夜の静寂に、犬千代の震えた声が溶けていく
そのかすかな声に、刃はわずかに肩を揺らした。
振り返ることはない。ただ、月明かりに照らされた赤い外套が、風にふわりと揺れる。
「え、刃なのか? あんなヤバそうなやつが……?」
良晴が息を呑み、困惑したように声を上げる。
「犬千代の勘違いじゃなくて……?」
犬千代はゆっくりと首を振った。
その瞳は、まっすぐに赤い影を見据えている。
「……違う。あれは……刃」
揺るがない声音。確信と、生きていた事への安堵、そして──言葉にならないほどの寂しさがにじんでいた。
──その瞬間、刃がわずかに振り返る。
月光に浮かぶ紅の瞳が、ほんの一瞬だけ犬千代の視線と交わる。
そして次の瞬間、風が吹いたかのようにその姿はふっと闇に溶け、気配までも掻き消えていた。
その場には、ただ風に揺れる木々のざわめきと、夜の静けさだけが残されていた。
「……刃っ……」
犬千代の小さな声が、またひとつ夜に吸い込まれていく。
「なんで……なんで何も言ってくれない……? 犬千代……ずっと、待ってた……」
涙が溢れる。止まらない。
「ひめさまも……みんなも……犬千代だけじゃない……でも……犬千代……ずっと、信じてた」
声が震える。喉の奥がつまる。それでも、犬千代は言葉を紡ごうとする。
「また会えたら、きっと笑ってくれるって……前みたいに、馬鹿な話して……ご飯食べて……一緒に、戦えるって……思ってた……」
良晴は何も言えなかった。
ただ、月明かりの下で肩を震わせる犬千代の背を見つめ、唇を噛みしめる。
「……犬千代のこと、きらいになった……?」
呟きのような声が、風に紛れ、夜に消えた。
答えのない問いを残して──
信奈は、唇をかみながら本陣の一角に立っていた。焦燥と不安を押し殺し、帰らぬ斥候たちの報せをじっと待っている。夜風が吹き抜けるたびに、彼女の茶色の髪が揺れた。
そこへ、息を切らし、身体中に手傷を負った良晴と犬千代が駆け込んできた。
「犬千代にサル? どうしたの、そんなボロボロで……!」
「……大高城へ向かっている義元の本隊を、良晴が見つけた」
犬千代が、声を振り絞る。
信奈の目が見開かれる。
「なんですって……!」
「……本隊は約五千。各地に展開している他の部隊からは完全に孤立。今、女装した信澄とその親衛隊が兵士たちに酒を配って足止めしている。その場所は、『桶狭間山』そこを奇襲するんだ」
「あの勘十郎が? 義元を? 足止め? ほんとうなのサル?」
信奈の声は、震えにも似た驚きと希望をはらんでいた。
「……ああ」
良晴がうなずく。その声には、迷いも虚勢もなかった。
「だけど……わたしが放った斥候たちは、誰一人戻ってこなかったのよ。信頼できるの? それだけで、動くなんて……!」
信奈の疑念。それは決して彼らを疑っているのではなく、覚悟を決めるための最終確認だった。
その言葉に、良晴は一歩前へ出て、血の混じった泥を踏みしめながら答える。
「俺と犬千代が、生きてここに戻ってきた。それが答えだ」
そして、一瞬だけ視線を落とし、静かに続ける。
「それと――刃が、桶狭間山に来てる。俺たちがここまで戻って来られたのは、あいつのおかげだ」
その一言に、信奈の全身がこわばった。
「っ……刃が……?本当に……本当に、刃なの?」
信奈の声は震えていた。怒り、驚き、安堵、疑念、そして――どうしようもない寂しさが、言葉の端々ににじんでいた。
「……あれだけ、探したのよ。勘十郎の件が終わってから……私は毎晩、地図を広げて、何度も斥候を飛ばして、寝る間も惜しんで情報を洗って……。私が自分で探しに出ようと、本気で思ったくらい……あの子を、諦めたくなかった!」
拳を握りしめる。爪が手のひらに食い込むのも構わずに、感情の奔流が言葉としてこぼれ落ちていく。
「……美濃で“死神”の事をマムシから聞いた時、私……直感したの。もしかしてって……刃なんじゃないかって。だけど……もしそれが本当なら――もう、戻って来る気なんてないってことじゃないかって……」
言葉を区切るたびに、唇が震えた。
「でも……それでも……!」
視線を落としたまま、絞り出すように。
「私は、信じてた。信じたかったの……“絶対、戻る”って。そう言ってくれたあの言葉を……信じたから、待ってたのに……!」
ぐしゃっと歯を噛みしめ、視線を持ち上げる。
その瞳は潤んでいるが、強い光をたたえていた。
「……なのに。なのに、なんで……尾張に戻ってきたのに、私の前に……現れてくれないの……?」
声が小さくなる。けれど、その問いは誰よりも深く、心の底からの叫びだった。
「私のことなんて……もう、どうでもよくなったの? 私のそばにいるって、私のために刀を振るうって言ってくれたのに……そんな簡単に、忘れられるくらいの存在だったの……?」
その場にいた誰もが、言葉を失った。
信奈の涙は、静かに夜風に流されていく。
信奈の叫びのような言葉が、夜の風に消えていく。
その場にいた良晴も犬千代も、返す言葉をすぐには見つけられなかった。
信奈の瞳にあふれた涙と、絞り出すような声。
それは、主君としてではなく、一人の少女としての本心だった。
良晴は、ぎこちなく肩を揺らしながら、静かに口を開いた。
「……信奈。あいつが……刃が、ここまで来て姿を見せたってことは……きっと、お前のこと、どうでもいいなんて思ってないはずだ」
視線を伏せ、拳を握りしめる。
「……ただ、すぐには戻れなかっただけなんだ。戻る資格がないって、そう思ってたのかもしれない。……何かを無くしちまって、切り捨てて、壊れて、変わっちまって……それでも……」
良晴は目を細めて、遠くを見やる。
闇に溶けた、紅い影を思い出すように。
「それでも……あいつは、今も“刃”だった。俺らを助けてくれた時も、俺や犬千代を守るように動いてた。口では何も言わなくても、そう感じたよ」
その言葉に、犬千代がそっと頷く。
彼女は一歩、信奈に歩み寄り、小さな声で、それでも真っ直ぐに言葉を紡いだ。
「……刃、犬千代の声に、反応してくれた。……ほんの一瞬だけ、だったけど……でも、立ち止まって、見てくれた。……犬千代のこと、ちゃんと……覚えててくれた」
信奈の顔を、じっと見つめる犬千代の瞳にも、うっすらと涙が浮かんでいる。
「姫さまのことも……忘れてるわけ、ない。……ただ、今の刃は、きっと……迷ってる。近づく資格があるのか、自分で自分が、分からなくなってる」
信奈は静かに目を伏せたまま、両手を胸の前で組みしめるようにして、ふるふると唇を噛み締めていた。
その沈黙を、良晴が優しく破る。
「……だからさ、信奈。待ってるだけじゃ、もう駄目なんだよ。刃を……信じてるなら、想っているなら、お前が、あいつの手をもう一度引っ張ってやんなきゃ」
信奈はゆっくりと顔を上げた。
涙を浮かべながらも、瞳には確かな炎が灯っていた。
信奈は、拳をぐっと握りしめた。
涙に濡れた頬を袖でぬぐい、深く息を吸い込む。
「……うん。もう……待ってるだけじゃ駄目よね」
低く呟いた声は震えていた。けれど、そこには確かな意志が宿っていた。
「刃が……どんな姿になっていようと、何を無くしていようと、私が信じてる限り、繋がってる。だったら、私があいつを連れ戻す。あの子が背負ってしまったものごと、私が全部引き受けてやる。だから……絶対に、私のところに戻らせる。生きて、帰ってこさせるのよ!」
信奈は静かに顔を上げた。
月明かりが、その頬に残る涙の跡を照らし、金の瞳に宿った炎を反射させる。それは、恋い焦がれた一人の“刃”を追う少女の顔であり、戦場を統べる“織田の当主”の顔だった。
「……私のすべてを、この戦に賭ける!」
瞬間、地を割るような声が野営地に響いた。
「これより出陣! 織田家に残された全軍をもって、全速で桶狭間山へ進撃! 標的は今川義元本陣よッ!」
柴田勝家が、雷に打たれたように目を見開いた。
「――御意ッッ!」
力強く頷くや否や、法螺貝を高らかに吹き鳴らす。腹の底から響くような咆哮が、静まり返っていた野営地を一瞬にして戦場へと変えた。
それを合図に、織田軍の兵たちが一斉に立ち上がり、鬨の声を上げる。
「全軍、構えよ! 進路は桶狭間山!」
「敵将、今川義元は目前だァァァ!」
「死ぬ覚悟を決めろォ! 名を残す戦が始まるぞ!」
混乱はなく、恐れもない。ただ、信奈の背中に続こうとする強い意志が、兵一人ひとりの瞳に灯っていた。
「敵は、桶狭間山にあり!」
信奈が馬上で振り返り、叫ぶ。
「死のうは一定! 今日のこの合戦を、未来永劫、日ノ本の歴史に語り継がれる伝説にするのよ! だから――みんな、わたしに命をちょうだい!」
その瞬間、織田全軍が轟音のごとく動き出した。
夜の静けさが、戦の咆哮に押し流されていく。
良晴と犬千代も、急ぎ応急手当を済ませると、すぐさま腰に刀を差し、兜を締め直した。
もはや偵察でも、傍観者でもない。二人とも、今はれっきとした“兵”として、信奈と共に戦う覚悟を決めていた。
「……行こう、良晴。立てる?」
犬千代が静かに問いかける。だがその目は、燃えるような闘志に満ちていた。
良晴は、大きく肩を回してみせた。
「――ああ、行こうぜ、犬千代。……不思議だ。全身が熱くてほてってる。痛みも、疲れも感じねぇ。今ならな……刃もぶん殴れる気がするぜ!」
「……良晴が……あらぶっている」
犬千代が珍しく、ぽつりと呆れたようにつぶやく。
けれどその頬も、わずかに紅潮していた。主君のために、そして、あの白い剣士のために。今、この戦場に立つ意味は、誰の胸にも確かに宿っていた。
信奈の茶髪が夜風にたなびき、その背に、仲間たちの想いが続く。
――その先には、刃がいる。
ならば、どんな地獄でも構わない。
信奈は、迷いなく、真っすぐに突き進んでいた。
その時、快晴だったはずの空がいきなり真っ黒い雲に覆われ、激しい雷とそして豪雨とが襲ってきた。 それはまるで天が泣いているかのようだった。
「これぞわが天運!この嵐に乗じて、まっすぐに桶狭間山を襲うのよ! 雑兵は捨ておきなさい、狙うは今川義元ただ一人!」
ただの幸運じゃない。なにもせずに奇跡を待っていたんじゃない。
信奈は昨夜からこの瞬間が訪れるまでじっと耐えに耐えていたんだ。
ずっと、自分の中の恐怖と戦ってきた。
今ついにその意志の力で唯一の勝機を摑み取ったんだ、と良晴は思った。
雷と雨が地鳴りのように響き渡る中、織田軍は怒涛のように進撃を開始した。
前が見えない。豪雨に視界を塞がれ、落雷の閃光に音を奪われる。だが、その一兵たりとも足を止めない。
いまや複数の戦線に展開していた今川軍の各部隊は、この想像を超えた天災の中、織田軍の猛進にまったく気づくことができなかった。
ただ、服部党が構築した「結界」の本拠地──鳴海城から桶狭間山に至る一帯を見渡せる高根山。
その山頂に立つ服部半蔵だけが、黒い龍となって泥濘と化した大地を突き進む織田勢の姿を、その驚異的な視力と聴力によって捕捉していた。
「すぐに今川方の侍どもに知らせねば」と逸る下忍たちを半蔵は腕ひとつで制止しつつ、
「あれは、龍だ。人ではない。われらは、なにも見なかった」
これは、あの者との“賭け”の結末を見る時。
そう、誰に向けるでもなく、低くつぶやく。
そして、まるで雷鳴の隙間に紛れるように、音もなくその場から姿を消した。
田楽狭間――桶狭間山の南麓に広がる谷間。
今川本陣の援軍が駐屯するその地に、突如として暴風雨が叩きつけた。
黒雲が空を呑み込み、雷鳴が天地を裂き、豪雨が兵たちの視界と聴覚を奪う。
槍の穂先は震え、泥濘に足を取られ、号令は雨音に掻き消される。
――その中で、突風を裂くように、一人の男が現れた。
紅い外套をまとい、頭巾から覗く赤い双眸が、戦場の全てを静かに見下ろす。
歩を進めるその姿に、兵たちは、戦意よりも先に“恐怖”を覚えた。
刃――“死神”
「っ……誰だ!? 貴様、どこの軍の者だ!」
問いかけに応じる声はない。
ただ、雨の帳を裂いて進む一人の影。
「ま、待て……あれは……ッ!」
「ひ、人違いだろ……! いや、まさか……あの……!」
言葉を濁す兵士たちの声が、震えている。
“美濃の死神”――
一夜にして、美濃の戦場で数百を屠ったという伝説の剣士。
その異名は風の如く、尾張を越え、遠江の隅々にまで響いていた。
「ば、ばかな……なぜここに……!」
「く、くるな……来るなッ!」
副将格の男が怒声を張り上げるも、空気は変わらない。
刃の赤い瞳が、無感情に彼らを“数”として見ていた。
「ッ、全員構えろ! 槍を突き出せッ! 一人だ、囲めば――」
その言葉が終わる前に、刃が、消えた。
一歩。二歩。
足音は聞こえず、ただ――気づいた時には、首が飛んでいた。
赤い軌跡が、雨の帳に浮かび上がる。
雷のような速度。風のような間合い。
刀の動きは見えない。
兵士が瞬きする間に、喉に紅い線が走り、崩れ落ちる。
「――ッ!? 今……何が……!?」
「う、うわああああッ!!」
叫び、突進してくる兵を、刃は迎え撃つ。
だが剣を振るうのではない。滑るように体を沈め、重心を崩さぬまま跳ねる。
空を切る刃――ではなく、肉を裂く事実だけが残る。
次の瞬間、兵士の腹が裂け、内臓が泥に落ちる音だけが響いた。
「弓隊ッ! 距離を取って射かけろッ!」
命令と共に、数十の矢が放たれる。
が、刃は――
その全てを読むように、跳んだ。
矢の雨の中で、地を蹴り、回転し、刀を振るいながら空を裂く流星と化す。
紅い外套が翻り、弧を描いたその軌道の終着点には、侍大将の姿があった。
「ま、まて……」
止まった時間の中で、首だけが飛ぶ。
馬上にあったはずの首級が、泥の中に沈むその音だけが、やけに現実的だった。
騎馬は主を失ったまま、嘶きと共に逃げ去る。
その瞬間――誰もが動きを止めた。
恐怖で膝が抜け、叫ぶことすら忘れた兵たちが、ただ刃を見つめていた。
白銀の髪が濡れそぼり、紅い瞳が静かに戦場を見据える。
「い、いやだ……こんなの、戦じゃない……ッ!」
「悪魔だ……あれは人じゃねえ……!」
しかし、雨の奥から、増援が続々と谷に流れ込んでくる。
誰一人、この地で何が起きているかを伝えぬまま、ただ無防備に――
刃は、静かに刀を構え直す。
その姿に、本能が告げた。
これから始まるのは、“戦”ではない。
一方的な“処刑”だ。
紅い外套が泥濘を滑るように駆ける。
次の刃が振るわれ、雨の帳に血が弾け飛ぶ。
(……姫様たちも命を賭けている。ならば、俺も命を賭けて、敵兵の数を減らす)
そう呟いた心の奥で、別の声が囁く。
(――いないのか? 俺を“殺してくれる”奴は)
戦いの中でしか、自分が“生きている”と感じられなくなった亡霊は人の道を踏み外し、修羅の道へと堕ちたその先で――自分を殺してくれる誰かを、ずっと探している。
――だが、この地獄の谷には、まだその“誰か”はいなかった。
未の刻。
未曾有の豪雨が、にわかに止んだ。
「全軍突撃、かかれえっ!」
義元が今まで聞いたことのない、雷のような少女の声が、一瞬の静寂を破っていた。
義元が、そして義元に侍る小姓たちが、いったいなにが起きているのかを理解する前に、桶狭間山の麓から突如として鬨の声が鳴り響いてきた。
織田軍の奇襲部隊が、今川義元ただ一人を目指して、坂を駆け登ってきたのだ。まさか、と義元は目を疑った。酔った今川兵同士でのケンカがはじまったのではないか、と思った。
しかし、違った
「今川義元、覚悟! 織田家筆頭家老・柴田勝家、ここに見参! この一戦をあたしの禊ぎの一戦とする!」
織田家最強の猛将、柴田勝家。雀のような愛らしい小鳥を描いた旗印からは想像もつかない無双の剛勇ぶりを発揮しながら、触れる敵をことごとく薙ぎ払い、蹴散らし、「十二単! 見つけたぞ!」と義元をめがけて坂を駆け登ってくる。
「……前田犬千代、見参。がお、がお」
「丹羽長秀、参ります! 姫、一世一代の奇襲は完璧なまでに成功です。満点どころではありません!」
「闇に潜む日陰の忍び・蜂須賀五右衛門、流れに乗せられてこっそりさんちぇんでごじゃる」
「待て。待ってくれ。俺さまは未来人・相良……ふぎゃっ……良晴……ふげっ……まともに走れねえ! 足場がぬかるみすぎてるだろ!」
「槍も使えないサルは戦わなくていいわよ! 勘十郎を見つけて保護しなさい!」
「とはいえ、あいつがどこにいるのかさっぱり……ふぎゃっ!また転んだ!」
あ。ああ。ああああ。このわらわが、織田軍に包囲されている!?
いない。こういう時に義元の盾となって死ぬはずの、古参の家老たちの姿もない。どうやら勘子が森の中に引き入れてしまったらしい。
あの娘は、織田方の間者だった。まさか死地の谷底ではなく、見晴らしが利く山頂へ誘導されるとは──迂闊だった。
「そんな、そんなはずはありませんわ……っ」
雨に濡れた睫毛の奥で、今川義元の瞳が大きく見開かれた。
「たとえこの豪雨で敵兵の姿がかき消えていたとしても……侍の目には映らなかったとしても……元康さんに仕える服部党の結界を……破れるはずが……っ!」
混乱に震える声音で叫びながら、義元は周囲を見渡す。
「誰か、誰か……っ! わらわを守りなさい……っ!」
けれど、応える声はない。
今川五千の本隊――そのほとんどは、まだ雷雨と泥濘を避けて周囲の森に分散していた。指揮もなく、連絡も取れず、雷鳴とどろく戦場で義元の居所すら把握できていないのだ。
輿も、馬も、ない。
輿は担ぎ手を失い、馬は麓の木に繫がれたまま。
義元はついに床几から立ち上がり、自らの足で山を駆け下りようとした。――否、駆けた。十二単の裾を泥で重く濡らしながら、滑るように斜面を這い下る。
視界の先、かすかに残された退路が一筋だけ開かれていた。
そこは、先ほどまで堂々と行軍していた大高城への街道。唯一、まだ織田の手が及んでいないように見える方角だった。
(逃げねば……一刻も早く……元来た街道へ……大高城へ……!)
その一心で、義元は山肌を転がるように逃げた。
しかし、豪雨に削られた斜面は足場が悪く、踏みしめた途端に足を取られ、泥の坂を転がり落ちる。
気づけば――そこは田楽坪。池と泥田に囲まれた、戦場の底だった。
(あと少し……あと少しで……!)
義元は泥を這い、泥田に身を沈めながらも、十二単を一枚また一枚と脱ぎ捨て、身を軽くして進もうとする。
しかし。
水を割る音が響く。
泥田の中から、まるで地の底から湧くように、濡れ鼠のような男たちが次々と這い上がってきた。
「なんと美しい姫だみゃあ……だが、俺たちは親分に忠誠を誓う川並衆!」
「甘く見んなよ、相良の坊主とは違うんだ!」
「今川どの――お覚悟を!」
泥にまみれ、武具もまとわぬ、しかし目だけは獣のように鋭い者たち。どれも、今川の旗に忠義を誓う者ではない。織田に雇われた――あるいは金と正義に突き動かされた――討ち手たち。
そして――その場に、鬼神のような猛将が躍り出た。
「今川義元っ!!」
泥田を一息に蹴り上げ、裸足のまま駆けてくる小柄な影――だが、その手に握られた脇差は、鈍く濡れて煌めいていた。
「お前は十倍を超える兵を率いながら、姫さまに――信奈さまに――敗けたんだ!」
声が、雷鳴を切り裂いた。
「今川家は、もう終わりだ! この上は潔く、首を渡せっ! 覚悟っ!」
鎧兜をすべて脱ぎ捨て、絢爛な戦装束の下から現れたのは――織田家筆頭家老・柴田勝家。勝気な顔には泥が跳ね、紅の瞳は烈火のごとく燃えていた。
ずぶ濡れの義元に飛びかかり、腕をつかむ。
そのまま、泥濘の上に組み敷いた。
「これも、戦の習わし……ッ! 御免!!」
脇差が、義元の首筋に向かって閃いた。
そうだ……たとえ敗れても、生きると……雪斎と約束していた。
死ぬわけにはいかぬのだ。こんなところで。
悔しくても、惨めでも……。
「……誰か、誰でもいいから、助けて……っ!」
泣き声だった。
「わらわは、まだ……死にたくない……っ!!」
高貴な姫将軍の面影はどこにもない。泥まみれの顔を歪ませ、必死に命乞いする姿は、ただの一人の少女だった。
その時勝家の背後から泥まみれになって駆けてきた一人の少年足軽が、
「待てぇえええええっ、勝家えええええっ!!」
背後から、泥まみれの少年足軽が斜面を滑り降りるように駆けてきた。
荒れ狂う風雨をものともせず、半ば転がりながら――いや、もはや滑落寸前という勢いで。
「やめろ、殺すな! 殺しちゃダメだああああああ!!」
絶叫とともに、少年は勝家に飛びついた。
脇差を振りかざしていたその腕にしがみつき、全力で押しとどめる。
「こ、これほどの美人を殺すだなんて、もったいない! とんでもない! 日ノ本の――いや世界規模の歴史的損失だあああ!!」
――義元は、呆然とした。
この、顔も泥まみれで、足元もおぼつかず、叫ぶことしかできない足軽の少年。
だが、その声、その眼差し――確かに覚えがある。
そう。
相良良晴――彼は、突拍子もない男だった。
無鉄砲で、場の空気など気にも留めず、女の子のこととなると見境がなくなる。
けれども――だからこそ。
たとえ自分が殺されようとも、目の前で「女の子が殺される」場面だけは、決して黙って見ていられない男だった。
「……終わったわね」
信奈は、ぽつりと呟いた。
豪雨も雷鳴も、嘘のように止んでいた。
桶狭間の頂に立ち尽くす彼女の声は、まるで雨後の空気よりも静かだった。
その周囲にいるのは、犬千代だけ。ほかの兵は、今川の残兵狩りへと散っていた。
「私たちも……六やサルと合流しましょ」
信奈がそう言って踵を返す。
犬千代も頷き二人が山頂から降りようとした――その時だった。
ザザッ……!
突如、木々の間から土煙が舞い、乾いた足音とともに数十の影が現れた。
「……!? 今川の、残党……!?」
信奈が振り返ると同時に、四方八方から姿を現したのは、満身創痍ながらも刃を捨てていない今川兵たちだった。
その目には理性の光はなく、まるで獣のようにぎらついた殺気だけが宿っている。
「囲まれた……っ!」
「……姫さま! 後ろっ!!」
犬千代の叫びが響いた。
「えっ――」
信奈が反応するよりも早く、背後の草むらから飛び出した一人の今川兵が、刀を高く掲げていた。
その顔は泥に塗れ、目は血走り、明らかに常軌を逸していた。
「――織田信奈、討ち取ったァア!!」
振り下ろされた刀が、信奈の首筋を掠めようとしたその瞬間――
紅い閃光が走った。
スパァンッ!
刃が走り、空気が裂ける音と同時に、敵兵の胴体が真横にスライドする。
「――が、は……っ」
断末魔の声すら出し切れぬまま、今川兵は己の振り下ろした刀ごと真っ二つに斬られ、血飛沫を撒き散らして後方へ吹き飛んだ。
その背後――信奈のすぐ背中に、ほんの数秒前まで誰もいなかったはずの場所に、ひとりの男が立っていた。
赤黒い頭巾に濡れた外套。全身から立ち上るのは、まさしく“死”を纏ったような冷気。
「刃……っ!」
信奈の声が漏れた。驚愕と安堵、そして胸の奥を衝かれるような感情がない交ぜになっている。
その場にいた今川兵たちは、一瞬にして空気が変わったことに気づき、武器を構え直すことすら忘れていた。
「な、なんだあいつ……どこから……!?」
「……今まで、いなかったはずだ……!」
不意に背後から現れ、仲間を一太刀で斬り捨てた得体の知れぬ人影に、今川兵たちの間に戦慄と動揺が走る。
そんな彼らを、紅い瞳が静かに見下ろす。
「……触れるな」
その一言とともに、風が唸りを上げた。
ザシュッ!
目の前にいた今川兵の一人が、何が起きたのかすら理解できぬまま、喉元を深々と斬られて崩れ落ちた。
「ひ、ひいいっ……!」
「動くな! こいつ、何かがおかしい……!」
周囲の今川兵たちが、狼狽しながら後退する。
だが――遅い。
刃の動きは、一切の無駄がなかった。まるで自らが「死神」であると知っているかのように、静かに、そして冷酷に斬り伏せていく。
低く、しかし確かに言い放たれたその言葉に、誰もが本能で理解した。
“これは違う”と。
「う、うわああっ――!」
逃げ出そうとする者が現れる。
しかし刃が刀をわずかに一振りするだけで――
五人の今川兵が、一斉に鮮血を噴き上げながら崩れ落ちた。
斬られた者は叫ぶ暇もなく沈み、血飛沫すら空に舞ってから地に落ちるまで、誰も動けなかった。
「な、なんなんだあいつ……!」
「化け物かよ……!」
「……逃しはせん」
静かな声とともに、刃は逃げようとする敵兵すべてを、寸分の誤差もなく斬り捨てていく。
立っていられる者など、もう誰一人としていなかった。
血の海となった山頂の只中で、赤黒い剣士は静かに、無言のまま背を向け――去ろうとした、その時。
――ギュッ。
突然、背後から誰かが抱きついた。
「……っ!?」
僅かに刃の足が止まる。
その背中に、小さく、震える体温が触れていた。
「行かないで……っ」
その声は――織田信奈だった。
刃の赤い瞳が、わずかに揺れる。
信奈の声は、雨上がりの空よりも静かに、けれど深く、胸を打つ。
「ねぇ、刃。……なんで、わたしの元に帰ってきてくれなかったの?」
小さな背に、痛みと怒りと、なにより深い悲しみが宿っていた。
「あなた……言ったわよね。絶対戻るって。わたしはね、ずっと……ずっと、あなたがどこかで生きてるって信じてた。帰ってくるって、絶対にまた笑ってくれるって……!」
その目は赤く潤み、刃の背にこぼれそうになっていた涙を必死に堪えていた。
「勘十郎の件が終わって、全部が片付いて、それでも――あなたは帰ってこなかった。私、何度も地図を広げて……どこにいるのか考えて、斥候も飛ばして、噂をかき集めて……寝る間も惜しんで探したのよ!」
刃の瞳が揺れる。信奈の想いの強さが、刺すように心に突き刺さる。
「自分で探しに出ようと、本気で思った……! 兵を置いてでも、ひとりで山にでも野にでも探しに行こうかって、何度も……!」
絞り出すような声。涙を堪えるように、唇を噛んだ。
「刃、私はね……あなたを、諦めたくなかったの!」
その言葉には、主君でも戦国武将でもない、ひとりの少女の真実が宿っていた。
「ねぇ、私のことなんて……もう、どうでもよくなったの? 私のそばにいるって、私のために刀を振るうって言ってくれたじゃない……そんな簡単に、忘れられるくらいの存在だったの……!? 私は――!」
その言葉を遮るように、背を向けていた刃が、刃が信奈の方を向き、頭巾を投げ捨て、拳を握りしめて声を上げた。
「そんな訳、あるか……!」
信奈の目が見開かれる。刃が声を荒げたのは、これが初めてだった。
「俺は……俺は、貴女の夢を支えたかった……! まだ、出会ってからたった二月しか経ってないのに……でも、その短い時間が……」
刃の声が震える。けれど、それは恐れではなく――溢れ出る感情に喉が焼けるような熱だった。
「その時間が、俺にとって全てだった! 初めて、生きてる意味を見つけられた。誰かのために刀を振るうことが、こんなにも心を満たすなんて、知らなかった……!」
信奈の腕に、刃がそっと手を添える。
「貴女が夢を語る姿を見て、俺は……この人のために生きたいって、本気で思った」
「だったら!」
信奈が叫ぶように声を重ねた。涙に濡れた瞳が、刃を真正面から射抜く。
「だったら、どうして……それでも、行こうとするのよ!? 貴方が私のために生きたいと思ってくれたのなら、どうして、私の隣にいようとしてくれないの!? 全部投げ出して、勝手に“終わらせよう”としないでよ……!」
信奈の声は、怒りと哀しみとで震えていた。
「私の夢は、独りで見る夢なんかじゃない! 皆で掴む未来だから、貴方もいてくれなきゃ……意味がないのよ……! 貴方がいない未来なんて、そんなの、欲しくない……!」
しかし――刃は、そのまま顔を伏せた。
「……でも、駄目なんです」
その声は、どこまでも静かで、どこまでも深く――まるで自分自身を突き刺すような痛みを宿していた。
「俺は……人の道を踏み外しました。修羅の道を歩み、欲に溺れこの身を血で染め上げた。今の俺に、姫様の剣である資格なんて……夢を支える権利なんて、ありはしない」
「だから……本当に、お別れです、姫様」
刃がゆっくりと背を向けようとする。
――ドカッ!!
突如として横合いから鋭い衝撃が走り、刃の体が弾かれるように吹き飛ばされた。
「ぐっ……!?」
泥に濡れた地面に叩きつけられ、刃はそのまま数歩分転がる。
「ふざけてんじゃねえぞ、刃!」
怒声とともに、一人の男が現れた。
それは――相良良晴だった。
肩で息をしながら、拳を握りしめたまま睨みつけるその目には、怒りと失望と、そしてどこか哀しみに似た感情が浮かんでいた。
「てめえ、自分で何言ってるか分かってんのか!? 信奈のために生きたい? 一緒に未来を見たい? それなら、どうして置いていくんだよ……!」
良晴の声は怒鳴り声ではあったが、怒りというよりも、刃の痛みに同調した叫びだった。
「勝手に背負ったつもりかよ。勝手に修羅になったつもりかよ。お前、どこまで信奈の想いを踏みにじれば気が済むんだ……!」
刃がゆっくりと顔を上げる。泥に濡れたその視線の先、信奈が泣きそうな目でこちらを見つめていた。
胸元で握りしめた手は震え、声を出すことすらできずにいる。
「……なあ、良晴。俺はなお前が羨ましかったんだ」
ぽつりと、刃が呟いた。
「お前は、何もできないって言いながら、道三を救い出す時も、今回も、誰も無駄に殺さなかった。結果だけじゃない……お前は、ちゃんと“人”のままでいられた。殺すことでしか何かを守れない俺とは、違う」
刃の声は静かで、それでいてどこか痛々しかった。
「美濃で……俺は気づいてしまったんだ。もし、あの時俺が長良川に行かなければ、道三をあれほど血を流さずに救えたんじゃないかって」
視線を落とし、泥に濡れた手をじっと見つめながら、刃は続ける。
「姫様は……無益な殺しを、誰よりも嫌ってらっしゃる。あんな目で、人が死ぬのを見つめて……苦しそうに、悲しそうに……それでも、こんな殺す事しか出来ない俺のことを信じてくれていた」
刃の声は静かだったが、その奥には言葉にできない激情が滲んでいた。
その手が、小さく震える。
「でもな、良晴……俺にはもう、自分が“姫様の夢”の邪魔になってるとしか思えなくなったんだよ」
拳を握る音が、微かに響く。
それは怒りでも、恐れでもない。自分自身への深い悔いと嫌悪だった。
「気づいた時には、もう遅かった。俺が振るっていた剣は、もう“姫様のため”じゃなかった。ただ……ただ、斬っていたんだ」
ぽつりと、言葉がこぼれる。
まるでそれを口にすることで、自分が何か取り返しのつかない地点にまで来てしまったと悟るように。
「何のために斬っているのか……誰のために、命を奪っているのか……分からなくなってた。戦っているうちに、自分が何者だったのかさえ、見えなくなったんだ……」
言葉の端々に、自嘲と自己嫌悪が滲む。
「そんな俺に、姫様の傍に立つ資格なんてあるわけがない。あの人の夢を汚すのが怖くて……だったら、お前がいればいい。お前なら、斬らずに済む道を選べる。姫様の理想を壊さずに支えられる。だから、俺は……戻らないと決めたんだ」
「――はぁ、マジで……めんどくせぇ奴だな、お前は」
良晴は頭をかきながら、しかし真っ直ぐに刃を見つめた。その瞳には、怒りも呆れも、そしてそれ以上に、深い友情と理解が滲んでいた。
「俺が羨ましい? ……バカ言ってんじゃねぇよ。俺だって、お前のことが羨ましかったさ」
そう言って、良晴は刃の目の前に歩み寄る。
「お前は、いざって時に迷わずに刀を振るえる。大切なもんを守るためなら、自分の手がどれだけ血で汚れようが、ためらわない。その覚悟が、あんだろ? それが、どれだけすげぇことか……俺には、わかってるつもりだ」
良晴の声が少し震える。
「俺はいつもビビってる。いざって時に動けるかどうか、自信なんてない。守りたいって気持ちはあっても、その場で立ち尽くして、結局誰かに頼っちまうかもしれない……でも、お前は違う」
拳をぎゅっと握り、言葉を絞り出すように続ける。
「お前には力がある。覚悟もある。……だったら、逃げんなよ。自分の価値を、自分で見捨てるなよ」
刃は目を伏せたまま、微かに唇を噛んだ。
「信奈のために生きたいって言ったんだろ? だったら、そんな言い訳で背中向けんなよ。お前が勝手に諦めたら……信奈も、俺も、犬千代だって、どうすりゃいいんだよ」
沈黙の中で、誰かの嗚咽が聞こえた。
「……犬千代?」
振り返った刃の視界に飛び込んできたのは、目を真っ赤に腫らし、必死に涙をこらえる犬千代の姿だった。
「……犬千代も、いや……刃がいないのは……いや……っ」
その小さな肩が震え、堪えきれずに落ちた涙が頬を伝い、土の上にぽたぽたと落ちていく。
犬千代は言葉に詰まりながら、ぎゅっと拳を握る。
「……刃が、そばにいないの、すごく……さみしかった。ずっと、胸の奥が痛かった。だから……」
そして、絞り出すように言った。
「……犬千代は、刃と、これからも……ずっと、いっしょにいたい。……戦うときも、笑うときも……ずっと、そばにいたい」
無口で、感情を表に出すのが苦手な犬千代が、それでも勇気を振り絞って放った想い。その純粋な声は、まるで刃の胸に突き刺さるように、まっすぐに響いた。
刃の赤い瞳がわずかに揺れる。
それは怒りでも、困惑でもない。――胸の奥底を抉るような、熱の滲んだ感情だった。
「……犬千代、お前……」
刃は言葉を失ったまま、視線をそらせない。
どこまでもまっすぐな目で自分を見上げる犬千代。その瞳に映っているのは、ただ“天城刃”という存在そのもの。
血にまみれた過去も、罪を背負った今も、そのまま受け入れようとする、あまりにも純粋な想いだった。
「……っ、バカだな、お前も……」
ぎこちなくそう呟いた刃の口元が、ほんの少しだけ歪む。
「……こんな俺でも、一緒にいたいなんて言ってくれるのかよ……」
犬千代は小さく頷いた。涙に濡れた顔のまま、それでも、笑った。
「……刃は……犬千代の、たいせつな人だから」
その一言に、刃の胸が大きく波打った。
背後で、良晴がにやりと笑みを浮かべる。
「な? お前がどれだけ血を背負ってようと、そんなこと気にしない奴らばっかなんだよ、俺たちは」
彼の脳裏に、戦場で振るった刃の感触、断末魔の叫び、血の匂いが蘇る――それは、誰のためだったのか。
己のためか。信奈のためか。世界のためか。
「……俺は、間違ってたのか?」
ぽつりと漏れたその声は、自問のようであり、誰かに縋るようでもあった。
「間違ってたかどうかなんて、今さらどうでもいいのよ」
信奈はずっと黙っていたが、そっと一歩、刃に近づいた。
その目には、涙の痕がはっきりと残っている。
「刃、貴方の手が血で染まっているのなら、私が何度でも洗ってあげる。貴方の足が道を踏み外しているのなら、私が手を引いて、一緒に戻すわ。だって……それでも私は、貴方と一緒に夢を見たいって――そう、心から思ってるんだから……!」
震える声に反して、信奈の瞳には確かな覚悟が宿っていた。
彼女はそっと、刃の手を握った。
傷だらけで冷たく、血と泥に汚れたその手を、まるで宝物のように包み込む。
「だから……帰ってきて。お願い、刃。私の傍にいて。今度こそ、ずっと……!」
それは懇願などではない。主として、女として、そして一人の人間としての、真っすぐな想いだった。
「姫様……」
刃の喉が、かすかに震える。
ゆっくりと顔を上げると、そこには信奈がいた。
まっすぐに、強く、自分を見ていた。
良晴も、犬千代も、皆が――自分という存在を否定せず、受け入れてくれていた。
――ああ、俺は、ずっと間違っていた。
背負うべきは、罪でも後悔でもない。
逃げるための正義じゃない。
俺が本当に守りたかったものが――今、この目の前に、手を差し伸べてくれている。
俺は、誰かに手を差し伸べられることを、許されることを、どこかで恐れていたのかもしれない。
その温もりにすがったら、自分が壊れてしまう気がしていたのかもしれない。
けれど今、この手を――姫様が、確かに握ってくれている。
泥にまみれた足で、刃はゆっくりと立ち上がった。
さっきまでの迷いは、もうその背中にはなかった。
握りしめた拳には、ただ一つの想い――守り抜く覚悟が、力強く宿っていた。
「……戻っても、いいんですか? 本当に……俺なんかが」
消え入りそうな声で問うたその言葉に、信奈は一瞬も迷わず、強く頷いた。
「当然でしょ。あなたは、わたしの家臣なんだから。……そして、わたしの、大切な人なんだから」
たったひと言で、刃の心の氷が溶けていく。
何も言葉を返せなかった。言葉にすれば、きっと涙が零れてしまう。
ただ無言のまま、信奈の方へと一歩ずつ歩み寄っていく。
その背中に、かすかな重みが加わる。
袖口を、小さな手がそっと掴んでいた。
振り向かずとも分かる。その温もりは――犬千代だった。
「……刃が……帰ってきてくれて……よかった……」
震える声。滲む涙。けれどそこには、心の底からの安堵と喜びが宿っていた。
刃は静かに目を閉じ、そして、もう一度目を開いた時には、すべてを受け入れる覚悟が瞳の奥に灯っていた。
その様子を見ていた良晴は、ふっと肩の力を抜いて息を吐く。
――ようやく、迷子が帰ってきた。
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