織田信奈の野望〜戦国に舞い降りし銀ノ刃〜   作:更新亀さん

29 / 47
良晴vs光秀、名物勝負

 

その日の夜──。 今井宗久の屋敷。

信奈と光秀が眠りについてから、良晴は宗久の茶室に一人で乗り込もうとしていた。

刃がいないのは二人が寝ている寝室の護衛をしているためだ。

 

(……アイツ、今日は朝からずっと動きっぱなしだったんだぞ)

 

 良晴は、暗い廊下の先に立つ銀髪の背中を見つめながら、内心で呟く。

 

(俺について来てくれて、堺の町を歩き回って……梵天丸とびぃーすとだなんだとバカ騒ぎして、その上傭兵との戦闘だろ?)

 

 あの時、刃はためらいもせずに傭兵どもを始末し、フロイスを守り、光秀の暴走を止める役まで買って出てくれた。それだけでも相当な消耗だったはずだ。

 

(で、やっと帰ってきたと思ったら、今度は信奈に拗ねられて、泣きそうな信奈の機嫌を取りながらずっと傍にいてやって……)

 

 普通なら、布団に倒れ込んで泥のように眠っていてもおかしくない。しかし。

 

 今、刃は寝室の前──まるで守護神のように、正座していた。

息ひとつ乱さず、まるで影のように。いや、影よりも存在感があるというのに、決して邪魔にはならない、絶妙な距離感と気配の薄さで。

 

 暗がりに浮かぶ紅い双眸。姿勢はまっすぐで、微動だにしない。どこか神々しくすらあるその佇まいに、良晴は思わず息を呑んだ。

 

(寝る暇もなしに、ずっと警戒態勢か……。しかも、誰にも命令されたわけじゃねえ。自分の意思で、当たり前のようにやってるんだよな)

 

 その姿に、冗談抜きで恐れが湧く。

 

(……おいおい、そろそろ本気で怪しくなってきたな。こいつ、本当に人間か?)

 

 超人的な身体能力。休むことを知らない集中力。誰よりも冷徹で、誰よりも情に厚い。

 

 ──天城刃。俺の親友で、信奈の懐刀で、恋人で、織田軍最強の剣士。

 

 そんな存在が、今この静まり返った夜の中、ただの一人で、眠る姫たちの安眠を守っている。絶対に害させないという強い意志──それが、背中越しに伝わってきた。

 

 ──なんつうか、もう……カッコ良すぎるだろ、アイツ。

 

 呆れと尊敬と、ほんのちょっとの嫉妬を胸に抱きながら、良晴はそっと背を向けた。

 

 せめて今夜くらい、何も起きないでくれ。

 ──刃が、少しでも気を張らなくて済むように。

 

その祈りが、月の光に溶けるように夜の空気へと消えていく中、良晴は茶室へ静かに歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 名物勝負の当日――。

 

 夏の名残が残る、蒸し暑い昼下がり。

 三十六人の堺の会合衆が、ざわめきながら開口神社の境内に集結していた。

 

 白い綿帽子をかぶった老商人、汗をぬぐう若手の商人、色とりどりの麻の羽織を着た会合衆たちが、軒並み眉をひそめ、あるいは目を光らせている。

 

「大名の織田さまが、名物料理を披露やて?」

 

「商いの道は厳しいで。果たしてお武家さんに、堺の味が作れるものやろうか」

 

「けどなァ、新味のたこ焼き言うたら……興味は尽きまへんわ。お手並み拝見といきまひょか」

 

 参道には、仮設された二軒の屋台が向かい合うように並んでいた。

 

 紅白の幕。小ぶりな瓦版風のメニュー札。

 そしてそれぞれの屋台に、はためくのぼり――《新味たこ焼き》と大書されている。

 

 右側の屋台には、割烹着にねじり鉢巻姿の良晴が立ち、両隣に、五右衛門と半兵衛の姿。

 左側の屋台には、端整な立ち居振る舞いの明智光秀が、凛と構えていた。

 

 その瞬間、ざわめく人波を割って現れたのは――堺が誇る二人の豪商。

 今井宗久と津田宗及。

 その顔が見えただけで、会合衆の表情が次々に引き締まる。

 

「それがしは、相良良晴はんの新味たこ焼きを推させてもらいますわ」

 

 今井宗久が毅然と宣言すれば、すぐさま対するように宗及が一礼する。

 

「手前は旧知の明智十兵衛光秀さまを推します。味覚も技も、申し分なしですから」

 

 どよめきが一斉に湧いた。

 

 このふたりが推すとなれば、どちらの屋台にも重みがある。

 しかも――この場で披露される「新味たこ焼き」は、堺の納屋家が長年独占してきた名物の、新たな展開品。

 

「これは……ただのたこ焼き勝負ではない。勝者の新味たこ焼きを、われら全会合衆が買い上げて、関白殿下に献上し、堺ブランドとして売り出せば──」

 

「儲けが、跳ね上がる。まさに一攫千金の機や!」

 

「銭を惜しんでいる場合ではおまへんで!!」

 

 唾を飲む音が、あちこちから聞こえる。

 そんな中――宗及が、にこやかに、しかし鋭く切り込んだ。

 

「納屋さん。ちょうど会合衆の代表が引退なされたばかり。次の代表候補は、手前とあなたの二人──だが、いずれが継ぐかはまだ決まっておりません」

 

「そういえば、そうでんな……天王寺屋はん」

 

 納屋某が、扇子を口元に当てながら目を細める。

 

「互いのごひいきを後押しするついでです。この名物勝負に賭けませんか」

 

 宗及の声が低くなる。

 

「明智さまが勝てば、手前が代表を。相良さまが勝てば、あなたが代表に」

 

 周囲が凍りついた。

 

 会合衆の頂点を賭けた一戦――。

 堺の商いを左右する一手だ。

 

「……ふうむ」

 

 納屋が一拍置いて口を開く。

 

「その勝負、乗った」

 

 さらに、宗及が煽るように言う。

 

「よろしいのですか。相良さまは、料理経験がほとんどないと聞いておりますが」

 

「ひるがえって、明智さまは勝算ありのご様子で……」

 

「よろしおま。勝負事に奇策あり。商いとは、度胸と才覚。それがなければ、名物は生まれまへん」

 

 やべぇぞ――と良晴が、武者震い。

 

 顔を青くしながらも、頭にはちまきを締め直し、割烹着の袖をぐっとたくし上げる。

 

 良晴の左右には、京から応援に駆けつけてきた五右衛門と半兵衛。二人とも、良晴にならって割烹着を着ている。

 

「相良氏、ほんとうに大丈夫でござるか?」

 

 五右衛門が眉をひそめ、良晴のたこ焼き器を心配そうに見つめる。

 

「結局、これだという料理は開発できていません。心配です」

 

「……しかしお前ら、京を留守にしてていいのか?」

 

 良晴が心配そうに尋ねると、五右衛門がぴょんと飛び跳ねる。

 

「この勝負が終わったら、ただちに京の守備に戻るでござるっ!」

 

 そして隣で半兵衛が、ぴしっと胸を張って言い放つ。

 

「はいっ。良晴さんは刃さんの“お友達”ですから。その良晴さんが、厨房係に左遷されるかどうかの瀬戸際……これはもはや、戦です!」

 

うー、と半兵衛が目をいからせて千枚通しを振り上げる。

千枚通し──キリみたいな形をしているが、たこ焼きをひっくりかえすための調理道具。

 

「う、うぉぉぉ……」

 

 良晴が震える肩を抑えながら、天を仰いだ。

 

 「いざとなれば、この千枚通しで明智氏のツボを刺せば、暗殺できるでごじゃるよ」

 

 ぼそり、と物騒すぎるセリフを五右衛門が呟く。

 

「……攻撃はなしな、五右衛門。料理人は、味で勝負だ。絶対に間違えるなよ!?」

 

 良晴が即座にツッコミを入れるが、五右衛門は「はて?」と小首をかしげるだけ。

 

「ほんとに大丈夫でござるか?」

 

「俺が心配したいのはこっちの方だよ……」と、良晴が頭を抱えたその時。

 

 隣の屋台から、えらく鼻にかかった声が響いてきた。

 

「あーっはっはっは! あきらめるです相良先輩! わたくしのほうは、京と堺のツテをフル活用して、至高の食材を調達してまいりました!」

 

すぐ隣の屋台では、これまた割烹着姿の光秀がおでこを光らせながら大いばり。

 

「前田どの。まずは鉄板を薪でじっくり温めておくです。温度管理は最重要事項ですので」

 

「……承知」

 

 淡々と返事をしつつ、渋々火起こしに取りかかる前田犬千代。

 なぜか光秀陣営の手伝いに回されていることに、内心釈然としない表情をしていた。

 

(……どうして犬千代だけ、あっちにいるんだよ)

 

 少しだけ視線を送る良晴。その視線に気づき、犬千代は「……犬千代は、命令されたから……」と無言で肩をすくめた。

 

 そんな空気もお構いなしに――。

 

「がんばりなさいねー。負けたらその恰好のまま岐阜城の厨房へ直行よー?」

 

 客席のほうから、呑気な声が飛ぶ。

 声の主は、会合衆の特等席で今井宗久と並んで茶をすする町娘・吉。

 

 その隣には、頭巾を被って表情を隠した刃の姿も。

 まるで見物に来た旅の浪士のような風情で、お茶を静かに口に運んでいた。

 

(気楽なもんだなあ……こっちは命懸けなのに)

 

 良晴は思わず毒づきたくなったが、次の瞬間――それをかき消すように、境内中に響き渡る声。

 

『この、尾張のういろう問屋の跡取り娘・吉と! 用心棒の蓮が、勝負の様子を実況してあげるわ! 解説役は、納屋の今井宗久よ!』

 

 片手に紙で作った即席のメガホンを持ち、高台に乗って気合満点の信奈が叫ぶ。

 会場のあちこちから「おおっ」と歓声が上がる。

 

『お料理も、ちょっと工夫でこの美味さ。今井宗久でおま』

 

 まさかの解説もばっちり噛んでくる宗久。ノリノリである。

 

(……この時代に「実況」って言葉があったか?)

 良晴が思わず首をかしげたそのとき――

 

『勝負のお題は、たこ焼き! 制限時間は半刻! ついでに堺の新代表まで決まっちゃう、天下の大勝負よ! はじめっ!!』

 

 信奈が声を張ると、ぱちぱちぱちと拍手が巻き起こる。

 

「ほう……てきぱきしとるなぁ」

 

「声もええ。通っとる」

 

「めんこい子やのう……あの子、うちの看板娘に雇いたいわ」

 

 会合衆の親爺たちが一斉ににやけ、拍手喝采。

 『どーも、どーも♪』と信奈は四方に笑顔をばらまき、気分は絶頂。

 

「……けっ、人をこんな過酷な勝負に追い込んでおいて、えらく楽しそうだなおい。きぃ~悔しい」

 

「すみません良晴さん! 鉄板を予熱で温めていませんでした!」

 

「えっ、予熱?」

 

「はい! 料理の際には、あらかじめ鉄板を温めておかないと! ……光秀さんの陣営では、すでに予熱済みです!」

 

「そうなのか!? やっべ、出遅れた! 時間が……!」

 

「薪に火をつけましょう……うんせ、うんせ……」

 

 半兵衛が火口に向かって息を吹き込むが――

 

「げっ、薪がしけってる!? 全然火がつかねぇ!」

 

「拙者に任せるでござる!!」

 

 ここで五右衛門が、目をぎらりと光らせた。

 懐から取り出したのは、見慣れた手製の炸裂弾。

 

「火起こしなど一瞬でござる!! でやぁぁあっ!!」

 

 ぶんっ、と七輪の下に投げ込まれる――

 

 ぼむっっっ!!!!

 

 次の瞬間、良晴の屋台がゴゴゴゴゴと音を立てて大爆発。

 

「……って、こらっ五右衛門っ!! 屋台を破壊してどーすんだよっ!?」

 

 鉄板と木材の下敷きになった良晴が、崩れた屋台の隙間から顔を出して絶叫する。

 

「にゃああ~……火力の調整をしくじったでござる。め、面目ない……」

 

 煙に包まれながら、五右衛門が頭を下げる。頭の三角巾がすでに焦げていた。

 

「けほっ、けほけほっ! ま、まだです……まだ終わっていません! 鉄板は……無事ですっ!!」

 

 すすだらけの半兵衛が、瓦礫の中から鉄板を高く掲げて立ち上がる。まるで戦場の旗を掲げるかのように――。

 

『おーっと!? サル陣営、開幕早々いきなりの内紛ですっ! 炸裂弾が炸裂! 屋台自爆! これはもう……主従の信頼関係に深刻なヒビが入っているもようです!』

 

 信奈が実況席で大はしゃぎしながら、マイク代わりの紙メガホンを振りまわす。

 

『相良はん陣営、気合いが空回りやなぁ。戦場ではえらく強そうな面々やが……ほんまに、たこ焼き焼けますんやろか?』

 

 宗久が首を振りながら茶をすする。実況ブースの周囲では町娘たちがキャッキャと笑い、町人たちも苦笑い。

 

 ……その一方。

 

「予熱は十分。いよいよ至高の食材を投入していきます……ふふ、勝負は既に決しているのです」

 

 隣の光秀屋台では、光秀が悠然と笑みを浮かべ、手際よく調理を進めていた。

 

「ほら丁稚、きりきり動くです!」

 

 顎で犬千代をこき使いながら、たこ焼き器の前に仁王立ち。

 

「……むっ。犬千代は、丁稚じゃない……」

 

「早くするです! まずはかの斎藤道三さまが若き頃に売り歩いたことで有名な、大山崎八幡宮直送の最高級えごま油!」

 

 光秀は手早くひしゃくを取り出すと、そこに少量のえごま油を垂らした。

 そして懐から永楽通宝を取り出すと、その小さな穴へ、油を一滴もこぼさずに注ぎ込んでみせる。

 

 銭の穴をくぐった油が、ちゅん、と鉄板に落ちる。

 

「おおおおっ……!」

 

「すごい細腕さばきや!」「まるで芸人や!」

 

『おおっと、これは大技! 蝮の道三がかつて得意技にしていた、永楽一文銭への油通し! 若き蝮はこの大道芸で一躍、京の人気者になったと言います!』

 

『ほほう。さすが、道三さまのお小姓でんな。芸も達者や。これは点が高い』

 

『種子島から茶の湯、油売りまで、まさに八面六臂の多才多芸! 明智十兵衛光秀が、屋台に押しつぶされて煙まみれのサルを大きく引き離しました!』

 

 実況に乗せられ、光秀はますますノリに乗ってくる。

 

(ああ……褒められてます。信奈さまに、褒められてます……!)

 

 うっとりとした光秀の瞳が潤む。その反動か、次の瞬間――

 

「ほら丁稚、じゅうじゅうの鉄板へ粉を投入です! 早く早く!!」

 

 ぼーっと立っていた犬千代の髪を、ぎゅっ! とつかんで引っ張った。

 

「……っ!」

 

 その様子に、実況席にいた刃の目が一瞬、細められた。

 

(……あまり調子に乗ると、あの刃に“後で”何をされるか分からんぞ……)

 

 良晴が身震いしながら崩れた屋台の中から様子を見ていた。

 

「粉に使用した小麦は、薫り高く腰の強い讃岐産! さらに、昆布と鰹から丁寧に煮出した絶品の出汁を練り込みます!」

 

 鉄板の上にジュワアァァッと広がる香ばしい香り。

 

「くううっ……たこ焼きに、だし……やと!? その手があったか!」

 

「関西人の心を鷲掴みにする匠の技や!」

 

「こ、こんな料理をお武家さんが……ほんまに信じられん!」

 

 会合衆の親爺たちが次々と身を乗り出し、すでに目がハートになっている。

 

「そして隠し味には、京の塩田十蔵さん家の、元気なにわとりから採れた新鮮たまごを――とろ~り、ほんの少量です!」

 

 鍋から溶き卵を垂らす手さばきは、まるで茶人の所作のように美しい。

 

『……ついにきよった、生産者の顔が見える食材やーーっ! これは安心やー!』

 

『ほんま、今風やで。将来は「ミシュラン」も狙える逸材かも……?』

 

 会合衆の反応は、もはや賞賛一色だった。

 

「さらに、具材には──明石直送のぷりぷりのたこを生きたまま、ぶつ切りにして投入です! 色と香りづけには最高級のてんぷらの天かす、新鮮な紅しょうが! とどめに、京が生んだ至高の薬味……九条ねぎを、惜しみなく!」

 

「やりよった……!」

 

「納屋はんのたこ焼き、完全に越えたで……!」

 

「もはや勝負、あった!!」

 

 屋台の周囲がざわめきで満ちる中、光秀は勝利を確信していた。

 

「ほら早く、たこの足をきざむです! さっさと入れないと、鉄板が焦げちゃいますよ!」

 

「……思ったより、手強い……襲いかかられた」

 

 鉄板の上でうごめくたこを、犬千代が出刃包丁でにらみつける。

 

 まるで真剣勝負のような気迫を放ちながら――

 

べしゃっ、と張りついたたこを引きはがし、すぱすぱとたこの足を刻んで投入していく。

 

 そのコントロールは、まさに正確無比――。

 

 犬千代が刻んだたこの身は、一片たりとも迷うことなく、たこ焼きの型のど真ん中にストン、と落ちていく。しかも、すべての穴に均等に。まるで、投げ入れる瞬間に軌道が制御されているかのような精度だ。

 

『おおっと、これは……たことの格闘です! 格闘しながら、刻んだたこを正確に、寸分違わず投入していく! これは見事な手腕! まさに武芸と料理の融合!』

 

『たこと格闘する犬千代、可愛い。後で抱きしめよう』

 

『蓮!今は関係ないこと喋らないの!実況中だってば!!』

 

『それがしは、天かすと紅しょうがを入れたことに驚きですな。なるほど、これまで考えもしなんだ味付けや……』

 

『しかも南蛮から渡来したばかりの天かすを使うなんて、ハイカラで華やか! 女子人気もうなぎのぼり!』

 

「なんちゅう香ばしい香りや……!」

 

「はよう喰いたい!」

 

「買うた! もう買うたで明智屋のたこ焼きはん!」

 

「買い占めじゃ! ワシらで全部買い占めるんや!!」

 

 境内に響き渡る地鳴りのようなどよめき。三十六人の堺会合衆のほとんどが目を血走らせ、鼻をひくひくさせながら光秀のたこ焼きに熱狂している。

 すでに一部は懐から銭を取り出し、握りしめながら屋台に詰めかけ始めていた。

 

(くそっ……これはやべえ。完全に空気を持ってかれてる!)

 

 焦った良晴は、ようやく再建した屋台のつっかえ棒を確認し、崩落を免れた鉄板の下でくすぶっている七輪に火を入れたばかりだった。

 

「くっそぉ……至高の食材ばかり揃えやがって。予算とかまったく考えてねぇな、あいつ……!」

 

「こちらは近場で揃えた安い品ばかりです、良晴さん……」

 

「うみゅう。忍びは粗食でござる……金もないでござる……美味を追求するのは、むずかちい……」

 

 五右衛門が袖で鼻を拭きながら、空っぽの木箱を見つめて涙ぐむ。

 

「とにかく! 焼かねぇと始まらねぇ!! たねを流すぞ、準備!!」

 

「でもまだ予熱が足りてません、良晴さん。焦げちゃいます!」

 

「そんな時は――油だ! どば~っと大量に注ぐんだ!」

 

「乱暴でござるな……でも腹持ちはよくなるなちゅな……」

 

 五右衛門がごつい瓶を持ち上げ、どばばばばばっ!!と鉄板に豪快に油をぶちまけた。鉄板の穴という穴に油がぷかりとたまり、表面に反射する火の色が、まるで戦場の炎のようにゆらめく。

 

『……ちょっと、サルのたこ焼き、油が多すぎじゃない? あれじゃたこ焼きというより……油煮?』

 

『そうでんな。あれはあかん、健康診断で引っかかる味や』

 

 会合衆たちが怪訝な顔でざわめき始める。焦げたにおいがすでに立ち上り、油煙が屋台を包み込む。

 

「やっべえっ! まだたこも入れ終えてねぇのに! 焦げる! 焦げるぞ! 裏返せ、裏返せぇ!!」

 

「はわわ。千枚通し、尖っていて怖いです……くすん、くすん」

 

 半兵衛は、顔をこわばらせながら手元の千枚通しを見つめた。金属の光沢が、彼女の怯えを一層引き立てている。まるで、それが人の命を奪う凶器ででもあるかのように。

 

「……ひぅ。怖い。これ、たこ焼きの道具じゃなくて、処刑道具なんじゃ……」

 

 小さな肩を震わせながら、半兵衛は涙目でちらりと視線を向けた。まるで、今この瞬間にも化け物に襲われそうな小動物のような表情で、今にも助けを求めて駆け寄ってきそうな気配すらある。

その先にいるのは、もちろん——。

 

「蓮、さん……」

 

 その呼びかけは、助けを求める悲鳴のようだった。弱々しく呼ばれたその名前に、静かだった刃の肩がピクリと動く。

 

「いやいや、半兵衛ちゃん。いくら何でも、あの蓮が吉の命令を無視して動くわけが──」

 

 良晴がそう言いかけた瞬間だった。

 

刃の視線が半兵衛に吸い寄せられ、身体も自然と前へ出る。その瞬間、信奈が慌てて刃の袖をガシッと掴んだ。

 

『お嬢様、離してください。半兵衛が……私を呼んでいます。今すぐ行かねば』

 

『ダメって言ってるでしょ! アンタが出たら勝負にならないの! 何でもできるから、サルにも十兵衛にも付けなかったんだからね!? 分かってる!?』

 

「おい、マジかよ!? 本当に動こうとしてるじゃねぇか!?意外とちょろいな蓮のやつ!? よし、半兵衛ちゃん! そのまま押し切れ!」

 

『お嬢様……本当に、私に、泣いている半兵衛を見捨てろと?』

 

『だから料理勝負してるだけなの!!何その戦場みたいな雰囲気!? 戦場の負傷兵じゃないのよ!? しかも怪我してないのよあの子!ただ千枚通しにびびって泣いてるだけ!』

 

 刃は真剣な顔で半兵衛と信奈を交互に見つめ、まるで命の選択でもするかのような苦悩をにじませる。

 半兵衛は、潤んだ瞳で刃を見つめ続けていた。

 

『くっ……俺は、どうすれば……』

 

『悩むな!! 何その深刻な葛藤!? ほんと、半兵衛にだけ甘くない!?』

 

「……人生最大のピンチだ。二人とも大切な恋人、俺はどちらを取れば……」

 

  刃が半歩前に踏み出そうとする。

 

「蓮、さん……」

 

 その瞬間、半兵衛のか細い声が届いた。潤んだ瞳に、涙が一粒、ぽろりと零れる。

 

「うぅ……くすん、くすん……」

 

 その姿に、蓮の顔がぴくりと引きつる。

 

「……その泣き顔は反則だ……あんな顔されたら……」

 

 刃の喉がかすれた。また一歩、足が半兵衛の方へと動く。

 

 だが、その瞬間――

 

『とまりなさい、蓮!厨房係にするわよ!!』

 

 信奈の鋭い叱責が飛ぶ。

その一言に、刃の足がぴたっと止まる。だが、なおも悩むようにぎりりと歯を食いしばり、煩悶の声を漏らす。

 

「くすん……ひぐっ……」

 

 半兵衛の泣き声がさらに大きくなると、それに呼応するかのように──

 

 刃の呼吸が深くなる。見つめるその瞳に、揺るぎない覚悟が宿った。

 

『半兵衛、だが動けば厨房係……迷っている暇はない、……行くか』

 

「何でだよ!? 部将から厨房係になってでも、半兵衛ちゃんの涙を止めたいのか!? 蓮のやつ、覚悟決まり過ぎだろ!? 何その武士道!? 愛が重いってレベルじゃねーぞ!!」

 

 良晴の叫びも届かぬまま、刃がふたたび一歩を踏み出そうとした、そのとき――

 

『行くんじゃないわよ!? 何でそうなるの!? 足軽より下になるのよ!? 厨房係って、織田軍で一番ブラックな職よ!? 真冬でも屋外で魚をさばくのよ!? 朝三時起き、飯を焦がしたら張り倒されるのよ!?寝る暇ないわよ!?』

 

『構いません。身分など、武功を立てれば上がります。戦の度に大将を討てば、すぐ戻れるはず』

 

刃の声には一切の迷いがなかった。その表情は凛として、まさに一騎当千の将のごとき決意に満ちていた。もはや厨房係への左遷ですら、“新たな戦場”としか映っていないのだと、良晴は戦慄した。

 

「なんかアイツ、厨房係やりながら敵大将の首を取る気だぞ!? 包丁持って出陣するつもりか!?戦国史上最も意味不明な武将誕生しようとしてんだけど!?……しかも、戦えてる未来しか見えねえんだけど!?むしろ勝つわ絶対!!」

 

動揺した信奈が、もう一度叫ぶ。

 

『ちょ、ちょっと!?織田軍の厨房に、何人の戦国大名の首が吊るされることになるの!?そんな軍、嫌よ!?イメージ最悪よ!?』

 

「てか、教科書にどう載るんだよ!?“織田信奈の懐刀、厨房で鍋を振るいながら敵大将を次々討ち取る”とか!?」

 

「“刀の代わりに包丁、槍の代わりにお玉、だが威力は変わらない”みたいな伝説残す気か!?どう考えても将来の小学生の将来の夢が狂う!!“将来の夢:厨房係(戦国)”とか書かれたらどうすんだよ!!」

 

絶句する良晴をよそに、刃は静かに、しかし確固たる意志を宿した目で半兵衛を見つめ続けていた。彼にとっては、たとえ火の中、水の中──いや、厨房の中だろうと、愛する者の涙のためなら、躊躇なく飛び込む覚悟があった。

 

 戦場では一騎当千の死神、しかし恋には不器用すぎる懐刀。

 

(この男……本当に、どうかしてる……でも)

 

 信奈はそっと口元を歪める。

 

(それでも、やっぱり……好きなんだから、仕方ないわよね)

 

信奈は大きく溜息を吐いた。

 

『……もう知らないわよ。厨房係なんて命じたら、本当に包丁で敵兵の首を落とす気だわ……』

 

「その時は、織田軍の軍旗が“包丁に血の滴る”マークに変わるな……」

 

 

『蓮、戻って来なさい。もういいでしょ、半兵衛も泣き止んでるし。……戻ってこないと、今度は私が泣くわよ』

 

 その一言は、命令ではなかった。

 

 恋人としての、素の声だった。

 信奈が、自分の胸のうちをすべてさらけ出してしまったような、脆くて、でも確かな言葉。

 

 刃の赤い瞳が、ふと揺れた。

 

『……なっ……御意』

 

 それは武人の返答ではなかった。

 恋する男の、ただ一言の、素直な頷きだった。

 

その間にも鉄板の上では、たこ焼きが徐々に……いや、確実に焦げ始めていた。

 

「もういい、俺と五右衛門でやるしかねぇ!」

 良晴が覚悟を決める。

 

「五右衛門、お前は右から! 俺は左からひっくり返すぞ!」

 

「了解でござる!」

「うおりゃあああああああああああっ!!」

「ぬおおお、でござるうううっ!!」

 

——ガコッ、ガッコン、ガシャガシャシャアッ!

 

『おおーっと!! サルと乱破が猛スピードで千枚通しを回転させ始めたあぁっ! しかし、時すでに遅し! たこ焼きが……たこ焼きがっ……!』

 

『焦げとる! 表面が完全に、カチンコチンになってまんがな!』

 

 審査員席では、今井宗久の表情にもついに動揺の色が浮かぶ。

 

『むう……これから焼き直すには、時間が……おまへん』

 

「うわぁ、ぐちゃぐちゃやんけ!」

「焦げすぎや! これはいかんで!」

「硬なってもて、たこ焼き特有のフワトロ感がまるであらへん!」

 

 会合衆たちも次々と悲鳴を上げ、鉄板の前の空気が重く沈んでいく。

 

「……これでは、硬すぎるでござる、相良氏……!」

 五右衛門が青ざめながら一つのたこ焼きを爪楊枝で突き刺し、プルプルと首を振る。

「すっかり焦げて……まちゅっ!」

 

「し、仕方がねぇ……ここは……水をかけてふやけさせ——」

 

「だ、ダメですうううう! そんなことしたら調理に失敗したのがバレて、減点されちゃいますぅ〜!!」

 

 半兵衛が良晴の腕を止め、涙目で首をブンブンと振る。

 

「な、ななな何か別の方法はないですか、良晴さんっ!?」

 

「やれやれ……自慢の千里眼も、料理道には通じないでござるな、ちゃがらうぢ……」

 

 五右衛門の皮肉にも似た嘆息が、鉄板の上で焦げるたこ焼きの匂いに溶けていく。

 

──そのとき。

 

 追い詰められた良晴の脳裏に、電撃のような閃きが走った。

 

(たこ焼きといえば、やわらかい大阪風ばかりだと思ってたが……そうじゃない!)

 

 彼の記憶に浮かんだのは、現代で流行っていた“もう一つの進化系”だった。

 

「……あった。あれがあるじゃねぇか……!」

 

「え? ええ!? 何がですの!?」

 

「──油だ!! 油を大量にかけるんだ!!」

 

「良晴さん。油が多すぎます」

 

 半兵衛が眉をひそめて呆れたように告げる中、ジュウジュウと油が跳ねる鉄板の上で、たこ焼きの生地が黒光りを帯びはじめていた。表面は焦げ茶を通り越して、すでに“黒糖蜜風”とでも言いたくなるような色合いに……。

 

「いいんだ! ここまで焼いちまったもんはしょうがねぇ! いっそ――“揚げたこ焼き”に仕上げてやらあ! っていうか、もうそれしか方法がねえっ!」

 

 良晴の叫びに、一瞬、場が静まる。

 

「……揚げ、たこ焼き?」

 

「え?」

 

半兵衛も五右衛門も、そして会合衆も首を傾げる。

 

『あ・げ・た・こ・や・き! さあ、窮地に追い込まれたサルがまたしても謎のサル語を披露いたしました!揚げたこ焼きとは、いかなるサル料理なのでありましょうかっ!』

 

『あないなけったいなもん、食えるんでっしゃろか?』

 

「ふん。どうせはったりです。あんな油の塊、たこ焼きとは認めません」

 

 光秀は鼻で笑うと、息一つ乱さぬまま、千枚通しで小気味よく鉄板を撫で、焼き面の黄金比を保ったまま完璧な回転を見せつける。その所作はまさに職人芸。たこ焼きの“顔”すら作ってしまいそうな精密さだった。

 

 だが──。

 

「……おもしろそう。犬千代も、手伝う」

 

 ぽつりと、犬千代が呟いた。彼女の視線は鉄板へと釘付けになっている。つい先ほどまで冷静な観察者であったが、いまや戦場のど真ん中に飛び込む眼をしていた。

 

「だ、ダメですっ!」

 と、十兵衛がぴしりと拒絶の声を上げる。

 

「この作業は、手先の繊細さが要求されるんですっ! 一本の千枚通しと、焼きのリズムを理解する知性とセンス! つまり、十兵衛専用なのですっ!」

 

「……むぅ。一個くらい、やらせて」

 

犬千代はあきらめきれず、手元のたこ焼きにじっと視線を落とした。けれど十兵衛は、その一言に過剰なまでの反応を見せる。

 

「い、いけませんっ! 名物勝負はもはやこの十兵衛の圧勝も同然……しかし最後の仕上げにしくじったら、万が一ということもあるですっ! “サルも木から落ちる”っていうことわざ、ご存じですかっ!? わたしの名誉と魂が、今まさにこの鉄板の上に乗っているんですからねっ!」

 

「……むう……」

 

 じと目の犬千代が、そっと視線を落としながら後ずさる。その姿は、まるで尻尾を巻いて退いた子犬のようで──見ていて少し胸が痛むほどだった。

 

 だが──。

 

「おい十兵衛、犬千代悲しませんなよ!」

 

 その沈黙を、まるで待っていたかのように破ったのは良晴だった。両手を大きく広げ、誇らしげな笑顔を浮かべながら、場の中央にずかずかと歩み出る。

 

「そういうのはな、ヒール役の仕事だろ! 完全に悪役ムーブだぞ、それ!」

 

「ヒ、ヒールって何ですかっ!? 私、ヒロインですっ! 物語の中心にいて、みんなから愛されるポジションのはずなのにっ!」

 

 十兵衛は頬を真っ赤に染めて、火のついたたこ焼き器を背にしながら抗議の声をあげた。しかしそのやりとりは、観客席の笑いと拍手を呼び、むしろ会場のボルテージをさらに上げていた。

 

その喧噪の中、ふと──

 

『犬千代が悲しんでいる。光秀、後でお仕置きだ』

 

甲高くも落ち着いた声音が、メガホンを通して響いた。とんでもない爆弾発言の主は、他でもない、天城刃である。

 

「えっ……あっ……!? あ、天城先輩っ!? 私、い、今、何か悪いことしたですかっ!?」

 

慌てふためく光秀が、千枚通しをぶんぶん振りながらうろたえる。

 

『犬千代を悲しませたからだ』

 

刃の言葉は淡々としていたが、それが余計に恐ろしい。冗談なのか本気なのか、判別がつかない声色に、光秀はぴょんと飛び跳ねた。

 

「う、うそです……これはたこ焼きの神様の試練です……私はただ、たこ焼きに、真摯だっただけなのに……ッ!」

 

「よーし! これぐらい焦がせばもういいだろう! 油もたっぷり乗ってるぜ!」

 

 ガッハッハと豪快に笑いながら、良晴が鉄板から取り上げたのは、見るも無残な──いや、彼いわく「相良屋特製・揚げたこ焼き」である。

 

 表面は見るからにカリカリ。いや、というよりもはや“カチカチ”で、爪楊枝を刺すのもひと苦労。カチッと鈍い音を立てて弾かれた爪楊枝が跳ね返り、近くにいた半兵衛の額に当たり「きゃんっ」と小さく悲鳴をあげるほどだった。

 

 会合衆は沈黙ののち、同時に呻いた。

 

「こ、こないなもん……喰わされるんか……」

「……焦げてカッサカサやないか……」

「売れ残りのたこ焼きを鉄板の上に忘れたら、あんなんになるでなぁ……」

「いやいやいや。あれはもう“たこ焼き”やのうて、“たこ瓦”やろ……」

 

 全体からあふれ出る「終わった感」に、半兵衛は胸に手を当てて空を仰いだ。

(……わたし、今まで生きてきて、こんなに美味しくなさそうなたこ焼き見たことないです)

 

 だがそんな空気を無視するかのように、良晴は誇らしげにたこ焼きへドボドボと大量のソースをぶっかける。もはや味付けというより“隠蔽工作”のレベルだ。

 

 そして、最後の切り札を懐から取り出した。

 

「ふっふっふ……皆の者、驚け! こいつが俺様の切り札だッ!!」

 

 彼が誇らしげに掲げたのは、小瓶に詰められた白くて、どろりとした何か──。

 その液体は妙に粘り気があり、もこもこと泡立ち、どこか発酵臭のような、刺激臭のような、説明しづらい異臭を放っていた。

 

「……よ、良晴さん……こ、このお汁はいったい……? 白くて、もこもこしてて、ねばねばで、しかも、臭い、です……くすん、くすん……」

 

 泣きそうな顔で震える半兵衛。その頬は紅潮し、潤んだ瞳が良晴を見つめていた。

 

「半兵衛ちゃん半兵衛ちゃん! ヘンなものを連想するからやめてくれよ! これはな、俺様が徹夜で、全身全霊を込めて作った──」

 

 その瞬間、空気が変わった。

 

 キィン、と剣気すら感じさせる殺気が良晴の背後に発生した。

 

 ──ザッ。

 

『良晴、お前もお仕置きだ』

 

 静かに響いた、刃の低く冷ややかな声。良晴は思わず背筋を伸ばし、びくりと肩を震わせた。

 

「な、なんでだよ!? お前、これ知ってるだろ!? これは“マヨネーズ”だぞ!? 現代の文明の利器、味の革命だぞ!? 知らんふりすんなよ!」

 

『は? 半兵衛に“変な想像”をしたからだ。それだけでお前は──万死に値する』

 

「ぎゃあああああああ!?!? 理不尽だろそれ!? いや、だってさ! 半兵衛ちゃんみたいな美少女が、あんなこと言ったら、男なら誰だってちょっとは想像しちゃうだろ!? 脳が勝手にさ!」

 

 良晴が必死に言い訳をしても、刃はすでに刀の柄に手をかけている。

 

『……殺す』

 

 その一言と同時に、空気がピリッと張り詰めた。

 周囲の会合衆が一斉に身をすくめる。誰もが、「この世で一番まずい冗談を聞いてしまった」という顔だった。

 

「いやああああああぁぁぁぁぁぁ!?!? 理不尽だぁぁぁぁ!! 男の本能がぁぁああ!! これマヨネーズだから!? 本当だから!? 蓮!頼むから落ち着いてくれぇ!!」

 

「……真夜姉酢、ですか?」

半兵衛がしょぼくれ顔で、うるうるしながらつぶやく。

 

「ちがうちがうちがう! “マ・ヨ・ネ・ー・ズ”! 素人料理でも卵黄と油と酢を混ぜれば作れる、万能調味料だ! 現代じゃ定番中の定番、ソースと一緒にかければ無敵だっての!」

 

 だがその熱弁の最中、隣では五右衛門がジト目で良晴を睨んでいた。

 

「さらに油を……? 良晴殿、あまりにも……あまりにも油が多すぎるでござる……!」

「いや、だからそれが揚げたこ焼きってもんで――」

「こんな油まみれの食事を続けていたら、拙者、肥ってしまうでござる! 忍びにとって“かるちゃ”を維持することが、いかに大事かというのにぃぃ……!」

 

「いいからいいから! さあ、会合衆のみんな!」

 良晴は振り返り、鉄板の上にズラリと並んだ、焦げ焦げの揚げたこ焼きに白濁のマヨネーズをトロトロにかけながら叫んだ。

 

「これが未来のたこ焼きだ! 食ってみやがれいッ!!」

 

 どーん! と一皿ずつ、嫌がる会合衆の前に置かれていく“爆弾のような”揚げたこ焼き。

 

「料理はなぁ! 見た目や素材の銘柄じゃねえ! 美味いかどうかだ! それだけが、すべてだっ!」

 

「……わたしも、これを食べるのね……? いやねえ……何よこれ、真っ黒でカチカチ……しかも、白いヘンなねばねばが……べったり……」

 と信奈がうんざりした目で皿を見る。

 

「おひぃさま、ここはひとまず喰うてみまひょ。……意外と、やみつきになるやもしれまへんで?」

 

 そして信奈以外の全員が、いかにもイヤそうな顔をしながら、それでも「賭けに乗った」気分で、そっと口にした──。

 

 ぱくり。

 

 ……。

 

 …………。

 

 沈黙。

 

(や、やべえええええええええ!?)

 

 胃がぎゅっと掴まれるような焦燥。良晴の脳内に警報が鳴り響く。

 

(これはダメだったか!? 味が時代を先取りしすぎた!? 酸味が強すぎた!? 硬すぎた!? ああっ、俺はこのまま岐阜城の“厨房係”に降格かあああああああああ!!)

 

 その場に崩れ落ちる良晴。目の前が真っ暗になりかけた、その時――

 

「……相良はん……!」

 

 最初に口を開いたのは、今井宗久。

 

 ぶわっ! と、両目から大量の涙をこぼしながら叫ぶ。

 

「なんちゅう……なんちゅうもんを……喰わせてくれはったんや……!」

 

「うわああああああ!? 宗久のおっさん!? ご、ごめんっ、悪かったっ!! 会合衆代表を決める大勝負なのに、適当にごまかしてたのがバレたんだな!? 罰は受けるからああああああ!!」

 

 土下座する良晴の声が、食堂に響き渡る。

 

 しかし、次の瞬間。

 

「ちゃう!! 美味いんや!! 美味すぎて……美味すぎて涙が止まらんのやああああああ!!」

 

「……え?」

 

 ピタリと動きが止まり、全員が一斉に宗久を見つめる。

 

 そして、次々と他の会合衆たちも口を開いた。

 

「ほ、ほんまや……これは美味いで!?」

「従来のたこ焼きとはまったくの別物やけど……なんや、クセになる味や!」

「外のカリカリ、そして中のとろとろ……ああんっ、中身がアッツアツね!」

「くすんくすん……絶対、肥ると思うです……でも美味しすぎてやめられないです……」

「ふはっ、ふはふはふは! あちちちち……拙者、猫舌でござるが……それでも食べ続けたくなるお味でござるっ!」

「……犬千代、おかわり。三つ。いや、五つ」

 

 ざわ……! ざわ……!

 

 会場がざわめいた。空気が一変した。

 

 それはもはや【感動の渦】。拍手が湧き、何人かは涙をぬぐいながら「うめえ、うめえ!」と叫び、信奈でさえも眉をぴくりと動かしていた。

 

「ふむ。南蛮風の天ぷらと、たこ焼きの融合ですな……」

 重々しい声が響いた。発したのは、会合衆の一角――津田宗及。

 

「一見すると非常識極まる創作料理……ですが、これは実に素晴らしい。香ばしさ、旨味、酸味のバランスが絶妙。……このたこ焼き、“前代未聞の逸品”と申し上げて差し支えないでしょう」

 

 思わぬ賛辞に場がどよめく。

 

「たこ焼きを油で揚げるとは、奇策も奇策。しかも、そこに酸味の効いた白濁調味料をかけるとは……相良さま、ひょっとして料理の天才かもしれませぬな?」

 

「い、いやいやいや、そんな大層な……揚げたこ焼きは、別に俺が考えた料理じゃないんだって……大阪には普通にあるし……」

 

 困惑気味に頭をかく良晴の耳に、さらに追撃の称賛が。

 

「いやいや、これは……たこ焼きとは申せ、それがしの名物たこ焼きとはまったくの別物ですな」

 今井宗久が、腕を組み、感嘆の吐息をついた。

 

「これならば、納屋独占のたこ焼きを相良殿に譲ったとしても、何ら悔いはありませぬ。未来より来たという噂、あながち誇張ではないようですな……」

 

「……うわあ……どんどんハードル上がってない……?」

 

 良晴が小声でつぶやく。だが、感動の渦はとどまらない。中でも最も衝撃を受けていたのは――光秀だった。

 

「こ、こんなはずではっ……! こ、こういう場合は、さ、先に料理を出したほうが……ま、負けるのが通例のはずなのですぅぅぅぅ!!」

 

 彼女の肩がガクガクと震え、顔面蒼白で屋台にしがみつく。

 

「信じられないですっ! 前座で登場して、お客さん全員持ってかれるなんて……ッ!」

 

 だが、光秀のメンタルを最も削ったのは――

 

「ほんとに美味しいわね。サル、もう一個ちょうだい!」

 

 そう言いながら口元をぬぐい、にこにこと微笑むのは、町娘風に変装中の信奈。まさかのベタ褒め!

 

「おう。食いすぎるなよ、あとで腹下しても知らんぞ」

 

 良晴が笑って皿を差し出す。

 

「蓮、これ熱いから、ふーふーしてちょうだい?」

 

「御意」

 

「……あ〜ん♪」

 

 ……ちゅんちゅん、と、遠くでスズメが鳴いているかのような光秀の耳鳴り。

 パキッと、何かが折れた音が心の中でした。

 

「……あとはソースを塗るだけ」

光秀の屋台に戻ってきた犬千代が気の毒そうに声をかける。

 

「ソソソソソースは……中止です!!こ、こうなったらっ……あの怪しげなマヨネーズとやらに、勝てる調味料を使うですっ!! もはや常識にすがっていては勝てぬ! 禁断の一手を解放するしかないのですぅぅ!!」

 

 嫉妬と対抗心に火がついた光秀の目が、紅蓮の業火のごとく燃え上がる。

 

「……そんな“禁断の調味料”、本当にあるのか……?」

 良晴がつぶやいた瞬間。

 

「ありますですッ!! ふふふふ、未来の白いソースに対抗するには、過去より伝わる漆黒の旨味……! これならば、絶対に信奈さまが大喜びするに違いないのですっ!!」

 

 ──ど  ん  っ!!

 

 光秀が屋台の奥から両手で掲げたのは、艶のある深黒の液体が詰まった小壺。それは……

 

「三河名物──八丁みそ! しかも、松平元康殿直々に取り寄せた、超熟成の最高級品でありますっ!」

 

 会合衆の間に、ざわめきが走る。

 

「な、なんちゅう……なんちゅうもんを、ぶっかけるつもりなんや……!」

 

 視線の先にあるのは、極めて上品に焼き上げられた光秀特製たこ焼きの山。その上に、ためらいなく――

 

 とろり。とろりと。

 

 八丁みそを、たっぷりたっぷりぶっかけていく!

 

 たこ焼きはみるみるうちに漆黒の塊へと変貌し、その様はまるで“味噌まんじゅう”。

 

「さぁさぁ、遠慮せずに、どうぞ召し上がれですっ♡ 信奈さまもっ、これならきっと気に入るに決まってるですっ!」

 

満面の笑み。ドヤ顔全開。鼻息まで誇らしげ。

 

 ……

 ……

 ……

 

 しん、と静まり返る試食席。

 誰も手を出さない。

 

「ふっふーん? 感動のあまり金縛りになったのですか? も~う、冷めちゃいますよ~。ほらほら、早くどうぞですっ♪」

 

 光秀の笑顔はキラキラと輝き、まるで舞台女優がフィナーレの喝采を待っているかのようだった。

 

 しかし……誰も……口を開かない。

 

(言えない……)

 宗久も宗及も、犬千代も、五右衛門も、半兵衛でさえも、口を開けずに沈黙。

 

(この得意満面の光秀に、「こんなもの食えたもんじゃねえ」なんて……言えるわけがねえ……!)

 良晴が内心で頭を抱えた。

 

 ……やがて、震える手つきで一人、また一人と、皿の「みそたこ焼き」に爪楊枝を刺す。

 

 ぷすっ。

 

 重たい空気の中、恐る恐る口に運ぶ。

 

 ──もぐ……もぐ……。

 

「うーん……まあまあ……いける……ことも……ない……ことも……?」

 

「ふむ……合わんな」

 

「に、苦いです……みそが……ちょっと……くすん……」

 

「拙者、みそは嫌いではござらぬが……これは……ごにょごにょ」

 

 美濃・尾張出身の、いわゆる“みそ文化圏”の者たちですら、微妙な表情で視線を逸らす。

 どこか申し訳なさそうに、首を傾げる。

 

 そして良晴は心の中でつぶやいた。

 

(……これ、勝家ぐらいしか喜ばねえぞ……)

 

 事実、たこ焼きの完成度だけは異常なまでに高かった。皮はパリッと香ばしく、だしの風味が舌に残り、中はふわとろ。

 だが、肝心の“漆黒の八丁みそ”が強烈すぎた。

 

 通常の三倍の期間をかけて熟成させた特級みそは、旨味よりもまず苦味と塩気が前面に出る。

 それはまるで、料理を包むというより、料理そのものを圧殺する暴力的な調味料。

 

 味に繊細な堺の商人たち――舌が肥え、贅を極めた料理人を抱える会合衆にとって、それは一種の拷問だった。

 

「な……なんやこれは……」

 

「たこ焼きが、みその殴打に負けてまう……!」

 

「わての舌が……アホになってまう……!」

 

 やがて――

 

 津田宗及が、たこ焼きに刺した爪楊枝を、静かに皿に戻した。

 

「……たこ焼きとしての出来は、相良はんのものより、格段に丁寧や。素材も技術も……圧倒的に上や。せやけど……」

 

 淡々と語るその声には、厳しさと優しさが混じっていた。

 

「素材同士が調和してへん。完成度は高いんやけど、それぞれが勝手に主張しとる。まるで“焦り”がそのまま形になったような……そんな料理やった」

 

「ええええええっ……だ、だ、ダメですかああああっ!? そんな……まさか……!」

光秀、がっくりと膝を突いた。

(こ、これで厨房係決定です……ううう)

敗北を覚悟した。

 

「……津田どの、申し訳ないです! 勝てませんでした……。これで堺の代表は、宗久どのに……」

 

「いや」

 津田宗及が、ぴしゃりと制した。

 

「勝負は、ふたを開けてみねば分かりませぬ」

 

 そして――

 

 しばしの休憩ののち、ついに会合衆による投票の結果が発表された。

 

 票の大勢は――

 

 明智光秀に、大差で傾いた。

 

「や、やったですぅぅぅぅぅぅうううううううっ!!!」

 光秀は飛び跳ね、くるくると回転しながら喜びを爆発させる。

 顔をくしゃくしゃにしながら、涙まで流して。

 

「これより、手前が会合衆の代表……ですねっ!」

 八丁みそを掲げ、勝利の凱歌をあげる。

 

「やっぱり、みそは正義ですっ! 八丁みそばんざーいっ!」

 

 その横で、津田宗及は何食わぬ顔で茶を一服。

 その落ち着きぶりは、さながら全てを見越していたようでもあった。

 

 だが、納得がいかないのは他の面々だった。

 

「……ぶーぶー」

「やらせでござる!」

「さては津田さまが会合衆の皆さんを買収したのでは」

と抗議するが、津田宗及の裏での買収劇に気づいていない光秀は、冷たい笑みを浮かべながら腕を組んだ。

 

「ふーん。負け惜しみですね。見苦しいです」

 

 鋭い目を細め、自信満々に鼻を鳴らす。空気などお構いなしに、一人だけ勝ち誇った様子で胸を張っていた。

 

 その態度に、場の空気が一層冷え込む。

 

堂々と、涼しい顔で言い放つ。まるで、今の勝利が実力によるものだと信じて疑っていない。いや――そもそも疑うという発想すらない。

 

「こういうの、慣れてます。結果が全てですから。負けた人間がどれだけ言い訳を重ねても、勝者の価値は揺るがない。潔く敗北を認めることも、美徳だと思いますけど」

 

 空気を読まない。いや、読もうとしない。

 周囲の重苦しさにも気づかず、ただ一人で満面の勝利宣言。

 

 その傍らで、ぷくっと頬を膨らませたのは蜂須賀五右衛門。

 

「馬鹿馬鹿しいでござるッ!」

 

 ばっと手を広げて、仁王立ち。

 

「拙者、京へ帰るでござる!天城氏!かえっちゃら……その、ひ、ひじゃ……じゃなくて、ひざ!ひざをかりるでごじゃる!」

 

 真っ赤になって噛み倒す五右衛門を、誰かが笑いそうになる。だが笑いは起きなかった。笑えない空気の中で、ほんの少しだけ、それが緩和剤のように揺れただけ。

 

「わたしも……です。悔しい。情けない。でも、それ以上に、悔しさを感じているのは、わたしの戦績がそのまま、刃さん──主の評価に繋がるからなんです」

 

 半兵衛はぎゅっと拳を握る。その小さな体には、名将としての気高さと、少女としての繊細さが同居していた。

 

「信奈さまが刃さんを従えている。──それだけで、信奈さまの名声はうなぎのぼりです。少し前までは、尾張の“うつけ姫”と蔑まれていたのが、今では“次代の天下人”とまで呼ばれている。その変化こそ、刃さんの存在の大きさを物語っているんです」

 

 そう語る半兵衛の声には、熱がこもっていた。

 

「……でも、他の人たちと違って、刃さんの家臣は、まだこのわたし一人だけ。だからこそ、わたしの働きは、刃さんの見る目を証明するものになる。刃さんの名前に恥じないよう、必死で努力してきました」

 

 まっすぐに顔を上げる。いつもの柔和な表情ではなく、気迫を帯びた軍師の顔。

 

「日ノ本中の大名が、今、刃さんの名に注目しています。その評価はただ高いだけじゃない。“恐るべき存在”として、警戒されている。あるいは、“手に入れられれば天下が見える”とも囁かれている。誰もが、その存在感に震えているんです」

 

そして、語られる美濃攻略の戦果。

 

「美濃攻略だけでも、刃さんの戦果はどれも歴史に名を刻むものばかりです。わたしや美濃三人衆の調略。墨俣に一夜で築かれた城。そして、八千の軍勢を前に、わずか百の兵で半日籠城しながら、たった二人で敵兵二千を討ち取る。──しかも、ほとんど無傷。途中からは片腕に五右衛門さんを抱えたまま、それでも敵陣を切り裂いて進んだ。これが尋常の武ではないことくらい、誰にだって分かります」

 

 語る口調は、もはや事実の列挙ではなく、讃えるような響きさえあった。

五右衛門が「うにゅっ」と変な声をあげながら赤面した。

 

「さらに、信奈さまが墨俣に全軍で駆けつけられたのも、刃さんが義龍さまの策を事前に読み、伝えていたからです」

 

一息ついて、彼女はきっぱりと言い切る。

 

「実質、刃さんは“たった一人”で、美濃という大国を落としたようなものなんです。しかも、美濃は尾張とは比べものにならないほどの大国。そんな国を、たった一人で……!」

 

 そこまで言って、半兵衛は少し間を置いた。次の言葉に、強い緊張感を込めるように。

 

「……もし、誰かが信奈さまの命を奪おうとするのなら──まず、信奈さまと刃さんを分断しなければなりません。そして、信奈さまを討つまで、刃さんをその場に釘付けにする。それができなければ、絶対に成功しない。それほどの存在です」

 

 彼女の言葉は冷静だが、断言には重みがあった。

 

「暗殺も、意味を成しません。刃さんが傍にいる限り、信奈さまに刃を向けることすらできない。気配の一つ、視線の動き、風の乱れ──ほんのわずかな兆しで、即座に察知し、対処してしまう。まるで、戦場に生きることそのものが本能であるかのように」

 

 そして、信奈の軍勢に言及する。

 

「しかも信奈さまには、刃さんほどではないにせよ、勝家さん、犬千代さん、長秀さんといった優れた武将が揃っている。刃さん一人に兵力を集中させれば、彼女らが動く。けれど、百や二百では刃さんの足止めすら不可能。千、二千、いや、三千は必要でしょう」

 

 言葉を強める。

 

「──ですが、そんな大軍を前にしても、刃さんは無理に戦おうとはしないでしょう。ただちに信奈さまのもとへ駆けつける。恋人であるわたしたちが人質にでもなっていない限り、絶対に止まらない」

 

 そして、重ねる。

 

「信奈さまと戦う大名たちは、刃さんがいるというだけで、戦略に制限を課される。何をどう仕掛けても、刃さんが読んでいるかもしれない──そう思わざるを得ない。……それほどまでに、刃さんの名は、武勇は、日ノ本中に轟いている」

 

 そこまで一気に話して、半兵衛は小さく息を吐いた。言葉が少し震える。

 

「だからこそ……家臣であるわたしの戦績が、大事なんです。刃さんが、どんな人を家臣に選ぶのか、世間はそこにまで注目しています。刃さんが人を見る目もあると、わたしは知って欲しいんです」

 

 そして、ぽつりと呟くように。

 

「……刃さんの顔に、泥を塗りたくなかった。だから、どんなに辛くても、苦しくても、逃げなかった。頑張ろうって……誓ったばかりだったのに……」

 

 半兵衛の瞳に、悔し涙が浮かぶ。

 

「──そんな矢先に、正々堂々の勝負でもなく、こんな茶番みたいな八百長で……初陣に黒星がつくなんて……最悪です……!刃さん、京に帰ったら構ってください」

 

「……むかついた。刃、京に帰ったら犬千代にもかまって」

 

 ぽつりと呟いたのは、犬千代だった。声には抑えきれない怒気がこもっているが、その奥には拗ねたような寂しさが混じっていた。

彼女は一言だけ言うと、ぴしゃりと音を立てて背を向ける。乱れた袴の裾を払うようにして、ゆっくりと歩き出した。

 

「……了解した。悪いな。わざわざ来てくれたのに……結果がこんなで」

 

 その言葉に、三人とも何も言い返さなかった。こうして、五右衛門、半兵衛、犬千代の三人は、誰の制止も聞かず、怒りと悔しさをそのままに、京へと帰っていってしまった。

 

「……なあ、刃。お前、何もしてないのに、なんか一番被害受けてね?」

 

 良晴がぽつりと呟くと、刃は首をわずかに傾けながら、あいかわらず淡々とした口調で答えた。

 

「そうか? 可愛いおねだりじゃないか。それに、全く苦じゃないから、問題ない」

 

 その声音には、疲れも怒りもなく、むしろ楽しげな響きすら混じっていた。まるで、騒動そのものが彼にとっては日常の延長線にあるかのように。

 

 ――結局、この一連の混乱の中で、空気を読まずに得意顔の光秀と、怒れる三人娘、そして被害者のようでいて実は一番余裕のある刃だけが強く印象に残った。

 

 

「納屋殿。これもまた、勝負の世界。今回は、手前が勝たせていただいた……それだけのことですな」

 

 宗久は静かに頷いた。

 

「見事でしたな。とはいえ、これだけの票を買い取るには、相当の資金が必要だったはず。天王寺屋はん、まことに太っ腹なことです」

 

「ふむ、八丁みそのおかげでかなりの出費にはなりましたが……まあ、たこ焼きを売る時に“みそ”だけ外せば済む話です。要は、代表の座が取れればそれでよい」

 

 そして宗久はふと視線を向け、核心を突いた。

 

「──それよりも気になるのは、納屋殿、あなたが手前の買収劇に気づいていながら、それを黙って見過ごしていたことです。なぜですかな?」

 

「ふっ……わてが手放したんは、たこ焼きの独占権。けどな、あんたらが見向きもしなかった相良はんの“揚げたこ焼き”は……それがしが、独占させてもらいますわ」

 

 宗久は口の端を上げて言い放つ。

 その言葉に、宗及の手がぴたりと止まった。

 

「ぐ……」

 

 さすがの宗及も言葉を詰まらせる。

 今ここで「それは困る」と言おうものなら、宗久は即座に「この投票には不正があった」と声を上げるだろう。

 その一言で、代表の座はぐらつきかねない。

 

 つまり、これは宗久からの“牽制”だった。

 光秀の勝利を認める代わりに、“揚げたこ焼き”の権益には手を出すな――と。

 

「……なるほど。名より実を取った、というわけですか。あなたと昵懇だった相良さまをも切り捨ててまで」

 

「左様。代表の座なんぞ、おひぃさまが今以上に力を持てば、おのずとそれがしの掌に転がり込んできますさかいな。わては、流れを見て動くだけや」

 

「……そうなりますかな?」

 宗及はわずかに目を細める。

 

「聞くところによれば、京の公家衆の間では、織田信奈さまの評判はすこぶる悪いとか。奇抜すぎる、とも、品がない、とも……あなたも織田さまともども、足をすくわれぬよう気をつけられたほうがよろしい」

 

 宗久は静かに笑った。

 

「天王寺屋はん。おひぃさまのそばに、天城刃がおる限り──足をすくわれることなど、ありゃしまへん」

 

 両者の視線が、ぴたりと交差する。

 

 好敵手として、腹の探り合いはなおも続く。

 だが――

 

 ともかく今回の名物勝負は、明智光秀の“勝利”という形で決着した。

 

 そして、堺会合衆の新たな代表には――津田宗及が、満場一致で任命されたのである。

 

 

 

 

「この勝負は私の勝ちですね、先輩っ♪」

 

 鼻高々に胸を張る光秀。瞳はキラキラと輝き、自信に満ち溢れている。

 

「お、おかしいじゃねえか!」

「ぜんっぜんおかしくないですっ!」

「むっきー!! 人の勝ち星を横取りしやがって! 今井のおっさんに謝れよーっ!」

 

 食い下がる良晴に、光秀は腕を組んでふふんと勝ち誇る。

 

「百歩、いや千歩譲って票の不正があったとしても、それは津田宗及どのが勝手にやったことですっ。私は、なーんにも知らないんですっ♪ 勝負の世界は非常なんです、相良先輩!」

 

 ――今井宗久の屋敷。

 

 信奈と今井宗久が同席する中で、良晴と光秀の言い争いはまったく終わる気配がなかった。

 

「ぜんぜん納得いかねーっての……!」

「納得するかしないかは、負けた人の自由です」

「ぐぬぬぬ……」

「ふふふ……っ」

 

 良晴はやりきれない思いで頭をかかえ、光秀はしれっとした顔でお茶をすする。まるで何も後ろ暗いことなどないと言わんばかりの態度で。

 

「お前、意外とせこいな……そこまでして信奈の左腕になりてーのかよ……?」

 

 半ば呆れたように、良晴がぽつりと漏らした。

 

 すると光秀はピタリと茶碗を置き、正座のまま彼の方へと向き直った。その表情は凛としていて、まるで誰かに誓いを立てる巫女のようだった。

 

「当然です」

 

 静かだが、強い決意を感じさせる声だった。

 

「わが明智家は今でこそ見るも無惨に落魄しておりますが、元を正せば清和姫巫女さまの血を引く清和源氏の一族。かの源頼朝公もまた、その血脈に連なるお方。私の一族は――名門中の名門なのです」

 

「……また始まったよ、お前が高貴な名家の出ってのはもう聞いたっての! だいいち、おでこ見りゃ一発でわかるし!」

 

「なぜそこでおでこですかぁあ!?」

 

 ぷくっと頬を膨らませる光秀。顔を真っ赤にしながら、前髪を手で隠そうとするが、さらなる追撃を避けきれず、ぷいっと横を向いた。

 

 そんな二人のやり取りを、ずっと黙って見つめていた信奈が、とうとうぼそりと口を開いた。

 

「……十兵衛がお家再興のために、身を粉にしてがんばってるのはわかったわ。でもね、今はとにかく――厨房送りの件よ」

 

 こめかみがぴくぴくと引きつっている。明らかに怒りゲージが臨界点に近づいている。

 

「さあ来た……!」

 良晴は即座に身構える。全身の毛穴が緊張で引き締まるのを感じた。

 

「勝負は勝負。まさかサルの干し首一個で、済ませられると思ってるわけ?」

 

 信奈の声音は静かだが、鋭く冷たい。嵐の前の、あの凪――。

 

「いや……しかし……」

 

 その空気を察し、今井宗久がそっと助け舟を出す。

 

「おひぃさま。それがしは、津田宗及が票の買収をやっとると知っておりました。しかし、揚げたこ焼きの独占権を押さえるために見逃したのですわ。実際には、間違いなく相良はんの料理の方が勝っとりました。ここはそれがしの面目を立てるちゅうことで、なにとぞ、寛大なお裁きを――」

 

 懇願する今井宗久に、信奈はちらりと目をやるが、その眉間には依然として深いシワが寄ったままだった。

 

「……そうは言っても、約束は約束だし。皆の前で交わした誓いを、軽々しく反故にするわけにはいかないわ」

 

 深いため息。そこに漂うのは、主君としての責任と、私情の間で揺れる少女の苦悩。

 

 良晴は、自分がまったく蚊帳の外で――いやむしろ背後から刺されていたことに、ようやく気づく。

 

(ああああ……俺って今井のおっさんに、背後からブスリとやられてたのかあああ!?)

 

 頭を抱える。

 

「厳しいぜ……商いの道は、マジで厳しいぜ……思い知った……!」

 

そのとき。

 

「信奈さまっ! この勝負、私――勝ちましたー!」

 澄んだ声が響き、光秀が勝者の笑顔で躍り出た。勝ち誇る表情、胸を張る姿勢、きらきらと輝くような笑顔。誰が見ても満点の“無邪気”だった。

 

 そのあまりの空気の読めなさに、一同が「えっ……?」と顔を見合わせる。

 

 信奈が「え、ちょ、今……」と戸惑っている横で、今井宗久は顔面蒼白になっていた。

 ――なんてこった。この場は「引き分け」にして、信奈の采配でうまく収める流れだったのに。

 

 宗久は、小声で「ちょ、何を言い出すんやこの子……やめてぇな……!」と口元を引きつらせながら頭を抱える。まさに計算外。

 

「さあ信奈さま!」

 光秀はぴょこんと前に出て、一歩距離を詰めて手を差し出す。

 

「ここは、勝者である私の言に従って――公正なる裁きを! 仰ってください! 『サル、あんたは岐阜城の厨房係に降格!』と!」

「う……うぅ……」

 

 信奈の視線が泳ぐ。焦っている。頬にうっすら汗を浮かべて、苦しそうに呟いた。

 

「で、でもね。得票数はあんな形になったけど、実際にはサルの『揚げたこ焼き』のほうが好評だったわ。ここは引き分けということで……」

 

「いえ!」

 光秀はきっぱりと制した。澄んだ瞳に、一片の曇りもない。

 

「ですが、勝負は勝負です! たとえ形勢が拮抗していても、数字として勝っていればそれが全て。ですから、サルの厨房係降格は不可避なのですっ!」

「なっ……なによ、その正論爆撃……!」

 

 信奈が頭を抱える。良晴は泣きながら地面に倒れ伏した。

 そして、宗久は空を見上げ、ぽつりと呟いた。

 

「やっぱり、あの子は……あかん……」

 

「……まあ、勝負は勝負だ。俺の負けだよ」

 ふっと笑って、良晴が立ち上がった。

「主君が一度口にした約束を反故にしちゃ、家臣としての信頼を損なう。だろ、信奈?」

 

 信奈は「……えっ」と口を開けたまま、言葉を失う。

「だから俺は岐阜城へ行く。これからは――『織田信奈のシェフ』として、がんばるぜ!」

 

 笑顔で右手の拳を握りしめ、力強く掲げる良晴。

「相良良晴立志伝・第二部! 天下一料理人編、ここに開幕だ!」

 

「ちょっ、ちょっと待ってよサル!? あきらめがよすぎるでしょ、それ!?」

 信奈が椅子から立ち上がる。動揺が隠しきれない。

 

「納得しがたいけどな。でも今の織田家には、身内で揉めてる余裕なんてない。将軍宣下が最優先だ。ここで俺がぐだぐだ粘って信奈に泥をかけるような真似は……できねぇさ」

 背を向け、肩越しに振り返る良晴の表情には、微かな苦笑がにじんでいた。

 

「……それは、そうなんだけど……」

 信奈が唇を噛む。目が揺れる。

 

「でも、これで終わりじゃねぇ」

 良晴が片手を振る。

「未来料理の知識を駆使して、一からまた這い上がってやるさ。お前のみそまみれの食生活を放っておくと、高血圧で寿命が縮むからな。まずは減塩ソースのレシピから開発するぜ……とほほ」

 

 そう言って、良晴は踵を返し、軽やかな足取りで扉の方へと歩いていった。

「……じゃあな、信奈」

 

「さ、サル~っ!? ちょ、待ちなさいってば……」

 

 思わず声を上げたが、良晴はもう振り返らない。姿が角を曲がって消えていくのを、ただ茫然と見送るしかなかった。

 

 ──マズイわね。六が拗ねちゃうじゃない。

 

 信奈は腕を組み、溜息をついた。彼女の脳裏に浮かんだのは、今や心を通わせた恋人・刃の姿だった。自分と刃が結ばれた夜。そのきっかけを、思い返すたびに浮かぶのは――あのどうしようもない未来人、サルの存在だった。

 

「……サルのおかげで、わたし……刃と恋人になれたんだし」

 

 そう、刃の頑なな心をほぐしたのも、信奈の背をそっと押したのも、あの男の言葉だった。

 

「……おひぃさまがひどく苦慮しとる姿を見て、潔く身を退いたんでっしゃろな。ようできた男や」

 今井宗久が渋くつぶやく。

 

「ふふん♪ 勝負とはいえ、今井どのには申し訳ないことをしました。この十兵衛、ツテに声をかけ、当座の資金繰りをなんとかいたしましょう。利子は……トイチでいいですか?」

 にっこり笑って言う光秀は、どこまでも現実的で、どこまでも貧乏性で、どこまでも空気が読めなかった。

 

「さてさて、信奈さま。邪魔なサル人間――いえ、相良先輩もいなくなりましたし、京も平穏無事。これからは天城先輩とこの十兵衛が、信奈さまのお供をいたします! 三人で、のんびり堺見物などいかがですか?」

 

「……うっさいわね、バカ! きんかんっ! なに一人で喜んでんのよ、空気読みなさいよっ!!」

 ついに、堪えていたものが音を立てて崩れた。

 

 ずっと気位の高さと主君の威厳で堪えていた信奈が、とうとう爆発したのである。

 

「……えっ、の、信奈さま?」

 

「姫様。追いますか? 良晴を」

 

 静かに問うた刃の声に、信奈は即座に頷いた。

 

「当たり前じゃない……」

 

 組んだ腕をほどき、信奈はゆっくりと立ち上がった。

 

「六は織田家の筆頭家老であり、柴田家の当主。尾張中がその存在を認めている家門よ。ただでさえ、サルの身分じゃ釣り合ってないのに──ここで一度でも名を貶めれば、もう二度と同じ土俵には立てなくなる」

 

 信奈の声には、苛立ちと焦燥が混じっていた。政略を重んじる織田家当主としての冷静さと、一人の少女としての複雑な感情とがせめぎ合っている。

 

「ただでさえ、あいつに武力はない。戦場で武功を挙げるなんてのも難しいんだから。だからこそ、わたしたちがあいつを支えてあげなきゃいけないのよ。そうでしょ、刃?」

 

「……左様でございます」

 

 刃は静かにうなずいた。信奈の言葉には、苛立ちでも失望でもなく、ひたむきな信頼と愛情がこもっていた。

 

「勝家殿が良晴に好意を抱いているのは、誰が見ても明らか。気づいてないのは、良晴くらいですからね」

 

 冷静に指摘する刃に、信奈は鼻を鳴らすように呟いた。

 

「そうね。ヒロインがどうこう、言ってるくせに鈍感なんだから。……まったく、刃と一緒ね」

 

 信奈はぷいっと顔をそむけたが、その頬はほんのり赤く染まっていた。

 

「私は鈍感ではありません」

 

 ぴしゃりと、刃は即答した。だがその表情はいつもよりわずかに困惑している。信奈の言葉の裏にある“感情”を、完全に読みきれていないのかもしれなかった。

 

「……いや、あんたは超鈍感よ。筋金入りのね」

 

 信奈は呆れたようにため息をつくと、くるりと踵を返し、刃の正面へと歩み寄った。そしてまっすぐに、紅い瞳をのぞき込む。

 

「いい?これは冗談でも駆け引きでもないわ。刃、あんたは確かに、名声なら十分すぎるほどある。この国のだれが何と言おうと、あたしたち三人──織田信奈、丹羽長秀、前田利家が“あなたを選んだ”理由に、文句なんてつけられるはずがない」

 

 そこまで言うと、信奈の声はほんの少しだけ、震えを帯びる。

 

「でも……それでも、身分は別よ。名声じゃ家を継げない。家臣じゃ、私たちと釣り合わないの。あんたはまだ、部将止まり。いくら恋人でも、それだけじゃ“嫁ぐ”には足りない」

 

 淡々とした口調の裏に、にじむような想いがあった。それは重責を背負う姫武将としての理性であり、同時に、刃と生きる未来を本気で願う“ひとりの少女”としての想いだった。

 

「最低でも、一国一城の主になってもらわなきゃ困るの。刃、これは命令じゃない。お願いでもない。“わたしの願い”よ」

 

 信奈は、そっと刃の胸に指を添える。そこにある鼓動を感じながら、言葉を続けた。

 

「織田家、丹羽家、前田家──それぞれの家を背負っている、女たちが。あたしたちが……“あなたに嫁ぐ”の。刃、私たちはもう、あんた以外の男と結婚なんて、死んでもしたくない」

 

 その瞬間、彼女の瞳が真っ直ぐに、そして凛と光った。

 

「だから、頑張って。……絶対に、追いついてきて。あたしを、わたしたちを、迎えに来なさい」

 

 一拍の間のあと、刃は深く、そして静かにうなずいた。

 

「──心得ております。姫様」

 

 その答えには、迷いも戸惑いもなかった。信奈の覚悟に応えるように、刃の声には確かな決意と誓いが込められていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。