翌朝――
信奈が執務に追われていた本丸の一室に、刃が静かに足を踏み入れた。
「姫様。お願いがございます」
ぴたりと筆を止めた信奈が、わずかに顔を上げる。目が合うと、彼女の眉がかすかに動いた。
「……どうしたのよ、改まって」
刃は、静かに信奈の前に進み出て、膝をついた。その所作は、まるで一陣の風のように静かで、だが確かな重みを伴っていた。
その隣には、寝ぐせもそのままに目をこする相良良晴。もう一方には、背筋をぴんと伸ばした犬千代が、きっちりと正座して控えている。
「姫様。少しの間、良晴と犬千代を連れて、美濃へ行ってまいります」
たった一言。けれどその言葉が、信奈の心を大きく揺さぶった。
「……な、なんでよ!」
信奈は一歩、彼に歩み寄り、じっとその顔を見つめる。唇をきゅっと結んでいたが、やがて堪えきれず、声を震わせて問いかけた。
「……わたしのそばにいるのが嫌になったの? それとも……」
視線を少しだけ逸らす。言うべきか、言わざるべきか、迷いが混じる呼吸の中で、それでも信奈は真っすぐに言葉を絞り出した。
「昨日の……わたしと犬千代と万千代を、三人とも妻にするって話が……いやになったの?」
その声音には、普段の姫としての威厳はなかった。むしろ、ひとりの少女として、彼の心を恐る恐る覗き込むような――そんな弱さと切実さがあった
その瞬間――
「えっ!? ちょ、待て待て待て、なんだそれぇぇぇっ!?!?」
突然声を張り上げたのは、良晴だった。
完全に目が覚めたらしい。信奈の発言に目を剥いて絶叫する。
「刃!?なにそれ!?リアルハーレム!?信奈と犬千代と……長秀さんまで!?俺、長秀さん狙ってたのに!?お前、何しれっと落としてんるんだ!?無自覚女たらしのバグスペックが過ぎるだろ!!どこまでフラグ建てれば気が済むんだよこのチート剣士め!!」
「……犬千代も聞いてない。長秀のこと……刃、ちゃんと説明して」
犬千代は冷静だった。だがその目の奥には、揺れるものがあった。淡い不安と、嫉妬にも似た感情――それは言葉にはせずとも、確かに伝わる。
刃は一つ深く息を吐き、三人の視線をゆっくりと受け止めたあと、静かに語り出す。
「……違います。これは、昨日のことが原因ではありません。嫌になったわけでもありません。私情ではなく――姫様のための行動です」
そして、視線を少しだけ横にそらし、障子の向こう、まだ霧の残る庭に目をやる。
「今のままでは、美濃を取ることはできません。斎藤義龍は凡庸ですが……彼の背後に、竹中半兵衛が控えている。あの男の才知を前に、正面からぶつかるのは得策ではない。ですが、交渉の余地があると私は見ています。だから、私が出向きます」
その声に、一切の迷いはなかった。
「それに、姫様には……浅井長政からのしつこい求婚が届き続けています。最近は、兵たちの間でも“浅井に嫁げば国は安泰”などと囁かれる始末。浅井はそれを利用して、姫様の威信を少しずつ削ぎ落とそうとしている。……このままでは、姫様の夢も、立場も、兵たちの忠も失われかねません」
その言葉に、信奈はぐっと唇を噛んだ。爪が掌に食い込むほど拳を握り締める。
「……あいつ、そんなことまで……」
「はい。ですから、今、打って出る必要があります。半兵衛を説得し、味方につけ、美濃の戦局を変える。そして同時に、姫様の威信を示し、敵味方を問わず周囲を黙らせる」
刃は、再び頭を深く下げた。
「姫様。必ず、良晴と犬千代と共に無事に戻ります。どうか、行かせてください」
その背中に、信奈は何も言わず、ただじっと見つめ続けていた。
やがて、ぽつりと――それは少女のような声だった。
「……本当に、わたしのこと……嫌いになったわけじゃないのね?」
その問いには、どこか震える音があった。強がっていた彼女の本音が、不意にこぼれた。
刃はわずかに目を細め、そして――微笑んだ。
それは穏やかで、嘘のない、優しい微笑みだった。
「それだけは、決してあり得ません」
その一言で、信奈の頬がふっと熱を帯びる。
けれどすぐに、息を吸い込み、顔を上げると――信奈は堂々とした声音で告げた。
「……なら、行ってきなさい。三人とも。だけど、約束して。絶対に、絶対に帰ってきて。命にかえても……私のそばに戻ってきなさい」
「はい。姫様との約束です。必ず、生きて戻ります」
力強く頷く刃。その言葉は、信奈の胸に真っ直ぐ刺さった。
ふと横から、ぼそりと不満げな声が漏れる。
「……なあ、俺がなんで“旅のお供”にカウントされてるのか、マジで納得いってないんだけど……」
「……犬千代も思った。でも……行く。……姫さまのためにがんばる」
そんなふたりのやり取りに、信奈と刃は思わず笑みを交わした。
その瞬間、空の雲が割れて、朝日が縁側に差し込む。
やわらかな陽の光が、四人の姿を照らしていた。
それぞれの想いを胸に――
三人は、静かに、美濃への旅路へと歩み出した。
ここは美濃国。金華山こと稲葉山城の麓に広がる、井ノ口の町。
刃は同居人の良晴とお隣さんの犬千代を連れ、素浪人に化けてこの敵国の城下町へ密かに潜入していた。
三人が敵国の井ノ口までなにごともなく到着できた陰には、五右衛門と川並衆の野郎どもの働きがあったことは言うまでもない。
さて井ノ口に着いた刃と良晴と犬千代の〈仲良し三人組〉は、いきなり長良川沿いの茶店『鮎屋』を訪れた。
五右衛門の情報通り。この日この刻限この鮎屋で、『竹中家仕官面談』 が開催されている真っ最中だったのである。
いよいよ正式に斎藤家に仕官することになり稲葉山城への初出仕が明日に迫る竹中半兵衛だが、郎党に腕利きの侍がおらず、新たな家臣が若干名必要となったという。
刃は茶店の前で一瞬だけ足を止め、店の暖簾を見上げると、小さく息を吐いた。
「……浪人のふりをして竹中半兵衛の家臣となり、説得で織田方に寝返ってもらう。無理だったら……最悪斬れば良いか」
「いやいやいやいや!!良くねぇよ!?俺が熱き魂の説得するから!?ね!? 斬るの禁止!!」
隣で良晴が慌てふためく。
「……犬千代は、茶店に入るお金がない」
ぽつりとつぶやいた犬千代の一言が、さらに空気をシュールな方向に引っ張った。
「だから良晴を連れてきたんだ」
「……え、ええぇぇぇ!? ちょ、ちょっと待て刃!? 俺、まさかの“財布役”だったの!? 金づるポジ!? いやまあ、払うけどさ!? 任せとけってばよ!」
良晴は半分呆れながらも、気合いを入れ直すように拳を握る。
良晴のお給金は、月三十三貫文。侍大将にしては安めの報酬だが、それは信奈の極端な吝嗇によるものであり、彼の腕や働きが評価されていないわけではない。
だが、良晴は戦国ゲームで覚えた利殖方法をそのまま実行していた。 五右衛門に命じてこまごまと米の売り買いを続けているので、懐はほどほどに暖かい。
一方の刃はというと、給金のすべてを自分と良晴、ねね、そして犬千代の生活費に充てており、衣類や武具に金をかけることもほとんどない。必要最低限の支出に抑え、あとはすべて仲間のために使う――という、戦国の世においてはあまりに朴念仁すぎるほどのやりくりである。そのため、刃の財布は常に風の鳴る音がするほど軽く、もはや重みという概念から縁遠かった。
「……にしても刃、お前、財布ほんとに空っぽなんだな。いやもう逆に尊敬するわ」
良晴が呆れと感心の入り混じった声を出すと、刃は一拍の間を置き、いつもの無表情な口調でさらりと答えた。
「空っぽではない。銭三文だけは、入っている」
「それもう、“ある”じゃなくて“ない”のレベルだっての!!」
良晴が声を上げて嘆くと、横にいた犬千代が小さく口を開いた。
「……刃は、いつも犬千代に米とか魚とか、買ってくれる。だから……犬千代はもう、刃がいないと生きていけないかもしれない」
その言葉に、良晴の顔が一瞬だけ引きつった。茶化すのもためらわれるほどの真っ直ぐな感謝と好意の響きが、犬千代の小さな声にはあった。
「……お、おう……なんか、俺が悪人になった気がするじゃねぇか……」
刃は、そんなふたりのやり取りに肩をすくめただけで、特に何も返さない。ただ、誰かのために動くことを当然とするように、無言のまま暖簾の前へと歩みを進めた。
三人がそんなやり取りを交わしながら、ついに長良川沿いの茶店『鮎屋』の暖簾をくぐる。
刃は、竹中家への仕官を志す貧乏浪人たちでごったがえす『鮎屋』の大広間席を、まるで雑踏など気にも留めぬ風で悠然と通り抜け、最上階の特等席に腰を下ろした。
――豪胆であること、金があること、それがすなわち器の大きさの証明。
そう信じている浪人たちに対して、逆に「大物に見せる」ことで面接ポイントを稼げると踏んでの行動だった。
それに、すでに竹中半兵衛はどこかの席から浪人たちを観察している可能性もある。
ならば今こそ、堂々とした態度で“お大尽ぶり”を見せつける場だ。
「よし犬千代、今日は良晴の金で、たらふく食べられるぞ。普段はあまり買ってあげられないからな」
にやりと笑って刃が言うと、犬千代は小さく瞬き、もじもじと袖を握った。
「……そんなことない。刃は、いつも……助けてくれてる。犬千代は、十分」
その健気な言葉に、良晴が思わずぐっとくる前に、犬千代は隣の彼にも問いかける。
「……良晴、お金……大丈夫?」
「任せておけ、わっはっはっは! こう見えて俺には“へそくり”ってもんがあるんだよ! 清洲では目立つと信奈に怒られるけど、ここなら問題ない! な? もちろん内緒な!」
「……泥棒?」
「違う違う!れっきとした商いで稼いでるのさ!関所破りは繰り返しているがな!」
犬千代が、大ぶりの朱槍を構えて立ち上がった。
「……関所破りをひっとらえる」
「待て待て!破ってるのは敵国方の関所だけだ!信奈は関銭を取らねぇからな!」
必死で両手を振る良晴。刃は茶をすすりながら、無言でそれを見守っている。
やがて犬千代は、再びすとんと席に腰を下ろした。
「……許す」
良晴は肩から力を抜くと、急に思い出したように、犬千代に向かって指を突き出した。
「そうだ犬千代! たっぷり食って、勝家みたいに胸をでっかくするんだ! おっぱいを育てるにはタンパク質と脂肪が重要なんだぞ!」
「……関白が、死亡……?」
「違うわ!! “タンパク質”だ! “関白”じゃねぇ! なんでいきなり誰か死んだみたいになるんだよ!」
大袈裟なリアクションに店の数人がちらりとこちらを見たが、良晴はまったく動じず言葉を続ける。
「肉!魚!卵!牛の乳!それらを食えば、胸がぐーんと膨らむんだよ!俺のいた世界では、女子たちはみんな牛乳飲んでたぞ!だからみんなけっこう胸が大きかったぜ?な?刃!」
「……噓つき。牛の乳なんか、飲めない。……臭そう」
ぷいと顔を背ける犬千代。そして、こっそり刃の袖をつまみ、口を尖らせて訴える。
「……刃、良晴が犬千代をからかってくる……」
「ちょ、ちょっと!?ねねと同じように刃に告げ口するのやめよう!?なぁ!?俺、悪気はないから!」
わたわたと両手を振る良晴の様子を、犬千代は無言で見つめていたが――
ふと視線を落とし、自分の胸元をちら、と見た。
――平たい。やっぱり、平たい。
(牛の乳なんて……赤ちゃんが飲むもの……犬千代は赤ちゃんじゃない……でも……)
ふくらまない胸をそっと押さえて、犬千代の頬にうっすらと紅が差した。
(……たしかに、犬千代の胸は、赤ちゃんの頃から……変わってない……)
揺れる心。乙女の葛藤。
(もしかして、ほんとうに牛の乳を飲めば……勝家みたいに……)
どきどきどきどき。犬千代の視線は、膳に出された湯気立つ乳粥に吸い寄せられていく。
「……刃も、胸が大きい方が……好き?」
静かに尋ねるその声は、まるで風に揺れる花のように儚く、どこか切実だった。
良晴が思わず口をつぐんだその時――
刃は、何の迷いもなく言い切った。
「胸の大きさなど、どうでも良い」
その真っ直ぐな瞳と静かな声音に、犬千代は一瞬、ぽかんと口を開け――
ほんのわずか、目を細めて、うつむいた。
「……そっか。よかった……」
言葉少なにそう呟くと、犬千代は静かに乳粥の椀に手を伸ばした。
――それでも、食べてみようかな、と心の中で思いながら。
「いいから、さっさと鮎を食おうぜ、鮎を!」
良晴の声が響く中、香ばしい匂いをまとった井ノ口名物の鮎料理が、次々と目の前の卓に並べられていく。炭火でこんがりと焼かれた鮎の皮がぱちぱちと音を立て、湯気がふわりと立ち昇るたび、腹の虫がたまらず反応を示した。
「……ぐぅ」
犬千代が、思わず小さくお腹を鳴らした。
「……いただく」
静かに手を合わせ、箸を取ったその顔には、いつもの無表情にごくごくわずか――ほんのりとした期待と高揚が滲んでいた。
「鬼の信奈もいねえし、今日はどんちゃん騒ぎだ! わはははは!」
良晴が満面の笑みで茶碗酒をあおる。その隣で、犬千代は焼きたての鮎に躊躇なく噛みついた。頭から丸ごとがぶりといき、骨を器用に処理しながら、まるで飢えた小動物のようにぺろりと一匹平らげる。
「……美味しい。もぐ、もぐ」
ひょいぱく、ひょいぱく。箸の動きは止まらない。胸が大きくなるという噂への微かな希望も、彼女の食欲を後押ししていたのかもしれない。
前田犬千代。無口だが、食いっぷりは――実に、豪快だった。
「……ふぅ……はぁ……鮎、美味しい」
ほんのりと赤く染まった頬を押さえ、湯呑の茶をひとくち。幸せそうなその表情に、良晴はつい感嘆のため息を漏らす。
「お前って、気持ちのいい食べ方するなあ……信奈がういろうで餌づけしたがるの、なんか分かってきたわ」
「……もぐ、もぐ」
犬千代は返事もそこそこに、箸を進め続ける。だが、ふと手が止まった。空になった皿を見下ろし、わずかに首を傾げた。
「……もう、無い」
「俺のをやろう」
刃が自然な仕草で自分の皿から鮎を摘み上げ、犬千代の口元へと差し出した。無言のまま、箸先に並ぶ焦げ目の美しい鮎を見つめる犬千代――そして。
「……ぱくっ」
ためらいなく、犬千代はそれを口に含む。その顔に、ほんのわずかな――けれど確かな、嬉しさの色がにじんでいた。
刃の手元は再び動く。次の一匹を持ち上げ、柔らかな声で告げた。
「まだあるぞ」
犬千代は、ほんの一拍置いてから、小さく小さく――
「……あ~ん」
その声音には、ごく僅かな照れと甘えが混じっていた。
刃の表情が、ふと和らぐ。口元に淡い微笑みが浮かび、優しさが目元ににじむ。
「良晴、大変だ。犬千代がすごく可愛い」
その一言に、卓の端で茶碗を口に運ぼうとしていた良晴がぴたりと凍りついた。
「――ああそうだなって、なにイチャついてんだよお前らああああ!!?」
ついに爆発した良晴が、卓をバンと叩き、半ば涙目で叫ぶ。
「俺への当てつけか!?なあ!?ここに俺もいるんだけど!? 主人公の俺がな!?鮎の出資者であり、宴のスポンサー様なんだけど!?なんで隣で公開いちゃラブ見せられにゃならんのだ!!」
だが、返ってきたのは――静かな、しかし容赦ないふたりの声だった。
「……良晴、うるさい」
「……うるさい」
ぴたりと、まったく同じ間合いで、刃と犬千代が冷静に言い放つ。
「うわああああ!? なんだこの息ぴったりっぷり! お前ら夫婦か!?このままだと、俺のヒロインポジが消える!消滅するうううっ!!」
良晴が頭を抱えて身悶える。空気が痛い。心が痛い。
だがその嘆きの声も、刃と犬千代には届いていない。
「……刃、ありがとう」
犬千代の声は、まるで雪解け水のように静かで、しかし芯のある温もりを帯びていた。焼きたての鮎を一口頬張り、その小さな唇がほのかに緩む。
刃はそんな彼女を見つめ、柔らかく目を細めた。
「気にするな。犬千代が嬉しそうに食べてくれるなら、それだけで十分だ」
その言葉に、犬千代はぽつりと呟いた。
「……刃、優しい」
頬が、ほんのわずかに染まる。恥じらいか、喜びか、そのどちらとも取れる微かな変化だった。
そして次の瞬間、刃の手がふわりと犬千代の頭に伸びた。ゆっくりと、優しく、髪を撫でる。その動作には言葉も迷いもなく、ただ自然と出たもののようで――
「……ん」
犬千代は目を伏せ、小さく、けれど確かな喜びを噛み締めたように、声を漏らした。
満腹の余韻もそこそこに、刃が静かに口を開いた。
「さて――おい、良晴。いつまで唸っている。そろそろ仕官面談に向かうぞ。犬千代も食べ終わったようだ」
「おう、そうだったな!」
ようやく本来の目的を思い出したらしい良晴は、椅子から跳ねるように立ち上がり、周囲を見回す。
「ところでさ、面談の席ってどこだっけ? この奥の間か? それとも別室――」
そのときだった。
帳の向こうから、ぬうっと一人の男が現れた。するりと座敷に滑り込んできたその男は、年の頃は五十を過ぎたあたり。痩せぎすの体躯に落ち着いた色合いの羽織。身なりは質素ながらも整っており、目利きの侍であることが一目でわかる。
男は軽く会釈をして、三人の卓に腰を下ろす。
その所作は柔らかく、表情も穏やかだ。が、刃の目は鋭く光った。笑顔の奥に、冷えた刃のような気配がある――そう直感で見抜いたからだ。
「……失礼。突然の無礼を許されよ。お若い方々、半兵衛殿に仕官するためにお越しとお見受けした」
良晴が目をしばたたいた。
「お、おっさん? 誰だよあんた? まあいいや。俺は天下の素浪人・相良良晴! こっちの銀髪が天城刃、で――」
「……そいつの妻の犬千代だ」
「おい、良晴」
刃が目を細めて静かに突っ込みを入れるが、犬千代はうっすら頬を赤らめながらも否定しなかった。
「ほうほう、これはまた。なかなかのご縁だ」
男は笑みを深め、頷いた。
「わっちは安藤伊賀守守就。かつては西美濃三人衆の筆頭として、斎藤道三公に仕えておった。今は隠居の身じゃがな」
良晴が驚いたように口を開く。
「へえ! あんた、道三の腹心だったってわけか。ってことは、あんた……竹中半兵衛の親戚とかか?」
「うむ、まさにその通り。重虎――つまり半兵衛の叔父にあたる。父母を早くに亡くしたあの子を、わっちが育てた。今では実の息子同然よ」
安藤はそう語りながらも、その目はどこか世間を見下ろす老獪な光を宿していた。
「本来なら、あやつは仕官などせず晴耕雨読の生活を好んでいたがな。だが、一族の名誉、そしてわっちの……積年の志のためにも、あやつにはこの美濃で出世してもらわねばならぬ」
「……あー。つまり、自分じゃ表に出られなくなったから、切れ者の甥を使ってのし上がろうってわけだな?」
良晴の指摘に、安藤は少しだけ目を細めた。
「ふふ、まさか。老いぼれが何を欲すというのか。ただ、あやつに力がありすぎてな。『主君より目立ちすぎる』『陰陽師の類で気味が悪い』などと、嫉まれ蔑まれ……」
「いや、その悪評の半分はあんたのせいじゃねえの?」
「そこよ」
安藤はあっさりと認めて笑う。
「明日は半兵衛の初出仕じゃ。だが、家臣はおらず、お供は子馬が一頭のみ。まこと、侮られぬよう、見栄えの良い侍を傍に置きたいのじゃよ」
「それで、急いで面接を開いたってわけか」
「うむ。できれば、万一義龍どのに何かあったとき――首を取れるほどの豪毅な侍であれば、なおよし」
「そういう発言をするから、お前の野心が疑われるんだろうが!」
思わず良晴が卓を叩いた。だが、安藤は意に介した様子もなく、目を細めて微笑む。
「ともあれ、尾張侍には少し期待しすぎかもしれんのう。槍働きは――あまり、得意ではなさそうだ」
ぴたりと空気が張り詰めた。
良晴の目の色が変わり、手元の箸が「カタン」と落ちる。
「……なんで、俺たちが尾張の侍だってわかった?」
「ふふ、見るまでもない。朱槍の意匠、着流しの柄、言葉遣い……どれもこれも、美濃者のそれにあらず」
「めざとい親父だぜ。だが、槍働きは期待してもらって良いぜ」
良晴が不敵に笑い、椀を置いた音が小さく響く。
「……ほう?」
安藤守就の目がわずかに細くなる。その視線は、冗談か本気かを見定める老練な侍の眼光だった。
良晴は肩をすくめるように言った。
「あんたも聞いたことあるんじゃねぇか? 最近、美濃で囁かれてる“死神”の噂をな」
その一言が、まるで氷柱でも落としたように、茶屋の空気を一変させた。
ざわ……という気配が、酒の湯気に混じって広がる。先ほどまで酒盃を傾けていた浪人たちが、一斉にそちらへと視線を向けた。
「……“美濃の死神”」
安藤が低く呟いた。その声音には、ただの噂話を超えた、確かな記憶と戦慄が宿っていた。
――義龍が父・斎藤道三に反旗を翻した、あの長良川の戦い。
あの乱戦の中、道三方の旗印のもとに現れた謎の剣士。白い頭巾で顔を隠し、その隙間からのぞくのは血を吸ったような紅い瞳。一人で六百の兵を斬り伏せ、濁流のような義龍軍の陣を真っ二つに引き裂いたその姿は、誰の目にも異様だった。
戦の喧騒の中に突如現れ、一陣の風のように駆け抜け、気がつけば彼の通った後には骸と血潮のみが転がっている。姿も名も知れぬその男は、あまりに人の域を超えていた。
だからこそ――“死神”。
それが、あの戦場を生き延びた者たちの口から自然と漏れ出た言葉だった。
「まさか……貴殿が」
安藤の目が、隣に座る銀髪の青年に向けられる。
刃は、何も言わない。ただ静かに視線を受け止めていた。
そのまなざしはどこまでも澄んでいるのに、奥に潜むのは圧倒的な静寂と、殺気をも超えた“死”の気配――。
「……違う。刃は、死神なんかじゃない」
静かに、しかしはっきりと――犬千代がそう言った瞬間、場の空気が変わった。
それは、か細くも強い風が一陣、どこからともなく吹き抜けたような感覚だった。
小柄なその少女は、無表情のまま微動だにせず、だが確かな意志を宿した瞳で、正面に座る安藤をまっすぐに見据えていた。
「犬千代……?」
良晴がぽつりと呟いたが、犬千代は返さない。ただ、絞り出すように、けれどまっすぐな声で続ける。
「……刃は、人で……犬千代の、大事な――旦那様」
その瞬間、静寂のなかにかすかな動揺が走った。
乱れたように胸元を押さえた浪人が一人、目を見開いた侍が一人。言葉に詰まる良晴。そして……微かに瞬きをした、刃。
「……人を斬るのは、戦だから。……誰かを護るために、自分が傷ついても、前に立つ。……刃は犬千代が知っている、いちばん優しい人」
犬千代の声は震えていない。感情は静かに、けれど確かに満ちていた。
「だから、死神なんかじゃない。……そんなふうに呼ばれるのいや」
きゅ、と拳を握る音が聞こえるほど、静まり返る座敷。
刃は目を伏せていた。紅の瞳が細く伏せられ、睫毛が微かに揺れる。しばしの沈黙ののち、彼はそっと言葉を返した。
「……ありがとな、犬千代」
その声音は、どこまでも穏やかだった。戦場を駆け、血の風に包まれた者とは思えないほどに。
犬千代の頬が、わずかに紅く染まる。
そんな二人のやり取りに、良晴がやっと口を開いた。
「……おいおい、お前ら……なんなんだよ……いちゃつきすぎだろ……!?俺、空気ってやつになってないか? しかも、やたらと濃厚な愛の告白を見せつけられた気がするんだけど!?」
「……良晴、うるさい」
「うるさい」
またも息ぴったりに重なったふたりの声が、良晴の頭上にずしりと降りかかった。
「よし、雇うとしよう」
「マジでっ?」
「ああ、期待しておるぞ」
半兵衛は姿を見せぬままだったが──。
どうやらこの安藤伊賀守が、鮎屋に集まった新参者の品定めをしていたらしかった。
「さて、それでは半兵衛の部屋へ案内しよう」
安藤伊賀守がゆったりと立ち上がり、三人を伴って奥座敷へと歩みを進める。鮎屋の奥まった廊下は、先ほどまでのにぎやかさが嘘のように静まり返っていた。障子の向こうに漏れる灯りの揺らめきだけが、ここがまだ生きている空間であることを物語っている。
良晴は、つい先ほどまでの出来事を思い返しながら、不安げに眉をひそめた。
(あれよあれよと話が進みすぎてる……妙だ。あまりにも、とんとん拍子すぎる)
どこか引っかかる。あの伊賀守という老人、たしかに大物には違いないが――こちらの正体に気づいているのではないか?
(俺たちが、信奈の家来だと見破ってる?)
罠に嵌めるつもりか。それとも――。
(織田家とつながりを作って、斎藤家と両天秤をかける腹か……)
どちらにしても、このまま引き下がるわけにはいかない。調略、説得、あるいは懐柔。何にしても、半兵衛本人と顔を合わせねば始まらない。
その時だった。
「……」
隣を歩いていた犬千代が、こっそりと良晴の袖をくいくいと引っ張った。小さく首を傾げながら、不安げな視線で合図してくる。
(……あやしい)
目が、そう言っていた。
「行かぬ事には、目標は達成できんからな。……手を出してきたら、その時は斬るだけだ」
刃が静かに呟く。剣気を隠したまま、しかし気配だけが確かに研ぎ澄まされていた。犬千代も、無言でうなずく。
そして三人は、いよいよ襖の向こうへと足を踏み入れた。
奥の座敷。
そこには、香の香りがほのかに漂い、和紙の灯籠が部屋の空気を柔らかく照らしていた。華美ではないが、洗練された調度品が整然と並び、主人の趣味のよさを感じさせる。
中央には、ひとりの男が、正座して待ち受けていた。
若く、しなやかで、美しい――だが、ただの美青年ではなかった。
「って、お前は……浅井長政っ!?」
良晴が目を剥いた。
信奈の仇敵にして、近江の猿夜叉丸。その男が、なぜここに?
「貴様は……サル!?それにあの時の足軽もか!?なぜ貴様らがここにいる!?」
立ち上がりかけた長政も、同じく言葉を失っていた。
二人は、まさに予想外の邂逅を果たしてしまったのだ。
尾張のサルと、近江の猿夜叉丸。
まさか、敵地の奥座敷で――。
「お、おいおいおい、これはどういうことだ!?」
「俺が聞きたい!! 貴様、なぜ美濃に!? それも竹中半兵衛のもとにっ!?」
互いに罵声を飛ばし合いながら立ち上がろうとしたその瞬間――
「……鮎、まだある?」
空気を読まず、犬千代がふらりと座敷へ上がり、並べられた料理に手を伸ばそうとした。
「お、おい犬千代!? 勝手に食うな! それ毒かもしれねぇだろ!」
良晴が止めようとするが、すでに犬千代は一尾の鮎を手に取っている。
その手を、刃がすっと遮った。
「……俺が毒味する」
静かに言って、刃はその鮎を箸で取り、迷いなく口に運んだ。咀嚼し、飲み込み、数秒、沈黙――。
「……毒は、ない」
その言葉を聞いた犬千代は、うれしそうに目を細め、次の鮎を手に取ろうとした――が、刃がそれも自分で箸に取り、犬千代の口へそっと差し出す。
「……ぱくっ」
犬千代は、口を開けて鮎を頬張る。その頬がほのかに赤く染まり、もぐもぐと静かに味わう。
「お前ら自然にイチャついてんじゃねぇよ! こっちはそれどころじゃねーっての!」
良晴が悲鳴のような叫びをあげる。
「どうしてこうなるんだよ!ここ、戦略会議だろ!?まさか敵陣で夫婦漫才するとは思ってなかったわ!」
流石の長政も目を見開く。
「お、俺は織田家を出奔して今日から半兵衛どのに仕官することにしたんだ! 信奈みてえなうつけ姫の下で毎日毎日ひょうたん投げられたり顔面踏まれたりする日々にはおさらばさ、へっへ!」
良晴が開き直ったように言い放つと、奥座敷の空気が少しざわついた。
「……そうか。ちなみに私は浅井長政などという御仁ではない。近江商人・桝屋の一子、猿夜叉丸。父の代より薬の行商で財をなし、このたびお家から侍を出そうという話となり、嫡男の私が竹中さまにお仕えすることに」
涼しい顔で告げる長政、いや猿夜叉丸。だがその言葉に、良晴はぴくりと眉を跳ね上げた。
「黙れよこら。水戸黄門かよ。何が薬の行商だ、お前は浅井長政だろーがっ!」
「浅井だか薊だか知らぬが、断じてお人違い。あまり強く言うと名誉毀損で訴えるぞ?」
「だいいち、なんで近江商人が俺と顔見知りなんだよっ!? こちとら尾張の素浪人だぞ!?」
「顔は知らぬが、珍妙きわまりない尾張のサルこと相良なにがしの噂は、わが近江にまで鳴り響いているのでね。街道で商人や旅人が語る話には事欠かん。とにかく品がないとか、天下一の女好きだとか──」
「きーっ! ああ言えばこう言う! このやろう!」
良晴の怒鳴り声と、猿夜叉丸の涼しい皮肉がぶつかり合う中、安藤伊賀守が軽く咳払いをして二人の間に入った。
「まあまあ、おふたりとも。実家に銭の倉が三つあるという近江商人の猿夜叉丸どの。そして豪快に遊ぶ銭を持っておられ、腕も立つ尾張の浪人・相良良晴どのと天城刃どの、刃どのの妻の犬千代どの。わっちは、このお四方を半兵衛の家臣として雇うことに決めた」
ぱん、と手を打ち、さも名案といった様子で満足げに笑う伊賀守。
「待てやおっさん! あんた、金を持ってそうな順に雇っただろ! はじめから銭目当てだなっ」
「……気のせいじゃ」
「それにそいつは近江の大名・浅井長政だぜ! 何を企んでいるのやらさっぱりわからねえ、こんな奴を雇っちゃダメだ!」
良晴の抗議を余所に、長政は肩をすくめてみせた。
「ふ、ふ、ふ。何を根拠にそのような。そちらこそ織田家を出奔したとは真っ赤な嘘。実は信奈どのの命令で半兵衛さまの暗殺でも企てているのではありますまいか、サルどの」
「きぃ~っ! この馬鹿野郎が、信奈が暗殺なんて命じるかっ!」
「それはどうかな。信奈どのとやらは半兵衛さまの神算鬼謀な采配ぶりにご苦労されているご様子──このままでは浅井家に輿入れすることになると焦って、敵将の暗殺などという下策を……」
──空気が、凍りついた。
それまでの冗談めいた応酬が、まるで蜃気楼だったかのように掻き消える。
ふ、と灯明の火が揺れ、畳をなぞる微かな風音さえ、ぴたりと止んだ気がした。まるで部屋そのものが息をひそめ、沈黙を強いられたかのようだった。
空気が重い。濃密だ。吸い込むだけで肺が軋むような、鋼の鎖で締め付けられるような――そんな圧力が、座敷全体にじわじわと広がっていた。
「今……なんと言った?」
その静かな問いかけが、すべてを支配した。
声の主は――刃。
低く、抑えられた声音。だがその内に秘めた怒気は、あまりに冷たく、鋭く、そして圧倒的だった。目に見えぬ刃が幾重にも張り巡らされ、その一言で場を斬り裂いたのだ。
「え……いや、その、つまり……例え話、というか……」
猿夜叉丸――浅井長政がわずかに顔を引きつらせる。
常に飄々とした態度を崩さなかった男の、明らかな動揺。その目の奥に走る焦燥は、まさに本能が告げる危機そのものだった。
じり……と。
刃が一歩、前に出る。わずかな音ですら鋭利な刃のように響く。床板がきしむ音が、誰の耳にも痛いほど明瞭だった。
「姫様が、そんな下策を取ったといったか? ……猿夜叉丸」
その名をわざわざ強調して呼ぶ声に、圧はさらに増した。
そして同時に、もう一人の影が静かに、だがはっきりと刃の隣に立つ。
犬千代。
小柄な少女のその瞳は、赤々と燃える刃の意志を映す鏡のようだった。口こそ開かぬが、その視線は何よりも雄弁に語る。
――次に、侮辱の言葉を吐けば、容赦はしない。
「……たわけが」
吐き捨てるように刃が言う。
「姫様がそのような卑劣な策に頼るとでも? 敵将の暗殺などと……くだらぬ。姫様は、そんな卑しき手などなくとも、正面から敵を叩き伏せるお方だ」
「ま、待て、これは――」
長政が慌てて否定しようとするが、それすら許さぬ勢いで、刃の言葉が鋭く食い込む。
「口にする言葉は選べよ、猿風情が」
にじり寄る刃。その眼光は一切の感情を排した冷たさと、しかし底知れぬ激情とが渦巻く狂気の淵を孕んでいた。
「次に姫様を侮辱してみろ」
その声は凍てつくほど低く、鋼のごとく重く響く。
「俺は、たとえ貴様がどんな立場にあろうと、その場で首を落とす。ためらいも容赦もない」
静寂。誰一人として動けない。
畳に映る灯明の影だけが揺れていた。
「その首はていねいに木箱に詰めて、貴様の家に送り返してやる。怒りで挙兵するならば、それも結構。戦になるなら望むところだ。俺が――俺一人で、その家ごと潰してやろう。俺は姫様とは違う。暗殺も謀略も、使えるものはすべて使う」
その口調は、もはや宣言。冷静で、整然とした処刑宣言だった。
場にいた誰もが、それが虚勢ではなく、実行される確信を持った。
長政の額に、冷たい汗が滴り落ちる。
(これが……"死神"天城刃……!半兵衛がこやつに忠誠心を抱かせる事が出来れば、一族は)
安藤は恐怖と希望を抱く。
良晴も、その場では空気を壊すことができず、震えながら汗を拭っていた。
(……やばい、ガチで刃が怒ってる……殺気が、皮膚を裂きそうだ……!)
「ふ……ふむ……っ。これは、実に……不適切な物言いであった」
ようやくのように、長政が顔を引きつらせながらも頭を下げる。
「完全なる失言。以後、決して織田信奈殿について軽々しく語らぬと、ここに誓おう」
その声音には、もはや余裕など残されていなかった。命の危機を察した者の、心からの謝罪。
ようやく、刃と犬千代がわずかに身を引く。
凍てついた空気が、ほんの少しだけ和らぎ、再び流れを取り戻し始める。
そこで、ようやく良晴が震える声で叫んだ。
「お、おい……ちょっと待て……お前ら、今の……完全に、殺る気だったよな……!? 俺、今ここで、何か重大事件を見届けた気がするんだが……!!」
その言葉に、ようやく場がわずかに揺れ、呼吸が戻り始めた。
だが、誰もが――刃の言葉を、視線を、怒りを忘れなかった。
信奈。
ただ一人の姫君の名は、刃にとって、何人たりとも軽んじてはならぬ絶対の存在。それを知った時――浅井長政と安藤は、ようやくこの“死神”の本質に触れたのだった。
「それでは、わっちは下の階に集まっている貧乏浪人どもを解散させるとする。銭もない食い詰め浪人など雇ってもうまみがないからのう。じきに半兵衛が参るであろう」
安藤伊賀守は、奥座敷で先ほど起きた殺気立った騒ぎなど気にも留めていない様子で、軽い足取りのまま、ひょいひょいと廊下を渡っていく。その背に、ただの中間管理職ではない男の冷静な計算がにじんでいた。
「――ああ、そうそう。命が惜しくば、決して半兵衛を怒らせぬようにな。切れると、何をしでかすかわからぬからな」
言い捨てるように、しかし確実に意図を含めて安藤は言葉を落とす。
……猿夜叉丸が浅井長政であろうとも、いっこうにかまわぬ。むしろ、その方が面白い、と言わんばかりの余裕と黒さが滲んでいた。
その背中を見送って、良晴は思わず口を尖らせた。
「あのおっさん、食えねぇ……。織田と斎藤を天秤にかけるだけじゃ飽き足らず、今度は浅井家までか。で、一番高く買ってくれるところに半兵衛を売りつけるつもりかよ」
鼻を鳴らしつつ毒づく良晴。
その隣で、ふと空気を読むように浅井長政が視線を寄越す。
「……これ以上、互いの詮索はやめておこうではないか、サル」
小声で囁いたその息は妙に甘く、香に近い。艶めかしいまでに整った顔立ちのせいか、男のくせに妙に色気がある。
女たらしめ。くっついてくる女どもを払いのけるのも苦労してんじゃねーの?と、良晴は内心舌打ちする。
――というか、俺のハーレム計画の最大の敵か?いや、最大の敵は刃だな。
「サル。どうせ貴様も私と同じく、半兵衛を誘降するために来たのであろう? このままでは共倒れ。……ならば、半兵衛の前では互いに近江商人と尾張浪人のふりでもしておこうではないか」
その口調は、あくまで穏やか。だが、どこか舌先三寸の底冷たさが隠されていた。
「長政、お前にしては悪くない策だな。よし、乗ってやろう。だが――」
良晴はぴたりと長政の目を射抜くように睨み返す。
「半兵衛を味方につけるのは、俺たちだ。お前じゃねえ。……つーか、お前、信奈より先に美濃を盗ろうとして、こんな真似してるんだろ? 汚ねぇぞ、マジで」
「ふふ、私はね。狙った城と娘は、必ず落とす主義なのだよ」
「……信奈には、断られてたけどな。しかも、正面からバッサリとな」
皮肉を込めて返す良晴の一言に、長政は肩をすくめる。
その時――
「犬千代、姿勢を正せ。……サル兄弟もだ」
静かだが有無を言わせぬ一声が空気を切り裂く。
「誰がサル兄弟だ!てか、なんでだよ!?」
良晴が即座に反発するも、その声は場の空気の変化にかき消されていった。
「……お初にお目にかかる。竹中半兵衛重虎だ」
声の主を探して良晴が振り返る――そして目を剥いた。
奥座敷のど真ん中。
いつの間に入り込んだのか、白面の長身の青年が一人、まるでこの世で最もくつろいでいる人間であるかのように、ごろりと横たわっていた。
半兵衛をどっちのヒロインにするか
-
刃
-
良晴