織田信奈の野望〜戦国に舞い降りし銀ノ刃〜   作:更新亀さん

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良晴、左遷の危機

その魂の叫びの中──ひとり、スッ……と音もなく近づいてくる影があった。

 

「な、ななな……なんだい十兵衛ちゃん?」

 

 良晴が狼狽しながら振り向く。

 

「もしかして、刃と信奈に散々こき使われてる俺を慰めてくれるのかい? 心の癒しになってくれるのかい? ドキドキドキ……!」

 

 言い終わるよりも早く。

 

「……だまれです。サル人間」

 

 ピシリとした声音で光秀が言い放った。

 

「えっ……?」

 

 良晴が素っ頓狂な声を上げる暇もなく、光秀は静かに──まるで告知を読み上げるように言葉を続ける。

 

「信奈さまからの命により、相良先輩を“サル人間”と呼び、全力でからかうようにと命じられました。したがって、これより先、私は相良先輩あらため──“サル人間”と呼称いたします」

 

「えええええええええええっ!?」

 

「なお、“サル人間”とはいえ一応は先輩ですので、尊敬語・丁寧語は忘れずに用いさせていただきます。罵倒と礼儀の両立を目指します」

 

「いやいやいや!? そこは目指すところじゃないからね!?っていうか、それ真に受けなくていいんだよ!あいつの命令!」

 

 良晴が必死に訴えるが、光秀は微動だにしない。むしろ一歩、スッと間合いを詰め──

 

「うるさいですね、サル人間。私に気安く触らないでください」

 

 ぺしっ。

 

 良晴が手を伸ばした瞬間、光秀はそれを絶妙な角度で叩き落とす。

 小柄な手とは思えぬ正確無比な打撃だった。

 

「いったっ!? なにその完璧な防御モーション!?」

 

 涙目で良晴が叫んだが、誰も同情しない。

 

「……早速、言った通りになったな」

 

 刃がぼそりと呟く。

 

「なるほど……光秀から見ても、良晴は“しつこかった”という評価なのか。うん。姫様も似たようなことを言っていた気がするな」

 

「お前が言うなああああああああっ!!!」

良晴の絶叫が、堺の空に虚しく響いた。

 

「私は──土岐源氏の血を引く、高貴な生まれなのです」

 

 ぴしゃりと告げる光秀の声音は、いつになく鋭く、凛としていた。

 

「世が世なれば、私が道三さまの後を継いで美濃の国主になっていても、ちっとも不思議ではありません。京や堺で顔が利くのも、この高貴な土岐源氏の血筋ゆえです」

 

 背筋を伸ばし、扇子を胸元にたたんだまま、光秀は見下ろすように良晴を睨む。

 

「ですから──お前のような、未来から来たとぬかす謎のサル人間に、親しい口を利かれる覚えはないのです」

 

「え、ええ……えええええええええっ!? じゅ、十兵衛ちゃんのイメージがッ!? 優しくて清楚な美剣士のイメージがッ……あああああああっ!? 女の子って、女の子ってこんなにも怖い生き物だったのかああああああっ!?」

 

 良晴が地を這うような絶叫を上げるが、光秀は表情一つ変えない。

 

「未来から来たって、刃もいっしょだからな!?なあ!?刃も未来人だろ!?」

 

「天城先輩もですか?」

 

 光秀は、ぴくりと片眉を上げた。

 

「──天城先輩は、違和感ないので良いのです。なんなら、未来から来たなんてちっとも思えません。サル人間みたいに弱くないですし」

 

「ぐふっ……ま、まさか……十兵衛ちゃんって、裏表のある性格っ!?」

 

「いーえ。目上の人間には礼儀正しく、サル人間には礼儀を尽くす必要がないというだけの話です」

 

 光秀は一歩、良晴に近づく。瞳に宿る光はまるで鋭利な刃。

 

「だいいち──お前は“邪魔者”」

 

「じゃ、邪魔者っ!?」

 

「え?まさか、わかってなかったのですか?」

 

 ぺちっ。

 

 小柄な指先が、容赦なく良晴の額をはじいた。

 

「いてっ! な、何がだよっ!?」

 

 良晴が涙目でうずくまる中、光秀はあくまで冷静に──しかし、その言葉には燃えるような激情が込められていた。

 

「……サル人間。お前がしゃしゃり出てこなければ、信奈さまのおそばに侍るのは、常に天城先輩と、この十兵衛・光秀だったのです」

 

 言いながら、拳を胸に当てる光秀。

 

「天城先輩が右腕、そしてこの光秀が左腕として。私たちは、信奈さまの未来を左右から支える盾であり、剣でありたかった」

 

 その声には、悔しさと情熱がこもっている。

 

「正徳寺で──はじめて信奈さまにお会いして以来、私は……あのお方にこの命を捧げると心に決めたのです!」

 

 光秀の唇が、ほんのわずか震えていた。

 

「それゆえ、私は尾張から動けぬ信奈さまのために、京、越前、堺と各地を旅してまわり、見聞を広めてきたのです……その隙に、信頼されやすそうな顔をした謎の男・サル人間、お前がッ、お前がッ、しれっと“左腕”に座りやがったのです!」

 

「痛い痛い痛いっ! 俺だって、俺なりに信奈のために頑張ってきたじゃねーか!? 何がいけねーんだよっ!?」

 

「──わかっています」

 

 意外なほど、静かな声だった。

 

「お前が努力していることも。姫さまのことを真剣に考えていることも。……それでも、織田家に来て、私は確信したのです」

 

 光秀の視線が、鋭く突き刺さる。

 

「お前は──大した能力もないくせに、信奈さまにひいきされているのです!」

 

「うわあああああっ!? もうダメだ……好感度ゼロ通り越してマイナスだコレ!!」

 

 その時。

 

「まあ実際、良晴の身体能力はゴミだからな」

 

 冷淡な声でそう断言したのは、刃だった。

 

「……え、刃?お前今、何て?」

 

「この前蹴鞠で吹き飛ばした根性のない虫ケラ以下だ。あんな雑魚より弱いなんて話にならん」

 

 口調は冷静そのもの。まるで事務的な評価を述べるように、残酷な事実を突きつけてくる。

 

「お、おい! 待て待て待て待て! 俺だってそれなりに頑張って……!」

 

「体力もなければ耐久もない。反応速度も鈍い。視野も狭い。腕力も非力。何より、あの関白の護衛と同じ鞠を当てれば、たぶん命はないな」

 

「やめてえぇぇぇぇぇぇぇえええ!? 比べる相手がまずおかしいんだよッ! 関白の護衛、あれ絶対エリートだっただろ!?普通に百戦錬磨の侍だっただろ!?お前がおかしいだけだからな!?鞠が武器になるのがおかしいの!!」

 

 良晴が頭を抱えてしゃがみ込み、地面をバンバン叩きながらジタバタと悶える。

 

「どうして信奈は……こんなガチチートな人外を“懐刀”にしてるんだよぉぉ……っ!」

 

「そもそも、私は足利義輝公の妹君、義昭さまを将軍に擁立するつもりだったのです! あのお方は義元と似たようなわがまま姫ですがまだまだ年端のいかぬお子さま、操り人形にするには最適だったのに」

 

「……意外と考えることがえぐいな、十兵衛ちゃん……」

 

「何を悠長なことを。姫様の夢を叶えるには、多少の犠牲など──やむを得ないです」

 

 光秀はため息ひとつつき、扇子をぱたぱたと仰ぎながら言い放つ。

 

「天下を盗った暁には──豪華なお寺を日本各地に建てて、いっぱい供養すればいいのですぅ」

 

「いや、“ぅ”って可愛く誤魔化すな!? すげー危険思想が漏れ出てるからな!? それ、戦国時代で一番ヤバいやつのセリフだから!」

 

「ちなみに、この十兵衛──三千万人くらいの犠牲は、すでに覚悟しているです」

 

「おい!!もはや“多少”じゃねえええええっ!!」

 

 良晴が天を仰いで絶叫する中、唐突に声が割って入った。

 

「光秀!」

 

 その瞬間、張りつめた空気を裂くように、鋭い声が飛ぶ。刃だった。声の調子は低く、しかし二人の背筋を氷の刃でなぞるような圧力を孕んでいた。

 

「は、はいっ!? 天城先輩……! ご、ご気分でも悪かったですか……?」

 

 光秀がビクリと体をすくませ、まるで叱られる子供のように身構える。刃の紅い瞳がじっと彼女を見据えていた。

 

「おおっ、刃! お前もおかしいと思ったんだな!? なあ、さすがに三千万は――」

 

「……素晴らしい」

 

 その一言は、あまりにも予想外すぎて、時が止まったかと思った。

 

「……へ?」

 

「なんて、なんて俺好みの性格なんだ。そうだ、家臣とはそうあるべきなのだ。姫様の理想を叶えるためなら、たとえこの世が焼け落ちようとも構わぬ。信念を貫き、手段を選ばず、揺るがぬ忠義。まさに理想の補佐役だ。正直、もう一人か二人、俺のような奴が欲しいと思っていたところだった」

 

「ま、まじで褒めてるぅぅぅうううう!?!?!?!?」

 

 良晴が頭を抱えて転げ回る。目が血走っている。

 

「どこに共感してんだよ!? 三千万だぞ!? それ、戦国どころか現代国家レベルの大惨事だぞ!? お前、地獄の使者かよ!!」

 

 だが、刃は真剣そのものだった。

 

「正直な話をすると──」

 

 刃は微笑みすら浮かべず、ただ静かに、まるで天気を述べるかのような口調で言った。

 

「俺の中では、姫様をはじめとする恋人四人。そして、ねねと五右衛門──この六人が無事で、笑っていてくれるなら、その他の誰が犠牲になっても……まあ、別に構わない」

 

「お前も狂ってるのおおおおおおおおおおおおおおッ!!??!?!?」

 

 良晴の絶叫は、風になってどこかへ飛んでいきそうなほどだった。

 

「いやいやいやいやいや!?おかしいだろ!?」

 

 それでも刃は、なんのこっちゃという表情で、小さく首をかしげる。

 

「……おかしいか? 何がだ?」

 

「何がって! 全部だよ全部ッ!!! そもそもその“六人以外はどうでもいい”って発想がアウトすぎるんだよ!!」

 

「? 俺は姫様たちが泣く姿など、見たくない。それだけだ。だからこそ、姫様たちの大切”も"守る。彼女たちが愛し、信じている人たち──その存在ごと、俺は護りきるつもりだ」

 

 刃の声には、何の怒りも誇りもない。ただ、当たり前の事実を述べているだけのようだった。

 

「命は平等? 全のために一を捨てる?──そんな綺麗事、所詮は弱者の詭弁だ」

 

 そこにこもる冷淡さと静謐さ。感情を削ぎ落とした声だからこそ、逆に凄みがあった。

 

「全のために一を捨てて、何が残る? 大切な誰かを失ってまで得る勝利や平和に、どれだけの価値がある? 俺には理解できない。だから──俺は選ぶ。一を守るために、全を斬ることを」

 

その声は低く、静かで、揺るぎない。そして……背筋が凍るほどの“真実味”を帯びていた。

 

「それが俺だ。そして、それを教えてくれたのは──祖父だ」

 

 刃は少しだけ視線を落とし、懐かしむように目を細める。

 

「祖父は言った。『才は、誇るためのものではない。守るべき者のために振るうものだ』と。そして──『己の力を、己の大切だと信じてくれた者のために使え』と」

 

だが、それを聞いた良晴の頭は追いつかない。

「その結果が“その他全員死んでもかまわん”なのかあああああああああッッッッ!!!!???」

 

 悲鳴混じりの絶叫をあげながら、良晴は地面にガクンと膝をつき、両手を天に伸ばす。目には涙、心には絶望。魂の絶叫だった。

 

「刃のお爺ちゃあぁぁぁぁぁん!?貴方ぁぁぁぁぁぁ!! お孫さんの教育、ちょっとどころじゃなく間違ってますよぉぉぉぉぉぉぉ!?!?あなたのお孫さん、なんか、なんかすっごい方向に育っちゃってますけどぉぉぉぉ!?!?」

 

 叫びながら、良晴はその場に突っ伏した。

 

「なんで!?どうして!?“守るべき者のために力を使え”って言っただけで、どうして“世界を敵に回す系の狂戦士”が爆誕するのおおおおおおッ!?おかしいでしょ!?普通はもうちょっと道徳とか倫理とか挟むでしょ!?!?」

 

 土を噛むような絶望の中、さらに追い打ちが入る。

 

「天城先輩……なんて崇高で、なんて冷徹で……なんて格好いい考え方なのですか……っ!」

 

 光秀が両手を胸に当て、うるんだ瞳で刃を見上げる。頬は紅潮し、唇は震え──まるで乙女そのもの。

 

「わ、私……やっぱりこのお方に命を捧げるです!!」

 

「いやお前ええええええええ!?!?」

 

 良晴が今度こそ絶叫した。地面を転がり、のたうち、最後には頭を抱えて天を仰ぐ。

 

「ついさっきまで信奈に忠誠誓ってただろ!? 信奈の忠臣って自分で名乗ってただろ!? なびくの早すぎるだろ十兵衛ちゃあぁぁぁぁぁん!!?もう嫌だぁぁぁぁぁ!!!信奈ぁ!早く帰って来てくれぇぇぇぇぇ!!」

 

良晴の絶叫が、相変わらずの調子で空に抜けた。

 けれど──。

 

 その騒がしさとは裏腹に、刃の目は鋭く細められていた。

 

 (……まただ)

 

 堺の町に入ってから、ずっと背後に貼りついている違和感。人混みのざわめきに紛れながらも、確実にそこにある〝視線〟と〝気配〟。それは決して好奇でも物見でもない──もっと冷たく、鋭く、狩人のような。

 

 (いい加減、鬱陶しいな。……影からコソコソと。だが気配の消し方、距離の詰め方……こいつは素人じゃない。間違いない、忍びか)

 

 刃は一歩足を引きつつ、周囲の路地の影を目の端で拾う。

 感覚は静かに鋭く研ぎ澄まされていく。

 

 (良晴と光秀は……気づいていない。無理もない。だが、問題はそこじゃない)

 

 ──標的は誰だ? 尾行の角度、潜伏の位置、目線の揺れ方。

 

 (俺と……光秀、良晴か。今のところは三人……)

 

 考えがそこで止まった。

 

 刃の心に浮かんだのは、信奈の顔。無邪気に笑う顔。ふとしたときに見せる、寂しげな横顔。……そして、あの誰よりも気高く、誰よりも無防備な存在。

 

 (……姫様に矛先が向く前に、芽を潰す)

 

 呼吸一つで、すべてが決まった。

 

 刃は何事もなかったかのように振り返り、軽く右手を上げると、あくまで自然な調子で声をかけた。

 

「良晴、光秀。俺も、手洗いに行ってくる」

 

「あ、ああ……うん。いってらー」

 

 たこ焼きを頬張ったまま、良晴が呆けた返事を返す。

 

「了解です、天城先輩! お気をつけて!」

 

 光秀が無邪気に微笑んで手を振った。

 

 ──その瞬間すらも、刃にとっては敵を欺く“演出”でしかなかった。

 

 (……さて。出てこい。もう、逃さない)

 

 そう心で呟きながら、彼は人の目の届かぬ町外れへと、音もなく姿を消していった。

 

刃は町外れの静まり返った森へと足を踏み入れた。

 昼間だというのに、鬱蒼と茂った木々が陽を遮り、薄暗さすら漂う中で、彼はふと足を止める。

 

「──出てこい。そこにいるのは分かっている」

 

 淡々とした声。だがその響きには、静かに命を断つ死神のような冷たさが宿っていた。

 

 直後、ざっ……と草を踏む微かな音。

 影が揺れ、風が鳴る。

 木々の間から、忍びの装束に身を包んだ四人の男たちが、ぬるりと現れた。動きはまさに忍び。だがその目は、確実な殺意に満ちていた。

 

「……我らに気づくとは、貴様、なかなかやるな」

 

 左斜め前の一人が、わずかに口を開いた。

 

「お前ら……光秀を尾行してた忍びと同族か?」

 

「いかにも。明智十兵衛光秀を追って尾張まで向かったのは、我ら甲賀の同胞。……ということは、帰らぬ理由は」

 

 刃は片目を閉じた。瞬きのような短い動き。そして静かに、冷徹な宣告を放つ。

 

「──ああ。俺が殺した。姫様に害をなす可能性があったからな」

 

「……そうか。それならば、貴様も同じ末路だ。今この場で──死ねッ!」

 

 次の瞬間、空気が爆ぜた。

 

 一人が袖口を跳ね上げ、鋭利な手裏剣を三枚連続で射出。それとほぼ同時に、別の一人が前方から飛び込んできて、抜き打ちの刀が刃の胴を薙ごうと迫る。残る二人も、左右から挟み込むように動いた。

 

 ──だが。

 

 刃の姿が、ふっと霞んだ。

 

 目にも止まらぬ速度で後方へ飛び退いた刃は、飛来した手裏剣を二枚素手で──掴んだ。

 

 そのまま軽やかに後方宙返りを打つと、着地の瞬間、掌に握った手裏剣の一枚を、踏み込んできた敵の眉間へと逆投。

 

 ヒュッ──!

 

「がっ──!?」

 

 寸分の狂いもなく、鋭い軌道を描いた一枚が忍びの額に突き刺さる。脳天にまで達したそれは、即座に命を断ち、音もなく一人が崩れ落ちた。

 

「もらったッ!」

 

 右手から飛び出す影。息を合わせた第二の刺客が、一瞬の隙すら逃さず踏み込んでくる。

 抜き放たれた忍者刀が、閃光のごとく刃の首を狙う。

 

 しかし──その斬撃は空を斬った。

 

 刃は、まるで予知していたかのように一歩だけ体を捻ると、敵の軌道を見切ったように避けた。

 そして、反撃は音より早く始まっていた。

 

 「……遅い」

 

 囁きのような声と同時に、しなやかな脚が半円を描き、横腹へめり込む。

 

 ドゴォッ!!

 

「ぐっ、は……っ!」

 

 内臓を圧迫され、肺から息が漏れたかと思えば、忍びの体が数尺吹き飛ぶ。

 

その手に再び手裏剣が握られる。

 

 ヒュン──!

 

 放たれた刃は、脳天に突き刺さった。

 地に堕ちるよりも早く、命の灯が消える。

 

「……あと、二人だな」

 

 低く、静かに告げられる言葉。

 だが、その“無感情”こそが、戦慄だった。

 忍びにとって“命を奪う”とは技術の極みであり、誇りの証である。

 だが目の前の男──天城刃は、それをまるで“日常の掃除”のように行っている。

 

「く、クソッ……化け物め……!」

 

 一人が叫ぶ。

 それは威嚇でも、怒りでもない。ただ、自らを奮い立たせるための悲鳴。

 だが足は、震えていた。踏み出そうとした刹那、己の足が一瞬止まる。

 

 ──その瞬間が、命取り

 

 刃は、もう前にいた。

 

 ふわり、と風が吹いたようにしか見えない動き。

 しかし次の瞬間、拳が男の喉に突き刺さっていた。

 

 ──ドガッ!!

 

「がっ……!」

 

 衝撃と共に、喉元に拳がめり込む。

 軟骨が潰れ、喉管が折れ曲がり、空気も悲鳴も通らない。

 むせび声を上げようとしたが、それすら叶わない。苦しみだけが、喉を占拠していた。

 

 ──その次に来たのは、心臓。

 

 ドンッ!!

 

 腹の奥で何かが弾けた。

 拳は肋骨を砕きながら、心臓そのものを揺らした。

 全身が震え、白目を剥き、口から泡が吹き出す。

 

 それでも──刃は止まらない。

 

 男の腰にあった忍者刀を、まるで慣れ親しんだ道具でも扱うように片手で抜き取り、躊躇なく背を向けた。

 

 そして、蹴り。

 

 ドゴッ!!

 

 男の体が、木の根元へと吹き飛び、骨の砕ける鈍い音を残して崩れた。

 

 残る一人。

 ──いや、“生き残ってしまった一人”。

 

 凍りついたように動けなかった。

 その足は震え、口元は痙攣し、手にした刃はまるで別人のもののように重かった。

 

 だが、刃はその姿を一瞥することもなく──前へ、ただ前へと進む。

 

 一閃。

 

 スパァン……。

 

 遅れて、頭が転がる音がした。

 視界を持ったはずのそれは、地面を見つめたまま、やがて何も映さなくなる。

 

 ──それら全てが終わるまで、一分。

 

 森の中には、四つの死体と、まったくの無傷で返り血すら浴びぬ一人の男が立っていた。

 

 

 

 

 

 

森の奥。

 風ひとつない静寂の中に、血の匂いだけがぼんやりと残っていた。

 

 倒れ伏す四つの死体。

 その中心に立つのは、まったくの無傷──衣の一片すら乱れず、返り血さえも浴びていない銀髪の男だった。

 

 血の海に立つ者が、まるで最初からそこに存在していなかったかのように、空気を乱さず歩き出す。

 無駄のない足取りで、刃は森を抜け、再び町の通りへと戻っていった。

 

やがて、賑わいの戻った堺の町並みへ。

 香ばしい屋台の匂い、人々の笑い声。

 合流地点に戻ると、良晴と光秀がなにやら揉めている。

 

刃は、わずかに眉をひそめながら近づき、

 

「戻ったぞ」

 

 無感情な一言で会話に割って入った。

 

「……ん? あ、刃。今、ちょっと修羅場っつーかドロ沼劇場っつーか……」

 

 と、良晴が説明しようとしたその瞬間──

 

「ん? ケンカ?」

 

 まるで舞台の幕を引くような、明るい声が響いた。

 

 振り返れば、いか焼きを片手に町娘姿の信奈が嬉しそうに戻ってきたところだった。

 

「ふふっ、これも美味しそうだったから買ってきちゃった。……はむっ。うん、美味しい! はい。食べかけでよければ、蓮にも一口あげるわ」

 

 信奈は気軽に、しかしごく自然な仕草で、いか焼きのかじった端を差し出す。

 

「……ありがとうございます、お嬢様」

 

 刃はまったく躊躇せず、その“かじりかけ”を受け取ると、平然と口元へ運んだ。

 

 (……間接キスとかいう次元じゃねええええっ!!!)

 

 目の前で交わされた自然すぎるスキンシップ──もとい、明らかな“恋人の空気感”に、良晴は震えた。

 

「くそっ、蓮ばっかりずるいぞ!俺にはヒロインが一人もいないってのに、あんな自然に……! しくしくしく……」

 

「うあああああんっ!」

 

「ちょっ!? なんでお前まで泣くのっ!? ていうか、俺今なにも悪いことしてないよなっ!?なあっ!?」

 

良晴の叫びに構わず、光秀は両目からぽろぽろと大粒の涙をこぼし、信奈に縋りつくように訴えかけた。

 

「なによ、どうしたのよ? 二人して泣くなんて……あんたたち、子ども?」

 

「うあああああん!! お嬢様ぁっ!! お嬢様がいないすきに、相良先輩に押し倒されて、胸をいっぱい触られてしまいましたぁああっ!!」

 

 ──場が静まり返った。

 

「……げええええええっ!?!? な、何を言い出すんだお前っ!! 俺はまだ、まだ告げ口してない段階だっただろおおおおっ!!?」

 

 良晴が絶叫するより早く。

 

 ──どっかあああああん!!

 

 信奈の頭上で、見えない火山が轟音をあげて噴火した。

 

 彼女の額に浮かぶ青筋、びきびきと音を立てる拳。恐怖が、空気を震わせる。

 

「…………サルゥ?」

 

 その声は静かだった。だがその一言に、背後の木々すらざわついた気がした。

 

「蓮……? 本当なの?」

 

 淡々と、しかしその目は一切笑っていない。

 信奈は、いか焼きを口元に運んだまま、ちらりと刃を振り返った。

 

 刃は一瞬だけ沈黙し、

 

「すみません。私も席を外していまして。……真相は、分かりかねます。しかし──可能性はゼロではないでしょう」

 

「な ん で だ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あっ!!!?」

 

 全身を震わせ、良晴がその場でガクガクと膝を折り、絶叫した。

 

「ざまあみろです……これが“人をおちょくる七十二の方法”その三十五、〝約束を守るふりして守らないの法〟です」

 

「お前ぇぇぇぇッ!!?!?! うわああああん!!」

 

 もはや周囲の通行人も立ち止まり、ざわざわと遠巻きに見守るほどの騒ぎ。どこかの子どもが「お母さん、あの人泣いてるー」と指さす始末である。

 

「ま、まさか……っ。お前まで信じてないのか!? 俺が胸なんか触るわけない! あれは嘘! デタラメ! 冗談の域すら超えてるだろ!? なぁ、蓮!? 信じてくれよ、相棒だろ俺たちッ!」

 

 必死の訴えに──

 

「……信じて欲しいと言われても」

 

 刃は、静かに告げた。

 

「お前には──前科があるからな」

 

「はあ!? ちょ、待て待て待て!? 俺にそんなもんあるわけ──」

 

「ある。思い出せ。京に出発した、あの日の朝だ」

 

 ぴたり、と良晴の動きが止まる。

 

「……お前、光秀に襲いかかったよな。寝ぼけてた、とか言って」

 

「ちょっっっ……!! あれは不可抗力だったんだよぉぉぉお!? 俺は!夢の中で!人妻の温もりを探してただけでっ!」

 

「その人妻って誰なんですかぁ!?うあああああん!!急にわたしに抱きついてくるなんて、どんな夢を見てたんですかぁ!!?」

 

「ぐはっっっ!!? もうだめだああああああ!! 誰か、俺の名誉を守ってくれぇぇぇ!!」

 

「信じられない……っ! 先輩に従順な十兵衛につけこんで、そんないやらしいことをするなんて!」

 

 怒りで顔を真っ赤にした信奈が、つかつかと良晴に詰め寄る。

 

「この、女好き! 変態! サルッ! 蓮! サルに蹴鞠をくらわせなさいッ!」

 

「ちょっ、ちょっと待て!? 死んじゃう! 俺死んじゃうから!? マジで!?」

 

 良晴は、信奈ではなく、刃に向かって手を合わせた。だが、刃は無表情に小さく首を傾けるだけで、命乞いに対する同情のかけらも見せない。

 

「いや待て! 信奈、聞いてくれ! 十兵衛は噓をついている! こいつはな、お前の前と俺の前では全然性格が違うんだ! 二重人格! ドSな腹黒キャラなんだよ、普段は!」

 

「そんなことありませんよぉぉぉぉ! 信じてくださいお嬢様ぁぁぁああ! 私はただ、先輩に乱暴されたトラウマで、夜も眠れないだけなんですぅぅぅぅ!!」

 

「うあああああああっ!? 俺は十兵衛ちゃんの胸なんか揉んでねえ! 仮に命を賭けて揉みに行くっていうならな、勝家ぐらいデカくないとダメだっ!」

 

「……これで信憑性が出ると思ったら、良晴はもう終わりだな」

 

 刃が、淡々と宣告する。

 

「うるせぇっ!! こっちは今、命がかかってるんだよ! お前の鞠のせいでな! 死ぬ気で必死になって何が悪いんだああああ!!」

 

 良晴は頭を抱えてのたうち、涙と鼻水と怒号を同時にぶちまける。

 

 しかし、信奈はそんな騒動の中心で、なぜか腕を組み、思案顔になっていた。

 

「……そうね。証拠がない以上、どこまで行っても真相は藪の中……。かといって、“サルが憎い”っていう個人的な感情だけで十兵衛に与するのは、主君としては不公平だわ」

 

 その冷静な理屈に、良晴は「おお、信奈……やっと分かってくれ……」と泣きそうな顔で感動しかける。

 

「世が世なら、一騎打ちで勝ったほうが正しいって決めちゃうのもアリなんだけど……。それじゃサルが絶対負ける上に、確実に死ぬじゃない?」

 

「やっぱり俺の死は前提なんだな!?」

 

「なのでここは──平等を期して、“仕事”で勝負させることにしたわ!」

 

「「「仕事で、勝負?」」」

 

 三人が同時に反応する

 

ああもう。十兵衛ちゃんはドス黒い正体を現したし、信奈は俺が後輩にいやらしい真似をする変態だと思い込んでいる。

 

刃は──

 恋人最優先、理性後回し、命の価値は護る対象の涙一滴以下。

 地獄の閻魔様もドン引きする、超絶恋人至上主義のサイコパスなんだよッ!!

 あいつの中の優先順位、絶対こうに決まってる。

 

 信奈 ≧ 犬千代 = 長秀さん = 半兵衛ちゃん ≧ ねね = 五右衛門

 > 六人の家族とか仲間とか >>>>>超えられない壁 > 他の命

 

この序列な。

 “護る対象六人の笑顔”が最優先、それ以外は全部おまけ!おまけってなんだよおい!しかもこれ、何が恐ろしいって──本人が悪気ゼロってとこだ!

 

 実際さっきも言ってたもんな。

 「六人が泣かないなら、他の誰が犠牲になっても構わない」って……!

 

 構わない、ってお前……ッ!! 

 

つーか冷静に考えろ?

 たった六人のために、それ以外の命すべてを切り捨て可能な精神構造って、お前もう閻魔様とかより業が深ぇわ!!

 

 あいつの心臓、もはや業火でできてんじゃねえのか?

 血の代わりに煮えたぎった恋愛脳が流れてんじゃねぇのか!?

 なんだよ、「信奈たちが笑ってるならそれでいい」とか。

 

──いや、ほんと、冗談抜きで癒しが欲しい。

良晴は泣いた。

 

 

 

 

そんな四人の前に──まるで風に乗って現れたかのように、ゆらり、と一人の男が姿を現した。

 

 町人風の衣を纏いながらも、ただの通行人とは到底思えぬ風格がある。

 大柄で、道の真ん中を悠然と歩くその姿は、群衆の流れすら自然と割っていた。

 

(敵意は……ない、か)

 

 刃は、その男が放つ空気の波紋に敏感に反応する。

 戦場を歩んだ者が持つ、目に見えぬ重さ。その正体はわからずとも、ただの市井の男ではない。

 

「ふうむ……どこかで見覚えのある、ええ笑顔や。もしやあんた──織田信秀どののおひぃさまとちゃいますかな?」

 

 不意に向けられた言葉。

 柔らかな口調でありながらも、鋭さを含んだその問いかけに、刃の眉がわずかに動いた。

 

(姫様を“おひぃさま”と……知っている? いや、姫様の反応が──困惑?)

 

 一瞬のうちに脳内で情報を精査。

 

 静かに、だが確実に一歩前へ出る。

 

 そのまま、さりげなく自身の背で信奈を隠すように立ち位置を変え、信奈を自分と光秀の間に挟み込む。

 攻防一体の布陣。誰も気づかぬ速さで、信奈の安全圏が築かれていた。

 

(妙な真似をすれば、即座に──殺す)

 

 殺気ではない。

 だが、“殺す”という意志は、静かに、深く、男に向けて放たれていた。

 

「さすがはおひぃさま。とんでもない護衛をつけとりますな」

 

 男はそう感嘆すると、まっすぐ刃を見つめ返してくる。

 

年の頃は、四十代後半といったところか。

 だが年齢を感じさせぬ強靭な肉体。

 髪には白が交じり始めているものの、その顔はまるで削り出した岩のように武骨で、どこまでも頑固一徹という言葉が似合う。

 

 右目には南蛮渡来の片眼鏡が光り、背丈は刃すらも見上げるほど。

 肩幅が広く、腹は決して肥えていないが、重量感のある厚みがあった。

 

(……ドイツ人の将軍か何かかよ。日本の町人って感じじゃねぇな……)

 

 良晴が思わず心中でツッコミを入れるほど、圧が強い男だった。

 

「ええ、そうよ。おじさん、誰だったかしら?」

 

 信奈が、刃の背中からひょこりと顔を出す。

 その動きだけで、刃の視線が僅かにやわらぐ。

 

 すぐに反応できるよう、信奈の位置を意識しながらも、決して邪魔にならないように守る。

 

商人は、そんな信奈の顔を見て、ふいに破顔一笑する。

 

「おひぃさまが覚えておられぬのも無理はありゃしまへん。十年前、信秀どのが堺に来られた折には、まだそれがし──三十をいくらか過ぎたばかりの、ぺえぺえの若造でしたわ」

 

 声は穏やかだが、どこか誇りを秘めている。

 

「それがし、堺会合衆の一人──今井宗久という者」

 

信奈の目がぱっと見開かれる。

 

「今井宗久? ああ、いつもわたしが種子島を買ってる納屋の主人ね!」

 

「──ああっ! 思い出した! 『信長の野望』の隠れたレギュラーキャラ! 季節の変わり目になると茶器を売りに来る、あのオッサンだ!」

 

 唐突に割って入る良晴の声に、信奈が即座に振り返り、

 

「ちょっ、なんであんたが思い出すのよ、サルっ!」

 

 突っ込みを浴びせる。

 そのやりとりを聞いた宗久は、腹の底から笑い始めた。

 

「ふははは! このあんさんは、おもろいお方でんなあ! こら、話していて飽きまへんな」

 

「おわっ、笑い声がでけえおっさんだな!」

 

 良晴がたじろぎながら言うと、宗久はにこりと笑って頷いた。

 

「確かにそれがし、あきんどであると同時に、茶人でもおます。……ま、それがしの茶の湯は、あくまで商いの延長、客の心を読むための道具に過ぎまへんけどな」

 

 そこへ、光秀がすっと一歩前へ出て、静かに頭を下げた。

 

「今井宗久殿。以前、堺の茶会でお目にかかりました。貴殿のご高名は存じております。格式高く、実直なお点前でした」

 

「……ほう。よう見とるな。あんた、只者やおまへんな」

 

 宗久が感心したように唸ると、今度は刃がわずかに視線を上げ、一歩前に進み出る。

 

「お嬢様のお知り合いでしたか。──申し訳ない。いきなり威圧してしまって」

 

その一言に、宗久はかすかに目を細めた。

 

「いやいや……護る者の本分として、当然のことでしょう。ええ護衛を持っておられますなぁ……おひぃさま」

 

 感心したように笑みを浮かべながら言った今井宗久の言葉に、信奈は刃の背中からひょこりと顔をのぞかせる。

 

 その瞳はいたずらっぽく輝きながらも、どこか誇らしげで、ふわりと笑みを浮かべてこう答えた。

 

「ふふ、刃はね、わたしの懐刀なのよ」

 

 声は柔らかく、けれどもその響きには芯のある確信が宿っていた。

 

声には柔らかさと、揺るぎない自信があった。

 

「誰よりも強くて、誰よりも信頼できる。わたしの意図を言葉にしなくても読み取って、必ず行動してくれる。わたしがどれだけ無茶を言おうと、どれだけ危険な場所にいても、彼がそばにいる限り──絶対に、危険なんて寄せつけないの」

 

信奈は、そのままそっと刃の背に額を預けるように寄りかかった。

 

 それは傍から見ればわずかな仕草に過ぎなかったが、その仕草に込められた安堵と甘えは、恋人だからこそ許されたもの。

 

 刃は動かない。ただ、彼女の重みに静かに心を添わせるように、すっと目を伏せ、周囲の気配だけを研ぎ澄ませていた。彼にとって、彼女の存在は“守るべきもの”であると同時に、“自分が生きている意味”そのものである。

 

「……まぁ、女たらしなのがたまにきずなんだけどね!」

 

 その瞬間、場の空気がふわっと和らぐ。

 

「わたし含めて四人も恋人がいるのに、ねねと五右衛門は確実に惚れてるしあれはもう、見ててわかるのよ」

 

 信奈の嫉妬混じりの口調に、どこか焦りのような甘さがにじむ。

 

 そして、横目でちらりと光秀を見やる。

 

「それに──十兵衛も怪しいわよね?」

 

「お、お嬢様っ!? わ、わたしは別に……! 天城先輩のことなんて……そ、そんなふうに……っ!」

 

 顔を真っ赤にし、あわてて言葉を繕う光秀。けれどもその様子は、否定すればするほど疑わしさを増してしまっていた。

 

「ふふ、否定がもう怪しいのよ。可愛いわね」

 

 信奈は勝ち誇ったように笑いながら、刃の腹にそっと手を回し、ぴたりと寄り添う。その仕草には、“これはわたしのもの”と宣言するような独占の意志が込められていた。

 

そんなやりとりに、今井宗久は思わず噴き出しそうになったが、ぐっと笑いを堪え、穏やかに目尻を下げて言った。

 

「どうでっしゃろ。おひぃさまがこないな往来にいつまでもおるのは物騒ですわ。堺に逗留される間、それがしの屋敷にお泊まりいただくわけには?」

 

 今井宗久は扇をたたみ、恭しく一礼する。風の通る往来の真ん中。陽の傾いた夕暮れに、人通りは増え、好奇の目もちらほらと向けられ始めていた。

 

「十兵衛も来ちゃったし、まあいいかしら……」

 

 信奈はちらりと刃を見やってから小さく頷き、宗久の申し出を受け入れた。その目には警戒と計算が入り混じっている。

 

「わたしたちは重大な仕事で来ているの。宗久、乗ってくれるかしら?」

 

「ほう……今や、かの“天下の白刃”を懐刀とし、今川公方を擁立しようとしとる天下人のおひぃさまや。でかい話でっしゃろな」

 

 宗久が目を細めて笑う。商人としての勘が、何かとんでもない賭けが始まる予感を告げていた。

 

「ええ。今月中に──十二万貫文、稼がなきゃいけないの」

 

「……それは、また……桁が違いますな」

 

 さすがの宗久も、驚きを隠せずに扇で口元を隠す。

 

「ただし──」

 

 信奈はそこでぴたりと言葉を止め、周囲の空気を掴むように静かに笑った。

 

「今回のわたしは、尾張のういろう問屋の一人娘、“吉”として堺を見物しているだけよ。で、この仕事──“サル”と“十兵衛”に競わせるわ」

 

 にやりと笑ったその瞬間、良晴の背筋に氷柱を押し当てられたような寒気が走った。すぐそばで聞いていた十兵衛もピクリと肩を揺らし、目をまん丸に見開いた。

 

「ま、待ってくださいお姫様!? それってつまり──」

 

「そう。どちらの言い分が正しいか、この勝負で白黒つけるってわけ。いわば……平等かつ公正な──“神明裁判”!」

 

 信奈が腕を組み、どや顔で胸を張る。完全に“楽しんでる顔”だった。悪ノリという名の暴君モード全開である。

 

「そして──」

 

 信奈は指を一本ずつ折りながら、さらなる宣告を放った。

 

「負けた方には……“岐阜城の厨房係”に左遷してあげるわ! 雑用、皿洗い、炊事、風呂焚き、全部ね♪ あ、米研ぎも加えておいてちょうだい!」

 

「なっ……なんですとぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!?」

 

 良晴と十兵衛が同時に絶叫し、反射的に同じ角度でのけぞった。声の高さも、叫び方も、まるでシンクロするようにぴったりだった。

 

「サル先輩に負けて厨房係!? 絶対にいやですぅぅぅぅぅ!!」

「俺だってごめんだっ!皿洗いするために戦国に飛ばされたわけじゃねぇんだからなっ!!」

 

 阿鼻叫喚の二人を前に、信奈は大満足といった様子でニッコリと微笑んだ。もはや完全に“策士の顔”である。

 

 そのまま彼女は、何の前触れもなく前に立つ刃の手をそっと握った。

 

「──お嬢様? いかが致しましたか?」

 

 刃が不思議そうに問いかける。だが、信奈はいたずらっぽく微笑みながら、刃の手をさらにぎゅっと強く握る。

 

「ん……何でもないわ。ただ……触れたくなっただけ。ダメかしら?」

 

 その一言はあまりにも自然で、刃の紅い瞳に微かな熱が灯る。

 

「……いえ。お嬢様のご所望とあらば、いつでもどうぞ」

 

 刃は静かに微笑み、指を絡めるようにして信奈の手を包み込んだ。

 

 

 

 

 

今井宗久の屋敷を仮の宿と決めた信奈一行は、さっそく客人用の部屋を借りた。

「ようお越し下さった、おひぃさま」

 

「デアルカ。松永弾正はわたしに降参して大和へ引っ込んだわ。三好一党は六に敗れて四国へ逃走。宗久、あんたもわたしの味方につく?」

 

「それはもう。織田家はお父上の代から今井の鉄砲をごひいきにしていただいとる上得意様」

 

「そう言いながら、織田家以外にも種子島を売りさばいているそうじゃない、宗久。まったく食えないおっさんね」

 

「商いちゅうのは、そういうもんですわ。高う売れるのでしたら、どこにでも売りますがな」

 

信奈はふんと不敵に笑って庭園を眺めながら、宗久が点てた茶を一服。

「どうでっしゃろ。粗茶にございますが」

 

「デアルカ」

 

「というわけで、どうぞ、納屋名物のたこ焼きをおひとつ」

 

納屋とは、今井宗久が開いている店の屋号である。

いまや浪速名物となったたこ焼きは、わが納屋の独占物でございますわ、と宗久。

 

「ほんとに美味しいわね。ほら、刃。口、開けて?」

 

 信奈が笑みを浮かべながら、熱々のたこ焼きを楊枝でつまんで、刃の口元へ運ぶ。

 

「……ありがとうございます、お嬢様」

 

 刃はためらいなく口を開き、されるがままにたこ焼きを受け取った。

 

その様子に、良晴が肩をすくめた。

 

「……なんつーか、もう夫婦じゃねーか」

 

「サル、十兵衛、あんたたちもどう?」

 

 信奈はにっこりと笑って振り返るが──

 

 だがその視線の先、良晴と光秀はどこか浮かぬ顔で並んでいた。二人は互いに目をそらし、やたらとお茶の湯呑みを弄んでいる。

 

「信奈さま……あの、厨房係左遷の件、なにとぞご再考を。そもそも勝敗は最初から見えていたではありませんか。いくらこの十兵衛の胸を揉んだ変態とはいえ、さらし者にされて恥をかくサル人間、いえ……相良先輩があまりにも哀れで……」

 

「なあ信奈。この噓つきデコ娘がどうなろうが俺は知ったこっちゃないが、お前、こんな無体な人事ばかりやってると、そのうち謀反されるぞ?」

 

 良晴が半ば本気、半ば脅し気味に言うと、信奈は平然としたままお茶を一口すする。

 

「だめだめ。織田家は実力主義。刃がわたしの懐刀なのも、ちゃんと理由があるの。強くて、忠義があって、かっこよくて……」

 

「最後いるか!?」

 

「身分は問わないけど、そのぶん出世競争が激しいの。どっちもがんばりなさいね」

 

 いちいち家臣を追い詰めたがるのは、信奈の悪い癖である。

 

「もしサルか十兵衛が刃より強くなったら、懐刀に昇格させてあげても良いわよ?」

 

 信奈が、さらりとした口調で言い放った。

 

「いやいやいやッ! 無理だろ!? それ、ありえねぇから!!」

 

 良晴がいの一番に叫んだ。全身を使って全力否定する勢いで、身振り手振りも大げさだった。

 

「誰がこの人外生命体に勝てるんだよ!? あいつその気になったら、素手で部隊を壊滅させるし! 木の枝だろうが石ころだろうが、握った瞬間に殺戮兵器になるんだぞ!? 兵法も武芸も“格”が違うんだよ!? もう武将っていうより……“災害”なんだよ、災害ッ!!」

 

「サル先輩! そんな弱気でどうするですかっ!」

 

 光秀がむっとしながら反論するが、半歩下がり気味なのが情けない。

 

 だが、刃はというと──何の感情も見せぬまま、ただ一言。

 

「……いつでも挑んでくるといい」

 

 その声は静かで、だがどこまでも揺るがず、断言するように続けた。

 

「俺は誰の挑戦でも受ける。勝てたら譲るさ。──勝てたら、だがな」

 

 宣言というより“現実の提示”だった。絶対的な実力者だけが持つ、圧倒的な余裕と確信に満ちている。

 

 その言葉の直後──信奈が、刃の胸元にそっと顔を埋めた。

 

 静かに、しかし確かな動きで。その指先が、彼の衣をきゅっと握る。

 

「……負けちゃだめよ? 刃」

 

 耳元で囁かれる声は、どこまでも柔らかく、震えていた。

 

「わたしの懐刀は──誰よりも強くて、鋭くて、頼りになる、天下一の剣士じゃなきゃ困るんだから」

 

 その言葉に、刃は目を伏せたまま答える。

 

「心得ております」

 

今井宗久は、しかし、こんな重苦しい空気の中でもまるで動じた様子を見せなかった。茶をすする指先すら乱れず、座する姿も堂々たるもの。まさに「泰然自若」の四字を体現するように、にこやかに口を開いた。

 

「そうそう、本日はお引き合わせしたい客人がきとります。ちょうど良い機会ですので──お呼びいたしましょうか」

 

「誰なの?」

「天王寺屋の、津田宗及。この納屋の今井宗久と並ぶ豪商ですわ」 「名前も似てるな、おっさん」

「まことに。商売敵ですわ」

天王寺屋の当主、津田宗及。豪快な今井宗久とは対照的な、線が細い青白い男だった。

 

「手前が津田宗及にございます。明智さまとは、かねてより昵懇の仲にて──本日もお目にかかれて至極光栄にございます」

 

「デアルカ」

 

 光秀が一礼し、控えめな微笑みを浮かべる。

 その様子はまるで、旧友に再会したかのようだった。

 

 一方の信奈は、津田の気取った物腰にどうにも馴染めない様子で、目を細めた。上品ぶった挨拶回しが肌に合わないのだろう。

 

(なんかこう……商人って感じがしねえなあ……)

 

 良晴もまた、宗及に対して漠然とした違和感を覚えていた。

 胡散臭い、とまでは言わぬが──見た目に反して底が見えない。宗久が豪快なら、宗及は水底に潜むうなぎのようだ。

 

 そんな中で、唯一テンションを上げたのは光秀である。

「お久しぶりです」と上機嫌で、急ぎ十二万貫文が必要な件、自分と良晴が手柄を競い合っていて負けたほうが厨房係に左遷される件を、ぺらぺらと話してしまった。

 

おいおい全部しゃべっちゃっていいのかよ……と良晴は冷や汗もの。 「なるほど……ご事情のほど、了解いたしました」

 

「津田どの、妙案はありますか?」

 

「堺は三十六人の会合衆が治めている町。それぞれから三千三百貫文ほどを矢銭として納めさせれば、ほぼ十二万貫文近くになりましょう」

 

 信奈が、口を開いた。

「あんたたち堺の商人が、そんな大金をタダであっさり払うわけないでしょ?」

 

「御意。そこで、十二万貫文の値打ちのあるものをわれらに売っていただきます」

 

「なるほどね。でも、何を売ればいいのかしら?」

 

「新たな名物です」

 

「名物っていうと、茶器? そんな高価な茶器は持っていないわよ」

 

「いえ、料理です。納屋さんの〝たこ焼き〟に匹敵する堺の名物料理を開発していただき、会合衆のみなさまに売り込んでいただくのです。納屋さんの〝たこ焼き〟とは異なり、どの店でも売れる名物料理──これぞ納屋さんのたこ焼き商売に押されている会合衆のみなさまがほしがっている商品です」

 

三日後に会合衆の集まりがあります。その時に、お二人が開発した名物を売り込めばよろしいでしょう、と津田宗及が淡々と述べた。

 

「ただし……納屋さんにご承知いただければ、の話ですが。なにしろ、堺の名物料理といえば納屋のたこ焼きが独占状態。巨額の利を得られております」

 

「それがしは異存おまへんで。名物料理も、自由な競争があってこそ栄えるちゅうもんや」

今井宗久が、さらりと受け流す。

 

「なお、いずれも買うに値する名物でなければ、白票を投じてもよしとします。どちらも過半数に達せねば、このお話はそれまでです──この条件ならば、売れそうもない商品をつかまされる恐れはなし。銭を惜しむ会合衆の面々も納得するでしょう」

 

 淡々と告げる津田宗及の声音は、微塵の情も含んでいない。あくまで合理性を突き詰めた取引――情や義理が入り込む余地など微塵もない冷徹な現実の論理であった。

 

 今井宗久もまた、その条件をあっさりと受け入れる。

 

「商人は儲からんものには銭を出しませんからな。よう考えられた仕組みですわ」

 

 彼は茶をすすると、小気味良い音を立てて頷いた。

 

 信奈たちにとっては、明らかに分の悪い勝負。だが、いまこの場で断るという選択肢はない。背に腹は代えられぬとはまさにこのこと。

 

 信奈は一つため息をつき、そして鋭く命じた。

 

「承知したわ。──十兵衛! サル! 聞いてたでしょう、今すぐ名物料理を考案しなさい! 三日後の会合衆で勝負を決めるわよ!」

 

 信奈が軍配を切るように鋭く言い放つと、まず動いたのは十兵衛だった。すでに勝負モードに突入しているらしく、キリッと表情を引き締める。

 

「御意です!」

 

 彼女は袖を払って一歩前に進み、右手を胸に当てて堂々と名乗りを上げた。

 

「サル人間……いえいえ相良先輩には負けません。この明智十兵衛光秀、浪々の身ゆえに自炊料理も得意といたしております。鍋を振るのも、武士の嗜みです!」

 

「いや、知らんし! そんな設定初耳だぞ!?」

 

 良晴は即座にツッコみつつ、青ざめた表情で手を振った。

 

「そもそも料理の心得なんて俺にはまったくねぇんだよ! 飯は炊飯器任せ、味付けはレトルト頼り、たまに包丁持てば指を切るタイプなんだぞ!? 勘弁してくれよ、別の勝負にしてくれって!」

 

「ダメよ、サル」

 

 信奈は即答だった。背後にピシリと火花が散るような圧を放ちながら、まるで“逃げ道など最初からない”とでも言いたげに睨みつけてくる。

 

「もう決まったことなの。覚悟を決めなさい」

 

「ちょっとおおおおおっ!? 理不尽すぎるだろぉぉぉぉぉ!!」

 

叫びながら頭を抱える良晴。そんな彼の必死の抵抗もむなしく、場の空気はすでに“勝負ありき”の流れへと傾いていた。

 

「な、なんでだよ……何でよりによって料理なんだよ……っ!」

 

 視線をさまよわせた良晴の目に、一縷の望みが映る。

 

 ──チート男、天城刃。

 

「くそっ……そうだ! 刃! 刃お前だよ、お前しかいねぇ!!」

 

 良晴は叫ぶように名を呼び、助けを求めた。

 

そう、彼ならば──絶対、料理もできるに決まっている。

 

「なあ、お前って絶対料理できるだろ!? アレだろ!? 味噌の塩梅も、火加減も、包丁の使い方も全部プロ級なんだろ!? ああもう知ってる、知ってんだよ、お前チートだもん!!」

 

 捲し立てる良晴を前に、刃は一瞬だけ瞼を伏せ、すぐに静かに頷いた。

 

「当然だ。和食、洋食、中華、菓子類など一通りは作れる。祖父から、『自炊もできん男は恋人を飢え死にさせる』と鍛えられた」

 

「やっぱりかよおおおおおおおッッ!! なんだその祖父!! どういう教育してんだよ!? 信奈! お願いだ、こいつ使わせてくれぇええええええッ!」

 

 もはや限界だった。良晴は膝から崩れ落ち、額を地面に擦りつけるような姿勢で信奈にすがりついた。

 

「補佐でも下働きでもいい! この際、隣で立ってくれてるだけでもいい! いや、むしろ俺の代わりに作ってくれても──」

 

「それ、もう勝負じゃないわよね?」

 

 信奈の冷徹な声が、情け容赦なく響き渡った。

 

「ダメよ。これは“サルと十兵衛の勝負”。刃の手を借りるなんて、論外よ」

 

 その宣告に、良晴の希望は完全に打ち砕かれた。彼は両腕をぶらりと下げ、ぼろ雑巾のように崩れ落ちた。

 

「ひどい……っ。俺を殺す気か……?」

 

 かすれた声で呟く良晴の背中に、信奈は微笑を浮かべて言った。

 

「安心して。料理で人は、そう簡単に死なないわ」

 

「胃腸的な意味では死ぬだろうがぁああああああああああああッッ!!!」

 

津田宗及は帰り際に「おなつかしや明智さま、今宵からは我が邸宅にぜひ」と光秀を誘った。

光秀はためらいながらも、宗及の厚意を断り切れない。

「夜には戻ります」と言い残して津田宗及についていった。

 

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