織田信奈の野望〜戦国に舞い降りし銀ノ刃〜   作:更新亀さん

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信奈、求婚される

信奈はお気に入りのジャンボ「てばさき」をもぐもぐと頰張りながら、「いよいよ時が来たわ」とばかりに自信満々の笑みを浮かべた。

 

「これで、犬とサルとたぬきが揃ったわね! 刃もいるし、美濃の鬼退治へ向かう準備は万端よ!」

 

 彼女の瞳は、希望と野心にきらきらと輝いていた。信奈が元気いっぱいにそう宣言すると、場の空気がぱっと明るくなる。

 

「ねぇ、聞いてる? サル! 東国の守りは竹千代に任せて、わたしたちは全軍を率いて美濃を攻め取る。そして、そのまま京へ進軍――これで、いよいよ“わたしの”天下盗りが現実になるのよ!」

 

 信奈の決意に満ちた言葉を前にして、良晴はつい内心で毒づいた。

 

(ちっ、いくらにこやかに微笑んでみせたって、信奈なんてちっともかわいくなんかないんだからな!)

 

 そんなひねくれた気持ちを胸に秘めつつ、あくまで平静を装いながら軽口を叩く。

 

「……なあ、信奈。桃太郎の鬼退治伝説ってさ、家来は犬とサルと、それから“キジ”じゃなかったか?」

 

「うるさいわね。キジもたぬきも、似たようなものじゃない」

 

 信奈がぷくっと頬をふくらませ、淡い色の唇をとがらせて良晴をにらむ。そのしぐさはまるで、すねた少女のようで――

 

(……かわいくなんてないぞ。ないからな、ぜんっぜん)

 

 良晴はそう心の中で自分に言い聞かせるが、傍らで見ていた犬千代と刃は、同時に小さく息を漏らした。

 

「……姫さま、ちょっとかわいい」「……否定はできない」

 

「てか、あんた家臣のくせに偉そうなのよ。なんでわたしにタメ口きいてるのよ!」

 

 信奈がじろりと鋭い視線を向けると、良晴はひるむどころか、むしろ得意げに口を尖らせて言い返す。

 

「そっちこそ、もっとマシな恩賞をよこせ! 誰のおかげで桶狭間で勝てたと思ってんだ? さっさと、尾張一の美少女を俺に紹介しろ!」

 

「ハァ? 桶狭間は刃の交渉が無かったらキツかったんだから、アンタだけの功績じゃ無いでしょ? それに、天下一の美少女があんたの目の前に座ってるじゃない。これ以上、誰を紹介しろって言うのよ?」

 

「うるせぇ。お前は顔だけだ、顔だけ! 俺の審美眼は超厳しいんだぞ? 外見だけじゃなくて、心も清らかじゃないと認めねーんだよ!」

 

 その瞬間、信奈はニヤリと口元を歪め、不敵に笑う。

 

「あら、わたしは顔だけじゃないわよ。脱いでも凄いんだから。……疑うなら、見せてあげよっか?」

 

 そう言って、ちらりと胸元の見せブラ(?)に手をかける。指先が黒い布地をつまんだところで――

 

「おお、そうかい。じゃあ見せろ! その見せブラを今すぐ外してやる! てか、そもそも戦国時代にブラジャーって何なんだよっ!」

 

「ちょちょちょちょっと、何すんのよっ! さ、サルっ、ちょ、ちょっとそのいやらしい手つきやめなさいってば! 調子に乗るんじゃないわよっ!?」

 

「うるせぇっ! お前がねねをそそのかして、俺に彼女ができねぇようにしてるからだろっ! 最近の俺は、猛烈に、超猛烈に欲求不満なんだよぉおお!」

 

「ちょ、なによ!? 本気でサルになったの!? うそでしょ、あんたマジで発情期突入なの!?」

 

「そうとも、俺はサルだ! 女っ気ゼロの地獄に堕ちて、魂がサル化したんだよぉおお! ウッキー! ウッキーウキッキー!」

 

「ひっ……!? ──刃っ!!」

怯えた声とともに、信奈は反射的に刃の背に身を隠した。

 

 彼女の動きに合わせるように、銀髪の剣士が一歩、前に出る。その所作に一片のためらいもない。むしろ当然といった風情で、信奈の前に立ちはだかる。

 

 静かに、しかし空気を震わせるような冷気を纏い、刃は良晴を睨み据えた。

 

「……いい加減にしろ」

 

 その低く鋭い声が空間を貫いた、直後――

 

 バゴォンッ!!

 

 鈍くも乾いた衝撃音が響き、良晴の頭頂部に刃の拳が炸裂する。

 

「ぎゃっ!?」

 

 間の抜けた悲鳴とともに、良晴はその場に膝をつき、頭を抱えて床に転がる。

 

「イテテテ……! おれの脳天が陥没するかと思ったぞ……っ」

 

 涙目で呻く良晴に一瞥もくれず、刃はそのまま静かに振り返る。そこには、怯えと羞恥の入り混じった瞳で彼を見上げる信奈の姿があった。

 

「姫様も、です。──戯れは、ほどほどになさってください」

その声音は静かで穏やかなのに、不思議と拒絶しがたい圧があった。

 凛とした刃の言葉が空気を貫き、室内の雰囲気を一瞬で張りつめさせる。

 

 刃は視線だけをわずかに動かし、良晴を鋭く睨んだ。

 冷え切ったような眼差しが、まるで静かな刃そのもののように男を射抜く。

 

「男は狼なんです。このサルのように、いつ牙を剥いて襲いかかってくるか分かりませんから」

 

「お、おれは牙なんか持ってねぇし! せいぜい……せいぜい尻尾くらいだっつーの!」

 

 必死に反論する良晴の声は、どこか裏返っていて説得力に欠けていた。

 床に転がったまま、涙目で頭を押さえながらうめく彼の姿は、哀れというよりも滑稽だった。

 

 信奈はというと、完全に刃の背に隠れていた。

 彼の体温が、火照った肌に余計な熱を与えてくる。

 その感覚に耐えきれず、小さく咳払いをして誤魔化した。

 

「こ、こほん……。い、今のは冗談よ、じょ・う・だ・ん。軽口ってやつだから……あは、あはは……」

 

 口元を引きつらせたまま笑ってみせる。けれど、自分の声すら少し震えていた。

 

 そのときだった。

 彼の声が、ふたたび彼女の心に、真っ直ぐに届いたのは。

 

「“軽口”であっても、相手がサルや狼では、火に油です。……姫様は、お綺麗なんですから。どうか、ご自覚を。……毎度、私がそばにいるとは限りません」

 

 その言葉は、責めるようでも、叱るようでもなくて――

 ただただ、彼女のことを想うがゆえの、静かな警告だった。

 

 その“静けさ”が、逆に信奈の胸を強く締めつける。

 

 何気ないようでいて、決して軽くないその一言。

 思わず息を呑み、信奈は目を見開いた。

 

 胸の奥が、キュウッと痛んだ。

 

「……う……」

 

 出そうとした言葉が、喉の奥で止まった。

 

 何か言い返さなきゃいけないのに。

 もっと、気の利いた冗談でも飛ばせばいいのに。

 

 けれど、口はまるで動いてくれなかった。

 

 見上げた刃は、今も自分を庇うように立ちふさがってくれている。

 けれど、彼の声の温度は、ほんの少し遠く感じた。

 まるで、その背中にわずかな“境界線”を引かれたような気さえした。

 

 彼の言葉が正しいのは分かっている。

 冗談にしろ、挑発にしろ、自分のふるまいが軽率だったのだ。

 ……分かっている。分かっているのに。

 

 それでも――どうしようもなく、悔しかった。

 

 誰よりも信頼して、誰よりもそばにいてほしいと願っている男に、

 優しく、けれど確かに“距離”を置かれることが、こんなにも苦しいなんて。

 

 信奈はそっと、背後で見せブラの紐を指先で締め直した。

 それはどこか、照れ隠しのようでもあり、自分を律するための儀式のようでもあった。

 

 朝の内にあれだけ甘えたのに、たった今、自分のなかに芽生えた感情は、まぎれもなく“甘え”であり――

 それが彼の言葉によって否応なく暴かれた気がして、顔が熱を帯びる。

 こんなにも未練がましく縋りつきたい衝動を抱えるなんて、誰にも見せられない。

 

 けれど、背を向けた刃が一歩離れかけた瞬間――

 

 胸の奥にしまったはずの感情が、堰を切ったようにあふれ出した。

 

 「……やだ」

 

 誰に向けた言葉かも分からないほど小さな声だった。

 でも、気づけば体が勝手に動いていた。

 

 「姫様?」

 

 振り返ろうとした刃の背中に――信奈は、そっと顔を埋めた。

 何も言えず、ただ彼の背中にそっと額を寄せる。頬が触れるだけで、胸の奥がじんと疼いた。

 

 「……ちょっとだけ、こうしてちゃダメ?」

 

 まるで子どものような声だった。強がりも、気丈さも、何もかも脱ぎ捨てた小さな願い。

 

 刃は一瞬だけ息を止めると、ゆっくりと振り返らず、静かに言った。

 

 「……ほんの、少しだけですよ」

 

 それだけだった。

  叱るでもなく、拒絶するでもなく。ただ、黙って彼女の想いを受け入れてくれた――その事実が、胸にあたたかな火を灯した。

 

 信奈の心は、その一言だけで一気にほどけていく。

 

 (……ほんの少しでも、いいんだ)

 

 背中越しに伝わる彼のぬくもりが、どれほど安心できるものか。

 

 (この背中に、ずっと触れていたい……)

 

 ぎゅっと、指先に力がこもる。

 ほんのわずかに体重を預けるように、信奈は彼の背にすがりついたまま、そっと目を閉じた。

 

 静寂の中、誰も声を出さない。

 良晴は言葉を失い、犬千代は何かを噛み殺すように唇を結び、元康はまだ状況をのみ込めずにぽかんとしている。

 

 だが、そんな視線さえ――信奈にはもう、どうでもよかった。

 

 今だけは、自分の気持ちに素直でいたかった。

 そして、それを彼が拒まず受け止めてくれるのなら、それだけで――十分だった。

 

静寂に包まれた座敷の一角。

 

 刃の背にそっと顔を預けたままの信奈に、誰も言葉をかけられないまま、気まずい沈黙が流れていた。

 

 そんな中――ぽつりと、震える声が場の空気を破った。

 

 「あの~……この二人って、いつもこんな調子なんですか~?」

 

松平元康が、そっと犬千代と良晴に問いかけた。

 

「最近距離が近いとは思ってたんだが……まさか、ここまでとは」

 

 良晴はぽりぽりと頭を掻きながら、小声で呟いた。拳骨の名残がまだズキズキしていたが、それどころではない。

 

 「刃さん、すごいです〜。吉姉様があんな風に甘えるなんて……初めて見ました~」

 

「……姫様に、構いすぎ」

 

 ぽそりと呟いたのは犬千代だった。拳をぎゅっと握りしめながら、唇を尖らせる。

 

 「……犬千代も、構ってほしい」

 

 その小さな本音に、良晴と元康が思わず顔を見合わせた。

 

 「え、ええと……犬千代、それってつまり――」

 

「し、失礼しますっ!」

 

 静けさと微妙な空気が漂う座敷に、戸を激しく開けて飛び込んできたのは、若い小姓だった。息を切らしながら、顔を真っ赤にして膝をつく。

 

 一同がぎょっとして小姓に注目する中、信奈がぴくりと反応した。

 

 「……何? 今は来客が来ているんだけど?」

 

 刃の背中に顔を預けたままだったが、信奈はその肩越しに小姓を鋭く見据える。声色にはまだわずかに甘さが残っていたが、戦国大名としての威厳を感じさせる響きが混じっていた。

 

 刃も気配を感じてわずかに目を細める。背後にいる信奈を体で隠すようにして、小姓の様子に注意を向ける。

 

 「も、申し訳ございません姫様! しかし、急ぎお伝えすべきことが……!」

 

 小姓の声は震えていた。視線を泳がせながらも、何か重大な報告を抱えていることは誰の目にも明らかだった。

 

 空気が一変し、甘く緩んでいた場が急速に引き締まる。

 

 良晴も、元康も、犬千代も、それぞれが背筋を伸ばし――

 ただならぬ気配に、誰もが息を飲む。

 

 「……何があったの? 言いなさい」

 

 「そ、それが……っ、浅井長政様が、姫様に取り次いでほしいと……!」

 

 息を詰まらせるように、小姓は声を震わせながら告げた。

 

 「……っ!」

 

 信奈の瞳が大きく見開かれ、刃の背中からひょこりと顔をのぞかせた。肩越しに小姓を見据えるその瞳が、ぱちぱちと瞬きする。まるで想定外の事態に脳が追いついていないように、心なしか動揺した様子で言葉を絞り出す。

 

 「今すぐ、ここに通しなさい!」

 

 きっぱりとした口調ではあったが、平時のような堂々たる威風はなく、どこか慌ただしい。まだ座敷には〈犬・サル・たぬき〉の三人――犬千代と良晴と元康が居座っているにもかかわらず、信奈は彼らを下げることも忘れたまま、思わずその場で客人を迎える判断を下してしまった。

 

 「えっ、俺たちまだいるけど!?」

 「……いていい?」

 「ひ、人払いとか、しないんですか~!?」

 

 三者三様に慌てふためくが、信奈の頭にはもはやそんな配慮が浮かばなかった。

 

 刃はちらりと信奈の横顔を見やり、何も言わずにただ静かに立ち上がる。その眼差しはすでに、来たるべき“何か”に備えていた。

 

そして、その突然の訪問者は、物音ひとつ立てぬまま、悠然と大広間へ姿を現した。

 

 その青年は、この戦国の世でもひときわ目立つ風貌を持っていた。

 良晴や刃といった屈強な若者たちと比べても、さらに頭ひとつ分ほど背が高い。艶やかに伸びた黒髪が肩にかかり、しなやかに揺れるたび光を帯び、睫毛の長さすら計算されたかのような色白の顔立ちは、ひと目で女子たちの視線を釘付けにした。

 

 ――女と見紛うどころか、ある種、それ以上に「絵画的な美」をまとった美少年。

 

 「お、おおぉ……っ」

 

 元康が思わず声を漏らす。その目はまるで物珍しい芸術品を眺めるようにきらきらと輝いていた。

 

 だが。

 

 その柔和な面差しとは裏腹に、良晴の表情は明確な敵意で引きつっていた。

 

(こいつ……道中、信奈を“うつけ姫”だの、“尾張の山猿”だのと抜かしてたやつらか。俺は聞き逃してねえからな)

 

 「誰だよ、お前」

 

 反射的に吐き捨てるように言葉が出た。

 

 そんな良晴の敵意も意に介さず、青年は涼やかな声で優雅に名乗る。

 

 「これは失礼。私の名は、浅井長政。近江は小谷城より、はるばるやってまいりました」

 

 そのまま信奈の正面に歩み寄り、すっ……と所作も美しく正座し、礼儀正しく頭を下げる。

 

 「織田信奈どのに一目お会いしたく、無礼は承知の上で身分を偽り尾張に入り、こうして清洲城まで参上つかまつりました」

 

 さらに胸に手を添え、信奈の双眸をまっすぐに見据える。

 

 「私の幼名にして、あだ名は“猿夜叉丸”と申します。信奈どの。これからは、どうぞお気軽に“サル”とお呼びください」

 

 がばっ!

 

 良晴が椅子ごと跳ね上がった。

 

 「ちょっと待てコラ! キャラが被ってんぞ! “サル”は俺のポジションだ!」

 

 日頃、信奈に“サル”と呼ばれるたび「俺は人間だーッ!」と抵抗していたくせに――他人に取られるのはどうにも癪に障るらしい。

 

 長政はそんな良晴を冷ややかに見やった後、口元に品のある笑みを浮かべる。

 

 「はて。“キャラ”などと、また妙な言い回しを……私は伽羅などかぶっておりません。本日身に纏っておりますのは、白檀の香りです」

 

 「うるせえ! 白檀でも正露丸でも何でもいいから黙ってろこのナルシストめ!」

 

 「ふふっ、香りに敏感とは、おもしろい御仁だ」

 

 「その癇癪ザルは気にしないでちょうだい、長政どの。今日も餌に中って頭が回ってないのよ」

 

 信奈がため息混じりに肩を竦めると、長政は軽く頷く。

 

 「御意」

 

 まるで品評会でも眺めるような視線で良晴を一瞥し、興味を失ったかのように顔を背けた。

 

 良晴は奥歯を噛みしめながら、内心で毒づく。

 

(なにが白檀だ……調子に乗りやがって、こいつ)

 

 場の空気が変わったのは、信奈の声だった。

 

 「で、今日はわたしに何の用なのかしら? 男一人で清洲まで来るなんて、よほどの重大事があるのでしょう?」

 

 「いかにも。東の脅威・今川義元を除かれた信奈どのが、次なる標的として斎藤道三のかつての居城、稲葉山城を攻め取ろうとしておられることは……もはや天下の周知の事実」

 

 「当然よ。あそこはわたしの父の、そして本来わたしの城。取り返さずに済むものですか」

 

 「……その後は、やはり京への上洛を?」

 

 「ええ。美濃を奪還したら、すぐに京へ行って、天下に号令を下す。それが、わたしの野望。もはや、隠すつもりもないわ」

 

 信奈の言葉は堂々たるものだったが、その視線の端では――いまだ沈黙を保つ刃の姿が、微かに気になっていた。

 

くすり、と長政が微かに笑った。

 

 その立ち振る舞いひとつとっても、いちいち様になる。整った顔立ちに穏やかな声色、そして無駄のない所作――どれを取っても洗練されていて、良晴の神経を逆撫でせずにはいられない。

 

(なんなんだよこいつ、何をしても格好つけやがって……!)

 

 そう睨みつけていた良晴の横で、犬千代がぼそりとつぶやいた。

 

 「……この男、姫様を見るたびに“男前光線”を目から放ってる」

 

 「それな……っ」

 

 思わず同意しかけた良晴は、ぎりっと奥歯を噛んだ。

 

 「さても剛気な姫君だ」

 

 長政はゆったりと身を起こし、信奈を正面から見据えて話し出す。

 

 「となれば、近江の北半国を領するこの私、猿夜叉丸と不戦同盟を結んでおきたくなるのも、必定でしょう」

 

 「ふふ、そうね。けれど、こっちとしては近江そのものを踏みつぶすつもりかもしれないわよ?」

 

 信奈が意地悪く笑うと、長政は涼しげな表情を崩さずに応じた。

 

 「南近江を支配する六角家はともかく、我が浅井家は天険の要害・小谷城を有し、家臣団の結束は固く、しかも久政父上も健在。兵も精強。もし敵対すれば、信奈どののご上洛計画は大幅に遅れるでしょう」

 

 「……」

 

 「ましてや、万が一、美濃の斎藤義龍と私が手を組めば、美濃攻略もままなりません」

 

 そこで一拍置いて、長政は自信に満ちた笑みを浮かべる。

 

 「つまり、信奈どの。あなたは、何があっても私を味方に引き入れたいはずだ。違いますか?」

 

 「ふふん。そう来ると思ったわ」

 

 信奈の唇が上がった。彼女は頭の回転が速く、そしてそれを鼻にかけない相手に対しては、素直に一目置く癖がある。

 

 「ええ。いずれこっちから不戦同盟を申し込むつもりだった。南近江の六角とは長年の因縁があるんでしょう? 人質だった時代もあったとか」

 

 「はい。その屈辱を胸に、父に代わって家督を継いでから、ようやく六角の呪縛を断ち切りました」

 

 ここで犬千代が良晴の耳元に顔を寄せて、小声で解説する。

 

 「浅井家は先代・久政の代まで六角家に従属してました。でも長政様が家督を継いでから、独立したんです」

 

 「なるほどね。そりゃ、六角なんぞと組む気はさらさらねえわな……」

 

 「それゆえ、こうして直接参上したのです」

 

「デアルカ。長政!わたしのもとへ来たということは、そちらにも織田家と同盟を結ぶつもりがあるということね?」

 

 「ところが、それが難しい」

 

 長政の表情が微かに陰る。

 

 「わが父・久政は、新興の織田家よりも、長年の付き合いがある越前・朝倉家との友好を重んじております。しかも六角を滅ぼす気概すらなく、平穏を望むのみ……私とは、考えが合わぬのです」

 

 「ふうん。ずいぶんと出来の悪い父君を持ったものね」

 

 信奈が肩をすくめると、犬千代がすかさず頷いた。

 

 「実は、浅井長政様はご自分の父君を半ば押しのけて、家中を掌握している状態なんです。先見の明がある、というか……」

 

 長政はその声を遮るように、改めて背筋を正した。

 

 「私は、小谷の城で茶会や連歌に明け暮れるには若すぎます。天下を夢見る若き英雄がいるならば、老いた名門よりも、そちらに賭けたい。……かねてよりそう考えていました」

 

 「つまりは……長政、あんたも私の野望に乗るってわけ? そこの竹千代のように」

 

 信奈が顎で元康を示すと、長政の切れ長の目が一閃、鋭く輝いた。

 

 「──あなたに、嘘は通じませんね」

 

 少しだけ口元を引き結ぶと、長政は凛とした声で言った。

 

 「率直に申しましょう。私は、信奈どのに協力したいわけではありません」

 

 「ほう。なら、何のためにここまで?」

 

 信奈の眉がひそめられると、長政はゆっくりと、まるで舞台で台詞を詠うかのように宣言した。

 

 「……ともに、轡を並べて天下を盗ろう、と申し上げにまいったのです」

 

 「同じことでしょう?」

 

 「いいえ、まったく違います」

 

 そして、長政は堂々と、まるで求婚のように続けた。

 

 「“味方になる”のではありません。“並び立つ”のです。信奈どの――私は、あなたを我が妻として、迎えに来ました」

 

 瞬間、大広間の空気が凍りついた。

 

 「なっ……」

 

 信奈の瞳が大きく見開かれる。犬千代は言葉を失い、元康はぽかんと口を開け、良晴は「……はああああ!?」と悲鳴のような声を上げた。

 

 その中でただ一人、天城刃だけが沈黙のまま、じっと長政を見据えていた。

 

「え? 結婚? 貴方と? 嫌よ!」

 

その一言は、広間の重い静寂を真っ二つに裂いた。

 

織田信奈はすっと一歩、前へと踏み出し、浅井長政を鋭く睨みつける。頬は紅潮していたが、それを隠そうともしない。怒りと誇り、そして揺るがぬ信念の炎が、その瞳に強く燃えていた。

 

「わたしは――わたしの旦那様にする男は、自分で決めるの!」

 

声は澄み渡り、どこまでも力強かった。もう彼女は、ただの姫ではない。天下を背負う者として、己の未来を誰にも譲らぬ意志を放っていた。

 

「政略とか、家柄とか……そんなの関係ないわ! わたしが心から好きになった人と、命を預けてもいいって思える人と――結婚するのが、夢なの!」

 

その声は清洲の大広間に響き渡り、空気が一瞬にして凍りついたように静まり返った。

 

やがて──信奈はちらり、と脇に控える天城刃へ視線を送る。

 

……その目はほんの一瞬だったが、鋭く、そして深く刺さるような熱を帯びていた。

 

(もう決まってるのよ、ずっと前から。わたしの心の中にいるのは、あんた一人だけ。どれだけ鈍くても、どれだけ無自覚でも……あたし、ずっと見てたんだから)

 

胸が熱くなるのを感じながら、信奈は再び長政を見据えた。

 

「ほう。それでは、信奈どのにはすでに“心に定めたお方”が? たとえば、そこでもがいているもう一匹のサルどのに惚れておられるのかな?」

 

長政は口元を緩め、あざけるような笑みを浮かべながら良晴の方をちらりと見る。

 

「は? そんなわけないでしょ」

 

信奈はきっぱりと即答した。まるで反射のように、迷いの欠片もなく。

 

良晴は「お、おい!? 今の何気に傷つくぞ!?」と情けない声をあげるが、誰もそれに構う余裕はなかった。

 

長政の視線はすぐに、もう一人――天城刃へと向かった。

 

探るような目、測るような目。

 

(……この男か。姫が心に抱いているというのは)

 

信奈はその視線を感じ取り、ふっと息を吐く。

 

(やっぱり……気づいてる。でも、言わせるもんですか)

 

そして、胸を張る。少女のようでいて、将の顔をしたまま。

 

「ええ。いるわ。ずっと前から、あたしの心には……たった一人しかいないの」

 

その宣言に、広間は再び静まり返った。

 

天城刃だけが、いつもと変わらぬ静けさで信奈を見つめていた。

 

その瞳に驚きも動揺もない。ただ、相手の本心を静かに受け止めようとするような、どこか穏やかな眼差し。

 

(ああ、もう……)

 

(あたし、こんなにも言ってるのに……ほんとに気づいてないのね)

 

信奈の頬がさらに赤くなった。照れと、呆れと、ほんの少しの悔しさが入り混じって。

 

そして、ぐっと拳を握り締めた。

 

「……そ、その人の名前までは言わないけどっ!」

 

「でも、はっきりしてることが一つだけあるわ!」

 

真っ直ぐ、長政を指差し――

 

「少なくとも!あなたじゃないわよ、浅井長政っ!!」

 

その瞬間、場の空気が一変した。

 

静寂に包まれた広間で、浅井長政の目がすっと細められる。

 

彼はまだ笑みを浮かべていたが、その奥に――わずかな苛立ちと焦りが、確かに滲んでいた。

 

「長政殿――これ以上の無用な詮索はお控えいただきたい」

 

静寂を切り裂いたのは、天城刃の声だった。

落ち着いた低音。それでいて、広間の空気を一瞬で引き締めるような威圧がそこにはあった。

まるで、鞘から引き抜かれた刀のように――否、それ以上に冷ややかで、鋭く、美しかった。

 

信奈の心臓が、ドクンと鳴る。

 

(……また、来た)

 

この空気、この声音――。

 

 何度目だろう。

 刃がふと見せる、普段とはまるで異なる威圧感。

 その声に、無意識のうちに胸が高鳴るのは。

 

 優しさを知る者だからこそ際立つ、鋭さと冷徹さ。

 まるで刃物のようなその声音に触れるたび、心の奥がざわめく。

 怖いわけじゃない。ただ、目を離せなくなる。

 

「姫様が仰られた通り、既に心に決めたお方がいる。

 そしてそのお方は……残念ながら、貴殿ではない」

 

その一言に、広間が静まり返る。

家臣たちの呼吸すら止まる中――信奈は、わずかに口元を歪めた。

 

(言ってくれるじゃないの……刃)

 

照れくささと、どうしようもない嬉しさが入り混じったその笑みは、彼女の本心を隠しきれなかった。

長政を目の前にして言い切るその姿勢は、まるで自分の“所有”を宣言するかのようだ。

 

(――あたしのこと、他の男には絶対渡さねえぞって、顔に書いてあるじゃない)

 

だけど、嫌じゃない。

むしろ、誇らしい。

「姫様の夢は、己の意思で選んだ相手と添い遂げること。それを貫くと、はっきり言葉にされた。

 ならば……貴殿が提案された“結婚を前提とした同盟”は、成立しようがない」

 

(……うん。そうよ、刃。あたしは誰かの道具になる気なんて、最初からない。

 欲しいのは、傍にいてくれる“あんた”だけ――)

 

信奈は、目を細めた。

刃が一歩、長政に向かって進み出る。

そのたびに、白銀の髪が燭光に揺れ、彼の輪郭を神々しいほど際立たせる。

まるで、この広間で彼だけが異なる次元に存在しているかのように――堂々としていた。

 

(まるで、大将よね。……あたしの方が上なのに、不思議とそう見えない)

 

「姫様は多忙なお方だ。尾張の政を司り、民を守り、未来を築こうとされているお方。

 ……そんな姫様の貴重な時間を、もはや実を結ばぬ話で浪費することは、貴殿にとっても有益ではないはずです」

 

「……一家臣ごときが、主の代わりに口を挟むとは……随分と大胆だな。これはな、そう単純な話では……」

 

「何を焦っているのですか?」

 

その声は、刺すように冷たかった。

まるで氷の刃が、目に見えぬ敵意を真っ二つに斬り裂いたかのような、静かな殺気。

 

「姫様が手に入らないからですか?

 それとも、今ここで同盟を結ばなければ――貴殿にとって何か不都合な事態でも控えているのですか?」

 

長政の眉がぴくりと動いた。

広間の空気が、緊張に張り詰めていく。

 

だが、刃は止まらない。

 

「……たとえば、“美濃”。

 尾張が、美濃を併呑すれば――国力は飛躍的に増す。

 近江の浅井と並ぶどころか、それを遥かに凌ぐ。

 今はまだ、尾張は小国。だからこそ、貴殿は“対等”を装いながら、実のところ自らが主導権を握る同盟を狙っている」

 

(……そこまで見抜いてたんだ)

 

信奈は息を呑んだ。

政の裏も、戦の先も、己の感情までも――刃はすべてを見透かしている。

守ろうとしてくれている。この胸の奥を、確かに。

 

(……惚れ直すに決まってんでしょうが、こんなの)

 

「……だからこそ今、結婚という手段で姫様を“繋ぎ止めて”おきたい。

 もし、美濃を併合しても浅井が優位に立てるように。

 どうです? 違いますか?」

 

長政の表情から、余裕が消えていく。

静かに、確実に――彼の思惑が剥がされていく様を、信奈は見つめていた。

 

隣で、良晴が頭にハテナマークを浮かべている。

元康は驚いたように目を見開き、「気づいてましたか」と無言で呟いていた。

 

そして、刃が最後に告げた。

 

「貴殿は、浅井家の長。戦略的な判断を優先するのは当然でしょう。――ですが、姫様の心までも、戦の駒に使おうとするのは、許容出来ません」

 

その一言に、信奈の胸がきゅっと締めつけられた。

 

(……本当、かっこいいんだから)

 

まるで、この場にいる誰よりも自分を理解し、信じてくれていて。

誰にも媚びず、誰にも屈せず、ただ“信奈”という人間を見てくれる。

 

(こんなことされたら……誰だって惚れるわよ)

 

「……なるほど。これ以上、話し合っても無駄というわけか」

 

長政は低く呟いた。

声の調子はあくまで穏やかで、礼節をわきまえているように聞こえる。

だがその裏には、かすかに震えるような苛立ちと、予期せぬ拒絶に対する落胆が滲んでいた。

 

「お年頃の姫さまに、いきなり求婚したのは――私の勇み足だったようですな」

かすかに目を伏せ、肩を竦めるその仕草は、あたかも自嘲のようでもあり、含みをもたせた演技にも見えた。

「……しばし時間が必要でしょう。よいお返事を、気長にお待ちしておりますよ。信奈どの」

 

まるで余裕を装うかのようなその台詞に、信奈の返答は、冷たく短い。

 

「――それは無いわ」

 

一切の含みも、逃げ道も与えない、明確な拒絶だった。

その一言で、長政の口元がわずかに引きつる。

だが、彼は表情を崩さぬまま、なおも言葉を継いだ。

 

「……そうですか。では最後に、ひとつ助言を――」

 

静かに、だが聞き逃せぬ声で続ける。

 

「失礼ながら、美濃の攻略は……想像より遥かに骨が折れるはずです。地の利、兵の質、そして斎藤義龍の奸智。尾張の兵とて、無傷では済むまい」

 

視線が、ちらりと刃のほうへ流れる。

一瞬だけ、鋭く探るような目つき。

 

「もし、そう――兵力に困った時は、ぜひ思い出してください。

 そのとき姫さまが“妻”になるというなら、浅井の兵は喜んで貸し出しましょう。……私でよければ、ですが」

 

それはあくまで“提案”の形をとっていたが――

その実、敗北を飲み込みながらも、なおも牽制の矢を放つ執念深い一撃だった。

 

信奈は一歩も動かず、その言葉を正面から受け止めた。

その瞳には、怒りも焦りもなかった。ただ、明確な“拒絶”だけがあった。

 

そして――

「必要無いわ」

 

信奈の声は、静かだった。

だがその言葉には、断固たる意志が宿っていた。

迷いも、逡巡もない。まるで、自らの心を刃のように磨き上げたかのような、鋭く、強い否定。

 

長政の顔から、ついに笑みが消える。

その目が、ほんのわずかに細められた。

 

信奈はその目を、まっすぐに見返した。

その背には、白銀の髪を揺らす天城刃が控えている。

 

『なるほど。どうやら、こちらの負けのようですね』

そう言わんばかりの笑みを口元に浮かべ、浅井長政は一礼もせず、静かに背を向けた。

 その足取りには焦りも悔しさもなく、むしろどこか余裕すら漂っている。

 

 まるで、勝敗とは一時のものにすぎず、本当の勝負はまだ先にある――

 そんな思惑を残すように、彼は清洲城の門をあとにした。

 

 

浅井長政が去ってからの広間には、まるで時間が止まったかのような沈黙が降りていた。

 誰もが言葉を探し、吐き出すことのできないまま、しばし重苦しい空気に呑まれていた。

 

 だが――その静寂を最初に破ったのは、やはり信奈だった。

 

「……ありがと、刃」

 

 それはぽつりと落とされた、小さな声。

 けれど、その言葉には、はっきりとした重みと温もりがあった。

 まっすぐ前を向いていたその視線が、ゆっくりと刃の方へと向けられる。

 その瞳に浮かぶのは、驚き、感謝、そして……ほんの少しの照れくささ。

 

「言いにくいことまで、あたしの代わりに全部言ってくれてさ……ほんと、あんたって、変なとこでズルいんだから」

 

 冗談めいた口調。しかし、それは明らかに照れ隠しだった。

 心の奥で沸き起こっていた感情を、慎重に、少しずつ言葉に変えていくように。

 

 刃は、しばし言葉を選ぶように黙したあと、静かに頭を下げた。

 

「……俺は、姫様の想いを守った。ただ、それだけです」

 

 その声音は静かだったが、断固たる意志がこもっていた。

 信奈が自らの誇りを貫くために、必要な言葉を剣のように振るっただけ。

 だがその横顔に、信奈は気づいていた――それが“忠義”だけではなく、“想い”から来るものだと。

 

「……あんたって、ほんと、ずるいわよ」

 

 ふっと、信奈が笑った。

 それは戦場では決して見せぬ、年頃の少女らしい、柔らかな微笑。

 嬉しさ、戸惑い、そして隠しきれない好意。

 そのすべてが、滲んでいた。

 

 ――だが、その空気を破ったのは唐突な声だった。

 

「……刃、犬千代にも構う」

 

 次の瞬間、小さな身体が勢いよく刃の背に飛びついた。

 

「犬千代? どうした?」

 

 刃が戸惑いの声を上げる。

 ぎゅっと背中にしがみつく犬千代の顔は、赤く染まり、頬はふくれている。

 その様子は、まるで甘えたい子どものようで――けれど、その言葉は真剣だった。

 

「……姫様ばっかり、ずるい。犬千代だって、刃に構ってほしい」

 

 小さな声だった。

 けれど、その一言には、普段胸の奥にしまい込んでいた感情が詰まっていた。

 

「ちょっ、犬千代!? なにやってんのよ、あんた!」

 

 信奈が顔を真っ赤にして怒鳴る。

 だが、犬千代はぴったりと刃に張り付き、顔を離そうとしなかった。

 

「……犬千代だって、刃に褒めてほしい。……気にかけてほしい。ただ、それだけ……」

 

「……犬千代……」

 

 刃の表情にわずかな戸惑いと、複雑な感情の揺れが浮かぶ。

 寡黙で控えめな犬千代が、ここまで感情をあらわにするのは――そう、桶狭間で自分を連れ戻してくれた、あの夜以来だった。

 

「な、ななな……なにそれ……かわいいし、ずるいじゃない……っ!」

 

 信奈が肩を震わせながら、目元を赤く染めて叫ぶ。

 怒っているのか、恥ずかしいのか、それとも両方なのか。

 その感情の波は、まるで嵐のようだった。

 

 ――そして、その様子を呆然と見ていた男が、ついに限界を迎える。

 

「な、なんでだ!? なんで刃ばっかりモテモテなんだ!? 俺だって! 一応未来人だし! あちこちで体張ってるし! それなりにイケメン……ってことにしてもらえないかな!? やっぱ顔なの!? 顔なのかぁああああ!!?」

 

「うるさい! 黙りなさい、サル!!!」

 

 信奈の怒声とともに、勢いよく良晴に飛び蹴りが炸裂した。

 

「ぐへっ!? いっつも俺だけッ!? 暴力反対ですぅ……!」

 

 良晴が転がって悲鳴を上げる中、広間にはようやく空気が緩む。

 けれど、犬千代はまだ刃の背にしがみついたまま。

 信奈も腕を組みつつ、何やらモヤモヤした空気を纏っていた。

 

「……これが、修羅場というやつですか……」

元康がぽつりと呟いた。

 彼女の声には、呆れとも感心ともつかぬ色が混ざっていた。

 

 だが、当の本人である刃は――というと、ただひたすら困り果てた顔で肩を落としていた。

 

「……なんでこうなるんだ……」

 

 戦場では誰よりも冷静なはずの白き剣士も、少女たちの心の矢にはどう対処してよいか分からない。

 

 信奈は、ちらと犬千代の方に目を向けると、唇を噛み、プイと顔を背けた。

 

「いつまで引っ付いてるのよ! 犬千代、離れなさい!」

 

「……いや」

 

「刃!あんたも剥がしなさいよ!」

 

「いや、しかし……」

 

 狼狽える刃に、信奈の声が一層高まる。

 

「こうなったら、もう知らないっ! バカっ……!」

 

 そう言い放ち、顔を真っ赤にして踵を返す。

 早足で広間を出ていく信奈の背中は、どこか泣き出しそうなほど悔しそうで――それでも、振り返ることはなかった。

 

 犬千代はまだしがみついたまま、顔を離さない。

 そして刃は、どうしていいか分からず、ただその場に立ち尽くす。

 

 ――戦の火蓋は、まだ切って落とされていない。

 だが、戦場は――確かに、すでにここにあった。

 

刃をハーレムにするか

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