織田信奈の野望〜戦国に舞い降りし銀ノ刃〜   作:更新亀さん

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第二章 美濃
同盟締結 


 史上名高い電撃奇襲戦・桶狭間の合戦は、一刻足らずで決着がついた。

 

 織田軍は沓掛城方面へ逃げ散っていった今川本隊の残党を追って桶狭間山を駆け下り、これを釜ヶ谷で捕捉して壊滅せしめ、勝ち鬨をあげた。

 

 義元が捕らえられて降伏したと知った今川方の各部隊は大混乱に陥り、次々と戦線を離脱していた。

 

 二万を超える大軍だっただけに、「王」を欠くと驚くほどに脆かった。

 

 大高城に入っていた松平元康は、義元敗戦の一報を聞くや否や震え上がって「もうおしまいです、ここで死ぬる死ぬる」と錯乱したが、服部半蔵たち家臣団の説得を受けて大高城を捨て、しかしちゃっかりと生まれ故郷・三河の岡崎城へ帰還したという。

 

 岡崎城はもともと松平家の本城だ。長き人質暮らしを強いられていた元康の苦労に気を揉んでいた三河侍たちは歓喜の声をあげて元康を出迎えたという。

 

 信奈は起死回生の奇襲に成功して奇跡的な勝利を手にしたが、今の織田家にはここまでが限界だった。今川義元が治めていた広大な所領を手に入れることはできなかったのだ。

 

 しかし、「海道一の弓取り」を尾張のうつけ姫が倒したという評判は、たちまち日ノ本中を駆け巡ることになるだろう。

 

 形にならない大戦果を、信奈は確かに得たのだ。

 

 もう、この国の誰も、二度と信奈を“うつけ”と呼んで笑うことはできない。

 

 その日の午後、清洲城の本丸広間では――

 

 「犬千代。このたびの働き、見事だったわ。ういろう一年分を下賜してあげるわね」

 

 「……どうしよう……」

 

 ういろう一年分に埋もれた自分の姿を想像したのか、犬千代はない胸を押さえて「はぁ、ふぅ」と息を荒らげ始めた。

 

「次は、サル。あんたが一番の功労者だから、好きな褒美をあげるわ。褒美は何がいい?」

 

 

 呼ばれた良晴は、どこか誇らしげに胸を張って前へ出る。だがその足取りは、なぜか異様に軽やかだった。

 

 (ついに、ついにこの時が来た……!)

 

 良晴の頭の中では、鼓の音が鳴り響いていた。

 

 (聞け、俺の心の叫び! 偽らざる、俺の本音! この戦のご褒美に……)

 

 満面の笑みで、良晴は右手を高らかに掲げ、全力で叫んだ。

 

 「天下一かわいい女の子と、いちゃいちゃさせてくれッ!!」

 

 一瞬、場が凍りつく。

 

 思わず咳き込む柴田勝家、盛大にこける前田犬千代、そして――

 

 信奈は、低い声でつぶやいた。

 

 「……あんた、ほんっとに“サル”だったのね……」

 

 額に青筋を浮かべながら冷えきった視線を送る信奈。良晴の隣で、刃が小さくため息をついた。

 

 「はぁ……あの馬鹿は……」

 

 場の全員が思った――この男にだけは、マジメな褒美を与えてはいけない。

 

 しかし、良晴の顔はどこまでも満足げだった。

 

 (見てるか、藤吉郎のおっさん……! 俺は今、おっさんが目指したモテモテ坂を……のぼりはじめたぜッ!!)

 

「分かったは、今夜送ってあげる」

 

「よっしゃー!」

 

 「最後は――刃」

 

 信奈の視線が、静かに前に立つ銀髪の剣士へと向けられる。

 

 「まず、勘十郎とのいさかいは――もう終わったわ。あんたの帰参を、正式に認める」

 

 「御意」

 

 刃は深く頭を垂れる。短く、それでいて確かな敬意がその身から滲み出ていた。

 

 「そして次に――鷲津砦に侵攻中だった朝比奈泰朝率いる五百の兵を殲滅。見事な働きだった。だから、足軽から――」

 

 「――姫様」

 

 静かに、けれどはっきりと刃が口を挟んだ。

 

 「……どうしたの? いきなり口を挟むなんて、珍しいじゃない」

 

 信奈がやや目を細めて問い返す。

 

 「申し訳ありません。しかし――私への褒美は、辞退させていただきます」

 

 「……は?」

 

 あっけにとられた表情を見せる信奈に、刃は一歩前へ進み、静かに言葉を継いだ。

 

 「代わりにお願いがあります。三河に舞い戻った松平元康殿と、どうか――同盟を結んでいただきたく存じます」

 

 しん……と、その場の空気が一瞬静まり返る。

 

 「……なにそれ? なんで褒美の代わりが、同盟なのよ?」

 

 信奈の声に、ほんの少し困惑が滲む。

 

 刃は微かに目を伏せ、それから真っ直ぐに信奈の目を見た。

 

 刃は一瞬だけ視線を落とし、それからまっすぐに信奈の目を見つめた。

 

 「――松平元康の忍び、服部半蔵との密約です。姫様たちの奇襲作戦を“見逃す”ことを対価に取引をしました」

 

 その一言が放たれた瞬間、空気が張りつめたように凍りつく。

 周囲の家臣たちが息を呑み、ざわつく寸前で動きを止めた。

 

 「……見逃した? あの奇襲を……?」

 

 信奈の問いは低く、しかし確かに震えていた。

 

 「はい。鳴海城から桶狭間山に至る一帯を一望できる高根山。その山頂には、服部半蔵率いる服部党が布陣していました。敵情を探るには最適の位置。奇襲は、本来なら――失敗していた可能性が高かったのです」

 

 ざわっ……と、今度は抑えきれないほどに場がざわめく。勝家が眉をひそめ、犬千代は目を伏せ、良晴が小声で「まじかよ……」と呟いた。

 

 だが、刃は動じない。

 

 「私は服部半蔵との会話で、松平元康が今川義元に対して内心で不信を抱いていることを知ることが出来ました。ですので“見逃す代わりに姫様が勝てば今後の外交の一助とする。負ければ私が松平元康に仕える”という密約を交わしたのです」

 

信奈はじっと刃を見据える。その瞳に浮かぶのは怒りか、それとも――。

 数秒の沈黙。緊迫した視線が二人に集中する中、信奈は息を吸い――ふっと口元を緩めた。

 

 「ほんっと……勝手な奴ね、あんたは。でも……その勝手が、あの奇跡の勝因だったってわけか」

 

 「すべては、姫様の勝利のために」

 

 刃は再び、深々と頭を下げた。

 

 「ふん……もう送ってあるわよ、元康への使者は。どうやら、あんたの読み通りになりそうね」

 

 信奈がそう言って小さく笑うと、ようやく空気が和らぎ、周囲から安堵の息が漏れた。

 

 信奈は刃をじっと見つめたまま、ふと口を開いた。

 

 「……でもさ、その時のあんた、私の元に戻る気なんてまったくなかったんでしょ? なのにどうやって、“今後の外交の一助にする”つもりだったのよ?」

 

 鋭い問い。周囲が再び息を呑む。

 

 刃は、ほんの少しだけ目線を逸らし、それから静かに答えた。

 

 「……良晴に、それとなく伝えれば……なんとかやってくれるかと」

 

 「おい」

 

 即座に横から突っ込みが入った。良晴が目を見開き、思わず手を挙げる。

 

 「ちょっと待て!? それって俺、超重要な外交任されてたってこと!? しかも“それとなく”ってなんだよ!? 無茶振りすぎだろ!」

 

 場が思わずどっと笑いに包まれる。

 

 信奈も呆れたように眉をひそめ、肩をすくめた。

 

 「……はぁ。あんたってほんと、真面目なんだか無茶なんだか分からないわよ」

 

 それでも信奈の目には、微かな安堵が浮かんでいた。まるで、“帰ってきた”ことの意味を、あらためて受け止めているように。

 

 

 

 

 

 

 

季節は夏。

早朝だというのに、せんべい布団の上で目覚めると良晴は寝汗でぐっしょり。

自称ロングスリーパー。せめてあと一時間は寝ていたかった良晴だが、背中が汗でびっしょり濡れている上に妙に生温かく、とうとう目を開いて唸り声をあげた。

「暑いなぁ~。クーラーないのかよ、クーラーは」

 

「あるわけないだろ。ここは戦国時代だ」

 ちゃぶ台で朝茶をすすっていたのは、最近帰って来た同居人の天城刃。ひとりだけやけに涼しげな顔で、茶を啜っていた。

「……すぅ、すぅ、すぅ」

上を見ると、天井に家来の忍者・蜂須賀五右衛門がぴたりと張りついたまま眠っていた。

五右衛門は、荒くれ者の川賊集団・川並衆を率いるちんちくりんの少女忍者。舌足らずで、三十文字以上の長台詞をしゃべるとかむという癖を持っている。

 

「それと暑いのは、ねねがくっついてるからだ」

 

 刃の冷静すぎる指摘に、良晴はようやく自分の背中にぴったりとしがみついている存在を意識した。

 

信奈から「桶狭間」の恩賞(?)として侍大将の地位と一緒に派遣されてきた、浅野家の娘・ねね。  

数えで八つの子供だが、おりこうで口が達者。

信奈は「美少女といちゃいちゃしたい」と言いだした良晴めがけて、このねねを義理の妹としてよこしてきた。

 

「……ぐぅ、ぐぅ、ぐぅ。兄さま、女遊びは禁止ですぞ……」

 

 うなされるような寝言まで漏らしている。夢の中でも良晴の楽しみを制限してくる鬼、ねね。

 

「ええい、離れろっての……」

 

 ぐい、と身体を捻ってみるが――

 

「ぐぅぐぅぐぅ……」

 

「……は、外れねぇ……」

 

 ゴキブリホイホイかお前は。と思いつつ、なおも剥がれないねね。

 しかも、良晴の背中は妙に温かく、じっとりと濡れていた。

 

(いくらくっつかれてるとはいえ……こ、これは……)

 

 悪寒が走る。

 

(まさか、これ……汗じゃなくて──)

 

 ぞわり。

 

「って、ねねーっ!? お前、おねしょしたなっ!? 俺の背中に、おねしょを──っ!?」

 

 ぱちっ!

 

 良晴の背中におぶさっていたねねが目を覚まし、大きな瞳を瞬かせた。

 

「……ふ……え?」

 

 寝ぼけ顔で、丸い指で目をこすり始める。

 

「ふ、え、じゃねえー! お前、俺の背中を夜中におまると勘違いしたな!? またまた盛大に漏らしたなっ!?」

 

 「…………」

 

 沈黙。そして、恐ろしい予感。

 

「いいか、ねね。お前もう八歳だろ。おねしょ卒業しろって何回言わせるんだ!? 井戸水ガブ飲みして寝るからこうなるんだろ! 今日という今日は、兄として、みっちり叱るからな──!」

 

「……ゔ………ゔゔ……」

 

(ん……? 『ゔ』から始まる日本語なんてあったか……?)

 

 首をひねる良晴の目の前で、ねねの肩が小刻みに震え出し――

 

「……ゔあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛~~~!!!」

 

 大泣き、発動!

 

「ぎゃーっ! ねね、俺が悪かった! 許せっ! ちょっとだけ、きつく言いすぎたかもぉぉぉ!」

 

 泣きわめくねねにパニックになりながら頭を抱える良晴。

 

 その時──

 

「……これではおちおち眠れないでござる、相良氏……」

 

 天井で張りついたまま寝ていた五右衛門が、うっすら目を開き、赤い瞳でギロリと睨みつけてきた。

 

「ぶわ゛ぁ゛あ゛あ゛〜! あ゛に゛ざま゛に゛、お゛ごら゛れ゛だ〜!!」

 

その破壊力たるや、軽く矢文の爆音並み。

 

「俺が悪かった! ねねちゃん、機嫌なおして! ほらほら、洟をかんで! 鼻水なんかたらしてると、尾張一の美幼女が台無しだぜっ!?」

 

 良晴はタオル代わりの手拭いを差し出し、あわてふためいてぺこぺこと頭を下げる。顔は寝ぼけ眼のままだが、表情だけは妙に必死だ。

 

「だい゛な゛じ……?」

 

 一瞬、ねねの嗚咽がぴたりと止まり――が、それは嵐の前の静けさだった。

 

「びえ゛え゛え゛え゛え゛~っ! あ゛に゛ざま゛がい゛じめ゛る゛〜っ! ばやでどの゛〜!!」

 

 そのまま、泣きながら駆け出したねねは、視界の中に救世主の姿を見つけた。刃だ。

 

 そして──

 

 ──ドンッ!

 

 「っと」

 

 刃は両手に湯呑みを持ったまま動じることもなく、ひょいと伸ばした片足でねねの突進を受け止め、身体をわずかに傾けながら流れるような動きで彼女を小脇に抱きとめる。

 

 その間、湯呑みの表面張力すら微動だにしない。茶の一滴もこぼさぬ、まさに神業。

 

「……こぼれるだろ」

 

 淡々と呟く刃。まるで日常の延長ででもあるかのような落ち着きぶりで、膝にねねを抱いたまま片手で背中を優しくさすり始める。

 

「うわっ、刃! なんでそんな自然に受け止めてんだよ!? そのまま懐に収納してんじゃねーよっ! っていうか! 助けてくれよ、俺をっ!」

 

 良晴が叫ぶが、刃はチラリと一瞥を向けただけでまたねねに視線を戻す。

 

「……怒鳴られたくらいで、ここまで泣かれるとは。昨夜、ねねに何かしたのか?」

 

「いや! 俺が被害者だっての! おねしょされたんだぞ!? 背中で! 大量に!」

 

 ちゃぶ台の向こうで身を乗り出し、文字どおり涙目で訴える良晴。

 

「泣かせたのはお前だろ、良晴。因果応報だ」

 

「ぐうっ……! 正論が、正論が心臓をえぐるうぅ!」

 

 一方で、ねねは刃の胸元に顔を埋めながら、くしゃくしゃの表情でしゃくりあげ続けていた。涙と鼻水で着物の襟が濡れていくが、刃は特に気にした様子もなく、淡々とした手つきで子どものようにあやし続ける。

 

「う゛ぅ……ばやでどの゛~……あ゛に゛ざま゛が……おこって……こわかった……ぅええぇえん……!」

 

「……ったく。また服が汚れたな」

 

 刃は小さく息をつきながら、片手で湯呑みをちゃぶ台に戻し、もう一方の手でねねの髪をゆっくり撫でてやる。その指先は不器用なようで、しかしどこか慣れている。兄ではなく“第三者だからこそ”できる距離感で、彼女の心を落ち着かせていた。

 

「もう怒ってない。な、深呼吸しろ。吸ってー……吐いてー……」

 

「ひく……すぅぅ……ふぇぇ……すぅー、ふぇぇぇぇ……」

 

 刃の穏やかな声に合わせて、ねねは少しずつ呼吸を整え始める。その指は、なおも刃の着物をぎゅっと握ったまま、まるで離れるのを拒むようだった。

 

 静まりつつある部屋の中で、良晴は肩を落として天を仰ぐ。

 

「……何なんだよもう。刃だけ完全に“理想の保育士”じゃねーか。いや、“イケメン育児サロン”か……? くそっ、なんか悔しい……!」

 

 その嘆きに、刃は容赦なくひと言。

 

「良晴、布団、洗って干してこい。今すぐだ」

 

「くっ……俺の戦国ライフ、こんなはずじゃ……!」

 

 泣きじゃくる義妹と、それをなだめる銀髪イケメンの図から目をそらし急いでおねしょ布団を担ぎ、うこぎ長屋の庭へ飛び出した。

 

 ところが——

 

「……毎朝毎朝、うるさい……」

 

 物干し場の脇に、槍を肩に担いで仁王立ちしていたのは、隣人の前田犬千代だった。

 

 寝間着姿。肩までずり落ちた袖から小さな肩がのぞき、胸元は無防備に緩んでおへそが丸見え。ふくらはぎまで露わになった姿に、朝露がちらちらと光る。

 

 胸はまだ蕾のように慎ましやか。しかしそれでも、前田家当主としての鍛錬が滲む凛々しさと、少女らしい輪郭が同居している。本人は「犬千代はまだ生娘、おぼこい」と謙遜しているが、現代のアキバなら間違いなく“属性全開”でフィギュア化決定である。

 

 良晴は布団を担いだまま、ぴたりと動きを止め、思わず裏返った声をあげた。

 

「おいっ!? 犬千代っ!? お前、半裸だからっ! その格好、朝から刺激強すぎるって! ていうか刃の目が最近怖いんだよ! 殺気がじわじわ来るから、マジで頼むからちゃんと服着てくれぇ!」

 

 しかし犬千代は無表情のまま、朱槍を肩に担ぎつつ、ぼそりと一言。

 

「……良晴とねねがうるさいから起きただけ。刃は関係ない」

 

「いや、あるんだって! アイツ、ねねが泣いた瞬間に目が光るんだからな!? 前はあそこまで情け深くなかったはずだぞっ!」

 

 そのとき、背後から、静かな足音。

 

「そうか?」

 

「うおっ!? 出たな!って、お、おい、ねねをどうした……」

 

 振り返ると、刃はねねをしっかりと小脇に抱えたまま現れていた。すっかり泣き止んだねねは、まだしゃくり上げながらも、刃の懐でまるで子猫のようにすやすやと眠りかけている。

 

 その表情は穏やかで、どこか安心しきっていた。

 

「抱き上げてたら寝た。……お前、謝っておけよ」

 

 穏やかな声。昔ならこんなふうに他人に気を遣う刃ではなかった。以前の彼なら、泣き止まないねねに「うるさい」と一蹴していたかもしれない。しかし──清洲へ戻ってきた刃は、少しずつ変わっていた。

 

 信奈に仕える忠義の剣士としては変わらずだが、それ以外の者たち──特に、幼いねねや、不器用な犬千代、そしてちょっと情けない良晴にも、以前よりずっと優しくなった。口調こそ素っ気ないが、その立ち居振る舞いには、明らかな「思いやり」がにじんでいる。

 

 それが、今の刃だった。

 

「……なんか、最近のお前、優しくなったよな」

 

「気のせいだ。あと、布団は早く干せ。臭いが取れなくなる」

 

 刃はそう言って、器用に片腕でねねを抱いたまま、布団の端を指さす。

 

 良晴は、ため息とともに空を仰いだ。

 

「……くそっ、何で俺が一番頼りなさそうに見えるんだよ……はぁ~……いよいよ俺の立ち位置、ヤバくなってきた気がするぞ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな騒がしくも賑やかな朝を経て、三人はようやく落ち着きを取り戻していた。

 

 刃は朝食を終えると早々に支度を済ませ、軽やかな足取りで清洲城へと向かった。信奈から「話がある」と、いつになく早い時間に呼び出されていたのだ。一方、良晴と犬千代は仲良く並んで、城下町へと買い出しに出かけていった。

 

 近ごろの信奈は、政務と軍務に追われる日々を送っていた。

 それでも刃に対しては、ことあるごとに個別に声をかけていた。単なる用件や命令にとどまらず、さりげない相談や雑談にまで及ぶこともある。信頼の証、と言えばそれまでだが――その温度には、どこか説明のつかない、やわらかなぬくもりがあった。

 

 刃には、それが主君としての期待や評価によるものだとしか思えていなかったが、周囲の者からすれば、それは明らかに「特別」だった。

 

(……また、政の相談だろうか。それとも新しい命令か)

 

 城の回廊を進みながら、刃は静かに思案する。

 

 信奈の私室の前まで来ると、刃は立ち止まり、袴の裾を整え、きちんと襟元を正した。

 

「姫様。天城刃、参上いたしました」

 

「よく来たわね。入ってちょうだい」

 

 奥から返ってきた声は、どこか張りつめた空気を和らげるような、やわらかな響きを帯びていた。

 刃は静かに襖に手をかけ、礼をしてから慎重に室内へと足を踏み入れた。

 

 朝の光が障子越しに射し込む中、机に向かっていた信奈がこちらを見やる。そしてふっと、どこか安心したように微笑んだ。

 

「姫様。……話とは、何でしょうか?」

 

 いつも通りの口調で問いかける刃。

 信奈は軽く手招きをすると、自分の膝の上をぽんぽんと叩いた。

 

「ほら、もっと近くに来なさい」

 

「……御意」

 

 少しだけ戸惑ったが、命令とあらば逆らう理由もない。刃は無言で近づくと、信奈のそばに膝をついた。次の瞬間――

 

「……よいしょ」

 

 信奈がそっと身を傾け、刃の膝の上に自分の頭を預けた。

 

「姫様……? これは、その……いささか距離が……」

 

 刃の戸惑いを含んだ声に、信奈は眉をひそめることもなく、ただ彼の膝に頭を預けたまま、ぽつりと呟いた。

 

「うるさいわね。いいから黙ってなさい。今は……“わたしの時間”なのよ」

 

 その声音には、いつものような威圧感も気丈さもなかった。

 代わりに滲んでいたのは、拭いきれない疲労感と、そして――孤独。

 

 刃は返す言葉を失い、静かに視線を彷徨わせた。

 この距離、この沈黙、この温度。どれもが、これまで彼の知る“織田信奈”ではなかった。

 

 信奈はまぶたを閉じる。微かに眉根を寄せながら、ゆっくりと呼吸を整えるように。

 

 その姿は、まるで心の奥で膨れ上がった何かをどうにか押しとどめようとするかのようだった。

 

「……今は、誰にも気を遣いたくないの。あなたの前では、少しくらい……甘えても、いいでしょう?」

 

 囁くような声。風に乗る花びらのように儚く、けれど胸の奥に確かに届く。

 

 刃の手がわずかに止まる。

 信奈の髪に触れていた指先が、そのまま動けなくなる。

 

 ――甘えてもいい。

 

 その短い言葉の裏に、どれほどの感情が隠されているのか、彼は思わず息を呑んだ。

 

 信奈は“主”であると同時に、“孤高”であることを求められる存在だった。

 父の遺志を継ぎ、一門を束ね、未来を切り開くために誰よりも強くあらねばならなかった。

 

 だが今――彼女はただの、ひとりの少女として、誰かに寄りかかりたかったのだ。

 

 その事実に、刃はようやく気づいた。

 

(俺は……ずっと、気づいてやれなかった)

 

 思えば、信奈は常に気丈に振る舞っていた。

 悔しくとも、寂しくとも、涙一つ見せず、笑って前を向く姿に、彼自身も安心していたのだ。

 

 彼女の内に積もったものを、見ようともしなかった。

 

 信奈の髪――陽に照らされたような、茶色がかったその髪が膝にさらりと流れ落ち、柔らかく頬を撫でる。

 

 刃はそっと手を伸ばした。壊れものに触れるように、慎重に、静かに。

 言葉はなかった。ただ、その手の温もりだけが、彼の答えだった。

 

 信奈は身を任せるように、ゆっくりと深く息を吐いた。

 その肩から、張り詰めていたものがふわりとほどける。

 

 ――ずっと、こうしたかったのかもしれない。

 

 泣きたいときに泣けず、弱音も吐けず、誰にも頼れなかった彼女が。

 ようやく、自分の心を誰かに預けることを選んだ。

 

 外の世界は確かに動いていた。

 鳥のさえずり、庭を掃く音、廊下の向こうから微かに聞こえる政の声――けれど、この一室だけは、時間が止まったかのように、穏やかで静謐だった。

 

 信奈は、目を閉じたままぽつりと呟く。

 

「ねぇ、刃」

 

「はい、姫様」

 

「もしわたしが……この戦乱の中で、全部投げ出したくなったら……」

 

 その声には震えが混じっていた。

 大名としての仮面を脱ぎ捨てた、少女の素顔がそこにあった。

 

 刃は息を呑んだ。

 だが、返すべき言葉はすぐには見つからなかった。

 

 その沈黙を、信奈は咎めなかった。

 彼女はただ、“本当の気持ち”を打ち明ける場所を求めていたのだ。

 

「だめね、わたし。大名のくせに……誰かに甘えたくなるなんて……」

 

 自嘲気味の笑み。

 けれどその笑顔は、どこまでも寂しげで――脆かった。

 

「……そんなことはありません」

 

 刃は静かに、しかし揺るがぬ声で言った。

 

「父君が亡くなられてから、姫様はひとりで、織田の家を背負ってきた。戦にも、政にも、誰よりも真っ直ぐに立ち向かってこられた」

 

 言葉のひとつひとつに、敬意と想いがこもっていた。

 

「そんな姫様が、たまには休みたくなるのは当然のことです。……倒れてしまう前に、肩の力を抜いてください。今くらいは」

 

 信奈の胸がわずかに波打つ。

 押し込めていた何かが、ゆっくりとほぐれていく。

 

 刃は、視線をまっすぐに彼女へと向けた。

 

「もし、姫様が全てを投げ出したくなる日が来ても……私はどこまでも、共にいます」

 

 それは誓いの言葉のようだった。

 

「姫様が繋いで下さったこの手は、もう決して離しません。……たとえ姫様が逃げようとしても、私は、その隣にいます」

 

信奈はゆっくりと目を開け、刃の横顔を見上げた。

 

 そこにあったのは、何の打算も計算もない、ただ真っ直ぐな意志。

 

 愛と呼ぶにはまだ遠い。だがその誠意は、何よりも深く、温かかった。

 

 信奈の目元に、微かな涙の光が宿る。

 

 それでも彼女は泣かなかった。

 その代わりに――微笑んだ。

 

「……ほんと、刃って……馬鹿みたいに、不器用」

 

 その声には、かすかに震えが混じっていた。

 

 だがそれは、弱さではなかった。

 強くあろうとする彼女が、ようやくその肩の荷を下ろしかけた証だった。

 

 誰にも明かせなかった本音。

 誰にも見せられなかった少女としての顔。

 

 刃は、それを真正面から受け止めてくれた。

 

 見返りを求めず、ただ隣にいることを選んでくれた。

 

 その不器用さが、何よりも信奈には、信じられた。

 

 だから――

 

 彼女はそっと、彼の膝に身を寄せた。

 小さな仕草だった。けれどそこに込めた想いは、どんな言葉よりも重かった。

 

 ――もう少しだけ、傍にいて。

 

 心の奥で囁く声を、刃は何も言わずに受け止めた。

 

 政も、戦も、敵も味方も、遠い夢の中の出来事のようだった。

 

 今この瞬間、ただ“わたし”として存在できる場所が、ここにあった。

 

 刹那は、永遠にも似ていた。

 

 誰にも邪魔されることのない静寂の中で――

 

 少女と、剣と。

 心を寄せ合う、たった二人の世界があった。

 

 

 

 

 

 

 

お昼過ぎ。  

清洲城の大広間に、尾張当主の織田信奈、その後ろで正座している天城刃、三河の松平元康、接待役を仰せつかった前田犬千代と相良良晴の五人が勢揃いした。 強敵・今川義元を降伏させて破竹の勢い。ご機嫌な信奈は、重要な外交の場だというのに湯帷子を片袖脱いで腰にひょうたんをぶら下げ、肩に種子島を担いだ「うつけ姿」で刃を伴い登場。 

 

刃は信奈の後ろに、信奈は座布団の上に腰を下ろして元康の肩をぽんぽんと叩いた。 「久しぶりね、竹千代!」  竹千代こと松平元康は、信奈の幼なじみ。

「う゛、ぶ、ぶ~。久しぶりでず、吉姉ざま゛~」 ういろうに八丁みそをたっぷりと塗って食べていた元康が、姉貴分の信奈にぺこりと頭を下げてにっこりと微笑む。

しかし、なぜかその声が妙に乱れ、ちんまりと頭に被っているたぬき耳が「ふるふる」と小刻みに震えていることを良晴は見逃さなかった。 「犬千代。なんで元康はあんなに震えてるんだ?」

「……眼鏡たぬきは織田家に囚われていた頃、来る日も来る日も幼い信奈さまの一の家来としていじめられ……こほん。かわいがられていた」

 

幼かった信奈さまは眼鏡たぬきをみつけると

「たぬき妖怪だー! たぬき鍋にしてやるー!」と口癖のように仰い、しょっちゅう眼鏡たぬきを縛って木の枝からぶらさげていた……などと、しれっとした顔で説明する犬千代もちょっぴり恐ろしかった。

 

「めちゃくちゃするなぁ。俺が暮らしていた世界なら、大問題だぜ」 それが信奈さま独特の愛情表現、気に入った家来にはどうぶつの名前をつけてくださる、とうなずく犬千代。

「つまり元康は織田家に誘拐されたあげく、ガキんちょ信奈のパシリをやらされていたのか。絵に描いたような不幸体験だなあ」

「……たぶんその頃の恐怖を、体が覚えている。だから、うちの姫には逆らえない」

良晴は、元康にちょっぴり同情した。

 

「竹千代。わたしの小姓と飼いザルを紹介するわ。こっちの子犬のようにかわいい女の子が前田犬千代で、いけすかない目つきの悪い生意気なサルのほうが自称・相良良晴。頭の打ち所が悪かったらしく自分を人間だと思い込んでいるけど、遠慮なくサルと呼んでいいわよ!」

 

「そうですか~。私は松平元康、あだ名は竹千代です~。よろしくです~」

 

「それから……わたしの後ろにいるのが天城刃。“わたしの”懐刀よ」

 

 信奈は“わたしの”という言葉を、わざと強調するように口にしながら、ちらりと後ろを振り返る。

 そこには、静かに正座し、凛とした気配を纏う刃の姿があった。

 

 その視線に気づくと、刃はわずかに目を細めて頷き返す。

 

「刃のことは、六や犬千代と同じくらい信頼してる。――でも、刀の腕に関しては誰より上よ。

 一人で何百の兵を相手にできる、わたしの切り札なんだから」

 

 信奈の声には、隠しきれない誇りがにじんでいた。まるで自分のことのように――いや、

自分自身以上に嬉しそうな表情すら浮かべている。

 

 その様子に、良晴はこっそり犬千代に身を寄せ、小声で囁いた。

 

「……なあ犬千代。信奈、なんか刃と距離近くなってねえか?」

 

 犬千代はうつむき気味に眉を寄せ、ぽつりと答える。

 

「……分からない。でも……姫さま、ずるい」

 

 その呟きには、どこか寂しさがにじんでいた。

 

 そしてその空気に追いつけていないのが、元康だった。

 

「ひ、一人で何百もの兵を……? じょ、冗談ですよね? 吉姉様……?」

 ういろうを頬張ったままの元康が、口元にあんこをつけたまま目を丸くする。

 

 信奈はくすりと笑い、わざとらしく腰のひょうたんを鳴らすと、誇らしげに告げた。

 

「冗談じゃないわよ、竹千代。鷲津砦に侵攻してきた朝比奈泰朝の五百の兵――

それを、刃はたった一人で殲滅したのよ」

 

 その一言を聞いた瞬間、元康の動きが固まった。

 ういろうを持った手も、口元のあんこもそのままに、ぱちくりと瞬きを数度。

 

「まるで人外じゃないですかぁ……っ! 朝比奈隊からの報告が無かったのは、そういうことでしたか……!」

 ついに悲鳴のような声を上げて、元康は半分腰を引きながらたぬき耳をぴこぴこと震わせた。

 

「それに、美濃で“死神”って噂されてる存在、あれも刃のこと。ね、カッコいいでしょ?」

 

 信奈がにこりと微笑む。その横顔は、戦功を自慢するというより、信頼する仲間を誇らしく語る姫君のそれだった。

 その言葉を受け、刃はほんのわずかに目を伏せてから、困ったように眉をひそめ、視線を逸らした。

 

しかし、信奈は誰の反応にも構わず、穏やかなまなざしをそのまま刃に注ぎ続けた。

 その視線は、まるで――

 

 大切な宝物を見つめるような、そんな光を宿している。

 

「……ねえ、竹千代。あなたもこれからは、刃のこと覚えておいて。戦だけじゃなく、話し合いの場でも、彼がいればわたしは安心できるの」

 

 信奈の声色は、淡々とした語り口ながら、どこか柔らかく、優しさが滲んでいた。

 その言葉に、後ろで控える刃が、ほんのわずかに唇を引き結ぶ。

 

「……姫様」

 

 静かに名を呼ぶ刃の声は低く、だが確かな忠誠と敬意が込められていた。

 それだけのやり取りなのに、場に漂う空気はどこか温かく、けれど不思議な緊張感もはらんでいた。

 

「……なあ犬千代。信奈、やっぱり刃のこと、特別扱いしてねえか?」

 

 良晴が再び小声で問いかけると、犬千代は俯き気味に、もふっと口をとがらせて呟く。

 

「分かってる。でも……分かってても、ずるいものはずるい」

 

 ぽそりとつぶやくその横顔は、どこか嫉妬とも悔しさともつかぬ複雑な表情だった。

 

 ――一方、当の信奈はそれに気づいているのか、いないのか。

 ただ静かに、背後に控える銀髪の剣士を「わたしの懐刀」として、誇らしげに胸を張っていた。

 

「吉姉さまのおかげで、私は三河で独立できました~。これからは尾張と同盟して、吉姉さまの妹分として末永~く仲良くしていこうと思います~。っていうか、刃さん送り込んで来るとか、考えるだけで恐くて逆らえません~……」

 

 元康はふにゃりと笑いながらも、背筋をぴんと伸ばしてぺこりと頭を下げる。

 その言葉に茶目っ気はあったが、決して冗談だけではない。

 三河という小国が今後も独立を保つには、尾張との良好な関係を築くことが絶対条件だったのだ。

 

 そして信奈の側にとっても、三河との同盟は重要な意味を持っていた。

 

 天下統一を見据える信奈は、いずれ美濃を奪い、京の都へ進軍することを目論んでいる。

 だが、天険の要害・稲葉山城を擁する美濃は、強大な斎藤家が支配する難敵。

 信奈としても、東側――つまり武田の勢力が迫る甲斐・信濃方面に戦線を広げる余裕はなかった。

 ゆえに、東を守る盾として、三河はどうしても必要だった。

 

 さらに、尾張の人間にとっては、嬉しいオマケがある。

 

 ――そう、八丁みそである!

 

 元康が味方でいてくれるおかげで、あの濃厚なうまみが魅力の八丁みそを安価で大量に仕入れやすくなるという、庶民も家臣団も笑顔になる大きな恩恵があったのだ。

 

 つまり、信奈と元康。

 この幼なじみ二人は、もともと仲が良いだけではなく、戦国大名としての利害もきっちり一致していたのである。

 

なにしろ、何にでも八丁みそをかけて喰う勝家に代表されるように、尾張人のみそ好きは凄まじいのだ。

これで軍兵の食費にかかる予算を削減できるわ、とご満悦。  

 

こうして──。  

東は元康が受け持ち、西は信奈が受け持つということで、ここに尾張と三河の同盟締結はとんとん拍子で成った。

 

刃をハーレムにするか

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