翌日から、各武将は三好の残党が居残っている畿内を平定するべく四方八方に散った。
京の中心部に位置する「やまと御所」の警備役を仰せつかった刃と良晴も、ゆっくりしている暇などない。
やまと御所の公家には武力こそないが、伝統と格式そして何よりも御所にこの国の神事を統べる姫巫女さまを擁しているという一事をもって、いまだに武家に対して官位役職を与えるという権威を持っていた。
足利将軍家も、やまと御所から「征夷大将軍」の位を授かることではじめて幕府を開くことができたのだ。
とはいえ、「応仁の乱」以来繰り返される戦乱によって京の都は荒れ果て、由緒あるやまと御所も今は壁が無残に崩れ落ち、京童が庭の中を物珍しげに覗き見しにやってくるという有様だった。
京を荒らしていた松永弾正はやけにあっさり大和へと帰国したが、もう一方の三好一党はいまだ摂津に拠点を構えて信奈に抵抗している。
このような不安定な情勢なので、御所の警備は重大な職務といえた。
信奈の懐刀であり、彼女にとって最も信頼を置く人物である刃が、その任務に選ばれたのは当然だった。
「……俺も勝家と一緒に摂津へ攻め込みたかったぜ」
当世具足に身を包んだ良晴は、御所の堀端を巡回しながら、腰の刀を指でつつきつつ不満げにこぼした。
その顔にはどこか子供のような悔しさがにじんでいる。
「何で戦えないのに、そんなに戦がしたいんだお前は」
刃は、隣を歩きながら眉ひとつ動かさずに言い返す。
いつもの冷静さだったが、その語気にはほんの少し呆れも混じっていた。
「いや、戦そのものがしたいんじゃなくてよ……なんつーか、血が騒ぐんだよ。ああいう緊迫した空気とかさ、やっぱ男のロマンっていうか?」
刃がため息をつく中、良晴は唐突に空を見上げた。
陽は高く、澄んだ夏空が京の空に広がっている。
「それにしても、遅いなあ……」
何が遅いのか。
そう、今川義元への将軍宣下である。
信奈がこの政権を盤石なものとするためには、「朝廷の承認」という最後の鍵が必要なのだ。
「確かにな。姫様があまり長く尾張を空けているのはよくない」
刃の表情も、さすがに真剣みを帯びていた。
御所との交渉役を任されているのは明智光秀──通称・十兵衛。
だがその光秀も、肝心の関白にまだ面会すらできていないという。
かんじんの関白が、京にいないのだそうだ。
「とはいえ、十兵衛ちゃん以外に公家衆とまともに渡り合える教養人なんて、織田家にはいないしな。のんびり待つしかねぇか」
良晴の声は、どこか諦観まじりだが、その表情はどこか柔らかい。
かつてはただの新入りだった彼にとっても、今や光秀は親しみのある後輩のひとりだ。
――育ちの良さがにじむ所作、理知的で凛とした佇まい、柔らかで清楚な言葉遣い。
信奈のような傍若無人な性格とはまるで正反対で、まるで透き通った泉のように、光秀の存在は良晴の心をなごませる。
「……あいつ、ほんと真面目でかわいいよなぁ。ちょっとおでこ広いけど」
そんなことを呟きながら、良晴は自分でも気づかぬうちに、口元にふっと笑みを浮かべた。
「相良先輩」と無邪気に呼びかけられるたびに、ふらりと心の奥が揺れる。
「あれが尾張のおサルさんやぁ!」
「白刃さまもおる!」
「白刃さまーっ!」
御所を覗きに来ていた京童たちが、いっせいに囃し立ててくる。
「こらこら。ここには超やんごとなきお方がいらっしゃるんだ。覗くな覗くなー」
良晴が手をひらひら振りながら牽制するが、まるで効果なし。
「サルがなんか言うとるわー」
「おお、俺はサルだ!悪ガキどもはこの鋭利な爪でひっかいちまうぞー、うっきーッ!」
ぐわっとポーズを決めた途端、京童たちが悲鳴を上げて一斉に逃げ散った。
「子供相手に何やってるんだお前……」
刃が呆れ顔で横に立つ良晴を見下ろす。
「いやあ、あいつら最近ナメてくるからな。たまには威厳ってもんを……」
そのとき、良晴の視線が刃の隣でぽつんと立っている一人の少女に止まる。
「……なぁ、刃? その隣の子、だれ?」
赤と白の対照的な巫女装束に、まるで人形のような整った顔立ち。
長いまつげに、大きく澄んだ瞳。だがその表情は──限りなく無表情だった。
髪は禿で短く揃えられ、年の頃は七、八歳といったところか。
「知らん。さっきから、俺の横にいるんだ」
「……」
少女は何も語らない。ただ、ぴたりと刃の足元に立ち尽くしている。風にすら揺れず、息づかいすら聞こえないその姿は、まるで幻のようだった。
「ん? どうした?」
刃が何かを感じ取ったように、微かに眉を動かす。
くい、くい。
小さな手が、彼の袖を引いた。微かに、だがはっきりとした力で。
「……」
少女は何も言わず、じっと前方を見つめている。視線の先にあったのは、かつての御所。その一角──崩れかけた土塀の、ひび割れから向こう側をうかがえる隙間だった。
「お庭を見物したいのか? ……いや、やめといた方がいいぞ。あそこは、えらい“やんごとなきお方”が住んでる場所だ。今は落魄してるとはいえ、勝手に覗いたら怒られちまう」
良晴が刃の代わりに、どこか子供に諭すような声で言った。
だが──。
「……」
少女は、返事の代わりに、ただ静かに刃を見上げた。無表情なその顔が、ほんのわずかに角度を変えて──まっすぐに、刃の目を射抜くように見つめる。
「中を見たいのか?」
刃の声が低く問う。答えはない。だが、沈黙が肯定だった。
「ふむ。見るだけなら、いいか……」
少女の手を引き、崩れた壁際へと連れていく。しかし、肝心の隙間は大人の目線でも高く、少女の背丈では届かない位置にあった。
「……」
少女は一歩前に出て、じっと裂け目を見上げる。
何も言わず、何も要求せず。だが、刃は一拍の間ののち、ふっと息を吐いて頷いた。
「分かった」
その言葉と同時に、刃は少女の小さな体をそっと抱き上げた。
まるで風を持ち上げるような、軽やかな動きだった。
「は? ちょっ、刃!? 急にどうした!? いや、その子、ひと言も喋ってないよね!? 何が分かったんだよ!?」
良晴が思わず素っ頓狂な声を上げたが、刃は平然と答えた。
「目で“抱き上げてほしい”と言っていた」
「いやいやいや、どういうことだよ!? 初対面の幼女と目だけで会話すんな! こっちはまだ名前すら知らないんだぞ!?」
「……」
だが、少女は何も言わず。刃の腕の中で、ただじっと御所の向こうを見つめ続けていた。
「……あ……」
ぽつりと、息のような声が少女の唇からこぼれた。
「どうした?」
刃が訊ねるが、少女は黙ったまま、じっと刃の顔を見つめている。
「……俺の顔に、何かついてるか?」
返事はない。だが、少女の眼差しは明らかに──庭の中に注がれていた。そこを、ただ見つめていた。
「見るといい」
刃が優しく囁くと、少女は、こくん、と小さく頷いた。
二人の視線の先には、御所の庭──今は荒れ果て、雑草が茂り、誰の気配もない。だが、その中心に、一本の巨大な杉の木が屹立していた。
太い幹には、今も朽ちかけた注連縄が結ばれている。かつては神木として祀られていたのだろう。
そして、枝葉の間。
遠目にはただの影に見えたそれが、風に揺れた一瞬、鮮やかに白く翻った。
──白い凧だった。
細く裂けた枝に絡みつき、今にも破れそうにぱたぱたとはためいている。
「……」
少女は何も言わず、ただその凧を見つめ続けていた。
「……もしかして、あれを取ろうとしてたのか?」
刃の問いに、少女は瞬き一つせずに視線を向けた。言葉はない。しかし、その眼差しは雄弁だった。
まるで「うん」と、頷いたように見えた。
「よし。俺が取ってこよう」
ごく自然にそう言ってから、刃はふと躊躇いを見せる。目を細め、御所の庭を見やった。
「……ただ、勝手に中へ入っていいものか。ここは──」
しかし、横目で少女と目を合わせた瞬間、迷いは霧のように晴れた。
なぜか。
会話などしていない。
でも、確かに“分かった”のだ。
「……そうか、問題ないのか」
なぜか、アイコンタクトだけで意思疎通が成立していた。
「……いやいやいやいや、何で納得してんだお前!?」
良晴がすかさず大声を上げる。
「お前ら目だけで会話してんじゃねーよ! 何だよその信頼感!? 初対面だろ!? 熟年夫婦か!? なんでロリっ子の好感度だけお前そんな高ぇんだよ!!」
「……」
少女は変わらず無表情だったが、その黄色の瞳の奥に、うっすらと光が宿った──ように、見えた。
まるで凪いだ湖面に朝日が差し込んだかのような、かすかな輝き。
そして、肩が……ほんのわずかに、上下に揺れた。
(──喜んでる……のか?)
無言。無表情。だが、確かに、そこには確かな“感情”の波があった。
刃は一言、静かに告げた。
「……こんなところを姫様にでも見つかったら怒られてしまう。だからこれは──秘密だ」
「……」
少女は、こくり、こくり、とゆっくり何度も頷いた。その所作すら静謐で、まるで神前の巫女のようだった。
その姿に、良晴はふっと息を抜く。
「おしゃべりなねねとは真逆だけど、無口な幼女……ってのも、案外アリだな。癒される……」
そのまま、庭の中へ。
少女をそっと芝生の上へ下ろすと、刃は一歩下がり、足をわずかに開いた。
──次の瞬間。
たんっ。
地面を蹴る音と同時に、刃の姿が空へと跳ね上がった。黒衣がひるがえり、流星のように杉の大樹へと向かう。
太い幹に、一度足を掛けて跳躍。
次に掴んだのは、しなる枝の先端。
そこから、まるで木の精霊でも乗り移ったかのような軽やかさで、枝から枝へ、駆けるように登っていく。
「……いやいやいやいや、なんなんだよアイツ。忍者か? いや、もはや常識の範疇外だろ!」
良晴のツッコミも虚しく、刃はまるで“この世の物理法則を一瞬だけ忘れているかのような動き”で、凧の引っかかった枝まで到達すると、ひょいと手を伸ばし──
くいっ。
絡まった糸をほどき、凧を手に取ると、今来たルートを逆にたどるように、同じような軽やかさで地面へと戻ってきた。
着地の音すらなく、砂埃一つ舞い上がらぬまま、刃は少女の前へ戻ってきて言った。
「……これでいいか?」
少女は、刃をまっすぐに見上げ、こくり──と、一度だけ頷いた。
その瞬間だった。
──ちょろっ。
凧を抱きしめたまま、少女はくるりと身を翻し、庭の奥へと駆けていった。
小さな足音が、草の上を軽やかに走っていく。
「お、おいっ!? こら待てーっ! そっちは公家の住まいの方だぞ!? 刃!止めないと──!」
刃と良晴は、少女の後を追って御所の庭の奥へ踏み出そうとした――そのときだった。
「な、何者じゃっ!」
突如、建物の奥から複数の男たちの怒声が飛んできた。下級の公家か、それとも警備の者か。どちらにしても厄介だ。
「やべっ! バレたっ! とりあえず逃げるぞっ!」
良晴が叫び、転がるように壁の方へダッシュする。
刃は冷静に身を翻すと、さながら風のように無音で塀を跳び越えた。
一方の良晴は――
「せいやあっ!」
裂け目に勢いよく飛び込んだものの、着込んだ具足が引っかかって抜けない。
「ひええ、出られねえっ!? は、挟まったあああ!」
「早く出ろ」
戻ってきた京の童たちが、わらわらと集まり始めた。
「見てみ、またサルや!」
「裂け目に自分で挟まって、もがいとるで!」
「柿でも盗もうとしとったんちゃうか〜?」
笑い声、冷やかしの声、石まで投げられそうな勢いだ。
(くっ……こんな間抜けな姿を姫様に見られたら、絶対一ヶ月はネタにされる……!)
「そうはさせるかあっ! ぬおおおおお!」
根性と羞恥心で限界突破、気合い一閃。
ぼむっ!
無理やり抜け出した瞬間――
がらがらがらっ!!
裂け目の周囲の壁が一気に崩れ落ちた。
「ぎゃあああああああっ!?」
現代で言えば、皇居の塀を破壊するような大失態。全方位から冷や汗が噴き出す。
だが、それで終わらなかった。
「うおっ、っとととと――」
体勢を崩した良晴は、よろけながら前へ突っ込む。
そして。
ガツンッ!!
「ぐふっ……!?」
タイミング悪く牛車から降りてきたばかりの、いかにもやんごとなき装束の公家の顔面へ、良晴の頭がヘッドバット気味に直撃してしまった。
真っ白な装束に血の気が引く。
辺りが凍りつく。
「な、何してるんだあの馬鹿は……」
塀の上から様子を見ていた刃が、呆れを込めた声を漏らす。
だがそれどころではなかった。
「というわけで、不埒な賊に、麻呂が誇る蹴鞠の技をくれてやるでおじゃる!」
鼻血をすすりながら杓子定規に怒鳴るのは、近衛前久。牛車から降りたばかりの彼は顔面を押さえながら怒り狂っていた。
彼はぐらりとよろめきながらも、放たれたのは──蹴鞠。
ゴムのように軽やかに跳ねるそれは、良晴めがけて勢いよく飛んでいった。
「ゴフッ、ま、待てって! 俺たちは織田家の部将なんだ! 信奈に命じられて御所の警備を――」
良晴は腹を押さえてうずくまりながら、苦しげに叫んだ。
「だまりゃっ! 嘘を申すなでおじゃるっ! そのような下卑た輩が、どこの世に公家の御所を壊す武士がおるでおじゃるかっ!」
「だったらあっちを見ろ! あそこにいるのは“墨俣一夜城の天城刃”だ! 名は知らなくても、その名は京中に響き渡ってるはずだろ!」
前久が目を細めて、刃の姿を遠目に確認する。
「ほ……ほほ、ほ。ならば、あれが噂に名高き“死神”でおじゃるな? 尾張のうつけ姫め、死神などという不吉な者と、このようなどこのサルの骨とも知れぬ者を送りつけるとは、さすがは田舎者じゃ!御所を穢すでない!」
「信奈をサル扱いすんなっつってんだろうがあああっ!」
「そのような役目は武士の当然の務め。礼など不要! 感謝を求めるなど下賤の者の証拠!」
「お前ぇ……! てめぇ、ほんと寄生虫だなっ!!」
怒りのボルテージが限界突破。良晴は拳を握りしめた。
「おおおっ!? その穢れた手で麻呂に触れるなでおじゃるううう! 穢れがうつるぅ!」
「てんめええええええぇぇぇッ!!」
「……ふふ。麻呂に手を上げるでおじゃるか? この御所でそれをすれば、織田家はたちまち朝敵でおじゃるぅ?」
「くっ……!」
殴ることができない。
良晴は、織田家の正規の部将だ。ここで公家に手を上げれば、外交問題どころか、信奈の立場を大きく損ねてしまう。
「ほれ、ほれぇ。どうした、殴らぬのか? ほぉれ、天と地の身分の差を知ったか? 穢れたサルの分際で高貴なる麻呂に逆らうとは、身の程をわきまえぬにもほどがあるでおじゃる!」
その顔はもう、勝ち誇った王のそれだった。
ぐぬぬぬぬ……!
良晴の歯ぎしりはついに奥歯をきしませた。
(ここは……くそっ、耐えるしかねぇ……! 頭を下げて……こらえろ、俺……!)
良晴が、ついに屈辱の極みと共に頭を下げようとした、その瞬間――
「そのサルはわたしの飼いザルよ、勝手なことしてくれちゃ困るわね!」 颯爽と、馬で駆けてきた。 信奈だった。
南蛮兜を頭にかぶり、背中からは紅いビロードのマントをはためかせていた。
信奈は明智光秀と身近な小姓衆だけを連れて、今川義元を乗せた輿を連れながら御所の周囲をパレードしていたのだ。
「そちが……そちが織田信奈でおじゃるか!」
関白・近衛前久が、信奈の姿を見て顔を引きつらせる。
「この行軍は、まさかっ……今川義元に将軍宣下せねば、御所を襲うという恫喝でおじゃるな!? 脅しで朝廷を動かすつもりかぁっ!?」
わめき立てる前久を一瞥すると、信奈は冷ややかな視線を良晴に向けた。
「サル、なに? この麻呂。御所を襲うだの、何をわけのわからないこと言ってるの?」
「おれもよくわからんが……やたらテンションが高くて好戦的な麻呂だ。しかも関白・近衛前久らしい」
「へえ、関白ねぇ……。じゃあ、実際に武家へ官位を与えてるのはこの小物ってこと?」
信奈は鼻で笑い、馬を一歩進めてそのまま近衛前久を馬上からじろりと見下ろす。
その表情はあまりにも涼しげで、あまりにも高位高官を恐れていなかった。
「ぬぬぬ。麻呂を捕まえて"こいつ"とは何でおじゃるか。下郎!山猿が!馬から下りるでおじゃる!」
前久が激昂した瞬間――
ゾワッ
空気が一瞬にして張りつめた。
直後、刃の瞳がかすかに細められ、視線を前久へと移す。そこに込められたのは、氷のような冷気と、鋼のような殺意。
「良晴が間抜けだったとはいえ……姫様への無礼は、許さない」
その声音は極めて静かだった。だが、その場にいた者の誰もが背筋を凍らせた。刃の指が、ゆっくりと刀の柄へ添えられた瞬間、空気そのものが揺らいだように感じた。
「き……き、貴様……目が本気でおじゃるな……!」
前久が一歩、後ずさる。
その瞬間、信奈は馬上で声を張り上げた。
「近衛前久!」
鋭い一喝に、公家たちが息を呑む。
「真にこの国の戦乱を憂うのであれば、わたしに協力するのが筋でしょう。さっさと今川義元を将軍になさい!」
「な、なんたる雑言、許せぬでおじゃる!」
「それを、姫巫女さまの権威をかさにきてわたしの家来をいじめるだなんて……聞けば、南蛮の宣教師どもを京から追放したというし。それで京の町ってこんなに古くさいのね。公家のやり方は昔から変わらないわね」
京の都を眺めながら、鼻で笑うように吐き出されたその一言が、近衛前久の癇に障らないはずがなかった。
「だ、だまりゃああああああああっ!!」
突如として、近衛前久が金切り声を上げた。顔を真っ赤に染め、癇癪を起こしたように腰から蹴鞠を取り出すと、まるで戦のような勢いで信奈めがけて蹴り抜いた。
「麻呂の高貴なる蹴鞠の技、とくと見よでおじゃるううう!!」
――ブンッ!!
風を裂く音が響いた。鞠が、空気を切り裂いて一直線に信奈の顔面を狙って飛ぶ。速度も角度も、侮れぬほど鋭い。が、それを迎える信奈の表情に、微塵の恐れはない。
むしろ、涼しげな視線で鞠の軌道を眺めるだけだった。
次の瞬間。
ぱしっ。まるで風が指先で止まったかのように、鞠は空中で静止した。
いや──止めたのは、刃だった。
右腕一本。ほんの指の力だけで、鞠の全勢いを吸収し、しなやかに受け止めたのだ。まるで、それがあらかじめ決められていた動作のように、自然で、無駄のない動きだった。
信奈は、刃が受け止めてくれると知っていたように、微笑を崩すことなく背筋を伸ばしたまま。
「……っ!」
どよめきが、波紋のように広がる。
京の民も、織田の兵も、そして前久すら、目を見開いて絶句していた。
「遅い。……そして、弱い」
刃の声は平坦だった。だが、その響きは凍てつくような冷気を含んでいた。
無造作に蹴鞠を空中へ放り上げる。軽やかに舞い上がったそれは、まるで時間すら忘れたかのようにふわりと宙を漂う。風が止んだかのような静寂の中、刃の人差し指が鞠をぴたりと受け止める。
刹那、誰もが息を呑んだ。
そのままふわりと掌に落ちた。まるで、それが当然であるかのように。
「良晴。……お前、これに当たって悶えてたな?」
視線だけを横に流し、冷ややかに告げる。
「みっともないぞ。貧弱すぎる」
「ちょっ……それは、言いすぎ──」
「俺が鍛えてやろうか?」
微塵も笑わない顔で、刃は本気で言った。
「いやぁぁぁぁぁぁぁっ!? む、無理無理!遠慮しますぅっ!! それってつまり殺られるってことだろ!?」
良晴は顔面蒼白で両手をぶんぶん振って後退した。内心は文字通り命の危機。いつもの軽口を叩く余裕すらなく、ただ信奈に助けを求めて目を向ける。
だが、当の信奈は──。
「近衛前久! 残念だったわね!」
紅のマントをひるがえしながら、馬上から勝ち誇ったように見下ろしていた。
「刃がいる限り、わたしに危害を加えるなんて──誰であろうと不可能よ!さあ、刃!やり返してあげなさい!」
「お任せください──誰を狙ったのか、はっきり身体に教えて差し上げましょう」
低く、鋭く、刃の声が響く。
一歩。彼が前に出た瞬間、空気が変わった。
圧がある。日差しの中にもかかわらず、体温が一気に数度下がる錯覚。周囲の京童たちの喉が、ごくりと鳴る。
「ダメェェェェェェェ!? やめろぉぉぉぉぉぉっ!! 刃!! やるな!! 絶対やっちゃダメぇぇぇっ!!」
良晴の声が、京の御所の広場に甲高く響いた。
真っ赤な顔で必死の絶叫を上げながら、良晴は全力で駆け出し、刃と近衛前久のあいだに体を滑り込ませた。まるで暴走する列車の前に飛び出すかのように、両腕を広げ、刃の前に仁王立ちになる。
「ちょ、信奈!? やらせんなよ!? お前、自分の懐刀が“織田軍最強”ってこと、マジで忘れてないよな!?」
汗が額を伝い、顎から滴り落ちる。だが良晴の目は真剣だった。
「あんなもんにやられたら──関白の命、五秒持たねぇからな!?蹴鞠くらった関白が吹っ飛んでそのまま成仏とか、シャレにならねえんだぞ!?」
その言葉に、場の空気が一瞬ざわついた。
「一般人に、逸般人ぶつけるなっ!公家相手に戦国最強の剣士ぶつけるって、どういう冗談!?バランスってもんがあるだろ!? これはもう防衛じゃないから! 過剰戦力通り越して、戦争だっての!! 対人戦に核持ち出すようなもんだぞ!」
全身で訴える良晴の言葉は、必死であればあるほどに、滑稽にすら見えてしまう。しかし、それが逆に場の緊張を一層際立たせていた。
「うーん……でもねえ?」
信奈は面白がっているように目を細めて言った。
「やられたらやり返す。倍返し、十倍返しが信奈流なんだけど?」
「お前、今時代を先取りしすぎてるよ!? ドラマみたいな台詞を実行しようとするなぁああああっ!」
「やらせてみたら? ちょびっとだけ?」
「ちょびっとって何だよ!? その“ちょびっと”で死人が出るから今こうして止めてんだよ!! 歴史に名を残すレベルの事件になるんだぞ!?」
良晴は両手をバタつかせながら叫んだ。
「『蹴鞠で制裁された関白、御所で成仏す』とか、笑い話じゃ済まねえよ!? 戦国最大の不祥事だぞ!?未来の教科書に載るってば!! “天城刃、関白を一撃で粉砕”って!!戦国ブラックジョークだぞ!?」
その叫びに、京童たちの中からくすくすと笑い声が漏れ始めた。だがその一方で、良晴は刃の手元の鞠から目を離せなかった。
──なぜなら、それはもはやただの遊具ではなく、凶器としての存在感を放っていたからだ。
必死すぎて声が裏返った良晴に構わず、刃は前久をまっすぐ見据えたまま、手の中の鞠をくるくると転がしていた。
「刃、落ち着いてくれ! 頼む! その手を離してくれ!鞠で命を奪うようなこと、普通しないんだよ!!常識が死ぬ!!歴史が狂う!!」
刃の手にあるのは、ただの鞠――遊び道具でしかないはずのそれが、今や“死”そのものに見えた。
その空気を裂いたのは、前久の護衛の怒声だった。
「先程から聞いておれば──無礼だぞっ!!」
男は、憤怒に顔を染めながら一歩前に出る。
その目は信奈を睨み据え、刃を睨み据え、まるでこの場においてまだ自分の“正義”が通用するとでも思っているようだった。
「お、おい……! やめろ!! 死にたいのかお前っ!? あいつはな、刃は……信奈のことになると容赦しないんだぞッ!!!」
良晴の悲鳴にも似た忠告は、届かない。
「跪いて詫びよ! 無礼者は、おのれの非を悟り、山猿らしく土を舐めて許しを乞うがいい。まぁ、見た目は良いからな……関白さまの伽の相手にでも、な」
──カツンッ。
刃が片手で鞠を軽く弾ませた。柔らかな打音は、まるで何事もなかったかのような、日常の延長にある無邪気な遊戯のようだった。
だが、その直後。
バシュッ──ッ!!
空気が裂けた。爆ぜるような風切り音。見る間に、刃の脚が閃き、放たれた鞠が鋭い音を立てて護衛へと襲いかかる。
ドゴォッッ!!
重く鈍い音が響いた。鞠が鎧の胸部に突き刺さった瞬間、まるで見えない拳で殴られたように、護衛の体が宙へと吹き飛ぶ。
ゴギャリ──ッ!!
甲冑が凄まじい音を立てて潰れ、そのまま男の体は数メートルも先の地面へと叩きつけられる。転がった拍子に、兜が外れ、露わになった顔は血に染まり、意識は既に飛んでいた。
その凄絶な光景に、空気が凍りついた。
周囲にいた武士や家臣たちは、誰もが目を見開き、息をすることさえ忘れていた。まるで時間が止まったかのように、場が静まり返る。
……そして、次の瞬間。
ポスン。
鞠が、何事もなかったかのように刃の腕へと戻ってくる。放った者のもとに正確に帰還するその球は、もはや“道具”などではなく、意志を持った殺戮兵器のようですらあった。
「……うるさいぞ、無礼者が」
刃は冷ややかに吐き捨てた。感情の一切を削ぎ落とした声。虫けらでも見るような視線で、鞠を指先に乗せながら、そのまま淡々と続ける。
「貴様のようなゴミが、姫様のお顔を間近で拝せるなど──本来なら咽び泣いて感涙し、ひれ伏すべき栄誉だ。それを、愚弄するとは」
その言葉に、誰も反論できなかった。誰も、口を開くことができなかった。
「しかも、関白の夜の……何だと? 何と言った? 伽だと? 姫様に、俺の女に、伽をさせるだと……?」
刃の声が低く、冷たく沈む。その瞬間、周囲の空気すら凍りついたように重たくなった。次の動きが読めない。誰もが、口を閉ざし、ただ息を潜めていた。
「答えろ。貴様が言った言葉を、もう一度聞かせろ。……ああ、もう答えられんか。ならば──」
刃の声音は、氷のように冷たい。その表情に、怒気はない。ただ、冷酷な“処刑人”の静けさがあった。
──バシュッ!!
足が再び閃き、鞠が音速で大地を切り裂いた。
次の瞬間――
ボギャァァアアアアアッ!!!!
あり得ない音が、空気を揺らした。鞠が、倒れ伏した護衛の右腕に直撃。肘から先が、ありえない方向へと“折れ曲がる”というより“ねじ切られる”ようにして砕けた。
骨の砕ける音。肉が裂ける感触。鈍い衝撃音の直後、地面に血が飛び散り、男の体がびくんと跳ねた。
「があああああああッッッ!!!」
絶叫。いや、悲鳴ですらなかった。魂そのものを引き裂かれたような断末魔。護衛の男は、痛みに目を剥き、喉をかきむしるように叫びながら、口から泡を吹いて、ぶるぶると痙攣したかと思うと――ぐったりと意識を失った。
静寂が落ちる。
その場にいた全員の血の気が引き、誰一人として声を発する者はいなかった。風の音さえ止まったかのような、異様な静けさ。
そして。
トン……。
鞠が、再びぴたりと刃の掌に戻ってくる。まるで“主の元へ帰ってくる”ために生まれたかのように。
刃は、口の端だけをわずかに吊り上げた。だがそれは、笑みではなかった。
「──ちっ。根性のない虫ケラが」
つぶやくその声音には、軽蔑と失望しかない。
容赦も、慈悲も、そこにはなかった。
まるで道端の石ころでも蹴飛ばすような、どうでもいい存在に向ける言葉。彼にとって、あの護衛は、殺す価値すらない“モノ”だった。
信奈はふんわりと微笑んだ。
「ふふっ……“俺の女”、ね。いい響きじゃない……?」
頬をうっすらと赤らめた彼女の声は、どこか照れくさげで、それでいて誇らしげだった。
己のために怒りを燃やす最強の懐刀、その刃が、迷いなく“自分の男”として振る舞ってくれたことが──何よりも、嬉しかったのだ。
「……気っ持ち悪かったわね。刃、よくやったわ。さすがはわたしだけの懐刀よ!」
信奈は顎をほんのり上げ、悠然と頷いた。美貌に浮かべたその微笑は、まるで天女が恋人に微笑むように柔らかい。恋人が、自分のために、たった一蹴りで敵を吹き飛ばした。それも“鞠”で。彼女にとっては、それが何よりの快感だった。
だが、その隣では。
「やっぱりかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!?!?」
良晴が頭を抱えて絶叫した。眼球は今にも飛び出しそうに見開かれ、顔面は引きつり、冷や汗がダラダラと額から垂れ落ちている。
「いや、おかしいだろ!?!?!?分かってたけど!今の、ただの鞠だぞ!? 皮だぞ!?なんでそれで腕がひしゃげて、鉄の鎧があんな形に凹むんだよ!!?推定体重百キロのゴリゴリの護衛が数メートル吹き飛んだんですけど!?っていうか、鞠の弾道おかしくなかった!?カーブしてなかった!?追尾性能あるの!?え、あれ自動追尾型!?マジで!?」
前久の護衛がぶっ飛ばされた方向を振り返り、良晴は膝から崩れ落ちる。
「いやいやいやいや!!おかしいって!!常識で考えてくれよ!?鞠って、武器じゃないんだぞ!?歴史書にも“武器:鞠”って書かれた例なんて一つもないからな!?もう戦場で使えるだろ!?戦国の主兵装、鞠になるぞ!?そんなんアリかよ!?日本史、書き換えだろ!?種子島どころか、鞠の時代来ちゃうだろ!?」
良晴はもはや錯乱していた。両手で頭を抱え、髪を振り乱し、地面を転げ回る。
「おまけに……アレが“手加減”だとぉ……?」
「これでも、姫様の前だ。加減はしたつもりだが?」
と、刃は至極真面目な顔で答えた。
「“したつもり”であれかよ!? じゃあ本気出したらどうなんの!? 敵の隊列に投げたら、二列貫通するの!? 人間が雑巾みたいに裂けるの!?鞠が人を殺す時代とか、どこの黙示録だよ!? “戦国時代の蹴鞠による粛清”とか、誰が予想できるんだよ!? 教科書に載らねぇからな、こんなの!!」
地面に突っ伏してジタバタと暴れる良晴。その動きはもはや虫けらのそれで、誰も彼を止めようとはしなかった。むしろ、あまりにも的確すぎるツッコミに、場の緊張すらどこか歪み始めていた。
「馬鹿だろ!? そもそも蹴鞠って、もっとこう……優雅な雅の遊びじゃん!? 平安貴族が月見のあとにやるアレじゃん!? なんでそれが戦国の主戦力になってんの!? 間違ってるだろ!? 刀や槍や鉄砲の立場はどうなるんだよ!!何!? “静なる武”か!? “雅の暴力”か!? もはや文明が滅ぶぞ!!」
「サル、あんたも一応男でしょ? 男ならこれくらい、出来なくてどうすんのよ」
信奈が当然のごとく言い放つ。
「いやいやいやいや!?!?普通の男は出来ねぇよ!?!?信奈!?お前、“普通”の基準が完全にバグってるからな!?コイツと一緒にいるせいで常識が壊れてるんだよ!?普通の男は、蹴鞠一発で鎧ごと人間をぶっ飛ばすとか、相手の腕を折るとか無理だからな!?これを普通って言ったら、もうこの世界に“人間”いなくなるんだよ!!みんな“バケモノ”扱いになっちまうんだよ!!!」
信奈はきょとんと目を瞬かせたが、すぐにあきれたように小さく肩をすくめる。
「……あんたがもっと鍛えてないのが悪いのよ。まったく、へなちょこすぎるわ」
「へなちょこっていうか、コイツが異常なの!バケモンなの!いっそ国宝に指定されて保護対象にしてもらわないと、周囲の人間が身の危険を感じるレベルなんだよッ!!そもそも“懐刀”ってそういう意味じゃないからね!? 暗殺兵器じゃないからねッ!!」
そんな良晴の悲鳴もどこ吹く風。
刃はただ静かに、手のひらで鞠を軽く弾ませながら――まるで何かを納得するように呟いた。
「……蹴鞠は、古来より武士の嗜みと聞いた。体を鍛え、礼を学び、心を練る……“武道”とは、そういうものだろう。であれば、戦場での応用もまた、必然と言えるのではないか?」
「なるかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああッッッ!!!!???」
良晴の悲鳴はもはや神託の如き轟きとなり、京の空にこだました。
「誰だよそんなこと吹き込んだの!?蹴鞠は武道!?そんなバカな話あるかよ!!どこの誰が“蹴鞠は殺意の象徴”とか教えたんだよ!?もうその発想が怖いんだよ!!文化と武力が融合してどうすんだよ!?」
良晴がもはや涙を浮かべて絶叫している横で、刃が蹴鞠をもう一度ふわりと宙に放る。まるでその手にあるのが“殺傷兵器”ではなく、ただの風船であるかのような優雅さだった。
「だが……姫様の目の前で、あのような下劣な罵倒を吐いたのだ。軽く蹴飛ばした程度で済ませたのは、むしろ慈悲と受け取るべきだろう」
「慈悲ぃいいい!?絶対後遺症残るあれが、慈悲だと!?一回意味を調べてこい!てか鞠が腕に帰ってくるってなに!?円周率の概念超えてんじゃん!!」
刃の蹴鞠の犠牲になった護衛には、周囲の者も誰ひとり近づこうとはせず、半ば伝説を見るような眼差しで刃を見つめている。
「……ああ……これはもう……『天の白刃、蹴鞠で人を飛ばす』って噂が京中に広がるな……」
良晴が項垂れ、静かに呟いたその言葉は、数刻後、本当に現実になるのだった──。
⸻
「信じられないわ。岐阜を出立する際に、御所から内諾を得ていたはずなのに。近衛前久のせいで将軍宣下の儀が中断されちゃったじゃない!」
その夜、九条の東寺に戻った信奈は、京最高の料理人・坪内石斎に命じて作らせたコテコテのみそ料理を頰張りながら愚痴をこぼした。
ちなみに石斎は料理を出す際、
「もうちょっとみその量を減らした方が……いやしかし、わての腕なら」と次に向けた反省をしていた。
信奈の傍らには竹中半兵衛。晴明神社で護符を作り置きする仕事を終えて戻ってきた。
常識破壊代表の刃。そして、動物代表の良晴。さらに、偉そうに高笑いしている今川義元。
「わたくしも待ちかねましたわ。信奈さん?いつになったらわたくし将軍になれますの?」
「うっさいわね。あんたは清水寺の舞台の上で寝てろって言ったでしょ。なんでここにいるのよ?」
「あんな高いところでは眠れませんわ!落ちたら確実に往生してしまうではないですの!」
「ああそう。で、何か妙案はないの?自分のことでしょ?」
「そういうのは、家来が考えることですわ。元康さん、元康さーん?」 「竹千代ならいないわよ。あんた少しは自分で考えなさいよ」
「あいたたた……わたくし、難しいことを考えると頭が……現実のまつりごとについて頭を悩ませるなんて、風流ではありませんわ」
あんた長生きするわね、と焼きみそをご飯に載せてぱくぱく食べながら信奈。
「……うまい! この焼きみそ飯は最高だわ! 石斎に、褒美をあげなくちゃ」
きぃまたしてもみそ三昧の日々に戻ってる、と良晴が箸を投げた。
「問題は煮ても焼いても食えない近衛前久よ。義元の将軍宣下以外にも、わたしは畿内にいるうちにいろいろとやらないといけないことがあるのに。あの武田信玄がいつまでも黙っているわけないもの、これは時間との戦いなの。だいいち──」
信奈が唇をとがらせながら、言った。
京の都は、なんだかわたし苦手だわ。
「どことなく気持ちが悪いっていうか……うまく言えないんだけど、力を吸い取られていくような感覚っていうか……この町には、何か怖いものが潜んでいるような気がするわ」
誰もが一瞬、言葉を失った。
「――ご安心ください、姫様。私が斬ります」
刃の声は、恐ろしいほどに淡々としていた。
「人であろうと、霊であろうと、妖であろうと……命あるもの、あるいはその“残滓”であろうと。私にかかれば例外はありません」
それは、虚勢でも冗談でもなかった。刀を手にすれば、実際に何者であろうと“斬ってしまえる”であろうという現実味が、その声音には宿っていた。
だからこそ、良晴は思わず身を乗り出して叫んだ。
「お、おい刃!? そういうの冗談で言うもんだぞ!? なんかお前、マジで斬りそうだから怖いんだよ!っていうか信奈、お前らしくないぞ。そんな非合理なこと言ってどうしたんだよ?」
しかし、信奈は良晴の方を見ず、座敷の障子の向こう――闇の奥を見つめていた。
「仕方ないじゃない、南蛮流の合理主義者であるわたしだってカンくらい働くのよ」
「信奈さまは、武家の頭領ですから。古来、この京の都に本拠を置いた武家は様々な災いを受けてきているんです。京で公家風のまつりごとを行った平家は滅びましたし、その平家を京から追い滅ぼした木曾義仲と源義経は共倒れに。ご存じの通り、関東から動かなかった源頼朝が最後の勝者となり鎌倉に幕府を開きました……後に京の室町に幕府を開いた足利家も、三代将軍義満公の急死によってがたがたになり、今年ついに滅びました」
小食なのだろう。ちんまりと正座してもふもふと生八つ橋をかじっていた竹中半兵衛が、おずおずと口を開いた。
「京に入った武家に、災いが降りかかる? それこそ不合理ね」
「不合理だけど……事実です」
半兵衛の返答は、まるで氷水をぶちまけられたように場の空気を凍らせた。まどろみのように甘く漂っていた味噌の香りすら、どこか陰りを帯びて沈んでいく。
その沈黙に、良晴が思わず背筋をすくめた。
「やめろよ……そういう“京の呪い”みたいな話、マジで怖いんだって。夜に聞くと余計にさ……背中に何かいる気がしてきた……」
ぞくりとした不安が、言葉に滲む。
すると、その横で当然のように、刃が涼しい顔で口を開いた。
「安心しろ。呪いも祟りも、斬れば終わる」
「いやおかしいだろ!? なんで即答なんだよ!? 呪いを刀で斬る発想って、怖すぎんだろ!?」
良晴は思わず身を乗り出した。目を見開き、叫びにも似た声を上げる。
「普通はさ! 呪いって言ったらまず“除霊”とか“お祓い”とか“神社に駆け込む”とかじゃねーの!? なんで真っ先に“斬る”なんだよ!? 物理かよ!?」
「俺には、それしかできん」
刃は何一つ悪びれることなく、静かに言い切った。
「うわ、出たよ! 完全脳筋思考! じゃあ何か? お前はそのうち雷雲に向かって飛び上がって、『俺の姫様に落ちるな』って稲妻と真剣勝負でも始める気か!? 天災にも武力行使する気満々かよ!」
「雷か……いけるかもしれん。形あるものなら」
「やめろおおおお!? これ以上、人間をやめるんじゃねぇぇぇ!! 限界を突破しようとするな!!」
良晴が悲鳴混じりに叫ぶと、信奈がぷっと吹き出した。
「ふふっ、ほんと、相変わらずね。けど、刃ならマジで雷斬れるんじゃないかって思えちゃうから困るわ」
「信じるなよ!? そこで肯定すんなよ信奈!?誰かこの世界の物理法則を守ってくれぇぇ!」
良晴の叫びに、半兵衛が口元を手で隠して笑いをこらえ、義元が「まあまあ」と扇子で空を仰ぐ。
そして――静かに、しかし確かに、その場の重苦しさは霧散していた。
まもなく、続々と任務を終えた武将たちが報告に舞い戻ってきた。
「摂津は、ほぼ平定いたしましたっ! 落とした諸城はとりあえず西美濃三人衆に任せております! 三好一党は海路で四国へ敗走しました! 当分、畿内には出てこれまいかとっ!」
勝ち戦の興奮冷めやらぬまま、真っ先に声を上げたのは、鬼柴田こと柴田勝家だった。甲冑は埃まみれ、髪も乱れていたが、その顔はまさに勝者のそれ。興奮で頬が上気し、瞳が爛々と輝いていた。
(わずか数日で摂津を平定だなんて……あたしってば、すごい!)
内心ガッツポーズを決めつつ、視線はすでに信奈の横顔に注がれている。
ああ、姫様はどんな褒美の言葉をくれるのだろうか。褒められたら何と返そうか……と、勝家はワクワクを通り越してワクテカ状態だ。
しかし──。
「六。あんたさ、なんで三好の連中に逃げられてんのよ。四国くんだりまで追っかけて行くなんて、現実的じゃないでしょ? 畿内にいるうちに捕まえなきゃ意味ないじゃない」
信奈の一刀両断に、勝家の肩がガクンと落ちた。
「これからは、ただ戦で勝てばいいって時代じゃないの。詰めが甘いわね、詰めが」
信奈は袖の内から陶器の小皿を取り出すと、無言で渡した。
「はい。割れ茶碗をあげるわ」
「ひ、姫さまぁああああああっ!? ご、誤審ですっ! うわああああああんっ!!」
勝家、盛大に号泣。武功の報告からわずか十秒で地獄に落ちた。
次に名乗り出たのは、丹羽長秀。
「まずは、傷んだやまと御所の修復に着手しております。先の足利義輝将軍が使用されていた二条御所は、残念ながら完全に焼失。再建には多少の日数を要する見込みです」
「デアルカ。万千代、ご苦労」
長秀の報告は派手さはないが、確実で堅実。信奈も満足げに頷いた。
「荒れていた大通りの整備も、数日のうちに完了予定です。さすがは古の都──碁盤の目のように整然とした道は、軍団や物資の移動において極めて効率的です」
「いずれ、岐阜と京を結ぶ街道も整備しなきゃいけないわね。関所もとっぱらわなきゃ」
「御意」
お次は、犬千代と五右衛門。ただし五右衛門は部屋のどこかに隠れている。
「……泥棒は全員ひっとらえた。盗賊稼業に詳しい五右衛門のおかげ」
「偉いわね犬千代。ういろうをあげるわ」
「……はむ、はむ……」
黙々とういろうを咀嚼する犬千代。無表情だが、尻尾があればきっとぱたぱたと振っているに違いない。
「で、舌足らずの乱波はどこよ。出てきなさい」
「──拙者、天井裏にて、じゅうぶんでござる。にん、にん。よいでちゅか。ちのびとは、やみにまぢれてやみにぷちょるもにょ──」
「こっちが“じゅうぶんじゃない”のよ! っていうか何言ってるのか全ッ然わかんない!」
信奈の額に青筋。五右衛門は忍んでいても騒がしい。
「……恐らく、"よいですか?忍びとは闇に紛れて闇に潜む者”、かと」
その通訳を担ったのは、刃。無表情で淡々と解説する姿が余計にシュールだ。
「そうでござる!」
天井裏から満足げな返事が返ってきた。
「何で分かるのよ刃!?」
信奈が突っ込むと、良晴が遠い目でつぶやいた。
「まぁ……昼間、初対面のロリっ子と目だけで完璧な会話してたしな、刃……」
「うそでしょ!? 刃!わたしともアイコンタクトできるわよね?」
「お任せください。姫様の言葉なら、目を閉じていても通じます」
「なっ……」
まさかの即答に、信奈の顔がほんのり赤くなった。
場の空気が、少しだけ甘くなった──気がした。
「つ、次!」
げそっとやつれた浅井長政が、「道三どのに騙されたと訴え出てきた女人全員に、利子を付けて金子を返しました……しかし、なぜこの私が自腹で支払いまで」と息も絶え絶えに報告。
「デアルカ。蝮がどうやって一介の油売りから国持ち大名にまで出世したのか、謎の一端がようやく解けてすっきりしたわ」
扇子で口元を隠しながらも、その目は爛々と輝いていた。
「京の金貨し女たちから、口八丁手八丁で資金を巻き上げただなんて……あんな狒々ジジイのくせして、若い頃はいったいどれだけ美形だったのかしら。まぁ、刃には負けるってあの老婆たちも言ってたけど」
「いや、刃がおかしいんだよ。マジで、何がどうなったらあんな顔で生まれてくるんだよ……?」
良晴は思わず天を仰いだ。目の前の男――いや、“存在”と呼ぶべきかもしれない。刃は、銀の髪を肩に流し、紅い瞳を静かに伏せていた。まるで神仏の化身のように整いすぎた顔立ち。彫刻のような輪郭、乱れのない姿勢、そのすべてが“作画崩壊”などという言葉とは無縁の世界に生きている。
「顔だけじゃねぇ……肉体スペックも人外だし。人並外れた反射神経、跳躍力、握力にスタミナ」
良晴はそのまま、がっくりとうなだれた。
「“天は二物を与えず”って言葉、あるだろ……? あれな、刃のせいで信用できなくなったわ。あいつ、“天から二物どころか全部パクってきました”って顔して平然としてんだもん……!」
「……盗んではいない」
隣で、刃がしれっと呟いた。
良晴は振り返って、叫ぶ。
「そういう問題じゃねぇんだよ!! 顔・腕っぷし・頭・女子受け、全部揃ってんのがムカつくの! しかも自覚がない! それが一番腹立つんだよぉおお!!」
刃は少しだけ考えるように眉をひそめると、
「……ならば、顔を隠そうか?」
「余計ムカつくわ!!」
そのやり取りに、信奈がくすくすと笑い出す。
その一方、長政は苦しげに両膝をつき、うめくように言葉を漏らした。
「……義姉上……なぜ、なぜこの私が道三どのの身代わりなどと……朝から晩まで、金を返せと迫る……歳老いた鬼女たちに囲まれて……目の前で歯を鳴らされ、涎を垂らされ……おぞましい、おぞましい……」
その場にいた誰もが、その語りの生々しさに思わず戦慄する。まるで怪談だ。冗談抜きに髪が逆立ちそうだと、良晴は背筋をさすった。
「ふふっ。持って生まれた美貌を駆使し、女を利用してのし上がる。蝮はあんたが“手本”にしていた師匠でしょ?」
信奈は紅をひいた唇をわずかに歪め、愉しげに笑った。
「師匠の不始末は、弟子が責任を持って清算しなきゃ。ね?」
その声音に込められたのは、からかい半分、情け容赦なし半分。だが、長政の反応は意外だった。
「……いえ。この猿夜叉丸──もとい浅井長政も、今や愛する妻を持つ身。これまでの不埒な生き様を、深く反省しております……女たらしの世渡りなど、きっぱり捨てましたゆえ……このお役目だけは……ひらに、ご容赦を……」
床に伏してうなだれるその背中には、妙な気迫があった。まるで真剣に“真人間になろう”としているような、そんな空気が漂っている。
「愛する妻……?」
信奈が思わず反応した。
ぱちりと瞬きした後、彼女は刃の耳元に身を寄せ、良晴にも聞こえる大きさでひそひそと──けれどテンション高めに囁いた。
「ねえ刃、サル、やっぱり長政って勘十郎に惚れてるんじゃない? めろめろで、尻に敷かれてる感じじゃない? なんか、胸がわくわくしてきたわ!」
「そうですか?私は、あんまり」
「いや、なんでわくわくすんだよ!? 俺は尻がむずがゆくなって背筋がぞっとしてきたぞ!? どんな性癖の話だよ!」
良晴が抗議するが、信奈は聞いちゃいない。
信澄をお市姫に仕立て上げることを勧めた半兵衛だけは、浅井長政が女だとすでに見破っていたらしく、くすくすと笑いをかみ殺している。が、長政が隠す秘事、敢えて暴き立てようとは思わない。
「ま、勘十郎も女装好きだったし、収まるところに収まったんじゃない? さて、肝心の十兵衛だけど……」
そう。今川義元への将軍宣下を御所から取り付ける──。
さすれば義元を擁する信奈が、「天下人」として御所から認められるということになる。
将軍を擁すれば、逆らう大名は切り取り放題だ。
信奈の天下布武の野望に大義名分が与えられるのだ。
その最大の仕事を任されたのが、新入りの明智光秀。
揃いも揃って田舎者の織田家家臣団にあって、光秀は京の公家衆や堺の商人衆に顔がきく、唯一の「都会派」
ところが、頭のきんかん飾りをふるふると震わせながら戻ってきた光秀は「申し訳ありません」と信奈の前に平伏して青ざめていた。
「関白近衛前久どののお怒りはいまだ冷めず、将軍宣下に厳しい条件を突きつけられました」
「あのお歯黒が?ほっんとにうざいわね。刃のあれを見てもまだへそ曲げてるの!?サル、あんたのせいよ」
「なんで俺なんだよっ!?」
「決まってるでしょ! あんたが御所で、お歯黒とケンカしたからよ!」
「いやいやいや! 火に油を注いだのは、お前と刃だろ!?」
ぐぬぬぬ、と信奈が唇を噛む中、光秀がすかさず頭を下げる。
いえすべてはこの十兵衛の責任です、と光秀。
「将軍宣下の権利を持つ公家衆が、今川傀儡将軍を担いで自ら実権を握ろうとする姫を邪魔するのは道理です。二十五点。して光秀どの、将軍宣下のための条件とはいかに」
いつも温厚な長秀がそつなくフォロー。
光秀が、近衛の出してきた条件を述べた。
「今月のうちに、銭十二万貫文を御所に納めよ、と──まさしく、無理難題かと」
「たっ……たいへんだああああッ!! って……どのへんが無理なんだい?なんちゃって……」
空気の重さに耐えられなくなったのか、柴田勝家が無理やり明るく言ってみせた。だが滑った。盛大に滑った。
信奈の鋭い視線が一閃。
「……っ!? すみません……」
勝家は小さく震えながら、すごすごと後退る。瞳にじわりと涙まで浮かべていた。
「……いや、あたし、ほんとにぜんぜんわかんないんですけど……誰か説明を……うあ、うあうあ……」
「とほうもない大金を要求されたということです、勝家どの」
「なるほど。待てよ?あたしの俸禄が月百貫文だから一年で千二百貫文。ということは、あたしの俸禄を十年タダにすれば調達できるよなっ!? やった、解決したあっ!」
違います十二万貫文とは勝家どのの俸禄百年分です、と光秀がさらりと答えた。
現代で言えば、一流企業の取締役が稼ぐ報酬の百年分といったところ。 「ひゃ……百年分っ!? そっそんな金、織田家の蔵にあるわけないよっ!? そうだ、あたしたち家臣全員が十年タダ働きをすればなんとか……とにかく十年に分けて分割で支払って……」
「ですから今月のうちに耳を揃えて支払え、さもなくば将軍宣下は永遠にない、と前久どのは仰せです」と光秀。
そこへ――突然、無遠慮な声が場を割った。
「私が、関白に蹴鞠をしようと誘います」
発言者は天城刃。誰よりも冷静で、誰よりも危険な男。先ほどまで沈黙していたその存在が口を開いた瞬間、空気がまた一段階、冷え込む。
「ダメェェェェェェェェッ!? 刃、それはダメだ!! そのくだり昼間にやっただろ!?記憶から削除されてんのか!?」
良晴が全身を使ってツッコミを入れる。文字通り、命をかけた抗議だった。
「蹴鞠は、古来より貴族の嗜みです。関白さまも、好まれるかもしれません」
横からさらりと口を挟んだのは、竹中半兵衛。
「それに、貴族の前で武家が蹴鞠を披露することで、親しみを得られる可能性も。理には適っております。八十五点」
丹羽長秀も静かに頷いた。二人は至って真剣だった。だが、それが余計に恐ろしい。
「いやいやいやいやいや!! 違う!!蹴鞠は問題ないんだよ!? 問題は蹴るヤツだっての!!」
良晴が叫ぶ。目が据わり、もう今にも泡を吹きそうな勢いだ。
「刃が蹴った鞠は鉄を凹ませるし、人体なんて豆腐みたいにひしゃげるからな!?関白死ぬって!間違いなく死ぬって!!昼間、関白の護衛!あれ、殺しかけてたからな!?腹に一発と腕に一発、右腕が逆関節にグニャってなって、泡吹いて倒れてたからな!?」
場に一瞬の沈黙。そして──
「……昼間、殺しかけたのですか?」
長秀が困惑気味に問うと、刃はあっさりと応じた。
「気絶しただけだ。命には別状ない」
「いやあるからな!?絶対あるからな!?右腕どころか、腹部も鉄鎧ごと凹んでたし、背骨何本いったかも分かんねぇからな!?」
「あれはヤバかったですね。流石天城先輩と言うほかないです」
そんな中、ふと──
「でも……私に“俺の女”って言ってくれたの、嬉しかったわ。ふふ」
信奈がぽつりと、頬を染めながら呟いた。恋する乙女の笑みだった。完全に浮かれていた。
彼女だけは、あの蹴鞠事件を微塵も問題だと思っていなかった。
……その刹那。
「信奈!お願いだから!正気に戻ってくれえええええぇぇぇぇッッ!!!」
良晴の絶叫が、今度は部屋の壁すら震わせたのだった──。
半兵衛をどっちのヒロインにするか
-
刃
-
良晴