織田信奈の野望〜戦国に舞い降りし銀ノ刃〜   作:更新亀さん

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関係の変化 通じる思い

稲葉山城を奪回した斎藤義龍は、即座に井ノ口の町へ御触書を発した。

 

 翌日、町中の掲示板、街道筋、宿場町の入り口から裏路地の塀まで――至るところに、新たな人相書きが貼り出された。

 

 ──刃、良晴、犬千代。

 

 三名の似顔が大きく墨で描かれたその紙は、通行人の目に留まるやいなや、そこかしこで小さなざわめきを巻き起こす。

 

 「なんだこの顔……役人泣かせの悪党か?」

 「いや、ちょっと……この左端の奴、カッコよすぎじゃねえか?」

 「右の町娘っぽいの、なんか色っぽくて目を引くな……」

 「ってか真ん中の顔、見れば見るほど腹立ってくる造形だな!」

 

 最も視線を集めていたのは、中央にでかでかと描かれていた良晴の顔だった。

 

 眉は妙に釣り上がり、目は血走り、クマまで濃く描かれ、鼻は豚っ鼻気味に強調。口は半開きでヨダレまで描かれており、完全に「昼行灯の小悪党」。しかも、背景にまで小さく「盗賊風」と書き込まれている。

まるで、昼間から町角にたむろして小銭を巻き上げるチンピラだ。

 

 「……な、なんだこれ!? 俺、こんな顔してねぇからな!? 誰だよ、こんな呪詛のこもった筆致で描いた絵師は! 風評被害だぞ、訴訟案件だぞ!?」

 

 掲示板の前で思わず叫ぶ良晴。その傍らで、通りかかった子供が「あっ、そっくりー!」と満面の笑みで指をさした。

 

 「どこが!? 目!? 鼻!? 口!? お前ら全員、目が節穴か!?」

 

 「……犬千代も、違う」

 

 隣に立っていた犬千代は、人相書きをじっと見つめ、ぽつりと呟いた。

 

 そこに描かれていた“犬千代”は、完全に別人だった。眉は柔らかく整えられ、口元にはほんのり微笑。髪もふわりとおしとやかに結われ、艶やかな町娘そのもの。なぜか背景に梅の花まであしらわれている始末。

 

 「……誰、これ」

 

「うーん、なんか普通に美人だな。てか、本物よりも美人じゃね?……これ完全に“町娘役の別の女優”って感じだぞ。犬千代の野性味がどっかいってる!」

 

 良晴の心の声はそのまま口をついて出た。本人は何気ない冗談のつもりだったが――その瞬間、空気が変わった。

 

「……は?」

 

 隣から、静かで低い声が飛んできた。

 

 刃だ。

 

 その声音には、剣のような冷たさと切っ先が含まれていた。

 

「どう見ても、本物の犬千代の方が……可愛くて、美人だろうが。良晴、お前の目は腐ってるのか?」

 

その口調に怒気はない。だが、その“静かさ”こそが、逆にぞっとするほどの殺気を孕んでいた。

 

「ひいっ!? ひ、ひいぃぃぃぃ!?」

 

 良晴は瞬時に背筋をのけぞらせ、後退しながら両手を前に突き出す。まるで祟り神に許しを請う村人のようだった。

 

「ご、ごめん!! 俺が悪かったです! 本当にごめんなさい! 訂正します! 犬千代ちゃんは誰がどう見ても世界一かわいいです! 本物のほうが100倍魅力的です! いや、1万倍!? むしろ女神!! 戦国の奇跡!! 大和撫子の具現化っ!!!」

 

 滝のように汗を流しながら、猛烈な勢いで土下座寸前の謝罪を繰り出す良晴。だが、その目には薄ら涙すら浮かんでいた。これはもう心からの謝罪である。命の危機が迫ったときの人間の本気だった。

 

「うぅっ……なんでだよ……俺、褒めたつもりだったのに……! むしろ驚くほど似合っててビビっただけなのに……!!」

 

 がっくりと肩を落とし、しゃがみ込む良晴。

 

「……どうせ俺なんて、ロリ系ヒロインに毎回嫌われて、刃に殺されかけて……生きてるのが奇跡なんだ……!」

 

 だがそのやりとりを聞いていた犬千代は、そっと視線を刃へと移し、小さく口を開く。

 

 「……刃、恥ずかしい。……でも、ありがとう」 

 

彼女の頬は、薄紅の化粧よりも濃く染まり、視線はうつむきがち。それでも、心からの言葉だった。

 

 刃は一言も返さず、静かに、犬千代の頭へと手を伸ばした。そして、そっと髪を撫でる。

 

 その指先は荒々しさとは無縁で、まるで壊れものに触れるように優しかった。

 

 そして、最後に左端に描かれていた“刃”。

 

 それは……もはや人間ではなかった。

 

 背中に黒い羽を広げ、銀の長髪が風に舞い、顔立ちは端整を極めた美青年。瞳には深い憂いを湛え、片手には謎の魔剣のようなものを携えている。背景には何故か光の筋と花びらまで舞っており、完全に乙女ゲームのパッケージ。

 

 「……俺に、羽なんて生えてないんだが?」

 

 刃が冷静な声で呟く。

 

 「……良晴と犬千代は、ちゃんと“人間”なのに……俺だけ……どうして人外……?」

 

「いやいやいやいやッ! なんで刃だけ盛られてんの!? なんで!? 俺はチンピラ、犬千代は町娘、で刃は堕天使!?俺と犬千代が実写で、刃だけ乙女ゲーの攻略キャラ!?理不尽が過ぎるだろっ!!どう考えてもバランスおかしいだろ!!」

 

「……処女芸夢って何? あの羽、必要……?」

 

 「絶対要らん!てか、誰が証言したんだよ“堕天使”って!? どこで目撃されたんだ!? 刃が空飛んだって記録、俺は知らんぞ!?」

 

 「……俺の知らぬところで、人気が出ている……?」

 

 「描いたやつ、絶対ファンだよ! 筆のノリが違うもん!! 完全に“推し”に入ってる感じの筆致だぞコレ!!」

 

 「……まあ、逆にここまで盛られると、誰も俺だと気付かないかもしれないな」

 

「それな……お前だけ“違うゲーム”の住人に見えるもんな」

 

 三人は並んで掲示板の前に立ち尽くし、似ても似つかぬ自分たちの似顔を眺める。

 

 良晴が周囲を見渡すと、町人たちがクスクス笑いながら通り過ぎていた。

 

 「……なんか、もう指名手配されてるってより、完全に道化だな俺たち」

 

 「……戦うより、恥ずかしい……」

 

 「これが、“心理的兵糧攻め”ってやつか……」

 

 その人相書きの横に、決定的な一文が大書されていた。

 

『此の者たち、竹中半兵衛に内通し謀反を起こさせし尾張の間諜にて、即刻召し捕らえるべし――』

 

 そう、義龍にしてやられた形である。

 

 半兵衛を逃した罪を三人に押しつけ、堂々と指名手配したのだ。これでは、美濃にいられるわけもない。

 

 そこで刃たちは決断する。

 

 ――今はまだ捕らわれたままの安藤伊賀守を見つけ出すことが最優先。

 

 半兵衛に川並衆と五右衛門を預け、三人は急ぎ尾張の清洲へと舞い戻ることになった。

 

 しかし──。

 

清洲城に戻ってみると、侍たちの姿が消えていた。

完全に、空き城である。

「どうなってるんだろうな。犬千代、刃?」

「……???」「姫様、居城を移されたのか?」

うこぎ長屋のみんなは無事か?と心配して長屋へ急行した三人は、驚くべき光景を目の当たりにした。

肩の上にねねを乗せた柴田勝家が、配下の兵士たちと一緒に松明を掲げて良晴の家に四方から火をかけているではないか。

「さっさと燃やしてしまうんだぞー!」

「合点!」 「承知!」

めらめらめら。 

 

嗚呼!三人が見ている前で、狭いながらも楽しい我が家が紅蓮の炎に包まれた。

 

ぶーぶーと唇を尖らせ、「なんであたしがこんな火付け仕事を……」と文句を言いながら命令を実行している柴田勝家の背後に、良晴は忍び寄り――

 

 怒りの相良キックを敢行!

 

 ぽふっ!

 

「ななな、なにすんだよサルっ!? あたしに恨みでもあるのかっ!?」

 

「それはこっちの台詞だっ! なんで俺たちの留守中に、俺たちの家を、勝手に、放火してんだよぉぉぉ!! この大馬鹿勝家ぇっ!!」

 

「あ、あたしには、戦のどさくさに紛れて胸を触られたという立派な恨みがあるよっ!」

「桶狭間の時のことかっ!? だからって、俺達の家に火をつけることはないだろ?」

「……犬千代の家にも、燃え移った」

 

ぽつりと犬千代が呟くと、場が一瞬で凍りついた。

 

「え、マジで……?」

 

 良晴が戦慄しながら振り返ると、隣の棟にまで火の手が広がっている。

 

「うこぎ長屋全滅じゃねーかああああっ!!」

 

 その時だった。

 

「刃どの〜っ!!」

 

 その声は、炎の向こうから跳ねるように響いた。

 柴田勝家の肩にちょこんと乗っていたねねが、ぱっと刃の姿を見つけるや否や、目を輝かせて勢いよく飛び降りる。

 

「お帰りですぞーっ!」

 

 小さな草履が地面をパタパタと蹴り、三人の横を駆け抜けて刃にとびつく。

 両手を広げた刃はその勢いを柔らかく受け止め、軽々と抱き上げた。

 

「ただいま、ねね。いい子にしてたか?」

 

「もちろんですぞ! お掃除もちゃんとしたし、お使いにも行ったし、お昼寝もしましたぞ! ……ちょっとだけ、お昼寝!」

 

 満面の笑みで報告するねねに、刃はふっと目を細めて優しく頭を撫でる。

 

「よく頑張ったな、ねね」

 

 そのやりとりを見ていた良晴が、背後でぼそっとつぶやいた。

 

「癒しの天使タイムに免じて許すと思ったら大間違いだぞ……俺の家、まだ燃えてんだぞ……」

 

 ぼやき混じりにジト目でにじり寄ると、すぐさま話題を本筋に戻す。

 

「ところで、ねね。これはどういう状況なんだ? 姫様が居城を移されたってことか?」

 

「はいですぞ! 姫様は、清洲から小牧山へお引越しされたのですぞ! で、まだ引っ越してきていない家臣の家は――」

 

 ねねはぴょんと指を立て、声の調子を一段上げて得意げに言った。

 

「“燃やしても構わぬ!”って、お達しが出たのですぞー!」

 

「どんな理屈だよ!?」

 

 良晴が頭を抱え、ひょこっとねねの後ろから姿を現した勝家を睨みつける。

 

「勝家……まさか、よりにもよって俺たちの家を真っ先に標的にしたのか……?」

 

「そ、それはしょうがないだろ!? あたしだって本当はやりたくなかったんだよ!」

 

 唇をとがらせて叫ぶ勝家の声には、微妙に説得力がない。

 

「でもさ……姫さまと長秀が、ずっと“刃はまだなの、刃はまだなの”って、めっちゃ不機嫌だったんだぞ!? あたし、朝から八つ当たりされっぱなしだったんだから!」

 

「で、その八つ当たりの矛先を、俺たちの家に向けたと……」

 

「刃のせいか……!」

 

「……すまん」

 刃は額に手を当て、苦笑交じりに謝った。

 

「しかも、犬千代の家まで燃えてたし……もうこの長屋、全滅じゃねーか……」

 良晴は項垂れながら、炎の方を振り返った。

 

「兄さま、刃どの!」

 

 ねねが刃の裾を引っ張り、くるりと振り返る。

 

「ねねの実家の爺さまたちも、みんな小牧山に移っちゃいましたぞ! ねねたちも急いで参りましょう!」

 

「……ああ。姫様が待っているなら、ぐずぐずしていられないな」

 

 刃は表情を引き締めると、ゆっくりと立ち上がった。

 

「良晴、犬千代。支度を整えよう。小牧山へ向かう」

 

「おう!持っていく物は灰になってるがな!」

 

「……犬千代の荷物、ぜんぶ燃えた」

 

燃え落ちる長屋を背に、五人は、新たな居城――小牧山城を目指して歩き出すのだった。

 

 

 

 小牧山に到着した一行を待っていたのは、烈火のような歓迎であった。

 

 柴田勝家は、門をくぐるなりねねを手早く家臣に預けると、そのまま勢いそのままに刃、良晴、犬千代の三人をがっしと両脇から拘束して――もはや“引きずる”ような勢いで、まっすぐに天守の奥、信奈の私室へと連行した。

 

 「ちょっ、ちょ、ちょっと待てって勝家、痛い! 肩が! 肩外れるって!!」

 「……犬千代の首根っこ、つかまないで」

 「まるで罪人扱いだな……まぁ、怒ってるのは分かるけどな」

 

 無情にも扉が開かれた先、そこはまだ完成したばかりの仮設の和室だったが、ただならぬ空気を漂わせていた。

 

 敷かれた虎皮の敷物と、南蛮渡来のふかふかのパンダ毛皮。壁には色褪せぬほど色鮮やかに描かれた巨大な世界地図、机の上には無造作に置かれた地球儀。さらに、まだ山肌の向こうに見える稲葉山城を常ににらむためか、机の横には異様に大きな真鍮製の望遠鏡が構えてある。

 

 その部屋の中央――地球儀の横で、片膝を立てて座っていたのは信奈だった。彼女は豪快に名古屋コーチンの手羽先をかじっており、骨ごと噛み砕いた音が、室内に響いた。

 

 「姫さま! 天城刃と相良良晴、前田犬千代を連れて参りました!」

 

 勝家が膝をつき、叫ぶ。

 

「デアルカ。六、ご苦労」

なごやこーちんのてばさきを骨ごとほおばりながら、信奈が眉間に皺を寄せてうなずいた。

 

 「……姫様、帰還が遅れ、誠に申し訳ございません」

 

 まず、刃が静かに頭を下げた。背筋を伸ばし、言葉のひとつひとつを選ぶように落ち着いた声音だった。

 

 信奈は一拍の間を置き、目を細める。

 

 「……お帰りなさい、刃。待ってたわよ。……で、竹中半兵衛は、調略できたんでしょうね?」

 

 その声には、喜びと期待がないまぜになっていた。だが、どこか疑念も滲んでいる。失望する覚悟を、先に胸の奥に隠しているような声音だった。

 

 「はい、ですが――」

 

 「なに?」

 

 わずかに眉が動く。手羽先の手が止まり、視線が鋭くなる。

 

 刃は躊躇わなかった。真正面からその視線を受け止めると、静かに告げた。

 

「姫様ではなく、私に仕えることとなりまして」

 

 室内の空気が、ぴたりと凍りついた。

 

 良晴が「あっ……」と変な声を漏らし、犬千代が「……やっぱり、そう言った……」と目を伏せる。

 

 信奈はゆっくりと立ち上がった。先ほどまで楽しげにかじっていた手羽先が、無造作に床へ落ちる。

 

「……ふうん」

 

 その一言の中に、確かな嵐の兆しがあった。

 

「……なるほどね。調略は成功。けれど、私じゃなくて……あなたに?」

 

 信奈は地球儀をぐるりと指で回し、そしてカツンと指を止めた。視線は刃を捉えて離さない。

 

「ねぇ、刃? 一つだけ確認してもいい?」

 

「なんなりと」

 

「竹中半兵衛は……男よね?」

 

 その問いに、部屋の隅で良晴と犬千代が目を見合わせた。

 

 しかし刃は動じず、淡々と答える。

 

「いえ。十四歳の少女です」

 

 ――ぴしっ。

 

 空気のどこかで音を立てて、何かがひび割れた気がした。

 

 信奈のこめかみがぴくりと跳ね、地球儀が回転を止める。そして、ぐっと指に力がこもり、世界地図を押し潰すように圧をかけながら……絞り出すような声で言った。

 

「……十四歳。少女」

 

「はい」

 

「つまり、年下で、美少女」

 

「はい。しかも、聡明で礼儀正しく、義に厚い子です」

 

 追い打ちをかけるような刃の補足に、信奈の額にはついに青筋が浮かんだ。

 

 ――そして。

 

「まさか。また落としてきたんじゃないでしょうね? サル。あんた、答えなさい」

 

「は、はいっ!」

 

 良晴は背筋をぴしりと伸ばし、刃の隣で緊張しながら答えた。

 

「刃は……刃は半兵衛ちゃんを、しっかり落としてます!」

 

 瞬間、部屋に雷鳴のような沈黙が落ちた。

 

 信奈の目が、ぎらりと光った。

 

「……サルゥゥゥゥゥゥッ!!」

 

「ひいいいっ!? 違うんだ信奈!俺は何もしてねぇ!刃が全部落としたんだよ!俺はただ横で見てただけで!」

 

「“見てた”のね!? 刃が他の女の子を口説いてるのを、“楽しそうに”!? “うっとりと”!? “ニヤニヤしながら”見てたのねサルゥゥゥ!!?」

 

「やばいっ!? 完全に俺が一番怒られてる!!なんでだよおおおっ!!」

 

「……良晴、逃げ場はないと思う」

 

 犬千代の冷静すぎる一言が、良晴の心にぐっさりと突き刺さる。

 

 良晴は青ざめながら、ぶんぶんと両手を振りつつ叫んだ。

 

「いやいやいや! 信奈、あれは無理だって!俺が止められるわけないじゃん!? あれで落ちない女の子なんてこの世に存在しないからね!? マジで人たらしだよあいつ!」

 

信奈がビキビキと額を震わせながら、低い声で問う。

 

「……どんな口説き方をしたのかしら?刃、言いなさい」

 

信奈の声音は氷のように静かだったが、目にはすでに感情の炎が宿っていた。室内の空気がぴり、と張り詰める。

 

「そんな事実はありません、姫様。あれは――良晴の勘違いです」

 

 刃は微動だにせず、まっすぐ信奈を見据えて答えた。その口調はあくまで冷静で、誠意ある弁明のつもりだった。だが――。

 

「な訳あるかああああぁぁっ!!」

 

 次の瞬間、良晴が顔を真っ赤にして前へ踏み出し、刃を両手で指さした。

 

「全部、俺がこの目で見たんだぞ!? どこをどう見たら勘違いなんだよ!? あれはどう見たって完全に落ちてた!!」

 

 信奈の眉がぴく、と動く。彼女の視線がゆっくりと、良晴へと向けられる。

 

「……詳しく、聞かせてちょうだい」

 

 その声は、まるで静かな湖面に一滴の毒を垂らしたような響きだった。

 

 優しげで、穏やかで――なのに、底知れない恐怖が滲んでいる。笑っているのに、笑っていない。信奈の瞳の奥に、冷たい炎のような光がちらりと揺れた。

 

 それを見た瞬間、良晴の背筋に氷のような何かが走った。

 

「え、えっとな、あの……その……稲葉山城でのことなんだけどさ……」

 

 どこかで鐘が鳴った気がした。これは警告だ。絶対に踏んではいけない地雷を、もう足裏で“グッ”と押し込んだ音だ。心のどこかがそう囁くのに、もう言葉は止められない。

 

 良晴の喉が鳴る。ごくり、と唾を飲み込む音がやけに大きく響いた。

 

 信奈は動かない。ただ、じっと座ったまま、まるで狩人が獲物の動きをうかがうように、良晴の言葉を待っていた。

 

 部屋の空気が冷たいような、重たいような、何とも言えない圧に包まれている。

 

「半兵衛ちゃんが、叔父さんを人質に取られて迷ってた時、刃が言ったんだよ。あの、いつもの落ち着いた声でさ……」

 

 良晴の声も、最初は恐る恐るだった。だが、語るうちに少しずつ熱を帯びていく。

 

「『今の私は姫様ではなく、貴女の家臣です。こんな城より、主である貴女の笑顔の方が大切です』って!!」

 

 その瞬間――信奈の睫毛がピクリと揺れた。無言。けれど、何かが確実に、変わった。

 

 良晴は、まるで気づかないフリをするように、慌てて続きを喋る。

 

「しかもそれだけじゃねぇんだ! 刃はさらにこう言ったんだよ……『こんな城より、自分の気持ちを優先して欲しいと命じてください』とかさ……『あなたが、自分の心を犠牲にする姿など、私は見たくないのです』って……!」

 

 良晴は思わず両手を大きく広げた。まるで演説でもするかのように、興奮を込めて語る。

 

「……なんつーか、あれだ! 心を揺さぶる系の甘言っていうか……いや、違うな。もっとヤバい、もっとこう、真っ直ぐで、誠実で、ストレートな……ズドーンと来るタイプのやつ!それをな? 冷静で誠実な声で!しかも優しい笑顔を浮かべながら言うんだぞ!?」

 

 信奈の目がぎらりと光を放った。

 

「……ふうん」

 

 その声は低い。感情の起伏を感じさせない――けれど、それが逆に不気味だった。すぐそばにある火薬樽に、火のついた導火線が刺さっているような危うさがあった。

 

 彼女の背後に、目に見えない黒い炎のようなオーラがじわりじわりと立ち上ってゆく。空気が、確かに熱を帯び始めていた。

 

 だが、良晴はまだ止まらない。止まれなかった。

 

「で、極めつけはそのあとなんだよ……!」

 

 彼は胸に手を当て、まるで恋愛小説の主人公かのようなポーズを取った。

 

「半兵衛ちゃんが、涙を浮かべて『いっしょに、きて、ください……安藤の叔父さまを……たすけて、ください……』って……震える声でお願いした時だ!」

 

 あの震える声、涙に濡れた瞳――良晴自身も、心が打たれたのをはっきりと覚えている。

 

「……そしたら刃がな、ほんの一拍も迷わずに、『お任せください。我が主』って……! しかも、あの優しい声で! 澄んだ瞳で! ほのかに微笑んで、全肯定してくるんだぞ!! あれはもう……完☆全☆に!とどめだったんだよッ!!半兵衛ちゃん、秒で落ちたからな!!」

 

 拳を握り、胸に当て、力強く叫ぶ良晴。だが、その声が響いた直後――

 

 信奈の両拳が、ぶるぶると小刻みに震え始めた。

 

 その震えは、やがて全身に波及し、頬が紅潮し、口元が引きつり、こめかみに浮かぶ青筋がじわじわと濃くなっていく。

 

 そして――爆発した。

 

「……ああああああああああああああああああああああッッッ!!!」

 

 信奈の怒号が部屋を揺るがした。もはや叫びというより、咆哮だった。

 

「ぎゃあああああっ!? なんで俺が怒られてるのおおおっ!? 俺じゃなくて、刃だってばああああ!!」

 

 良晴が地面を転がるように逃げ腰になり、畳に額をこすりつける勢いで叫び出す。

 

「それで、半兵衛ちゃんは、あんたの“我が主”になったってわけ!? ふっ、ふふっ……ふふふふふ……やるじゃない、刃……!」

 

 信奈はゆっくりと立ち上がる。その笑みは氷のように冷たい。けれど、瞳はメラメラと嫉妬の炎で燃えていた。

 

「……姫様?」

 

 刃が呼びかける。

 

 だが――遅かった。

 

「私以外の誰かに、“主”呼ばわりですってぇぇぇぇぇっ!? ふ・ざ・け・る・なーーーーーっ!!!」

 

 怒気が爆発した。彼女の茶色の髪が逆巻くかのように広がり、まるで雷神が降臨したかのような迫力でその場に立ち上がる。

 

「刃ええええええっ!! 今度こそ、本当にお前のせいだああああ!!」

 

「違う!違うからぁぁぁ!! 止めようとしたけどもう無理だったんだよぉぉぉっ! あれは兵器!恋愛兵器なんだってば!!惚れさせ機構搭載型人型恋愛災害!!誰だって落ちるって!!落ちて当然なんだって!!」

 

 良晴は涙目で叫ぶ。もはや言い訳というより、命乞いだった。

 

 そのとき、ひときわ静かな声が、部屋に落ちた。

 

「……良晴、もう逃げ場はないと思う」

 

 犬千代だった。背筋を伸ばし、ただ一言だけ告げる。冷静で、淡々としていて、そして無慈悲な現実だけを突きつける声だった。

 

良晴の膝が、がくりと崩れる。そのまま地面に這いつくばるようにして、情けない声を上げた。

 

「やめてぇぇぇっ!! 俺、ただ伝えただけえぇぇぇっ!! 通訳ぅぅぅっ!! 伝書鳩ぉぉぉっ!!!」

 

 だが信奈の瞳は、すでに遠くを見つめていた。怒りの矛先――それはもう、“刃”という名の天城の銀狼に、しっかりとロックオンされている。

 

「――姫様、落ち着いてください」

 

 場を覆う重い空気を、静かに断ち切るように、刃が一歩前へと出た。口調は穏やかだったが、その声には芯があった。

 

「私たちをここへ呼んだ理由……半兵衛殿の件“だけ”ではないのでしょう?」

 

 その言葉に、信奈の眉がピクリと動く。

 

「……ええ、そうよ。わかってるなら話は早いわね」

 

 そう言うや否や、信奈は懐から三枚の紙を取り出した。ぴしゃり、と卓上に広げられたそれらを、鋭い目つきで睨みつけながら一言――

 

「刃。サル。犬千代。これはいったい何なの?」

 

「な、なんで信奈がこれ持ってんだよぉおおおおっ!?」

 

 良晴が悲鳴のような声をあげてのけぞる。その目に映ったのは、井ノ口の町で近頃爆発的に拡散されている三枚の人相書き。

 

「この……性格悪そうなサル面、どう見てもあんたじゃない。……しかも、特徴はしっかり捉えてるわね」

 

 信奈が半ば呆れたように、一枚目の人相書きを指差す。

 

「どこがだよ!? 眉!目!鼻!口!全部盛りすぎだろ!! ってか信奈まで節穴になってどうすんだよ!? 井ノ口の連中と同レベルってお前、それでも大名かぁぁぁ!?」

 

 良晴が叫ぶようにツッコむが、信奈はその反応すら涼しい顔で受け流す。

 

「落ち着きなさいよサル。絵ってのは“内面”が出るものなのよ。普段の行いがこうさせるのよ、うん」

 

「うるせぇぇえええ!俺の内面にヨダレ垂らす要素なんてねぇよおおおっ!!」

 

 良晴ががっくりと膝をつく中、信奈は次の一枚を手に取った。

 

「さて次。犬千代は――完全に別人ね。だれよこれ?」

 

「だよな!? なぁ、姫様もそう思うよな!? 犬千代はこんな小奇麗じゃねぇし、もっと素朴で、もっと健気で、もっと……ああもう、なんつーか、ナチュラルに可愛いっていうか!! つまり本物の方が100倍可愛いよな!? な、刃っ!!」

 

 なぜか刃の方へと詰め寄って叫ぶ良晴。その顔は焦りと混乱で真っ青だった。

 

「……何よサル、気持ち悪いわね。刃がどうかしたの?」

 

 信奈が鋭く睨む。その横で刃が、ほんのわずかに目を伏せて静かに答える。

 

「井ノ口で見た時、良晴が“この絵の方が美人”と申しましたので……少し、お灸を添えようとしただけです」

 

「えっ!? なっ……!? お、おおお前、それ言うなよぉぉぉっ!? 言っていいことと悪いことが――いやそれ違うから!語弊だから!! そういう意味じゃなくてだなっ!!」

 

 焦りまくる良晴を横目に、信奈は満面の笑顔でにっこりと――

 

「サル……あんたの目、腐ってんじゃないの?」

 

「ぎゃああああああっ!! ごめんなさいいいいい!! 犬千代は世界一可愛いですうううう!!」

 

 信奈はふんと鼻を鳴らし、三枚目の紙をひらひらと持ち上げる。

 

「……そして最後。刃。あんたは――いつから羽が生えたの?」

 

「……身に覚えがありません」

 

 刃は冷静に答える。まるで“羽など最初から無い”と断言するように、動じる素振りすらない。

 

「しかもこの武器。何よこれ、“魂を喰らう魔剣レヴァンティア”とか名前ついてるんだけど!?あんた一体どこからそんなの拾ってきたの!?」

 

「……初耳です」

 

「それに背景! 花びら!! なんで桜でも梅でもない、どこの季節にも属さない、謎の幻想的な花びらが舞ってんのよ!?演出凝りすぎでしょ!!」

 

信奈のツッコミは止まらなかった。口調は早口になり、眉間には深い皺が刻まれる。完全に爆発寸前である。

 

「姫さま! 敵将に一時的とはいえ仕官した刃やサルに、お仕置きなさらないんですかっ!?」

 

 ずかずかと広間へ歩み出た勝家が、烈火のごとく声を上げる。顔を真っ赤にして、眉を吊り上げて、声の端には明らかに苛立ちと――どこか嫉妬めいた感情がにじんでいた。

 

 (うちの姫さまは、刃とサルに甘い! 絶対にえこひいきしてる!)

 

 その言葉を口には出さないものの、全身がそれを主張していた。

 

 けれど、信奈はその抗議に取り合おうともしなかった。黙って立ち上がると、静かに脇に置いていた太刀を手に取り、鋭く振り返る。

 

「分かってるわよ、六」

 

 カン高くも、凛とした声が室内に響く。

 

「……刃、サル。ちょっと顔、貸しなさい」

 

「御意」

 

「はぁ……わかったよ」

 

 刃は無表情のまま一礼し、良晴は肩をすくめて小さくため息をつきながら、二人並んで信奈のあとに続いた。

 

 向かった先は、城の北面に張り出した縁側。

 

 風がひんやりと頬をなで、木々の間をかすかに虫の音が渡ってくる。

 

 信奈はそこでしゃがみこみ、じっと遠くを見つめていた。小牧山の山頂から見下ろす濃尾平野は、夜の帳に沈みつつあり、家々の灯がまばらに瞬いている。

 

 いつものうつけらしさは影をひそめ、信奈は水色地の着物を身にまとっていた。落ち着いた色合いのそれは、彼女の年齢に不釣り合いなほど気品があり、それでいてどこか儚げだった。

 

 このまま甲冑を羽織れば、すぐにでも戦に出られる――そんな実用性を持ちながらも、裾の揺れや帯のあしらいには、少女としての「美しさ」への意識がにじんでいた。

 

「……信奈、急にオシャレに目覚めたのか?」

 

 良晴が冗談めかして口を開いた。

 

 だが、からかうような調子の裏に、彼なりの気遣いがあった。

 

 信奈は返事をしない。ただ少し、肩を揺らしただけだった。

 

 その沈黙の中、刃が静かに口を開く。

 

「……大変お似合いです、姫様」

 

 声は抑えめだったが、確かな真心がそのひと言に宿っていた。

 

信奈は、ようやく顔をこちらへ向けた。

 

 夜の暗がりに照らされたその頬には、ほんのりと紅が差していた。けれどそれは感情の高ぶりによる熱ではなく、押し殺した寂しさと、言葉にしきれない想いの残滓だった。

 

 それでもなお、美しいその横顔には誇りがあった。幼き姫君ではなく、一国の主として、苦しみを内に秘めながら気丈に在ろうとする姿だった。

 

「ありがとう。……ねぇ、刃」

 

 その声は、小さく、か細かった。

 

 まるで風にさらわれてしまいそうな、壊れかけた音。強がりを捨てた、ただのひとりの少女としての声。

 

 信奈は視線を落とし、袖の内で拳を強く握りしめていた。その小さな掌の中で、彼女は悔しさと疑念と寂しさをごちゃまぜにして、必死に飲み込もうとしていた。

 

 そして──一呼吸おいて、震える声で、ようやく絞り出すように言った。

 

「……わたしの家臣って、そんなに軽いものなの? 貴方は……“わたしだけの剣”だって、言ってくれたじゃない……? あれ……嘘だったの?」

 

 静かな言葉だった。けれど、その一言には、それまで築いてきた絆の重みすべてが乗っていた。

 

 刃の瞳がかすかに揺れた。

 

 だが信奈は、その視線から逃げなかった。むしろ、食い入るように彼の眼を見つめていた。まるで、何かひとつでも「信じられる理由」を探そうとするかのように。

 

「刃が、わたしのためを思って……竹中半兵衛の調略に行ったのは、ちゃんと分かってる。……わたしの立場や信念じゃなくて、“わたし自身”を想ってくれたって……本当は、すごく……嬉しかった」

 

 その言葉に、刃のまなざしがわずかに揺らぐ。

 

 けれど、信奈はそこで言葉を切ることはなかった。唇を噛み締め、眉を寄せて、さらに問いかけた。

 

「……でも、それならどうして、言ってくれなかったの?」

 

「それは──」

 

 刃が答えかけた瞬間、信奈はそっと、しかし明確に、その言葉を遮った。

 

「……止められると思ったのよね?」

 

 静かな、しかし鋭くも悲しい推測だった。

 

 思考の末の結論ではなく、胸の奥から湧き上がる本音。その声に、刃の表情がわずかに曇る。

 

「貴方が“急に”美濃へ向かうって言った時……わたし、何も知らなかった。でも、あとから分かったの。──竹中半兵衛が“家臣を募っている”って情報を、貴方が手に入れてたって」

 

 信奈の声音には、静かな震えが混じっていた。恐怖でも怒りでもない。心の底から湧き上がる悲しみだった。

 

「貴方は最初から、“家臣になること”を前提に動いていた。……だから、わたしには、その情報を伏せた。そうなんでしょ?」

 

 沈黙。

 

 そして──刃は、静かに頷いた。

 

「……はい。姫様のおっしゃる通りです」

 

 逃げなかった。ただ事実を、事実として告げた。

 

「竹中半兵衛殿が家臣を募っているという話は、五右衛門から聞きました。その時点で、美濃行きは“仕官”を前提とした行動に切り替えました」

 

「……」

 

「良晴と犬千代にも、姫様には知らせぬように伝えてありました。すべて、私の判断によるものです」

 

 あまりにも冷静な口調だった。そこに迷いも、悔いもなかった。

 

 ──だからこそ、胸が痛んだ。

 

 信奈の肩がかすかに震える。その目に、言葉にできぬものが溢れていた。

 

「……じゃあ、聞くわ」

 

 ぎゅっと拳を握りしめ、唇を強く噛んだ。目元には滲む光。それでも、言わずにはいられなかった。

 

「……貴方は、必要なら……主を変えるの?」

 

 夜の風も虫の音も、すべてが止まったような沈黙が落ちる。

 

 彼女は、今や姫ではなかった。ただひとりの少女だった。信じたかった。信じていたかった。

 

「“わたし以外には仕えない”って……あれも、嘘だったの?」

 

 問いかけるその声は、怒りでも憎しみでもなかった。

 

 ただ、失いたくないと願う気持ちが滲んだ、最後の訴えだった。

 

 ──刃の返答が、この信頼を繋ぎ止める最後の綱になる。

 

 そのことを、誰よりも信奈自身が分かっていた。

 

「私は──」

 

 刃が静かに言葉を紡ごうとした、まさにその瞬間だった。

 

「あーもう! 焦ったいな!! 信奈も刃も、いい加減に素直になれっての!」

 

 不意に飛び込んできたのは、良晴の大声だった。

 

 場違いなその勢いに、信奈も刃も一瞬ぽかんとする。

 

 良晴は、半ば呆れたように、けれど真剣な目で二人を交互に睨んだ。

「信奈は本当は刃に行ってほしくなかったし、刃は信奈のために黙って動いた。もうそれだけで充分じゃねーかよ!」

 

「サル……っ」

 

 信奈が声を詰まらせる。

 

 だが良晴は止まらない。

 

「確かに、信奈の気持ちも分かる。信じてた分、裏切られたみてぇで、悔しくて、怖くて、どうしていいか分かんなくなる。……けどよ、刃もずっと、お前のことだけは裏切らないようにって、自分なりに必死だったんだよ。墨俣の時なんて」

「よせ、良晴」

 

「うるせぇ! お前は女心をちょっとは学べ!」

 

 良晴の声が夜の静寂を裂いた。怒りとも焦りともつかない感情が混じり合い、まるで爆ぜるように響く。

 

 その言葉と同時に、彼は一歩、地を踏み鳴らして前に出た。

 

「信奈がまだ長政に狙われてるって聞いた時──お前、完全にキレてたよな。『随分としつこいな。潰してやろうか?』……あの時の声、冗談でもなんでもなかった。氷みたいに冷たいのに、真っ赤に燃えてる……本気で、浅井家ごと消すつもりだったろ?」

 

 静まり返った空気の中で、その言葉はまるで雷鳴のように響いた。

 

 信奈が息を呑む。その横顔は驚きに固まり、目が揺れ、眉が震えた。

 

 刃は、目を逸らさずに立っていた。だが、何も言わなかった。ただ沈黙のまま、拳を固く握りしめていた。

 

 良晴はそれを見て、苦しげに目を伏せ、再び言葉を継ぐ。

 

「誰にも言わなかったけどな。……あの時の刃、おれ、正直怖かった。桶狭間の時よりよ。お前、もう“人としての理”を捨てても構わねぇって顔してた。『信奈を奪われるくらいなら、国ごと潰す』──あの目は、そう語ってた」

 

 ズシン、と心の奥に響くような重さが、その場の空気を覆った。

 

 信奈の指先が、小さく震えた。それに気づかぬふりをして、刃はなおも口を閉ざす。

 

 だが、良晴は怯まない。いや、怯んではいけないとでも言うように、さらに声を強めた。

 

「それだけ本気で想ってるのに、なんでだよ……刃。なんで、信奈にだけは何も言わねぇんだ」

 

 叫ぶように吐き出されたその言葉に、信奈が顔を俯ける。

 

「信奈や犬千代、長秀さんからの告白だって、どうせ全部、返事してないんだろ?」

 

 良晴の言葉は、刃の胸の奥に鋭く突き刺さった。

 

「傷つけたくねぇ、関係を壊したくねぇ──そう思ってんのかもしれねぇけどよ、結局お前は、誰一人、ちゃんと選べてねぇ」

 

 その声に、苛立ちだけでなく、深い哀しみが混じる。

 

「“全員妻に”って話──あれも信奈の提案だったんだろ? お前の口から、誰かを欲しいって言ったことなんか、一度でもあったか?」

 

 刃は沈黙する。視線を伏せ、拳を握りしめるが、それ以上は何も言えなかった。

 

「本当は、お前自身が、誰かに選ばれるのが怖ぇんだよな……。選ばれて、それを手にしたら、失うのが怖くなるから。だから誰にも本音を言わねぇ。剣の仮面をかぶって、全部“忠義”の一言でごまかして……」

 

 良晴の声が絞り出すように低くなる。

 

「……でもな、それじゃあ誰も救われねぇよ。ましてや、お前のことを本気で想ってる奴らが──一番、苦しむんだよ」

 

 刃は何も答えなかった。ただ静かに視線を伏せた。

 

 良晴は、ついに言うべきことを言うと決めて、まっすぐに叫んだ。

 

「爺さんが言ってたよ。“あやつは、愛されるということを知らずに育ったのじゃろう”って」

 

 その言葉に、刃の指がピクリと動いた。

信奈は道三が気付いていた事に驚く

 

「誰かを心から大切に想うことはできる。守ろうとも思う。でも……“愛してる”っていう感情が、どれだけのものか、まだ俺には……」

 

 刃の声は低く、冷えた夜気のように静かだった。

 

 けれどその奥には、言葉にできないほどの迷いと、痛みが込められていた。

 

「違うだろ!!」

 

 良晴が一喝する。怒りと哀しみが入り混じった、心の底からの叫びだった。

 

「お前は分かってるんだよ。分かってるのに、認めたら最後、壊れるのが怖ぇんだよ。初めて手に入れたものだから、失くすのが怖くて……怖くて、ずっと握り締めたまま、誰にも見せられないだけなんだろ!」

 

 刃の瞳が、大きく揺れた。

 

「信奈は、お前にとって“初めて”だったんだ。命令でも、責任でもなく……ただ一人の人間として、大切にしたいと思えた人だった。だから、お前は怯えてんだ。こんな感情を知ってしまったら、もしこれを失った時に、自分がどうなるか分からないって──」

 

 胸の奥を、見透かされたような痛みが走った。

 

「信奈はお前に、“一人の女”として見てほしいとずっと思ってる。けど、お前はその気持ちを知りながら、戦と忠義と責任の仮面で誤魔化して、逃げてきた」

 

 良晴の拳が、ゆっくりと震えていた。

 

「でもな、刃。……それでも、お前が初めて誰かを守ろうと思ったのが信奈で、本気で誰かに執着したのが信奈で──それが、全部“愛”じゃなきゃ、一体何なんだよ!!」

 

良晴の声は、どこまでも真っ直ぐだった。

 

「信奈だって、刃を責めたいわけじゃねぇんだ。……ただ、信じたかったんだよ。“自分だけの剣”だって、信じてたんだ。お前が、それを選んでくれるって」

 

その言葉は、刃の胸を撃ち抜いた。

 

 ぐらり、と心が傾いた。

 

 ──けれど。

 

「……剣に、愛など……不要だ」

 

 刃が口を開いた瞬間、その場の空気が凍りついた。

 その声は低く、硬質だった。冷静さを装ってはいたが、耳を澄ませば、刃の喉の奥に微かな震えが宿っていた。

 

「主に邪な感情を抱くなど──あってはならんのだ」

 

 言葉はまるで、自分自身に言い聞かせる呪文のようだった。心の奥から発せられたものではない。ただ、訓練され、刻み込まれた価値観と教えが、反射のように彼の口から漏れ出ていた。

 

「剣に迷いがあれば、人は死ぬ。情を抱けば、腕が鈍る。主を見る目に……欲が滲めば、それはもう忠義ではない!」

 

 その声は怒ってもいない。叫んでもいない。

 だが、張り詰めた一言一言がまるで刃そのもののように鋭く、そして痛々しかった。

 

「……主君に恋をするなど──剣の道にあるまじき背徳だ。そんなもの……」

 

 刃の拳が、音を立てて震えた。血の気が引いているのがわかる。

 それでも言葉は止まらない。止めてしまえば、自分が壊れてしまうのだと、彼自身が誰より理解していた。

 

「……俺は、そんなもの……」

 

 言い切る寸前、声が、ふいに震えた。

 刃の瞳が揺れた。眉がかすかに歪む。歯を食いしばる。

 

 そして、最後の一言を絞り出すように吐き捨てた。

 

「そんなもの──望んでなどいない……!」

 

 否定の言葉。

 

 だが、それは明らかに、自分を騙すための嘘だった。

 心の奥底では、誰よりも求めていると叫んでいた。

 だが、認めてしまえば、剣としての自分が崩れてしまう。

 忠義が、使命が、すべてが瓦解してしまう。

 だから刃は、心に鉄の蓋をして、想いを封じ込めたまま、生きてきたのだ。

 

 しかしその嘘は、あまりにも脆く、あまりにも苦しかった。

 

 言葉の最後には、かすかなかすれが混じっていた。

 胸の奥を絞られるような声音だった。

 

 ──助けてくれ、というように。

 

 そしてその時だった。

 

 音もなく──まるで空気すらもその歩みに気づかなかったかのように

 

 信奈が、一歩、刃の方へと踏み出した。

 

 その表情は、もう怒っていなかった。

 憤りでも、哀しみでもない。

 たった一つ──まっすぐな、覚悟の目だった。

 

 揺るぎなく、けれど震えるような強さで、彼を見つめていた。

 

 刃は、その視線に気づき、そっと顔を上げる。「刃……」

 

 静かな声が、張り詰めた空気をゆっくりと揺らす。

 

 信奈は、まっすぐに彼を見つめていた。

 その瞳には、燃えるような意志と、今にも崩れ落ちそうな不安が同時に宿っている。この瞬間だけは、誰の茶々も入れられない──そんな重みがあった。

 

 信奈の唇が、震えながらも、しっかりと動く。

 

「……何度でも言ってあげるわ、刃」

 

 その言葉には、迷いがなかった。

 あったのはただ、まっすぐで真剣な、“一人の女の子”の想いだった。

 

「わたしは、貴方が好き。……大好きなの。苦しくなるくらい、切なくなるくらい、ずっと前から」

 

 静かに言葉を紡ぎながら、彼女の目が潤む。

 けれど、涙はこぼさなかった。

 こぼしてしまえば、その想いが“悲しみ”になってしまう気がしたから。

 

「たしかに……知らないうちに女の子を落とすところは、腹が立つし、イラっともするわよ?」

 

小さく笑ったその顔には、ほんの少しだけ苦味があった。

 

「でも、そんなのも含めて──やっぱり、わたしは貴方が好きなの。誰よりも強くて、冷静で、でも……誰よりも優しくて。どんな状況でも、私のことを一番に考えて、守ろうとしてくれる」

 

 信奈は、胸に手を当てる。

 自分の鼓動が、恐ろしいほど大きくなっていた。

 

「貴方と出会って、まだ一年も経ってないのに──気づけば、わたしの中でこんなにも大きな存在になってた。……戦の最中も、嬉しい時も、苦しい時も、悲しい時も……ふと目をやると、そこには、いつも貴方がいた」

 

 刃の表情が、かすかに揺れた。

 けれど、目は逸らさなかった。逃げようともしなかった。

 

 そのまっすぐな視線が、信奈の心に、深く刺さる。

 

「何度も救われたわ。刃がいたから、乗り越えられたことがいっぱいあるの。言葉にしなくても、ただ隣にいてくれるだけで──それだけで、どれだけ力になったか……貴方には、わからないでしょうけど」

 

 涙の膜が、瞳に薄く張る。

 だが、信奈はそのまま、一歩、刃へと近づいた。

 

 もう、触れられるほどの距離だった。

 

「だから……お願い。剣とか忠義とか、そんなもの、今は捨てて。仮面を外して、鎧も脱ぎ捨てて……“天城刃”としての、あんたの言葉が聞きたいの」

 

 声は、かすかに震えていた。

 だが、その震えすら、心から絞り出した真実の証だった。

 

「好きなの。貴方が、好き。……誰よりも、貴方を信じてる」

 

 その言葉は、真夜中の静寂に落ちた水滴のように、空気を震わせた。

 

 信奈は、そっと目を伏せ──

 

 そして、もう一度、彼を見上げた。

 

「だから、お願い……私の想いを、否定しないで」

 

 小さな声。

 けれどその一言が、誰よりも刃の心を揺らした。

 

 言葉を返せず、刃の手が小さく震える。

 

 その手に、何かが触れた。

 ──信奈の手だった。

 そっと触れただけなのに、まるで剣を抜くよりも強く、心を震わせる。

 

「刃……私を、拒まないで」

 

 それは、姫の命令ではなかった。

 戦国の女大名でもなければ、織田家当主でもない。

 

 ──一人の少女が、一人の少年に伝える、たったひとつの本音だった。

 

 沈黙の中、刃の唇が、微かに、だが確かに動いた。

 

「姫……様、私は──」

 

 その声は震えていた。

 

 普段、どれほど冷静で、鋼のように揺るがぬ剣として振る舞っていても……

 今この瞬間ばかりは、言葉が喉に詰まり、うまく声にならない。

 

 けれど、その目に滲んだ光だけが、何よりも雄弁に、心の内を語っていた。

 恐怖、戸惑い、そして……どうしようもないほどの、愛しさ。

 

(いや、違う……)

 

 胸の奥で、誰にも届かぬ声が、ささやくように響いた。

 

(俺は……いつから、こんなにも臆病になっていた?)

 

 いつから“剣”という仮面に逃げ込むようになった?

 

 忠義の名を借りれば、自分の気持ちをごまかせると信じていた。

 想いを捨てれば、誰も傷つかないと信じていた。

 

 だが……それが一番、自分を苦しめていたのだ。

 

 目の前にいる少女は、ただの“主”なんかじゃない。

 

 信奈は──唯一無二の存在だ。

 自分が、心から、命を懸けて守りたいと願った……たった一人の、女性。

 

「姫様……」

 

 一度口にした言葉を、刃はふるりと首を振って呑み込む。

 

 そして、静かに、けれどはっきりと──

 

「……信奈」

 

 彼女の名を、初めて“剣”としてではなく、“人”として、呼んだ。

 

 その声音には、誰にも触れさせたことのない、彼の本当の心がこもっていた。

 

「俺も……貴女のことが、好きです」

 

 その瞬間、空気が凍りついたように静まりかえる。

 

 信奈の瞳が、大きく見開かれた。

 それでも刃は、もう視線を逸らさなかった。

 

 過去でも、未来でもない──今この瞬間の想いを、ただまっすぐに伝えようとしていた。

 

「……初めて出会ったあの日から、ずっと。あれは、きっと一目惚れというやつだったのでしょう」

 

 ぽつりとこぼれるように告げられた言葉は、奇跡のように静かで、温かかった。

 

「最初は、自分でも理解できませんでした。

 なぜ、貴女の声に胸が高鳴るのか。

 なぜ、貴女の笑顔を見るたびに、こんなにも心が騒ぐのか……」

 

 彼の声がかすれ、唇が震える。

 それでも刃は、言葉を紡ぐのを止めなかった。

 

「けれど今なら、はっきりと分かります。

 これは忠義ではない。義務でも、責任でもない。

 もっと深くて、もっと苦しくて……それでも、温かくて、愛おしくて、たまらない感情なんです」

 

 信奈の瞳に、涙が滲んだ。

 

 その目が刃の瞳と重なったとき、言葉では伝えられない何かが、二人の間で確かに通じ合った。

 

「“剣”であることに、ずっと縋ってきました。

 それさえ貫けば、自分の感情も、欲望も──すべて押し殺せると、そう信じていた。

 でも本当は……俺自身が一番、怖かったんです。

 もしこの想いを手に入れてしまえば、いつか失うかもしれない。

 だから……知らないふりをしていた。逃げていたんです」

 

 喉の奥が震える。それでも彼は、目を逸らさず、まっすぐに言った。

 

「俺なんかで……本当に良いんですか?

 剣を振るうことしか出来ない、愛し方すら知らない、俺なんかで……」

 

 言い終えた瞬間──

 

 静かに、けれど確かな手が、彼の手に重ねられた。

 

 それは、信奈だった。

 

「馬鹿ね」

 

 優しい声が、涙に震えながらも力強く、空気を震わせた。

 

「貴方じゃなきゃ、嫌なのよ」

 

 小さな手が、刃の手を包むように握り返す。

 

「サルでも、長政でもない。……私は、貴方がいいの。貴方だけが、いいのよ」

 

 刃の目が、ほんの少し揺れた。

 

「強くて、不器用で……でも、誰よりも優しいあなたが。誰よりもわたしを大切にしてくれるあなたが……大好きよ」

 

 そう言って、信奈はそっと目を伏せた。

 

 その頬には、流れた涙の跡が光っていた。

 

 だが、その表情は、どこまでも幸せそうで──

 ようやくたどり着いた“答え”を抱きしめるような、穏やかな微笑みをたたえていた。

 

そして二人は、手を重ねたまま、何も言わずに……ただ、互いの温もりを確かめ合っていた。

 

 それは、剣と主君の関係ではない。

 ただ、愛し合う男女が、ようやく辿り着いた真実だった。

 

「──明日、犬千代と万千代を呼ぶわ」

 

 信奈の声は静かだった。けれど、その奥底には一切の迷いを許さぬ鋼の意志が宿っていた。

 

「そしてその時……貴方の気持ちを、二人にもちゃんと聞かせてあげて」

 

 ふと、刃が顔を上げた。

 

 揺れる瞳に映った信奈の姿は──もはや“少女”ではなかった。

 そこにいたのは、一国の命運を背負う当主であり、愛する者たちの想いをも包み込む、強さと優しさを備えた一人の“女”だった。

 

「……ずっと待ってたのよ。刃の“答え”を。……犬千代も、万千代も、心のどこかで、ずっと“今か、今か”って……貴方が向き合ってくれるその日を、待ってた」

 

 彼女の声は決して責めるものではなかった。

 押しつけでもなく、問い詰めるでもなく。

 

 それはただ、まっすぐに彼の心の扉を叩く、真摯であたたかな響きだった。

 

「誰か一人を選んでほしいだなんて……誰も、そんなことは思ってない」

 

 信奈は少しだけ言葉を切り、刃の目をじっと見据える。

 

「でもね──刃の“本当の心”がどこにあるのか、それだけは、ちゃんと知りたいの。あの子たちも、きっとそう。刃が誰を守りたいのか、誰に触れてほしくないと思うのか……どんな答えであっても、受け止めたいって、そう思ってるのよ」

 

 その目は、まるで刃の魂ごと見透かすようだった。

 

「刃は、私たちにとって……それほどまでに、大切な人だから」

 

 その一言が、胸の奥を深く、強く、静かに打った。

 

 逃げ道は、もうどこにもなかった。

 否、もう……逃げるつもりなどなかった。

 

 刃は、ゆっくりと息を吸い、そして言葉を紡ぐ。

 

「……分かりました。もう逃げません」

 

 その返事は、刃にとって“決意”だった。

 守るために剣を取ってきた己が、今、ようやく剣を置き──

 人として、誰かと向き合う覚悟を持った瞬間だった。

 

「ただ、ひとつだけは……最初に、はっきりさせておくわ」

 

 その声は、静かだが、どこまでも強い。

 

「刃が犬千代や万千代をどう受け止めるかは……わたしは何も言わない。貴方の心に従っていい。だけど──正妻は、わたしよ」

 

 はっきりと、真正面から告げられたその一言。

 

 恋人としての立場も、当主としての威厳も、全部を込めた宣言だった。

 

「誰にも譲らない。譲るつもりなんて、最初からないの。……だから、覚悟しておいて」

 

 その言葉は、勝ち気で気丈な信奈そのものだった。

 

 けれど、そこにあったのは奪うための欲ではなく──深い愛情と、確かに結ばれた絆への自信。

 

 恋人として、一人の女として、信奈は今、正面から彼に「私を選んだのだから、離さない」と宣言しているのだった。

 

 刃は言葉を失ったまま、ただ彼女を見つめた。

 

 その姿が、あまりにも美しく、尊くて──

 

 そして、心の底から、どうしようもなく愛おしい。

 

 胸の奥が、ゆっくりと熱を帯びていく。

 

 この人を、絶対に裏切らないと──心から、そう誓いたくなるほどに。

 

「……信奈」

 

 再び名を呼んだ時、彼女は微笑んだ。

 

 ほんのわずか、照れくさそうに、けれど幸せそうに。

 

 それは、戦乱の世にあって、たった一つの救いとなるような微笑だった。

 

 二人は、そっと手を重ねたまま、もう言葉はいらなかった。

 

 ただ、その温もりが、すべてを伝えていた。

 

 

 

 二人の間に流れる空気は、どこまでも静かだった。

 

 ──恋人。

 

 それは簡単な言葉一つで表せる関係かもしれない。だが、そこに至るまでの道のりは、決して平坦ではなかった。

 

 幾つものすれ違い、痛み、ためらい、そしてようやく見つけた真実。

 

 刃と信奈は、ただそっと手を重ね、視線を絡めたまま、何も言わずにお互いの温もりを確かめ合っていた。

 

 もはや、言葉など要らなかった。心が通い、気持ちが通じたその瞬間──世界には、二人だけしかいないような錯覚すらあった。

 

 ……だが。

 

 その、凪いだ湖面のような静寂を打ち破る声が、不意に背後からぼそりと漏れた。

 

 「……あれ? 俺、空気?」

 

 とても小さな、けれど場の空気にまったくそぐわないその一言に、信奈と刃が同時にハッとしたように振り向く。

 

 そこには、まるで“ここにいたことに驚いてくれ”と言わんばかりの顔で立っている──良晴の姿。

 

 空気を読まず、でもどこか憎めないその存在感に、二人は言葉を失った。

 

 良晴は肩を落とし、わざとらしくため息をつく。

 

 「……なぁ、俺、さっきまでけっこうカッコいいこと言ってたと思うんだけど? 信奈に説教して、刃に本音ぶつけてさ。泣きそうな空気に一石投じた“救世主ポジション”だったと思うんだけど?」

 

 誰も応えない。

 

 良晴は唇を尖らせ、少しずつジリジリと二人に歩み寄っていく。

 

 「それがどうだよ。気づけば二人は両想い。恋人成立。手まで繋いじゃって、いい雰囲気。おい、ちょっと待て、ここで一番働いたの誰だ? 俺だよな!? なぁ、おい、誰か頷けよ!!」

 

 そう言って、まるで舞台俳優のように身振り手振りを交えながらアピールする良晴。

 

 信奈はふっと吹き出しそうになるのをこらえながら、けれどどうしても我慢できず、肩を震わせて笑い出した。

 

 「く、くくっ……サル、あんたってほんと、空気も空気、真空レベルの空気よ……!」

 

 「ひでぇ!? 真空て、呼吸もできないレベルじゃねぇか!!」

 

 「ふふ……」

 

 珍しく、刃も小さく笑った。唇の端がほんの少しだけ綻んで、微かな息が笑みに滲む。

 

 それを見て、良晴はようやくふっと安心したように息をつく。

 

 「ま、いいや。二人がちゃんと想いを通じ合わせたなら、それで充分だ」

 

 ぽん、と自分の胸を叩いて、どこか誇らしげに笑う。

 

 「こう見えてな、俺ってば、恋のキューピッドだかんな。弓もハートも持ってねーけど、心に矢はズバッと届くのさ。ほれ、感謝しなさい。尊敬してもいいぞ、ほらほら」

 

 ──その時だった。

 

 「……良晴」

 

 刃が静かに口を開いた。

 

 その声音には、これまでのどんな言葉よりも深く、重い想いがこもっていた。

 

 良晴がぴたりと動きを止め、驚いたように刃を見た。

 

 「え……?」

 

 刃は、まっすぐに良晴を見つめたまま、少しだけ頭を下げた。だが、それはただの礼儀などではなかった。自分の弱さと、未熟さと──その全てをさらけ出すための、精一杯の誠意だった。

 

 「ありがとう。……良晴、お前がいなければ、俺は……いつまでも逃げ続けていただろう」

 

 その一言が、良晴の胸に深く刺さった。

 

 刃の瞳は、誤魔化しも強がりもなかった。ただ、真摯に、まっすぐに、友として、仲間として、感謝を伝えていた。

 

「俺は、“愛される”ということに……怯えていた。誰かに気持ちを向けられるたび、応えられなければその想いを壊してしまう、そんな気がして。剣として生きることだけが、自分の価値だと信じていた。……信じようとしていた」

 

 拳を握りしめる音が、かすかに響いた。

 

 「けれど──お前が、あの時怒ってくれた。理屈も、遠慮もなしに、真っ直ぐぶつかってきてくれた。お前のその叫びが、俺を目覚めさせたんだ……自分と、ちゃんと向き合おうって、思わせてくれた」

 

 「刃……」

 

 良晴は、口を開いたものの、喉がつかえて言葉が続かなかった。

 

 そんな彼の手を、そっと握ったのは信奈だった。

 

 刃の隣に寄り添ったまま、柔らかな微笑みとともに、彼女もまた静かに言葉を紡ぐ。

 

 「……わたしも、感謝してる。サル。あんたがいなかったら、わたしたち、こんな風に想いを通わせることも……ここまで来ることもできなかった。ほんとに、ありがとね」

 

 「……お、おい……二人して真面目に感謝とか……やめろよ、泣くだろ!? 俺、そういうの弱いんだって……!」

 

 そう言いながら、良晴は顔をそむけ、必死に涙をこらえていた。だが、肩が少しだけ震えていた。

 

 ──ありがとう。

 

 たったそれだけの言葉が、これほどまでに胸に沁みるとは思わなかった。

 

 彼はただ、不器用な二人の背中を押したかっただけだった。

 けれどその想いは、確かに届いた。

 

 「……へへっ、ま、俺がいなきゃ始まらないからな。感謝するなら一生しとけよ? 調子に乗るなよ?」

 

 最後にそう言いながら、良晴はぐい、と鼻をすすり、そっぽを向いた。

 

 その背中に向かって、刃と信奈はそっと笑みを交わし合う。

 

そして──

 

 「……ああ、そうだ。さっき信奈も言ってたがな」

 

 良晴は思い出したように、真面目な声に戻る。

 

 「犬千代や長秀さんにも、ちゃんと伝えるんだぞ。お前の言葉で。ちゃんと向き合ってやれ」

 

 刃は、すぐに頷いた。迷いはなかった。

 

 「当たり前だ。俺はもう、逃げない」

 

 その声は静かだったが、何よりも強かった。

 

 良晴は、にやりと笑いかける。

 

 「……半兵衛ちゃんにもな」

 

 その一言に、刃の眉が一瞬だけ揺れた。

 

 「……分かってる。あいつにも、ちゃんと話すよ。俺の言葉で」

 

 かすかに陰を帯びた瞳に、それでも確かな覚悟の光が宿っていた。

 

 ──もう、過去からも、恐れからも逃げない。

 

 ──この手で、大切な人たちの想いに、きちんと応える。

 

 そう、心に誓うように。

 

 

半兵衛をどっちのヒロインにするか

  • 良晴
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