。
命を懸けるに値するものがある、戦いの意味がある時代に――
「せめて――戦の時代に生まれていたらな」
そんな独り言を、神が聞き取ったのだろうか。
あるいは、どこかでそれを“待っていた”存在がいたのかもしれない。
瞬きをした――その、たった一瞬の間に、世界は変わっていた。
「……は? 何処だ、ここ……?」
俺は立ち尽くし、言葉を失いながら辺りを見渡した。
夕暮れの街も、剣道場も、蝉の声も消え去り、代わりに目の前に広がるのは――
川沿いの広大な草原。
そこに響くのは、重く乾いた馬蹄の音。
耳をつんざくような火縄銃――種子島の轟音。
槍を手にぶつかり合う、足軽たちの怒号と悲鳴。
「まさか……これ、戦場……?」
焦げた血と土の匂いが鼻を突く。甲冑を着た男たちが次々に斬り伏せられ、槍で貫かれ、地に倒れていく。
そのすぐ傍に、自分は立っていた。
――これは、夢じゃない。
鋼が鋼を裂く音、肉を割る感触、地を蹴って突撃する馬の圧力。
現代では味わうことのない“生”の実感が、刃の全身に突き刺さるように押し寄せてきた。
「おい、あの白髪に赤い瞳をみろよ!?」「忌子かみゃあ?」「新手のつきだみゃあ!」
そんな声が聞こえた直後、視界の端に、横薙ぎに振るわれた刀が飛び込んできた。
本能が、先に動いた。
刃は足元に転がっていた一振りの刀を拾い、身体をひねるようにしてその一撃を受け止めた。
重い。けれど、心地よい重みだ。
腕の震えが止まらないのに――心のどこかが、確かに喜んでいる。
「……いいじゃないか。やっとだ」
誰にも聞こえないように呟いた。
現代では抜くことも許されなかった“剣”が、今ここで、本当に意味を持つ。
命を守るために、命を懸けて戦う――
そういう時代が、目の前にある。
「……やっと、俺の剣が活きる場所に来たんだな。ここでなら、」
かすかな自嘲と、わずかな期待。
心の奥底にしまい込んでいた感情が、剣の震えと共に浮かび上がる。
天城刃――
白磁のように透き通った肌、陽の光を白く弾く銀髪、
そして、燃えるような紅を宿す双眸。
その姿は、戦場にあまりに似つかわしくないほど幻想的で、異質だった。
刃は静かに刀を構えた。まるで今が本番だとでも言うように、動作に無駄がない。
体に染みついた技術と、研ぎ澄まされた感覚が、戦場の風と一つになっていく。
風が吹く。草原の匂いが、鉄と血に混ざって流れた。
「来いよ……今度は、俺が斬る番だ」
乱戦の渦へ、一歩、そしてもう一歩と踏み込んでいく。
刃の目に最初に映ったのは、兵士を槍で突こうとしている、先程攻撃してきた敵兵。
その刹那――
一陣の風を裂くような動きで、刃の身体が駆ける。
「っ!」
抜きざまの一閃。
まるで稽古で振った一本のように、滑らかで正確な太刀筋。
敵兵の槍が届くより先に、刃の刀がその肩口を断ち切っていた。
「な、何者だお前は……!」
助けられた足軽が呆然とつぶやく。
だが、刃は返事をしない。次の敵、次の命が待っている。
その動きは研ぎ澄まされていた。
まるで何かを探すように、迷いなく、冷静に、淡々と斬る。
だが、その眼差しには確かに――“誰かを守る”という、強い意思が宿っていた。
――
小一時間――草原を舞台にした激しい押し合いが、続いていた。
兵たちの雄叫びと、剣戟の音、銃声と馬のいななきが入り混じる混沌。
だがその中に、確かな異変が起きていた。
白銀の剣士――天城刃が戦線に現れて以降、
その鋭くも静謐な太刀筋は、織田軍にとってまさしく“追い風”となって織田軍は劣勢から勢いを取り戻し、今川軍を押し返し始めていた。
斬って、斬って、また斬る。
無駄な動き一つなく、的確に命を止めるその姿に、味方の兵たちは次第に奮い立ち、
敵兵たちは恐怖に目を背け始めていた。
だが――心の奥では、確かに痛みがあった。
「……っ、く……!」
刀の手応え、血の匂い、命が絶える瞬間の目――
それは、稽古や試合では決して得ることのなかった“現実”。
初めての人斬り。
鋼で肉を割き、骨を断ち、誰かの生を終わらせるということ。
その罪の重さが、戦いを終えるたびに心に積もっていく。
刀を振るたびに手が震え、背筋を冷たい汗が伝う。
無意識に歯を噛み締め、感情を押し殺す。
刃の顔には平静が貼り付いていた。
だが、胸の奥では重く鈍い疲労が波のように広がっていた。
初めての人斬りによる精神的疲労――
それは、超人的な技量を持つ彼にとっても、決して軽くはなかった。
――それでも、止まるわけにはいかなかった。
「皆の者! 勇気を奮い起こせ、あと一押しだ!」
軍馬の背に乗った鎧武者が、前線へと姿を現す。
血煙の中、その威風堂々とした声が響いた。
「この機に乗じ、一気に押し込め! 騎馬隊突撃、始めッ!!」
刃の参戦によって勢いを得た織田軍は、前線を突破すべく、総攻勢を仕掛ける。
「足軽ども! 誰か本陣に戻り、信奈様をお守りせよ!」
だが、足軽たちの耳には届いていない。
敵の首を一つでも多く取ることに夢中になり、興奮と勝利の熱に囚われた彼らは、誰一人として引き返そうとはしなかった。
――しかし、ひとりだけ違う男がいた。
「……はっ、はぁ……くっ……」
刃は、戦場を抜けて本陣を目指していた。
袴は切り裂かれ、白い肌には無数の傷が、陽の光を白く弾いていた銀髪には血が固まりつつあった。初めての人斬りでの精神的疲労も相まって、ゆっくりではあるが戦場を抜け、一直線に本陣を目指していた。
仲間の中に彼の名を知る者はいない。
だが、彼はなぜか迷うことなく“そこ”へ向かっていた。
導かれるように――
あるいは、心の奥底で確信していたのかもしれない。
「“信奈様”……この戦の、中心にいる女……」
戦場の混沌の中に、確かに存在していた、強烈な“意志”の気配。
それを感じ取った刃は、本能的に気づいていた。
――この時代を動かすのは、あの名の持ち主だ。
――俺の剣が、向かうべき場所は――あそこだ。
――そして、おそらく……俺が“守るべきもの”の始まり。
それが理由なのか、ただの直感なのかはわからない。
だが、心の底に祖父の声が甦る。
「武とは、大切な人を守るためのものじゃ……」
(分かってるよ、爺ちゃん)
そして――運命が、動き始める。
それは偶然ではなく、すでに定められていたような交差。
この戦場で、天城刃の生きる意味が塗り替えられる瞬間。
それは、ただの歴史の歯車ではない。
天城刃という異物が入り込んだことで、世界がわずかに軋み、ずれ、揺らぎ始める。
そのずれは、やがて大きな渦となり、
幾人もの姫武将たちの“運命”と交差していく。
その最初の出会いが、今――
織田信奈との邂逅として、始まろうとしていた。
だがその時――
この戦場の別の場所で、もう一人の“異物”が本陣を目指して走っていた。
草をかき分け、荒い息を吐きながら、滑りそうな足元を必死に踏みしめる少年の姿――
その表情には焦りと興奮と、ほんの少しの希望が入り混じっていた。
彼の名は――相良良晴。
現代からこの時代へと飛ばされてきた高校二年生の少年。
剣の才などはなかったが、戦国時代の知識なら誰にも負けないという自負を持つ歴史オタク、特に「織田信長公の野望」に情熱を燃やす筋金入りのゲーム好きだった。
異世界に転移して間もなく、彼はとある人物と運命的な出会いを果たす。木下藤吉郎、後に戦国大名・羽柴秀吉となり、ついには天下人・豊臣秀吉となって豊臣政権を築き上げる戦国最大の成り上がり者。
そんな一代の英雄に庇われ、彼の夢である一国一城モテモテの夢と、相方である蜂須賀五右衛門を託された彼は、木下藤吉郎との約束を果たすため、織田家に仕官しようと織田信長に合いに織田の本陣に向かった。
そう、今――
二人の未来人が、それぞれの意志と理由を持って、織田信奈の元へと向かっていた。
刃をハーレムにするか
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する
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しない