織田信奈の野望〜戦国に舞い降りし銀ノ刃〜   作:更新亀さん

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墨俣一夜城 前

翌朝の空気は、どこか張りつめていた。

 

 まだ朝靄の残る廊下を、犬千代と長秀──万千代が並んで歩いていた。足取りは自然体に見えるが、その胸の奥には微かな緊張があった。

 

「……長秀も、姫さまによばれた?」

 

 犬千代がぽつりと尋ねる。口数は少ないが、表情には曇りがあった。

 

「はい。犬千代もですか」

 

 長秀もまた同じように応じる。その声には落ち着きがあったが、わずかな戸惑いが隠しきれない。

 

「二人して呼ばれるなんて……何かあるのは、確かですね」

 

「……うん」

 

 それ以上、言葉は交わさなかった。

 

 けれど──互いに思っていることは、同じだった。信奈に呼ばれた理由。そして、その場に、刃がいるであろうこと。

 

 二人の足が部屋の前で止まる。障子の向こうから、微かに声と笑い声が聞こえた。けれど、それは決して騒がしいものではなく──どこか、幸福の匂いを帯びた温もりだった。

 

 障子を開けると──まず目に飛び込んできたのは、刃の腕にしっかりと抱きついている信奈の姿だった。

 

「おはよう、二人とも。朝から呼んで悪いわね」

 

 信奈はまるで恋する乙女そのものの表情で、嬉しそうに微笑んでいた。

 

 だが──次の瞬間、その空気に場違いな真面目さをもって、刃が口を開く。

 

「姫様。犬千代と長秀殿が来られたのですから、しっかりしてください」

 

 きゅっと信奈の腕が刃に絡みついたまま、彼女は眉をしかめる。

 

「刃!“信奈”って呼びなさいって、あれほど言ったでしょ!敬語も禁止よ!」

 

 鋭く叱る口調とは裏腹に、信奈の頬は僅かに紅潮している。

 

 刃は苦笑しながら、静かに頭を下げる。

 

「……私の身分は、まだ足軽です。噂になるような振る舞いは避けるべきです。……ですが、二人きりの時は、必ずそうします」

 

 その真面目な応答に、信奈はふくれっ面を見せながらも満更でもないようだった。

 

 そんなやり取りを目の前に、犬千代と長秀は目を見合わせ──何も言わずとも全てを察していた。

 

「犬千代、万千代。わたしと刃は、昨日……恋人になったわ」

 

 信奈は堂々と、まるで宣言するように言った。その声には揺らぎがなかった。傍にいる刃の存在が、その言葉に真実の重みを与えていた。

 

 犬千代は、目を伏せたまま、小さく呟いた。

 

「……みれば、わかる」

 

 その声音に嫉妬や怒りはなかった。ただ、何かが胸の奥でほどけていくような、不思議な静けさがあった。

 

 続けて、長秀もまた口を開く。

 

「すぐに分かりましたよ、姫。表情が……これまでと違いましたから」

 

 その指摘に、信奈は少し照れたように視線を逸らした。

 

 だが、すぐにその表情を引き締めると、二人をまっすぐに見つめる。

 

「今日呼んだ理由──分かってるわね?」

 

 その一言に、犬千代も、長秀も、小さくうなずいた。

 

 心の準備は、まだ万全ではなかったかもしれない。

 

 けれど──答えを聞く覚悟だけは、二人ともすでに持っていた。

 

 信奈の隣に立つ刃は、しばらく黙ったままだった。

 だが、やがてゆっくりとその視線を犬千代に向けると、無言のまま一歩を踏み出す。

 

 その一歩は、戦場のそれとは違っていた。

 

 相手を切り伏せるためでも、進軍の合図でもない。

 まるで、誰かの痛みに寄り添おうとするような──とても静かで、優しい一歩だった。

 

刃は犬千代の前に立ち、ほんの少しだけ屈む。

 目線を合わせ、その瞳を真っ直ぐに見つめながら、そっと手を差し出す。

 

「……犬千代。少し、外で話そう」

 

 その声音は、ごく穏やかで、しかし拒絶を許さぬほど真摯だった。

 犬千代の瞳が揺れた。迷いと驚きと、そして……微かな期待。

 

 ほんの一瞬、視線が信奈の方を向いた。

 信奈は黙って頷いた。それは、「行っておいで」と背中を押すような、やさしい合図だった。

 

 犬千代は、そっと刃の手を握った。

 その手は、少し震えていたけれど、決して離れることはなかった。

 

 二人の姿が、静かに襖の向こうへと消えていく。

 残された室内には、微かな緊張と、祈るような静寂だけが残された。

 

 そして、廊下に出た刃と犬千代の背に、涼やかな風がふと吹き抜けた。

 

「……犬千代」

 

 刃が、その名を呼んだ。

 

 その声音は、まるで冬の朝霧のように静かで、それでいてどこまでも優しかった。

 まっすぐに向けられる視線に、犬千代はほんの一瞬だけ、肩を震わせる。

 

「……ん」

 

 その返事は小さく、息のようだった。

 だが、耳を澄ませるまでもなく──彼女の全身が、緊張と不安に包まれているのが分かる。

 

 静寂の中、刃がゆっくりと口を開いた。

 

「……俺は、お前に……妹のように接してきた。良晴も、お前も、手のかかる弟、妹だと……ずっと、そう思っていた」

 

 その言葉に、犬千代のまなざしがかすかに揺れる。

 

「想いを伝えられてからも、俺は……変われなかった。いや、変えようともしなかった。……それが、優しさだと、自分に言い訳して……逃げてたんだ」

 

 言葉の端々には、自責の念と苦しみが滲んでいた。

 刃は拳を握りしめ、痛みを堪えるように、ぎり、と奥歯を噛みしめる。

 

「お前の気持ちが……嬉しくなかったわけじゃない。……むしろ、恐ろしいくらいに、嬉しかった。こんな俺に、そんな風に想ってくれる人が、この世にいるなんて──」

 

 犬千代の唇が、かすかに震える。

 何かを言おうとして、けれど言葉にできずに、ただ、じっと彼の言葉を待っていた。

 

「でもな……俺は、それが怖かった。嬉しさと同時に、それを抱える資格が自分にあるのか分からなくて……だから、目を背けて、逃げていた。ずっと、自分の弱さから……お前の優しさから……全部から逃げてたんだ」

 

 そして──

 

「……俺は、信奈が好きだ」

 

 その言葉は、まるで空気を裂く雷鳴のように、空気を揺らした。

 

 犬千代の瞳が、大きく見開かれる。

 その奥で、何かが音もなく崩れ落ちたのが、刃には分かった。

 

 それでも、犬千代は泣かなかった。

 その場に立ち尽くしたまま、まるで嵐の中に独り立つように、必死に耐えていた。

 

 ──けれど、次の瞬間。

 

「でも……お前のことも、信奈と同じくらい、好きだ」

 

 今度は、崩れかけていた犬千代の心に、別の雷が走った。

 その意味を理解するまで、ほんの少しの沈黙があった。

 

「……っ」

 

 それは痛みと、救いと、信じられないような喜びが混ざった、複雑な感情の衝撃だった。

 犬千代の頬を、一筋の涙が静かに滑り落ちる。

 

「いつからそう思っていたのか……正直、自分でも分からない。でも、気づいた時には、お前といる時間が……ただただ心地よくて。お前が笑えば、嬉しくなって……お前の声を聞くだけで、安心して……。お前がそばにいるだけで、俺の心は落ち着いた」

 

 刃はゆっくりと、胸元に手を当てた。

 その鼓動が──確かに、彼の中の真実を刻んでいた。

 

「犬千代……」

 

 その名を呼ぶ声は、震えていた。

 

「……俺の、恋人になってほしい」

 

その一言は、まるで刃の刃──鋭く、けれど確かに彼女の心の中心を貫いた。

 

 犬千代の身体が、ピクリと小さく揺れる。

 

 耳を疑った。

 でも確かに聞こえた。

 あの人の、あの声で。

 

 ぽたり。

 右の頬を伝った涙が、首筋に流れ落ちる。

 

「……っ……え……?」

 

 犬千代の唇がかすかに動いた。

 その震えは、歓喜とも困惑ともつかぬ、不器用な想いの奔流。

 どうしても言葉にできなかった。

 ただ目を見開き、胸の奥から込み上げてくる何かを必死に堪えようとする。

 

 けれど──堰を切ったように、瞳の奥から涙が溢れ出した。

 

 ――これは夢なんかじゃない。

 あの人が、自分の名を呼んだ。

 そして「恋人になってほしい」と、言ってくれた。

 

 その事実が、犬千代の心を壊すように揺らし、

 同時に、どうしようもないほど、やさしく包み込んだ。

 

「……刃…………」

 

 喉が詰まり、声にならない。

 胸が痛いほどに熱くなり、指先がかすかに震える。

 

 だけど、その脚は、自然と動き出していた。

 

 一歩。

 

 恐る恐る踏み出した足先は、まるで永遠に離れていた場所へ向かうかのように慎重で。

 でも、どんな迷いよりも強く──確かな意思があった。

 

 二歩。

 

 彼の瞳が、自分をまっすぐに見つめ返してくれていることが分かった瞬間。

 膝が抜けそうになるのをぐっと堪えて、犬千代は前を向いた。

 

 三歩目。

 

 もう、止まれなかった。

 

 そして──

 

「……っ!!」

 

 その小さな体が、刃の胸元へと飛び込んだ。

 

 勢いも忘れてしまうほど、必死な抱擁だった。

 全身でしがみつくように、犬千代は刃の胸に顔を埋め、強く、強く、その背を抱きしめた。

 

「……っぅ……ぐ……ぅ……!」

 

 押し殺したような嗚咽が、彼女の喉から漏れる。

 小さな肩が震え、涙がとめどなく、刃の衣に染みていく。

 それでも犬千代は腕を離さなかった。

 もう二度と離れたくなかった。

 

 刃は、ゆっくりとその背に手を添える。

 まるで抱き寄せることさえ躊躇うように、慎重に。

 だが、その手がふれた瞬間、犬千代の身体がかすかに反応するのを感じた。

 

「……今から……恋人……」

 

 小さな声が、胸元から漏れた。

 嗚咽混じりの、けれど、これ以上ないほど純粋で、真っ直ぐな言葉。

 

 

 犬千代は、震える手でそっと涙を拭うと、顔を上げた。

 潤んだ瞳はまだ不安げだったが、その奥には確かな光があった。

 心のどこかで、ずっと望んでいたものを──ようやく手にできた幸福の証。

 

 そして刃は、犬千代の手をそっと引き寄せるように握り直すと、何も言わず、彼女と共に再び部屋へと戻った。

 すでに彼の表情に迷いはなかった。

 覚悟を決めた男の目で、真正面から信奈を見つめ、一礼する。

 

 「──ただいま戻りました」

 

 刃の言葉に、信奈は何も言わず、わずかに頷いた。

 

 次の瞬間──刃はそのまま、すぐに長秀へと視線を移す。

 黙ったまま近づき、肩に軽く手を添える。

 

 「行こう、長秀殿」

 

 長秀は何も言わず、ただ微かに頷いた。

 

 その光景を見つめていた犬千代が、一歩前に出る。

 そして、ゆっくりと信奈の方へと向き直ると──

 

「……姫さま」

 

 一瞬の沈黙。そして──。

 

「……正妻は、犬千代」

 

 その一言は、柔らかでありながらも確かに“宣言”だった。

 まるで胸の奥から絞り出すように、そして、それでもまっすぐな声で、彼女は言った。

 

 信奈はその言葉に、わずかに目を見開いた。

 だが、驚きというよりは──微笑ましさに近い感情が、その表情に浮かんでいた。

 

 彼女はほんの数秒だけ犬千代の姿を見つめ、そのあと、ふっと目を細めて、笑う。

 

 「ふふっ……言うようになったじゃない、犬千代」

 

 その笑みに、主従の枠を超えた、同じ女としての“覚悟”が宿っていた。

 信奈はひとつ歩を進め、犬千代との距離をわずかに縮める。

 

 「でもね、“正妻”ってのは──名乗るだけじゃなくて、“守る”ものよ?」

 

 その声は挑発的ではあったが、冷たくはなかった。

 むしろその言葉は、犬千代を正面から受け止めようとするもの。

 対等な立場に立った者へ向けられる、誠実な“覚悟”の応答だった。

 

 犬千代は一度だけぎゅっと拳を握り締めると、まっすぐに信奈の瞳を見返す。

 

 「……分かってる……姫さまに勝つのは、簡単じゃない。でも……犬千代、負けない」

 

 その言葉には、揺るがぬ意志があった。

 過去の犬千代なら、決して言えなかった言葉。

 自分の気持ちを自覚し、それを貫こうとする強さが、確かにそこにあった。

 

 信奈もまた、その瞳を見据え返す。

 

 少女と少女。主従でもなく、戦友でもなく──一人の女として、一人の男をめぐる“恋のライバル”として。

 

 その視線が交錯した瞬間、ぴしり、と空気が張り詰める。

そして、その緊張感が部屋を静かに満たしていたその時──。

 

 「──わたしも、混ぜてくれませんか? 姫、犬千代」

 

 その声は、澄んだ水面にぽたりと落ちた一滴のように、静かに場を揺らした。

 

万千代だった。

 

 扉の傍に静かに立ち、手を前に重ね、背筋を伸ばしていたその姿は、まるで誰かの答えを待っていたかのようだった。

 頬はほんのり赤く、瞳の奥には、はにかみと、そして確かな意志が宿っていた。

 

 信奈が、目を細めて問う。

 

 「お帰り、万千代。……そう言うってことは?」

 

 万千代は、小さく頷いたあと、深く一礼して──顔を上げる。

 

 「はい。……わたしも、刃どのの恋人になりました」

 

 その声音は静かで、けれどもどこまでも澄んでいて。

 少女らしい恥じらいと、恋を選び取った勇気の両方が、そこには宿っていた。

 

 そして──三人の少女が並び立つ。

 

 彼女たちの目に映るのは、ただ一人の男。

 刃という男が、どれほど彼女たちの心を動かしてきたのか──その答えが、今この場に揃った。

 

 刃は、そんな三人を前に、ただひたすらに冷や汗を流すしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

──昼過ぎ。

 

 じりじりと焼けつくような夏の陽射しが、城下の石畳を白く照り返している。そんな中、相良良晴は額に汗をにじませながら、小牧山城の一角へと足を運んでいた。

 

 「ったくよ……昼飯食ったばっかりだってのに……。『すぐ来い』とかさぁ……もうちょっとタイミングってもんがあるだろ……どうせまた“お前がやれ”の押しつけターンだ。俺だけ消耗させられる未来しか見えねぇ……」

 

 ぶつぶつと文句を言いつつも、足取りはそれなりに急ぎ足だ。城内の奥にある座敷に辿りつくと、ため息交じりに襖をがらりと開け放つ。

 

 その瞬間──

 

 「遅いわよ、サル!」

 

 信奈の鋭い声が、まるで矢のように突き刺さった。

 

 「おいおい、いきなり怒鳴るなよ! 急に呼び出しておいて遅いって……理不尽通り越して、もはや圧政だぞ!」

 

 反射的に言い返しながら、良晴は部屋の中の光景に目を向け──そして次の瞬間、言葉を失った。

 

 ──刃の両腕に、信奈と犬千代がぴったりと寄り添っていた。

 

 信奈は右腕に手を絡ませ、にっこりと満面の笑み。誇らしげで、どこか“見せつける”ような表情だ。犬千代も左腕を抱き抱えているが、恥ずかしいのかうつむきがちに頬をほんのり染めている。

 

 まさに“両手に花”という状態で、中心にいる刃は、特に取り乱す様子もなく、淡々とその状況を受け入れていた。

 

「刃、犬千代や長秀さんにも言えたんだな」

 

「ああ。お前のおかげでな。犬千代とも……長秀とも、恋人になった」

 

「良かったな。で、何?早速それでイチャつきタイム突入ってわけ? 長秀さんは!? 絶対この空間にいると予想してたのに!」

 

 「万千代は政務で出てるわ。代わりに、今日は犬千代と私で刃を独占中」

 

 信奈はさらりと言ってのける。その台詞に、良晴は両膝をつき、天を仰いで叫んだ。

 

 「俺は何!? この爆発寸前の幸せ空間に巻き込まれるために呼ばれたの!? 恋人がいない俺に、これ見よがしに愛を見せつける公開処刑!?」

 

良晴は頭を抱え、部屋の真ん中でぐるぐる回りながら絶叫する。 

 

「何!? これ何!? 新手の拷問!? 精神的制裁!? いやいや、完全に罰ゲームだろ!? 俺、なにか悪いことしたか!? 昨日、俺、ちゃんと刃と信奈の恋を後押ししたよな!? 恋のキューピットだったよな!? 功労者だったよなぁあああああ!? なのにこの仕打ちって、どーいうことだ神様あああああ!!」

 

 良晴の全力のツッコミと絶叫に、犬千代がぷるぷると震えながら耐え切れず、くすりと笑いを漏らしてしまう。

 

 「うるさい」

 

 刃のひと言が場の空気をきれいに断ち切った。冷静すぎるその口調に、良晴は肩を落として膝をつき、魂が抜けたような表情で項垂れた。

 

 「違うわよ、サル。あなたには、“稲葉山城を取る策”を考えてもらおうと思って呼んだのよ?」

 

 信奈がさらっと言い放つ。

 

 「刃の腕にくっついたまま言うなああああああ!! その状態で会議開くなああああ!!」

 

 再び良晴の絶叫が、小牧山の座敷を震わせた。

 

 その騒がしさがようやく収まった頃、信奈は軍略図の上に扇子を置き、真剣な表情へと切り替わった。

 

 「少しばかり本拠地を近づけたくらいじゃ、あの難攻不落の山城は落とせないわ」

 

 信奈の目が鋭く地図の一点を見据える。そこには、金華山を戴く稲葉山城が記されていた。

 

 ──山の頂に築かれたその城は、まるで天を衝くかのように聳え立ち、地図上でさえ異様な威圧感を放っている。

 

 「わたしはこの小牧山に自分で城を建てて、山城の構造と戦略的な穴を研究しようと思ったのだけれど……」

 

 信奈は扇子を閉じ、わずかに肩を落とした。

 

 「……やっぱり行き詰まってるのか?」

 

 良晴が少し声を落として尋ねる。その言い方には、呆れと同時に心配も滲んでいた。

 

 信奈は静かにうなずいた。

 

 「ええ。小牧山はせいぜい丘。あの金華山とは、標高も地形も構造も、すべてが違いすぎる。研究にはなっても……決定打にはならないのよ」

 

その言葉の端々から、彼女の戦略家としての焦りと、悔しさがにじみ出ていた。

 

 その沈黙を切り裂くように、良晴がふと隣の男に目を向ける。

 

「……なあ、刃。お前なら、なんかあるんじゃないか?」 

 

良晴の声は静かだったが、そこには切実な期待がにじんでいた。

 

 問いかけられた刃は、しばし黙して答えず、目を細めると、深く息を吐いた。ゆっくりと額に手をやり、顎に指を添えて沈思する。その姿は、まるで静かな湖面に投じられる一滴の波紋のように、場の空気を変えていく。

 

 ──静寂。

 

 数秒の間、誰一人として言葉を発する者はいなかった。

 

 そして──。

 

「そうだな……俺が、単身で稲葉山城に乗り込むというのはどうだ?」

 

 放たれたその一言は、まるで爆弾だった。

 

 「……え?」

 

 信奈が反射的に目を見開き、絶句した。犬千代は唇を震わせ、まるで世界が揺らいだかのように立ち尽くす。良晴は思わず額に手を当てて天を仰いだ。

 

 「ちょっと待て刃、それって……まさか、潜入ってことか? 敵の本丸に? 一人で?」

 

 「本気で言ってるのか……冗談じゃねぇよな?」

 

 「冗談なわけがない」

 

 刃は一切の迷いを感じさせずに言い切った。

 

 「俺が稲葉山城に忍び込み、斎藤義龍を討つ。あるいは、生け捕る。うまくいけば、美濃の戦は終わる」

 

 静かに、しかし圧倒的な重さを持って告げられたその言葉に、場の空気が一層張り詰めた。凍りついたような沈黙が流れる。

 

 「──だめよっ!」

 

 信奈の悲鳴のような声が、その沈黙を裂いた。

 

 「あなたがどれだけ強くても、敵の本拠にたった一人で潜るなんて……無茶よっ!死んじゃうかもしれないのよ!」

 

 その声には、将としての判断ではなく、恋人としての叫びがあった。信奈は刃に駆け寄り、その腕に自らの腕を絡ませ、まるで彼を現実に引き止めるかのようにぎゅっと抱きしめた。

 

 「……だめ」

 

 犬千代もまた、小さな声でぽつりと呟きながら、刃のもう一方の腕を掴んでそっと引き寄せた。

 

刃はそんな二人を交互に見下ろし、ふっと、ほんの僅かに目尻を緩めた。

 

 「ならば……別の案を出しましょう」

 

 彼はそう言うと、そっと二人の手をほどき、地図の方へ歩み寄る。

 

「戦略的要地である墨俣に織田の楔を打ち込む、というのはどうでしょうか」

 

信奈はその言葉に反応し、刃とともに地図を覗き込んだ。細い指先で、地図の一点──墨俣の地を指し示す。

 

 「確かに、ここに拠点を築ければ、美濃の国人たちは色をなして寝返るわ……義龍も無視できない。だけど……当然、奴は妨害してくる。城なんて建てる暇、与えてくれると思う?」

 

 「だからこそ、“一夜”でやります」

 

 刃は言い切った。その瞳には、確固たる自信が宿っていた。

 

 「良晴、川並衆を貸してくれ。木曽川の上流で木を伐り、あらかじめ城の部材を作っておく。それを筏に組み、夜陰に紛れて水路で墨俣へ運び込む。あとは現地で一気に組み立てる。それができれば、奴らが気づく頃には──すでに城が出来上がっている」

 

良晴は呆気に取られたように目を丸くし、口を開いた。

 

「……まさか……墨俣一夜城……」

 

 まるで“神話”の名を聞いたかのように呟き、目を見開く。

 

「未来じゃ、藤吉郎のおっさんがやった伝説の築城策……! あれを、今、やるってのか!?」

 

「何だそれは?」

 

 刃は、ぽかんとした顔で肩をすくめた。

 

「俺は歴史には詳しくないって、前に言っただろう?ただ──その場で組み上げるのが難しいなら、先に作って運んでくればいい。単純な話だろう」

 

 「いやいや、それがすげえんだよ刃……!」

 

 良晴は声を荒げて言いながらも、内心ではすでにぞくりと震えていた。“知っていた”と“知らなかったけれど考えついた”──その差は、まさしく天と地ほどの開きがある。

 

「おもしろいわ!」

 

 信奈が、大きく頷いた。表情には迷いの影は一切なかった。

 

「“墨俣一夜城”──やってみせなさい、刃。あなたなら、できるって信じてる!」

 

 「御意」

 

 刃は深々と頭を下げる。その動作には一片の演技もない、心からの忠誠と覚悟が込められていた。

 

「姫様には、明日兵を率いて墨俣に来ていただきたい。私はそれまでに、城を完成させてみせます」

 

 「ちょっと待て刃!」

 

 良晴が叫ぶように言った。

 

「信奈には、空になった稲葉山城に突撃させた方が早くないか? 義龍が留守なら一気に奪えるかもしれねえぞ」

 

 だが刃は、すぐさま首を横に振った。

 

「義龍が全軍を墨俣に差し向けてくる保証はない。やつが兵を分散させ、罠を張っている可能性もある」

 

 そして──。

 

「俺がそばにいない以上、姫様を危険に晒す気はない」

 

 静かだが、決然とした言葉だった。

 

 信奈は一瞬、何も言えなかった。けれど──次第に頬を赤らめ、唇をぎゅっと結び、小さく頷いた。

 

「……わかった。なら、わたしも信じる。“墨俣一夜城”──必ず、成功させて」

 

 その目には、織田の姫としての覚悟と、恋人への信頼と──想いが、確かに宿っていた。

 

 

 

 

 

 刃と良晴が部屋を出ていく、その直後のことだった。

 障子がぱたりと開かれ、すぐさま二人の人影が入れ違いに飛び込んできた。

 

 一人は信奈の側近であり忠臣の柴田勝家。

 もう一人は、美濃の元主にして“蝮”の異名で名を馳せた、斎藤道三その人だった。

 

「やはり、あやつは一家臣に収まる器ではないのう」

 

 道三は目を細め、まるで世紀の傑物を見たとでも言いたげな声で呟いた。

 

 信奈は瞬時に眉を吊り上げる。

 

「……蝮、六。今の話、立ち聞きしてたの?」

 

「聞いておったぞ、信奈どの。――墨俣一夜城……あれほどの構想、しかもあの短時間で導き出すとはのう。そこらの軍師どもなど、裸足で逃げ出すわ」

 

 口の端を吊り上げ、悪びれもせずに言い放つ道三。

 その態度に、信奈は大きくため息をついた。

 

「……やっぱり立ち聞きしてたのね、蝮!」

 

「ふん、わしを誰だと思っておる。美濃の蝮ぞ? 娘があの刃と何を語り、何を決めたのか。父親として目と耳で確かめるのは当然の務めじゃ」

 

 堂々とした態度で部屋に入り込む道三。その身からは、老いてなお衰えぬ圧のようなものが立ちのぼっていた。

 

 その後ろに控えていた勝家は、気まずそうに視線を泳がせ、申し訳なさそうに小声で呟く。

 

「……申し訳ありません、姫さま。私も、つい……気になってしまって……つい、扉の外で……」

 

「ったく……盗み聞きなんて、武士の風上にも置けないわね」

 

 信奈は呆れながらも、勝家のしおらしい様子にそれ以上強くは言えず、ただ肩を竦めた。

 

 しかし、次に道三の放った言葉に、信奈の動きがぴたりと止まる。

 

「……だが、安心したぞ。もし信奈どのが、あの浅井長政ふぜいの嫁になるような愚かしい道を選ぶのなら、この老骨全力で叱咤するつもりでおった。だが――」

 

 蝮の眼差しが、どこか優しげな色を帯びる。

 

「……どうやら、その必要はなかったようじゃの」

 

 信奈は、胸を張って答えた。

 

「当然でしょ!」

 

 まるで宣言するように、凛とした声が部屋に響く。

 

「わたしは、刃以外の男なんて眼中にないわ!」

 

 その言葉には一片の迷いもなかった。

 

「誰の家臣でもない、あの刃に出会えた。それ自体が奇跡。運命みたいなものなのよ!」

 

 道三はじっとその横顔を見つめ、ふむと深く頷く。

 

「うむ……あやつが最初に出会ったのが信奈どのでなければ、あやつは、天下取りの最大の障壁となったじゃろう。サルでは、あやつを止めることなど叶わぬ。いや――止めようとすること自体、無意味なことじゃったかもしれぬ」

 

「間違いないわね。一人で数百の兵を相手にできて、絶対に主を裏切らない忠誠心まで備えてる。忠義の化身みたいなあの人を調略するなんて夢のまた夢。戦も政もできて、しかも裏切らない。理想の家臣そのものよ」

 

そして、少しだけ口を歪める。

「……あの人がもし今川義元に拾われてたら、桶狭間でわたしは絶対に死んでた。そんな未来、冗談でも笑えないわ」

 

 それは脅威としての評価であり、同時に、誰よりも高い信頼の証だった。

道三は感心したように鼻を鳴らし、にやりと笑う。

 

「刃は覇王の器を持ち、若き覇王として――すでに完成されておる」

 

 道三の声は、まるで吟じるように低く、重く響いた。

 

「他を寄せ付けぬ武勇。軍師顔負けの知略。平然と死地に踏み込む胆力。そして、何よりも……戦を“遊戯”のごとく読み解き、敵味方の心すら見透かす天性の戦略眼。そして――」

 

 そこでひと呼吸置き、口元を歪ませるように微笑んだ。

 

「――あの、美しき容貌よ。あやつは“天”が王たるべき姿を形にしたような男じゃ。あのような存在に、そなたがこれほどまで忠誠と好意を寄せられておるとは……まこと、羨ましいかぎりじゃのう」

 

 言葉を締めくくる道三の目には、わずかな寂しささえ滲んでいた。

 

「もし、もしあやつがわしの家臣であったならば……迷うことなく娘の帰蝶をあやつに嫁がせておった。まことに、運がなかったわい……」

 

 信奈は少しだけ頬を赤らめながらも、きっぱりと宣言する。

 

「残念だったわね。刃はもう――わたしと、犬千代と、万千代の恋人よ。あの人の未来に、わたしたちが並び立つことは決まっているの。これはもう、当然のことなのよ。どんな困難があろうと、離れたりなんかしないわ」

 

 その言葉に、勝家が小さく息を呑むのが聞こえた。

 

 けれど、道三は満足げに手を一度、ぱんと打ち鳴らした。

 

「うむ、それでこそ信奈どの。そなたのように天命を背負う女には、ただ強いだけでは足りぬ。時を越え、常識を超え、運命すらもねじ伏せられるような男でなければ、伴侶とは呼べぬからの」

 

 道三の瞳が、鋭く光る。

 

「信奈どのにふさわしい男など、この世に二人しかおらぬ。刃と……あのサル、良晴だけじゃ。ゆえに、あやつらは天が遣わした“天命の伴侶”――それもまた、動かぬ理じゃ」

 

斎藤道三の声音は静かだが、どこか確信に満ちていた。その言葉に、信奈はわずかに目を細めた。

 

「サルはダメね」

 

 きっぱりとした一言。迷いも、揺れもない。

 

「まず、好みじゃないもの。刃以外に、わたしに相応しい男なんていないわよ」

 

 その言葉に一分の迷いもなかった。だが――

 

 信奈は、ふっと唇の端を吊り上げる。そして、隣に控える勝家の方へと視線をやる。

 

「それに……六が嫉妬しちゃうもの」

 

「なっ……!? ひ、姫さまっ!?」

 

 まるで背後から斬りかかられたように、勝家の身体がびくりと跳ねた。目を見開き、頬がみるみる赤くなる。

 

「わ、わたしは……そ、そんな……! サルなんかに……!」

 

 否定の言葉が口をついて出るが、それはあまりにも拙く、熱に浮かされたようにたどたどしかった。両手をぶんぶんと振り回し、視線は合わさぬよう泳ぎ続ける。

 

 勝家にしては、あまりにも分かりやすい狼狽。

 

 信奈はそれが愉快で仕方なかった。

 

「ふふっ、なによその慌てっぷり。やっぱり図星じゃないの?」

 

 からかうように微笑むその顔には、姫としての威厳ではなく、一人の年頃の少女の茶目っ気がにじんでいた。

 

 そのまま数歩、勝家に歩み寄る。わざと足音を響かせ、ゆっくりと間合いを詰める。

 

「今度サルがね、“美少女を恩賞に”なんて言い出したら……六をあげようかしら?」

 

「な、ななな、なにをおっしゃいますか!! そ、そんなの……と、とんでもないっ! あたしは、そ……そそそそ、そんなっ――!!」

 

 ますます取り乱す勝家。顔どころか、耳の先まで真っ赤に染まり、言葉はもう崩壊寸前だった。

 

 だが信奈は、そんな姿さえも見逃さず――にやりと笑う。

 

「だって、サルのおかげで、わたしは刃と恋人になれたんだもの」

 

 その声には、どこかしっとりとした重みがあった。

 

 信奈はさらに一歩踏み出し、ぐっと身を屈めて勝家の目線に顔を近づける。

 

 ふざけ半分、本気半分。けれど、どこか姉のような慈しみも混じっていた。

 

「だったら、今度はわたしが……サルの背中を押してあげる番よね?」

 

「……っ……」

 

 勝家は言葉を失い、ぎゅっと唇を噛みしめる。

 

 顔をそむけ、両の手で真っ赤な頬を覆ったまま、小さく震える肩。

 

 そこにはいつもの勇猛な将の姿などなかった。ただ、年相応の――いや、それ以上に繊細な、一人の少女がいた。

 

 信奈はその様子を見つめながら、心の奥でそっと微笑んだ。

 

 からかいではない。

 

 これは、ほんの少しだけ――背中を押すための、姫なりのやさしさだった。

 

 

 

 

 

 

 

掘立て小屋同然の新たな家へ戻った刃と良晴は、五右衛門と川並衆の前野某たち荒くれ川賊を招集し、一世一代の大ばくち「墨俣一夜城」の話に乗ってくれるかと切りだした。

 

「五右衛門。安藤伊賀守は見つかったか?」

 

 刃の問いに、五右衛門は小さく首を振った。

「川並衆の手勢をいくらか割いて、ただいまも捜索中でござる」

 

「まさかもう始末されちまったんじゃないだろうな……」 

 

良晴が眉をひそめて言うと、刃と五右衛門がほぼ同時に首を横に振った。

「それはないだろう、あの糞ザルは半兵衛も狙ってるからな」

「始末などすれば浅井氏は生涯竹中氏を敵にまわします故、それはないでごじゃろう」

 

 「……そっか。たしかに、そうだな」

 

 少しほっとしたように良晴が息をつくと、五右衛門が眉をひそめながら問うた。

 

 「でも、守備兵もなしでいけるでちゅか?川並衆だけでは、ちと不安でござる」

 

 刃は即座に首を振る。

 

 「大軍を動かせば、それだけで気づかれる。そうなれば意味がない。必要なのは、静かに、迅速に運ぶ小数精鋭だ」

 

「しかし川並衆のもとにかくまっている竹中氏はいかがなちゃる。せっかくのぐんちをここで使わにゅとは」

 

「ああ。半兵衛は一度は義龍に仕えてるからな。美濃攻めに荷担させたくない」

 

「竹中氏に甘いでちゅな」

五右衛門がふわりと笑みを浮かべてから、目を細める。

 

「そうか?俺は、ここにいる奴らだけでやれる自信があるだけだ」

 

「刃が言うだけでさまになるな」

 

五右衛門はくすっと口元を歪めた。

 

「ふむ……何か、秘策があるのでござるな? 天城氏──」

 

 「ああ。あるさ」

 

 刃の声に迷いはなかった。

 

 その時だった。

 

 「おい、坊主!」

 

 ごつごつした岩のような手を地図に叩きつけ、前野某が前のめりに睨みつけてくる。

 

 「今度こそ、俺たちを“侍”にしてくれるんだろうな!?」

 

 「……今度こそ?」

 

 刃が小首を傾げたのを見て、良晴がバツが悪そうに頭をかいた。

 

 「お、おう。……桶狭間の時にな、恩賞の話をしてたんだけど、あれが……ほら……」

 

 「お前、最低だな……」

 

 刃が軽く呆れつつもため息をついた。

 

「安心しろ。成功すれば、俺が侍にしてやる」

 

その瞬間――

 

 「「「おおおおおっっっ!!!」」」

 

 川並衆の荒くれどもが、雷のような歓声を上げた。

 

 「やるともさ! 俺たちが親分をお守りせずに、誰が守るってんだ!」

 

 「親分のすべすべのお肌には!」

 

 「傷ひとつッ!」

 

 「おわせねえ!!」

 

 「だからお前ら、揃いも揃って極悪人相しといて、全員ロリコンかよっ!?」

 

良晴のツッコミに場が笑いに包まれる中、刃は冷静に計画の概要を語りはじめた。

 

 「──その場で一から城を築くから、時間がかかる。ならば逆だ。部品を先に作っておき、それを運んで一夜で仕上げる。これなら一夜で城に見せかけた砦ぐらいは作れる」

 

「それはまた奇策の中の奇策でござるな、しかし」

 五右衛門が、首をかしげた。

「それだけの重量物をどうやって墨俣まで運ぶでござる」

 

 「そこでお前たち川並衆の力が必要になる。木曽川の上流にある森で木を切り出して部品を作り、それを筏に乗せて木曽川から墨俣まで水上運搬だ。川賊なら朝飯前だろう?」

 

この時代の木曽川は現代とは少し違う場所を流れており、長良川と木曽川は中州の墨俣で近接していた。

 

前野某たちが、いっせいに不平の声をあげる。

 「坊主ども、無茶言うな。木曽川は名うての急流だぞ」

 

 「そうだ、そうだ! 命あっての物種だ!」

 

 「手品じゃあるめえし、そんな上手く──」

 

 「何、落ちたら俺が拾ってやる」

 

 ぽんと、五右衛門が手を打つ。

 

 「うにゅう……流れの速い木曽川の上流から筏で運べば、たちまち“ちゅのまた”でござる! これはまた妙案でちゅな、ちゃがらうぢ、あみゃぎうぢ!」

 

 ──やったぜ、親分がかんだ!!

 

 前野某たちが揃って歓声を上げる。

 

 「これは天下の妙案だぜ!」

 

 「天才坊主ども、よくぞ思いつきやがった!」

 

 「俺たちゃ、お前に命を預けるぜ!」

 

 「おいおい、お前ら……自分の意見ってないのかよ……!」

 

 良晴が呆れながらも笑う中、刃は最後にぽつりとつぶやいた。

 

 「……ねねに、近づかないよう釘を刺しておかねば」

 

 かくして──。

 

 天下に名を轟かせる「墨俣一夜城」の伝説が、今まさに幕を開けようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

斎藤軍の目が届かぬ、深い山中――。

 

 梢が鬱蒼と空を覆い、昼なお暗い森の奥で、刃たちは人目を避けるように黙々と作業を続けていた。木を切り倒し、皮を剥ぎ、材を削る。音はできる限り殺されていたが、それでも斧の打ち込み音と、木々のうめくような軋みは、風とともに森の奥へと響いていく。

 

 その手を止めたのは、良晴だった。

 

 肩で息をしながら、木屑にまみれた手で額の汗を拭い、荒い声を吐く。

 

「刃!どれほど急いで突貫工事しても、これじゃ部品を揃えるのに二週間はかかっちまうぞ!?いくらなんでも、これじゃ“墨俣一夜城”なんて無理だろ!」

 

 焦燥と諦念が入り混じる声音。その指先は震え、積み上がった未完成の木材を指していた。

 

 しかし、刃は表情一つ変えず、落ち着き払って地図と森を交互に見渡していた。

 

「確かに、一夜で木を切り出し、すべての部品を一から揃えるのは難しい。いや、不可能だ。だが――」

 

 ゆっくりと、刃は手元の地図に視線を落とし、指先で印をなぞった。

 

「このあたりには、かつて寺があった。すでに廃され、忘れられた廃寺の敷地……そのまま朽ち果てているなら、使えるはずだ」

 

「使える……? なにが?」

 

「廃寺の建物を解体し、部材をそのまま筏に載せて運ぶ。加工された柱も、梁も、瓦もすでに揃っているのと同じ。足りない分だけを新たに作ればいい。これなら――間に合う」

 

「やはり知ってたでごじゃるか、天城氏」

 

一本杉の太い枝から逆さまにぶら下がっていた五右衛門が、口元に笑みを浮かべて頷いた。

 

「ててて寺を解体? それって、なんかこう……罰が当たったりしねえか?」

 

良晴が思わず声を震わせた。普段は能天気で肝も据わっている男が、今ばかりは怯えた様子で空を仰ぐ。

 

「バチとか、祟りとか……そういうの、マジで洒落になんねぇぞ……!」

 

 木霊する静寂の中で、刃はそっと手を止めた。

 

 そして、振り返りもせずに言った。

 

「……罰、か」

 

 少しだけ息を吐き、そしてゆっくりと振り向く。

 

 その目は、真っ直ぐだった。

 

「良晴。そんなものを恐れてどうする。姫様の笑顔を曇らせる“神”など、俺にとっては崇めるに値しない」

 

 静かで、けれど確固たる声音。刃の言葉には、一切の揺らぎがなかった。

 

「俺は神よりも、"信奈"の笑顔のほうが――ずっと大切だ」

 

 その瞬間、良晴も五右衛門も、一言も返せなかった。

 

 ただ、無言で刃の背中を見つめた。

 

 誰がなんと言おうと、信奈の夢のために、己はあらゆる障壁を斬る。それが“天”であっても――例外ではない。

 

 “罰が当たる”かどうかなど、彼にとっては些末な問題に過ぎないのだ。

 

静まり返った森に、夜鳥の鳴き声だけが響く。だがその沈黙の中で、全員の心に共通の確信が芽生えていた。

 

 ――いける。

 

 ただの奇策ではない。天城刃の思考は、戦の常識すら超えている。もっとも時間のかかる“部品調達”の難関を、この手法なら確かに突破できる。

 

 あとは、筏に積み込み、夜陰に乗じて墨俣まで運び込む。そして現地で――一夜にして、城を建てるのだ。

 

「五右衛門、段取りは?」

 

「うん、筏は用意済み! 川並衆、全員夜間航行の達人でごじゃるよ!あとは運ぶだけでござる!」

 

「よし。ならばすぐに出る。月が高くなる前に、第一便を墨俣へ」

 

 刃はすっと立ち上がり、手に持った地図を折りたたむ。

 

 風が舞い、彼の銀髪が闇に溶けた。

 

良晴も頷いた。

「じゃあ、行くか!夜陰に乗じて、敵の目を抜いて……“一夜城”を築く、伝説の一歩目だぜ!」

 

 こうして――

 

 人知れず山奥で解体された廃寺の部材は、静かに筏へと載せられていく。

 

 水面は月の光を受けて鈍くきらめき、刃たちは音を殺すようにその上へと乗り込んだ。

 

 まだ誰も知らない。

 

 この夜の密やかな出発が、やがて戦国の歴史に“奇跡”として語られることを。

 

 刃の名とともに、「一夜で築かれた墨俣城」の伝説が刻まれることを。  

 

 

 

 

 

濃霧が川面を這い、月すら隠れる深夜──

 川並衆の筏が音もなく木曽川を下る。

 

 その上で、良晴はごくりと喉を鳴らした。

 手にした船竿はすでに汗ばんでおり、背中には張りつくような緊張が走っている。

 

「くそっ……武者震いが止まらねえ……」

 

 震える手を見つめながら、吐息混じりに呟いたその声に、隣から低く静かな声が返る。

 

「落ち着け、良晴」

 

 刃の声は冷たくはない。だが凛としていて、確かに心を鎮める力を帯びていた。

 

 そのさらに向こう、筏の前方で風に髪をなびかせていた五右衛門が、くるりと身を翻して笑った。

 

「ふふ。そういう時は、手に〝人〟と書いて飲めばよいでごじゃるよ」

 

「さっそく出たっ! 親分の舌足らずがっ!!」

 

「たまらねえやあ!」

 

「この一瞬のために川賊やってるのよねえっ!」

 

「だからお前ら、テンプレート通りに騒ぐんじゃないっての! 静かに、静かにっ!」

 

 良晴が慌てて制止するが、川並衆はますますヒートアップし、筏の上は小さな祝祭のような熱気に包まれる。

 

「まったく、にぎやかな奴らだな……」

 

 刃はふっと目を細め、肩を竦めるように呟いた。

 けれどその声音はどこかあたたかく、口元にはごく微かな笑みが浮かんでいた。

 

 しかし、その和やかな空気を裂くように――。

 

 木曽川の流れが唸り声を上げ、筏がぐらりと大きく傾ぐ。

 川面に月の光が乱反射し、まるで波が嘲笑っているかのようだった。

 

「うわああああっ、刃!助けてくれ〜っ!」

 

 ぐらついた板の上で、良晴が足を滑らせ、見事なまでに体勢を崩す。

 

「静かにしろよ、見てるから大丈夫だ」

 

 慌てる様子もなく、刃は片手で良晴の襟をひょいと掴んだ。

 それはまるで、落ちてくる羽根でも拾うかのような余裕ある動きだった。

 

 だが、次の瞬間――。

 

「ぴゃっ!?」

 

 今度は別の筏から、小さな悲鳴が上がる。

 軽い五右衛門が、うねる波に足を取られて、筏の端から前のめりに倒れ込んだのだ。

 

 体ごと川へ滑り落ちそうになる、その瞬間――。

 

「何度目だ……。墨俣までこのまま行くぞ」

 

 刃の腕がすかさず伸び、五右衛門の小さな体をしっかりと抱き留める。

 そのまま、まるで子猫でも抱くかのように小脇に抱え直すと、まるで当然のように視線を前方へ戻した。

 

 五右衛門の顔が、途端に真っ赤に染まる。

 

「う、うにゅう……っ」

 

 あまりに唐突な密着と腕の中の安定感に、五右衛門はぐらりと揺れるように体を縮こまらせた。

 そしてその様子を見た川並衆たちは、全員が一瞬凍りついたのち――。

 

「……死ねっ!!」

 

「死んでしまえ天城刃!!」

 

「親分を抱き留めるだと!? てめぇ、この世の理を乱す気かァ!!」

 

「親分のほっぺが赤い! あれは……恋だッ!」

 

「その位置を代われ!! いやむしろ殺してくれェェッ!!」

 

 怒号、怨嗟、叫び、咆哮。筏の上が一瞬で地獄絵図と化した。

 

 だが当の刃はというと、取り乱すどころか少しだけ困ったように眉をひそめ、抱き留めたままの五右衛門を見下ろした。

 

「……お前が落ちたら、誰がこの筏の舵を取る?」

 

「は、はひい……!」

 

 五右衛門は情けない声を上げて頷くが、その表情はどこか嬉しそうでもあり、恥ずかしそうでもあり。

 耳まで真っ赤に染まり、目元はとろんと潤んでいた。

 

 そしてその光景に、なおも川並衆たちは叫び続ける。

 

「親分を返せーーっ!」

 

「天城刃! その腕を落とせ!! いや、落とさせてくれ!!」

 

「刃に抱きしめられるとか、それもうご褒美だろォッ!!」

 

 夜の川を、怨嗟と羨望と怒りが乗った咆哮が駆け巡る。

 

 だが、刃は一切応じることなく、静かに五右衛門を膝の上に座らせ、視線を前方に向けた。

 

そんな騒ぎの最中──。

 

 突如、先頭に立っていた一人の川並衆が叫んだ。

 

「墨俣、見えました!」

 

岸辺に、うっすらとした浅瀬と森の輪郭が浮かび上がる。ついに、目指していた地が目の前に現れたのだ。

 

「相良氏、天城氏。墨俣にござる……朝が来る前に城を組み立ててちまいまちょう」

「そうだ坊主ども、一気呵成に建てちまおうぜ!」

 

興奮と興奮がぶつかり、筏の上がさらに熱を帯びる。

 

 そんな中で、刃は川辺を睨むように見据え、短く、しかし力強く言い放った。

 

「……ここからは、一刻を争う勝負になる」

 

 言葉の響きが、全員の胸に突き刺さる。

 

 信奈のために。

 

 仲間のために。

 

 歴史を変えるために。

 

 いま、この刹那から──奇跡の城が、始まる。

 

「朝日が昇る前に終わらせるぞ。これは、俺たちの戦だ」

 

 川並衆、全員が無言で頷いた。

 

 筏は音もなく岸へと滑り寄る。

 

 彼らの足が大地を踏むその瞬間──

 歴史の歯車が、ごくりと音を立てて回り始めた。

 

半兵衛をどっちのヒロインにするか

  • 良晴
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