翌朝の空気は、どこか張りつめていた。
まだ朝靄の残る廊下を、犬千代と長秀──万千代が並んで歩いていた。足取りは自然体に見えるが、その胸の奥には微かな緊張があった。
「……長秀も、姫さまによばれた?」
犬千代がぽつりと尋ねる。口数は少ないが、表情には曇りがあった。
「はい。犬千代もですか」
長秀もまた同じように応じる。その声には落ち着きがあったが、わずかな戸惑いが隠しきれない。
「二人して呼ばれるなんて……何かあるのは、確かですね」
「……うん」
それ以上、言葉は交わさなかった。
けれど──互いに思っていることは、同じだった。信奈に呼ばれた理由。そして、その場に、刃がいるであろうこと。
二人の足が部屋の前で止まる。障子の向こうから、微かに声と笑い声が聞こえた。けれど、それは決して騒がしいものではなく──どこか、幸福の匂いを帯びた温もりだった。
障子を開けると──まず目に飛び込んできたのは、刃の腕にしっかりと抱きついている信奈の姿だった。
「おはよう、二人とも。朝から呼んで悪いわね」
信奈はまるで恋する乙女そのものの表情で、嬉しそうに微笑んでいた。
だが──次の瞬間、その空気に場違いな真面目さをもって、刃が口を開く。
「姫様。犬千代と長秀殿が来られたのですから、しっかりしてください」
きゅっと信奈の腕が刃に絡みついたまま、彼女は眉をしかめる。
「刃!“信奈”って呼びなさいって、あれほど言ったでしょ!敬語も禁止よ!」
鋭く叱る口調とは裏腹に、信奈の頬は僅かに紅潮している。
刃は苦笑しながら、静かに頭を下げる。
「……私の身分は、まだ足軽です。噂になるような振る舞いは避けるべきです。……ですが、二人きりの時は、必ずそうします」
その真面目な応答に、信奈はふくれっ面を見せながらも満更でもないようだった。
そんなやり取りを目の前に、犬千代と長秀は目を見合わせ──何も言わずとも全てを察していた。
「犬千代、万千代。わたしと刃は、昨日……恋人になったわ」
信奈は堂々と、まるで宣言するように言った。その声には揺らぎがなかった。傍にいる刃の存在が、その言葉に真実の重みを与えていた。
犬千代は、目を伏せたまま、小さく呟いた。
「……みれば、わかる」
その声音に嫉妬や怒りはなかった。ただ、何かが胸の奥でほどけていくような、不思議な静けさがあった。
続けて、長秀もまた口を開く。
「すぐに分かりましたよ、姫。表情が……これまでと違いましたから」
その指摘に、信奈は少し照れたように視線を逸らした。
だが、すぐにその表情を引き締めると、二人をまっすぐに見つめる。
「今日呼んだ理由──分かってるわね?」
その一言に、犬千代も、長秀も、小さくうなずいた。
心の準備は、まだ万全ではなかったかもしれない。
けれど──答えを聞く覚悟だけは、二人ともすでに持っていた。
信奈の隣に立つ刃は、しばらく黙ったままだった。
だが、やがてゆっくりとその視線を犬千代に向けると、無言のまま一歩を踏み出す。
その一歩は、戦場のそれとは違っていた。
相手を切り伏せるためでも、進軍の合図でもない。
まるで、誰かの痛みに寄り添おうとするような──とても静かで、優しい一歩だった。
刃は犬千代の前に立ち、ほんの少しだけ屈む。
目線を合わせ、その瞳を真っ直ぐに見つめながら、そっと手を差し出す。
「……犬千代。少し、外で話そう」
その声音は、ごく穏やかで、しかし拒絶を許さぬほど真摯だった。
犬千代の瞳が揺れた。迷いと驚きと、そして……微かな期待。
ほんの一瞬、視線が信奈の方を向いた。
信奈は黙って頷いた。それは、「行っておいで」と背中を押すような、やさしい合図だった。
犬千代は、そっと刃の手を握った。
その手は、少し震えていたけれど、決して離れることはなかった。
二人の姿が、静かに襖の向こうへと消えていく。
残された室内には、微かな緊張と、祈るような静寂だけが残された。
そして、廊下に出た刃と犬千代の背に、涼やかな風がふと吹き抜けた。
「……犬千代」
刃が、その名を呼んだ。
その声音は、まるで冬の朝霧のように静かで、それでいてどこまでも優しかった。
まっすぐに向けられる視線に、犬千代はほんの一瞬だけ、肩を震わせる。
「……ん」
その返事は小さく、息のようだった。
だが、耳を澄ませるまでもなく──彼女の全身が、緊張と不安に包まれているのが分かる。
静寂の中、刃がゆっくりと口を開いた。
「……俺は、お前に……妹のように接してきた。良晴も、お前も、手のかかる弟、妹だと……ずっと、そう思っていた」
その言葉に、犬千代のまなざしがかすかに揺れる。
「想いを伝えられてからも、俺は……変われなかった。いや、変えようともしなかった。……それが、優しさだと、自分に言い訳して……逃げてたんだ」
言葉の端々には、自責の念と苦しみが滲んでいた。
刃は拳を握りしめ、痛みを堪えるように、ぎり、と奥歯を噛みしめる。
「お前の気持ちが……嬉しくなかったわけじゃない。……むしろ、恐ろしいくらいに、嬉しかった。こんな俺に、そんな風に想ってくれる人が、この世にいるなんて──」
犬千代の唇が、かすかに震える。
何かを言おうとして、けれど言葉にできずに、ただ、じっと彼の言葉を待っていた。
「でもな……俺は、それが怖かった。嬉しさと同時に、それを抱える資格が自分にあるのか分からなくて……だから、目を背けて、逃げていた。ずっと、自分の弱さから……お前の優しさから……全部から逃げてたんだ」
そして──
「……俺は、信奈が好きだ」
その言葉は、まるで空気を裂く雷鳴のように、空気を揺らした。
犬千代の瞳が、大きく見開かれる。
その奥で、何かが音もなく崩れ落ちたのが、刃には分かった。
それでも、犬千代は泣かなかった。
その場に立ち尽くしたまま、まるで嵐の中に独り立つように、必死に耐えていた。
──けれど、次の瞬間。
「でも……お前のことも、信奈と同じくらい、好きだ」
今度は、崩れかけていた犬千代の心に、別の雷が走った。
その意味を理解するまで、ほんの少しの沈黙があった。
「……っ」
それは痛みと、救いと、信じられないような喜びが混ざった、複雑な感情の衝撃だった。
犬千代の頬を、一筋の涙が静かに滑り落ちる。
「いつからそう思っていたのか……正直、自分でも分からない。でも、気づいた時には、お前といる時間が……ただただ心地よくて。お前が笑えば、嬉しくなって……お前の声を聞くだけで、安心して……。お前がそばにいるだけで、俺の心は落ち着いた」
刃はゆっくりと、胸元に手を当てた。
その鼓動が──確かに、彼の中の真実を刻んでいた。
「犬千代……」
その名を呼ぶ声は、震えていた。
「……俺の、恋人になってほしい」
その一言は、まるで刃の刃──鋭く、けれど確かに彼女の心の中心を貫いた。
犬千代の身体が、ピクリと小さく揺れる。
耳を疑った。
でも確かに聞こえた。
あの人の、あの声で。
ぽたり。
右の頬を伝った涙が、首筋に流れ落ちる。
「……っ……え……?」
犬千代の唇がかすかに動いた。
その震えは、歓喜とも困惑ともつかぬ、不器用な想いの奔流。
どうしても言葉にできなかった。
ただ目を見開き、胸の奥から込み上げてくる何かを必死に堪えようとする。
けれど──堰を切ったように、瞳の奥から涙が溢れ出した。
――これは夢なんかじゃない。
あの人が、自分の名を呼んだ。
そして「恋人になってほしい」と、言ってくれた。
その事実が、犬千代の心を壊すように揺らし、
同時に、どうしようもないほど、やさしく包み込んだ。
「……刃…………」
喉が詰まり、声にならない。
胸が痛いほどに熱くなり、指先がかすかに震える。
だけど、その脚は、自然と動き出していた。
一歩。
恐る恐る踏み出した足先は、まるで永遠に離れていた場所へ向かうかのように慎重で。
でも、どんな迷いよりも強く──確かな意思があった。
二歩。
彼の瞳が、自分をまっすぐに見つめ返してくれていることが分かった瞬間。
膝が抜けそうになるのをぐっと堪えて、犬千代は前を向いた。
三歩目。
もう、止まれなかった。
そして──
「……っ!!」
その小さな体が、刃の胸元へと飛び込んだ。
勢いも忘れてしまうほど、必死な抱擁だった。
全身でしがみつくように、犬千代は刃の胸に顔を埋め、強く、強く、その背を抱きしめた。
「……っぅ……ぐ……ぅ……!」
押し殺したような嗚咽が、彼女の喉から漏れる。
小さな肩が震え、涙がとめどなく、刃の衣に染みていく。
それでも犬千代は腕を離さなかった。
もう二度と離れたくなかった。
刃は、ゆっくりとその背に手を添える。
まるで抱き寄せることさえ躊躇うように、慎重に。
だが、その手がふれた瞬間、犬千代の身体がかすかに反応するのを感じた。
「……今から……恋人……」
小さな声が、胸元から漏れた。
嗚咽混じりの、けれど、これ以上ないほど純粋で、真っ直ぐな言葉。
犬千代は、震える手でそっと涙を拭うと、顔を上げた。
潤んだ瞳はまだ不安げだったが、その奥には確かな光があった。
心のどこかで、ずっと望んでいたものを──ようやく手にできた幸福の証。
そして刃は、犬千代の手をそっと引き寄せるように握り直すと、何も言わず、彼女と共に再び部屋へと戻った。
すでに彼の表情に迷いはなかった。
覚悟を決めた男の目で、真正面から信奈を見つめ、一礼する。
「──ただいま戻りました」
刃の言葉に、信奈は何も言わず、わずかに頷いた。
次の瞬間──刃はそのまま、すぐに長秀へと視線を移す。
黙ったまま近づき、肩に軽く手を添える。
「行こう、長秀殿」
長秀は何も言わず、ただ微かに頷いた。
その光景を見つめていた犬千代が、一歩前に出る。
そして、ゆっくりと信奈の方へと向き直ると──
「……姫さま」
一瞬の沈黙。そして──。
「……正妻は、犬千代」
その一言は、柔らかでありながらも確かに“宣言”だった。
まるで胸の奥から絞り出すように、そして、それでもまっすぐな声で、彼女は言った。
信奈はその言葉に、わずかに目を見開いた。
だが、驚きというよりは──微笑ましさに近い感情が、その表情に浮かんでいた。
彼女はほんの数秒だけ犬千代の姿を見つめ、そのあと、ふっと目を細めて、笑う。
「ふふっ……言うようになったじゃない、犬千代」
その笑みに、主従の枠を超えた、同じ女としての“覚悟”が宿っていた。
信奈はひとつ歩を進め、犬千代との距離をわずかに縮める。
「でもね、“正妻”ってのは──名乗るだけじゃなくて、“守る”ものよ?」
その声は挑発的ではあったが、冷たくはなかった。
むしろその言葉は、犬千代を正面から受け止めようとするもの。
対等な立場に立った者へ向けられる、誠実な“覚悟”の応答だった。
犬千代は一度だけぎゅっと拳を握り締めると、まっすぐに信奈の瞳を見返す。
「……分かってる……姫さまに勝つのは、簡単じゃない。でも……犬千代、負けない」
その言葉には、揺るがぬ意志があった。
過去の犬千代なら、決して言えなかった言葉。
自分の気持ちを自覚し、それを貫こうとする強さが、確かにそこにあった。
信奈もまた、その瞳を見据え返す。
少女と少女。主従でもなく、戦友でもなく──一人の女として、一人の男をめぐる“恋のライバル”として。
その視線が交錯した瞬間、ぴしり、と空気が張り詰める。
そして、その緊張感が部屋を静かに満たしていたその時──。
「──わたしも、混ぜてくれませんか? 姫、犬千代」
その声は、澄んだ水面にぽたりと落ちた一滴のように、静かに場を揺らした。
万千代だった。
扉の傍に静かに立ち、手を前に重ね、背筋を伸ばしていたその姿は、まるで誰かの答えを待っていたかのようだった。
頬はほんのり赤く、瞳の奥には、はにかみと、そして確かな意志が宿っていた。
信奈が、目を細めて問う。
「お帰り、万千代。……そう言うってことは?」
万千代は、小さく頷いたあと、深く一礼して──顔を上げる。
「はい。……わたしも、刃どのの恋人になりました」
その声音は静かで、けれどもどこまでも澄んでいて。
少女らしい恥じらいと、恋を選び取った勇気の両方が、そこには宿っていた。
そして──三人の少女が並び立つ。
彼女たちの目に映るのは、ただ一人の男。
刃という男が、どれほど彼女たちの心を動かしてきたのか──その答えが、今この場に揃った。
刃は、そんな三人を前に、ただひたすらに冷や汗を流すしかなかった。
──昼過ぎ。
じりじりと焼けつくような夏の陽射しが、城下の石畳を白く照り返している。そんな中、相良良晴は額に汗をにじませながら、小牧山城の一角へと足を運んでいた。
「ったくよ……昼飯食ったばっかりだってのに……。『すぐ来い』とかさぁ……もうちょっとタイミングってもんがあるだろ……どうせまた“お前がやれ”の押しつけターンだ。俺だけ消耗させられる未来しか見えねぇ……」
ぶつぶつと文句を言いつつも、足取りはそれなりに急ぎ足だ。城内の奥にある座敷に辿りつくと、ため息交じりに襖をがらりと開け放つ。
その瞬間──
「遅いわよ、サル!」
信奈の鋭い声が、まるで矢のように突き刺さった。
「おいおい、いきなり怒鳴るなよ! 急に呼び出しておいて遅いって……理不尽通り越して、もはや圧政だぞ!」
反射的に言い返しながら、良晴は部屋の中の光景に目を向け──そして次の瞬間、言葉を失った。
──刃の両腕に、信奈と犬千代がぴったりと寄り添っていた。
信奈は右腕に手を絡ませ、にっこりと満面の笑み。誇らしげで、どこか“見せつける”ような表情だ。犬千代も左腕を抱き抱えているが、恥ずかしいのかうつむきがちに頬をほんのり染めている。
まさに“両手に花”という状態で、中心にいる刃は、特に取り乱す様子もなく、淡々とその状況を受け入れていた。
「刃、犬千代や長秀さんにも言えたんだな」
「ああ。お前のおかげでな。犬千代とも……長秀とも、恋人になった」
「良かったな。で、何?早速それでイチャつきタイム突入ってわけ? 長秀さんは!? 絶対この空間にいると予想してたのに!」
「万千代は政務で出てるわ。代わりに、今日は犬千代と私で刃を独占中」
信奈はさらりと言ってのける。その台詞に、良晴は両膝をつき、天を仰いで叫んだ。
「俺は何!? この爆発寸前の幸せ空間に巻き込まれるために呼ばれたの!? 恋人がいない俺に、これ見よがしに愛を見せつける公開処刑!?」
良晴は頭を抱え、部屋の真ん中でぐるぐる回りながら絶叫する。
「何!? これ何!? 新手の拷問!? 精神的制裁!? いやいや、完全に罰ゲームだろ!? 俺、なにか悪いことしたか!? 昨日、俺、ちゃんと刃と信奈の恋を後押ししたよな!? 恋のキューピットだったよな!? 功労者だったよなぁあああああ!? なのにこの仕打ちって、どーいうことだ神様あああああ!!」
良晴の全力のツッコミと絶叫に、犬千代がぷるぷると震えながら耐え切れず、くすりと笑いを漏らしてしまう。
「うるさい」
刃のひと言が場の空気をきれいに断ち切った。冷静すぎるその口調に、良晴は肩を落として膝をつき、魂が抜けたような表情で項垂れた。
「違うわよ、サル。あなたには、“稲葉山城を取る策”を考えてもらおうと思って呼んだのよ?」
信奈がさらっと言い放つ。
「刃の腕にくっついたまま言うなああああああ!! その状態で会議開くなああああ!!」
再び良晴の絶叫が、小牧山の座敷を震わせた。
その騒がしさがようやく収まった頃、信奈は軍略図の上に扇子を置き、真剣な表情へと切り替わった。
「少しばかり本拠地を近づけたくらいじゃ、あの難攻不落の山城は落とせないわ」
信奈の目が鋭く地図の一点を見据える。そこには、金華山を戴く稲葉山城が記されていた。
──山の頂に築かれたその城は、まるで天を衝くかのように聳え立ち、地図上でさえ異様な威圧感を放っている。
「わたしはこの小牧山に自分で城を建てて、山城の構造と戦略的な穴を研究しようと思ったのだけれど……」
信奈は扇子を閉じ、わずかに肩を落とした。
「……やっぱり行き詰まってるのか?」
良晴が少し声を落として尋ねる。その言い方には、呆れと同時に心配も滲んでいた。
信奈は静かにうなずいた。
「ええ。小牧山はせいぜい丘。あの金華山とは、標高も地形も構造も、すべてが違いすぎる。研究にはなっても……決定打にはならないのよ」
その言葉の端々から、彼女の戦略家としての焦りと、悔しさがにじみ出ていた。
その沈黙を切り裂くように、良晴がふと隣の男に目を向ける。
「……なあ、刃。お前なら、なんかあるんじゃないか?」
良晴の声は静かだったが、そこには切実な期待がにじんでいた。
問いかけられた刃は、しばし黙して答えず、目を細めると、深く息を吐いた。ゆっくりと額に手をやり、顎に指を添えて沈思する。その姿は、まるで静かな湖面に投じられる一滴の波紋のように、場の空気を変えていく。
──静寂。
数秒の間、誰一人として言葉を発する者はいなかった。
そして──。
「そうだな……俺が、単身で稲葉山城に乗り込むというのはどうだ?」
放たれたその一言は、まるで爆弾だった。
「……え?」
信奈が反射的に目を見開き、絶句した。犬千代は唇を震わせ、まるで世界が揺らいだかのように立ち尽くす。良晴は思わず額に手を当てて天を仰いだ。
「ちょっと待て刃、それって……まさか、潜入ってことか? 敵の本丸に? 一人で?」
「本気で言ってるのか……冗談じゃねぇよな?」
「冗談なわけがない」
刃は一切の迷いを感じさせずに言い切った。
「俺が稲葉山城に忍び込み、斎藤義龍を討つ。あるいは、生け捕る。うまくいけば、美濃の戦は終わる」
静かに、しかし圧倒的な重さを持って告げられたその言葉に、場の空気が一層張り詰めた。凍りついたような沈黙が流れる。
「──だめよっ!」
信奈の悲鳴のような声が、その沈黙を裂いた。
「あなたがどれだけ強くても、敵の本拠にたった一人で潜るなんて……無茶よっ!死んじゃうかもしれないのよ!」
その声には、将としての判断ではなく、恋人としての叫びがあった。信奈は刃に駆け寄り、その腕に自らの腕を絡ませ、まるで彼を現実に引き止めるかのようにぎゅっと抱きしめた。
「……だめ」
犬千代もまた、小さな声でぽつりと呟きながら、刃のもう一方の腕を掴んでそっと引き寄せた。
刃はそんな二人を交互に見下ろし、ふっと、ほんの僅かに目尻を緩めた。
「ならば……別の案を出しましょう」
彼はそう言うと、そっと二人の手をほどき、地図の方へ歩み寄る。
「戦略的要地である墨俣に織田の楔を打ち込む、というのはどうでしょうか」
信奈はその言葉に反応し、刃とともに地図を覗き込んだ。細い指先で、地図の一点──墨俣の地を指し示す。
「確かに、ここに拠点を築ければ、美濃の国人たちは色をなして寝返るわ……義龍も無視できない。だけど……当然、奴は妨害してくる。城なんて建てる暇、与えてくれると思う?」
「だからこそ、“一夜”でやります」
刃は言い切った。その瞳には、確固たる自信が宿っていた。
「良晴、川並衆を貸してくれ。木曽川の上流で木を伐り、あらかじめ城の部材を作っておく。それを筏に組み、夜陰に紛れて水路で墨俣へ運び込む。あとは現地で一気に組み立てる。それができれば、奴らが気づく頃には──すでに城が出来上がっている」
良晴は呆気に取られたように目を丸くし、口を開いた。
「……まさか……墨俣一夜城……」
まるで“神話”の名を聞いたかのように呟き、目を見開く。
「未来じゃ、藤吉郎のおっさんがやった伝説の築城策……! あれを、今、やるってのか!?」
「何だそれは?」
刃は、ぽかんとした顔で肩をすくめた。
「俺は歴史には詳しくないって、前に言っただろう?ただ──その場で組み上げるのが難しいなら、先に作って運んでくればいい。単純な話だろう」
「いやいや、それがすげえんだよ刃……!」
良晴は声を荒げて言いながらも、内心ではすでにぞくりと震えていた。“知っていた”と“知らなかったけれど考えついた”──その差は、まさしく天と地ほどの開きがある。
「おもしろいわ!」
信奈が、大きく頷いた。表情には迷いの影は一切なかった。
「“墨俣一夜城”──やってみせなさい、刃。あなたなら、できるって信じてる!」
「御意」
刃は深々と頭を下げる。その動作には一片の演技もない、心からの忠誠と覚悟が込められていた。
「姫様には、明日兵を率いて墨俣に来ていただきたい。私はそれまでに、城を完成させてみせます」
「ちょっと待て刃!」
良晴が叫ぶように言った。
「信奈には、空になった稲葉山城に突撃させた方が早くないか? 義龍が留守なら一気に奪えるかもしれねえぞ」
だが刃は、すぐさま首を横に振った。
「義龍が全軍を墨俣に差し向けてくる保証はない。やつが兵を分散させ、罠を張っている可能性もある」
そして──。
「俺がそばにいない以上、姫様を危険に晒す気はない」
静かだが、決然とした言葉だった。
信奈は一瞬、何も言えなかった。けれど──次第に頬を赤らめ、唇をぎゅっと結び、小さく頷いた。
「……わかった。なら、わたしも信じる。“墨俣一夜城”──必ず、成功させて」
その目には、織田の姫としての覚悟と、恋人への信頼と──想いが、確かに宿っていた。
刃と良晴が部屋を出ていく、その直後のことだった。
障子がぱたりと開かれ、すぐさま二人の人影が入れ違いに飛び込んできた。
一人は信奈の側近であり忠臣の柴田勝家。
もう一人は、美濃の元主にして“蝮”の異名で名を馳せた、斎藤道三その人だった。
「やはり、あやつは一家臣に収まる器ではないのう」
道三は目を細め、まるで世紀の傑物を見たとでも言いたげな声で呟いた。
信奈は瞬時に眉を吊り上げる。
「……蝮、六。今の話、立ち聞きしてたの?」
「聞いておったぞ、信奈どの。――墨俣一夜城……あれほどの構想、しかもあの短時間で導き出すとはのう。そこらの軍師どもなど、裸足で逃げ出すわ」
口の端を吊り上げ、悪びれもせずに言い放つ道三。
その態度に、信奈は大きくため息をついた。
「……やっぱり立ち聞きしてたのね、蝮!」
「ふん、わしを誰だと思っておる。美濃の蝮ぞ? 娘があの刃と何を語り、何を決めたのか。父親として目と耳で確かめるのは当然の務めじゃ」
堂々とした態度で部屋に入り込む道三。その身からは、老いてなお衰えぬ圧のようなものが立ちのぼっていた。
その後ろに控えていた勝家は、気まずそうに視線を泳がせ、申し訳なさそうに小声で呟く。
「……申し訳ありません、姫さま。私も、つい……気になってしまって……つい、扉の外で……」
「ったく……盗み聞きなんて、武士の風上にも置けないわね」
信奈は呆れながらも、勝家のしおらしい様子にそれ以上強くは言えず、ただ肩を竦めた。
しかし、次に道三の放った言葉に、信奈の動きがぴたりと止まる。
「……だが、安心したぞ。もし信奈どのが、あの浅井長政ふぜいの嫁になるような愚かしい道を選ぶのなら、この老骨全力で叱咤するつもりでおった。だが――」
蝮の眼差しが、どこか優しげな色を帯びる。
「……どうやら、その必要はなかったようじゃの」
信奈は、胸を張って答えた。
「当然でしょ!」
まるで宣言するように、凛とした声が部屋に響く。
「わたしは、刃以外の男なんて眼中にないわ!」
その言葉には一片の迷いもなかった。
「誰の家臣でもない、あの刃に出会えた。それ自体が奇跡。運命みたいなものなのよ!」
道三はじっとその横顔を見つめ、ふむと深く頷く。
「うむ……あやつが最初に出会ったのが信奈どのでなければ、あやつは、天下取りの最大の障壁となったじゃろう。サルでは、あやつを止めることなど叶わぬ。いや――止めようとすること自体、無意味なことじゃったかもしれぬ」
「間違いないわね。一人で数百の兵を相手にできて、絶対に主を裏切らない忠誠心まで備えてる。忠義の化身みたいなあの人を調略するなんて夢のまた夢。戦も政もできて、しかも裏切らない。理想の家臣そのものよ」
そして、少しだけ口を歪める。
「……あの人がもし今川義元に拾われてたら、桶狭間でわたしは絶対に死んでた。そんな未来、冗談でも笑えないわ」
それは脅威としての評価であり、同時に、誰よりも高い信頼の証だった。
道三は感心したように鼻を鳴らし、にやりと笑う。
「刃は覇王の器を持ち、若き覇王として――すでに完成されておる」
道三の声は、まるで吟じるように低く、重く響いた。
「他を寄せ付けぬ武勇。軍師顔負けの知略。平然と死地に踏み込む胆力。そして、何よりも……戦を“遊戯”のごとく読み解き、敵味方の心すら見透かす天性の戦略眼。そして――」
そこでひと呼吸置き、口元を歪ませるように微笑んだ。
「――あの、美しき容貌よ。あやつは“天”が王たるべき姿を形にしたような男じゃ。あのような存在に、そなたがこれほどまで忠誠と好意を寄せられておるとは……まこと、羨ましいかぎりじゃのう」
言葉を締めくくる道三の目には、わずかな寂しささえ滲んでいた。
「もし、もしあやつがわしの家臣であったならば……迷うことなく娘の帰蝶をあやつに嫁がせておった。まことに、運がなかったわい……」
信奈は少しだけ頬を赤らめながらも、きっぱりと宣言する。
「残念だったわね。刃はもう――わたしと、犬千代と、万千代の恋人よ。あの人の未来に、わたしたちが並び立つことは決まっているの。これはもう、当然のことなのよ。どんな困難があろうと、離れたりなんかしないわ」
その言葉に、勝家が小さく息を呑むのが聞こえた。
けれど、道三は満足げに手を一度、ぱんと打ち鳴らした。
「うむ、それでこそ信奈どの。そなたのように天命を背負う女には、ただ強いだけでは足りぬ。時を越え、常識を超え、運命すらもねじ伏せられるような男でなければ、伴侶とは呼べぬからの」
道三の瞳が、鋭く光る。
「信奈どのにふさわしい男など、この世に二人しかおらぬ。刃と……あのサル、良晴だけじゃ。ゆえに、あやつらは天が遣わした“天命の伴侶”――それもまた、動かぬ理じゃ」
斎藤道三の声音は静かだが、どこか確信に満ちていた。その言葉に、信奈はわずかに目を細めた。
「サルはダメね」
きっぱりとした一言。迷いも、揺れもない。
「まず、好みじゃないもの。刃以外に、わたしに相応しい男なんていないわよ」
その言葉に一分の迷いもなかった。だが――
信奈は、ふっと唇の端を吊り上げる。そして、隣に控える勝家の方へと視線をやる。
「それに……六が嫉妬しちゃうもの」
「なっ……!? ひ、姫さまっ!?」
まるで背後から斬りかかられたように、勝家の身体がびくりと跳ねた。目を見開き、頬がみるみる赤くなる。
「わ、わたしは……そ、そんな……! サルなんかに……!」
否定の言葉が口をついて出るが、それはあまりにも拙く、熱に浮かされたようにたどたどしかった。両手をぶんぶんと振り回し、視線は合わさぬよう泳ぎ続ける。
勝家にしては、あまりにも分かりやすい狼狽。
信奈はそれが愉快で仕方なかった。
「ふふっ、なによその慌てっぷり。やっぱり図星じゃないの?」
からかうように微笑むその顔には、姫としての威厳ではなく、一人の年頃の少女の茶目っ気がにじんでいた。
そのまま数歩、勝家に歩み寄る。わざと足音を響かせ、ゆっくりと間合いを詰める。
「今度サルがね、“美少女を恩賞に”なんて言い出したら……六をあげようかしら?」
「な、ななな、なにをおっしゃいますか!! そ、そんなの……と、とんでもないっ! あたしは、そ……そそそそ、そんなっ――!!」
ますます取り乱す勝家。顔どころか、耳の先まで真っ赤に染まり、言葉はもう崩壊寸前だった。
だが信奈は、そんな姿さえも見逃さず――にやりと笑う。
「だって、サルのおかげで、わたしは刃と恋人になれたんだもの」
その声には、どこかしっとりとした重みがあった。
信奈はさらに一歩踏み出し、ぐっと身を屈めて勝家の目線に顔を近づける。
ふざけ半分、本気半分。けれど、どこか姉のような慈しみも混じっていた。
「だったら、今度はわたしが……サルの背中を押してあげる番よね?」
「……っ……」
勝家は言葉を失い、ぎゅっと唇を噛みしめる。
顔をそむけ、両の手で真っ赤な頬を覆ったまま、小さく震える肩。
そこにはいつもの勇猛な将の姿などなかった。ただ、年相応の――いや、それ以上に繊細な、一人の少女がいた。
信奈はその様子を見つめながら、心の奥でそっと微笑んだ。
からかいではない。
これは、ほんの少しだけ――背中を押すための、姫なりのやさしさだった。
掘立て小屋同然の新たな家へ戻った刃と良晴は、五右衛門と川並衆の前野某たち荒くれ川賊を招集し、一世一代の大ばくち「墨俣一夜城」の話に乗ってくれるかと切りだした。
「五右衛門。安藤伊賀守は見つかったか?」
刃の問いに、五右衛門は小さく首を振った。
「川並衆の手勢をいくらか割いて、ただいまも捜索中でござる」
「まさかもう始末されちまったんじゃないだろうな……」
良晴が眉をひそめて言うと、刃と五右衛門がほぼ同時に首を横に振った。
「それはないだろう、あの糞ザルは半兵衛も狙ってるからな」
「始末などすれば浅井氏は生涯竹中氏を敵にまわします故、それはないでごじゃろう」
「……そっか。たしかに、そうだな」
少しほっとしたように良晴が息をつくと、五右衛門が眉をひそめながら問うた。
「でも、守備兵もなしでいけるでちゅか?川並衆だけでは、ちと不安でござる」
刃は即座に首を振る。
「大軍を動かせば、それだけで気づかれる。そうなれば意味がない。必要なのは、静かに、迅速に運ぶ小数精鋭だ」
「しかし川並衆のもとにかくまっている竹中氏はいかがなちゃる。せっかくのぐんちをここで使わにゅとは」
「ああ。半兵衛は一度は義龍に仕えてるからな。美濃攻めに荷担させたくない」
「竹中氏に甘いでちゅな」
五右衛門がふわりと笑みを浮かべてから、目を細める。
「そうか?俺は、ここにいる奴らだけでやれる自信があるだけだ」
「刃が言うだけでさまになるな」
五右衛門はくすっと口元を歪めた。
「ふむ……何か、秘策があるのでござるな? 天城氏──」
「ああ。あるさ」
刃の声に迷いはなかった。
その時だった。
「おい、坊主!」
ごつごつした岩のような手を地図に叩きつけ、前野某が前のめりに睨みつけてくる。
「今度こそ、俺たちを“侍”にしてくれるんだろうな!?」
「……今度こそ?」
刃が小首を傾げたのを見て、良晴がバツが悪そうに頭をかいた。
「お、おう。……桶狭間の時にな、恩賞の話をしてたんだけど、あれが……ほら……」
「お前、最低だな……」
刃が軽く呆れつつもため息をついた。
「安心しろ。成功すれば、俺が侍にしてやる」
その瞬間――
「「「おおおおおっっっ!!!」」」
川並衆の荒くれどもが、雷のような歓声を上げた。
「やるともさ! 俺たちが親分をお守りせずに、誰が守るってんだ!」
「親分のすべすべのお肌には!」
「傷ひとつッ!」
「おわせねえ!!」
「だからお前ら、揃いも揃って極悪人相しといて、全員ロリコンかよっ!?」
良晴のツッコミに場が笑いに包まれる中、刃は冷静に計画の概要を語りはじめた。
「──その場で一から城を築くから、時間がかかる。ならば逆だ。部品を先に作っておき、それを運んで一夜で仕上げる。これなら一夜で城に見せかけた砦ぐらいは作れる」
「それはまた奇策の中の奇策でござるな、しかし」
五右衛門が、首をかしげた。
「それだけの重量物をどうやって墨俣まで運ぶでござる」
「そこでお前たち川並衆の力が必要になる。木曽川の上流にある森で木を切り出して部品を作り、それを筏に乗せて木曽川から墨俣まで水上運搬だ。川賊なら朝飯前だろう?」
この時代の木曽川は現代とは少し違う場所を流れており、長良川と木曽川は中州の墨俣で近接していた。
前野某たちが、いっせいに不平の声をあげる。
「坊主ども、無茶言うな。木曽川は名うての急流だぞ」
「そうだ、そうだ! 命あっての物種だ!」
「手品じゃあるめえし、そんな上手く──」
「何、落ちたら俺が拾ってやる」
ぽんと、五右衛門が手を打つ。
「うにゅう……流れの速い木曽川の上流から筏で運べば、たちまち“ちゅのまた”でござる! これはまた妙案でちゅな、ちゃがらうぢ、あみゃぎうぢ!」
──やったぜ、親分がかんだ!!
前野某たちが揃って歓声を上げる。
「これは天下の妙案だぜ!」
「天才坊主ども、よくぞ思いつきやがった!」
「俺たちゃ、お前に命を預けるぜ!」
「おいおい、お前ら……自分の意見ってないのかよ……!」
良晴が呆れながらも笑う中、刃は最後にぽつりとつぶやいた。
「……ねねに、近づかないよう釘を刺しておかねば」
かくして──。
天下に名を轟かせる「墨俣一夜城」の伝説が、今まさに幕を開けようとしていた。
斎藤軍の目が届かぬ、深い山中――。
梢が鬱蒼と空を覆い、昼なお暗い森の奥で、刃たちは人目を避けるように黙々と作業を続けていた。木を切り倒し、皮を剥ぎ、材を削る。音はできる限り殺されていたが、それでも斧の打ち込み音と、木々のうめくような軋みは、風とともに森の奥へと響いていく。
その手を止めたのは、良晴だった。
肩で息をしながら、木屑にまみれた手で額の汗を拭い、荒い声を吐く。
「刃!どれほど急いで突貫工事しても、これじゃ部品を揃えるのに二週間はかかっちまうぞ!?いくらなんでも、これじゃ“墨俣一夜城”なんて無理だろ!」
焦燥と諦念が入り混じる声音。その指先は震え、積み上がった未完成の木材を指していた。
しかし、刃は表情一つ変えず、落ち着き払って地図と森を交互に見渡していた。
「確かに、一夜で木を切り出し、すべての部品を一から揃えるのは難しい。いや、不可能だ。だが――」
ゆっくりと、刃は手元の地図に視線を落とし、指先で印をなぞった。
「このあたりには、かつて寺があった。すでに廃され、忘れられた廃寺の敷地……そのまま朽ち果てているなら、使えるはずだ」
「使える……? なにが?」
「廃寺の建物を解体し、部材をそのまま筏に載せて運ぶ。加工された柱も、梁も、瓦もすでに揃っているのと同じ。足りない分だけを新たに作ればいい。これなら――間に合う」
「やはり知ってたでごじゃるか、天城氏」
一本杉の太い枝から逆さまにぶら下がっていた五右衛門が、口元に笑みを浮かべて頷いた。
「ててて寺を解体? それって、なんかこう……罰が当たったりしねえか?」
良晴が思わず声を震わせた。普段は能天気で肝も据わっている男が、今ばかりは怯えた様子で空を仰ぐ。
「バチとか、祟りとか……そういうの、マジで洒落になんねぇぞ……!」
木霊する静寂の中で、刃はそっと手を止めた。
そして、振り返りもせずに言った。
「……罰、か」
少しだけ息を吐き、そしてゆっくりと振り向く。
その目は、真っ直ぐだった。
「良晴。そんなものを恐れてどうする。姫様の笑顔を曇らせる“神”など、俺にとっては崇めるに値しない」
静かで、けれど確固たる声音。刃の言葉には、一切の揺らぎがなかった。
「俺は神よりも、"信奈"の笑顔のほうが――ずっと大切だ」
その瞬間、良晴も五右衛門も、一言も返せなかった。
ただ、無言で刃の背中を見つめた。
誰がなんと言おうと、信奈の夢のために、己はあらゆる障壁を斬る。それが“天”であっても――例外ではない。
“罰が当たる”かどうかなど、彼にとっては些末な問題に過ぎないのだ。
静まり返った森に、夜鳥の鳴き声だけが響く。だがその沈黙の中で、全員の心に共通の確信が芽生えていた。
――いける。
ただの奇策ではない。天城刃の思考は、戦の常識すら超えている。もっとも時間のかかる“部品調達”の難関を、この手法なら確かに突破できる。
あとは、筏に積み込み、夜陰に乗じて墨俣まで運び込む。そして現地で――一夜にして、城を建てるのだ。
「五右衛門、段取りは?」
「うん、筏は用意済み! 川並衆、全員夜間航行の達人でごじゃるよ!あとは運ぶだけでござる!」
「よし。ならばすぐに出る。月が高くなる前に、第一便を墨俣へ」
刃はすっと立ち上がり、手に持った地図を折りたたむ。
風が舞い、彼の銀髪が闇に溶けた。
良晴も頷いた。
「じゃあ、行くか!夜陰に乗じて、敵の目を抜いて……“一夜城”を築く、伝説の一歩目だぜ!」
こうして――
人知れず山奥で解体された廃寺の部材は、静かに筏へと載せられていく。
水面は月の光を受けて鈍くきらめき、刃たちは音を殺すようにその上へと乗り込んだ。
まだ誰も知らない。
この夜の密やかな出発が、やがて戦国の歴史に“奇跡”として語られることを。
刃の名とともに、「一夜で築かれた墨俣城」の伝説が刻まれることを。
濃霧が川面を這い、月すら隠れる深夜──
川並衆の筏が音もなく木曽川を下る。
その上で、良晴はごくりと喉を鳴らした。
手にした船竿はすでに汗ばんでおり、背中には張りつくような緊張が走っている。
「くそっ……武者震いが止まらねえ……」
震える手を見つめながら、吐息混じりに呟いたその声に、隣から低く静かな声が返る。
「落ち着け、良晴」
刃の声は冷たくはない。だが凛としていて、確かに心を鎮める力を帯びていた。
そのさらに向こう、筏の前方で風に髪をなびかせていた五右衛門が、くるりと身を翻して笑った。
「ふふ。そういう時は、手に〝人〟と書いて飲めばよいでごじゃるよ」
「さっそく出たっ! 親分の舌足らずがっ!!」
「たまらねえやあ!」
「この一瞬のために川賊やってるのよねえっ!」
「だからお前ら、テンプレート通りに騒ぐんじゃないっての! 静かに、静かにっ!」
良晴が慌てて制止するが、川並衆はますますヒートアップし、筏の上は小さな祝祭のような熱気に包まれる。
「まったく、にぎやかな奴らだな……」
刃はふっと目を細め、肩を竦めるように呟いた。
けれどその声音はどこかあたたかく、口元にはごく微かな笑みが浮かんでいた。
しかし、その和やかな空気を裂くように――。
木曽川の流れが唸り声を上げ、筏がぐらりと大きく傾ぐ。
川面に月の光が乱反射し、まるで波が嘲笑っているかのようだった。
「うわああああっ、刃!助けてくれ〜っ!」
ぐらついた板の上で、良晴が足を滑らせ、見事なまでに体勢を崩す。
「静かにしろよ、見てるから大丈夫だ」
慌てる様子もなく、刃は片手で良晴の襟をひょいと掴んだ。
それはまるで、落ちてくる羽根でも拾うかのような余裕ある動きだった。
だが、次の瞬間――。
「ぴゃっ!?」
今度は別の筏から、小さな悲鳴が上がる。
軽い五右衛門が、うねる波に足を取られて、筏の端から前のめりに倒れ込んだのだ。
体ごと川へ滑り落ちそうになる、その瞬間――。
「何度目だ……。墨俣までこのまま行くぞ」
刃の腕がすかさず伸び、五右衛門の小さな体をしっかりと抱き留める。
そのまま、まるで子猫でも抱くかのように小脇に抱え直すと、まるで当然のように視線を前方へ戻した。
五右衛門の顔が、途端に真っ赤に染まる。
「う、うにゅう……っ」
あまりに唐突な密着と腕の中の安定感に、五右衛門はぐらりと揺れるように体を縮こまらせた。
そしてその様子を見た川並衆たちは、全員が一瞬凍りついたのち――。
「……死ねっ!!」
「死んでしまえ天城刃!!」
「親分を抱き留めるだと!? てめぇ、この世の理を乱す気かァ!!」
「親分のほっぺが赤い! あれは……恋だッ!」
「その位置を代われ!! いやむしろ殺してくれェェッ!!」
怒号、怨嗟、叫び、咆哮。筏の上が一瞬で地獄絵図と化した。
だが当の刃はというと、取り乱すどころか少しだけ困ったように眉をひそめ、抱き留めたままの五右衛門を見下ろした。
「……お前が落ちたら、誰がこの筏の舵を取る?」
「は、はひい……!」
五右衛門は情けない声を上げて頷くが、その表情はどこか嬉しそうでもあり、恥ずかしそうでもあり。
耳まで真っ赤に染まり、目元はとろんと潤んでいた。
そしてその光景に、なおも川並衆たちは叫び続ける。
「親分を返せーーっ!」
「天城刃! その腕を落とせ!! いや、落とさせてくれ!!」
「刃に抱きしめられるとか、それもうご褒美だろォッ!!」
夜の川を、怨嗟と羨望と怒りが乗った咆哮が駆け巡る。
だが、刃は一切応じることなく、静かに五右衛門を膝の上に座らせ、視線を前方に向けた。
そんな騒ぎの最中──。
突如、先頭に立っていた一人の川並衆が叫んだ。
「墨俣、見えました!」
岸辺に、うっすらとした浅瀬と森の輪郭が浮かび上がる。ついに、目指していた地が目の前に現れたのだ。
「相良氏、天城氏。墨俣にござる……朝が来る前に城を組み立ててちまいまちょう」
「そうだ坊主ども、一気呵成に建てちまおうぜ!」
興奮と興奮がぶつかり、筏の上がさらに熱を帯びる。
そんな中で、刃は川辺を睨むように見据え、短く、しかし力強く言い放った。
「……ここからは、一刻を争う勝負になる」
言葉の響きが、全員の胸に突き刺さる。
信奈のために。
仲間のために。
歴史を変えるために。
いま、この刹那から──奇跡の城が、始まる。
「朝日が昇る前に終わらせるぞ。これは、俺たちの戦だ」
川並衆、全員が無言で頷いた。
筏は音もなく岸へと滑り寄る。
彼らの足が大地を踏むその瞬間──
歴史の歯車が、ごくりと音を立てて回り始めた。
半兵衛をどっちのヒロインにするか
-
刃
-
良晴