織田信奈の野望〜戦国に舞い降りし銀ノ刃〜   作:更新亀さん

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半兵衛どっちのヒロインにしようかな


敗走、長秀の思い

「おーい! 信奈ーッ!!」

 

霧の彼方から、良晴の怒鳴り声が響いた。白く煙る視界の中、仲間の無事を確かめるように声を張り上げ、良晴は駆け込んできた。息を切らしながらも、その目はすぐに周囲の光景に釘付けとなる。

 

「竹中半兵衛の策にはまったんだ! このままじゃ逃げられなくなる、潔く退却しよう!」

 

「刃が伏兵は全部倒したじゃない!」

 

信奈が声を張り返した。

 

だが、良晴は言葉を飲み込んだ。霧に滲む地面には、まるで地獄のように無数の屍が転がっている。血の色が泥に混じり、赤黒い海となって足元を染め上げていた。その中心――刃の周囲に立つ三人、信奈、犬千代、長秀は、嘘のように傷一つ負っていない。甲冑も肌も血の飛沫すら浴びておらず、まるで守護の結界にでも守られていたかのようだった。

 

「これ……全部、刃だけで倒したのか……!?」

 

「わたしたち三人を守りながら倒してくれたわ」

 

信奈の言葉に、良晴は絶句する。

 

「やっぱりバグだろ、お前……」

「そうか?」

 

涼しい顔で刃が答える。

 

「って、違う! まだ終わっちゃいない! 伏兵は、まだまだ出てくるっ!」

 

良晴の叫びと同時に、またしても霧の帳が揺れた。

 

「どうしてっ!? これだけ倒したのにっ!?」

 

信奈が喚くように叫ぶ。

 

「半兵衛は――各地に分散して兵を伏せてる! しかも、この霧! この霧が、お前の判断力を鈍らせてるんだ!」

 

――ジャーン、ジャーン!

 

再び鳴り響く銅鑼。前よりも大きく、不協和音のように耳を突き刺し、不安と焦燥をかき立てた。音が響くたび、霧の中からじわり、じわりと這い寄ってくる黒い影。第二、第三の伏兵が、無音で霧を裂いて現れる。

 

「くっ……わ、わたしはっ! 陰陽師みたいな胡散臭いあやかしの術なんて、信じないんだからっ! この霧だって偶然よ、偶然!」

 

信奈が強がるように叫ぶが、唇の端はかすかに震えていた。

 

「……はいはい、じゃあその負け惜しみは、清洲に生きて帰ってからゆっくり聞くことにするぜ!」

 

「ま、ままま負け惜しみじゃないっ! サル、あんたどっちの味方なのよっ!」

 

「姫様、撤退を」

 

刃が静かに口を開いた。刀を抜き、すでに霧の奥を見据えている。

 

「勝家殿と合流しだい、勝家殿を先頭に。中央を姫様、その左右を犬千代と長秀殿。良晴と五右衛門はその後ろに。私もこれを蹴散らし次第、すぐに合流いたします」

 

「待って、刃! あなた一人で全部受けるつもりなの!? 怪我もしてるでしょ!」

 

「大丈夫です、姫様。……これしきの傷で鈍る程、私の剣は脆くありません」

 

その言葉の通り、刃は血に染まった肩口をものともせず、霧の奥へと足を踏み出す。その背には、まるで闇を斬り裂く風のような静謐な気迫があった。

 

 

美濃勢の追撃は、凄絶だった。

 

柴田勝家が鋭く号令をかけ、最前線を走る。左右には犬千代と長秀が密着し、槍を構えて敵の来襲に備える。中央には信奈が馬を走らせ、その後ろを良晴と五右衛門が守る。最後尾には、血と霧の中を抜けて合流した刃が、刀を握って追いついてきた。

 

「伏兵が……また来るっ!」

 

「第四、第五……いや、第六、第七の波だ!」

 

霧の海から、獣のような気配とともに伏兵が這い出してくる。獲物を追い詰めるように、次々と襲いかかる美濃兵。

 

「姫、これは『十面埋伏の計』です! このままではお味方は壊滅、零点です!」

 

長秀が叫んだ。普段の優しげな声音ではない。甲冑の隙間から滲む血に染まり、鬼のような形相で槍を振るっている。

 

「十面埋伏の計!?」

 

「唐国の古えの軍師、程昱なる者が得意とした必殺の計略です! 敵勢を四方に伏せて包囲し、小勢を囮にしてこちらを誘い込み……!」

 

「なによそれインチキじゃない! 諸葛孔明の策じゃないじゃない!」

 

「おそらくは、古今東西の兵法に通じた軍師が敵方に。噂の竹中半兵衛でございましょう」

 

「万千代っ! 犬千代っ! わたし……桶狭間で勝ったせいで、調子に乗りすぎてたってこと……?」

 

「……犬千代は、姫の采配を疑ったことはない」

「いえ、この霧が無ければ姫は敵の伏兵に気づかれていたはず。こたびは……お味方のご不運です!」

 

「ともかく清洲へ生きて帰るのよ!」

 

「御意!」

 

「サルっ! あんたもぼやぼやしていないで、わたしを守りなさいっ!」

 

「誰がぼやぼやしてるかよ! 頼むぜ五右衛門、霧には煙幕で対抗だ!」

 

「承知つかまつったでござる」

 

五右衛門は鞍袋から複数の「たどん」を取り出すと、器用に火をつけて周囲へ次々に投げ放つ。たちまち濃密な煙が霧の中に紛れ、視界を遮った。

 

その隙を縫い、刃が敵兵を蹴散らして道を拓く。信奈たちはその背を追い、死地からの脱出を図った。

 

この時、稲葉山の南に連なる瑞龍寺山の山麓に、織田方の手勢が灯す松明がどっと繰り出された。

この松明の群れを見た美濃勢の国人たちは、

「すわ、織田方の奇襲部隊が空き城同然となった稲葉山城へ向けて駆けている」と慌てたらしく、ちりぢりになって逃げていく織田勢の追撃を中止した。

桶狭間で信奈が敢行した電撃的な奇襲作戦を再現されることを、警戒してのことであった。

 

だがしかし、この瑞龍寺山の松明、実は美濃の地理に長じた斎藤道三が前もって配置していた陽動部隊。

その内実は蜂須賀五右衛門を親分と仰ぐ川賊・川並衆。わずか五十名の手勢が、手に手に松明を掲げて大部隊のふりをしていたのだった。  火付け泥棒なんでもござれの川賊連中、

「お祭り騒ぎだぜ」とばかりに瑞龍寺山の山麓をあかあかと照らして奇声を上げる。

十面に埋伏された伏兵のうち、止めとなるべき第八弾以後の伏兵は打って出ることなく、残りの伏兵勢もみな稲葉山城の守りへと急遽引き返し、ここに織田勢は九死に一生を得た。

 

「どうなってるの? あの援軍はなにっ?」

逃げながら信奈はいぶかしんだが、五右衛門とともに併走する良晴は事情を話さない。

こたびの竹中半兵衛との戦は負けるだろうと道三が予想していたことを、信奈に知らせたくなかったのだ。

今川義元を破って得意満面、自信満々だったところを竹中半兵衛に鼻っ柱をへし折られて歯がみしている信奈に、さらなる余計な負担をかけたくはない。

この窮地を脱する千載一遇の機会に、信奈は清洲城を目指して逃げに逃げた。

 

 

 

清洲に帰陣した後、次第に美濃勢の実情がわかってきた。

やはり斎藤義龍はこれまで人目を忍んで隠れていた天才軍師・竹中半兵衛を強引に招聘し、采配を任せて美濃兵を指揮させていたようだ。  恐るべき「十面埋伏の計」も、半兵衛が進言したらしい。

もしも美濃勢が川並衆の偽兵の計に騙されていなければ、信奈たちは「十面埋伏」の伏兵勢に退路を断たれて完全包囲されていただろう。

雪辱に燃える信奈は、足を踏みならしながら

「今夜もう一度夜討ちをかけるのよ!」と一同に宣言したが、

長秀の「みな半兵衛への恐怖もあって疲れきっております。最低一週間は兵を休ませねばなりません。それに、刃どのの傷も決して浅くはありません。二十点」という諫言によって「なごやこーちんのてばさき」を骨ごとほおばりながら一週間を耐えた。

 

その間に、近江の浅井長政から「援軍を出しましょうか」との誘いが何度か信奈のもとに来た。

むろん、長政との結婚が条件である。

これは事実上、長政の勢力に尾張が吸収されることを意味していた。

信奈はことごとくその誘いを断り、自力で美濃を盗ると使者に向けて宣言した。

 

だが、しかし——

天才軍師にして、最強の陰陽師とも囁かれる竹中半兵衛の智謀の恐ろしさは、あの「十面埋伏の計」だけでは終わらなかった。

 

臥薪嘗胆の一週間が過ぎた。信奈も、柴田勝家も、良晴も、誰もが焦りと覚悟を胸に、再び稲葉山を攻める時を迎えていた。

 

偽兵で退路を開くという奇策は、すでに使えない。斎藤義龍であれば、もう一度同じ手でも騙せただろう。だが、今度は竹中半兵衛が控えている。二度目は通じまい。

それゆえ、今回の出兵は正面からの真正面突破――いや、それすら疑ってかからねばならない、緻密で慎重なものにならざるを得なかった。

 

「みんな、今回は行軍する路を変更するわ。美濃勢が兵を伏せられない、見晴らしのいい平原を進むの! 細作をこまめに出しながらね!」

 

信奈の号令が響く。

細作――すなわち斥候。斥候には、忍びである乱波たちが多数投入された。敵の伏兵の気配を探るため、半刻ごとに前後左右へと走らせる手の込んだ用心深さである。

 

そして今回の陣形――信奈は、あえて部隊の再編に踏み切っていた。

先鋒には、なんと尾張最弱の異名を取る勘十郎・織田信澄が選ばれたのだ。

 

「姉上! この信澄、姉上の期待に応えて見事先鋒を務めてみせまする!」

 

鼻息荒く気勢を上げる信澄に、信奈はしれっとこう返す。

 

「半兵衛がどんな罠を仕掛けてるかわからないから、あんたに先行させることにしたの。〝死に兵〟ってやつよ」

 

「し、死に兵っ!? あねうええええっ!?」

 

動揺する信澄を横目に、信奈は何食わぬ顔で朝露に濡れた草を見つめていた。

(もちろん、本気でそんなことを思っているわけではない)

 

信奈は、本当は弟を誰よりも心配していた。ただ、そのやり方があまりに不器用なのだ。

彼女は今回、前回の反省を生かし、敵の伏兵が仕掛けられにくい朝駆けを選び、陽の出とともに清洲城を出立した。

 

刃は、信奈のその姿をじっと見つめていた。

 

(……姫様は確かに成長しておられる。戦の指揮にも、周囲への配慮にも、以前より明らかに幅がある。けれど――)

 

同時に、心の奥では微かな焦燥も湧いていた。

なぜなら――信奈が慎重になりすぎている。常に細作を飛ばし、視界の確保された平原を選び、歩兵の安全確保を最優先とする行軍は、確かに理に適っている。

先鋒の信澄が平原を警戒しつつゆっくり進み、その背後を柴田勝家の本隊が守り固め、最後尾には信奈自身が控えるという「方円の陣」。

四方八方、どこから伏兵が出てきても対応できる完璧な布陣だった。

その進軍速度は、まるで蜻蛉の羽のように軽やかではあるが、あまりにも遅かった。

 

刃は馬上から広がる野を見渡し、さらに空を仰いだ。

朝日はもう高く昇っており、影は短く、風は生暖かい。こんなにも好条件が揃っているというのに――

 

(我々は、この天の機を……自ら手放している)

敵の伏兵を恐れて用心深くなるのは理解できる。だが、いまの織田軍は、用心深さが度を越していた。

斥候が戻るたびに隊列を止め、渡り鳥の羽音にも驚き、数百メートル進んでは再び停止する。

織田軍の最大の武器――機動力と速度が殺されていた。

 

(このままでは、敵の本陣にたどり着く前に布陣される恐れがある……。勝つためには、ある程度の速度と意表が必要……)

 

「姫様。やはり、速度を犠牲にしすぎるのは――」

 

刃が声をかけかけたその瞬間、信奈がふっと振り向いた。

 

「わかってるわよ、刃。……でも今回は、絶対に損耗を出せないの。前回みたいな撤退はもうしない」

その瞳に浮かぶ決意の色を見て、刃はそれ以上、何も言えなかった。

 

 

 

稲葉山城を目指して進んでいた先鋒の勘十郎は、うろたえていた。  またしても、どこからともなく立ち現れた白い霧が周囲を包みはじめ、視界を遮ったのが伏線だった。

湿気がひどく、草むらを燃やそうとしてもうまく火がつかない。

 

気がつけば、城へと向かう道を逸れ、無数の大石が高く積み上げられた石塔がずらりと立ち並んだ妖しげな湿地へと入り込んでしまったのだ。 「な、なんだい、ここは?」

いくら鈍感な信澄とはいえ、この石塔の迷路と化したおぞましげな空間に迷い込んでしまっては、本能的に危険を察知せずにはいられない。  だがしかし、石塔の渦の中にひとたび入り込んでしまった信澄、自分が入ってきた場所がすでにわからず、このままでは出るに出られない。  ここは、石塔によって巧妙に作り上げられた迷路なのだ。

そう気づいた時にはすでに、後続の尾張兵たちが怒濤の如く石塔の迷宮へとなだれこんできていた。

 

「たたたたいへんだ、このままではこの迷路に姉上たちまで引き込んでしまう!」

信澄は右往左往、しかし東も西もわからず、どこを向いても同じような姿形の石塔が不気味に立ち並び、信澄ががむしゃらに馬を走らせれば走らせるほど自分がどこにいるのかがわからなくなる仕掛け。

 

その上、いつの間にか迷路の奥へ奥へと引き込まれているらしく、行軍を邪魔する足下の泥はますます柔らかく深くなり、馬も満足に進めなくなってきた。

どうやら敵はこの木曽川沿いの湿地に石塔の迷路を組んで、行軍するぼくたちを捉えたらしい……と思うと、信澄はもう絶望のあまり半泣きに。

「ああ。道に迷って姉上たちを死地に引き入れてしまうなんて。ぼくは、なんてバカなんだ!」

すでに石塔の迷路に入り込んでしまった五右衛門と良晴の主従コンビ、そして姉の信奈が信澄のうろたえぶりを見かねて声をかける。

「あきらめるな、信澄! こういう迷路はな、壁にそって移動し続ければいつかは脱出できるんだ!」

「そうよ勘十郎、あやかしの手品には種も仕掛けもあるに決まってるんだから!」

信奈は重臣たちを一箇所に集めて、馬上で脱出策を練ることにした。 「万千代!なんなのよ、この石塔の迷宮は?これも竹中半兵衛の罠だというの?」

「はい。これこそおそらく、かの諸葛亮が得意とした〝石兵八陣〟。別名を〝八陣図〟とも言います」長秀は、唐国の古典『三国志』に詳しいらしい。

「いよいよ知力100を誇る諸葛亮孔明の計略がここで登場か。未来の世界でも、竹中半兵衛は『今孔明』と呼ばれていたんだぜ」と良晴。

 

「姫。このままでは、木曽川に流れる水を八陣内へ引き入れられましょう。さすればお味方はみな、なすすべもなく溺れまする。零点です」 「どこが出口かわかる、万千代?」

「この石塔の迷路には、おそらく奇門遁甲の理に従い休門、生門、傷門、杜門、景門、死門、驚門、開門の八つの入り口がもうけられておりましょう」

「奇門遁甲ってなに?」

「唐国の兵法で、我が国の陰陽道の元となった学問ですね」 

「ふーん。あやかしの術の源流ってわけね……いちいちむかつくわね、竹中半兵衛」

「八門のうち、杜門と死門から入れば命はないと言われておりますが……おそらく、我らはすでに死門より突入してしまっているはず」 「何が死門よ、そんなのどう考えたって迷信だわ! とにかく、壁に沿って進めばいつかは出口に……」

「失礼します、姫様、長秀殿。犬千代背中に捕まれ」

突如、刃が信奈と長秀の体を抱き抱え、犬千代を背にくっつけたまま跳躍――ぐん、と風を斬って、石塔の頂上へと舞い上がる。

 

「な、なによ刃!? いきなり抱きしめて……って、ここ戦場よ!?」

 

「水がきます、良晴お前たちもどうにかして

どば────。  刃が言い終わらないうちに、どこからともなく水が溢れてきて、人馬を腰まで浸からせた。

 

「木曽川の水を引き入れられました。我が軍の状況は、一点です」  水位が、みるみる上昇してきた。  このままではみんな溺れ死んでしまう!

 

「うああああー!こそこそ罠ばかり仕掛けてないで、出てこいっ! 竹中なんとか!あたしと槍で勝負しろー!」

涙目になった勝家が天を仰いでわぁわぁ騒ぐが、出てこないだろうなあと良晴は思った。

 

「少しは知恵を使えよ勝家。そもそもお前を相手に槍で勝てるような豪傑が陰陽師になってるわけねえだろ?」

「うるさーい!こんな理屈に合わないやられ方、あたしは納得できなーいっ!」

「姉上! この敗軍は、先鋒を仰せつかっておきながら、むざむざ全軍を迷路に迷わせましたこの信澄の責にござります!お先にわが腹を十文字にかき切って……」

「やめなさいよ勘十郎。あんたが切腹したって何も解決しないでしょ?」

「だって溺死は切腹より苦しいそうですよ姉上!うわーんっ!」

一同が騒ぐ間にも、水位はどんどん上昇していく……。

 

 

石塔の頂に立つ刃は、足をぐっと踏みしめ、沈黙する迷宮に己の気配を沈めた。

 

「刃? どうしたの……?」

 

 まだ刃の腕の中にいる信奈が、不安げに問いかける。視界は霧にかすみ、耳に届くのは濁流の音と、兵たちの動揺。状況は、極限。

 

「何か……思いついたのですか?」

 

 同じく抱えられている長秀も、慎重に刃の横顔をうかがった。

 

「……刃に任せる」

 

ぽつりと犬千代が呟いた。刃の背に身を寄せたまま、まるで身体の一部のように張りつくようなその気配。その言葉に、信頼という言葉では足りない絶対的な想いが込められていた。

 

 刃は無数の石塔を見渡すと、足元に意識を向ける。石の質感、接地の深さ――そして、踏み抜くべき一点を見定め、静かに膝を折った。

 

「衝撃に備えてください。この石塔を……破壊します」

 

 低く、しかし鋼の意志を宿した声。

 

「え、ええっ!? 破壊って、今ここで崩したら――っ!?」

 信奈が目を見開いた、その直後。

 

 ガコンッ!!

 

 刃の震脚が石塔を打ち砕いた。中枢を捉えた一点突破。塔の芯が悲鳴を上げ、石と石が軋みながらグラリと揺らぐ。

 

「キャッ!」

 

 信奈と長秀が刃の胸元にしがみついた瞬間、石塔は根元から傾き、轟音とともに崩れ始める。

 

 だが刃は、すでに次なる行動へ移っていた。長い銀髪をなびかせ、空中を裂くように跳躍――斜めに飛び、別の塔の頂へと軽やかに着地する。

 

 その姿は、まるで霧を裂く白銀の閃光だった。

 

「良晴、五右衛門、勝家。周囲の石塔を――すべて破壊してくれ」

 

「に、にゃにゃにゃるほどぉ……っ!」

 

 五右衛門が珍しく噛んだ。焦りと驚きが混ざった声色。だが、それはただの狼狽ではない。この発想こそが活路であると、理解したゆえの反応だった。

 

「八陣図そのものを、物理でぶっ壊す戦術でござるにゃ……!」

 

「そうだ。仕組みがどうこうより、術の土台を崩せば機能は失われる。崩れた石はそのまま水面に投げ込め。浮き石の足場になれば、一石二鳥だ」

 

「……やっぱりお前、まともじゃないな」

 

 良晴が肩をすくめつつ、すでに抜刀していた。表情には呆れと……確かな信頼が滲む。

 

 万千代は刃の言葉に一瞬、目を見開いたが――やがて真剣な眼差しで頷いた。

 

「刃どの。暴論に見えて、理詰めの裏をかいた実に見事な策。……知略家・半兵衛を出し抜くには、この異端の一手こそ最適。八十五点、いや、今は満点を差し上げたい」

 

「よっしゃあああああああ!!」

 

 勝家が叫び、大太刀を天に掲げ――

 

「考えるな! 叩き壊せばいいんだろ!? だったら任せろおおおおおっ!!」

 

 ――がん!

 

 ――ごん!

 

 ――どごん!

 

 ――どっっっっっがあああああん!!

 

 雷鳴のごとき轟音が響き渡る。

 

 勝家の振るう大太刀が、まるで破城槌。巨岩の塔を一刀で裂き、薙ぎ倒していく。断末魔のような音を立て、石塔が崩れ、水面を割り、濁流に沈む。

 

「うおおおおおっ! 石の塔なんざ、まとめて全部ぶっ壊してやるぅぅぅぅっ!!」

 

 阿修羅の如きその暴れっぷりに、周囲の兵たちが圧倒されながらも次第に鼓舞されていく。

 

「俺たちも続けぇぇぇっ!!」

 

 尾張兵たちが奮い立ち、槍や斧を手に次々と石塔を突き崩していく。

 

「こっちも行くぞ、五右衛門!」

 

「任せるでござる!」

 

 良晴が刀を振るい、五右衛門が火薬玉を投げつける。爆裂音が連鎖し、塔が一つ、また一つと倒壊していく。

 

「信澄! 突っ立ってる場合か! 石を落とせ、足場を広げろ!」

 

「は、はいぃぃっ!!」

 

信澄も必死に石を押し出す。水面に転がった石が、兵たちの命を繋ぐ架け橋となる。崩れた塔の破片が濁流を渡す浮き石となり、小さな道が形成されていく。

 

 ――石陣の迷宮は、いま確実に崩壊を始めていた。

 

 もはや、術の効力は満ちぬ。兵たちの視界には、初めて“出口”という光が差し込んでいた。轟く砕音、濁流の飛沫、悲鳴ではなく――歓声が広がりはじめる。

 

 織田軍は生きていた。まだ、死んでなどいなかった。

 

 そしていま、その力を、意志を、信頼を――たった一つの“決断”に預け、再び立ち上がっていく。

 

 迷宮の幻想は霧散し、崩れた塔の瓦礫が、希望の橋となって戦場を繋いだ。

 

 織田勢は、間一髪で激流に呑まれることなく、生還の途へと、再び進み始めた――。

 

 

 

 

 

再び清洲城に舞い戻った信奈は、翌朝、人払いをした奥の間で、家老の柴田勝家と丹羽長秀を呼び出した。

 

「ううぅ……あの銀髪について、姫さまが我らに相談なさるとは……」

 

部屋の隅で、勝家がぶつぶつと呟いていた。口を尖らせて茶碗を手にしながら、明らかに不機嫌な様子だ。

 

(刃め……またあの男か。最近じゃあのサルまで一緒にひいきされやがって……っ!)

 

信奈が刃に向ける視線、それがどれほど特別なものか、誰よりも近くで見ていたがゆえに、勝家の苛立ちは募るばかりだった。

 

「さて……今回は、どのようなケンカをされましたか?」

 

長秀は落ち着いた様子で信奈の向かいに座る。理知的な家老らしく言葉は冷静だが、わずかに眉根が寄っていた。信奈がこんな静かな空気で呼び出すことは滅多にない――それが、何か重大な問いかけを含んでいることを察していた。

 

一方、信奈の表情はどこか曇っている。いつもの快活さは影を潜め、眉の間にかすかな迷いと困惑がにじんでいた。

 

「……ケンカなんてしてないわ。今日は、ふたりに聞きたいことがあるのよ」

 

その真剣な口調に、勝家も長秀も背筋を正した。

 

「聞きたいこと、でございますか」

 

長秀が慎重に問い返すと、信奈は一瞬だけ視線を落とし、膝の上で組んだ指先をきゅっと握る。そして顔を上げ、ふたりの目をまっすぐに見据えた。

 

「ええ……万千代。あなただけに、まず聞くわ。……刃のこと、どう思ってる?」

 

――静寂。

 

その問いかけは、あまりにも唐突で、そしてあまりにも核心を突いていた。

 

長秀の肩がわずかに震えた。その整った顔が、ごくわずかに強ばる。唇がわずかに開き、返すべき言葉を探して彷徨っていた。

 

「わ、私は……」

 

――だが、思わず目を逸らす。答えが口にできない。いや、言いたくないのではなく、言ってしまえば、何かが壊れてしまう気がした。

 

「刃どのは、誠に優れた人物です。その剣技も、戦略眼も、胆力も、信頼に足るもの。……そして、何より、姫さまを誰よりも大切にしていると……そう、思っております」

 

言葉を選びながら、どうにか理性を保った声音だった。しかし、抑えた言葉の行間に、にじみ出る感情を、信奈は見逃さなかった。

 

だからこそ――彼女は、微笑をひとつも浮かべずに言った。

 

「あら、そう……そうなのね。なら、はっきり言うわ」

 

そして、ふたりの家老の目の前で、信奈は静かに、しかし確信に満ちた声で口にした。

 

「……わたしはね、刃のことが好き」

 

その一言で、空気が変わった。

 

勝家が茶碗を落としそうになり、長秀が小さく息をのむ。

 

だが信奈は、それでも言葉を止めなかった。まっすぐに、強く続ける。

 

「本気よ。ただの家臣としてじゃない。もっと……特別な意味で、刃が好きなの」

 

そして言い切ると、わずかに頬を染めながら、決定的な一言を付け加えた。

 

「だから――刃に大名になって、私と犬千代を、妻にするよう命じてあるわ」

 

「な……っ!?」

 

勝家が素っ頓狂な声をあげた。茶碗を本当に取り落とし、がしゃんと割れる音が部屋に響いた。

 

「な、な、なな、何をっ!? あたしがいない前でそんな命令を……い、犬千代までっ!? えっ、犬千代もなの!? なんで!? 犬千代っていつの間にそういう関係にっ!? えっ!?」

 

「姫……それは、あまりにも……大胆すぎます……」

 

長秀の顔からは、理性が剥がれ落ちかけていた。落ち着いた表情の奥に、強いショックと、どうしようもない寂しさが滲み出ていた。

 

そのとき、信奈が静かに、しかし確固たる意思を込めて言葉を紡いだ。

 

「万千代――貴女の本当の思いを言いなさい」

 

その声音は優しいが、甘くはない。命令だった。主君として、そして女として。逃げ道は、もうなかった。

 

「……これは命令よ。嘘は許さない」

 

言外にこめられた圧は重かった。嘘をつけば見抜かれる。黙れば傷つく。そんな信奈の強いまなざしが、真正面から万千代を射抜いていた。

 

長秀は息を呑み、震えるまぶたを伏せた。いつも冷静沈着な彼女が、今はただ、か細く揺れるひとりの女性だった。

 

「わ、私は……」

 

言葉が、喉の奥に詰まった。

 

(駄目よ……言ってはいけない……言ったら、もう、戻れなくなる)

 

 胸の奥で、最後の理性が、か細い声で必死に叫んでいた。家老として、忠臣として、姫さまにすべてを捧げてきた者として――踏み越えてはいけない一線。それを今、越えようとしている。けれど、それを止めるには――あまりにも想いが、募りすぎていた。

 

「私は……刃どののことが、好きです」

 

 まるで吐息のように紡がれた言葉だった。けれど、そこに込められた想いは、剣より鋭く、槍より深かった。

 

 勝家が言葉を失い、信奈が瞬きもせず彼女を見つめる中、丹羽長秀は震える唇をかみ締め、それでも言葉を絞り出していった。

 

「戦では……誰よりも冷静で。剣を握れば、誰よりも強い。あの霧の戦場で、敵も味方も見えず、声も聞こえず、あらゆる感覚が霧に呑まれる中――私は、ただ立ち尽くしていたんです」

 

 声が震えていた。普段の知性も、冷静さも、その一瞬だけは剥がれ落ちていた。

 

「……槍を握っていても、足が動かなくて。姫を守らなきゃいけないのに、頭ではそう分かっていたのに、手も足も、動かなかった。私はただ……怖かった。無力でした。情けないくらいに」

 

 そこまで口にして、長秀は小さく息を震わせる。誇り高き家老としての仮面が、ぽろぽろと音を立てて崩れていく。

 

「でも……そのとき。あの人は、来てくれたんです。誰よりも早く、私を見つけてくれた。姫と犬千代どのと私を、一か所に集めて、私たちを中心に――円を描くようにして、剣を舞わせました」

 

 その記憶が、まぶたの裏に、血のように鮮やかに浮かぶ。銀の髪が、霧の中で揺れていた。無数の敵兵を前に、彼は一歩も退かず、円の中心にいる彼女たちを守り抜いた。

 

「まるで……風のようでした。敵兵が何十人と殺到してくる中、一太刀、また一太刀と、迷いなく斬り伏せて。私の足がすくんでいる間も、あの人だけが前に立って……誰も通さないように、守り抜いてくれて……」

 

 拳が震える。口元が歪む。涙が滲み、視界が揺らぐ。

 

「私を庇って、肩を斬られてまで……それでも、あの人は、私の顔を見て微笑んでくれたんです。『気に病むな』って……『長秀殿にそんな顔は似合わない。いつも通り笑顔でいてくれ』って…… あの苦境の中で心から、私を安心させようとしてくれていたあの声が、どれほど私を救ってくれたか……」

 

 ふるえる指先が、膝の上でぎゅっと握り込まれた。

 

その微笑みを思い出した瞬間、長秀の目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。

 

「……たぶん、私のことなんて、姫や犬千代どのを守る“ついで”だったのでしょう。姫が私を失えば悲しむと、そう思ったから。私が特別だったわけじゃない。それは、分かっていました。分かっていたのに……」

 

 小さく、苦しげに息を吐きながら、唇を震わせる。

 

「それでも、私は、あの時――あの人の優しさに、心を奪われてしまったのです。戦場のど真ん中で、私の弱さを責めることなく、否定することなく、ただ包んでくれた……あの声が、あのまなざしが、私の胸を、ずっと離れない」

 

 拳を握りしめる。言葉の一つひとつが、まるで自分の魂を切り裂いていくように、痛みを伴っていた。

 

「……好きになってはいけないと思いました。家老として、側近として、女として。そんな感情を抱けば、姫に顔向けできないと、何度も……何度も、自分を責めました。でも……どうしても、忘れられなかったのです」

 

 声が震える。そして、静かに続けた。

 

「……叶わない恋だと、初めから分かっていました。あの人の一番が姫だということも。刃どののまなざしが向く先に、私はいないことも……」

 

 ぽたり、と涙が畳に落ちる音がした。

 

「けれど、どうしても……どうしても、心が追いつけなかったんです。理性で押し込めようとするたび、余計に、想いが溢れて……気づけば、夜な夜な思い出してしまう。あの戦場のことを。刃どのの声を。背中を……笑顔を」

 

 そこで長秀は言葉を止めた。もはや、これ以上語れば、すべてが崩れてしまう。そんな予感すらあった。

 

 彼女の肩が震えていた。拳は白くなるほど握りしめられ、涙が静かに頬を伝い続けていた。

 

 そして――

 

自らの胸の内を、すべてさらけ出した後の沈黙。その沈黙こそが、何よりも彼女の想いの深さを雄弁に物語っていた。

 

静寂を破ったのは、信奈の落ち着いた、しかし確かな声だった。

 

「……良く言ってくれたわね、万千代」

 

 その言葉に、長秀がはっと顔を上げる。瞳には涙が滲んでいたが、信奈の姿を見ると、ゆっくりとまぶたを伏せた。

 

 咎めるでも、慰めるでもない。信奈の声音は――ただ、まっすぐだった。揺るぎなく、強く、そして温かかった。

 

「あなたが刃を想う気持ち、今の言葉で……わたし、ちゃんと受け取ったわ。簡単なものじゃなかった。ずっと、心の奥で押し込めて、それでも忘れられなくて……その苦しさ、わたしには……痛いほど分かるから」

 

 彼女はゆっくりと立ち上がり、長秀のそばまで歩み寄る。そしてそっと膝をつき、正面から目を見つめた。

 

「ありがとう。想いを話してくれて。……どんなに辛くても、苦しくても、言葉にするって、とても勇気がいることよ。それを、今、貴女はやってくれた。それだけで、もう……誇っていいことよ、万千代」

 

 長秀の瞳が、再び潤む。言葉にならない感情が、胸の奥で渦を巻いていた。

 

 そして信奈は、ふっと視線を横に向ける。

 

「……刃、貴方もちゃんと聞いてたでしょ?」

 

 その言葉は、決して問いかけではなかった。すでに、すべてを知っている者への、静かな確認だった。

 

「え……?」

 

 長秀が思わず呟いたその瞬間――

 

 襖の向こう、誰もいないはずの空間に――確かな気配がある。

 

 信奈が言葉を発したその瞬間、ふすまの外で小さく衣擦れの音がした。

 

 静かに、気配が動く。逃げるようでも、否、すでに彼は、逃げることなど考えていなかった。そこにいたのだ。長秀のすべてを、沈黙の中で受け止めていたのだ。

 

 そっと、ふすまが開かれる。

 

 現れたのは、銀の髪を夜風のように揺らす男――天城刃。

 

 その顔は、いつものように凛としていたが、その眼差しには、どこか戸惑いと、誠実さが滲んでいた。

 

「……長秀殿、私は」

 

 一歩、彼は彼女の前に進み出た。その動きは慎重で、だが決して迷いはなかった。

 

「聞いていた。最初から、全部。……だから、貴女のその想いを、嘘ひとつなく、受け止めさせていただいた」

 

 その声音は真っ直ぐで、どこまでも誠実だった。そして、一拍の沈黙の後――彼は、静かに視線を伏せた。

 

「この時代に来るまで……私は誰かを愛したことも、誰かに愛されたこともなかった。感情というものを、どこか遠くのことのように思っていた。両親に捨てられた私は、家族という温もりを知らず、仲間という言葉も、表面だけでしかなかった」

 

 刃の声が、少しだけ掠れる。

 

「この時代に来て、初めて守りたいと思える人達に出会えた。命がけで誰かのために剣を振るう意味を、初めて知った。そして、それを誰かが“想い”と呼ぶことを、やっと理解しはじめたところなんです」

 

 そう言って、彼は長秀の前に静かに膝をついた。

 

「……貴女の想いは、痛いほどに伝わりました。胸に、深く届いています。そして私は――それほど強く誰かに想われたことなど、これまでの人生で、姫様と犬千代の二人を除いて、一度としてありませんでした。

だから、どう応えるべきか……まだ自分でも分からないのです。想いに応えるには、覚悟が要る。それに値する心が、自分にあるのかも、まだ……。ただ、ひとつだけ、確かに言えることがあります」

 

 そこまで言うと、彼は顔を上げ、まっすぐ長秀の瞳を見据えた。

 

「――あの夜、霧の中で、貴女を守ったことに、後悔など一つもありません。貴女を助けたのは“ついで”なんかじゃない。私はあの時、貴女を守りたかった。それが偽らざる、私の心です」

 

 長秀の瞳に、再び涙が浮かぶ。それは哀しみではない。救いのような、温もりのような、微かな光に触れたような涙だった。

 

 そして――刃は最後に、深く頭を下げた。

 

「ありがとうございます。私のような者に、真剣な想いを向けてくれて。それは……誰が何と言おうと、私にとって、何よりも重く、尊いものです」

 

 室内に、再び沈黙が満ちる。

 

 だがそれは、先ほどまでの痛みを含んだ静寂ではなかった。

 

 胸の奥を少しずつ満たしていく、確かなもの――真実の感情が織り成す、静かな余韻だった。

 

 長秀は、静かに俯き、刃の言葉を胸の奥深くに染み込ませていた。その頬を伝う涙は、もう苦しみのものではない。ただ、心が救われたことへの、感謝のしるしのように静かに零れ落ちていた。

 

 そして――

 

 その空気を、あえて破ったのは信奈だった。だがそれは、無粋なものではない。あくまで、今この場に立ち上がったひとつの「想い」を、温かく、そして確かに受け止めた者としての、誇りある言葉だった。

 

「……これで万千代も、刃の“妻”ね」

 

 ぽつりと、そんな言葉が落ちる。

 

 長秀が目を見開く。刃も、思わず息を止めた。

 

 だが、信奈はにっこりと笑って続けた。

 

「大名になった時には、一緒に嫁ぎましょ。ね? 犬千代と三人で」

 

 それは冗談半分、けれど――本音だった。

 

「だって、もう分かったでしょ? 刃は、誰か一人だけが手に入れていい男じゃないわ。……そんなの、誰も満足できないし、刃も苦しむことになる」

 

 信奈の声には、いつになく大人びた響きがあった。ひとりの少女ではなく、ひとりの姫として。ひとりの女として。心から誰かを愛する者の、真剣な声音だった。

 

「だから、あたしは欲張るの。犬千代も、万千代も、ちゃんと想いを向けてくれるなら……三人で、刃を支えればいいって。――戦国の世で、一人の男を巡って女が争うより、共に支え合える道を、選びたいのよ」

 

 長秀は、信奈の言葉を信じられないような表情で見つめていた。だが、その目には敵意も嫉妬もなかった。むしろ、優しさと、深い敬意が浮かんでいた。

 

 そして、刃はというと――

 

 まるで頭に雷でも落ちたかのように、ぼう然としていた。

 

 信奈がふっと笑って、刃の額を軽く弾いた。

 

「何よ。ここまで言ってまだ信じないの?刃、あんたって本当鈍いんだから」

 

 長秀も、小さく微笑んだ。その表情は、どこか安らかだった。

 

 三人の姫に、同時に真剣に想いを寄せられているという現実。その重みと責任を、刃はようやく実感し始めた。

 

 ――そして、清洲城の一室には、奇妙に温かな空気が流れていた。

 

 

和らぎ始めた空気の中、ふと信奈がくるりと振り返る。その仕草は穏やかだったが、視線の先にいる者にとっては、まるで雷のように響いた。

 

 視線の先――そこには、これまで静かに控えていたもう一人の少女、柴田勝家――がいた。

 

 「六、貴女を呼んだ理由がまだだったわね」

 

 その何気ない一言に、空気がふっと張り詰める。場にいた誰もが、その声の意味を察した。

 

 刃も長秀も、自然と勝家に視線を向ける。そして、呼ばれた勝家自身もまた、肩を小さく揺らし、瞬間的に瞳を伏せた。

 

 「ねぇ、六。貴女……サルのことが好きなんじゃない?」

 

 その問いは優しい声で投げかけられたが、鋭さを帯びていた。まっすぐに核心を突く、それでいて逃げ道を与えない問いだった。

 

 「なっ……あ、あたしが、サ、サルの事を……!? そ、そんな、そんな事は……っ、あ、あ、あり得ません!!」

 

 まるで反射のように否定した勝家の声は、裏返っていた。語尾が震え、咄嗟に言い放った言葉の中に、明らかな動揺がにじんでいた。

 

 その頬には、明らかに朱が差していた。耳まで真っ赤に染まり、目はどこにも定まらず、泳ぐように宙をさまよっている。

 

 「とぼけなくていいの。わたし、ちゃんと見てるから」

 

 信奈は唇をつり上げ、くすっと笑った。その笑みは軽やかだが、どこか鋭く、優しい姉のような眼差しを含んでいる。

 

 「いつも私のそばで、サルの話題になると、ぴくって反応するし……。あの子が誰かに褒められた時、貴女がどんな顔してるか、私が見逃してると思った?」

 

 六の唇がかすかに震える。

 

 「……そ、それは……その、サルが……」

 

 言いかけて、言葉が詰まる。何かを言いかけた唇が、またきゅっと結ばれる。あの人は――と続けたかったのか。あたしは――と自分を説明しようとしたのか。それは、誰にも分からなかった。

 

 指先が落ち着きなく衣の裾をつまみ、足元でかすかに揺れる。視線は床に落とされたまま、彼女はそれ以上、何も言えなかった。

 

 「はいはい、言い訳はあとでゆっくり聞いてあげるから」

 

 信奈の声が、場の空気をほぐすように響いた。その軽口は、重苦しかった感情を、ふっと和らげる魔法のようだった。

 

 だが勝家は、その視線に耐えられず、かすかに身をすくめるようにしてうつむいた。震えるまつげの影が、赤らんだ頬に落ちる。その表情は、否定の言葉とは裏腹に、すべてを雄弁に物語っていた。

 

 ……それでも。

 

 その沈黙は、拒絶ではなかった。

 

 あまりに眩しくて、まだ言葉にできない想いが、そこには確かに息づいていた。

 

 

半兵衛をどっちのヒロインにするか

  • 良晴
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