織田信奈の野望〜戦国に舞い降りし銀ノ刃〜   作:更新亀さん

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刃の選択、王の器

広間に残された静寂は、まるで空気そのものが凍りついたかのようだった。

 

 刃の背に抱きついたまま、犬千代は頑なに目を閉じ、まるで逃げ場を塞ぐように身を寄せていた。その小さな手は、わずかに震えていた。それでも、決して離れようとはしなかった。

 

「……犬千代」

 

 絞り出すような声で、刃がその名を呼ぶ。

 

 だが返事はない。ただ、背中越しに伝わる鼓動と体温が、彼女の必死さを物語っていた。

 

 少しの沈黙のあと、刃は口を開く。

 

「……離してくれないか」

 

 今度は、少しだけ強い声。けれど、それは命令でも拒絶でもなく、戸惑いを隠しきれない訴えだった。

 

 犬千代の睫毛がわずかに揺れたかと思えば、彼女はぎゅっと顔を押しつけ、さらに強く抱きついた。

 

「やだ……」

 

 その声は、子供のようにか細く、でも必死だった。

 

「……今、離れたら……きっと、ずっと後悔する。だからやだ」

 

 その一言が、刃の胸に深く突き刺さる。

 

 戦場なら迷わない。敵の出方、味方の陣形、策の優劣。すべてを冷静に見通せる。

 

 けれど、今だけは違った。

 

 すがりつく少女の涙の意味も、走り去った“姫様”の背の震えも、どうしていいか分からない。

 

「……姫様を、追わなきゃならないんだ」

 

 刃の声は低く、そして静かだった。

 

 犬千代の腕がびくりと震える。

 

 そして、まるで決壊したように、声が漏れた。

 

「……刃は、姫さまがいいの?犬千代じゃ……だめ?」

 

 その問いは、まっすぐだった。飾り気も、計算もない。心の奥底から出たもの。

 

 刃は答えられなかった。

 

「俺は……」

 

 そこまで言って、言葉が途切れた。

 

 彼女を拒絶することはできない。だが――追わなければ、もう二度とあの背中に追いつけない気がした。

 

 信奈の背。あの、悔しげに踵を返した横顔が、焼き付いたまま離れない。

 

 両の腕に抱えるには、あまりにも重い想いが、静かに、けれど確かに彼の中で火花を散らしていた。

 

「……犬千代さんを、連れていけばよいのでは?」

 

 ふいに、場の空気を切り裂くように――だが不思議と自然に、静かな声が落ちた。

 

 刃が振り向くと、そこには、つい先程まで“空気”だった松平元康が、きょとんとした顔で立っていた。

 

「吉姉様、かなり拗ねておられましたし。犬千代さんも、このまま置いていくと、またうじうじ拗ねます。なら、両方連れていけばよろしいかと」

 

 まるで天気の話でもしているような口調。だがその言葉は、妙に的を射ていた。

 

「……それ、名案だな」

 

 刃はふっと苦笑し、肩の力を抜いた。

 

「よし、犬千代。行くぞ」

 

 そう言うと、ようやく犬千代が顔を上げた。まだ目元は赤く、唇は少しだけ震えていたが、それでも彼女は頷いた。

 

「……行く」

 

刃は犬千代を背におぶりながら信奈の後を追った。

 

 

信奈は、まだ走っていた。

 

 誰にも気づかれぬようにと道を選び、誰の顔も見たくなくて、ただ無我夢中で。

 

(……なによ、私が悪いの? 泣きたくなるほど悔しいのは、私のほうじゃない……!)

 

 胸の奥に込み上げてきた想いは、涙となって目尻を濡らす。

 

 それでも拭わず、ただ進んだ。

 

その時。

 

「姫様」

 

 背後から声が飛んできた。

 

 知っている声。聞き慣れた、けれど――今だけは、聞きたくなかった声。

 

「……来ないで!」

 

 振り返りもせず、叫ぶ。

 

「来ないで、って言ってるでしょ!」

 

信奈の叫びは、裂けるように尖っていた。

だがその声の奥には、幼い子どもが泣き叫ぶような脆さが潜んでいた。

誰にも触れさせたくない心の奥、そのもっと奥にある“孤独”が、思わずこぼれ出てしまったような声だった。

 

彼女は背を向け、逃げるようにその場を離れようとした。

裾が翻り、肩が小さく震えていた。

その姿は――誰にも寄りかかれず、誰にも心を明かせない、“少女”そのものだった。

 

「姫様のご命令でも、それは出来ません」

 

刃の声は落ち着いていた。

張り詰めた空気の中、まるで静かな水面にそっと一石を投じるように、その声音は心に沁みた。

 

言葉に迷いはなかったが、そこには確かな優しさがあった。

それは、激しく揺れる心に直接触れぬよう、そっと手を伸ばす――けれど決して離さぬ、揺るぎない意志の声だった。

 

「何よ! 貴方は犬千代の方が良いんでしょ? だったら犬千代と一緒にいればいいじゃない! わたしなんかに構わないでよ……!」

 

それは怒鳴り声ではなかった。

叫びにも似たその言葉には、憤りよりもずっと深く――怖れと孤独、そして傷つけられることへの恐怖があった。

大切な何かが壊れてしまう前に、自分の手で壊してしまいたい。

そんな、歪な防衛本能に駆られているようだった。

 

「……わたし、馬鹿みたいだった。貴方の心は、わたしだけに向いてるって……そう信じてたのに。……違ったのね」

 

その一言は、刃の胸に痛く突き刺さる。

それは責めではなく――願いだった。

少女の“願い”が、現実に届かなかったことへの痛みが、言葉に滲んでいた。

 

刃は一度、目を閉じる。

反論も、慰めも、すべてが言い訳になると分かっていた。

だからこそ、言葉を選び、沈黙の中で想いを練る。

 

そして、ゆっくりと犬千代の方へと振り返り、静かに言う。

 

「犬千代……降りてくれ」

 

その声に、犬千代は小さく身じろぎした。

胸の奥に、切り裂かれるような痛みを覚えながら、それでも彼女は静かに頷いた。

 

「……分かった」

 

少女は刃の背からそっと降りる。

その一歩一歩が、まるで、大切に抱いていた夢から少しずつ遠ざかっていくようだった。

だが、彼女は背を向けなかった。最後まで――まっすぐに、刃の背中を見つめていた。

 

刃は、まっすぐに信奈の前へと進み出る。

その歩みは、どこまでもまっすぐだった。

迷いも恐れも、すべてを引き受けると決めた者の足取りだった。

 

そして、信奈の前に立ち止まり、真っ直ぐにその目を見つめる。

 

「姫様……私は、貴女と犬千代のどちらかを“選ぶ”ことができません」

 

その言葉は、静かだった。

けれど、揺るぎなかった。

 

信奈は、わずかに息を呑んだ。

心のどこかで、聞きたくなかった言葉。

けれど同時に、それこそが刃の“誠実さ”だということも、痛いほど分かってしまう。

 

「どちらも、私にとっては“守るべき大切な人”なのです」

 

その一言に、信奈の胸の奥で、何かがきしむ音がした。

ずっと押し殺してきた孤独が、軋んで叫んでいた。

 

刃は、ゆっくりと語りはじめた。

 

「私は――幼い頃、親に捨てられました。銀髪に紅い瞳……きっと、不気味だったのでしょうね。

 誰からも望まれず、必要とされず、ただそこにいるだけの存在でした」

 

信奈の眉がわずかに動く。

初めて聞く刃の過去。

いつも静かで、誰にも頼らず、どこか遠い目をしていた理由が、ようやく解けるような気がした。

 

「そんな私に、初めて道を与えてくれたのが祖父でした。

 “剣に才がある”と見抜き、厳しく、しかし温かく教えてくれた。

 “剣とは人を傷つけるためのものではない。お前にとっては、大切なものを守るために振るうものだ”と、何度も何度も言い聞かせてくれました」

 

その言葉は、刃の魂に刻まれていた。

まるで、骨の髄にまで染み込んだような、揺るぎない信念。

 

「“命を賭けてでも守りたいと思えるものを探せ。その人のために剣を振るえるようになれ”――それが、祖父の遺言でした」

 

刃は、静かに目を伏せる。

 

「私は、それを胸に生きてきました。剣を、誰かのために振るえるようになりたいと……自分が、“守る”ことで生きていけるようにと」

 

そして、再び顔を上げ、信奈の瞳をまっすぐに見つめる。

 

「私は……長良川の戦いで、己の欲に溺れ、道を見失い、修羅の道を歩き身を血で染めました。

 それでも、そんな私の傍に“居たい”と、そんな私がいないと“寂しい”と、泣きながら言ってくれた犬千代」

 

犬千代が小さく唇を噛む。

思い出すのは、あの夜。

刃を連れ戻すために必死の思いを伝えた自分――その時の震える手と涙を。あのとき伝えた言葉は、不器用で、子どもじみていたかもしれない。けれど、それが犬千代の――心の底からの、本当の想いだった。

 

今、刃の口からその時の言葉が語られたことに、犬千代の胸は熱く締めつけられていた。

あの夜の想いが、確かに届いていた。

そして、いまなお刃の中に残っていた。

肩がわずかに震える。

けれど、涙は見せまいと堪えた。

 

「そして……この手を“何度でも洗ってあげる”と、笑いながら言い、

 こんな私と"一緒に夢を見たい”と、そう言ってくれた姫様」

 

その言葉に、信奈の肩が震える。

ずっと、誰にも言えなかった気持ち。

“この人になら夢を見せてもらえる”と、そう信じていた、かすかな希望。

 

「どちらの言葉も、私には過ぎたものでした。私のような人間には、もったいない光でした。

 でも、だからこそ……私は、その想いを裏切りたくないのです。どちらかを選び、もう一方を斬るような真似だけは、絶対にできない」

 

刃の声は強く、だが苦しさを滲ませていた。

 

「選ぶことで誰かを傷つけるくらいなら……私は、不器用でも、愚かでも、二人とも守る道を選びます。

 それが、祖父から託された“答え”であり――私自身の、生き方なのです。それに、私のせいで二人が仲違いする姿など見たくないですしね」

 

風が吹いた。

夜の空気が、信奈の茶色の髪をそっと揺らす。

 

信奈は、うつむいたまま、ぽつりと呟いた。

 

「……本当に、鈍いわね。そんなの……ずるいに決まってるじゃない……」

 

その声は、責めでも、怒りでもなかった。

ただ、どうしようもなく惹かれてしまう自分の心への、悔しさと愛しさが滲んでいた。

 

犬千代がそっと目を伏せる。

信奈の想いが、あまりにも自分と重なっていて、何も言えなかった。

 

「でも……貴方のそういうところ、嫌いになれないから……だから、余計に……悔しいのよ……」

 

ぽたり、と。

ひとしずく、頬を伝い、夜の土に吸い込まれていった。

 

刃はその涙に手を伸ばさず、ただ静かに、頭を垂れる。

 

「……申し訳ありません、姫様」

 

「……バカ」

 

その一言には、怒りも哀しみも、そして――ほんのわずかな安堵も混じっていた。

 

そして信奈は――そっと、一歩だけ、彼に近づいた。

その背後では、犬千代もまた、小さく、しかし確かに歩を進めていた。

 

三人の距離は、たしかにわずかずつ、交差していく――。

たとえ同じ場所に辿り着かなくとも、同じ時間に、同じ想いを抱いていた、その一瞬のために。

 

静けさの中、誰もが口を閉ざしていた。

 

そんな中で、ふいに――信奈が口を開いた。

 

「……刃、貴方、大名になりなさい」

 

その言葉は、まるで小石を池に落とすようだった。

水面に張り詰めていた静寂が、突如として揺らぎを帯びる。

柔らかな午後の光の中にあって、その一言だけが異質な響きを持っていた。

 

刃は、眉をわずかに動かした。

その横顔を、犬千代が小さく振り返り、瞳を見開く。

それは唐突な提案ではなかった――いや、もはや提案ですらない。命令に等しい響きを持っていた。

 

「……大名、ですか」

 

刃は反射的に言葉を返していた。

その声には、微かな揺らぎがあった。

否定ではなかった。だが、即座に受け入れられるような話でもなかった。

 

「私には……それは、あまりにも」

 

口の中で言葉が形を失っていく。

言おうとしても、口に出せば重く、喉の奥に引っかかる。

 

武士の頂点――領国を任される者。

命一つで万の兵を動かす存在。

大名とは、ただ強いだけではなれぬ。人を統べ、心を掴み、運をも味方にせねばならぬ。

 

「そうよ。文句ある?」

 

信奈は腕を組んでそっぽを向いた。

けれど、その声には揺るぎがなかった。

あえて目を合わせないその態度には、少女なりの不器用な“決意”が滲んでいた。

 

「……姫様、それは……難しい」

 

犬千代の声が、ふと間に割り込んだ。

だが、信奈はふっと鼻で笑った。

 

「命令よ」

 

その一言には、冗談のような軽さと、本気の意志とが、奇妙な均衡を保っていた。

 

「今は任せられる国がないから、すぐには無理。でも、いずれは必ずなってもらうわ。あんたならやれるって、私は信じてる」

 

それは確かに“命令”だった。だがそれ以上に――“願い”だった。

 

刃の目が、じっと信奈を見つめる。

その赤い瞳の奥に揺れるものを、信奈はきっと見ていた。

 

「なぜ……私に大名を?」

 

その問いは、まっすぐだった。

自らの価値を測りかねている人間が、それでもなお、誰かの期待に応えたいと願ったときの――迷いと誠実さが入り混じった声だった。

 

信奈は、正面からその視線を受け止め、わずかに口角を上げた。

 

そして、はっきりと告げる。

 

「だって――大名になれば、わたしと犬千代。二人とも妻に出来るわ」

 

――時間が止まった。

 

空気が音を立てて張りつめ、風さえ止まったような錯覚。

空に浮かぶ雲が、瞬き一つ分だけ、影を落とさなくなったような。

 

「……えっ?」

 

犬千代の声が、静寂を破った。

その頬がみるみる赤く染まり、目を大きく見開いて、信奈と刃を交互に見つめている。

怒っているわけでも、泣きそうなわけでもない。ただ、言葉が追いつかないだけだった。

 

刃もまた、完全に言葉を失っていた。

鼓動が遅れてから、跳ね上がる。

理解が、心に追いつくまでに時間がかかった。

 

「……二人、とは?」

 

掠れるような声で問い返しながらも、もう意味は分かっていた。

分かってしまったからこそ、問い直さねばいられなかった。

 

信奈は、胸を張って答えた。

 

「武士の世なら、正室・側室を持つのは当たり前。

一人の男が複数の女性を娶ることは、恥でも間違いでもない。

…なら、“選ばない”って言うくらいなら、いっそ全部を選びなさいよ。

いっそ全部を背負ってみせなさい、刃」

 

その声音には、迷いがなかった。

だが、静かに震える指先が、彼女の内心の不安を語っていた。

 

――選ばれないことへの恐れ。

――それでも突きつけずにはいられなかった少女の、最後の賭け。

 

もしも、自分だけを選んでくれと言ってしまえば、刃はまた一歩、誰からも遠ざかる。

ならば、いっそ全部を抱きとめてくれと。

その代わり――全部を、守り抜いてくれと。

 

犬千代もまた、静かに信奈の意見に頷きを示した。

言葉は少ないが、その声音には確かな賛同と信頼がにじんでいる。

 

「……良い考え。さすが姫さま」

 

それでも、彼女の指先がほんのわずかに震えていた。

 

刃は、まるで目の前の現実が信じられないかのように、目を伏せる。

そして、ぽつりと呟いた。

 

「……私は、“愛”が分かりません」

 

小さな声だった。だが、どこまでも深かった。

それは告白ではなく、告解だった。

まるで心の奥底から掘り出された、古い石のように重く、静かだった。

 

「誰かを想うということが……

 それが“恋”なのか、“情”なのか、“依存”なのか……

 私には、それらの違いが分かりません。

 これまで、生きることと、戦うことしか……してきませんでしたので」

 

その声には、飾りも誤魔化しもなかった。

それは臆病でもなく、鈍感でもなく――ただ真実だった。

 

感情に蓋をしてきたわけではない。

ただ、それを言語化する術を持たなかっただけ。

 

刃の中には、未分化の感情が、静かに横たわっていた。

それを育て、名づける手段を、ただ持たなかった。

 

信奈は、そんな刃を見つめながら、ふわりと笑った。

 

鋼のような意志ではない。

少女としての、どこまでも柔らかく、あたたかな微笑みだった。

 

「だったら、これから教えてあげるわ。

 わたしも、犬千代も……そのために、そばにいる。

 貴方の中に“愛”を芽生えさせてあげる」

 

それは約束だった。誓いだった。

命令でも要望でもない。

ただ、ひとつの感情を信じようとする、信奈の意思だった。

 

その言葉に――刃は、まぶたを閉じた。

 

心の奥に、何かが確かに触れた。

それは愛と呼ぶにはまだ早く、

覚悟と呼ぶにはまだ足りないものかもしれない。

 

けれどその感情は、確かに存在していた。

温かく、痛く、そして――尊いものとして。

 

犬千代は、下を向いたまま、小さく頷いた。

静かに、けれど確かに、信奈の言葉に同意していた。

 

今、三人のあいだに交わされた言葉は、

決して軽い告白や、気まぐれな命令ではない。

 

――これは、「運命」を共にするという約束だった。

 

沈黙の中で、刃が口を開いた。

 

「……分かりました」

 

静かで――けれど、確かな意志を感じさせる、澄んだ声だった。

 

「では、手柄を立てることから始めましょうか」

 

ゆっくりと、刃は立ち上がる。

その所作に迷いはなく、まるで覚悟がすでに定まっているかのようだった。

 

信奈も、犬千代も、言葉なくその背を追う。

互いに目を合わせることもなく、ただ自然と、同じ歩幅で立ち上がっていた。

 

三人の姿は、まるで新たな戦の幕開けを告げる将たちのようだった。

誰に命じられるでもなく、誰に従うでもなく――それぞれの意思で、同じ方向を見据えていた。

 

けれど、その刃の背には、どこか温かいものが宿っていた。

それは気負いでも誇りでもない。誰かのために立ち上がるという、ごく静かな――けれど、確かな温もりだった。

 

 

 

 

 

 

 

長政が来た次の日のうこぎ長屋――。

 

 陽は高く、鳥の声がどこかのんびりと響いていた。だが、相良良晴の心中はそれとは真逆、どんよりとした曇天模様だった。

 

 畳の上で大の字になりながら、良晴は三度目のため息をついた。

 

「はぁ……」

 

 天井を見つめるその目には生気がなく、思考はぐるぐると後ろ向きに渦を巻いていた。まるでぬかるみに足を取られたかのように、頭も心も前に進まない。

 

 昨日の出来事が、脳裏を離れない。

 

(……犬千代、あんなにべったり刃にくっついてさ。信奈も顔真っ赤にして……)

 

「……なんでだよ。なんで、あいつばっか……」

 

 布団の上でごろごろと転がる。気休めのような動きに意味はないとわかっていながら、何かを振り払いたくて仕方がなかった。

 

 だけどダメだった。

 

 現実逃避しようとしても、頭の中に嫌でも蘇ってくるのだ。あの光景が、繰り返し、しつこく、心の奥を引っ掻くように。

 

「俺だって頑張ってるのに……」

 

 小さな声が漏れる。誰に聞かせるでもなく、ただ空気に向かってこぼした言葉。

 

 そのとき、襖がぬるりと音を立てて開いた。

 

「何を悩んでおるんじゃ? その、苦虫を噛み潰したような浮かぬ顔は、そなたらしくないぞ」

 

 ひょっこりと現れたのは、斎藤道三――かの“油売りの魔王”だった。

 

「うおっ!? なんで爺さんがここにいるんだよ!?」

 

「浅井長政の話を聞いたからじゃ。信奈どのは求婚を断ったのじゃろ? ならば、何を悩んでおる。まるで、この世の終わりのような顔をして」

 

 道三は勝手知ったる様子で上がり込み、ちゃぶ台の前にどっかりと腰を下ろす。湯飲みすら持参していた。さすが百戦錬磨の老獪な武将、その所作には一分の隙もない。

 

「さあ、吐いてみい。何があった」

 

 良晴は一度うつ伏せになり、顔を畳にうずめたまま黙り込んだ。

 

 だが、沈黙は長くは続かず、やがてぽつり、ぽつりと、心の底から湧き出すように愚痴がこぼれ始めた。

 

「なあ、爺さん……なんで刃はあんなにモテるんだ?」

 

 その一言に、道三の眉がわずかに動いた。

 

「俺と同じ時代の人間だぜ? 未来人って意味じゃ、俺もあいつも同じ。俺だって、信奈を助けて命懸けで働いてきた。それなのに……」

 

 言葉をつなぐたびに、自分で自分がみっともなく思えてくる。それでも止まらない。

 

「昨日――長政が帰った後、犬千代が刃にしがみついてさ……『姫様ばっかりずるい』って、泣きそうな声で言ってたんだよ」

 

 口に出した瞬間、胸の奥がじくりと痛んだ。思い出したくないのに、何度も思い出してしまう場面だった。

 

「信奈はそれに怒って広間を出ていくし……あれ、効いたわ……マジで」

 

 心に小石を投げ込まれたような衝撃だった。重く、鈍く、水面に波紋を広げるように余韻が残る。ずっと引きずっている。

 

「刃は犬千代を背中に引っ付けたまま追いかけていったしさ……俺、ただ横で見てただけ……。存在してないかのような扱いだぞ!? もはや“壁”だぞ俺!? 背景! エキストラ!」

 

 畳に頭をがんがんと打ちつけながら叫ぶ良晴。その声には、情けなさと、焦りと、ほんの少しの嫉妬が入り混じっていた。

 

「俺だって、頑張ってるんだよ……! 空気も読もうとするし、信奈のために命だって懸けてきた。でもさ……昨日のあれで思い知らされたんだよ。俺、どれだけ場にいても、“空気”扱いなんだって……」

 

 唇が震えていた。

 

「刃はさ、長政の思惑を理解してたんだ。あの一瞬で。信奈が婚約を拒否して、何を言うか迷ってたあいつに代わって、ぴしっと口を挟んで……的確に追い込んでた。あれで長政も手を引くしかなかったんだ」

 

「……俺なんか、あの空気、全然読めなくて、黙ってただけだったのに……」

 

 自分を責めるように、その声はしぼんでいった。

 

 そんな良晴の姿を、道三は静かに見つめていた。

 

 まるで、長年の謀略の末に手に入れた「答え」を改めて吟味するかのような、冷静で鋭い目で。

 

「……やはりのう。あやつは特別よ」

 

 口を開いたその声には、ただの感嘆ではない、老練な政治家としての確信と評価が含まれていた。

 

そのまなざしは厳しく、鋭く、冷静に、刃という人物を見据えていた。

 

「良晴。そなたも気づいておろう? あの男は、そもそも“一家臣”に収まる器ではないのじゃ。才、胆力、器量、そしてあの――美しき容貌。あれほどの威を自然にまとえる男など、わしも生涯においてそうは見ておらん」

 

 良晴は言葉を失ったまま、天井を見つめるだけだった。

 

「まさしく“王”の資質、器を持つ男よ」

 

「……王の、器?」

 

 初めて聞く言葉に、良晴はごくりと唾を飲んだ。喉が乾いていた。

 

「そうじゃ。もし、あやつがこの戦国の世に生まれ、野心を持っていたなら――どんな弱小国にいても、どんな山中の寒村から始めようとも、あっという間に国をまとめあげ、平民の出であろうが数国を支配する大名へと成り上がり、ものの数年で天下統一を果たすじゃろう。しかも、無理やりではない。“従いたくなる”形で、自然にな。まるで、それが当然であるかのように」

 

 道三の声には確信があった。それは長年、多くの武将たちを見てきた者の目が語る真実だった。

 

「戦をすれば信奈どのでも勝てぬだろう」

 

「信奈でも無理なのか!?」

 

 思わず声が大きくなった。良晴の声には、わずかな動揺と――恐れが滲んでいた。

 

 自分が信じてきた“主君”が、もしかすると敵わないかもしれないという可能性。その衝撃が、心をかき乱す。

 

 だが、道三は静かに頷いた。

 

「信奈どのも、確かに非凡な器量を持つ。あの年にして天下の理を見据え、才覚に満ちておる。だが、信奈どのが“若き英傑”であるのに対し、あやつは……異常よ」

 

 異常――その言葉が、良晴の胸に重く落ちた。

 

「“完成されすぎておる”。若き覇王として必要なすべてを備えながら、若者にありがちな粗さや不安定さが一切ない。あまりに静かに、あまりに自然に、周囲を従わせる。いっそ……不気味なほどにな」

 

 その言葉に、良晴の心がざわついた。ずっと感じていた違和感、引け目、説明できなかった劣等感。それが、今まさに一言で言い表されたような気がした。

 

「戦の才……って、そういう意味か?」

 

 声が小さくなる。問いながらも、答えはもう予感していた。

 

「それだけではない」

 

 道三の瞳が鋭く光った。

 

「あやつは戦の才も、政の才も、そして情と理の両立――“心と秩序”の均衡をとるバランス感覚も兼ね備えておる。だが何より、わしが恐ろしいと思うのは……“人の心を握る術”において、あやつはもはや無意識のうちに、天才の領域に達しておることよ」

 

 良晴は息を飲んだ。

 

「無意識に、って……?」

 

「うむ。あやつは、己の言葉や振る舞いが、どれだけ周囲の心に影響を与えるかを、計算しておらぬ。むしろ、本能でそれをやっておる。だからこそ、たちが悪い。狙って好かれるよりも、無自覚に“信じたくなる”“頼りたくなる”存在になる方が、何倍も強いのじゃ」

 

 そこには、演技でも策略でもない、生得の魅力があった。計算ではなく、“本質”として人の心を動かす何か。

 

「今のあやつは、家臣として――守るべき対象を信奈どのとしておる。しかしな、一国の主となれば話は別じゃ。守るべきは、一人の主君ではなく“国そのもの”になる」

 

道三の声は低く、しかし重みをもって続いた。

 

「あやつはきっと、国のためとあらば、戦では常に最前線に立つじゃろう。誰よりも危険な場所で、己の命を賭けて戦う。躊躇いなく、当然のようにな」

 

「それで……どうなるんだ?」

 

良晴が問い返す。どこか悔しげに、けれど真剣に。

 

「兵たちは、そういう将を最も信じるのじゃ」

 

道三は断言した。

 

「戦場で上に立つ者が、ただ安全な場所から命令を下すだけなら、兵たちの士気は下がる。だが――己の主君が、自分たちと同じ場所に立って共に戦ってくれる。そう思えたとき、兵たちはこう感じる。“自分たちは捨て駒じゃない。見捨てられたりはしない”――と」

「ッ!」

「だからこそ、命を預ける覚悟が生まれる。あやつの背中は、無言で語っておるのじゃ」

 

道三は目を細め、遠くを見るような口調で言った。

 

「“お前たちは捨て駒ではない。お前たち一人一人が、かけがえのない家臣だ”――とな」

 

「政なら、あやつは――相手の思惑を読み切り、論理で封じる。何を望んでおるか、どこまでが虚構かを見抜き、その上で“最も拒絶されにくい言葉”を選び、事を運ぶ。あれほど冷静に交渉の空気を操れる者など、わしも今までほとんど見たことがない」

 

 道三は静かに息をついた。

 

「仮に同盟交渉の場にあやつが立ったなら、敗北はまずあり得ぬ。駆け引きにおいて一歩も引かず、かといって強圧的にもならず……“向こうにとっての得”を自然と演出する。敵でさえも『こちらから結びたい』と思わせてしまうような、あやつはそういう……不思議な“気”を纏っておるのじゃ」

 

「……考えれば考えるほど、刃が……チートなんだよな」

 

 ぽつりと漏らした良晴の呟きに、道三は目を細めて頷いた。

 

「チート?とはどう言う意味かは分からんが、まさしく“規格外”よ。……だがな、良晴」

 

 声がほんの僅かに低くなる。

 

「あやつの本質はそこではない。政や戦が巧い、それだけなら他にも名将はおる。――あやつが真に異常なのは、その“視野の広さ”と“戦術眼”にあるのじゃ」

 

「視野……?」

 

 良晴が眉をひそめた。だが、思い当たる節はあった。

 

 ――桶狭間。

 

 あの未曾有の大戦のさなか、刃は確かに“別の何か”を見ていた。

 

「わしも聞いておる。桶狭間の戦、あやつは戦場において心ここにあらずのような状態でさえ、全体の流れを読み、信奈どのたちの動きも先読みしていたと」

 

「……ああ。あの時、刃は松平元康の忍び、服部半蔵と密かに取引してたんだ。信奈たちが今川を奇襲する、その動きを察した上で、奇襲の動線だけは“黙認”するように持ちかけてた。代わりに、尾張と三河の同盟――」

 

「それを聞いて、わしは戦慄した。普通の者なら、自軍の動きすら把握するのに苦労する。ましてや、奇襲を成功させるには極秘裏に動く必要がある。だというのに、あやつは信奈どのの意図を読み取り、その奇襲を“前提”に行動しておったのじゃろう?」

 

 良晴は無言で頷くしかなかった。

 

「そして、それは偶然ではない。――あやつは常に“全体”を見ておる。前線の配置、兵の流れ、敵将の性格、地形、天候、軍勢の心理……そういった無数の要素を一瞬で咀嚼し、そこから“最適解”を導き出す。しかも、理屈ではなく――“直感”で、だ」

 

 道三の言葉には、老練な軍略家としての嫉妬すらにじんでいた。

 

「敵がどこに兵を集めるか、どこで忍びを潜ませるか、どこに伏兵が潜むか……そういう“見えない動き”にこそ、あやつの眼は鋭く反応する。そして、どこが分断点か、どこが孤立するか、どこで最も混乱を生むか……その全てを、戦が始まる前から予測しておる」

 

「……あれって、やっぱ偶然じゃなかったんだな」

 

 良晴は、あの時の光景を思い出していた。天城刃が、誰よりも静かな目で戦場を見つめていた姿を。

 

 まるで自分だけ、未来を知っているかのように――。

 

「しかも、あやつはそれを“誇らぬ”。そこがまた恐ろしい。まるで自分の中にある“異常な感覚”を異常とさえ認識しておらん。あれは……もはや“才能”ではなく、“構造”そのものが違うのかもしれぬ」

 

 道三の言葉に、良晴の胸がざわついた。

 

「人は、“見えているもの”しか考えられぬ。だが、あやつは“見えていないはずのもの”まで見ておる。まるで、常に戦場を俯瞰し、敵味方の心理や動きを“鳥の目”で見通しているような――そんな感覚じゃ」

 

 良晴は言葉を失っていた。

 

 まるで、自分が戦場で泥にまみれて一歩一歩踏みしめている間に、刃は高所から全体を見渡し、最適な布石を打っていた。そんな構図が、否応なく思い浮かぶ。

 

 そして、その差が埋まるものではないことも、直感的に理解していた。

 

「……ずるいよな」

 

 それは、吐き捨てるような声だった。

 

「努力しても、経験積んでも、俺には見えないものが――あいつには“最初から見えてる”なんだ。戦いも、交渉も、人の心も……俺がぐちゃぐちゃにして悩んでるうちに、あいつはとっくに先を読んで動いてる。そんなの……」

 

 そこまで言って、口を閉じた。

 

 何を言っても、刃に届く気がしなかった。言い訳にもならなかった。

 

 道三の目が細くなった。まるで、霧の奥にある真実を見透かすかのように。

 

「しかもあやつは、性格は無骨で律儀。主に決めた者には従順で、命すら惜しまぬ忠誠を捧げる。だが、それ以上に――“甘い”のじゃ」

 

 その一言に、良晴の眉がぴくりと動いた。

 

「甘い……?」

 

「ああ、特に心を許した者に対して、な。必要以上に優しい。いや……優しすぎる。もはや“優しさ”という言葉では足りぬな。懐に入り込んだ者には、徹底的に寄り添い、すべてを受け容れる。まるでその者の傷を、己が痛みのように引き受けるような――そんな在り方じゃ。理屈ではない。礼節でも、打算でもない。もっと根源的な何か、たとえば“孤独”や“渇き”のようなものから来ておる」

 

 道三の声は、淡々としていながら、どこか哀切を帯びていた。

 

「……孤独?」

 

「そうじゃ。おそらく、あやつは“愛される”ということを知らずに育った。あるいは、愛された記憶を心のどこかに置き去りにしてきた。ゆえに他者の心の温度に、人一倍敏感なのじゃ。誰かの寂しさ、痛み、脆さ……そういったものに触れたとき、無意識に手を伸ばしてしまう。救おうという意識はない。ただ、“傍にいてやらねば”という衝動だけが走る。これはもう、性質であり……本能よ」

 

 良晴の胸の奥が、鈍く痛んだ。

 

 ――わかる。あの男の“間”の取り方、声のトーン、あたたかい沈黙。すべてが自然で、優しく、心の底のほうに触れてくる。理屈では抗えない、心の芯がほどけるような――そんな感触。

 

「しかも、かけて欲しいと思った言葉を、まるで読心術でも使っているかのように、的確なタイミングでかける。それもまた、無意識にな。あれは“術”ではない。“共鳴”じゃ。相手の波長に、無理なく自然に重なってしまう。……だからこそ恐ろしい。あれは、“毒”なのじゃ」

 

 道三は、畳の上に落ちた陽の筋を指でなぞるように言葉を継いだ。

 

「人は毒を嫌う。だが、美しく甘い毒ならば、どうか? 花の蜜のような香りを漂わせ、舌に絡み、血肉に染みる。心地よさのなかで、ゆっくりと侵されていく。気づいたときには、その者なしでは呼吸もできぬほどに、心が絡め取られておる。……それが、あやつの“甘さ”じゃ」

 

 良晴は思わず息を詰まらせた。

 

「しかも始末が悪いことに、あやつはそれを“武器”として使ってはおらぬ。むしろ、自覚すらしておらぬ。狙って人を落とすわけでもなく、心を操るわけでもない。無骨で、不器用で、ただ誠実で……それゆえに、なおさらたちが悪い。あの毒は、抗えぬのじゃ。信頼と好意が、自然と混ざり合い、分かたれぬものとなる」

 

「……俺には、無理だな。そんなの」

 

 良晴の声は低く、搾り出すようだった。自分はそんな風に人に優しくなれない。言葉も、仕草も、どうしても不自然になる。打算や照れが透けてしまう。

 

 あいつは違う。自然にそれができる。無意識に、呼吸のように。

 

「それにの……あやつは、桶狭間で信奈どのや犬千代どの、そしてお主に心を救われてからというもの、以前にも増して“甘く”なった気配がある。あれはあやつなりの“恩返し”なのじゃ。命ではない。“心”を救われた。ゆえに、己の心でもって返そうとしとる。己を支えてくれる者には、命を懸けてでも守ろうとする――そういう男よ」

 

「女の子の天敵……みたいなもんか」

 

 良晴の言葉に、道三は静かに頷く。

 

「まさしく、それよ。信奈どのも、犬千代どのも、それを本能で感じ取っておる。あやつの傍にいると、自分が大切にされていると心の底から思える。“この人なら、すべてを預けてもいい”と。理屈じゃない。“そう感じてしまう”のじゃ。だから信頼と好意の境目が、あやつの前では溶けてしまう」

 

 道三は湯呑を手に取り、少しだけ目を細めた。

「信奈どのも、犬千代どのも、そして――おそらくねねどのもじゃな。あの三人は、もう他の男に心を動かすことはないじゃろう。あやつ以外では、心の渇きが癒えぬ。……だからこそ、他の男では彼女たちを奪えぬ。奪うことは、“居場所”を壊すことだからじゃ」

 

「そして、あいつも手放す気はないんだろうな」

 

 良晴の声は、もはや乾いていた。

 

「無論じゃ。無理に引き裂こうとする者には、容赦なく牙を剥く。あの“甘さ”の奥には、鉄より冷たい覚悟がある。“誰かの居場所”を守るためなら、あやつは迷わず剣を取る。ためらいなく斬る。……それこそが、あやつの“王の器”としての完成形よ」

 

良晴は、黙り込んだ。返す言葉が見つからなかった。

 

 やがて、沈黙の中で道三が湯呑をそっと置き、問いかける。

 

「――お主の夢は、なんじゃ?」

 

 まるで、深海の奥から届く音のような声だった。重くもなく、しかし逃れようのない深さを持った問い。試すような色はある。だがそれは責め立てるのではなく、「見極める」まなざしだ。

 

「……俺の、夢?」

 

 良晴は首を傾げ、反射的に問い返す。時間稼ぎというより、問いの意味を探っていた。夢――そんなもの、考えたことはある。何度も。けれど、「自分の意志で選んだ未来」として言葉にするのは、初めてかもしれなかった。

 

「そうじゃ。この戦国の世に流れ着いて、戦に巻き込まれ、信奈どのに仕え、多くの修羅場を潜ってきた……。だがそれは、“成り行き”よ。お主自身が意志をもって選んだ未来ではない。――だからこそ、問うのじゃ。この時代に来たお主が、“自分の意志”で抱いた夢とは、何なのか」

 

 その言葉は、まっすぐに、胸の奥底へ突き刺さった。

 

 良晴は目を伏せる。指が畳の目を無意識に擦る。言葉が喉元まで来ては、引っ込む。

 

 ……やがて、小さな声がこぼれた。

 

「……俺はな、爺さん……天下一の女好きだ!」

 

 言った瞬間、自分でも少し笑いそうになった。でも、その笑いは照れでも誤魔化しでもない。むしろ、長い時間心に抱えていた“本音”をようやく口にできた、そんな軽さだった。

 

 道三の眉が、わずかに動く。

 

「ふむ?」

 

「だからよ、一国の主になって、戦国最強のハーレムを築いてやるんだ! でっけえ城に住んで、何人もの美少女たちと、毎日一緒に生活する。朝起きたら左に一人、右に一人!夜はふとんの中で両脇美女に囲まれて眠る! 起きても寝ても幸せってやつさ!」

 

 良晴は笑っていた。冗談のような口調。けれど、その目は――笑っていなかった。

 

 馬鹿げていると思われるかもしれない。だが、これは、彼がこの戦乱の世に落ちて以来、数えきれない夜を乗り越える中で、心の奥底に育てた“願い”だった。

 

「……その夢をな、藤吉郎のおっさんと語り合ったんだ。あの人、笑って言ったんだよ。“いいな、それ。絶対叶えようぜ、良晴”ってさ」

 

 ふと、声音が低くなる。

 

「……でもよ、おっさんは俺を庇って死んじまった。俺がもっと強ければ、もっと賢ければ……。でも、それでも、だからこそ、俺は誓ったんだ。あの人のぶんまで、このバカみたいな夢を、本気で、絶対に叶えてやるってな」

 

 手が、膝の上で握られている。小さく震えていた。

 

 そこにあったのは、単なる欲望ではない。

 

 ――それは、死者との約束であり、償いであり、生きる意味そのものだった。

 

「……だから俺、笑われてもいい。欲望まる出しでもいい。自分が何も持たない人間だからこそ、欲しがって、追いかけて、ようやく“自分”になれる気がすんだよ」

 

 道三は、黙って耳を傾けていた。

 

「……俺さ、たぶん、居場所がほしいんだと思うんだ。俺を認めてくれて、俺を必要としてくれる人がいて……それがいっぱいいたら、最高だろ? それがモテモテってやつだ。……ふざけてるって思うかもしれねぇけど、俺にとっちゃ、本気なんだよ」

 

 静寂が、ふたりの間に満ちた。

 

 その静けさは、どこまでも深く、どこまでも優しい。

 

 そして道三は、わずかに目を細め、言った。

 

「……ふ。“天下一の女好き”と申したな。まさしく、お主らしい。――じゃが、儂には、ただの妄言とは思えぬ」

 

「だろ? 俺、本気なんだよ。信奈と犬千代は、まあ……しょうがねぇ。でも勝家とか、長秀さんとか、義元とか、いろんな美少女がまだこの国にはいるしな! まだ見ぬ美女たちも、きっとどこかに――! 俺だけの、俺の理想の国をつくってやるんだ!」

 

 浮かれたように語るその姿には、寂しさと決意が入り混じっていた。

 

「……“王”ってのはさ、人の上に立つやつのことだろ? 俺にはそんな器ねぇよ。刃みたいに堂々としてるわけでも、信奈みたいに道を切り開くわけでもない。でも……“誰かのために笑って、傍にいてやれる”やつにはなりてぇんだよ」

 

 道三の目が、ゆっくりと細められる。

 

「うむ。良晴よ。お主の夢、それは“王者”の道とは異なる。だが――人を惹きつけ、笑わせ、頼られ、寄ってくる存在……それを極めれば、別の“王”になれるやもしれぬ」

 

「別の……王?」

 

「そう。“好かれる者”の極地。“望まれる者”としての王じゃ。刃は風のごとく人の心を動かす。信奈どのは炎のごとく道を照らす。……ならばお主は、陽だまりのように、人を包む器になれ。嘘でもなく、誇張でもなく、己がまっすぐに“好かれたい”と願うならば、それこそが道となろう」

 

 その言葉は、良晴の胸に、まるで祝福のように沁みわたった。

 

 彼が抱える“劣等感”を否定するのではなく、“それでも夢を追いかける心”に、意味を与えてくれたのだ。

 

「……爺さん、やっぱすげぇや。俺、夢をバカにされるかと思ってたのに」

 

「ふ。儂が笑うのは、夢を持たぬ者だけよ。そして――夢を語れる者は、儂にとっての“同志”じゃ」

 

 その瞬間、良晴の中の何かが、確かに変わっていた。

 

 




アンケートでハーレムの意見が多いので刃はハーレムにします。

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