織田信奈の野望〜戦国に舞い降りし銀ノ刃〜   作:更新亀さん

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活動報告で刃と良晴のヒロイン募集してます


竹中半兵衛争奪戦 後

 

「うん? もしかして……この城、わっちらのもの……? でかしたぞ、半兵衛!」

 

 ぽん、と安藤伊賀守が畳を叩いた。

 

 仕方なく無人の館にあがりこみ、疲労困憊の中で湯を沸かし一服していた半兵衛主従。その中で最初に「稲葉山城乗っ取り」という既成事実に気づいたのは、この男だった。

 

「えっ……?」

 

 湯気に霞んだ視界の中、半兵衛が目を瞬かせる。

 

「わ、わたし、そ、そういうつもりじゃ……」

 

 ぐず、と鼻をすすりながら振り返ると、目の前にそびえるは稲葉山城の主郭。ふだんなら近づくこともできぬはずの中枢部に、今の自分がいるという現実。

 

「あ、あああ……む、む、謀反してしまいました……いぢめられます……ぐすんぐすん……ど、どうしましょう、刃さん……!」

 

 半泣きになりながら刃の背中に縋ろうとする半兵衛。その肩に、ふいに誰かの手が伸びた。

 

「半兵衛どの」

 

 気品と自信に満ちた声。すらりと姿を現したのは浅井長政――猿夜叉丸。

 

「先にあなたを害そうとしたのは義龍殿。たとえ行きがかりとはいえ、主を退けて得たこの稲葉山城は、天の采配と言えるでしょう」

 

 言いながら、長政はさりげなく半兵衛の小さな手を取り、優雅に膝を折って口づけんばかりの仕草で抱え上げる。

 

「どうか、私にお力を貸していただけませんか? もちろん、いじめたりなどいたしません。それどころか――貴女をいじめる悪しき男たちから、この猿夜叉丸が生涯お守りいたしましょう」

 

 にこやかな笑み。だがその瞳の奥には、燃えるような野心と確固たる欲望が宿っていた。

 

「ひっ! は、離してくださいっ!」

 

 慌てて身を引く半兵衛。その瞬間、ぐいと半兵衛の肩を引き寄せた影がある。

 

「こら長政、半兵衛ちゃんから離れろっ!」

 

 割って入ったのは、相良良晴。怒りの火花を散らすように長政を睨みつける。

 

「刃より弱いお前が、どうやって守るんだよ。半兵衛ちゃん、こんな女たらしに騙されちゃダメだぜ!」

 

「貴様、私の邪魔をするつもりか? 今この稲葉山城を私が手に入れれば、美濃がどうしても必要な信奈どのは私と結婚するほかはなくなるというのに」

 

 ぴくりと眉を跳ねさせる長政。

 

「私はただ、半兵衛どのの将才と心根を見込んで誘っているだけ。……それとも、貴様がさんざん心をもてあそんできたという自覚があるのか?」

 

「きぃ悔しい! 俺がいつ半兵衛ちゃんをもてあそんだんだよっ!?」

 

「では訊くが、貴様は彼女を迎える城を持っているのか? 守ると誓ったか? 未来を与える覚悟があるのか?」

 

「うっ……」

 

「半兵衛どのが幸せになる千載一遇の機会。それを摘み取ろうとしているのは、他ならぬ貴様だ」

 

「お前についていって、半兵衛ちゃんが幸せになれるわけねーだろ! 稲葉山城目当て、信奈目当てのくせにっ!……半兵衛ちゃん。刃は信奈の懐刀で切り札だ。長政に仕えたら、刃が――刃が敵になるぞ!?」

 

 その一言で、場の空気が凍りついた。

 

「……え?」

 

 半兵衛の肩が、びくりと震える。

 

「……刃、さん……?」

 

 静かに、一歩進み出る刃。その表情には迷いも動揺もなかった。ただ、まっすぐな瞳が半兵衛を見つめていた。

 

「半兵衛殿。私は姫様に、必ず戻ると誓いました。私は姫様の剣。姫様の夢を支え、どこまでも共にあると――心に決めたのです」

 

 その凜とした言葉に、半兵衛の瞳が潤む。

 

 一滴の涙が、頬を伝ってこぼれ落ちた。

 

「……半兵衛殿を斬りたくはありません。けれど、これは貴女の人生です。私がどうこう言う資格など、本来ない。好きな道を選べば良いのです」

 

 刃は静かに言葉を続ける。

 

「貴女は謀反を嫌う。この城を義龍に返し、故郷に隠遁する。それも一つの選択です。私はそれを責めません。ご希望とあらば、道中の護衛もいたしましょう」

 

 だが、そこで言葉の色が変わる。

 

「しかし――もし貴女が、このサルと共に姫様の前に立ち塞がるというのなら。私は……例え貴女であろうとも、剣を振るいます」

 

 長い沈黙の後――

 

 長政が、静かに口を開いた。

 

「迷っている時間はありませんよ、半兵衛どの。尾張へ降れば、おそろしい蝮と信奈が待ち受けている。しかも、きぃきぃうるさい“みそザル”つきだ」

 

 彼は口元をわずかに緩めて、ささやくように囁く。

 

「だが近江に降れば、この猿夜叉丸が貴女を優しく包みます。どちらが幸福か……考えるまでもありません」

 

強引に半兵衛の肩を抱こうとした長政を、館に戻ってきた前鬼と後鬼が「こいつは噓ばかりついているな」「信用のおけぬ奴」と尻尾で追い払う。

これだけ邪魔者が揃っているとなると、長政もそう簡単には半兵衛を籠絡できない。

 

長政は「安藤どのと少し話をしてきます」と言い残し、「近江と尾張、どちらに付くにしても半兵衛もこれで一国一城の主。わっちは好物の酒を飲み放題じゃわ」と宴席の酒をかっくらって泥酔していた安藤伊賀守を引き連れて、二人で中庭へ出て行った。

 

騒々しさが遠ざかり、館に再び静寂が戻る。

 

 だが、その中央にただ一人、半兵衛は畳の上に崩れ落ちていた。

 

 頬を涙で濡らし、小さな肩が震えている。息は浅く、体の芯から冷えているようだ。美濃では病弱として知られていたが、それは決して誇張ではなかった。

 

「へくちゅんっ……ずず……さ、さ、寒いです……」

 

 細い声が漏れると、犬千代がすっと半兵衛の傍らに膝をつき、そっと肩を抱いた。

 

「……犬千代が、お風呂に入れる。良晴は……絶対、覗かないこと。……刃、見張ってて」

 

 その鋭い眼差しは、ちらりと良晴に向けられる。

 

「任せろ」

 刃が即答で頷いた。

 

「の、覗かないってば!」

 

 慌てて否定する良晴だったが、犬千代の冷静な一言が飛ぶ。

 

「……勝家のお風呂は、覗いた」

 

「の、覗いてねえってばっ! た、たしかにあのばいんばいんで、たゆんたゆんのおっぱいを一目拝むべく、何度か挑戦はしたけどなっ!」

 

 開き直ったその叫びが、場の空気を一瞬にして凍らせた。

 

「……気絶させた方が早いな」

 

 刃がすっと立ち上がり、無言のまま手刀を振り上げる。

 

「待て! 話せばわかる! 俺は悪く――ぐへっ!?」

 

 ぱしゅっ。

 

 一閃。正確無比な手刀が、良晴の頭に突き刺さった。

 

「おう……見事な一撃……」

 

 がくり、と良晴は膝から崩れ落ち、そのまま畳に大の字となって沈黙した。

 

「……見張りの手間が省けたな」

 

 刃がつぶやき、犬千代が小さく頷く。半兵衛の細い体は、まだ微かに震えていたが、その頬にはかすかに安堵の色も浮かびつつあった。

 

 

 

「はっ? 何時間失神していたんだ俺は!? ……もう夜じゃねーかっ!?」

 

 乱れた前髪をかき上げながら、良晴は跳ね起きるなり館の廊下を駆け抜け、勢いのまま庭へ飛び出した。

 

 そこに広がっていたのは――闇。闇。闇。

 

 星ひとつ見えぬ夜空の下、木々は不気味に風に揺れ、濃い影を地に落としている。闇があまりにも深く、まるで時間そのものが沈んでしまったかのようだった。

 

 良晴は肩で息をしながら、あたりを見渡し――そして。

 

「うおおっ!?」

 

 思わず、悲鳴を上げた。

 

 ぽうっと浮かび上がる二つの顔。月灯りに照らされたその表情は青白く、ほとんど幽霊じみている。

 

 犬千代と、そして半兵衛だった。

 

「……良晴、驚くのが早い。まだ何も報告していない」

 

 犬千代が淡々と告げる。夜の静けさに、低く落ち着いたその声が、却って不吉に響いた。

 

「ぐすん、ぐすん……わたしが微熱を出して臥せっている間に……安藤の叔父さまが……」

 

「……浅井長政にさらわれた」

 

「――なっ、なんだってぇぇぇぇぇぇぇっ!?」

 

 良晴の叫びが館中に響き渡る。目を丸くし、肩を震わせながら、口をパクパクとさせるその様は、まるで金魚のようだった。

 

 犬千代の手には、折りたたまれた一通の書状がある。質の良い和紙に、細やかな筆で綴られた文字――それは、浅井長政からの手紙だった。

 

『あの死神のいるところでは愛を語らえぬゆえ、ご無礼をお許しいただきたい。

安藤伊賀守どのを返してほしくば、死神のいないところで、今一度ふたりきりでお会いしたい。

刻限は今宵、四つ半。場所は長良川の中州――墨俣にて。

来ていただければ、叔父上をお返ししよう。』

 

丁寧すぎる文面。だがその内容は、脅迫以外の何物でもなかった。

 

「こ、これは……!」

 

 良晴が額に手を当て、天を仰ぐ。

 

「つまりアレだろ!? “あの死神”って刃のことだよな!? あいつがいると口説けないから、あえて排除したってことじゃねぇか!くっそおおお、長政の野郎、正体を現しやがったな!一人で行っちゃダメだぜ半兵衛ちゃん!今度は半兵衛ちゃんがさらわれるぞ!」

 

「くすん……くすん……」

 

「……てか、刃はどこいった!? こんな非常事態、アイツならとっくに気づいてるはず――」

 

「ここだ。何かあったのか?」

 

 静かに、背後から声がした。

 

 その場にいた全員が振り向く。そこには、闇の中から現れた銀髪の青年――天城刃の姿があった。外套を翻し、無駄のない足取りで歩み寄る。

 

「……刃、お帰り。……安藤伊賀守が、浅井長政に拐われた」

 

 犬千代が簡潔に告げると、刃は一瞬、目を細めた。

 

「なぁ、刃。どこ行ってたんだ?」

 

「街に情報収集に行っていた。半兵衛殿や俺達の事が広まっているかのな。だが、こんな事になっているとは」

 

「くすん、くすん……」

 

「すみません、半兵衛殿。私が留まっていれば……」

 

「……くすん……刃さんの、せいじゃ……ありません……」

 

 声を震わせながら、それでも半兵衛はしっかりと刃を見上げていた。その瞳には、揺れながらも確かな信頼が宿っている。

 

 ――その時、犬千代が口を開く。

 

「……刃と良晴と犬千代が、墨俣へ行って長政を倒せばいい」

 

「だがな、犬千代。親父さんが人質だし、向こうは明らかに待ち伏せしてるだろ。闇の中に兵を伏せられたら、下手すりゃ袋のネズミだぞ?」

 

 良晴が苦い顔で頭を掻く。

 

「っていうかさぁ……あっ、そうだ! 思い出した!」

 

 ぽんっ、と音を立てて膝を叩いた良晴が、ぐるりと半兵衛の方を振り返る。

 

「半兵衛ちゃんには最強式神軍団がいるじゃないか! 式神どもを繰り出して長政を倒しちまおうぜ!」

 

「……ぐすんぐすん……それが……ダメなんです……」

 

 半兵衛は涙目で、ふるふると首を横に振った。

 

「ええええええっ!? なんで!?」

 

「じゃ、じゃあさ。お札をゲット――じゃなくて、調達する方法は?」

 

 その問いに、半兵衛が少し顔を上げる。

 

「護符そのものは……紙に筆でドーマンセーマンの印を描けば代用できます。でも、それを“式神を召喚できるようにするには――晴明神社で、“気”を注がなければならないんです」

 

 場に、また沈黙が落ちる。

 

 時は夜――刻限は迫っている。行くべき場所も、相手も、あまりに不穏。だが手札は、すでに限られていた。

 

 

「つまり半兵衛ちゃん。今から大垣の晴明神社へ向かう時間はないってことか?」

 

 良晴が眉をしかめ、焦りの混じった声音で問いかける。今宵の刻限は“四つ半”。目前に迫った危機に、彼の声にはいつになく切迫した響きがあった。

 

「……はい。浅井どのが指定した時刻、そこから逆算すると……晴明神社で護符に気を込めてから墨俣へ向かう余裕は、もうありません」

 

 半兵衛はうつむいたまま、震える声で答えた。唇を噛みしめ、言葉の最後はわずかに濁った。

 

 ぽたり、と一滴の涙が草の上に落ちる。

 

 小さな背に背負ったものが、重すぎた。

 

「だが……半兵衛殿を一人で行かせるわけにはいかない」

 

 静かに、しかし凛とした声音で、刃が言葉を発した。

 

 それは決意というよりも、すでに確定された現実のような響きだった。誰にも反論を許さぬ、揺るぎなき意志。余計な感情も、美辞麗句もいらない。ただ事実としてそこに在る重みが、空気を一変させた。

 

「どんな罠が待ち受けているか分からんが――この四人で行くぞ」

 

 その瞬間、張りつめていた静寂が破れた。

 

 刃の背後で、半兵衛がはっと息を呑む。俯いていた小さな顔が上がり、瞳が揺れる。頬にはまだ、先ほどの涙の名残がうっすらと光っていたが――その目には、確かに驚きと戸惑い、そして……淡い希望が浮かんでいた。

 

「……それだと……このお城が……空っぽになっちゃいます、刃さん……」

 

 声はかすれ、消え入りそうだった。それでも、絞り出すように続ける。

 

「もし、私たちが全員いなくなったと知られたら……義龍さまが……きっと、すぐに兵を動かして……この城を、奪い返しに来るはずです……それでも、ほんとうに……良いんですか?」

 

 その問いには、迷いと不安、そして“自分のせいで誰かを巻き込んでしまうこと”への罪悪感がにじんでいた。 

 

「……どうしよう……」

 

 犬千代が、ぽつりと呟く。沈黙が場を覆う。

 

「……当たり前ですよ」

 

 その言葉は、凪いだ水面に突然落ちた石のように――静かに、しかし確かに場の空気を変えた。

 

 彼の声音は低く、ささやくようでいて、胸を撃つような重さを帯びていた。それは叫びでも叱責でもなく、ただ、信念だけが宿る刃のような声だった。

 

 刃は、ゆっくりと一歩を踏み出した。足音すら吸い込まれるような沈黙の中で、その一歩には、迷いも、動揺もなかった。

 

「私たちがいなくなれば、この城は奪われる。――半兵衛殿の言う通りです」

 

 まっすぐに、半兵衛を見据える。彼女の小さな肩が、震えていた。唇はきつく結ばれ、瞳の奥にはどうしようもない不安と葛藤が渦巻いている。

 

「……なら……どうして……?」

 

 かすれるような声が漏れる。胸の奥に押し込めていた問いが、堰を切ったように零れた。

 

 刃は、ただ穏やかに――しかし、どこまでも揺るぎない意思を込めて応えた。

 

「――ですが、私にとってそれは瑣末なことです」

 

 半兵衛が、はっと目を見開く。

 

「城がどうなろうと、兵がどう動こうと……それがどうしたというのですか」

 

 その言葉に込められた覚悟の重さに、空気が揺らぐ。

 

 刃はさらに近づき、そして半兵衛の前で膝をついた。まるで騎士が女王に忠誠を誓うように、頭を垂れた姿には一片の偽りもなかった。

 

「今の私は、姫様ではなく、半兵衛殿の家臣です」

 

 その一言は、半兵衛の胸の奥深くに突き刺さった。彼女の瞳が潤む。

 

「主である貴女が、今まさに苦しみ、悲しみ、心を乱している。ならば私は、そこから目を背けない。何を守るべきか、何に剣を振るうべきか――私は間違えません」

 

 刃の言葉は、鋼のようにしなやかで、温かかった。力強く、けれど決して押しつけではなく、彼女の心にそっと寄り添うようだった。

 

「主を守るとは、ただ肉体を盾にすることではありません。主の笑顔を守ること。主の心が壊れぬように、そっと手を伸ばすこと。それが、私という“剣”の本懐です」

 

 言葉のひとつひとつが、まるで半兵衛の凍えた心を溶かす焚火のように、静かに、優しく彼女を包み込んでいく。

 

「……刃、さん……」

 

 震える声でそう呟いた半兵衛の目から、ぽろり、と涙がこぼれ落ちた。

 

「もし貴女が、『城を守れ』と命じるなら、私は抗います。もし『叔父を諦めろ』と命じるなら、私は背きます。なぜなら――私は、今の主である貴女に“泣いてほしくない”のです」

 

 その言葉は、何よりも強く、まっすぐだった。

 

 半兵衛はもう、視線をそらせなかった。ただひたすら、刃の瞳に引き込まれ、心ごと捕らわれていた。

 

「家臣となり、まだ一日ですが――どうか、私を信じてください。ご命令を……我が主」

 

 刃がゆっくりと膝を折り、静かに頭を垂れる。

 床につけた手に迷いはなく、まるでそれは、誓いの儀式のようだった。

 凛とした空気が、場を支配する。

 まなじりを決して伏せず、ただ己の決意だけをその場に捧げる姿に、どこか神聖なものすら宿っていた。

 

「私に命じてください。共に叔父上を助けに行こうと。……こんな城より、自身の気持ちを優先してほしいと」

 

 その声は決して高ぶってはいなかった。

 だが、抑えられた熱が、言葉の端々から確かに滲んでいた。

 

「……う……あ……っ」

 

 小さな嗚咽が漏れた。

 半兵衛は何かを飲み込もうとするように唇を結び、だが、こらえきれなかった。

 瞳からこぼれた涙が、頬を伝ってぽたぽたと落ち、畳の上に染みを広げていく。

 

 泣くまいとしていた気丈な仮面が、崩れていく。

 感情という名の堰が切られ、心の奥に閉じ込めていた叫びが、少しずつ溢れ出していく。

 

 刃はそっと顔を上げ、まっすぐに彼女を見つめる。

 

「私は、貴女の前に立ち塞がるすべての敵を、必ず――斬り伏せましょう。

 命にかえてでも、あなたの行く道を開きます。

 ですから、どうか……貴女自身を、救ってください。

 あなたが、自分の心を犠牲にする姿など、私は見たくないのです」

 

 その言葉は、柔らかくも真剣で――そして、何よりもあたたかかった。

 半兵衛の涙は止まらない。けれど、ただ悲しみからこぼれるそれではなかった。

 

「……刃、さん……ありがとう、ございます……」

 

 小さな声で、けれど震える想いをこめて彼女は言う。

 その言葉は決意のようでもあり、祈りのようでもあった。

 

「いっしょに、きて、ください……安藤の叔父さまを……たすけて、ください……」

 

 刃は静かに頷いた。

 

「お任せください、我が主」

 

 その瞬間、半兵衛は感情に耐えきれず、刃の胸元へ身を預けた。

 

「う、あああっ……」

 

 彼の羽織をぎゅっと握りしめ、顔を埋めて泣きじゃくる。

 まるで、ようやく心の拠り所を見つけた子供のように。

 彼女の涙が刃の衣を濡らしても、刃は何も言わなかった。

 ただ、そっと彼女の背を包み込むように手を添えた。

 

 それは、剣士でも家臣でもない、ひとりの男としての優しさだった。

 

 その時――すぐ傍らで、ぽつりと声が漏れた。

 

「……刃、かっこいい。……さすが、犬千代達の旦那様。……惚れなおした」

 

 犬千代だった。

 その声はささやきに近く、誰にも聞かれたくないように小さかった。

 

 頬はうっすらと紅潮し、うつむくようにして肩を揺らしている。

 

「……やっぱ、あいつヤバいだろ……」

 

 良晴がぼそりと呟く。

 

「あれで落ちない女の子はいない、絶対……」

 

 それは、誰に言うでもない独りごと

 だがその瞳の奥には、悔しさと――

 仲間としての誇らしさが同居していた。

 

 

 

 刃は、己の胸元で泣きじゃくる半兵衛の背に、静かに手を添えていた。

 力強すぎず、けれど決して頼りなくはない、包み込むようなぬくもりをもって、何度も、何度もその小さな背をさすり続けた。

 

 半兵衛の嗚咽がやがて小さくなり、呼吸が少しずつ整っていくのを、刃は焦らず見守っていた。

 

今はただ、その涙を受け止めることこそが、彼にできる最も誠実な振る舞いだった。

 

 そして、ようやく――

 

「まずは、半兵衛殿」

 

 優しく、それでいて凛とした声が、静かに空気を震わせた。

 背を撫でる手が止まり、刃が半歩身を引く。

 

「……くすん……は、はい!」

 

 まだ涙の名残を残しながらも、半兵衛はしゃんと背を伸ばした。

 その目には、先ほどまでの弱さの影はなく、澄んだ意思の光が戻っていた。

 

「斎藤義龍に手紙を書いて送ってください」

 

 刃の声音には一切の迷いがない。語る言葉に、策士の冷徹さではなく、誠意と信義が宿っていた。

 

「“無礼を働いた斎藤飛驒守を誅するために、やむなく式神を召喚しましたが、義龍様に対して謀反の意図は一切ありません。これより稲葉山城を明け渡し、速やかに退去いたします”──と、伝えてください」

 

 半兵衛は、刃の言葉を真剣に聞きながら、小さく頷いた。

 

「はい、すぐに……書きます……!」

 

「そして俺たちは、これから――安藤の親父を奪還しに行くんだな!」

 

 場の空気を変えるように、良晴が拳を握って叫ぶ。

 その笑顔には、少年のようなまっすぐな情熱と、仲間を信じる確かな自信が溢れていた。

 

「やっぱお前、俺の“夢の最大の敵”だけど――それでも、最高にカッコいいぜ、刃!」

 

 その言葉に、思わず半兵衛がくすりと笑った。

 

「……本当に……あ、あ、ありがとうございます……!」

 

 今度の涙は、静かに微笑む顔のまま、するりと頬を伝った。

 それは悲しみや後悔の色ではない。ただ、胸がいっぱいになるほどの、感謝と安堵の涙だった。

 

 ──半兵衛は、ただの泣き虫な少女ではない。

 

 その小さな胸には、確かに宿っているのだ。己なりの美学が。志が。

 

 それは一言で言えば、「義の心」。

 

 利を取るでもなく、欲を追うでもなく。ただ、「正しい」と信じたことを貫くために生きる覚悟。

 半兵衛にとって、“我”を導くのは“義”だった。

 その義の道を、迷いなく進むために、彼女は自らに厳しくあろうとする。

 

 そして今、半兵衛は――

 

 敵国から、自分と稲葉山城を奪うためにやってきたはずの男・刃から、信じられないほどにまっすぐな「義の心」を受け取っていた。

 

 ほんとうなら、丸腰になった今こそ、刃にとっては自分を斬る絶好の機会だった。

 しかし彼は、そんな思考すら持たなかった。

 

 刃も、そしてその仲間である良晴も犬千代も――

 

 「半兵衛を斬って稲葉山城を奪う」などということを、考えたことすらなかったのだ。

 

 いや、それどころか――

 

 刃は、主君・信奈への忠義と、一時的に仕えているだけの半兵衛への義理を、真剣に天秤にかけたうえで、

 ためらうことなく「助ける」と決めた。

 

 まるで、それが当然であるかのように。

 

 その行動が、どれほど重い意味を持つかを、半兵衛は痛いほど理解していた。

 

 だからこそ、彼の背中が、言葉以上に尊く見えた。

 

「では――行きましょうか」

 

 刃が静かに、けれど力強くそう告げた。

 

「はい!」

 

「おう!」

 

「……おー」

 

 半兵衛が、良晴が、犬千代が、まるで待ちかねたようにその声に応じる。

 

 そして四人は、並び立ち、歩き出した。

 

 半兵衛はそっと、隣を歩く刃の横顔を盗み見た。

 冷たさのない、穏やかで誠実な横顔――

 どこか儚げなのに、不思議なほど頼もしく見える、その顔を。

 

 見るたびに、心が、あたたかくなる。

 

 何かが、静かに満たされていく。

 

(……どうしてでしょう。見ているだけで、こんなにも、勇気が湧いてくる……)

 

 その理由はまだ、言葉にはならない。

 けれど、胸の中で芽生え始めたそれは、確かに“何か”を変えつつあった。

 

 誰よりも強く、誰よりも優しい“義の剣士”の背を、

 彼女は、決して見失うまいと心に誓った。

 

 

こうして。

半兵衛主従は闇に潜む五右衛門をくわえて、夜陰に乗じて山城を抜け出し、川並衆の筏に乗って長良川を急行。

一路、墨俣へと向かった。

その間に半兵衛が飛ばした伝書鳩が井ノ口の町に隠れていた義龍の元へ届き、義龍たちがおそるおそる稲葉山城へ戻ったことは言うまでもない。

 

 筏の上。

 

 波間を揺れながら、良晴は弓を手に取り、矢羽根を一本一本指で撫でていた。

 動作に無駄はない。だが、そこには明らかに落ち着きのない気配がある。

 

「……信奈の奴、怒るかなあ……」

 

 ぽつりと、誰にともなく呟く。

 

 風がその言葉をかすめていく。

 

「さあな。だが、俺が姫様に怒られるのは確かだ」

 

 刃が静かに答えた。

 その声には苦笑が滲んでいたが、どこか優しさすら含まれていた。

 

 彼の膝には、眠る半兵衛と犬千代の頭がちょこんと並んでいた。

 舟の揺れに身を任せ、ふたりとも無防備に仮眠をとっている。

 ひとりは銀の髪をそよ風に揺らし、もうひとりは小さく鼻を鳴らしながら微かに寝言を呟いていた。

 

 刃は、左右の膝に横たわるふたりの頭を、優しく撫でていた。

 

 髪を梳くように、包み込むように――

 その手には、武人の荒さも、主従の堅苦しさもない。ただ、静かなぬくもりだけがそこにあった。

 

 良晴がちらりとその様子を見やり、ニヤッと笑う。

 

「信奈のやつ、結構……いや、かなり独占欲強いからな。お前がさ、自分以外の誰かに、一時的とはいえ仕えてた、なんて話を耳にしたら……想像つくぜ?」

 

 刃が無言で視線を向けると、良晴は面白そうに続けた。

 

「烈火の如く怒り狂うだろうな。多分、開口一番“はっ?なんで勝手に他所の女のところに行ってんのよ!”とか言ってさ、目の前で刀でも抜きかねない」

 

「……ああ。たぶん本気で斬るつもりはなくても、勢いで抜きかねないな」

 

 刃が冗談めかして言うと、良晴はくくっと笑いを漏らした。

 

「だよなー。……んで、涙目で、頬を真っ赤にしながら“裏切った……”とか“浮気者……っ”とか、噛みしめるように言って、しかも自分でもわけわからなくなって泣き出す、までがセットだな。間違いねぇ」

 

 刃は少しだけ笑みを浮かべ、遠く川の先を見つめた。

 

「だが、それでもいい。この選択をしたことは、微塵も後悔していない」

 

 それは、嘘偽りのない言葉だった。

 

 主君の信奈を想わぬわけではない。むしろ、心の底から忠義を尽くしている。

 けれど、それでも――

 目の前で涙を流す少女を、信じて道を選ぼうとする者を、見捨てることはできなかった。

「この手を差し伸べなかったら、きっと一生、後悔する」

心のどこかが、そう叫んでいた。

 

「本当に、お前って奴は……義理堅いっていうか、ズルいっていうか……」

 

 良晴は目を細め、吐息のようにそう呟いた。

 だがその声には、嫉妬や批判ではなく、むしろ誇らしげな響きが混ざっていた。

 

 そう。彼らは今――

 

 それぞれの「義」を胸に、静かに、確かに、次の戦場へと向かっていた。

 

 夜の川は、何も語らない。

 ただ黙って、彼らを乗せ、ゆっくりと未来へと流れていく。

 

 

長良川を一気に下り、川並衆の筏船団は濁流を切り裂くように進軍した。

 無数の櫂が水面を叩き、水しぶきが夜空に弧を描く。墨俣の中州は、濃い闇に包まれていた。

 

「全筏、突入――ッ!」

 

 副将・前野某が怒号を飛ばし、筏が次々に浅瀬へ突入する。刃たちも先頭で飛び降り、安藤伊賀守の救出を目指して陣形を整えた。

 

 だが──。

 

 待ち受けていたのは、静寂だった。

 

 敵兵の影はどこにもない。城も陣屋も、打ち捨てられたように空っぽだった。

 

 探しても、探しても、人の気配はない。猫の子一匹、見当たらない。

 

「ちっ、ちきしょうっ! 一杯食わされたぜ!!」

 

 前野が忌々しげに歯ぎしりし、地団駄を踏みしめる。その衝撃が乾いた砂地に響き、怒りの熱気が一帯に漂った。

 

「きゃあぁっ!」

 

 その迫力に驚き、半兵衛がびくりと肩を震わせる。思わず刃の背後にすすっと身を隠し、袖を握る手がかすかに冷えていた。

 刃は無言で彼女の手を取ると、そっと握り返してやる。

 

 その時だった。

 

「……刃、良晴。砂地の上に、何か書いてある」

 

犬千代が指さした先は、草が生えていない砂浜になっていた。

 

『義理堅い半兵衛どのは謀反人になることをいやがっておられるご様子。

しかし死神や相良良晴がいては稲葉山城を斎藤義龍に返還することはできない。

そこで私は一計を案じ、あえて裏切り者の役を買って出た次第。

今頃、憎い私を討ち果たす口実を得た死神や相良が半兵衛どのをかどわかしてこの墨俣を訪れていることでしょう。

これで半兵衛どのは謀反人の汚名を免れました。

だがこれだけの騒ぎを起こし、美濃に帰参するのは無理でありましょう。

我が近江に参られよ。

安藤伊賀守は、半兵衛どのが我が家臣となった時にお返しいたしましょう』

 

「な、なんだと……!?」

 

 良晴が、思わず声を荒げた。

 

「くそっ……! 長政の奴、最初から半兵衛ちゃんを調略できないと読んで、稲葉山城を“義龍に返す”流れを作るために俺たちを利用しやがったのか! しかも、あいつは墨俣に来るって俺たちの行動まで予測して……!」

 

 唇を噛み、拳を握る。

 

「……長政、ただの女たらしじゃなかった……!」

 

「……たぶん、姫さまと同盟するためなら、何でもするつもり……」

 

 犬千代の声音はいつになく低く、吐き捨てるようだった。

 

「だが、それでも稲葉山城を捨てるなんて信じられねぇ……あれほどの要衝を、あっさり?」

 

「……いや、長政は“稲葉山”を捨てたわけじゃない。むしろ、“奪り返せる”と踏んでるんだろう。半兵衛殿さえ手中に収めれば、時間はかかっても自力で攻め返せると」

 

 刃の声が、鋭く割って入る。

 

「……そして、もしそれが叶わなくとも、姫様さえ手に入れれば、稲葉山も、美濃も、結果として自分のものになる。そう考えているのだろう」

 

 その言葉に、一瞬、空気が凍る。

 

「政略結婚で……織田家そのものを吸収しようとしているのか……!」

 

 良晴の声は怒りに震え、吐き捨てるようだった。

 

「どうしてあいつは、そこまで信奈に執着する!? 天下の器を欲しがるにしても、やり方が外道すぎるだろっ……!」

 

 犬千代が、じっと刃の横顔を見つめた。

次の瞬間、ぴしりと張り詰めるような音が走る。大気が、刃の周囲を中心に軋むように震え、視線一つで肌を刺すような殺気が立ちのぼる。

 

「あの糞ザル、随分としつこいな。潰してやろうか?」

 

 冷たく吐き出されたその声に、場の空気が凍りついた。

 

 静かに、確かに、殺気が満ちていく。

 

 “姫様は俺のものだ”――そう言葉にせずとも、刃の全身がそう叫んでいた。

 

 良晴の心臓が、ギリ、と音を立てて軋むのを感じた。拳を強く握りしめて、無意識に一歩引く。

 

(こいつ……信奈のこと、そこまで……)

 

 だが、それは恋ではなかった。嫉妬でも、恋情でもない。

 

 むしろそれは――"信奈という存在に一切の穢れを寄せ付けたくない"という根源的な本能の発露だった。魂に刻まれた、王としての絶対の一線。その一線を越えようとする者には、例外なく、無慈悲な刃を向ける。

 

「これ以上付き纏われるのも鬱陶しい。姫様のストレスも限界だろうし、いっそ今から――」

 

「おい待て!! 阿呆か!! 潰すって、お前マジで言ってんのか!? 駄目に決まってんだろ、馬鹿タレ!?お前がそんなこと言ってどうすんだよ! 今そんな物騒なマネしたら、信奈がどれだけ悲しむと思ってんだ!? いい加減にしろ、空気の読めるチート野郎がァ!!」

 

 その勢いに押されるように、周囲の空気がわずかに緩む。

 

 だが、なおも刃は鋭い眼差しを逸らさなかった。

 

「だめです!!」

 

 半兵衛の声が、それを追うように飛んできた。

 

 今にも泣きそうな顔で、必死に叫ぶ。

 

 小柄な体を張って刃の前に立ち、両手を広げるようにして懸命に言葉を紡ぐ。

 

「刃さんは……そんな人じゃないって、信じてます……! 怒るのは分かるけど、でも、でも、そんなことしたら……だめです…! だから、だから……お願いですっ……!」

 

 声が震えていた。

 だがその震えの奥には、確かな“信頼”があった。

 

「……だめ」

 

 最後に、低く、しかし凛とした声音で呟いたのは――犬千代だった。

 

 誰よりも静かに、そして鋭く。

 

 刃を真っすぐに見つめ、その視線は言葉以上に多くを語っていた。

 

三人の言葉が、空気を変えた。

 

 そして、ようやく――

 

 刃が、ふっと息をつく。

 

 わずかに目を伏せ、ゆっくりと殺気を収めていく。その気配は、まるで荒ぶる獣が静かに檻へと戻っていくような、緩やかな変化だった。

 

 そして、わずかに肩をすくめて――

 

「……本気にするな。冗談だ。多分」

 

 その“多分”の含みが、また場をざわつかせる。

 

「おいコラ!! “多分”とか言ってんじゃねぇよ!! こっちは心臓止まるかと思ったんだぞ!?」

 

 良晴が叫び返し、頭を抱えてその場に崩れ落ちる。

 

「頭を冷やしてくる」

 

 そう言い残し、夜の闇へと姿を消した。

 

 その背を、半兵衛が追いかける。

 

そして──月明かりに照らされた河原にふたりきり。

 

「……刃さん。そんなに大切なら、誰の手も届かないところへ隠してしまえばいいんです」

 

 半兵衛の声は静かだった。けれどその響きには、言葉にできないほどの痛みがこもっていた。

 

「誰も姫さまを傷つけられないように……大切に、大切に、お城の奥へと仕舞い込んでしまえばいい」

 

 それは誰かを責める言葉ではなかった。むしろ、自分自身に向けた告白だった。

 

(……ほんとうは、わたしだって、そうしたかった)

 

 心の奥底で、半兵衛はそう呟いていた。

 

 世に出たくなんてなかった。戦も、策も、裏切りも、何もかも知らないままでいられたなら。

そうすれば──叔父も攫われずに済んだ。逃げることも、刃のように冷たい決意に怯えることも、なかったかもしれないのに。

 

「……だから、刃さん」

 

 それでも言葉を継いだ。感情に押し流される前に。

 

「信奈さまがそんなに大切なら……隠してあげればいいんです。誰にも触れさせずに、壊されないように……全部、あなたが代わりに背負えばいい。信奈さまを戦から遠ざけて、あなたが……刃さんがその代わりに、織田家を率いて戦えば……!」

 

 投げるようなその言葉は、混乱と焦りと、痛みによって絞り出されたものだった。

 

 言ってはいけないとわかっていた。

 

 でも、言わずにはいられなかった。

 

 刃が、あの冷たい殺気を纏ったまま、どこか取り返しのつかない場所へ行ってしまいそうで。手を伸ばして、どうにか止めたくて。

 

 だが──

 

「それは違います、半兵衛殿」

 

 刃の返答は、炎のようでも氷のようでもなかった。

 

 ただ、揺るがぬ確信だけを宿した、深い静けさだった。

 

「……え?」

 

 半兵衛は顔を上げた。

 

 夜の帳の中で、刃は月明かりを背に受けながら、まっすぐに立っていた。

 

 その眼差しには、曇りひとつなかった。

 

「私は……姫様の、太陽のように光り輝く姿に、心を奪われたのです」

 

 静かに語られるその言葉は、まるで祈りのようだった。

 

「気高く、まっすぐに天を目指し、誰よりも先を走るその背に──私は、生きる意味を見出した。だからこそ、剣になると決めたのです。己の命など惜しくないと、心から思えたのです」

 

 その一語一語が、半兵衛の胸に、重く突き刺さっていく。

 

「私にとって、姫様の笑顔は……命よりも、何よりも、大切なものなのです」

 

胸の奥が、ぎゅっと締めつけられるようだった。

 

 それが半兵衛には、痛いほど分かった。

 

「だからこそ……閉じ込めてはいけないのです」

 

 刃の声はやさしく、だが決して折れなかった。

 

「姫様が姫様でなくなってしまう。それは、私にとって何よりも悲しいことです。太陽は空にあるからこそ輝く。その光を覆ってしまえば、世界は闇に沈む」

 

 半兵衛は、もう何も言い返せなかった。

 

 ただ、その言葉の一つ一つが、心の奥に突き刺さるのを感じていた。

 

「私は、あの方を天下に輝かせたい。その時、あの方の隣に──誇り高き剣として、私は立っていたいのです」

 

「……でも……!」

 

 ようやく声を絞り出す。

 

「天下に輝かせれば……その輝きの裏に、影が生まれるんです。敵が生まれ、憎しみが集まり、嫉妬が渦巻く。刃さんの大切な人は……もっと苦しむことになるんですよ……!」

 

 それは、怒りではなかった。

 

 悲しみだった。

 

 せめて、刃だけは──信奈の苦しみを見ずに済んでほしかった。

 

 だが。

 

「……そのために、私がいるのです」

 

 刃の言葉は、どこまでも静かだった。

 

「姫様が陽の道を歩まれるなら、私は陰の道を歩む。それが、私の務めです。姫様が前だけを見て歩けるよう、私は背中に迫る闇をすべて斬る。どれだけ憎まれても、血に染まっても、かまわない」

 

その言葉には、命すら超える覚悟が宿っていた。

 

「敵を斬り、道を拓き、すべての災いを払う。そのために私はこの世に在る。命にかえても、姫様を守る。それが私の──唯一の願いです」

 

 長い、長い沈黙が流れた。

 

 その沈黙の中で、半兵衛の胸は何度も音を立てて揺れた。

 

 ただ、立ち尽くし、彼の横顔を見上げていた。

 

 その横顔には、迷いがなかった。信念だけがあった。

 

(……たった今)

 

(刃さんに、私は……何か、大切なものを奪われた)

 

 胸の奥に、焰のような何かが燃えはじめていた。

 

 焦がれるような想いだった。悔しさと、羨望と、何よりも──憧れ。

 

 それは、忠義や義の心とは違った。

 

 もっと個人的で、もっと熱くて、もっとどうしようもなく眩しい感情。

 

 言葉にできない想いが、心を満たしていく。

 

 そして──そのまま、長い時間が流れた。

 

 二人は無言のまま、河面に映る月を見つめていた。

 

 水面はわずかに揺れ、月の光が細く波打っていた。

 

その静寂の中で、半兵衛はそっと口を開いた。

 

 それは、誰にも聞かせるつもりのない、ただ刃にだけ届いてほしい、小さな声だった。

 

「……わたしは──あなたを天下に輝かせながら、あなたの心を……守ってあげたいです」

 

 震えながら、しかしはっきりとした声だった。

 

 それは、自分の人生を変える言葉。

 

 もしかしたら、刃に拒絶されるかもしれない。笑われるかもしれない。

 

 けれど、言わなければ──この夜に、自分の夢は消えてしまう。

 

 そう思ったからこそ、半兵衛は言えた。

 

 心の底からの、精一杯の言葉を。

 

 ──竹中半兵衛は。

 

 こうして、“刃の仲間”になった。

 ただの軍師ではない。

 彼の未来に寄り添い、その心に触れ、その夢を共に背負う者として。

 

静かな夜風が、ふたりの間をそっと撫でてゆく。

 

 長く続いた沈黙の後、刃は、まるでそれが雷のように衝撃だったかのように、驚いたように瞬きをした。

 

 まっすぐに向けられた半兵衛の瞳を見て、ほんのわずかに息を呑む。そして、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。

 

「……ありがとうございます、半兵衛殿」

 

刃はすっとその場に片膝をつき、深々と頭を垂れた。

 

「貴女のような方が、私の傍にいてくださること──この上なく、心強い」

 

 その光景に、半兵衛の目が見開かれる。

 

だが次の瞬間には、ふっと微笑みを浮かべて、小さくため息をつくように言った。

 

「……頭をお上げください、我が殿」

 

 凛として、けれどどこか優しく、照れ隠しのような響きを帯びた声音だった。

 

「これからは、殿のためにわたしの知略と陰陽の術を思う存分お使いください」

 

そう告げた半兵衛の姿は、戦場の軍師というより、まるで――誓いを立てる巫女のように神聖だった。

 

 だが、刃はすぐに困ったような苦笑を浮かべて、そっと彼女に向き直る。

 

「……おやめください、半兵衛殿。そんなふうに呼ばれると、くすぐったい」

 

「ふふ、くすぐったい、ですか?」

 

 半兵衛が、意地悪く問い返すように微笑む。

 

 その笑みに、刃は観念したように肩を落とした。

 

「私は、殿などではありません。今まで通りでいいのです。どうか……“刃さん”と呼んでください」

 

 その真摯な願いに、半兵衛はわずかに目を細めた。

 

 どこまでも不器用で、誠実で、自分を上に置こうとしない人。

 

 だからこそ、心を預けたくなるのだと──静かに思った。

 

「……くすっ」

 

 抑えきれず、思わず微笑みがこぼれる。

 

 そして、ほんのわずかに頬を染めながら、言った。

 

「なら、私にも敬語はいりませんよ、刃さん」

 

 その声は、優しく、柔らかく、そしてどこか特別な響きを持っていた。

 

 

半兵衛をどっちのヒロインにするか

  • 良晴
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