織田信奈の野望〜戦国に舞い降りし銀ノ刃〜   作:更新亀さん

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美濃併合 四人目の恋人

──「天城刃の墨俣一夜城」は、伝説となった。

 墨俣築城からの奇襲撃退という、まさに神懸かりの戦勝に沸き返る墨俣城。

 

 だが、その中心部で、織田軍の空気は──凍りついた。

 

 信奈たち一行が城門をくぐり、視界を拓いたその先に現れたのは──

 天を仰いでぶつぶつと呟く男と、地面に突っ伏して血涙を流す荒くれども、そして膝の上に二人の少女を乗せて優雅に撫でている青年の姿だった。

 

「…………なに、あれ」

 

 信奈の声が、無意識に漏れる。

 

 空を見上げる良晴の姿はまるで、全てを失った男のようだった。

 肩は落ち、膝はがくがく。目はどこか虚空を見つめながら、しわがれた声で独白を繰り返していた。

 

「……俺はホモじゃねぇ……女が好きだ……刃に告白なんてしてねぇ……誰がホモだよ……違うんだよォ……」

 

 表情はもはや、生気ゼロの白目。

 

 その周囲で、川並衆の荒くれどもが地面に土下座どころか、顔面をこすりつけながら嗚咽していた。

 

「うおおおおおおおん!! 親分がァァァ!!」

「わっちらの姫がァァァ!!ついに……坊主に取られちまったァァァァァ!!」

「なんでよりによって膝ァァァ!?その膝代わってえええええええッ!!」

 

 絶叫の渦の中心──

 刃は、両膝に五右衛門と半兵衛を乗せて座っていた。

 

 右膝の五右衛門は顔を真っ赤にして身を固くし、左膝の半兵衛はうっとりと微笑みながら身を預けている。

 その二人の頭を、刃はごく自然な所作で、撫でていた。

 

 まるで誰も彼もが“そこにいるのが当然”であるかのような、平然たる態度で。

 

「……ちょ、ちょっと待って……なに、あれ……なに……どういう状況なの……??」

 

 信奈の声が震える。目が泳ぐ。足が止まる。

 

 勝家は唇を噛み、口元を手で覆って硬直。

 犬千代と長秀は槍を握ったまま完全フリーズ。

 信澄は両手をポケットに入れながら、どこか遠い目で呟いた。

 

「……終わったね。いろいろと」

 

「刃!!」

 信奈がついに叫んだ。

 

「あんた、なんで女の子を両膝に乗せて撫でてるのよ!? サルはなんかぶつぶつ言ってるし!!」

 

 信奈の声が戦場中に響き渡った。

 その問いに、刃は自然体のまま、五右衛門と半兵衛をそっと膝から下ろすと、すっと立ち上がり──

 

「来ていただき感謝します、姫様」

 

 そう言って、信奈の前で静かに膝をつき、恭しく頭を垂れた。

 

「ちょっと遅れちゃったけどね……ってそうじゃない!!」

 

 信奈の表情が一瞬で切り替わる。口元の笑みは霜のように消え、瞳が怒りと困惑で鋭く光った。

 

「サル!!!」

 

「ち、違う!信奈!? 信じてくれ!俺はホモじゃない!刃に告白なんてしてないんだってばああああああああッ!!」

 

 場が静まる。

 と同時に、空気が変わった。

 

 ……。

 

 ……。

 

「…………は?」

 

 信奈の声が、地の底から絞り出されたように低かった。

 

唇が引きつる。目尻がぴくりと震える。こめかみが、音を立てそうなほど脈打っている。

 

「あっ……」

 

 良晴は自分の失言に気づいた。だがもう、遅かった。

 

「サル……今の、詳しく聞かせてもらうわよ」

 

「……良晴、ちょっと話がある」

 

「相良どの? 少し、詳しく聞かせていただけますか……?」

 

 犬千代が、無表情のまま一歩前に出る。目は据わり、拳はぶるぶると震えていた。

 

 長秀もまた、眉ひとつ動かさぬまま、懐から扇子を抜き取り──ぱんっと折り畳んだ。

 

「お話の前に、一発だけビンタをさせていただいても……?」

 

「ちょっ、ちょ、待て!? 待ってくれ!!違うんだ信奈!!犬千代!!長秀さん!!落ち着けって!!ちゃんと説明するから!!ちゃんと──」

 

 良晴は後ずさりながら、周囲を見回した。

 

だが──味方はいない。

 

 そして信奈が──一歩、また一歩と、踏み出す。

 

「わたし達の刃に……なにしてくれちゃってんのよォォォォォォォォ!!!!!」

 

 咆哮。雷鳴。地鳴り。

 その怒りの波動が戦場の空気を一瞬で吹き飛ばした。

 

「ひいぃッッッッ!!?」

 

 良晴は逃げ出した。半狂乱で、涙目で、謎の土下座と空中前転を繰り返しながら。

 その背後から、信奈たちが、獲物を狩る猛獣のごとく追いかける。

 

「サァァァァァァァルゥゥゥゥゥ!!」

 

「……まて」

 

「覚悟の時間ですわ……!」

 

 ──墨俣城、戦後最大の地獄が幕を開けた瞬間であった。

 

 

 

 

場に、氷点下の空気が流れ込んだ。

 

 ──尋問室。それは今、墨俣城の一角で静かに幕を開けた。

 

 天城刃は椅子に腰かけ、無表情で茶を啜っている。

 その正面に座らされた相良良晴は、目を泳がせ、脂汗を垂らしていた。

 

 そして、尋問官──織田信奈は腕を組み、鋭く腰に手を当てて立ち尽くしている。

 

「で? サル。貴方いつから刃をそういう目で見てたのかしら?」

 

「はァ!? ちょっ、待って信奈!? 何その質問おかしいだろ!?」

 

「おかしくないわよ。だってさっき、自分で言ってたじゃない。“刃に告白してない”って」

 

「いやいやいやいや!だからそれは誤解なんだってばあああ!!」

 

「誤解? ほう……」

 

 信奈の視線が細くなる。

 隣にいた犬千代がじっと目を逸らさずに凝視し、長秀はすでに「取調べ報告書」のようなものを書き始めていた。

 

「“刃に告白してない”って、どうしてそんな発言が飛び出すのかしらね。普通に生きてて、そんな否定文、出る?」

 

「で、出るよ!? あの流れで出ちゃっただけで、ほんとに告白なんかしてないからッ!!」

 

「つまり刃に告白したと勘違いされるような何かはした、と?」

 

「ぐぬ……いや、あれは……刃が勝手に……いや違う、俺が悪いわけじゃ──!」

 

「へぇ、じゃあ改めて聞くけど。サル、あんた『天下一の女好き』っていつも言ってるわよね? それでいて、刃のことを“顔満点”“性格満点”“強さ限界突破”とか言ってたらしいわね?」

 

「うっ……」

 

「それって──惚れてるって言ってるようなもんじゃない?」

 

「ち、違う! あれは“客観的事実”を言っただけなんだって!俺は女の子が好きだし、下心も──」

 

「ふうん、じゃあ“下心がないから惚れる”っていう自分の言葉はなんなのかしら?」

 

「ぎゃあああああああッ!!」

 

 机に突っ伏して絶叫する良晴。その背後では、信奈が冷ややかに息をついた。

 

「自分の言葉に矛盾しすぎてて自滅してんじゃないの。サル」

 

「お、俺は……!」

 

 助けを求めるように横目で刃を見れば、彼は静かに湯呑みを置いた。

 

「……俺には、良晴の想いは届かない。すまない」

 

「やめろおおおおおおおお!!また勘違いが加速するだろうがァァァ!!!!!お前、その天然発言やめろってばァァァ!!」

良晴が叫ぶ

 

「違うッ! 俺は刃が五右衛門を口説きだしたから止めようとしただけなんだってばァァァ!!」

 

 良晴の叫びは、もはや悲鳴の域だった。額からは脂汗が流れ、目の焦点は合っていない。

 

「……ふーん?」

 

 信奈の声が低くなる。目が据わった。完全に“取り調べモード”である。

 

「じゃあ聞くけど──“止めようとした”って、何をどう止めたのよ?」

 

「刃が!あいつが!自分に魅力がないって言った五右衛門に『お前は十分魅力的だ……俺も欲しいくらいだ』って!! それで五右衛門が顔真っ赤にしてバクハツして!!」

 

「……またそれ?」

 

 信奈は額を押さえ、溜息をついた。

 その横で犬千代がぴくりと眉を動かし、長秀は「記録、口説き文句・再犯」とメモ帳に書き加えていた。

 

「刃? またなの?」

 

「確かに言いましたが口説いてなどいません」

 

「出たァァァァァァァ!!!その鉄壁の無自覚否定ううううううッッ!!」

 

 良晴が頭を抱えて絶叫する。

 

「五右衛門の顔!赤かったよな!?完全に惚れてたよな!?あれが事実じゃないなら幻覚か!?俺は戦場で幻でも見てたってのか!?」

 

「良晴、落ち着け」

 

 刃はあくまで平然とした顔で、静かに言う。

 

「俺はただ、仲間を守るべきだと判断した。あの場では、それが最善だった。それだけの話だ」

 

「それだけじゃねえんだよォォォ!!問題はタイミングとセリフだよ!!」

 

 良晴は地面に崩れ落ち、膝をついたまま天を仰いだ。

 

「守った直後に“欲しい”って!?それプロポーズって言うんだよ!しかも本人に自覚ないとか、どんな殺人兵器だよ!?どこまで天然爆撃する気だよォォォ!!」

 

 信奈はぎゅっと拳を握りしめ──にっこりと微笑んだ。

 

「……なるほどね。じゃあサル」

 

「ひいっ!?」

 

「もし刃が、“俺も良晴が欲しい”って言ったら……どうするの?」

 

「全力で逃げるうううううううううううううッッ!!俺はホモじゃねえええええええええええええええッ!!」

 

「姫様、良晴の尋問より先に……稲葉山城を攻め落とすべきです」

 

 刃が冷静に進言する。

 

 信奈はギロリと良晴を一瞥し──

 

「……それもそうね! 行くわよ、刃!!」

 

「了解しました、姫様」

 

「た、助かった~~ッ!!」

 

 良晴が胸を撫で下ろしたのも束の間──

 

「尋問の続きは、稲葉山城を落としたあとでじっくりね!」

 

「助かってなかったああああああッ!!」

 

 絶叫が城内にこだまする中、戦場へと向けて軍は一気に動き出す。

 

 一気呵成。雷神のごとく。

 信奈は愛馬にまたがるや、前線へ向かって駆け出した。そのすぐ横を、銀髪の刃が並走する。風を切り、地を震わせる猛進。

 

「これが美濃との決着戦! 今日こそ稲葉山城を落とすのよ!!」

 

 その叫びに、織田軍の士気はさらに高まった。

 

 竹中半兵衛と西美濃三人衆が織田方に寝返り、斎藤家は内から瓦解しつつある。

 

 敗色濃い斎藤義龍は、稲葉山城に戻り防備を固めたが──

 

「かかれぇええええッ!!」

 

 織田家最強の猛将、柴田勝家が電光石火の勢いで突貫。金華山の南にそびえる要衝・瑞龍寺山砦を、瞬く間に陥落させる。

 

「おおおおおおッ!!」

 

 尾張勢の鬨の声が轟き、周辺の支砦が次々と落ちていく。

 

 信奈が中心となって指揮を執り、各軍団が怒涛のように山麓へ押し寄せる。

 

 やがて──

 孤立した稲葉山城の周囲には織田軍が完全包囲網を築いた。

 

「信奈様! 残る敵は稲葉山城のみ!」

 

「よし……今が勝負よ!!」

 

 残るは、金華山に取り残された難攻不落の稲葉山城──

 

 

 信奈は軍議の場に集まった家臣たちを見渡し、唇をへの字に曲げた。

「力押しでは時間がかかるわ。少数の手勢で城内へ潜入して内側から門を開けたいわね。誰か志願する者はいる?」

「生還の可能性は三十点です。ここは私が」

「あたしが突撃するよっ!」

丹羽長秀と柴田勝家がそれぞれ決死隊に志願するが、

「あんたたちが死んだらこの後、わたしが困るでしょ」と信奈は一言で却下。

 

 その中で、ふいに一歩、前に出る者がいた。

 

「お任せください、姫様」

 

「刃? 貴方も疲弊してるんだから、だめよ」

 

 信奈は不安げに目を細めながら、刃の顔を覗き込む。その頬にはまだ血の跡が残り、戦の痕が生々しく刻まれていた。斬られた衣の隙間からは、うっすらと肌が覗く。

 

「……確かに本調子ではありませんが、長時間の戦闘でなければ問題はありません」

 

 刃の声は低く落ち着いていたが、その言葉の奥に秘められた意志は鋼のように揺るぎなかった。

 

 信奈の眉がひくりと震えた。迷いと不安が混ざり合い、瞳の奥に火が灯る。

 

「で、でも……」

 

 ぎゅっと唇を噛み締める信奈。拳を握る小さな手が震えていた。

 

「姫様……」

 

 刃が静かに呼びかける。その声に導かれるように、信奈は小さくうなずいた。

 

「……分かったわ。気をつけて」

 

「御意」

 

 刃は一礼し、すぐさま振り返って良晴に声をかける。

 

「良晴、お前も来い」

 

「なっ……え、なんで俺!?」

 

「盾にするからな」

 

「嘘だろおおおお!?!?」

 

「冗談だ」

 

「冗談のレベルじゃねぇよおおおおおおお!!」

 

 絶叫する良晴をよそに、信奈はふっと微笑み、腰の瓢箪にそっと手を添えた。

 

「刃、これを持って行きなさい」

 

信奈がそっと差し出したのは、彼女が常に身に着けている、南蛮風の装飾が施された愛用の瓢箪だった。つややかな漆塗りの表面には、筆で丁寧に書かれた「信奈」の名が、どこか可憐な筆致で記されている。

 

「金華山には水の手がないわ。山頂まで行けば喉も渇くでしょうし……ちゃんと、冷やした井戸水を入れてあるの。飲みなさい」 

 

「……ありがとうございます、姫様」

 

 刃は深々と頭を下げ、両手で慎重にその瓢箪を受け取る。指先はどこまでも丁寧で、その仕草はまるで、神器を拝領したかのような崇敬の念に満ちていた。

 

 信奈の目が、柔らかく細められる。刃がその贈り物をどう扱うか──それを確かめるように、幸福そうに見つめていた。

 

 だがその一方で──

 

 そのやりとりを見ていた良晴の表情が、みるみるうちに凍りついていった。

 

「……俺のは?」

 

 おずおずと口にしたその問いに、信奈はぴたりと動きを止め、きょとんとした顔で良晴に振り向いた。

 

 そして、小首を傾げ、心底不思議そうに問い返す。

 

「……は?」

 

「いやいや、俺の水はって……」

 

信奈はまるで“何言ってるのこの人”と言いたげな顔で言い放った

「なに言ってんの? あるわけないでしょ?」

 

「え゛ッッ!?」

 

「刃も、サルには絶対にその瓢箪あげちゃダメだからね? これはわたしがいつも使ってる、大事な大事な瓢箪なんだから。サルなんかに渡したら──」

 

 信奈はそこで、わざとらしく顔をしかめて身をよじった。

 

「……臭いが移るじゃない。無理。無理無理無理」

 

「ちょっ……信奈!? 傷つくわ! 俺、ちゃんと毎日風呂入ってるし!? 手も洗ってるし!? なんで“排水溝のぬめり”みたいな扱いするの!?」

 

「むしろそういう必死な弁明してる時点で、もう臭いが確定してると思うのよね……?」

 

「なんだその悪魔みたいな詭弁ぇえええええ!!?? 論理が殺しに来てるうう!!」

 

「それにね、わたしの飲み口にサルの口が触れるとか……考えただけで全身に鳥肌が立つの。ゾッとする。生理的に。絶ッ対に無理」

 

「人間としての尊厳が……!尊厳がこの場で死んだぞ今!!なぁ刃、フォローしてくれ!今なら信奈も怒らない空気っぽいし!!」

 

涙目で縋りつく良晴に、刃は真面目な顔で答えた。

 

「……姫様のひょうたんだからな。無理だ」

 

「即答かあああああああああああああッッ!!!!」

 

 ズドン、と地面に膝をつく良晴。そこに追い打ちをかけるように、信奈がとどめの一言を放った。

 

「そもそもサルが刃と飲み回しするとか──わたしの目の前でやったら、マジでぶっ飛ばすから覚悟しておいて」

 

「独占欲が暴走してるううううう!!?? 俺の扱いと温度差が地獄級だぞ信奈あああああああ!!」

 

 

 

 

 

そして今、刃と良晴は、鬼門の山道を一気に駆け上っていた。

 

 道は狭く、傾斜は急。左右は断崖、落ちれば即死。しかも獣道であるため、足元もろくに見えない。

 

 だが――

 

「迷うなよ、良晴。ここが鬼門の裏道だ」

 

「言われなくても分かってる!ていうか俺、なんで来てんの!?」

 

 一つ目の崖をよじ登ったところで、良晴が肩で息をしながら愚痴をこぼした。汗だくの額から髪がべったり張り付き、顔はもう限界を訴えている。

 

「マジでおかしいだろ……なんで俺を連れてきたんだよ、刃……」

 

「決まってるだろ。万が一、俺が動けなくなった時のためだ。門を開ける奴は、最低でも一人いなきゃならん」

 

「そんなの五右衛門でいいじゃねえか!」

 

思わず良晴が声を荒げると、刃はちらと彼を見て、淡々と返す。

 

「筋力がいるかもしれんだろ」

 

五右衛門が、木の根元からひょっこり顔を出す。彼女の小柄な体は影に溶け込むように動き、気配一つ残さず先行して索敵を続けていた。

 

「だいたいお前らさ、さっきから敵に気づかれずに次々と……いや、むしろ何人倒してるんだよ!? 俺がひと息ついてる間に、何で目の前の死体が増えてるんだよ!? ホラーかよ!?」

 

良晴の慄き混じりの声に、刃が小さく答える。

 

「俺が四。五右衛門が六だ」

 

「コエエエエ!!」

 

 良晴の叫び声を、刃は無視する。

 

 この防御の薄い鬼門の山道にも、いくばくかの見張り兵は配置されている。しかし、そのすべてはすでに静かに、迅速に処理されていた。刃の一太刀、そして五右衛門の苦無や手裏剣。

 

 血の臭いは風に流され、死体は木陰に引きずられ、誰にも気づかれることはない。

 

「……行くぞ。まだ先は長い」

 

 刃が静かに言い放ち、ふたたび前へと歩を進める。

 

 その背中を追いながら、良晴はぼそりと呟いた。

 

「ほんとに……何で俺が来ちゃったんだろうな……」

 

「うるさいぞ、良晴。後悔する前に、せめて足音くらいは消せ」

 

「くっそおおおおお、俺の扱いだけどんどん悪くなってる気がするぅぅぅぅ!!」

 

 稲葉山城――難攻不落の牙城を開く、その第一歩が、今まさに静かに進行していた。

 

 

 

 

「……まだ、刃からの合図はないの?」

 

 信奈は床几に腰掛けたまま、焦れたように片足を揺らしていた。無意識の癖のように、軽く噛んだ唇には血の気がなく、宙を睨む茶色の瞳が、募る不安をありありと映し出している。

 

(もし……もし、刃が討たれていたら……)

 

 一瞬、心をかすめた最悪の想像を、慌ててかき消す。

 

(そんなはずない。刃が、負けるわけない……でも……)

 

 焦燥と疑念が胸の奥で渦を巻き、感情の波が静かに肩を震わせる。戦装束の上からでもわかるその微かな震えに、隠しきれない本心が滲んでいた。

 

 その時だった――

 

「姫さまっ!!」

 

勝家が駆け寄ってきて、力強く信奈の横に膝をつく。

 

「あれを! あれを御覧くださいっ!」

 

「……え?」

 

 勝家の指差す先、金華山の中腹――二ノ丸のあたりに、夕陽を受けてキラリと光る何かが見えた。

 

 それは、ひょうたん。

 

 信奈が刃に託した、自分の名が書かれた愛用のひょうたんだった。

 

 ひょうたんは槍の穂先にくくりつけられ、高々と振り上げられていた。

 

合図だ。成功の証。門は、開かれたのだ。

 

信奈の目に、みるみるうちに涙が溜まる。それをぐっと堪えるように、椅子を蹴るように立ち上がり、深く、大きく息を吸い込む。

 

 そして──

 

「勝ったわよ、六ッ!!!」

 

 信奈の叫びは、戦場の空気を一瞬で塗り替えた。凛とした声が、陣の隅々まで突き抜け、兵たちの魂を震わせる。

 

「門が開いた! 今こそ、総攻めよ!!」

 

 号令とともに、ついに軍が動き出す。

 

 夕陽の中、織田の軍旗がいっせいに翻り、難攻不落と謳われた稲葉山城の心臓部へと、怒涛のごとく殺到していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

万千代こと丹羽長秀は、金華山の麓に布陣。

稲葉山城の城門周辺を手勢で包囲し、信奈の城攻めを静かに見守っていた。

「悲願の稲葉山城攻略まで、あと一息。満点です」

 

そう独りごとを言った直後だった。

 

突如、彼女の前に現れた見知らぬ軍勢。まともに道を進み、包囲線に食い込もうとしてくる。

 

 その旗印は――浅井の三つ盛り亀甲。

 

 そして先頭に立つのは、若き浅井長政。その美貌を歪め、焦りと苛立ちを隠しきれぬまま、馬首を長秀の方へ向けていた。

 

「この浅井長政、信奈どのの美濃攻めに加勢いたします!」

 

 響き渡るその声には、明らかに“遅れてきた者”の焦燥があった。

 

 加勢の知らせなどなかった。兵の数も少ない。おそらく、信奈が電光石火で美濃に攻め入ったと聞き、「このままでは尾張が近江を呑む」と慌てて駆けつけたのだろう。

 

手柄泥棒とはまさにこのことだった。

また、長政には、陰で義龍の稲葉山城奪回を助けたという秘密がある。 一刻も早く義龍をこの手で討たなければ、二枚舌の陰謀を信奈に暴かれかねない。

 

「どうなされた、丹羽どの。道を開けられよ!」

 

 珍しく、語気が荒い。普段なら涼やかな笑みで女性を気遣う長政の、その焦りはあまりに露骨だった。

 

 だが、丹羽長秀は動じない。

 

 騎馬のまま、浅井軍の前に静かに馬を進める。

 

 その柔らかな笑顔とは裏腹に、視線には剣のような鋭さが宿っていた。

 

「浅井どの。姫より、この丹羽長秀、はっきりと命を受けております」

 

「……命?」

 

「はい。『この戦は、天城刃と相良良晴の戦。卑劣にも割り込もうとする者は、誰であろうが問答無用に斬り捨てよ。たとえ浅井長政であろうとも』──と」

 

 腰の刀へと伸びる長秀の指。その動きに、一切の無駄はなく、周囲の織田兵たちもまた、槍を構え、浅井軍を囲むように動く。

 

 張り詰めた空気が、静かに重みを増していく。

 

「……わ、私を斬れば、浅井家は織田家の不俱戴天の敵となるぞ!」

 

 長政が吐き捨てるように言った。

 

 だが、その言葉すら、長秀には届かない。

 

「仕方ありますまい。姫様には、すでにそのお覚悟があるご様子。織田家がここまで来られたのも、刃どのや相良どのが命を張って成した数々の奉公があってこそです」

 

 微笑みながら、長秀は静かに続けた。

 

「最後の最後に、名も知らぬ加勢が現れて手柄を奪おうとすれば――彼らの武功は、泡と消えてしまう。姫様は、それを“無念”とお考えなのです」

 

 長政の顔が引きつる。だが、言い返す言葉がない。確かに、今まさに命をかけて潜入している刃たちの行動は、信奈の“信”に応えてのものである。その場にない者が、手柄だけ持ち去るなど、もってのほかだ。

 

「……くっ。なんとしても、私とは結婚せぬおつもりか……!」

 

 絞り出すように呻いたその声には、もはや矜持も何もなかった。

 

 だが、長秀は、にっこりと笑って。

 

「当たり前でしょう、長政どの」

 

 ――その言葉に、周囲の織田兵がどよめく。

 

「長政どのが、刃どのに勝っているのは……家柄だけです。武も、智も、器も──比べるまでもない。姫に相応しいとは、到底思えません」

 

「貴様……っ! そのような勝手が、許されると思っているのか! 浅井との同盟は!? 天下はいかがなさるおつもりか!」

 

 苛立ちを隠せずに声を荒らげる長政に対し、長秀は眉ひとつ動かさず、逆に静かさを深めていく。

 

「さて……うちの姫は、まだ子供っぽいところもございまして。気に入った相手にはとことん真っ直ぐなんですよ。我が軍最強にして、ご自身の懐刀、そして恋人でもある刃どのが──好きで、好きで、仕方がないようでして。刃どのに理不尽な危害を加えるものがあらば、癇癪を起こして浅井家も天下も平気で投げ捨てるかもしれませんね」

 

 言葉を切ると、長秀は小さく目を細め、長政を見据えた。

 

「こ、恋人だと……!? 冗談も大概にしろ!」

 

 思わず上擦った声をあげた長政に対し、長秀はあくまでも淡々と、しかし一言一言に重みを込めて続けた。

 

「冗談などではありませんよ。そして、刃どのも──恋人である我々を、心から大切にしてくださっているのです。

 姫、犬千代、そして……この私のことも。誰であろうと、我らを侮辱し、脅かす者には……容赦なさいませんよ」

 

 長秀の言葉が静かに響いた瞬間、ざわ……と広間の空気が揺れた。

 側に控えていた浅井家臣団の面々が、思わず顔を見合わせ、緊張の色をあらわにする。

 

 だが、次に発せられた長政の言葉は、皮肉と侮蔑に満ちていた。

 

「……足軽風情に、三人もの姫武将が嫁ぐなどと……馬鹿げたことを。織田も随分と落ちぶれたものだな」

 

 場の空気が、瞬時に凍りつく。

 

 丹羽長秀は、しかし微笑一つ動かさなかった。ただ、静かに、怜悧な光を宿した瞳で長政を見据え──冷ややかに言い返す。

 

「いかに蔑まれようと──私たちは、刃どのを心から慕っております」

 

 その口調に、激情はない。ただひたすらに、凛とした断言の重みだけが宿る。

 

「“織田が落ちぶれた”?──とんでもない」

 

 扇をひとつ、静かに打ち合わせ、長秀は鋭く言い放つ。

 

「我らは手に入れたのです。この乱世を終わらせうる、“本物の覇道”を歩む者を。──天城刃どのという、唯一無二の切り札を」

 

「っ……確かに、あの男は強い……だが! しょせん足軽。体裁というものもあるでしょう! 格が釣り合わん!」

 

 苛立ち混じりに反論を投げつける長政に、長秀はわずかに目を細めてから、淡々と返す。

 

「体裁──? そんなものを気にして、刃どののような御方を手放す方が、よほど狂っている。愚の骨頂。愚昧の極みとすら言えましょう」

 

「な……何だと!」

 

「それに、“格”……ですか。──ええ、確かに違いますね。格が違う」

 

 長政がわずかに安堵の色を見せた瞬間、その虚を突くように、長秀の言葉が叩きつけられる。

 

「──我らの方が、格下です」

 

「……な、に……?」

 

「何か、勘違いなさっていませんか? 長政どのは刃どのを"しょせん足軽”と見た。ですが、我々は──自らを、あの御方に“選ばれた側”だと認識しています」

 その声音には、冷徹な現実と、誇りが込められていた。

 

「刃どのが味方であるか、それとも敵であるか……その違いだけで、天下への道のりは根底から変わるのです。

 もとより険しい天下取りの道が、刃どのが敵に回れば──“不可能”と言って差し支えない」

 

 長政が言葉を探す間も与えず、長秀は畳みかける。

 

「我が軍最強──それすらも、あの御方の実力を表現するには足りません。この日ノ本に、刃どのほどの御方が他にいるとお思いですか?」

 

「……い、いるだろう。多少刀が使える兵くらい……いくらでも……!」

 

 苦し紛れの反論。

 

 だが、それを断ち切ったのは──凍てつくようなひと言だった。

 

「──いませんよ。断言できます」

 

 その瞬間、空気が張り詰める。微笑すら消えた丹羽長秀の表情は、まるで氷でできた仮面のようだった。

 

「“多少刀が使える”程度の兵……?ああ、そういう兵は山ほどいるでしょう。しかし、刃どのが多少刀が使える程度の兵、ですか」

 

その語気に、長政も言葉を呑み込むしかなかった。

 

「……長政どのは、あの御方の“格”を、まるで理解していない」

 

 丹羽長秀の声は、低く、鋭く、氷の刃のように切り込んだ。

 

 そして、手にした扇がすっと掲げられ──

 その白扇がゆるやかに空気を裂きながら、長政の視線を真っ直ぐに射抜いた。

 

「尾張一の猛将・柴田勝家どのを、手加減しながら一蹴。

 長良川では六百、桶狭間では今川軍の猛将・朝比奈泰朝率いる五百を、いずれも単独で討ち取り……」

 

 長秀はひとつ息をつき、静かに言葉を続ける。

 

「そして、今回の墨俣。

 一夜にして築城を成し遂げただけでなく、姫の到着までの半日間──斎藤義龍軍八千を、相良どの率いるわずか百名と共に食い止め続け……」

 

 長秀の目が細く鋭くなる。

 

「刃どのご自身は、相良どのの忍びと二人で敵中に突撃し、僅か二人で──二千を討ち取りました」

 

 沈黙。

 空気が一瞬で変わった。

 長政の顔から血の気が引き、その場で硬直する。周囲の家臣たちもざわつき、誰もがその意味を理解しきれず、恐れと混乱に呑まれていた。

 

「ば、馬鹿な……に、二千だと……!? しかも……た、たった二人で……!?」

 

 震える声に、長政の家臣たちもざわつき始める。

 動揺が広がり、それを言い返すだけの“理”を、誰も持ち合わせてはいなかった。

 

 長秀はそんな反応を一瞥したのち、静かに、鋭く言い放つ。

 

「刀を握れば一騎当千。知略においては、並の軍師を遥かに凌駕する。

 そして、絶対に主を裏切らぬ忠義を宿し、かの道三どのですら──“天に望まれ、覇王となるべく生まれた男”と称したほどの器の持ち主」

 

 その声は、もはや宣言に等しかった。

 

「格が違うのですよ、刃どのは。戦場一つを、国一つを、たった一人で変えてしまう」

 

 言い切るその声音には、わずかな誇張も、嘘もなかった。

 

長秀は最後に、とどめを刺すように言い放つ。

 

「しかも今では、あの竹中半兵衛までもが、刃どのの家臣として仕えているのです。

 軍略も武勇も忠義も、すべてを備えた武人。

 そんな御方を、欲しがらぬ大名など存在しない。

──自らの娘を、あるいは己を差し出してでも手に入れたいと、誰もが思うでしょう」

 

 その場には、言葉を発する者など一人もいなかった。

 丹羽長秀の静かなる宣言に、全ての者が圧倒され、ただ──静寂が支配していた。

 

──敗北だ。理屈では、完全に負けた。

 

 浅井長政は歯を食いしばりながら、ぎり……と唇を噛み、沈黙のまま目を伏せた。

 

 その時、長秀が一歩前に出て、ゆるりと扇を畳みながら、穏やかに言った。

 

「ここは兵を退かせよ、長政どの」

 

 長政は、しばし押し黙った後──声を低く絞り出す。

 

「……承知。しかし、我らがはるばる美濃まで足を運んだのだ。せめて、信奈どのの正式な返答だけはいただいて帰る。わたしと結婚することでの浅井家との同盟、是か非か──今日、この場で白黒つけてもらおう」

 

 静まり返る空気の中、長秀はわずかに目を細めた。

 その言葉が、最後の足掻きであることを、すでに見抜いている。

 

「……よいでしょう。勝ちすぎれば恨みが残りますからね。まもなく戦は終わります。のちほど、旗本だけを連れて信奈さまの本陣へ参られよ」

 

 そう告げて扇をたたむと、長秀はそれ以上、何も言わなかった。

 

長政は

「織田家を吸収して天下に打って出るという我が野心、まだあきらめてはいない」

とつぶやきながら屈辱に耐え、うなずいた。

 

 

 

 

 

刃と五右衛門は守備兵を暗殺しつつ迅速に、良晴はその光景にドン引きしながらも二人と共に丑寅のけもの道を登りきり、夕暮れに乗じて二ノ丸へと潜入。

一足先に突入した五右衛門が「たどん」を投げまくって守備兵たちを混乱させている隙に、良晴は二ノ丸の城門を内側から開放した。

刃ら煙幕の中を駆け抜け、後に「天狗岩」と呼ばれることになる高い頂に登ると、信奈から預かったひょうたんを長槍にくくりつけて高々と夕焼け空へ掲げていた。そこからは、あっという間だった。

 

柴田勝家が鬼神の如き槍働きを見せ、怒濤の勢いで城門から突入して二ノ丸をたちまち占領。

義龍は山の中腹にある本館に立て籠もっていたが、二ノ丸そして山頂に織田軍の旗が次々と翻るのを見て「すべて終わった」と驚きあきらめ、ついに降伏を決意した。

信奈はここに、父・信秀の代からの悲願であった美濃を、奪い取った。

 

美濃の新たな国主となった信奈は真っ先に、尾張の屋敷で隠居している蝮こと斎藤道三に「至急美濃へ」との早馬を飛ばした。

うつけ姫だ乱暴者だと噂に聞いていたのとは大違い。織田軍の統制の取れたこと。

「町の人に無礼を働いた者は皆打ち首にするわよ。刃も見つけたら首を刎ねなさい」と信奈が布告したため、尾張兵は信奈と刃を恐れて誰一人乱取りなど行わない。

「おそがい姫やと聞いとったが、意外に名君やがね」

「馬で通りかかった信奈さまは、ええ香がしよったわ」

井ノ口の町の人々は信奈を歓迎した。

新しい主を迎えた稲葉山城と井ノ口の町に、夜のとばりが下りはじめていた。

 

 

 

 

 

 

「あれ? お前、前鬼じゃねーか。半兵衛ちゃんはどこだよ?」

 

 狐顔の男は、涼しい顔でにたりと笑った。

 

「主は荒くれ武者どもがお嫌いな様子でな。俺が代わりに、竹中半兵衛として信奈どのに目通りいたそう」

 

「無理だぞ」

 

「……むり」

 

 良晴と犬千代が、即座にぴしゃりと否定。

 

「ん? なぜだ?」

 

「刃が馬鹿正直に、“半兵衛ちゃんは十四歳の少女だ”って言っちゃったんだよな〜。おかげで誤魔化しようがないのさ。でも……時間ねぇな」

 

 そう言って良晴は天を仰ぐ。

 

 評定が始まる刻限はすぐそこまで迫っていた。もう後には引けない。

 

「もういい、面倒だ! とりあえず行こう!」

 

「……ころされても、もんくいえない」

 

 犬千代がぼそりと呟きながら、三人は急ぎ評定の間へと向かう。

 

 

 

 すでに、織田家の重臣たちは広間にずらりと並んでいた。

 

 上座では、信奈が指先で地球儀をくるくると回している。

 

「竹中半兵衛重虎、連れてきたぜ」

 

 良晴が名乗りを上げると、狐面の前鬼が悠然と一歩前へ。まるで主君のような態度で頭を下げた。

 

「……この者、間違いなく半兵衛」

 

「デアルカ」

 

 まったく悪びれた様子もなく、前鬼は口元に薄笑いを浮かべていた。

 

 その様子に、信奈のまなざしが冷たく光る。

 

「刃? 聞いてたのと違う奴が来たんだけど……なんでかしら?」

 

 背後に控える刃へ、冷ややかな声が飛ぶ。

 

「申し訳ありません、姫様。私にも分かりません。半兵衛には“必ず出仕せよ”と命じたのですが……」

 

 刃は深々と頭を下げ、申し訳なさそうに目を伏せる。

 

 信奈は一拍置いてから、ふっと息を吐き──

 

「いいのよ。わざとじゃないならね」

 

 その言葉とほぼ同時、小姓が控えていた種子島をさっと抜き取り、信奈はまるで扇でも払うように、無造作に引き金を引いた。

 

「──ばんっ!」

 

「「「ええええええっ!?」」」

 

 家臣一同、反応すら追いつかず、ただ驚愕の声を上げた。

 

 こーん、と前鬼がひと鳴きして、頭から煙が吹き出す。次の瞬間、ぼふっと音を立ててその姿が煙の中に掻き消えた。

 

「お、おわっ!? 信奈、お前……無茶苦茶するなああああっ!?」

 

 良晴が慌てて前へ出る。

 

「サル、そいつ替え玉の……敷き紙でしょ」

 

「式神な!? 敷き紙って何だよ、旅館かよ!」

 

 信奈は銃身を指で冷ましながら、じろりと良晴を睨みつける。

 

「あんた、分かってて連れてきたでしょ。刃に斬られても知らないわよ?」

 

「……斬りましょうか?」

刃が立ち上がり良晴に近づいていく。

「やめて!? というか犬千代も一緒だっただろ!? 連帯責任ってやつだ!」

 

 慌てて隣を見ると──

 

「俺が犬千代を斬るわけないだろ」

 

 刃が涼しい顔で即答し、良晴は頭を抱えた。

 

「おいおい……俺だけかよ、割り食ってんの……!」

 

刃は良晴の横を通過して良晴の後ろにある柱に近づく。

 

「……半兵衛、そこにいるのは分かってる。出ておいで」

 

 やわらかな声音で呼びかけながら、刃は柱の影にそっと手を伸ばす。

 

 すると次の瞬間――

 

「はううぅううぅううぅぅ……っ!」

 

 がちがちがちがちがちがち、と文字通り歯の根が合わない音を立てながら、小さな体が柱の裏からひょこりと顔を出した。

 

 目元は真っ赤に腫れ、今にも泣き出しそうな表情。涙をいっぱいに浮かべたまま、半兵衛は刃の背中にすがりつくように隠れた。

 

「あわ、あわ、あわあわあわ……い、い、い、いぢめられ、いぢめられ……」

 

「お、おう……!? どうしたんだ半兵衛ちゃん!?」

 

 思わず良晴が素っ頓狂な声を上げる。

 

「その戦場での凜々しい軍師姿はどこへっ!? 墨俣じゃもっとシャキッとしてただろ!?」

 

 しかし、半兵衛は一歩も前に出ようとしない。刃の羽織をきゅっと握りしめたまま、ぶるぶると震えている。

 

「うう、信奈さま……話す前に撃ってきたんですよ……こわい……し、式神で試す暇もなく、すぐ鉄砲……!」

 

 どうやら彼女は、初対面の相手にはまず式神を使って「いじめっ子かどうか」確かめないと、怖くてまともに喋れないらしい。

 

 ──とはいえ、そんなダメな子ほどかわいいとはよく言ったもので。

 

(刃は信奈に従順だからな……守ってやるのは、俺の役目だ!)

 

 そんな謎の正義感に駆られた良晴が、今度は信奈に詰め寄る。

 

「おい信奈! 人様に気軽に種子島向けんじゃねーっ! 繊細な半兵衛ちゃんがビビり散らかしてんだぞ!?」

 

「はぁ? 何が“繊細な半兵衛ちゃん”よ。わたしはてっきり、金華山に生息してる子栗鼠かと思ったんだけど?」

 

「いやいや、お前こそ! しょっちゅう猿回しみたいな格好で町を練り歩いてんじゃねーか。リスどころか大道芸の大将だろそれ!」

 

「なによサルっ。そんな山奥の小動物みたいな子に、やけに優しいじゃないの。……まさか、わたしにケンカ売ってるわけじゃないでしょうね?」

 

「売ってねぇよ! でもな、仕官が決まった家臣に銃口向けんのはヤバいって! 暴発したらどうすんだよっ!」

 

 良晴の抗議の声が響く中、信奈は頬を膨らませてそっぽを向きつつも、額にはうっすらと青筋が浮かんでいた。

 

「そんなへまするわけないでしょッ。──ねぇ、刃? わたしがちょっと目を離した隙に、あなたは何をしてるのかしら?」

 

 振り返った信奈の目に映ったのは──

 

 いつの間にか彼女の背後に戻っていた刃が、静かに正座したまま、自身の膝にちょこんと半兵衛を乗せ、その柔らかな銀髪をゆっくりと撫でている姿だった。

 

「……半兵衛を落ち着かせようとしていました」

 

 刃はあくまで平然と、穏やかな口調で答える。

 

「……膝に乗せて、頭を撫でる必要があるのかしら?」

 

 信奈の目が細く鋭くなり、背後でぱきんと音を立てて何かがひび割れる気配すらある。

 

「他の方法でもよかったのですが、半兵衛がこれを望んでいたようでしたし──何より、嬉しそうだったので」

 

 と、刃はさらりと微笑を浮かべた。

 

「……っ!!」

 

 信奈のこめかみがぴくりと跳ねた。言葉にならない怒りの波が押し寄せている。

 

「刃ッ! 火に油を注ぐなってばぁぁぁっ!!」

 

 良晴があわてて声を張り上げる。

 

「犬千代と長秀さんも明らかに不機嫌になってるから!? 空気!空気を読めぇぇぇっ!!」

 

 視線を巡らせると──

 

 部屋の隅でじっと立つ犬千代は、「……む」と口を引き結び、じとりと刃を見ており、

 

 その後ろに控えていた長秀は、いつも冷静な笑みを浮かべているはずが、今に限っては扇をピシリと閉じて口元を固く引き締めていた。

 

(やばい……これ、戦より危険な女の戦場だ……)

 

 良晴が冷や汗をだらだら流している中、刃だけはどこ吹く風とばかりに半兵衛の頭を撫で続け──半兵衛本人もまた、ぴとりと刃に身を預けながら、安心しきった顔でほにゃりと笑っていた。

 

「……すごいな、刃。戦でも女の修羅場でも無傷で生き残るタイプだ」

 

 良晴はそう呟きながら、信奈の背中に立ち上る黒いオーラに戦慄した。

 

「ほら半兵衛、誰に仕えるのか自分の口でさっさと言いなさい。わたしが直接小姓として雇ってあげて、息絶えるまで鍛え抜いてやってもいいわよ」

 

「え、え、遠慮します、の、の、信奈さまは、こ、恐いです。い、いぢめ、いぢめられます……」

 

 半兵衛は、刃の膝の上でぶるぶる震えながら、必死に答えた。

 

「あら、そう。それじゃ、勝家の下で槍働きってのはどう?」

 

「そんな気弱なことじゃ戦場で生き延びられないぞっ! あたしが地獄の修行でとことん鍛え直してやろう、きえええええーっ!」

 

 勝家は突然庭へ飛び出すと、長槍をぶんぶんと振り回し、松の大木に一閃を叩き込んだ。

 ズバァン! という音とともに木が根元から断ち切られ、ずどどどどどん……と池へなぎ倒れていく。

 

「ぜぜぜぜ、絶対に嫌ですっ!! あう、あうあうあうああう……!」

 

 半兵衛が半泣きになって、さらに刃にしがみつく。

 

「ふっふっふっ……知恵者といえばこのワシよ!」

 

 今度は縁側から、いつの間にか上半身裸になった斎藤道三が登場。肩にかけた着物を脱ぎ捨てながら、仁王立ちして笑う。

 

「我が悪逆の謀略、すべて半兵衛どのに授けてやってもよいぞ、よいぞ。──じゃが、まず必要なのは……気合いじゃあああ!!」

 

 咆哮と共に、道三は庭の巨石を持ち上げ──

 

「ふんぬっ!!」

 

 ずおんっ!! 

 

 石は池に叩き込まれ、ばっしゃあああんと巨大な水柱が上がる。

 

「ひいいいいいっ……! えぐっ、ぐすっ、ぐすぐすっ……」

 

 「ああこらッ!! お前ら!! 半兵衛ちゃんを脅かすなよぉぉぉぉおおおッ!? 泣き出しちゃったじゃねーかああああああああッ!!!」

 

 良晴の絶叫が、まさに空を切り裂く。

 

「お前ら……このタイミングで戦闘力アピールとかすんなって!! 稽古か!? 儀式か!? 誰の心に響いてんだよそれ!!」

 

その時、半兵衛がすすり泣きながら顔を上げる。

 

「刃、さん……ぐすっ、みなさんが……いぢめてきます……ぐすっ、こわい、です……ぐすっ、たすけて、ください……」

 

 ぽろぽろと涙を流し嗚咽を交えながら、半兵衛が刃の胸元にぎゅっと顔を埋める。細い肩が小刻みに震え、袖を掴む手が今にも泣き崩れそうなほど力なくしがみついていた。

 

「は、半兵衛ちゃん!? だ、だめだそれはァァァァァァァ!? 刃、キレちゃうからッ!? ガチギレモード入っちゃうからァァァ!? 勝家と爺さん死んじゃうからあああああ!!」

 

良晴の顔が真っ青になる。彼は全力で叫んだ。だが──

 

「勝家、道三──後で話がある」

 

 刃の声は冷たく、静かだった。だが、その静けさが逆に恐ろしい。背筋に氷柱を滑らせるような声音に、場の空気がぴたりと止まった。

 

「ひっ……」

 

 勝家が思わず息を呑む。いつも豪胆な彼女の眉間に、見る間に脂汗が滲み始める。

 

「な、なにかワシら……まずいことを……?」

 

 道三の方も、額をピクピクと引きつらせながら、少しずつ後ずさる。

 

 だが、刃の声はさらに低く、重く響いた。

 

「なに──少しだけ、稽古をつけてやるだけだ。勝家には刀。道三には体術を。それぞれ、俺から一本取れたら終了……それだけの話だ」

 

 ぞわり。

 

 殺気が、音を立てるように空気を震わせた。

 

 刃は優しく半兵衛の髪を撫でながら、それとまったく同時に二人の周囲へ向けて、研ぎ澄まされた怒気を解き放った。双極の気配が同時に存在する、その不自然な異質さに──誰もが息を呑んだ。

 

「やっぱりだァァァァァァァァ!? 刃!落ち着け!? それ絶対終わらないからな!? お前から刀と体術で一本取るとか、現実的に不可能だからな!? いや確かに、あの二人が悪いけどさぁ!?」

 

 良晴が泣きそうな声で叫ぶが、刃の表情は一切揺るがない。

 

「それで問題ない。アイツらは半兵衛に、“恐怖”を植え付けた。戦場に立つ者として、その責任は果たしてもらう」

 

「なあ!? なんでお前はそこまでロリに甘いんだよ!? 過保護すぎだろ!? おかしいだろ!?」

 

「悪いか?」

 

 刃は即答した。わずかに視線を動かし、膝に座ったままの半兵衛を見下ろす。彼の目は限りなく優しく、穏やかだった。

 

「……ああもう……っ!」

 

 良晴は頭を抱える。

 

「何も言えねえ……! だって可愛いもんなあああああッ!! 半兵衛ちゃん、可愛いもんなあああああああッ!! でもな!? そういう問題じゃないからな!? 今、勝家が……!」

 

 ちらりと横を見ると──

 

 勝家はすでに正座していた。しかも土下座寸前の角度で、ぷるぷると震えながら顔を上げられずにいる。

 

 道三に至っては、諸肌脱ぎかけた衣をそっと着直しつつ、ものすごく遠くを見ていた。

 

「てかもう、土下座しても許されねえ空気になってるからな!? ほんとどうすんだよこの修羅場ッ!!」

 

「……その程度で許されると思うな。そんな弱気じゃ、戦場で生き延びられん」

 

 刃は静かに、しかし冷徹に言い放った。

 

 そして──そのまま微笑する。

 

「そうなんだろ?なぁ、勝家? 気合いが必要なんだろう?なぁ、道三?」

 

 その言葉に、勝家の頬が引きつる。

 

「……か、覚悟は、してる……うん。気合い、入れる……!」

 

 道三は肩を落としながら、うなだれた。

 

「……ワシが悪かった……いや、ほんに悪かった……もう戦国の世で気合いとか言わんから許してぇ……」

 

 良晴は、心の底から思った。

 

(お願いだから誰かこのカオス止めてくれぇぇぇぇ!!)

 

 

 

 

良晴は、肩を落とし絶望に染まった道三と勝家を両肩から無理やり引っ張り起こし、そのまま強引に畳の上へと正座させた。

 

「お前らなぁ……相手があの半兵衛ちゃんだぞ!? 戦場では鬼才でも、日常生活じゃ完全に豆腐メンタルなんだから! なんで揃いも揃って全力で追い詰めてんだよっ!」

 

「ぐっ……ぐぐぐ……」

 

「……だって、泣くほどとは思わなかったんじゃ……」

 

 言い訳がましい道三と勝家の声は、もはや蚊の鳴くようなかすれ声。

 

「要は“いじめられっ子”ってわけね」

 

 信奈が腕を組みながら、ため息交じりに冷たく言い放った。

 

「道理で、どんなに利口でも蝮に仕えなかったわけだわ……なるほど、納得。よし、だったら──ここはわたしが直々に! 死の調練で鍛え直してあげるッ!!」

 

 ぎらりと瞳が光る。信奈の背後に、なぜか“鬼”のオーラが立ち上がる。

 

「ぐすんぐすん……刃さんと一緒じゃなきゃ、わたし……隠遁しますぅ……。刃さん、織田家のひとたちはみんな……いぢめっ子です……!」

 

 声は震え、目元はぐしゃぐしゃ。竹中半兵衛は刃の膝の上で、小さな肩を震わせながら、顔を胸元にうずめていた。泣きじゃくる姿はあまりにも無垢で、まるで傷ついた子猫のように弱々しく、今にも壊れてしまいそうだった。

 

 刃の袴を握る指先は力を込めたまま離れず、涙で濡れた頬が彼の肌に押しつけられる。そのぬくもりにすがるように、半兵衛は繰り返し、低く鼻をすすった。

 

 その姿に周囲が戸惑いの色を濃くする中――刃は、平然とした声で静かに口を開いた。

 

「ふむ……姫様を除いた全員の性根と武力を、俺が鍛え上げてみるか。足軽達も鍛えれば、軍全体の底上げにもなる」

 

 あまりに自然に発せられたその言葉に、場が凍りついた。

 

 誰もが一瞬で理解した。これは冗談ではない。刃の言葉は、理屈も根拠もあった上で、完全に本気だったのだと。

 

 ──沈黙。

 

 そして、その沈黙を突き破ったのは、いつもの男だった。

 

「ちょっ!? ちょちょちょちょっと待ったああああああああッ!!」

 

 相良良晴が血相を変え、両手をばっと振り上げて叫ぶ。

 

「なにさらっと“全員まとめて鍛える”って言ってんだよ!? 今の、完全に“更生施設の所長”のセリフだったからな!? 織田家っていつから強制トレーニング制になったんだよ!? てか俺、そんな承認出してねぇぞ!?!?」

 

 空気がざわめき始めた。

 

「待て待て待て! 姫様以外全員ってことは、つまり――ねねも!? 俺も!? 犬千代も!? 長秀さんも!? あそこにいる足軽たちも!? いやおかしいだろ!? 人材総動員で鍛え始めたら織田軍止まるからな!? 全員筋肉痛で動けなくなる未来しか見えねぇぞッ!!」

 

 良晴のツッコミが冴えわたる中、刃はごく真剣な目で頷く。

 

「だが、俺が鍛えれば……誰も半兵衛をいじめられなくなる。一石二鳥だろう」

 

 真顔。完全な確信。

 

「発想が斜め上ェェェェェェェェェェェッ!!いや確かに理屈は通ってるけどぉぉぉおおおお!?それ、教育って名の粛清だからな!?根本的な優しさのズレがえげつないんだよお前はァアアア!!」

 

「……冗談だ」

 

 ようやく、刃が一言だけつぶやく。

 

 場に安堵が広がる……が、その直後。

 

「やるにしても、稽古をつけるのは勝家と……男どもだけだ」

 

 ──再凍結。

 

「なっ……な、なんであたしがその“男ども”にカウントされてるんだッ!? あたし、れっきとした女だぞ!? 姫武将だぞ!? サルーッ! 助けてええええっ!」

 

 勝家が顔を真っ赤に染め、あられもない悲鳴を上げながら良晴の袖にしがみつく。普段の豪胆な態度はどこへやら。

 

「いや、俺も完全に被害者だから!? なんで俺が男子代表みたいになってんの!? お前、マジで一回“男女平等”って単語を調べろ刃! あれ、現代の常識だぞ!?」

 

 しかし刃は、まるで本気で意味がわからないといった顔で、首をかしげた。

 

「?何言ってるんだ、良晴。男は女を守るもんだろうが」

 

 平然と、真顔で、何のてらいもなく言い切った。

 

 ──その瞬間、空気が止まった。

 

 無垢すぎる正論。どこまでも真っ直ぐで、どこまでも自然。だがあまりに重く、あまりに突き刺さる。

 

あまりにまっすぐで、あまりに無垢な言葉だった。剣のように直線的で、飾りも打算もない。ただ“それが当たり前”だと、信じ切っているような声。

 

 信奈は、思わず口元を押さえた。心臓がきゅっと締め付けられる。

 

「……うぅ」

 

 犬千代はそっと俯き、頬を赤らめながら視線を逸らす。

 

「さ、さすが刃どの……ま、満点です……!」

 

 長秀は赤面しながらぷるぷると震え、耳まで真っ赤にしていた。

 

 そして、半兵衛――。

 

 刃の膝の上で、まるで焼けつくように真っ赤な顔を隠しながら、小さく、でも確実に震えていた。

 

 全員の心に、刃の“真っ直ぐすぎる正論”が突き刺さっていた。

 

「うっ……その、正論めいた歪んだ思想……やめろ……!」

 良晴が仰け反りながら呻く。

「な、なんか、妙に納得しそうになるだろ!? そういう“王道”みたいなことを、真顔で無邪気に言うの反則だろぉおおおおッ!? 当たり前じゃねぇんだぞぉおおおおおッ!!」

 

 だが刃は、なおも表情を崩さずに言い切った。

 

「あ? 自分の女一人満足に守れない男とか、価値ないだろ。どんな状況でも命賭けで守るのが当然だろうが、何腑抜けたこと言ってんだ」

 

 ──完全なるとどめ。

 

 勝家を除いた全員の女子陣が、顔を真っ赤に染め、視線を刃から逸らせなくなっていた。

 

「刃ェェェェェェェェッ! とどめをさすなってぇぇええええええッ!!」

 

 良晴の悲鳴が上がる。

 

「信奈達を見てみろ!? 真っ赤になって完全にフリーズしてるじゃねぇか!? あれ、思考停止だからな!? 熱暴走してるからな!?」

 

 しかし刃は、まったく悪びれることもなく、平然と応じた。

 

「当たり前のことを言っただけで、なんで怒ってくるんだ、良晴」

 

 その目は真剣で、どこまでも本気だった。

 

そして、静かに刃が信奈に向き直る。

 

「では、姫様。半兵衛は私の与力ということでよろしいですね?」

 

 その冷静な口調に、信奈の頬がぴくりと跳ねる。

 

「……むかつくわね。ま、いいわ。これからは刃の軍師として務めなさい。ただし――」

 

「ひぅっ!? ……ぶるぶるぶるぶる……!」

 

 半兵衛がびくりと肩を震わせる。信奈はぎゅっと拳を握り、きつく言い放つ。

 

「……あんまり刃とべたべたするんじゃないわよ! 刃は、わたしと犬千代と万千代の恋人なんだから!!」

 

「え……」

 

 半兵衛の手がぴたりと止まった。刃の胸元に顔を埋めかけていたその手が震え、そろりと上を向く。

 

 涙に濡れた大きな瞳が、まっすぐに刃の顔を見上げた。

 

「……え? は、刃さん? ほ、ほんとう……なんですか……?」

 

 その声は、儚く、壊れそうなほど細く。だが、全身で何かを懇願するような切実さがあった。

 

 刃はその瞳を、まっすぐに見返した。

 

 そして、何のためらいもなく、穏やかに頷く。

 

「ああ。本当だ」

 

 ――ぽたり。

 

 大粒の涙が、半兵衛の頬を伝って、静かに落ちた。

 

「えぐっ……ぐすっ……ぐすぐすっ……」

 

 肩を震わせながら、半兵衛が刃の胸元に顔をうずめる。小さな身体が細かく震え、涙の熱がじんわりと衣に染みてくる。

 

「は、半兵衛? な、なんで泣いて……」

 

 刃が戸惑いながら優しく問いかけるが、返事はない。むしろ嗚咽が強まり、指先にさえ力が入っていないのが伝わってくる。

 

「ふん、ざまぁね」

 

 信奈が鼻を鳴らした。だがその声音には、勝ち誇ったような響きが混ざっていた。

嫉妬と独占欲の入り混じる複雑な感情が、まっすぐ刃に向けられる。

 

「あんまり色目使うからよ。ねえ刃? わたしたちの関係、まさか隠してなかったでしょうね?」

 

「隠していたというより……墨俣城でしか、言うタイミングがなかったので、まだ」

 

 刃が穏やかに答えるも、言葉の余韻は空しく沈む。そしてその直後──

 

「……いや、です……。刃さん……」

 

 小さな声が、涙に濡れてこぼれ落ちる。

 

「え……?」

 

 刃がわずかに目を見開く。

 

「いや、です……他の誰かの恋人なんて……そんなの、聞いてません……そんなの、やだ……ぐすっ、ぐすぐすっ……」

 

 涙でぐしゃぐしゃになった顔を刃の胸に押しつけながら、半兵衛が必死に言葉を紡いだ。

 

 その姿は、まるで子供のように純粋で、脆くて、壊れてしまいそうだった。

 

「刃!」

 

 良晴の声が、ぴしりと空気を裂いた。

 

「半兵衛ちゃんと、ちゃんと話してこい」

 

「……良晴。だが、今は姫様の前で……」

 

「泣いてる半兵衛ちゃんより、大事なのか?」

 

 良晴は一歩、刃の目の前に出て、真正面から見据える。

 

「お前も分かってるんだろ? 誰のために、何を守るべきか。信奈のことも大事だ。それでも、今は──半兵衛だろ」

 

 その言葉に、刃の瞳がわずかに揺れる。

 

 視線を下げれば、膝の上で身を縮め、涙を止められないまま自分にすがる少女の姿。

 

「……わかりました」

 

 刃は静かに頷くと、信奈に向かって軽く頭を下げた。

 

「姫様、申し訳ありません。少し、外します」

 

「……っ!」

 

 信奈は口を開きかけたが、言葉が出てこない。ただ、拳を握りしめて視線を逸らす。

 

 刃はそっと半兵衛を抱き上げ、まるで壊れ物を扱うかのようにその身体を胸に抱いた。そして静かに立ち上がり、庭の奥へと歩みを進める。

 

 背後に残るのは、信奈の押し殺したような呼吸と、良晴の深いため息だけだった。

 

 

 

 

 

屋敷の裏庭。人目の届かぬ竹林の奥──

 

 揺れる笹の葉が、風に触れてさやさやと細く音を奏でる。月の光すら届かぬほど鬱蒼とした陰の中で、ふたりきりの時間が流れていた。

 

 刃は、静かに腰を下ろすと、ずっと抱きしめたままだった半兵衛をそっと膝の上へ戻した。刃の膝に身を預けた半兵衛は、まだ肩を小刻みに震わせながら、真っ赤に腫れた目を伏せていた。唇には、感情を堪えて噛んだ痕が微かに残る。

 

 その姿は、いつも冷静沈着な知将の面影など微塵もなく、まるで傷ついた小動物のようだった。

 

「……落ちついたか?」

 

 そっと語りかける刃の声は、夜の静けさを乱さぬようにと気遣うほどに柔らかかった。

 

 半兵衛は、小さく──本当にかすかな動きで、こくん……と頷いた。

 

 けれど。

 

 その細い肩を揺らしながら、彼女は刃の衣の端に指を絡め、まるで拠り所を求めるようにぎゅっと掴んだ。言葉を選ぶように、一度唇を結び、そして──震える声で、押し出すように想いを口にする。

 

「……わたし……墨俣で……刃さんと、二人きりで話した時……」

 

 ひとこと、ひとことが、胸の奥底から削り出されるような言葉だった。

 

「……その時、気づいたんです。わたし、あなたのこと……好きになっていたんです……私は、誰のものにもなりたくなかった。誰にも属したくなかった。けれど……気づいたときには、刃さんに惹かれていました」

 

 ぽつりぽつりと、途切れがちに、それでも懸命に気持ちを伝えようとする半兵衛の姿が、刃の胸に刺さる。

 

「だから、信奈さまたちと恋人って……きいて、胸が、ぐしゃって……潰れてしまいそうで……っ」

 

 堪えていた感情が、涙とともにあふれ出す。

 

「泣くの、止まらなくて……っ……ごめんなさい……っ……ぐすっ……」

 

 小さな嗚咽が、竹の葉を揺らす風と一緒に、空へと溶けていく。

 その姿はあまりにも痛々しく、そして──愛おしかった。

 

 刃は、黙ってそっと彼女の頭に手を伸ばす。

 

 乱れた髪を、静かに梳く。

 荒れた呼吸を感じながら、優しく、包むように撫でる。

 彼の手のぬくもりが、半兵衛のこわばった身体に、すこしずつ安らぎを与えていく。

 

 半兵衛の声は、なおも震えていた。けれどその告白は、どこまでも真っ直ぐで、嘘ひとつなかった。

 

「……刃さんの役に立ちたくて……そばにいたくて……。だから、わたし、必死で頑張ったんです……」

 

 涙に濡れた頬から、ぽとりと雫が落ちる。それは、刃の膝の上に小さな水滴を残した。

 

「川並衆の方たちに、気配の消し方とか……男の人の好みとか……いろんなこと、教えてもらって……。わたしなりに、努力したつもりだったんです……っ」

 

 その言葉に、刃の胸がずきりと痛んだ。

 

 人知れず積み重ねてきた小さな努力。

 誰にも言えなかった、戦場では語れなかった、少女の密やかな“好き”という感情。

 

「……人の命を、自分の指揮で奪う覚悟も、持ちました。……それが正しいとは思ってません。でも、それでも、少しでも刃さんの背中に近づけるならって……っ」

 

 その声には、誇りと、それ以上に切実な願いがにじんでいた。

 

「……でも、刃さんにはもう、三人も……恋人がいて……みなさん、わたしより……綺麗で、可愛くて……強くて……わたしなんて……」

 

 半兵衛は、ぎゅっと目を閉じた。

 

 その瞼の奥から、また新たな涙が溢れ出す。

 

 そのかすれる声、絞り出すような言葉、どれもが──胸を締めつけるほど真剣だった。

 

 刃は、静かに彼女の頬に触れた。

 

 親指で、零れ落ちる涙をぬぐう。

 

 その仕草は、まるで壊れものを扱うような、そっと触れるだけの優しさだった。

 

 彼は、ただその瞳を、黙って見つめていた。

 

 自分のために、ここまで涙を流し、心を削り、命すらかけてくれた少女がいる。

 それがどれほど重く、どれほど尊いことなのか──

 

信奈と恋人になったあの夜。良晴は言っていた。「半兵衛ちゃんも、お前のことが好きだぞ」と。

 

あの時は受け流してしまった。

 

 だが、今──刃の膝の上で、声を震わせながらそれでも想いを伝えてくる半兵衛を目の前にして、否応なく理解する。

 

 (……良晴の言った通りだったのか)

 

 静かに、しかししっかりとその想いを受け止めるように──刃は、そっと口を開いた。

 

「半兵衛」

 

 その名を、優しく、それでいて深く刃は呼んだ。

 

「さっきも言ったが……俺にはすでに、三人も恋人がいる」

 

 言葉の重みが空気を揺らすように、静かに響く。

 

 それでも、半兵衛は小さく、しかし確かな意志で頷いた。

 

「……はい。わかっています。でも、それでも、わたしは──」

 

 その声音には、怯えと勇気が混じっていた。

 震える手は、今も刃の衣をぎゅっと掴んだまま。

 離せばすべてが崩れてしまうかのように、必死に、自分の心の支えを繋ぎとめていた。

 

 刃は、一瞬だけ目を伏せ、深く息を吐いた。

 そして、唇を噛んだまま、言葉を継ぐ。

 

「……俺なんかより、お前をもっと大切にしてくれる男は、きっとどこかにいる。お前を、たったひとりの女性としてまっすぐに想って、何よりも優先してくれるような……そんな男が」

 

 その言葉は、まるで自分自身を否定するようでもあった。

 けれど、それが現実であることも、刃は知っていた。

 

 だが──

 

「いやです!わたしは、刃さん以外の男の人なんて……っ!」

 

 絞り出すような叫びが、竹林に反響する。

 そして、その瞬間──

 

「──そう、思ってたんだがな」

 

 刃がその声に、己の言葉をかぶせた。

 その声音には、これまで隠していた熱がこもっていた。

 

「最近気づいたんだ。……俺は、どうも随分と欲張りらしい。半兵衛のことを、他の男に任せるなんて、考えただけで……虫唾が走る」

 

 静かな語調の中に、燃えるような激情があった。

 

「……良晴にすら、任せたくないと思ってる。お前のことを誰かが泣かせるなんて、そんなことがあったら──」

 

 刃はゆっくりと、しかし確かに言い切る。

 

「──そいつを、斬ってやりたくなる」

 

 その一言が、空気を震わせた。

 

 言葉にはできないほどの激しさと、真っ直ぐな独占欲。

 その想いが、ありのままに、包み隠さずに溢れていた。

 

 半兵衛は、はっとしたように目を見開いた。

 戸惑い、驚き、そして信じられないという想いが、ゆっくりと彼女の瞳の奥に広がっていく。

 

「……は、刃さん……」

 

「半兵衛」

 

 刃はそっと手を伸ばし、その小さな肩に触れた。

 力ではなく、想いを込めて包み込むような仕草で。

 

「俺の……恋人になってほしい」

 

 その瞬間──空気が止まったかのような静寂が降りる。

 

 竹林を揺らす風が、さらさらと葉を擦らせながらふたりの間を吹き抜ける。

 

 時が、凍った。

 

 そして──

 

「……いいんですか……?」

 

 震える声で、絞り出すように問うた言葉。

 それは、彼女がどれほどこの言葉を待ち続けていたかを、雄弁に物語っていた。

 

 でも同時に、それは恐れの問いでもあった。

 

「……わたしで……いいんですか……? もう、おそすぎたんじゃないかって……三人も、先にいて……。わたしなんか……」

 

 その言葉に、刃は迷わず言い切った。

 

「俺の口から言ったんだ。誰に何を言われようと、後悔なんてするかよ」

 

 その眼差しは、まっすぐに彼女だけを見ていた。

 揺るぎない決意が、その目にはあった。

 

「俺は……お前が好きだ。絶対にお前を守る。

 順番なんて関係ない。俺は、お前が欲しい」

 

 静かに、まるで風に囁くような声音でありながら、その想いは鋼のように揺るがなかった。

 

 そのまなざしに嘘はなく、迷いもなかった。まっすぐで、痛いほど誠実で──ただただ、彼女だけを見据えていた。

 

身体の芯まで冷え切っていた心が、ふわりとあたたかくなる。

 自分でも気づかないうちに凍えていたものが、ようやく解かれていく。

 

 そして──

 

「っ……」

 

 ぽろ……ぽろ……と、涙があふれ出す。

 

 それは、押し殺していた哀しみではなかった。

 どれだけ頑張っても報われないかもしれないと思っていた、不安と自己否定から解き放たれた心が、

 ようやく息をついた証だった。

 

 それは、救われた者にしか流せない、安堵の涙だった。

 

「……はい……っ」

 声がかすれる。けれど、想いはまっすぐだった。

 

「……わたしでよければ……っ、喜んで……喜んで、刃さんの恋人になります……っ!」

 

 その瞬間、堰を切ったように──

 半兵衛は、その小さな身体を、ためらいもなく刃の胸に飛び込ませた。

 

 細く、華奢なその身体が、刃の腕の中にすっぽりと収まる。

 まるで、そこが最初から自分の居場所だったかのように。

 

 頬を押し当てた胸元は、あたたかくて、広くて、包まれる感覚がした。

 

 刃は、その身体を抱きしめた。

 

 ただ抱き寄せるのではない。

 彼女がもう傷つかないように、二度とひとりにしないように。

 強く、深く、そして優しく──抱きしめた。

 

 震える肩に手を添え、彼女の頬に自分の額を寄せる。

 

 刃は静かに、深く息を吐いた。

 その吐息には、安堵と決意が混ざっていた。

 

(……誰が、何を言おうと──この手は離さない)

 

 この想いがたとえ、何人目であったとしても。

 後ろ指を差されようと、咎められようと──関係ない。

 

彼の中で確かに芽生え、育ち、そして今こうして届いた想いを──

 刃は、命を懸けて守ると、そう誓った。

 

 

 

 

 

刃は半兵衛をその腕に抱えたまま、静かに広間へと戻ってきた。

 障子をくぐると同時に、その場にいた面々が一斉に視線を向ける。

 刃の胸元にしっかりとしがみついたままの半兵衛の姿に、空気がぴたりと止まる。

 

「ただいま戻りました、姫様」

 

 刃はいつもと変わらぬ無表情で、だがどこか穏やかな声音でそう告げた。

 

「お帰り、刃。それで? 竹中半兵衛とはどうなったの?……まあ、見たら分かるけど」

 

 信奈は腕を組んだまま、ふっと笑みを浮かべて迎える。その目は鋭く、だがどこか優しげだ。

 

「半兵衛とも、恋人になりました」

 

 その一言が告げられた瞬間、広間の空気がふたたび凍りついた。

 

「刃ぇえええええええッ!? ちゃんと話せたのはよかったけどよ!? よ、四人目!? お前、もう四人目なのか!? なんでそんなペース早いんだよッ!? 俺なんてまだゼロなんだぞ!? ゼ・ロ!!」

 

 良晴が立ち上がり、文字通り天を仰ぎながら絶叫する。誰も聞いていない。

 

「……そっか。……ふぅん。そう、なのね」

 

 信奈の声音が低くなる。

 一歩、二歩と、ゆっくりと刃と半兵衛に近づいた。

 

「──半兵衛」

 

 ぴしりと名前を呼ばれ、半兵衛はびくりと肩を震わせた。刃の胸元で、ちょこんと顔を上げる。

 

「は、はいっ!」

 

「刃の恋人になったことは……怒らないわ。……刃が決めたことだもの」

 

 静かに、けれど確かな芯をもった言葉だった。

 

 だが、そのまま続いた声は、さらに鋭く。

 

「──でもね、これだけは言っておくわ」

 

 信奈は半歩前へ出て、腰に手を当てる。

 

「正妻は、わたしよ。これは──誰にも譲らない!」

 

 広間全体に響き渡るような、堂々たる宣言だった。

 

「まけません!」

 

 怯むことなく、半兵衛は叫ぶ。

 大粒の涙をにじませながらも、その瞳は決して伏せられず、信奈をまっすぐ見据えていた。

 

 その様子に信奈がぐっと目を細めたのを見て、良晴が机に突っ伏して呻く。

 

「は、刃の正妻争い、いよいよ戦国クライマックスぅ……俺、どの陣営にも入れてねぇええ……」

 

 誰にも聞かれていない。

 

 そして空気を切り替えるように、信奈がくるりと振り返り、声を張った。

 

「──皆、席につきなさい。ここからは正式な評定よ!」

 

 一同が、ピリッと姿勢を正す。

 

 信奈の正面には、あの浅井長政が居住まいを正していた。

 だが、信奈はあえてその姿を見やらず、まずはてきぱきと戦後処理に取り掛かる。

 彼女が最初に口を開いたのは、敗将──斎藤義龍の件だった。

 

 すでに広間の脇には、白装束に身を包んだ六尺五寸の大男が正座していた。

 それが、斎藤義龍。戦国に名を刻む猛将のひとりである。

 

 厳しい表情に、きりりと引き締まった眉。

 死をも覚悟したその姿は、凛としており、まさに堂々たる武将そのもの──

 

 ……で、あったはずなのだが。

 

「ぷっ……」

 

「笑ってはなりません、十二点」

 

 勝家と長秀が、ひそひそと隣で言葉を交わす。

 

「六、笑っちゃダメでしょ」

「はいっ、すみませんっ!」

ごめんなさい義龍さま……と半兵衛がぺこぺこと頭を下げる。

 

 だが、義龍は静かに笑い、重々しく首を横に振った。

 

「よい。そなたを使えなかったのは、儂のほうだ。死神に選ばれし者よ、これよりは堂々と、織田のために才を尽くすがよい」

 

「っ……はい!」

 

 半兵衛が、ぴんと背筋を伸ばした。

 その声には、涙のにじむような感謝と、決意の強さが滲んでいた。

 

 信奈が、鋭い視線を義龍へと投げかけた。

 

「で、斎藤義龍。何か言うことは?」

 

 広間に張り詰めた緊張の空気を切り裂くような、その一言。

 

 白装束を身に纏った義龍は、どこか悟ったような瞳で、静かに口を開いた。

 

「──儂は、そなたと……そして蝮に敗れた。無様に生き恥をさらすつもりはない。だが、もし家臣と領民の命を助けてくださるのであれば、それ以上、儂に言うことは何もない」

 

 その言葉は、静かだったが、揺るがぬ覚悟に満ちていた。

 

「へぇ、命乞いはしないのね? じゃあ、こう言ったらどうかしら?」

 

 信奈は片眉を上げ、挑発するように唇を歪める。

 

「出家して武家から足を洗えば、命だけは助けてやってもいいわよ?」

 

「……無用だ。儂にも、土岐家嫡流としての意地がある。かくなる上は、潔く腹を切るばかり」

 

 静かにそう言い切った義龍だったが、次の瞬間、その目にぎらりと光が宿った。

 

「……だが、その前に一つだけ、申し上げておきたい」

 

「ふん。聞いておこうかしら。何よ?」

 

 信奈が肩をすくめると、義龍は前方に座る男──浅井長政を真っ直ぐに指差した。

 

「信奈どのの前に座っているその浅井長政なるもの、実は陰で儂に味方し──」

 

「──黙らぬか、下郎が!!」

 

 長政が立ち上がり、顔を紅潮させて怒鳴りつけた。

 

「信奈どの! この男は敗北者ゆえに、最後にわれらの間を裂こうとしているのです! 早く、早く斬ってしまいましょう!!」

 

「儂はもはや死を恐れてはおらぬ。偽る理由などあろうか」

 

 義龍は微動だにせず、毅然とした態度で長政を見返した。

 

「浅井長政、裏切りが戦国の常とはいえ、己が欺いたとて、潔さもなければ、見苦しさの極みだぞ」

 

「うるさい! 信奈どの、斬れ、斬ってしまえ!!」

 

 声を荒らげる長政に、信奈は興味なさげに顔をしかめ、広間の隅に目をやった。

 

「……蝮。あんたはもう隠居で、基本的にわたしの政治に口出ししないでって言ったけど、義龍はあんたの息子よね。一応、聞いておくわ。意見があるなら、どうぞ」

 

 呼ばれた斎藤道三は、ややあって、静かに扇子を開いた。目を伏せたまま、その扇子を閉じて、また開き──やがて、かすれるような声で言った。

 

「……そやつは顔に似合わぬ、知恵者じゃ。放てば後に害となるやも知れぬ。信奈どの……始末なされ」

 

 その言葉に、義龍が初めて感情を見せた。

 

 ぴくりと眉が動き、じり、と道三をにらむ。その視線は、剣より鋭い。

 

 父と子が、ただ目だけで言葉を交わす時間が流れた。

 

 しばしの沈黙ののち、義龍はゆっくりと頭を下げる。

 

「……これまで世話になった、親父どの」

 

 その一言は、あまりに静かで、あまりに寂しかった。

 

 道三はその姿を見て、扇子を握りしめた。

 

 そして、うめくような声で吐き出した。

 

「……斬れ。わが息子を、斬ってくれ……信奈どの」

 

 重苦しい空気が広間を包む。

 

 浅井長政も、次の言葉が出てこなかった。

(我が策が明るみに出ず……よかった)

と無邪気に喜ぶ気分にも、今はひたれない。

浅井長政もまた、父を強引に隠居させて家督を奪ったという業を背負う戦国大名なのだった。

 

「美濃の斎藤家。わが浅井家。甲斐の武田家に越後の上杉家。親子きょうだいが互いに争い合うこの戦国の世は、いつまで続くのだろうか──」

我知らず、そのような言葉を思わずつぶやいていた。

 

信奈は無言のまま、じっと義龍を見つめ続けていた。

 

 やがて──彼女は小さく、しかしはっきりと、首を横に振った。

 

「──義龍は、斬らないわ」

 

「なんと。何を言いだすのじゃ、信奈どの!」

 

 斎藤道三が、思わず立ち上がった。年老いた体が、その瞬間だけは武士の威圧感を取り戻していた。

 

「今こやつを斬らねば、必ずや勢力を盛り返し、いずれまた信奈どのに立ち向かってくる! ここで斬らねば禍根を残すぞ!」

 

 広間の空気が一気に緊迫する中、信奈は眉ひとつ動かさずに答えた。

 

「蝮──あんた、義龍を買いかぶりすぎよ」

 

 その言葉には、静かな怒気がにじんでいた。

 

「この男は、わたしの敵じゃないわ。負けを認めてるようで、心の奥じゃ認めきれてない。そんな中途半端な覚悟で、この先わたしに牙を剥こうとしても、もう勝てっこないのよ」

 

「甘い。甘いぞ、信奈どの!」

 

 道三が声を張り上げる。扇子が怒りに震える手で折れ曲がり、ぱきりと音を立てた。

 

「ワシに遠慮をしておるのであれば、かような情けはご無用! 戦国の世で上に立つ者が、甘さで命を落とすなど──そんな愚かしい話があってたまるか!」

 

 だが信奈は、冷ややかな目でその言葉を受け止めると、静かに言い放った。

 

「遠慮なんて、してないわよ。あんたが何者であろうと、私は私の判断で動く。小姓たち──義龍を、放逐しなさい」

 

 その一言で、周囲の家臣たちが一斉にざわめいた。だが、信奈の声には一分の揺らぎもなかった。

 

「ええい……! 天下を獲るには、情を捨てねばならぬ時があるのじゃ!」

 

 道三は苦しげに顔を歪め、最後の言葉を振り絞った。

 

「信奈どの、その甘さが、いずれそなたの命取りとなろうぞ!」

 

「──黙りなさいよ、蝮!」

 

 信奈の声が、広間に鋭く響いた。

 

「もうあんたは隠居の身でしょう!? 一応意見は聞いたわ。でも、決めるのは私よ。織田信奈の名で、命ずるわ。放逐しなさい!」

 

 その気迫に、道三でさえも一歩退いた。年老いた身体に沸き立つ怒気と焦燥が、喉元で詰まったまま出てこない。

 

 だが──。

 

「……姫様の身を守るのが、私の務めです」

 

 その時、静かに口を開いたのは、刃だった。

 

 言葉は穏やかだが、その声音には確かな決意がこもっていた。

 

「義龍が、姫様に牙を向けるなら。そのときは、私が斬ります」

 

 静かで、短い言葉。しかしその言葉の意味を、誰もが理解していた。

 

 信奈は刃の横顔を見つめ、小さく笑った。

 

「ありがと、刃」

 

 ──だが、それでも道三は食い下がった。

 

「……じゃが、しかし……! 義龍の目を見よ! あやつ、未だ屈服などしておらん! 信奈どのを睨み据え、牙を隠しておる! 今逃がせば、必ずや、虎視眈々とそなたを──」

 

「いいから、放逐しなさいって言ってるの!」

 

 言葉を重ねるごとに、信奈の声音は怒気を帯びていく。家臣たちはすでに一歩後退し、広間には主君の威圧が響き渡っていた。

 

 そして──。

 

 斎藤義龍が、ようやく口を開いた。

 

「……親父どのの言う通りだ。儂は、負けを認めてはおらぬ。だが、それも含めて信奈どのの裁きならば──従おう」

 

 どこまでも冷たい声音だった。

 

 礼も言わず、深く頭を下げることもなく。

 斎藤義龍はただ、堂々と──いや、傲然と──広間をあとにしていった。

 背筋を伸ばし、敗者の姿を微塵も見せぬままに。

 

 その背に、信奈は一言も声をかけなかった。

 

「…………」

 

 場に残された者たちは、誰もが言葉を失っていた。

 

 そんな中で、ただひとり、取り残されたような表情を浮かべる男がいた。

 

 蝮──斎藤道三である。

 

 眉をわななかせ、唇を噛み、そして──怒りとも、哀しみともつかぬ声を漏らした。

 

「むむむむむ……」

 

 まるで煮え切らぬ感情のすべてを吐き出すように震えながら、道三はぽつりとつぶやいた。

 

「……これにて、御免──」

 

 そして、誰の制止も受けずに、静かに広間から姿を消した。

 

 後には、言いようのない重苦しさが残された。

 

 誰一人として動けず、言葉を発することもできず、ただ信奈の表情と、閉ざされた襖を見つめるだけだった。

 

険悪な空気が、一瞬、広間全体を支配した。

 

 義龍をめぐる決断、蝮の怒声、去り際の重い沈黙──誰もが言葉を呑み込み、凍りついていた。

 

 しかし。

 

「んもう、ほんっと年寄りって気が短いんだから!」

 

 信奈はけろりとした顔で両手を叩くと、ぱっと明るい笑顔を浮かべた。先ほどまでの険悪さがまるで嘘のように、空気が一変する。

 

「みんな、お待たせ! ここからは──お待ちかねの、論功行賞よっ!」

 

 ぱん、ぱん、と軽快な手拍子に、緊張していた家臣たちが一斉に姿勢を正す。戦の功を評価される場であり、そして一歩間違えれば、運命が変わる場でもある。

 

「まずは……丹羽長秀、柴田勝家! 前へ!」

 

「「ははっ!」」

 

 ぴしりと立ち上がった二人の姫武将が、信奈の前に進み出る。

 

「長秀は、小牧山城の普請から、東美濃の諸勢力への調略まで、地味ながら着実に成果を上げてくれたわね。真面目で堅実、織田家に欠かせない参謀よ。だから──」

 

 信奈は、にやりと笑って手をひらひらさせた。

 

「“ういろう一年分”を下賜するわ!」

 

 ──その瞬間、広間に微妙な沈黙が走った。

 

 長秀がぴくりと眉を動かす。

 

「……は? 姫様、それは……お菓子の?」

 

「そうよ。尾張名物“ういろう”。なんと一年間、毎日違う味を選べる豪華仕様よ! 凄いでしょう?」

 

「……」

 

 長秀は一瞬絶句したが、やがて吹き出すように笑った。

 

「ふふっ……ありがとうございます。ういろう……大好きなんです。誠に、光栄でございます……!」

 

 広間が和やかな笑いに包まれる中、次に信奈は勝家を指差した。

 

「勝家は、稲葉山城攻めでの一番槍。敵の最前線を突破して、真っ先に門を押さえた勇士中の勇士よ! その功績に報いて──」

 

 信奈は勝家の前に、包みと書状を差し出した。

 

「“唐物の茶器”と、“味噌煮込みうどんの店を城下町に出す権利”を授けるわ!」

 

「は、はあ……?」

 

 勝家は困惑した顔で茶器を見下ろす。手にしたそれは、どう見ても、ただの土の塊にしか見えなかった。

 

「姫さま、この……この土の塊は……?」

 

「六! それはねぇ、“唐国”から渡ってきたとっても立派な茶器なのよ! 一つで美濃一国ぶんの価値があるって噂もあるのよ!」

 

「えっ、ほ、ほんとうですか!? ありがとうございますっ、姫さまああああっ!!」

 

 勝家は頬を紅潮させ、勢いよく土の塊……いや、茶器を抱きしめる。

 

「この柴田勝家、こたびの御恩に報いるべく、いっそう奮闘いたしますっ!!」

 

 ──そのやりとりを背後で見守っていた良晴が、ぽつりと漏らす。

 

「いやいや、あれ、どう見ても二束三文の安物だよな……?」

 

 耳元で、半兵衛が小声で囁く。

 

「……良晴さん、あれは……本当に安物です。信奈様の機転で士気を保つための、いわば“演出”です」

 

「騙されてるよなぁ、勝家ってほんと単純だよなぁ……」

 

 そんな良晴のつぶやきも、次の呼び声でかき消された。

 

「次。稲葉一鉄、氏家卜全!」

 

「「ははっ!」」

 

 くるりと膝をついた二人の親父武将が、朗らかに頭を下げる。

 

「あなたたちの領地は安堵するわ。ただし──」

 

 信奈の目が鋭くなる。

 

「私はこれから本格的に“楽市楽座”を進めたいの。だから、市や座の特権だけは取り上げるわ。その代わり、美濃衆を率いてわたしの天下盗りのために戦いなさい」

 

「「合点、承知にござるッ!」」

 

 二人は見事なまでの大声で返答し、同時にぱんと手を打った。

 

「いやぁ尾張の姫はおっかないと聞いておったが、この首がつながって良かったわい」

 

「わしもわしも。こんな利発で綺麗な姫様なら、喜んで天下取りに付き従うわい!」

 

 暑苦しい笑顔を浮かべている二人を見て、周囲の家臣たちは若干距離を取る。

 

 そんな中、信奈は次の名を呼んだ。

 

「それから──安藤なんとか。入って来なさい」

 

 襖が勢いよく開き、怒りに満ちた顔の安藤伊賀守が飛び込んできた。

 

「おのれ浅井長政ッ! 信奈どの、わっちは昨日まで長政の手の者に囚われておりましたのじゃ!」

 

 烈火のごとき怒声に、再び長政の顔色が変わる。

 

 信奈が、鋭い視線を長政に向ける。

 

「……どういうことかしら?」

 

「長政は、陰で斎藤義龍と通じておったのじゃ!」

 

 安藤は怒気に満ちた声でまくし立てる。

 

「わっちを人質として囚え、半兵衛殿をおびき寄せ、稲葉山城を義龍に再奪取させようとしたのじゃ!」

 

「……!」

 

 広間がざわめく。家臣たちが動揺を隠しきれない。

 

 だが──浅井長政は、即座に反論に転じた。

 

「信奈どの。これは、策略です。私は安藤伊賀守をあえて囚えたふりをし、斎藤義龍が“三人衆を粛清し始めた”と美濃中に噂を流しました」

 

「……噂?」

 

「その結果、稲葉と氏家は義龍に不信を抱き、織田方に寝返らざるを得なくなった。美濃が織田に傾いたのは、その情報戦の賜物です」

 

「詭弁……ですが、理屈だけは通っておりますね。七十三点」

 

 長秀が冷静に評価する。

 

「きぃぃぃぃぃっ、悔しい……なんて悪賢い奴なんだ!」

 

 良晴は歯ぎしりしながら、畳をガリガリと爪でひっかく。

 

「へぇー、そうなんだー。稲葉と氏家の寝返りって、べつに刃の手柄じゃなかったんだー」

 

 勝家がとんでもない爆弾発言を、心底驚いたように漏らす。

 

 信奈が、肘掛けから身を乗り出すようにして、銀髪の青年をじっと見つめ──静かに問いかけた。

 

「──どうなの、刃?」

 

 その声は決して大きくない。それでも、まるで鈴の音のように、広間の隅々まで響き渡った。

 

 次の瞬間、ざわついていた空気が凍りつくように静まり返る。

 

 全員の視線が、刃に集まっていた。

 

 天城刃は、沈黙の中でほんの一瞬だけ視線を宙に泳がせた。まるで過去の怒りと記憶を探るように──そして、やがて静かに首を横に振る。

 

「……分かりかねます。申し訳ありません」

 

 短く、だが重い返答だった。

 

 信奈は眉をひそめる。

 

「なに、それほど複雑な工作だったの?」

 

「いえ……墨俣に、その糞ザル──浅井長政殿からの置き文が残されていたのですが……」

 

 刃の声は静かだったが、確かな苛立ちの色が滲んでいた。

 

「……怒りのあまり、内容を忘れてしまいまして」

 

 広間に、奇妙な間が生まれた。

 

 誰もが言葉を失い、思わず刃の顔を見つめる。敵味方の裏をかき、冷静沈着に振る舞うはずの刃が、怒りに任せて情報を忘れる──そんなことが現実に起きたという事実に。

 

「……あの時の刃は、確かに怖かったな」

 

 良晴がしみじみとつぶやいた。

 

「殺気まといながら“潰してやろうか”って呟いてたからな……近江ごと浅井家を焼き払う気だったろ、あれは」

 

 ──その言葉を聞いた瞬間、浅井長政の顔が青ざめる。

 

 血の気が引いたかのように唇が白くなり、目元はぴくぴくと痙攣する。自分の命はおろか、一国が“感情”一つで失われる危機にあった現実を思い知ったのだ。

 

その重い空気のなか、信奈はふいに視線を切り替え、にこりと笑った。

 

「──なるほどね。……ほら、安藤なんとか。あなたはこれから、わたしのために美濃衆を束ねて働くこと。姪の半兵衛も、ここにいるわよ」

 

 その声に応じて、一歩前に進み出たのは──西美濃三人衆の筆頭、安藤伊賀守だった。

 

 彼の眼差しは赤く、悔しさと感慨の入り混じった強い意志が滲んでいる。

 

「おおお、半兵衛……半兵衛や……! さんざん苦労をさせたのう……!」

 

 その姿に気づいた半兵衛は、驚いたように目を丸くし、そしてふらりと歩み寄って、ぺこりと頭を下げた。

 

「わっちが悪かった……! わっちの浅慮ゆえに、お前に辛い思いをさせた!」

 

「いいんです」

 

 半兵衛は、ほんの少し涙をにじませながら、しかし力強く微笑んだ。

 

「……そのおかげで、半兵衛は、よき主君に出会い──そして、よき……恋人に出会えましたから」

 

「そ、そうか……そうか……!」

 

 安藤の肩が震え、声が詰まり、とうとう年老いた腕でそっと半兵衛の背を抱いた。

 

「強うなったのう……半兵衛や……」

 

 その光景を、誰もが静かに見守っていた。

 

 過去の確執、家族としての葛藤、戦国の狂気の中で傷ついた心。それが、今、ようやくひとつの“和解”という形で結ばれた瞬間だった。

 

 ──これにて、精強と名高い西美濃三人衆は全員、織田信奈直属の配下として正式に仕えることとなった。

 

主君・信奈の采配のもとで再出発を誓い合う叔父と姪は、広間の中央でしっかりと抱き合い、互いの温もりを確認し合っていた。

 

かくして、評定は大詰めを迎えた。

 

 軍議の席に静けさが戻る中、信奈が腰を上げると、場に漂っていた重々しい空気が一変する。彼女の目には、確かな満足と、誇らしげな光が宿っていた。

 

「──サル!」

 

 ピシィンッと竹製の軍配が音を立てて鳴らされ、良晴がビクリと背を正す。

 

「墨俣築城の補佐、そして決死隊として稲葉山城への侵入、開門……これらの働き、大いに賞すべきものよ。貴方には給金三千貫を下賜するわ!」

 

「おおっ! 俺は金持ちになった……のかっ!? 三千貫ってどんくらい!?」

 

 あまりの金額に目を丸くし、脳内でざっくり現代円換算しようとする良晴。その様子に一同が小さく失笑を漏らす中、信奈は肩を竦めつつも、次に視線を向ける。

 

「……さて、真打ち登場ね」

 

 その声と共に、場の空気が再び張り詰めた。

 

「刃!」

 

 信奈の声音には冗談一つなく、鋼のような凛とした威厳が宿っていた。

 

「墨俣一夜城の立案から築城、美濃三人衆と竹中半兵衛の調略、本隊到着までの籠城、その間八千の義龍軍と対峙しながら、サルの配下の乱波とわずか二人で敵兵二千を討ち取った。そして──決死隊として稲葉山城に潜入、城門を開いた……」

 

 場内の誰もが思わず息を呑む。ひとつひとつの功績が常識を覆すものであることを、誰もが理解していたからだ。

 

「あなたの功績、いずれも戦局を決定づけるものだったわ」

 

 一拍の沈黙を挟み、信奈はしっかりと彼を見据えて言い放つ。

 

「貴方が、今回の勲功一番よ。さすが、わたしの懐刀──天城刃」

 

 その瞬間、場内の空気が爆ぜたようにどよめいた。

 

 だが、刃は揺るがない。凛としたまま立ち上がり、ひざまずいて深々と頭を垂れた。

 

「……お褒めに預かり、光栄の至りです、姫様」

 

 声に浮ついたところは微塵もない。ただ静かな誠実と忠義、そして微かに──感情が滲んでいた。

 

「無礼を承知で、勲功一番の恩賞に関して、一つお願いがございます」

 

「……許すわ。言ってちょうだい」

 

 信奈の声音はやさしく、だがその奥に何かを見定めようとする熱があった。

 

「ありがとうございます」

 

 刃は一瞬だけ目を閉じ、そしてまっすぐに顔を上げる。

 

「相良良晴どのの配下にして、墨俣の戦にて共に命を懸けた──蜂須賀五右衛門率いる川並衆。彼女たちを、織田家の正式な旗下に迎えたく存じます」

 

 一同がざわつきかけたが、すぐに静まり返る。己の栄誉や所領ではなく、共に戦った者の未来を願う──その姿に、心を打たれぬ者などいなかった。

 

 信奈はほんの一瞬だけ目を見開き──そして、ふっと口元を緩めた。

 

「……本当に、貴方って子は。どこまでも無欲で、優しいのね」

 

 その言葉には、尊敬と、嫉妬と、そして深い独占欲がにじんでいた。

 

「分かったわ。彼女たちを正式に召し抱えましょう。蜂須賀五右衛門は川並衆頭領として、川並衆は足軽として織田家に仕官。今まで通りにサルの配下でいいわね?異論はない?」

 

 その場にいた良晴が慌てて「異論はあるわけない!」と叫び、ようやく周囲に安堵と微笑が広がる。だが──信奈はまだ終わらせなかった。

 

「でも、それだけじゃ……足りないわね」

 

 信奈の言葉に、評定の空気が一瞬で張り詰める。まるで戦場に響く号令のような緊張が走り、誰もが息を潜めた。

 

 彼女はゆっくりと立ち上がり、凛とした足取りで刃の前へと歩を進める。その瞳──茶色の双眸は、まっすぐに彼を射抜いていた。将としての威厳と、ひとりの少女としての想いが、静かに宿っている。

 

「刃。今、貴方が望むなら──どんな褒美でも与えるわ。金でも、地位でも、領地でも。私に出せるものすべてを、貴方にあげる。だから……言いなさい。欲しいものを」

 

 その声音は、命令ではなかった。むしろ、震えるような問いかけ。そこにあったのは、将としての信奈ではなく、ただ一人の少女が愛する人に向ける、素直な気持ちだった。

 

 場に集う家臣たちは、誰もが言葉を飲み込む。呼吸の音すら憚られるような緊張が、重く張り詰めていた。

 

 しかし──刃は穏やかに、そして優しく微笑んだ。まるで、最初から答えは決まっていたかのように。

 

「……では、姫様の笑顔を──賜りたく存じます」

 

 その瞬間、空気が変わった。

 

 まるで風向きが一変するかのように、あたたかく、けれど鋭い衝撃が場を走る。信奈の顔を、誰もが注視した。

 

 信奈は呆けたように刃を見つめたまま、言葉をなくした。まるで言葉の意味がすぐには理解できなかったかのように、ぽかんと、ただ見つめている。

 

「……っ、なっ……なにそれ……バカじゃないの……」

 

 ようやく絞り出した声は、震えていた。照れと動揺、そしてどうしようもない幸福が混ざり合い、彼女の顔を真っ赤に染め上げる。

 

「そ、そんなの……褒美じゃないじゃない……恋人なんだから……そ、そ、そんなの、いつだってあげてるでしょ……!」

 

 刃は小さく首を振り、まっすぐに信奈を見つめて続ける。

 

「それでも。私にとって、姫様の笑顔こそが唯一無二の報奨です。金でも、地位でも、刀の誉れでもなく──貴女の笑顔。それが見られるなら、私は何度でも命を懸けられます。戦果を挙げるたび、姫様が笑ってくださるなら──私は何度でも、この命を賭けましょう」

 

 その真っ直ぐな言葉に、信奈の肩がぴくりと震えた。

 

「……ばか。ほんっと……あんたって……ほんと、そういうとこばっかり……」

 

 彼女は顔を両手で覆うようにして、くるりと背を向け、顔を見られまいとする信奈。

 

 その動きは、威厳ある大名としての振る舞いからは遠く、どこか拗ねた少女のようで。けれど、その小さな背中は、今まででいちばん柔らかく──そして、愛おしく思えた。

 

 信奈の頬が、いまどれほど紅潮しているのか。きっと耳の裏まで真っ赤に染まっている。唇は、照れ隠しのためにきゅっと引き結ばれて、けれどもどうしようもなく、笑みが滲み出てしまっている。

 

 刃は見なかった。あえて、見ようとしなかった。

 

 けれどそれでも、分かってしまう。

 

 彼女が、いま、心から──とびきり幸せそうに笑っていることが。

 

 それは、戦に勝ち、仲間を救い、数千の敵を退けた報酬よりもなお貴い。

 

 天下布武を目指す少女が、ただ一人の男の言葉にだけ、こんな風に心を揺らして、顔を赤らめて、笑っている。

 

 まるで世界が、ふたりだけになったような静寂が、評定の間に満ちる。

 

 ──その余韻を、壊す男がひとり。

 

 相良良晴。立場上は“同じ未来人”。だが、その心中は今まさに、嵐だった。

 

 ぽつりと、魂が抜けたように呟いた。

 

「……あいつマジで……うん。ヤバいよ。なんでそんな台詞がさらっと出てくるんだよ……? なに? 準備してたの? あれ即興じゃねぇだろ……」

 

 刃と信奈のあまりにも自然で、あまりにも熟れたやり取りを前に、思考がついていかない。

 

「乙女ゲーかよ……いや、乙女ゲーでもヒロインの好感度あそこまで行ったらエンディングだろ……いや、もはやCGコンプリート済み……隠しルートまで突入済みか……」

 

 目を覆いながら天を仰ぐ良晴。

 

 そして、ついには頭を抱えて叫んだ。

 

「信奈の好感度なんてもうMAXなんだよ! もう溢れてんの! ゲージの針ぶっ壊れてんの! なのに、なのに! あいつまだ“上げに行く”んだぞ!? なに? 愛情ポイントって株価みたいに青天井なの!? どこまでインフレすんだよ!!」

 

 その鬼気迫る叫びに、さすがの家臣たちも思わず吹き出し、場に笑いが広がる。

 

 戦勝報告のはずの軍議の席は、思いもよらぬ感情の渦に包まれていた。

 

 だが、誰よりも笑っていたのは──

 

 そう、誰にも見せない背中で、肩を震わせていた信奈だった。

 

(ほんと、もう……あんなこと、さらっと言って……ずるいわよ、刃……)

 

 うつむき、こっそりと両手で頬を隠す。

 

 ただの褒美のやりとり──そんなものではない。

 

 あの瞬間、刃は“姫”ではなく、“信奈”という一人の女の子の心を、誰よりも大切にしてくれた。

 

 ──それが、嬉しくて。

 

 ──誇らしくて。

 

 ──愛しくてたまらなかった。

 

(ほんと、もう……大好きよ)

 

けれど、その背中から溢れ出る幸福の空気は、誰にも隠し通せなかった。

 

そんな微笑ましい空気に満ちた評定の場に、水を差すような声が飛んだ。

 

「信奈どの! そろそろ我が浅井家との──」

 

 無遠慮に割って入ったその声に、場が一瞬にして白ける。だが、それを真っ向から叩き潰したのは、他でもない信奈の一言だった。

 

「何よ、長政。……まだ居たの? ていうか、ずっと思ってたけど──なんで居るの?」

 

 にこりともせず、あまりに無情な言いように、その場の誰もが内心で吹き出した。

 

「な、なにを……! だ、だから! わたしと結婚しての、同盟の話を……っ!」

 

 声がうわずっていた。彼にしては珍しく、感情が先走っている。

 

「だから、それ“嫌だ”って言ったじゃない! しつこいのよ! わたしには今──恋人がいるの!」

 

 信奈は語気を強めると、しっかりと刃に視線を送り、言い放った。

 

「貴方なんかより──断っ然、素敵な人がね!」

 

長政は歯噛みした。引くに引けない。──いや、引けるわけがない。この場で退けば、浅井家の顔に泥を塗る。彼は必死だった。

 

「そ、それでは浅井家と織田家は同盟できない! 近江から天下に打って出るという、私の野望も潰えてしまうではないか!」

 

「だったら、こうすればいいじゃない」

 

 信奈はあくまで軽やかに、けれど鋭く問い返す。

 

「この場でわたしに──頭を下げなさいよ」

 

「い、いえ……それでは済まないのです!」

 

 長政は、震える声で叫ぶ。

 

「血縁による同盟でなければ、我が父・久政を説得することはできません! そして私は一人息子! 織田家から姫君を迎える以外、道は残されていないのです!」

 

「……しつこい」

 

 信奈が吐き捨てた刹那。

 

「斬りましょうか?」

 

 隣にいた刃が、口元に微笑を浮かべながら、まるで待っていたかのように問いかける。

 

信奈は片手で彼を制した。

 

「ダメよ」

 

 けれど、笑っていた。刃に向けた苦笑まじりの一言のあと、長政に向き直ると、吐き捨てるように言った。

 

「北近江なんて上洛途中で踏み潰していってもいいんだけど、そこまで言うのなら同盟してあげてもいいわ。同盟の証として、織田家の姫君をあんたのところによこしてあげる。それで手打ちにしましょう」

 

長政は、あっさり過ぎるほどの提案に戸惑いながらも頷いた。

 

「む、姫君……? そ、それならば……異存は……ないが……」

 

「じゃ、同盟成立ね。すぐに輿に入れて送り届けるから──あんたはさっさと帰ってくれる?安心なさい。義龍と組んで安藤守就を誘拐しようとした件も──今回は不問にしてあげる」

 

 涼しげに言い放たれたその一言に、長政は渋々ながらも頷くしかなかった。

 

 ──姫君を妻として迎え入れられるのであれば、それはすなわち、織田家からの人質を取るに等しい。織田家との結びつきさえできれば、織田家との同盟をしぶる父・久政もどうにか納得させられるだろう。

 

「わかった。その約束を違えぬように……父は私から説得しておく」

 

「また“父”ね。……あんた、自分で隠居させたはずの父親に、ずいぶん気を使うじゃないの」

 

「子として当然の務めだ」

 

 信奈はふんと鼻を鳴らす。

 

「父親も天下も、どっちも大事? ふぅん。──ま、子供らしい考えね」

 

 その言葉には棘があった。けれど、次の言葉はもっと鋭かった。

 

「それと──敵国武将の妻女をたぶらかして調略するとか、そういうセコいやり口はもうやめなさい。わたしの家から嫁をもらうんならね?」

 

「……承知」

 

 長政は小さく頭を下げた。その目は伏せられ、もはや言葉を返す気力もない。

浅井長政は、戦国大名としても信奈に完敗した。

 

 

 

 

 

浅井長政が広間を後にした直後、その場の空気は一気に弾けた。

 

 勝利の余韻に包まれた広間は、熱気と歓声で満ちあふれる。

 

「──あたしの姫さまが守られたぁ〜っ!! 刃、でかしたっ!! サルもよくやったぁ〜っ!!」

 

 真っ先に飛びついてきたのは、勝家だった。まるで大戦に勝ったかのような勢いで良晴に抱きつく。

 

「ちょ、ぎゃあ!? ちょっと勝家っ、苦しい! 胸がっ……その胸が顔面に当たって! 息が! 息ができねぇぇぇっ!!」

 

「うりうりぃ〜サルのくせに褒めてあげる〜」

 

「殺す気かッ!!」

 

 そんな騒々しいやり取りを余所に、犬千代はきゅっと唇を結びながら、ぽつりと呟く。

 

「……めでたい」

 

 その短い言葉に、彼女なりの全肯定の想いが詰まっていた。

 

 一方、部屋の隅では──半兵衛が耳を塞ぎながらぷるぷる震えている。

 

「……わ、わたし……疲れました……。み、みなさん声が大きくて……こ、怖いです……くすん、くすん……」

 

「半兵衛殿、落ち着いて……はい、こちらお茶をどうぞ」

 

 長秀が慣れた手つきで茶を差し出し、場をなだめようとするが、それでも宴は止まらない。

 

「お見事な処置でした、姫。しかし──」

 

 静かに割って入ったのは、万千代であった。その眼差しは、祝勝の空気とは少し違った色を帯びていた。

 

「……何か言いたいことがあるのね、万千代?」

 

「織田家には、信奈姫以外に──姫はおりません。一点」

 

「あら、気づいてたの」

 

「……ああああああああああああっっっ!!!」

 

 勝家が叫んだ。盛大に頭を抱え、絶叫の渦を巻き起こす。

 

「ど、どどどどうするんですか姫さまっ!? こ、これはもう! やっぱり浅井家ごと叩き潰すべきでは!? 今すぐ、小谷城へ出陣を!」

 

「ダメよ!」

 

 信奈がぴしゃりと手を打ち鳴らし、場を制した。

 

「長政の前では威勢のいいことを言ったけどね、小谷城を本気で落とすとなったら、稲葉山城以上の難攻不落よ。まともに攻めたら、膨大な時間と労力がかかる……その間に武田信玄に上洛の先を越されるわ」

 

 信奈は唇を噛み、苦々しい表情で軍略図に視線を落とす。

 

「武田信玄と上杉謙信が川中島で牽制しあってる“今”が、唯一の好機なのよ……この隙を突かなければ、わたしたちに天下を掴む機会は二度と来ない」

 

 信奈の声には、焦りと冷静な判断力が同居していた。

 

 だがその時。

 

「ならば、私が武田信玄と上杉謙信の暗殺に赴くというのは」

 

 静かに。だが、あまりに“真顔”で発された刃の一言に──場が凍りついた。

 

「だぁぁぁぁぁああああああッ!?!?!?!?」

 

 軍議図が跳ね上がるほど、信奈が身を乗り出して絶叫した。

 

「ダメに決まってるでしょ!? なんでそう極端なのよアンタはぁあああ!!」

 

「刃! やめろ! お前が言うと冗談にならんのが一番怖いんだよ!!」

 

 良晴が額を押さえ、椅子ごと仰け反った。

 

「……ぜったい、だめ」

 

犬千代がぽつりと低く、しかしはっきりと呟いた。その声音に、全員が一瞬、黙る。

 

「刃さん……ダメです! もし……もし何かあったら……私は……っ!」

 

 半兵衛がぐっと拳を握り、声を震わせながら続ける。

 

「刃どの……その冗談は一点です。まったく笑えません」

 

 万千代がいつになく真剣な表情で、静かに制する。

 

 だが──その中で、場の空気を全力で逆なでする存在がいた。

 

「え? あたしは、いい案だと思ったけどな〜?」

 

 けろっとした顔で勝家が口を開く。

 

「だって刃なら、マジで両方仕留めて帰ってきそうじゃん?」

 

 場が一瞬、再び沈黙に包まれる。

 

「……脳筋は黙ってろォォォォォッ!!!!!」

 

 全員の総ツッコミが、容赦なく炸裂した。

 

 信奈はこめかみに青筋を浮かべながら、ぎりりと歯を噛み締めた。

 

「……アンタね……あのね……天下盗りの軍議の最中に冗談でもそんな話を持ち出すんじゃないわよ!」

 

「冗談ではありませんでしたが……」

 

「やめて!やめてぇぇぇっ!! 冷や汗止まんないからやめてぇぇえ!!」

 

 良晴が絶叫し、机に突っ伏した。

 

「気を取り直して、万千代。こういう場合、定石ではどうやってごまかすの?」

 

 信奈が難しい顔で尋ねると、元康は落ち着いた声で答える。

 

「そのあたりの見目麗しい娘を織田家の養女として育て、礼儀作法を叩き込み、姫として仕立て上げてから浅井家へ嫁がせます」

 

「……やっぱりそうよね」

 

 信奈はため息をつきながら腕を組んだ。

 

「でもそれって時間がかかるわよ。だいたい、織田家が人並み外れた美男美女の一族ってことは天下に知れ渡ってるんだもの。長政もわたしの顔を見てるし……中途半端な美人じゃ、すぐに替え玉だってバレちゃうわ」

 

「……ですね」

 

「尾張は美人の産地よ。確かに美少女は多いけど……この“天下無敵の美少女”であるわたしに匹敵する存在なんて、そうそういるわけないじゃない」

 

 自信満々に断言する信奈に、一同は微妙な表情を浮かべながらも口を挟めない。

 

 そこへ、またも場をひっくり返すのは、あの男だった。

 

「姫様。──姫様、犬千代、長秀、半兵衛は……すでに私の恋人です。他の男のもとへ嫁がせるなど、私は全力で阻止いたします。必要とあらば、たとえそれが大名であろうと斬ってでも──」

 

 まるで「当然のことを口にした」とでも言いたげに、刃は静かに言い切った。

 

 その場の空気が、キィンと軋む。

 

 冗談でも、皮肉でもない。刃の声音に、迷いは一切なかった。

 

「ですので、私が女装して浅井家に赴くというのはどうでしょうか? ついでに、長政の暗殺も──」

 

 あまりにもスムーズに繋げられた提案に、信奈の動きが止まった。

 

 一瞬、脳が思考を放棄したかのように真っ白になり──そのあと、爆発した。

 

「ダメに決まってるでしょおおおおおおおおおッ!!」

 

 バァンッ!!!

 

 信奈の手が机を叩きつけた音が、広間中に炸裂する。

 

「いい加減にして!? 何度も言ってるでしょ!? 暗殺から離れなさああああああああああああい!!」

 

「しかし、戦略的には合理的かと。長政の首が落ちれば、浅井家の中枢は崩壊し──」

 

「戦略の話をしてるんじゃないのよおおおおおおお!? ていうか“女装して嫁ぐ”の方がよっぽど非合理なのよ!? 何? 本気なの? なんでそんなに堂々と真顔で言えるの!?」

 

 信奈は刃の顔を睨みつけた――が、そのまっすぐな眼差しに、思わず視線を逸らす。

 

 冗談ではないと、分かってしまったからだ。あの刃のことだ、本気でやるつもりだ。

 

(こいつ……ほんとにやる気だ……)

 

 内心、戦慄していた。

 

 あの刃が、“愛する者を守るため”と判断したなら、本当に女装して敵地に乗り込む。しかも、普通に美人に化けて、浅井長政に惚れられる可能性があるという事実が、信奈の精神をじわじわと蝕んでいく。

 

 そんな中、さらなる追い打ちが。

 

「あああああたしが行きましょうかっ!? ひ、姫さまのためなら、この柴田勝家ッ!! たとえ火の中! 水の中! 男の腕の中でもぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおッ!!」

 

 勝家の断末魔のような叫びが響く。

 

「おとこに、み、身を捧げる覚悟はできておりますぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅッ!! うぅっ、ぐすっ……!」

 

「六も何言ってんのよおおおおおおおおおおおおッ!!」

 

 信奈が振り返りざまに叫ぶ。

 

「六!! あんたが軍から抜けたら、うちの戦線崩壊するわよ!?誰が突撃槍を持つのよ!?わたしが行くの!? どうしてみんなして“自分が嫁ぐ”前提で話が進んでんのよ!?」

 

 信奈の悲鳴のようなツッコミが飛ぶなか、さらなる地雷が踏まれる。

 

「姫様、その時は私にお任せください。私一人でも、敵兵を殲滅してみせます」

 

 刃の静かな言葉が返ってくる。迷いのない殺意が込められていて、逆にゾッとした。

 

「だからそういう話じゃなぁぁぁいッ!!」

 

 信奈は叫びながら机を両手でバンバンと叩く。もはや思考の限界だ。

 

「だいたいね!? 織田家の姫は──あんたみたいな“ド派手なデカ乳”じゃないのよッ!!」

 

「がっ……ががが、がーんっ!? で、デカ乳……!? そ、それは、誉め言葉では……な、なかったのですか……?」

 

 勝家ががくりと膝をつき、その場に崩れ落ちる。目には涙。鼻をすすりながら、ぶるぶると肩を震わせていた。

 

もう、広間は収拾がつかない。

 

「誰かああああああああああああああッ!! この流れ止めてえええええええええええええッ!!」

 

 信奈が絶叫する。その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。

 

 と──冷静かつ致命的な追撃が、あろうことか長秀の口から放たれた。

 

「……姫。冗談抜きで、刃どのが女装して乗り込んだら、浅井長政が本気で惚れ込む可能性は、極めて高いと思われます」

 

 ピタリ、と時が止まった。

 

 全員の視線が、静かに刃へと向かう。

 

 本人は否定しない。むしろ、やる気だった。

 

 信奈の肩が震えた。

 

「な……なに言ってんのよ、万千代……そんなわけ、ないじゃない……」

 

 かすれた声で否定しようとするが、声に力がなかった。

 

「いや、俺もそう思う。刃って……顔も整ってるし、声も柔らかいし、肌もきれいだし、仕草も綺麗…… あいつが本気で女装したら、俺も普通にイケる気がするんだよな……」

 

 良晴までが、妙に真剣な顔で言い出した。

 

 信奈の顔が、真っ赤に染まる。

 

「ちょっと待って!? サル!? あんたまで何納得してんのよ!?!? おかしいでしょ!? ねえ!? 嫌だってばああああああああああああッ!!」

 

 叫び、わめき、とうとう信奈は机に突っ伏した。

 

「だめっ! 絶対だめっ!! 恋人が女装姿で男をたぶらかすとか、そんなの、そんなの──」

 

 震える声。背中が小刻みに上下し、感情が限界を迎えつつあった。

 

「……わたしの精神が保たないぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃッ!!!」

 

 ついに涙声で叫ぶ信奈。

 

 その声は、まるで恋人の浮気を目の前で見せられたかのような、切実な痛みを帯びていた。

 

「なあ。言いにくいんだけどさ……お市がいるんじゃないのか?」  良晴が、頭を抱えている一同におそるおそる声をかける。

良晴の戦国ゲーム知識では、織田家と浅井家の同盟は、長政に織田家のお市姫を嫁がせることで成立するのだ。

もっとも、その後この同盟は破れ、お市は夫・浅井長政の裏切りと切腹という悲劇に見舞われることになる。

それで今まで言いだせなかったのだが、誰も「お市」という名前を出さないので良晴もだんだん不安になってきた。

 

「は……はぁ? だ、誰よ、お市って?」

「お前の妹じゃねーかよ」

「姫様、妹君がいらっしゃったのですか?何で教えてくださらなかったんですか。姫様の妹君、守らねば」

「刃!落ち着きなさい。わたしに妹なんていないわよ。……え、いないわよね?万千代、何のことかしら」

「さて。さっぱりわかりません」

「そ、そうだそうだ。ひ、姫さまに妹君はいらっしゃらない!」

と、なぜか額から大汗をたらたら流す勝家。

「サル、わたしには弟しかいないわよ……ほら、そこで花魁に扮して踊っている、真のうつけ者・勘十郎」

 

信奈が呆れ顔で指差す先には、庭で親衛隊を引き連れて

「あらめでたや」と花魁踊りに興じているバカ殿・津田勘十郎信澄のあで姿が。

桶狭間では女装芸で姉を助けたが、今回ばかりは何の働きもしていない。

 

「姉上! おめでとうございます! 本日はわたくし、花魁・かんじゅろうとして姉上の門出をお祝い申し上げまする〜! いや〜、ぼくってどうしてこんなに美しいんだろう! ははははは!」

 

信奈は主立った者を周りに集めて、ニヤリと黒い笑みを浮かべた。

「……刃、サル、万千代、犬千代、六……どう思う?」

 

「……女装させて送り出すなら、やはり私の方が安全では?」

 

刃が真顔で口を開き

 

「……おいおい信奈、まさか……ゴクリ」

 

 良晴が生唾を呑む。

 

「……愉快ですが、バレたら長政どのは烈火のごとく怒りましょう。武力もないですし、危険な賭けです。五十点」

 

 万千代が理知的に減点をつけた。

 

「……男なのに犬千代より美人。くやしい……さんせい」

 

犬千代がぽつりと呟き、視線を床に落とす。顔にはうっすらと紅が差している。

 

 刃は思わず吹き出し、犬千代の頭をぽんぽんと撫でた。

 

「犬千代の方がずっと可愛いぞ」

 

「…………っ」

 

 その一言で、犬千代の顔が一気に真っ赤に染まった。耳まで火照り、もじもじと足元で指を絡める。だが、どこか嬉しそうだった。

 

「な、なに? ねえ、ちょっと、なんの話? あたしだけ、のけ者ってどういうこと!? うあああああああっ!?」

 

勝家は髪を振り乱して嘆き始めた。

 

 そのとき──

 

「勘十郎どのを浅井家に嫁がせましょう……」

 

 柱の陰から、声がした。

 おそるおそる姿を現したのは、半泣きの半兵衛。

 

「ふ、ふたりは……あ、あ、相性……ぴ、ぴったり……です……!」

 

「えっ、それってどういう意味だよ」

良晴が首をひねるが──信奈は、満面の笑みを浮かべた。

 

「なるほど! 知恵者の半兵衛が太鼓判を捺すなら、間違いないわね!」

 

 ぴしゃりと扇子を閉じ、信奈は号令をかけた。

 

「それっ! みんな、勘十郎を引っ捕らえなさい!」

 

「えっ? えっ!? 姉上? これは何の遊びですか? ははは……あれっ? なぜぼくは縄で縛られているのだろう……?」

 

煙とともに庭先に出現した五右衛門が、見事に信澄を捕縛。

 

「お市さま、お覚悟なされるでござる!」

 

「や、やあやあ、乱波くん? お市さまって、誰のことを──」

 

「あなたでござる」

 

「へっ!? ぼ、ぼくの名前は勘十郎信澄──」

 

「本日ただ今より! 浅井長政どのの奥方──お市姫でござりまちゅ!!」

 

「ま、ま、待って姉上ぉぉおお!? ぼく、こんなに美しいけど、そ、そんなつもりじゃあああっ……! あ~れ~!!」

 

 哀れ勘十郎は、華やかな花魁衣装のまま縄でくくられ、籠に押し込められて「えっさ、ほいさ」と近江路へと運ばれていったのだった。

 

 ──こうして、浅井家と織田家の政略結婚は、思わぬ形で成立を見ることになる。

 

 信奈は、満足げに扇子を鳴らして言った。

 

「……うん。バカでも美形は、役に立つわね♪」

 

浅井家との同盟問題を見事に片付けた(?)信奈はさっそく城と町の名前を「岐阜」に改名するというお触れ書きを右筆にしたためさせると、新しく作ったばかりの印章を自らの手でその書類に押した。

その印章に彫られた文字とは──。

天下布武。乱れた天下を、自らの武力によって統一する。

ついに悲願の美濃を手中に収めた信奈による、堂々たる天下盗り宣言だった。

 

「いよいよ、上洛だわ! 京の都に上り、天下に号令をかけるのよ!」

やれやれこれでまた敵が増えますねと嘆息する長秀。

姫様の前に立ち塞がる者は斬るのみだと刃。

「なんて読むの、このハンコ?」と涙目の勝家。

そして「とうとう、この時が来やがった……!そろそろ流浪の室町将軍・足利義昭が信奈のもとへと転がり込んでくる頃合いだぜ」と内心で燃えている良晴。

しかし、転がり込んできたのは、もっと大変な知らせだったのである。

 

 

 

 

 

 

半兵衛をどっちのヒロインにするか

  • 良晴
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