「おかしいわね……義龍の軍が、追ってきてないじゃない」
尾張側の川岸。馬上から軍勢を見下ろしながら、信奈がぽつりと呟いた。
その視線の先には、道三や良晴を乗せた筏の群れが、ゆっくりと川を渡ってくる光景があった。
筏の上でそれを発見した良晴が、思わず目をむいた
「……ちょっと待て! なんで信奈がここに!?」
筏の上でそれを発見した良晴が、ぎょっとして目を剥いた。
「清洲城で寝てたはずだろ!? なんで起きてんだよ!」
声が裏返る。
(これじゃ作戦の意味がねえっ! 俺が命張った意味が、ねえっ!!)
内心、思いきり地団駄を踏んでいた。
そして信奈の隣には、案の定というか、柴田勝家の姿。
(あー……そりゃ勝家がいなきゃ尾張軍はまとまらねーけどさ……!)
やがて筏が岸へと近づき、良晴は道三を支えながら水際に上陸した。
信奈は無言のまま馬から降りると、床几に腰を下ろす。
腕を組み、どこか不機嫌そうな顔で良晴を見上げた。
「で――天下一の美少女は、ちゃんと見つけたの?サル」
良晴は眉をひくつかせた。信奈の横で、勝家が申し訳なさそうに肩を落としていた。
(とほほ……)という言葉が顔に浮かんでいる。
「つーか、お前なんで来てんだよ!? しかもほぼ全軍動かしてんじゃねーか! 勝家! お前まさか、信奈に俺の作戦、全部バラしたのか!?」
「し、仕方なかったんだよ!」
勝家は泣きそうな顔で叫んだ。
「信奈さまに『言いなさい』って詰め寄られたら、無理だって! 答えなかったら……命がいくつあっても足りないし……!」
「答えたのはまあ百歩譲っていいとしてもさ、止めろよ! もう一回気絶させとけよ!」
「バ、バカかお前は!? 二度も信奈さま殴れるわけないだろ!? お諫めは……ちゃんとしたよ……!」
「うるさいっ、静かにしなさいサル!」
信奈の一喝が、二人の喧騒をピタリと止めた。
その表情が、すっと真剣なものに変わる。
「それより……サル。義龍の追手、来てたんでしょ? どうしてあんたたちを追ってこなかったの?」
「いや、来てたさ」
良晴は、唇を引き結びながらうなずく。
「でも――霧の中から、飛んできたんだ。手裏剣や苦無が」
信奈の眉がわずかに動く。
「それも、ただの威嚇じゃねぇ。全部、急所。喉、胸、こめかみ――まるで狙いすましたように。義龍の兵は沈んでった」
「……っ!」
「深い霧の中、誰にも見えないはずなのに……あれは、尋常じゃなかった」
「……さっき義龍の兵を殲滅した者にな、心当たりがある」
静かに割り込むように、その声が響いた。
口を開いたのは、道三だった。
「ん? どういうことだよ、道三」
良晴が訝しげに眉をひそめると、道三は重々しく首を振った。
「追っ手の数じゃ。少なかったじゃろう、義龍の兵……」
「……ああ、確かに。十人ちょっとしかいなかった」
「おかしかろう?」
道三の声に、微かな震えが混じっていた。
「本来なら、あの霧の中を突破したわしらを、もっと大軍で追ってきてもおかしくはない。だが、奴らは異様なほどに少なかった……。まるで、他の兵が何かに飲み込まれたようにな」
良晴が言葉を詰まらせる。
信奈や勝家も、ただ黙ってその言葉に耳を傾けていた。
そして――道三は口元を引き結び、低く呟いた。
「それはな……あの戦場に、“死神”がおったからじゃ」
場の空気が一変する。
「……し、死神……?」
「うむ。白銀の外套をまとい、返り血で真っ赤に染まった頭巾。合間から覗く紅い瞳。一振りで五人の兵を斬る異様な剣技。あれはもう、人ではなかった……」
道三の言葉に、信奈が小さく息を呑む。
隣の勝家の表情も、固く強張っている。
「そやつは、ただ一人、斬っていた。戦場を音もなく駆け、義龍の兵ばかりを的確に……迷いなく、容赦なく斬っていった。まるで感情も、魂すらも失った化け物のように、の」
良晴はごくりと唾を飲んだ。
「道三、それ……見たのか?」
「一瞬だけ、な。わしのすぐ近くを通り過ぎていったのじゃ。……その時、わしには一太刀も振るわなかった。まるで……わしを守るように、本陣の前に立ちはだかってのう」
「守った……?」
信奈が目を細める。
「うむ。義龍の兵が次々と斬られていく中で、わしらの陣だけが……不思議なほど無傷で残った。包囲していた部隊も、気づけば全滅しとった」
沈黙が落ちる。
「――あやつ、何者かは分からん。人か、妖か、それとも戦の中から生まれた怨念の化身か……」
道三は、じっと霧の向こうを見つめながら、呟くように言った。
「だが、確かにあの場におった。……“死神”がな」
風が、霧をさらりと揺らした。
誰も言葉を発せぬまま、その白い帳の向こうに何かがいるような錯覚に、全員が小さく身を強張らせていた。
だが――信奈だけは、違った。
誰もが「死神」の名に怯え、得体の知れぬ“何か”の存在に戦慄している中で、
彼女の視線はただ一人、その場にいない男の姿を追っていた。
(……刃)
道三が語った特徴――白銀の外套、紅い瞳、返り血を吸った頭巾。
本陣の前に立ちはだかり、まるで守護者のように道三を庇いながら、一振りで五人を斬り伏せるという異様な剣技。
それらの全てが、信奈の胸の奥に、ある確信を生み出していた。
(……貴方なの?)
無意識に、右手が膝の上で強く握られる。
平静を装っていた瞳が、わずかに揺れた。
探しても探しても、風に紛れるように見つからなかった。
(……刃。もし、その“死神”が貴方なら……)
戦の中で、何を見て、何を背負ったのか。
なぜ、私の前から消えたまま、戻ってこないのか。
誓ってくれたじゃない――「必ず戻る」って。
私の夢を支えてくれるって。私のために、刀を振るってくれるって。
それは、刃がくれた“約束”だった。
まさか、もう戻って来る気は無いんじゃないか。
信奈は胸の奥に生まれた不安を押し殺しながら、再び霧の向こうへと視線を向けた。
その向こうに、彼がいる気がしてならなかった。
――己の何かを切り捨てながら、自分を見失い、ただひとり立ち尽くしている気がして。
そこへ、清洲城で留守居役を務めていたはずの丹羽長秀が早馬を飛ばして駆けつけてきた。
「駿河の今川義元が、二万五千の大軍勢でこの尾張へ進軍を開始。いよいよ上洛する決意を固めたようですね」
やっぱり留守を狙われたわね、全部サルの責任だわ、と信奈が執念深そうな目つきでつぶやいた。声のトーンがやたらに低い。
お前のせいだろうが、とあさっての方角を向きながら良晴が忌々しげに言い返す。
二人の間に立たされている勝家のほうが、お腹がきりきりと痛くなってきた。
「我が軍の置かれた状況は零点です」
「わたしも織田家ももう終わりね。〝尾張那古野〟とは、よくいったものだわ」
「姫、その駄洒落は百点満点で五点です」
「辛いわね、万千代。二十点くらいちょうだい」 「これでも姫補正でおまけしています」
こんな状況でも、長秀は笑顔を絶やさない。
勝家は(長秀ってなんだかすげーな)と底知れぬ丹羽長秀のおおらかさっぷりに畏怖しつつ、懸命に策を考えた。そして、ひらめいた。 「そ、そうだ! 信奈さま、道三どのにお知恵を借りましょう!」 名付けて、〝人頼みの策〟。ところが。
「……うう……腰がっ……腰がっ……」 肝心の道三は筏で揺られている時に持病のぎっくり腰をやってしまったらしく、茣蓙の上にうつぶせに倒れながら「うおおおお」となさけなくもうめいていた。 「う、うぬうう……かほどの痛みはこの道三も生まれて初めてっ……知恵が回らぬっ……」
「だーっ! 肝心の時に役に立たない爺さんだなあああーっ?」
さらに早馬。 「今川軍、尾張領内に突入してきました!」
刃は、良晴たちを義龍の追撃から逃したあと――縮地を使った高速移動ですでに、尾張へと帰還していた。
あの戦場に置き去りにしたものは、あまりにも多い。
人の声。命の重み。剣士としての誇り。生きる意味。そして――信奈の、あのまっすぐな笑顔。
どれも今の彼には、遠く、手の届かぬ幻のようだった。
出奔前から耳にしていた今川義元の上洛の噂。
そして信奈が、美濃へと兵を率いて出陣したこと。――その隙を、今川が見逃すはずがないと、刃は確信していた。
だからこそ、彼は帰ってきた。
誰に命じられたわけでもない。ただ、自らの意志で。
だが、それはもう信奈のためではない。
かつての彼は、信奈のために剣を振るい、未来を信じて戦っていた。
だが今の天城刃は――“死神”。
白銀の外套をまとい、返り血に染まった頭巾を被り、紅の瞳に怒りも哀しみも宿さぬまま敵を狩る存在。
ただ殺し、ただ進む。まるで生者のふりをした亡霊のように。
彼の中の“刃”はもう死んだ。
信奈の隣で生きるべき青年は、あの戦場に消えたのだ。
今の彼が守ろうとするのは――ただ一つ。
まだ、完全に消え去っていない『人間らしさ』。
戦場で、血に染まりながら、それだけをかろうじて握りしめている。
信奈のもとに戻る資格など、とうにない。
うこぎ長屋で、良晴や犬千代たちと笑い合う日々も、自分にはもう戻らない場所だ。
自分の存在を、どこで終わらせるのか。それだけは、自分で選びたかった。
誰のためでもない。信奈のためでも、仲間のためでもない。
これは、“天城刃”という名を背負った亡霊が、自らに下す最後の裁き。
人の道を踏み外し、修羅の道へと堕ちたその先で――
自分を殺してくれる誰かを、探しているのだ。
それが、今の“死神”の望み。
生きる理由でも、戦う目的でもない。ただ、“終わり”を求めている。
刃は、鷲津砦へ向かうことにした。
本来なら、より規模の大きい大高城を狙うべきだろう。
だが、そんな理屈に意味はなかった。
ただの気まぐれ――否、“死神”に成り果てた男にとっては、血の匂いが濃い方を選ぶだけの話だった。
どうせどこに行こうが、待っているのは修羅の道。
であれば、少しでも強い敵がいる場所へ。
少しでも多くの命が蠢いている方へ。
祈るような気持ちで、彼は砦を目指した。
――今川軍が、そこにいてくれと。
倒すべき敵が、標的が、喰らうべき魂が、どうかあの砦に集っていてくれと。
そして、その中に、己を終わらせてくれるに足る者が、ただ一人でもいてくれと。
死神は、歩を止めない。
すでに血に染まりきった白銀の外套を風に揺らし、
感情の一片も浮かばぬ紅の瞳で、ただ前だけを見据えていた。
斬る。それだけのために、進む。
望んでこの道を選んだわけではない。
だが、戻る道はとうに霧の中に消え去った。
人であることを捨て、戦いの中でしか自分の存在を感じられなくなった亡霊。
それが、天城刃という名を捨てきれずに歩く、“死神”の今の姿だった。
今川軍・朝比奈泰朝は、五百の兵を率いて鷲津砦へと進軍していた。
命を下したのは、駿河の覇者・今川義元。
「尾張の砦を叩け」との命を受けた泰朝は、軽く考えていた。
織田の雑兵など、蹴散らして終わると。
だが、それが地獄への入り口だとは――夢にも思っていなかった。
そして、最初の悲鳴が、沈黙を破った。
「ぐあっ!?」
斥候の一人が、気づいた時にはもう首を斬られていた。
その死は音もなく、血だけが風に舞う。
「敵襲ッ! 全軍、構え――」
指揮官の声が飛ぶが、それさえも届かない。
白銀の外套が霧のように現れ、兵たちの間を駆ける。
斬る。薙ぐ。貫く。血しぶきが噴き上がる。
その姿は、まさしく“死神”。
それは死そのものだった。
目は紅く光り、返り血で染まった頭巾が、ますます異形さを増していた。
「囲めッ! 怯むな、ただの一人だ!」
朝比奈泰朝が怒号を上げる。
しかし、兵たちは斬られていく。まるで死を刈るように、無慈悲に。
気付けば自分以外の兵は殺されていた
「……馬鹿な。五百の兵が、一人に……!」
泰朝は太刀を抜き、馬を跳ねさせて突進する。
「うおおおおおおおおッ!!」
気迫のこもった突き。武将としての誇り、意地、恐怖――すべてをその一撃に込めた。
刃は無言のまま、滑るように懐へ入る。
泰朝の太刀が空を斬ったその瞬間、鋭い斬撃が彼の脇腹を裂いた。
「が……はっ!」
泰朝はすぐさま馬を下り、間合いを詰めて斬りかかる。
「斬ッ!!」
重く鋭い太刀筋。並の兵では到底耐えられない技量。
だが刃は、それを紙一重でかわし、返す刀で肩を裂いた。
「ぐ、うあっ……ッ!」
泰朝は膝をつきかけながらも踏みとどまり、地面を蹴って刃の懐に飛び込む。
「死ねぇぇぇええええええッ!!」
その突きは速く、鋭かった。だが――
刃は、泰朝の突きを片手で受け止め、そのまま刃を滑らせて回転するように背後を取り――
ザンッ!!
「が……っ!!」
刃が泰朝の背中を一閃した。鮮血が迸る。
「く、そ、貴様……こんな、奴が……」
泰朝の膝が崩れる。
それでもなお、泰朝は剣を離さなかった。武将としての矜持だけが彼を支えていた。
「貴様一人で……この今川軍を、止められるとでも……!」
答えはなかった。
ただ、刃が泰朝の正面に立ち、静かに刃を構える。
泰朝は最後の気力を振り絞って太刀を振るった。
だが――その腕を、刃の剣が断ち切った。
「……う、あ……」
泰朝は、もはや声も出せず、斬り倒された。
その肉体が地に伏すと同時に、戦は終わった。
五百の兵。名ある将・朝比奈泰朝。
すべて、“死神”の前に屍と化した。
血の匂いが満ちる。風が吹く。
刃は一瞥だけして、泰朝の亡骸に背を向けた。
砦は再び静まり返った。
だがそれは、勝利の静けさではない。死の支配による、沈黙。
風が吹く。
死神は何も言わず、朝比奈泰朝の屍を一瞥し、背を向けた。返り血を滴らせながら、また次の地獄へと足を踏み出す。
そして――
その瞬間。尾張本陣でも、もう一つの“炎”が動き出す。
いきなり、本陣を覆い隠していた幕が開いた。
信奈が、決断したのだ。 その肌は、透き通るように白い。しかし、瞳は紅蓮の炎のようにまぶしい光を放っていた。
やはり、尾張のうつけなどではなかった。家臣たちは思わず、誰からともなく信奈の足下に伏していた。
この姫に籠城はありえない、と勝家も長秀も確信していた。
「六! 小鼓を打ちなさい!」
カン高い声で、信奈が叫んだ。
勝家が、小鼓を取って「敦盛」のリズムを取り始める。
信奈は床几から立ち上がり、幸若舞を舞いはじめた。
辛い時。苦しい時。「死」が目の前に迫った時。
そして、「運命」が、自らの行く手に立ちはだかった時――
信奈は、迷わず「敦盛」を舞う。
その白い衣が、風に揺れる。
揺れ動く袖が、まるで未来を断ち斬る刀のように空を裂き、信奈の小さな身体を光の中で浮かび上がらせた。
細く伸びた指先、静かに踏み出す足取り、紅蓮のような瞳が、ただ前を――己の「定め」を射抜いていた。
人間、二十年 下天の内をくらぶれば
夢幻のごとくなり ひとたび生を得て
滅せぬ者のあるべきか
誰一人、声をあげることもできなかった。 良晴も、勝家たちも、この日この時、自らの死を覚悟した信奈の舞い歌う姿を生涯忘れることはなかった。
舞い終えると同時に、信奈は何も言わず、風のように本陣を飛び出していった。
馬に飛び乗り、ただ一騎で今川軍との決戦へと向かっていたのだ。 信奈が本陣を飛び出した直後、家臣たちが慌てて馬を引き、次々と彼女の後を追っていく。
良晴もまた、血が沸き立つような衝動に突き動かされ、思わず地を蹴って駆け出そうとした――そのとき。
「……逃げぬのか」
重々しい声が、背後から静かに響いた。振り返れば、そこには斎藤道三がいた。
矢傷と血にまみれた老体は、本来であれば休ませるべき身のはずだ。だが、その瞳は鋭く、なおも戦場を見据えていた。
「逃げるかよ、冗談じゃねぇ!」
良晴は振り返りざま、拳を握りしめて叫んだ。
「ここで信奈を見捨てて逃げたら、俺は一生、負け犬のまんまじゃねぇかよ!」
額には汗、けれどその目は燃えるような光を帯びている。
熱が、胸の奥からせり上がってきていた。
「それに……刃に頼まれたんだ。俺がいない間、信奈を頼むってな!」
良晴の言葉には、確かな友情が宿っていた。
無口で、孤高で、でも誰より信奈を想い、そして……良晴のことも、友として信じてくれた男。
「そんなヤツとの約束を破ってまで、生き延びて何が残る? ……俺は、俺自身を許せなくなる!」
その姿に、道三の老いた目がわずかに見開かれる。
「……そうか。ならばおぬしは、立派な“武”を持つようになったのう」
そしてふと、道三は辺りを見回すように目を細めた。
「……そう言えば、アヤツの姿が見えんのう」
「……刃は、出奔してる。一月ほど前に信奈のもとを離れた」
言葉にした途端、良晴の胸にひやりと風が吹いたような感覚がよぎった。
(本当に……あいつ、どこへ行っちまったんだよ)
無事だと信じたい。どこかで生きていると信じている。
道三に一礼し、良晴は再び駆け出した。信奈の背中を追って。
たとえ滅びの運命がそこに待ち構えていようとも。
その時だった。
砂煙を上げて現れたのは、馬に乗った五右衛門と川並衆たち。いつの間にか、彼らはぴたりと良晴の隣に並んでいた。
「相良氏。……どうやら織田家は、ここまででござるな。他家へ行くという選択も、あるでござろう?」
その声は穏やかだったが、試すような気配も含まれていた。
良晴は走りながら、にかっと笑った。
「バッカやろー! 行くわけねぇだろ!」
声に一点の曇りもなかった。
「俺が仕えてやる主君は、天下に織田信奈だけだ! わがままで、無茶苦茶で、すぐ怒る。けどよ――そんな手間のかかる主は、どこを探したって見つかりゃしねぇ!」
その真っ直ぐな言葉に、五右衛門のマスクの奥から、ふふっとくぐもった笑い声がもれたように見えた。
「左様でござるか」
「左様でござるさ!」
良晴が力強く返すと、五右衛門は頷いた。
「拙者と川並衆はどうすればよろしいのですかな、相良氏? さがらうぢをおまもりいたちまちゅか?」
「五右衛門たちには重要な任務を任せたい。俺は一人でもだいじょうぶだ 忍びの術を用いて義元の行軍を攪乱し、一時的に足止めしてくれ。信澄たちが今川軍に接近して声をかける機会を設けてくれ!」
「御意。あの脳天気な輿を担いでいる連中のうち、一人か二人を殺せば進軍はしばらく止まりまちゅな。そこに、おんにゃのこたちがあらわれれば」
「おっさすがは忍者だが、逆効果だからおおごとにはするな。失神させればそれでいいぜ? この暑さで倒れたと思わせる程度にな」
「なるほど」
「それと、川並衆のおっさんたちは田楽坪一帯の水辺に潜んでいてくれ。最後の最後に今川義元を取り逃がさないための伏兵だ。信奈には、義元の逃走経路を塞ぐための余分な兵力はないからな。全軍一体となって義元の本陣に突進する以外に信奈には勝機がないんだ」
任せておけ坊主!
てめえ、たいした度胸と閃きだ! と川並衆がいっせいにうなずく。
「承知いたした。ですが、行きはよいよい帰りは怖いと申しますぞ。さがらうぢ、ごぶうんを」
そうして、戦の風の中――
信奈の背を追うために、良晴たちは、再び前だけを見て駆け出した。
その一歩一歩が、返り血を滴らせる足跡となって戦場に刻まれていく。
地面に残る斬撃の跡、真っ赤に染まった草原、転がる無数の死体。
すべてが、ひとりの男が通り抜けた証。
誰も叫ばなかった。
誰も逃げられなかった。
いや――逃げる間もなく、死がすべてを飲み込んだのだ。
だが、刃はその光景に何の誇りも、快楽も感じていなかった。
ただ一つ、静かに息を吐く。
向かう先は――桶狭間。
彼の中に、まだ確かに残っていた“人間らしさ”。
それは、幾度も修羅の道を歩き、血を浴び、恐れられ――
それでも消えなかった、刃という男の“核”だった。
――死んで欲しくない。
信奈に。
良晴に。
犬千代に。
あの、騒がしくて、温かくて、くだらない話で笑いあえた仲間たちに。
たとえ、自分の手がどれほど血にまみれていようと。
たとえ、どれだけ死神と呼ばれようと。
大切な人たちの命だけは――決して、奪わせはしない。
「……良晴がいる以上、必ず行く」
低く、確信に満ちた声が漏れる。
誰にも届かぬその声には、信頼と覚悟が宿っていた。
あの男は、どれだけ無謀でも、信奈の傍にいる。
どれだけ絶望が迫ろうとも、前を向いて走り続ける。
ならば――自分もまた、その背に剣を添えよう。
無謀と無謀が並び立つなら、それは狂気ではなく、意志になる。
桶狭間。
今川義元という、数万の兵を従えた巨象が座す、決戦の地。
そこが、次なる地獄であることを、刃はよく理解していた。
だが、その足は、微塵の迷いもなく、血に濡れた草原を踏みしめていく。
「……姫様。貴女の夢を――途切れさせはしない」
その言葉に、悲壮な決意はない。
あったのは、ただ静かな誓い。
ただの主従ではない。
憧れでも、恋でも、敬愛でも言い表せない、確かな“何か”。
名付けるにはあまりに複雑で、強くて、優しい想い。
刃は風を切って、血の道を歩く。
その姿は、死を運ぶ白銀の影であり――
同時に、誰かを守ろうとする、ただの人間だった。
良晴は、田楽狭間に今川義元の本陣があるのを確認し信奈に報告に行こうとした──しかし、すぐに追っ手が迫った。
影のように背後から現れたのは、松平元康の配下にして東海最強の忍。
服部半蔵。
「くそっ、見つかったっ!」
次の瞬間、手裏剣が空を裂く音が響いた。
シュバッ! カシュッ!
左の脇腹、右のふくらはぎ、背中……鋭い刃が次々とかすめ、良晴の体に浅く、しかし確実な傷を刻んでいく。体力が、じわじわと削られていくのがわかる。
──それでも、直撃だけは避けていた。
「なぜだ……なぜ当たらぬ、これほど近距離で……!」
半蔵の声が、焦りを含んで震える。
「……俺が倒れたら……信奈はどうなるんだよ……! 絶対に生きて帰るっ!」
もう、どこをどう走っているのかすらわからない。ただ、本能のままに山の中を駆けていた。転げるように、跳ねるように、ただ逃げる。それでも、目がかすんで視界が滲む。
そのとき、背後で半蔵が低く呻いた。
「……かくなる上は、我が美学に反するが……ハンミョウの毒を塗った手裏剣で、貴様の息の根を止める!」
「……ど、毒ぅ!?」
「かすっただけで死ぬ……成仏せい!」
半蔵が束にした棒手裏剣を空へ投げ放つ。鈍い金属音が空気を裂き、死の雨となって降り注いだ。
良晴の足がもつれた。
傷と出血で、もはや限界だった。
「ち……ちくしょおおおっ!」
地面に崩れ落ちる良晴に、毒手裏剣が迫る──その瞬間。
カンッ! キンッ! カシュンッ!
手裏剣が、空中でことごとく打ち落とされた。
槍だった。
まるで嵐のように振るわれた長槍が、良晴の周囲に降り注ぐ死の刃を、全て薙ぎ払っていた。
「だ、誰だっ!?」
「……良晴、加勢に来た」
月明かりの下、槍を構えて立つ小柄な少女。その目には、静かな怒りが宿っていた。
「犬千代っ!」
救いの声に、良晴が涙をにじませた。
だが半蔵は冷静だった。わずかに眉を動かしただけで、淡々と忍者刀を抜く。
「ふん。一人が二人に増えようが、結果は変わらぬ。まとめて討ち取るまでよ」
「待て犬千代! こいつマジで強いんだ!」
「……犬千代も、強い」
犬千代、本名を前田利家。
戦国ゲームやドラマでは、うっかり者でお人好し、出世は奥さんのおかげ、甥にからかわれて風呂で風邪をひいた──そんな間の抜けたイメージが定着している武将だ。
だが、それは史実のほんの一端にすぎない。
本物の前田利家は、槍を取れば敵なしと称された、恐れ知らずのかぶき者。
ある戦では、目のすぐ下に矢を受けながらも一切表情を変えず、戦い続けたという逸話すら残されている。
「貴様の槍には、もはや手裏剣は通じぬな──ならば、刀で参る」
シュバッ!
半蔵が一気に間合いを詰め、忍者刀を犬千代の喉元へと突き込む。
しかし、犬千代の長槍が寸分の狂いなく、その刃を弾き飛ばす。
ガキィンッ!
火花を散らして、槍と刀がぶつかり合う。
犬千代が一歩踏み出し、槍を斜め下からすくい上げるように薙ぎ払う。
半蔵がそれを紙一重で避け、低い姿勢で斬り込む。
──速い。速すぎる。
「……刃より、遅い」
犬千代が、小さく呟いた。
良晴の目には、もはや二人の武器の軌道すら捉えられなかった。
ただ、光の残像と鋭い風切り音が交差するばかり。
互いに一切の表情を崩さず、まるで精密機械のように得物を操り続ける。
加勢したくとも、入り込む隙はない。どんな達人でも、踏み込めば命を落とすだろう。
良晴には、ただ一つだけはっきりと分かることがあった。
──両者の実力は、完全に伯仲している。
しかし──。
(……体力に差がありすぎる。長引けば、負けるのは犬千代だ!)
良晴は歯を食いしばりながら、必死に拳を握りしめていた。
その一方で、服部半蔵もまた、内心で舌を打っていた。
(この娘……ただの突撃馬鹿ではない。動きに無駄がない……)
「ちっ……貴様、防ぎ続けて時間を稼ぐ気か!」
犬千代は何も答えない。無言で構えを変え、息を整える。全身が汗に濡れているが、目だけは鋭く光を失っていなかった。
「……そう」
その一言に、半蔵の口元が歪む。
「だが──しょせんは小娘の細腕よ。体格も技量も互角なら、最後は体力がものを言う。息が上がったところを──殺す。貴様も、その男もな!」
バチン、と緊張が弾けるように空気が張り詰めた。
──マズいな、と良晴が思ったその刹那。
ゾワッ。
空気が変わった。
背筋をなぞるような、冷たい戦慄。
まるで山の木々すらざわつき、夜の気配が沈黙したかのような、不穏な気配。
犬千代と半蔵、二人の視線が同時にその場に落ちた「異変」に向いた。
草を踏みしめる音が一歩。また一歩。
ゆっくりと、だが確かな重みをもって──
新たな影が、静かなる戦場へと歩み寄ってくる。
風が止まり、虫の声が消え、時さえも凍りついたかのような沈黙。
ただ、草を踏みしめる足音だけが、場を支配していた。
やがて雲が流れ、夜空の月が顔を覗かせる。
その淡い月光が、闇の中に浮かび上がらせた。
──真紅の頭巾。
その隙間から覗くのは、深く燃えるような紅い瞳。
羽織る外套も、袴も、深紅。かつて鮮烈だったはずのその布は、激戦の痕を物語るように所々が裂け、風に揺れていた。
まるで、血に染まり、死を纏って現れた亡霊。
見知らぬ異形の剣士に、服部半蔵はわずかに目を細めた。
ただ立っているだけなのに、その佇まいには明確な「死」の気配があった。
動きに無駄は一つもない。呼吸すら抑え込んでいるかのように、気配が読めない。
──そして、次の瞬間。
斬撃。
それはもはや、“振りかぶる”という常識すら飛び越えていた。
踏み込みもなければ、殺気も、予備動作すらもない。
ただ、視界がほんのわずか揺れたかと思った瞬間──
紅の影が、すでに自分の懐にいた。
そして、鋭い刃が、喉元を掠めた。
「っ──!」
服部半蔵がその一閃を避けられたのは、まさに奇跡だった。
見ていた。視線も外してはいない。
なのに気づけば、間合いを完全に制されていた。
まるで空間そのものをねじ曲げて移動してきたかのような、一閃。
風のように静かで、雷のように鋭い。
意志すら感じさせぬ、冷たい殺意。
半蔵は条件反射で身を引き、紙一重で命を繋ぎとめる。
──何者だ、こいつは……!
正面から殺し合って生き延びられる相手ではない。
これは任務遂行どころか、命そのものが危うい。
「……ヤバい、これは──ここで退く!」
咄嗟に印を結び、半蔵は煙玉を叩きつけた。
爆ぜるように霧散する煙の中、彼の姿は一瞬で掻き消えた。
刃も移動しようとした時
「……刃」
犬千代の呟きのような声が、闇に溶け込むように響いた。
その一言に、刃の足が思わず止まる。
「……刃……今まで何処にいたの?犬千代……いっぱい、探した」
犬千代の震えた声には、焦がれるような寂しさと安堵、そして押し殺してきた感情の滲みがあった。
まるで、迷子の子供がやっと見つけた大切な人に縋るような──そんな響きだった。
刃をハーレムにするか
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する
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しない