織田信奈の野望〜戦国に舞い降りし銀ノ刃〜   作:更新亀さん

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京での戦い 前

「十兵衛っ!」

 

 信奈はくるりと振り返り、声を張り上げた。

 

「サルの好敵手を名乗りたいなら、これからは正々堂々と勝負しなさいよ! コソコソ抜け駆けなんて、あのバカが本気になったらあっという間にひっくり返されるんだから!」

 

 そして、そのまま今井宗久のもとへ一歩詰め寄り――

 

「宗久、馬を借りるわね!」

 

 信奈は宗久の制止を無視し、厩の方へと飛び出した。ほどなく馬のいななきが響き、信奈はその背に飛び乗る。

 

「刃、来なさい!」

 

「御意」

 

 信奈の背を追い、刃は地を蹴った。もう、姿の見えぬ良晴を追って――二人は勢いよく、堺の屋敷を駆け出していった。

 

 

「……信奈さまが……信奈さまが、私を……お、折に……」

 

信奈に激しく叱責されたあと、呆然としたまま今井屋敷に取り残された光秀は、まるで糸の切れた人形のように、その場から一歩も動けなかった。

 

あんな不本意な勝ち方をしてしまったというのに、自分はあまりにも、はしゃぎすぎていたのではないか――。

 

胸の奥に、後悔のような何かがじわじわと広がっていく。

 

光秀は一度物事に夢中になると、周囲が見えなくなる。

それは幼少の頃から変わらぬ性質で、道三からも幾度となく指摘されていた。

 

「お前のそれは欠点だ。しかしな、それが同時に、お前の美徳でもある。いずれ誰にもなせぬ大事を成すかもしれぬ」

 

そう褒められたこともあったから、気にも留めず生きてきた。

けれど、今の信奈のあの瞳――哀しげで、悔しげで、どこか寂しげだった。

 

それを思い出すたび、胸が締めつけられた。

 

「まあ、茶でも一服――」

 

信奈の姿を見失って屋敷へ戻ってきた今井宗久が、柔らかな声で気遣ってくれる。

光秀は涙で潤んだ目を袖でぬぐい、鼻をすすって頭を下げた。

 

「……申し訳、ありませんでした……」

 

「相良はんに対して、少々やりすぎましたな。

 それに……おひぃさまのみならず、前田はんたち同僚の怒りも買うてしもうた」

 

宗久の言葉に、光秀は小さな声でたずねた。

 

「……天城先輩も、……怒っておられるのですか?」

 

「……わての目には、天城はんが怒ってるようには見えんかった。むしろ何か期待するような目をしてはった。けれど……このままでは、明智はん、織田家中で孤立してしまいますわ。

 本日は勝ちを譲り、引き分けという形で丸く収めておくのが、賢いやり方だったでしょうな」

 

「……ですが、出世競争の相手に甘い顔をしていては、私自身が……」

 

光秀がうつむいて呟くと、宗久はやわらかな笑みを浮かべ、しかし静かな口調で語りかけた。

 

「おひぃさまにとって、家臣団とは……血のつながりこそなくとも、自分の家族のようなものなんですわ。

 三好一党のように、家臣同士で足を引っ張り合い、裏切りを繰り返す組織ではない。

 信奈さまの力の根幹は、そこにある。皆を“家族”と信じ、結びつけるその心に、真の力があるんです」

 

「……ですが、この光秀には、よくわかりません。

 家族とは、血を分けた存在。私には、母上ただ一人しか家族はいません。

 家臣は、家族ではない。共に働き、功を競う者……なれ合うなど、理解できません」

 

その言葉に、宗久の老練な顔が、岩のように厳しくも、どこか哀しげにほころんだ。

 

「それがし十年も前から先代信秀公とつきおうておりました。思えばおひぃさまは、驚くほど、家族運に恵まれておられぬお方なのです」

 

光秀は目を丸くする。

 

「……家族運に、恵まれない……?」

 

宗久は頷き、静かに続けた。

 

「唯一の家族と言える信秀公は戦が忙しく、おひぃさまにほとんど構ってやれませんでしたわ。しかもその信秀公をはやくに喪い、ようやく信奈さまの心を開かせたのは、異国の宣教師でした。第二の父とも兄とも慕っておられました。……ですが、その人もまた、ほどなく病で亡くなってしまった。

 残されたのは、同じく後継ぎを争う実の弟」

 

「そんな……信奈さまにも、母上がおられるはず。

 母上さえそばにいれば、たとえ父君がいなくとも、子は――」

 

「……おひぃさまは、実の母君からも……深く、嫌われておられるのです」

 

宗久の声は低く、哀しみに濡れていた。

 

「その激しいご気性ゆえか、あるいは……母の愛に触れられずに育ったゆえ、ああした気性になってしまわれたのか。

 わてにも、それはわからん。ただ、ひとつだけ確かなのは――

 おひぃさまは、“家族を持ちたい”と、誰よりも願っている。

 その願いを、血筋や名ではなく、心で繋がった“家臣”という絆に求めているということです」

 

光秀は言葉を失った。

心に今まで感じたことのない、複雑な痛みが広がっていく。

 

「……そんな……あの、あの信奈さまが……?」

 

その声は、もう自信ではなく、驚きと戸惑いに満ちていた。

 

「世の大多数の者にとっては、過ぎたる才は──うつけにしか見えまへん。たとえ、実の母でも」

 

 柔らかな関西訛りで、宗久はそっと言葉を置くように続けた。

 

「しかし……わが母上は……」

 

 光秀が口を開く。声の奥に、わずかに揺れる感情が滲んでいた。

 

 宗久は、彼女を見つめ、ふっと優しく目を細めた。

 

「明智はんの母上が、ご聡明だったまでです。……明智はんの、あの天真爛漫な自信家ぶりを見ておれば──ようわかりますわ。母上から、ぎょうさん、ぎょうさん愛されて育ったんやなぁと。ほんまに、幸せなお人やったんやな、と」

 

 その言葉は、静かに光秀の胸に染みこんでいく。宗久は続けた。

 

「同じ天才でもな、おひぃさまのように、屈折しとりません」

 

 ──そうだった。

 

 その瞬間、光秀の脳裏を一筋の記憶が貫いた。

 

 南蛮寺で、フロイスが語ったあの話──刃から聞いたという、信奈の秘された身の上話を。

 

 ──信奈は、素直な少女を演じて母親に愛されることと、うつけ者と笑われても天下布武を果たす夢とを、天秤にかけて……母の愛を、あきらめた。

 

 その話を聞いたときは、作り話に過ぎぬと一笑に付していた。だが今、宗久の口からも同じ気配が漏れたことで、それはもはや否定できぬ現実として光秀の胸を打つ。

 

(……あれが……まさか、ほんとうだったなんて……)

 

 あの信奈が。あの、いつも朗らかに笑って、前だけを見据えて、誰よりもまっすぐに突き進む姫君が──

 

(……でも、信奈さまは、そんな……そんな悲しい思いをしているだなんて、家臣の前では……少しも、見せたりなどせず……いつも、明るく、元気で……)

 

 胸が、締めつけられる。

 

 そのときだった。

 

 光秀の中に、ふと、一人の男の姿が浮かんだ。

 

 ──天城刃。

 

(……天城先輩が、いるから……)

 

 まるで自分に言い聞かせるように、光秀はそっと目を伏せる。

 

 宗久もまた、ふいに思い出したように言葉を継いだ。

 

「先の桶狭間の戦勝の折にも、おひぃさまは、喜び勇んで母上にご報告にあがりましたな。……けど、『血に塗れた穢れた姿で母の前に現れるとはあさましい。それでも織田家の姫か』と……そう、一喝されてしもうて。部屋に入れてもらえず、追い返されたと聞きます。護衛たちも指を差して笑っていたとか」

 

 光秀が息をのむ。

 

「その時ですわ……天城はんが、あまりに理不尽な仕打ちに怒り狂って……護衛のたちの腕を斬り落として、母君も斬ろうとした、と……」

 

「なっ──」

 

 思わず声が漏れた。だが宗久は、目を伏せて首を振る。

 

「けれど、これは町人どもがささやく無責任な噂話。……ほんまかどうかも、わかりまへん。だから、他言無用に願いますわ」

 

 その声音は、まるで、痛みを覆い隠すかのような静けさだった。

 

「そして……天城はんもまた、そうなんでっしゃろな」

 

 ぼそりと、宗久は言った。

 

「……天城、先輩も……ですか」

 

 光秀の声には、驚きと、どこか戸惑いが混じっていた。

 

宗久は静かに頷いた。盃に残った冷えた茶を、じっと見つめながら。

 

「天城はんの……おひぃさまや、明智はんたちに向ける眼差しと、わてに向けるそれとでは──まったく、別もんですわ」

 

 言葉こそ穏やかだったが、その口調には隠しきれぬ冷えがあった。何かを見抜いた者だけが持つ、底の底からの実感。

 

「……愛されて、守られて育った者ならな。他人に、あんな目を向けることはしまへん」

 

短い言葉に、しかし、重い確信が詰まっていた。

 

 光秀は息を呑む。宗久の言葉が、まるで刃のように彼女の胸元を撫でていく。

 

「……おひぃさまたちに向ける視線には、確かに情がある。慈しみがある。まるで宝石でも見るような、──この世にそれしか残っていないかのように、大事に大事に見つめておる。あの眼は……誰かを“護る”と心に決めた者の眼ですわ」

 

 宗久はふと、今日の昼間見た刃の目を思い出す。信奈や光秀、良晴たちを見つめる、あの優しさと誓いのこもった眼差しを。

 

「やわらかくも、燃えるような眼……せやけどな」

 

 そこで宗久の声は、はっきりと冷えた。

 

「それ以外の者に向ける目は──まるで違いますわ」

 

 光秀は、息を呑んだ。

 

「殺意がこもっとる。最初から疑ってかかっとる。あの人にとって……おひぃさまたちを脅かす可能性がある存在は、敵でも味方でもない。ただ“排除すべき物”でしかないんや」

 

「……っ」

 

 光秀は、息を呑む。だが、宗久は止めなかった。

 

「その視線には、こちらの命に対する価値観がまったく感じられん。冷たい。……わてが天城はんの前でどんなに丁重に頭を下げようが、笑顔を見せようが、関係あらへん。心の奥底では、“この男は、おひぃさまに何をもたらすか”──それしか見てへん」

 

光秀の背に、ひやりと冷たい汗が伝った。

 

「命の重さが、天城はんにとっては違うんですわ。おひぃさまたちの命と、それ以外の命。その二つの天秤が、まるで釣り合ってへん。片方は黄金の延べ棒。もう片方は……そうやな、風に飛ばされる枯れ葉のようなもんですわ」

 

 光秀は、思わず手のひらをぎゅっと握りしめた。

 

「今日の料理勝負の時、前田はんの髪を引っ張ったのが明智はんやなかったら……会合衆の誰かやったら、間違いなくその場で腕を斬り落としてたでしょうな」

 

「……っ」

 

「竹中はんに欲情したのが相良はんやなかったら……殺してたでしょう。あの人には、“見逃す”という選択肢がない。おひぃさまたちに手を出した者は、全て排除対象。容赦も、猶予もない」

 

「……天城先輩」

 

言葉の刃が、心を切り裂いていく感覚。

 

白く細い指が、震えながら自分の着物の袖をぎゅっと握る。指先には力が入りすぎて、爪が刺さるほどだった。呼吸の仕方さえわからなくなる。空気が重い。まるで沈み込むように。

 

(前田どのは……天城先輩の、恋人……わたしは……天城先輩に、嫌われた……ですか?)

 

 胸の奥に沈んでいく疑念と不安。鋭い後悔の棘が、静かに心を貫いていく。彼の怒り、彼の冷酷、彼の本質——それを目の当たりにした今、十兵衛は己が踏み込んではいけない領域に立ってしまったのではないかと怯えていた。

 

 宗久は、その横顔をそっと見つめた。そして——ふと、柔らかな笑みが彼の口元に浮かぶ。

 

「けどな、明智はん。そんな顔せんでもええ。あんさんは……間違いなく、天城はんにとって、大切な存在や」

 

宗久は、なにも慰めで言っているわけではなかった。そこにあるのは確かな“観察”と“確信”だ。だからこそ、彼の言葉は重かった。

 

 天城刃——彼は、排除者でありながら、守護者でもある。だからこそ、許さない。触れてはならぬものに手を伸ばす者を、決して。

 

だが、もしも。もしも、その彼が、今日の出来事を受けてなお、光秀を斬らなかったのだとしたら——

 

 それが、彼の答えだったのだ。

 

「……私、も……?」

 

 小さな問いかけ。だが、それは彼女の心の深層から漏れた、かすかな希望と恐れの混じった声だった。

 

「ええ。間違いありまへん。しかも天城はん、うちの屋敷に来てから、一睡もしとらんのですわ」

 

「なっ……!?」

 

「朝から晩まで、おひぃさまのそばに付き従い、夜になれば明智はんとおひぃさまが眠る寝室の前に正座して、じっと座ってはります。その場から微動だにせず、目を閉じることもなく、明け方まで……ずっと。おひぃさまが目を覚ます、その瞬間まで、守り続けてる」

 

 言葉の一つ一つが、光秀の胸に突き刺さるように響いた。

 

 想像しただけで、呼吸が浅くなる。そんな極限の集中と覚悟を、毎夜のように続けている人間が、どこにいるというのか。

 

「昼間に竹中はんが言うてはったこと、あれは決して誇張やない。天城はんがそばにおる限り──おひぃさまを討つことは、不可能ですわ」

 

 宗久はきっぱりと言い切った。

 

「なぜなら……刀を抜くことに、相手を殺すことに、一切の躊躇いがない。おひぃさまたちに仇なす者、それだけで──天城はんにとって、その命は、そこらに転がる石ころと同じかそれ以下ですわ」

 

 光秀は、ごくりと息を呑んだ。

 

 まるで、底の見えない井戸を覗き込んでいるような気分だった。刃という男の“愛”は、まるで異質だった。優しさと献身の皮をかぶっていながら、その奥には凶器にも等しい執着が眠っている。

 

 ──それでも。彼は、優しかった。どこまでも。

 

 思い出す。あの時の、刃の言葉。

 

『俺は、姫様、犬千代、長秀、半兵衛、ねね、五右衛門──この六人が笑っていてくれれば、誰が犠牲になっても構わん』

 

 それはあまりに冷徹で、あまりに歪で──けれど、どこまでも真っ直ぐだった。

 

(やっぱり……天城先輩は、かっこいいです。どこまでも冷徹で、でも、どこまでも、優しい)

 

 光秀の胸の奥が、じんわりと熱くなっていく。その感情に名前はつかない。ただ、どうしようもなく心を動かされている自分が、そこにいた。

 

「母親から愛されず、周りからは“うつけ”と嘲られながらも、それでも夢のために、前だけを向いて歩き続けたおひぃさま。誰よりも孤独で、誰よりも強くあろうとしてきた……。織田の家を背負い、自らの志を掲げ、信じる者たちの未来のために走り続ける──そんなおひぃさまが、やっと出会えたんや。ほんまに、自分のすべてを委ねられる、心から信じられる……たった一人の相手に」

 

 宗久の声は柔らかく、それでいて確信を帯びていた。まるで、大切な秘密を打ち明けるように、一語一語を丁寧に選びながら語る。

 

「……心の奥底に、ずっと押し込めてきた傷。癒えぬ哀しみ。誰にも言えなかった不安や、ふとした瞬間に滲んでしまうような弱さ。──ほんまは、おひぃさまは、誰よりも繊細で、誰よりも傷つきやすいお方なんや。せやのに、それを決して、誰にも見せへん。笑って、怒って、強くあろうとして──“織田家の姫”という鎧をまとい続けてきた。泣きもせず、一人で全部を背負ってきはった。そんな全部を――その全部を、まるごと包んでくれたお人」

 

宗久の声はやわらかく、それでいて一言一言が胸に深く沁み入るようだった。

 

「織田家の当主でも、尾張の姫大名でもあらへん。“信奈”という、ひとりの女の子として見てくれる男。家でも格式でもなく、おひぃさま自身だけを見て、命を賭して守ろうとしてくれる。そんなお人が、この世にどれだけおると思う?……天城はん、たった一人なんよ」

 

 彼の瞳は、まっすぐに光秀を見つめていた。その眼差しは、まるで信奈の心の奥を語るかのようだった。

 

「今や、日ノ本中の大名が血眼になって欲しがるほどのお人や。軍才、武勇、器量、人を惹きつける才も、戦略の読みも、すべてが別格」

 

少し間を置いて、言葉を紡ぐ。

 

「そないなお人が、損得や下心やのうて……ただ、おひぃさまのためだけに剣を抜き、命を張ってそばに立ってるんや。どれだけ心強いか。どれだけ、おひぃさまの心を救ったか。……あの人がそばにおるときだけなんよ。肩書きも、誇りも、姫という鎧も全部脱いで、ただの一人の女の子に戻れる相手。誰にも見せられへん涙を、見せてもええと思える相手──おひぃさまが、心の底から“甘えたい”と思える、たった一人の人間や」

 

 光秀の目が伏せられる。けれど、その瞳には確かな想いが宿っていた。

 

「そやからこそや。おひぃさまの天城はんに対する信頼は、常人には理解できんほど深い。ただ傍にいてくれる、それだけで、おひぃさまは自分が狙われているという現実すら気にせんようになる。おひぃさまにとって天城はんは、それほどまでに絶対的な拠り所なんや。

 ……けど、それは逆もまた然りなんやろな。天城はんにとっても、おひぃさまは、生まれて初めて“愛”というものをくれた人。ただ美しいだけやなく、強く、気高く、誰よりも脆くて……だからこそ守らずにはいられん。誰よりも特別な存在。

 そら、ああも不器用で、狂おしいほど過保護にもなるわ。天城はんは他人の目や評価で動くような男やない。“己にとって、たった一人だけの大切”──その存在を、ずっと探してきた者や。おひぃさまも、同じなんや。誰にも分かってもらえん痛みや孤独を背負いながら、ずっと……“本当の自分を見つけてくれる誰か”を、待ち続けてきた。

 ……この二人は、似てる。似すぎてるほどにな。せやからこそ、惹かれあい、ぶつかりあい、それでも手を離せん。運命や、なんて軽い言葉では語りきれん絆が……確かに、そこにはあるんや」

 

「……信奈さま……天城先輩……」

その二人の名を口にするだけで、言葉にならない何かが胸に迫ってくる。

常にどちらかが、どちらかの傍に寄っていく──その在り方こそが、ふたりの関係性のすべてを物語っていた。信奈がいる場所に刃がいて、刃がいる場所に信奈がいる。それは、信頼で結ばれた主従であり、魂の深いところで繋がれた、唯一無二の絆だった。

 

「おひぃさまには、家族はいなかったも同然。家臣団こそがおひぃさまにとっての家族なのですわ。その家臣たちが互いに争い蹴落とし合う光景を見せられるなど、何よりも耐え難い筈。血を分けた弟君と家督を奪い合った過去を思い出すのでしょうな。そのゆえに、あれほど激怒なされたのでっしゃろ」

 

京へ戻ります、と光秀が頭をたれた。

こぼれた涙が、ぽろり、と手の甲に落ちた。

「おひぃさまを追いかけまへんのか?」

 

「天城先輩が、おりますから。それに、私はもう、信奈さまに嫌われてしまいました……」

 

「明智はんはまだまだ織田家では新参者、知らぬ事情も多々ありますがな。これから家臣団との和を心がければよいこと」  

だが光秀は後悔のあまり、しばし顔をあげられなかった。

 

 

 

 

 

 

 夕焼けの残照が、京街道を朱に染める。

堺の町を飛び出してから、すでにしばらくが経っていた。

 

「……変ですね」

 

 信奈の馬の傍らを並走する刃が、不自然な沈黙を破って言った。

 

「良晴の足の速さなら、とっくに私たちが追いついていてもおかしくないはず。なのに……気配すら、感じられません」

 

「そうね。明らかに異常だわ」

 

 信奈もまた、馬上から周囲を鋭く見渡し、唇を引き結んだ。

 

町娘・吉の姿をしており、そのまま飛び出したことで、幸い誰にも正体を気づかれてはいなかった。

しかし、ただ一人、信奈の正体を見破ることができる者が、この京街道にいた。 その者こそは、フロイスの南蛮寺に押し入ってきた傭兵たちを束ねる大将格だった男。

種子島を担いだ、虚無僧姿の暗殺者。

名を、杉谷善住坊という。  その杉谷善住坊、街道沿いのあばら屋に隠れ、信奈を待ち受けていた。

 

その彼の足元には──縄で縛られ、猿轡を噛まされたまま、横たわる青年の姿があった。

 

「う……っ、くそっ……!」

 

 相良良晴。

 顔にはいくつもの青あざが浮かび、唇は切れ、血がにじんでいた。

 激しく抵抗した痕跡が身体のあちこちに刻まれている。

 

「ようやく目が覚めたか。さすがにしぶといな」

 

 善住坊は種子島の銃身を布でぬぐいながら、薄ら笑いを浮かべた。

 

「……お前、南蛮寺にも来たな……いったい、何者なんだっ」

 

「どうせ貴様は、すぐ死ぬ。教えてやろう」

 

 善住坊は、口の端をゆがめながら編み笠を少し持ち上げた。

 鋭い眼光が、薄暗がりの中でぎらりと光る。

 

「俺は──杉谷善住坊。甲賀の忍びさ」

 

「にっ……忍者だと……?」

 

「もっとも、“忍び”とは言っても、俺の得物は刀じゃねぇ。火薬と鉄の塊だ」

 

 そう言いながら、使い込まれた種子島を軽く持ち上げる。

 銃口には既に火薬が込められ、あとは狙うだけという状態だった。

 

「甲賀者はな、主なんていないも同然。銭と依頼がすべてだ。今の俺は──」

 

 善住坊は、その声にわざと間を空ける。

 

「さるお方に『織田信奈を殺せ』と依頼されていてな。中立都市の堺ではさすがに殺れなかったので、街道で待ち伏せて殺すことにした」

 

「サルお方とは、誰だっ?」

 

「さてね。サルとはいえ、お前じゃないことだけは確かだな」

 

編み笠の下から、低くくぐもった笑い声が漏れた。

 

「戦なんぞしなくても、玉を取れば勝ちだ──違うか?」

 

「……やめとけよ。お前じゃ……刃には勝てねぇ」

 

 良晴は縛られたまま、それでも懸命に声を振り絞る。

 だが善住坊は、まるでそれを鼻で笑い飛ばすような口ぶりで言った。

 

「“ついて来ていれば”の話だろ? どうやらあの姫、護衛を置いて来たようだぞ」

 

信奈が、刃を置いて来た?

 あり得ない、と即座に否定しかけた言葉が、喉で凍りつく。

 

「サルを餌に、信奈をおびき寄せる。貴様のこのみっともない姿を見たあの姫が、どんな顔をするだろうな? 慌てて駆け寄ったところを──ズドン、だ」

 

 善住坊は楽しげに指を銃のように構え、軽く引き金を引く仕草をした。

 その様子は、まるで子どもが虫を弄ぶかのような無邪気さだった。

 

「こんなバカな真似をして……誰が得するんだよ!? いったい信奈に、どんな恨みが……!」

 

 良晴が縛られたまま吠える。だが、善住坊は首をひとつ傾けてあっさり言った。

 

「恨みなんざ、あるわけがねえ。俺は、お前にも織田信奈にも、別に興味はない」

 

「じゃあ……銭か? 金なら──雇い主の三倍、いや、五倍でも払う! だから、やめ──!」

 

「ふん。銭じゃねえよ」

 

 善住坊は冷ややかに吐き捨てた。

 

「俺の望みはただ一つ。わが種子島の腕を天下に知らしめること。名声だ。名声こそが俺の欲──」

 

 鉄砲の筒を、丁寧に煤払いしながら語るその横顔は、もはや殺し屋の顔ではなかった。

 それは、“信念”を持った芸術家のような狂気に満ちていた。

 

「天下人を名乗った織田信奈。その首を、この俺が撃ち抜いたとなれば……俺の名は甲賀どころか、日ノ本中の忍びどもに鳴り響く」

 

 そして善住坊は、自信たっぷりに口元を吊り上げて言い放った。

 

「俺はな、いちど定めた“的”を外したことがない」

 

「ふざけるな……っ! そんな理由で……この国を、めちゃくちゃにするつもりか!?」

 

「笑止な」

 

 善住坊の目が、瞬間、鋭く細まる。

 

「おい、若造。お前はまだ気づいていないらしいな──この国は、もうとっくにめちゃくちゃなんだよ」

 

「……!」

 

「戦だの、下克上だの、裏切りだの……殺し合いと奪い合いが日常で、人の命が紙よりも軽い。この乱世こそが、俺の舞台だ。天下統一? 秩序? 冗談じゃねえ。平和になったら、俺たち“業を背負った者”が生きる場所なんてなくなる」

 

 声を荒げるでもなく、淡々と語られるその言葉には、何よりも恐ろしい確信が宿っていた。

 純粋な悪意よりも、こうした「理性の皮を被った狂気」のほうが、はるかに厄介だ。

 

「そんなの、ただの──!」

 

「“ただの”なんてつまらん価値観で、俺を測るな」

 

 善住坊が笑った。

 その背に、もはや情けも、正義も、何もなかった。

 

「そろそろ──猿回しの姫が追いつく頃合いだ」

 

 そう言って、善住坊は外に出た。

 街道の片隅、茂みに立てた棒に、良晴を荒々しく引きずって固定する。

 その縄はきつく締め上げられ、動けば首に食い込む構造だ。

 視界の先は、街道の曲がり角。そこからこちらが見えた瞬間、信奈は必ず馬を駆けさせてやってくる──それを見越しての「餌」。

 

「……くそ……」

 

 良晴は、何もできない自分を噛み殺すように呟いた。

 

 この道は、信奈たちが来る方角からすればちょうど“死角”となっている。

 曲がり角を抜けた瞬間、良晴の姿が目に入り、さらにその奥に──善住坊の狙撃位置がある。

 

 まさに、“殺しのために設計された舞台”。

 

(やべえぜ……五右衛門抜きで忍びに勝てるわけがなく、あっさり捕まっちまった!俺が殺されるだけならまだしも──まさか、この俺が“信奈暗殺の餌”にされる日が来るなんて……!てか、何でだよっ……なんで刃を連れて来てないんだよ!!どういうつもりなんだ、信奈……!!)

 

 縄をきしませ、良晴が必死にもがく。

 だが、しっかりと固定されたその身体は、微動だにしなかった。

 

 そして──

 

 街道の向こう、曲がり角の先から、かすかに馬蹄の音が響き始めた。

 

良晴は、縛り上げられたまま路地の中央で、声を張り上げて絶叫していた。

 

「信奈ッ! 来るんじゃねぇぇぇッ! これは罠だ! 単純すぎる罠だッ!! お前をおびき寄せるためだけの、最低の、最悪の──!」

 

 だがその必死の叫び声を、張り詰めた町の空気が掻き消していく。

 

 物陰に身を潜めた善住坊は、良晴の悲鳴を鼻で笑いながら、構えた種子島の銃口をそっと持ち上げた。

 

(へっ、よう吠えるわ。自分で姫を呼び寄せておいて、情けねぇ面しやがって……。馬鹿なサルだぜ)

 

 乾いた土の匂いと、油煙の残り香。火縄の先にわずかに火が灯る。

 

 そんな中、次の瞬間──。

 

 カツン、カツン、カツカツカツ──ッ!

 

 町の角を曲がった先から、馬の蹄の音が鋭く鳴り響いてきた。

 

 振り向いた良晴の目に、絶望的な現実が映る。

 

 ──信奈だった。

 

 堺の町娘・「吉」に変装した姿のまま、だがその瞳は鋭く、馬を駆ってまっすぐにこちらへと迫ってくる。

 

「……しまった!!」

 

 叫ぶべきではなかった。声を上げたことで、奴らの目論見どおり、信奈をここへ引き寄せてしまったのだ。

 

 焦燥と後悔が一気にこみ上げてくる。

 

 俺の言葉なんて、あいつにはもう届いちゃいねぇ!

 

「ちょっとサル! あんた、なんでこんなところでさらし者になってるのよ? そう言う趣味?」

 

 信奈が馬上から眉をひそめ、呆れたような声で言った。軽口を叩いてはいるが、馬の走りは早い。迷いはなかった。

 

「わああああ! 違うわ!? 違うけど、それより来るな! 来るな来るな来るなああああ!」

 

 良晴は全身で叫んだ。縄で縛られている身体を無理に揺すり、必死に首を振る。

 

 だが信奈は構わず、馬をまっすぐ突進させてくる。

 

「来るなバカ! 忍者が! 種子島でお前を──狙って──っ!」

 

「──忍者? ふん、問題ないわよそんなの!」

 

 あまりにも軽い口調だった。まるで蚊でも相手にするようなテンション。

 

 その一言に、良晴は背筋が凍るような戦慄を覚えた。心臓が喉までせり上がる。

 

 ──まずい。この流れは、まずすぎる。

 

 いつものことだ。信奈の突発的な行動力。無鉄砲な前進。それを刃が後ろから支えているからこそ成立していたのに。

 

 今この瞬間──刃はいない。

 

「は!? お、お前、刃を連れて来てないんだろ!? お前ひとりで来たんだよな!? 何やってんだ!! 死ぬぞ!? 本当に死ぬんだぞお前ッ!!」

 

 叫びながら良晴はもがいた。縄で縛られた身体が軋む。だがそれすら構わず、信奈の無防備な姿をどうにか止めようとする。

 

「……え?」

 

 信奈の馬がぴたりと止まった。

 

 その瞬間、彼女の顔に浮かんだのは──あまりにも不可解そうな表情だった。

 

 きょとんとした眼差しで、良晴を見下ろす。

 

「わたしが……刃を“連れて来てない”? ……は?」

 

 その声は、まるで“理解不能”を言われた時のものだった。

 

「ちょっとサル、何言ってんのよ……?本気でバカじゃないの?」

 

 その瞬間──。

 

 硝煙の匂いが、風に乗って鼻腔を刺す。

 

 そして、空気が裂けた。

 

直後、善住坊の手がわずかに動き、種子島の引き金が引かれた──!

 

 ――ズンッ!!

 

 銃口が火を噴き、空気を裂く轟音と共に鉛の弾丸が放たれる。

 

 狙いは、信奈の心臓。

 

「──やめろおおおおおおッ!!信奈ァアアアア!!」

 

 良晴の絶叫が木霊する、その刹那。

 

銀の閃光が、雷鳴のように炸裂した。

 

 キンッ──!

 

空を斬る鋭い音とともに、銃弾が空中で真っ二つに裂かれた。まるで最初から壊れていたかのように、無様に落下する弾丸の破片。

 

 その銀閃を見届けた瞬間、良晴は息を呑んだ。

 

「……っ、まさか……!」

 

 信奈が、ニヤリと笑った。

 

「誰に聞いたか知らないけどね──刃は、ずっとわたしのそばにいるんだから! いないなんて、あり得ないわ! ──“絶対に”」

 

 言葉が、熱を帯びて空気を震わせた。

 

 信奈の馬の横──たしかに、そこには“誰も”いなかったはずなのに。

 

 いつの間にかそこに、刃が佇んでいた。

 

 人ならぬ気配も殺し、影も落とさず、まるで“始めからそこにいたかのように”。

 

 風に揺れる銀髪をなびかせながら、紅い瞳は伏せられ、言葉ひとつ発することもなく、ただ静かに──だが、あまりにも確かな存在感を放って立っていた。

 

 信奈が、馬上からそっと目を細める。

 

 その笑みには、恐れも迷いもなかった。信頼──否、それすらも通り越した“確信”の笑み。

 

「ね? あんた、本当にバカね。わたしが刃を置いて来るわけないじゃない」

 

 命綱なんかじゃない。

 

 この少女にとって、刃は“運命”だった。

 

 どこにいても、どんな窮地にあっても──彼は必ず、必ず自分を守ってくれる。

 

その確信こそが、織田信奈という少女の“強さ”そのものなのだ。

 

 良晴は、ただその光景を見つめ、呆然とつぶやいた。

 

「……やべぇ……やっぱ、こいつらとんでもねぇ……」

 

 

 

 

その頃、京では──。

 

「信奈さまと……天城先輩が、見あたりませんです……。やはり、相良先輩を追って、美濃へ向かわれたのでしょうか……」

 

 広間に独り残された光秀の声が、がらんとした館に虚しく響いた。

 燃え残った香の煙がかすかに揺れ、薄明かりの中で彼女の影だけが長く伸びていた。

 

 その時、堺からの早馬が駆け込み、今井宗久の密書が届けられる。

 その文面に、光秀は思わず息を呑んだ。

 

『大和の松永久秀が、突如として翻心。今川義元公の首級を狙い、京へ向けて進軍中とのこと。しかも、堺の津田宗及が弾正と密かに書状を交わしていた気配あり。宗及殿が、織田軍が京を留守にしていることを伝え、弾正をけしかけた可能性も考えられまする』

 

光秀は、文を握る手に知らず力を込めた。

 

(三好三人衆は四国へ退き、京は一時の平穏に包まれていた……その油断を突かれたのです)

 

 しかも、織田軍の主力はほぼ全て京を離れ、美濃・尾張方面へ展開している。

 都に残されたのは、義元とわずかな兵。まさに無防備。

 

(……津田宗及どの。やはり堺を織田家の支配下に置かれることを、どうしても避けたかったのですか……?)

 

 自由都市・堺。

 その独立と利益を護るためなら、松永弾正のような“商人上がり”の独裁者を京の主に据える方が都合が良い。

 それが、津田宗及の選んだ道──。

 

 光秀の脳裏に、あの「名物勝負」での違和感がよぎる。

 

(あれは……最初から仕組まれていたのですか?)

 

 だが、すぐにその思考を打ち消した。

 

 津田宗及は武士ではない。

 彼には、彼なりの論理と戦場がある。

 武人が命を賭けて戦うように、商人は己の町と誇りを守るために動く。

 

 だから光秀は、彼を憎まなかった。

 

「……急ぎます! 清水寺へ!」

 

 すぐに京に残る兵をかき集め、守りの準備に取りかかる。

 だが集まったのはわずか八百足らず。

 敵は一万。差は歴然だった。

 

 出陣の鐘が鳴る頃、夜の帳はすでに都を包み込み、星の光すらも翳っていた。

 

 その時、光秀は気づいた。

 

「……あれ?前田殿……竹中殿……蜂須賀殿の姿が……?」

 

 京に戻ってからというもの、三人の顔を一度も見ていない。

 まさか、と思う。

 

(左遷されたサル人間──良晴先輩について、美濃に……?)

 

 だが、自分に一言の相談もなく去ったとすれば──それはつまり、信頼を失った証なのかもしれない。

 

(……やっぱり……名物勝負であんなずっこい手を使って良晴先輩を左遷させたのを、怒っていたのですか……?)

 

 思い返すまでもない。

 名物勝負での三人の怒り具合を考えれば、ありうることだった。

 

 ──おひぃさまにとって、家臣団とは軍勢ではない。

 血の繋がりを越えた“家族”である。

 

 今井宗久の言葉が、またしても光秀の胸を突く。

 

 守るべき都、義元の命、そして織田の名誉。

 だが、それらを守るには、あまりにも味方が少なすぎる。

 ましてや、城ではなく寺──清水寺での籠城など、本来ならあり得ぬ策だった。

 

(……こんな時、天城先輩がいてくれたら)

 

 思わず、唇を噛む。

刃がなした"死神の籠城戦"。

墨俣城を一夜で築いたあと、半日ものあいだ斎藤義龍軍八千を相手に僅か百名で籠城し、その間に二千もの兵を討ち取っている。

 

(あの人なら……この状況など、窮地とも思わないでしょう)

 

 だが、刃はここにいない。

 

(……ならば、わたしがやるしかないです。あの人のようにはできなくても……せめて、信奈さまに恥じぬように)

 

「まあまあ、光秀さん。頼りにしていますわよ!」

 

 優雅な声が、障子越しに響いた。

 

「お寺の周囲を完全に囲まれてしまいましたけれど……この程度の危機くらい、あなたの知恵でなんとかしていただけますわよね?」

 

 塀の向こうでは、松永勢の旗印が嵐のごとくひしめき、鬨の声が遠雷のように山に木霊していた。

 だが、奥座敷では今川義元が十二単に身を包み、硯の前で扇を広げ、風雅に和歌を詠じている。

 まるで、眼前の死地を意にも介していないかのような、ご陽気ぶりであった。

 

(本当に……この方は……)

 

 光秀は、静かに瞼を閉じ、深く息を吐くと、己のうちにある迷いを捨て去った。

 

「御意。京を守るは、明智光秀。この命に代えても、義元さまをお守りいたします」

 

信奈は、光秀に京を守れ、と命じたのだ。 同僚に見放されたのは、自業自得。

 

(せめて、信奈さまが兵を率いて戻るまで──それまでだけでも、この寺を、今川義元さまを、守り通す)

 

 それが、自分に残された最後の償い。

 

 清水寺での籠城は、軍略としては愚策に近い。

 だが、地の利と寺の堅牢さ、そして己のすべてを懸けた時間稼ぎこそが、今できる唯一の策だった。

 

 光秀は自ら最前線に立ち、種子島を構えて敵将を狙い撃ち、松永勢の戦意を削ぐ決意を固める。

 

(天城先輩のようにはいかなくとも、私は──私のやり方で、この地を守ってみせる)

 

 その決意の裏で、光秀には一つだけ、心残りがあった。

 

(……信奈さま、良晴先輩……ごめんなさいです……謝る機会が、もう永遠になくなってしまいました……)

 

 だが、もはや涙は流さなかった。

 

 流浪の中で身につけた技術──種子島の扱いには、誰よりも習熟している。

 袴の裾を翻し、光秀は奥の庭へと飛び降りる。

 

 夜風が肌を撫でた瞬間、乱戦が始まった。

 

 火の粉が飛び、罵声と怒号が入り混じる中、光秀は一人、鉄砲を構えて敵将の気配を探る。

 一人でも多く撃ち倒し、一刻でも長くこの寺を守る。それが今のすべてだった。

 

「明智十兵衛光秀、参ります──!」

 

 だが、その時。

 

 ──バァン!

 

 門が、外側から爆ぜるように吹き飛ばされた。

 

 突入する松永勢の兵たち。その最前に、異彩を放つ一人の女武者が立ちはだかった。

 

 その姿に、光秀の目が見開かれる。

 

「うふ……我が名は、大和は多聞山城城主、松永弾正久秀。以後、お見知りおきを。すぐに、末期の別れとなりますけれど──ふふっ」

 

 ――なんだ、この女は。

 

 光秀は無意識に後ずさった。

 目の前に立つのは、あまりにも妖艶で、異質だった。

 

 松永久秀。

 

 “地獄の使者”、“京を焼いた狂人”と恐れられるその名は、男であるとばかり思われていた。

 だが現れたのは、三十路を迎えたばかりに見える、ひときわ華やかな美女だった。

 

 肌は日焼けしたように褐色、彫りの深い顔立ちは明らかに異国の血を感じさせる。

 その瞳は紫がかった艶を帯び、微笑の奥に深い悪意と快楽が見え隠れする。

 

 髪は清楚な短髪。

 だがその頭には、南蛮由来と思しき奇抜な花飾りが揺れていた。

 

 身にまとう衣装は、和ではなく唐風。

 しかも燃え上がるような緋色。

 胸元は大胆に開かれ、谷間がこれでもかとばかりに露出している。

 艶やかな香り──龍脳の匂いが風に乗って漂う。

 

 その色気と香りに、兵たちすら怯み、魅了されるほどだった。

 

 まるで色町に舞い降りた夜の蝶。

 あるいは、死を運ぶ仮面の菩薩。

 

(……これが、松永久秀……!?)

 

 光秀の喉が鳴った。

 

「槍は、宝蔵院流にございます」

 

 柔らかな口調のまま、久秀は身を翻し、腰に携えた槍を抜く。

 それは、異形の槍だった。

 

 十文字槍──通称、鎌槍。

 長い穂先の左右に、三日月形の刃が伸びている。

 足軽同士の槍衾戦では、長槍は相手を叩くために使われる。

 

しかし個人戦となれば、槍はひたすらに前へと敵の急所めがけて直線的に突くばかりの武器となる。これでは、前後左右に変幻自在の刀に対しては不利となる。

 

だが──。

 

 大和・興福寺から生まれた宝蔵院流の十文字槍は、通常の突きのみならず、三日月状の刃を活かして薙刀のごとく敵の胴を薙ぐことが可能であった。さらに槍を引けば、刃は鎌として機能し、肉を裂き、骨を断ち、致命傷を与える。

 刃が絡め取った瞬間、そこに逃げ場などない。

 

 光秀の顔色が、さっと変わる。

 

「……〝槍は、宝蔵院流〟……。もしや、弾正どのは──興福寺のご出身ですか?」

 

 松永久秀は、どこか懐かしむような微笑を浮かべて答える。

 

「ええ、そのとおりですわ。幼き頃より、わたくしはあの寺の庭に遊び、僧の薫陶を受けて育ちました」

 

 それを聞いた光秀の表情に、憤りが混じった。

 

「そのような信心深きお方が──足利幕府を滅ぼし、奈良の大仏を灰燼に帰し、今また織田家の天下布武を阻まんとするのですか……! 弾正どの、あなたは……仏の道を、見失われたのですか!」

 

 久秀の目が、ふいに冷たく、そして寂しげに伏せられる。

 

「見失ったのは、仏の道ではありませんわ……人の道です」

 

「なに?」

 

「……わが主、三好長慶さまを失って以来、わたくし……この世がすべて幻のように思えてしまったのです。まるで夢うつつの世界に迷い込んだようで──何が正しくて、何が罪なのか、わからなくなりましたの」

 

「嘘だッ!」

 

 光秀の叫びが、夜の空気を震わせた。

 

「三好長慶公を殺したのは、あなたです! その手で!」

 

 久秀は、薄く笑う。まるで人の心を弄ぶように。

 

「それは、悪しき者たちの作り話。わたくしは──長慶さまを我が子のように、心の底から慈しんでおりましたのよ。あのお方を失った悲しみのあまり……都も、大仏も……焼いてしまいたくなった。ただ、それだけのこと」

 

 その声は、狂気と哀切、妖艶と慈愛、すべてが入り混じっていた。

 

「今のわたくしはただ、織田信奈さまが“新たな主”として相応しいかを、見極めたいだけですの。人間というものは……追い詰められた時にこそ、“ほんものの姿”をさらけ出すものですわ。ふふふ……あなたも、これから……」

 

「私は──」

 

 光秀の声が、久秀の台詞を断ち切った。

 

「私はただ、信奈さまを信じ、ついていくだけ。あの方の夢に、己の命と誇りを賭けた。夢うつつに迷う者などに──私を、斬れますか!!」

 

「……うふ。いいですわ。これ以上の議論は、無粋というもの」

 

 久秀の目元が、凶暴な輝きを帯びる。

 

「さあ、殺し合いましょう。あなたを、“混沌の世界”へと……お連れいたしましょう」

 

 血と火炎と絶叫が交錯する中、ただ一人、落ち着き払った松永久秀が、地を滑るようにじり……じり……と光秀に間合いを詰めていく。

 

 光秀の白い頬を、一筋の汗がつたった。

 

(……やはり、ただ者ではない)

 

 十文字槍の構え。

 その腕に、一寸の隙もなかった。

 

「……宝蔵院流相手に、種子島では勝負になりません」

 

 光秀はそう呟くと、構えていた火縄銃を地に捨てた。

 鉄砲は、所詮は間合いの武器。接近戦での使用は自殺行為。

 弾を込める間に喉をかき切られる──それがこの女の“槍”なのだ。

 

 代わりに、腰の刀を抜いた。

 

 名刀《明智近景》。

 備前長船長光の直弟子・近景の作とされる、由緒ある業物であった。

 

「ついに抜きましたわね……気高く美しき姫よ。冥土へ旅立つ前に、せめて名をお聞かせいただけます?」

 

 久秀が、細長い舌で自らの唇を舐めながら、にじり寄る。

 

「われこそは──清和源氏の末裔、土岐の流れを汲む明智十兵衛光秀。剣は……」

 

「明智が光り、秀でる……美しい名ですわ。まこと、あなたにふさわしい名」

 

 久秀は目を細めて囁く。

 

「……でも、“剣の腕”は──どうでしょうか?」

 

久秀がほくそ笑み、そして、十兵衛光秀は地摺り青眼の構えのままに突進した。

 

「剣は──鹿島新当流、免許皆伝」

 

「えっ!?」

 

十文字槍を構えて前傾姿勢を取っていた久秀が、ひらり、と後ろへと飛んだ。

飛んで、光秀の初太刀を避けていなければ。

槍を構えた二本の腕を、一刀両断されていたであろう。

もしも光秀が馬鹿正直に己の流派を名乗らなければ、確実に倒されていた。

 

「まさしく、今の太刀筋は鹿島新当流奥義〝一の太刀〟ですわね」

 

「よくぞかわしました」

 

「信じられないですわ。その若さで、かの剣聖塚原卜伝の……高弟と仰られる!?」

 

「そうです。貴様らに京を追われた足利義輝公は、かつて塚原卜伝先生を二条の御所に招き入れ、自ら剣術の修行を為されました……」

 

「知っていますわ。かの将軍こそは剣鬼と呼ぶに相応しい御仁」

 

「……そのおり、将軍側近であられた細川藤孝どのの家に寄食していたこの十兵衛光秀も誘われたのです。私は入門より一カ月で卜伝先生より免状を頂き、奥義・一の太刀を伝授されました」

 

松永久秀が、はじめて、驚いたかのように目を見開いた。

種子島の名手である上に、あの剣豪将軍・足利義輝に匹敵する剣士でもあるというのですか、この美しき娘は──。

まさに、戦国の世が生みだした奇跡的な天才。

 

 ──織田信奈とやら。

 あの姫大名は、“天の白刃”なる怪物じみた剣士に加えて、これほどの宝刀まで懐に隠していたとは。

 

 「まだまだ天下は広いですわね。いそうにない英傑がいるものです。……面白くなってきました」

 

 久秀が唇の端を吊り上げ、歓喜にも似た微笑みを浮かべた。

 

 「くすっ。あなたのような、すばらしい英傑に出会うと──わたくし、どうしようもなく……殺してさしあげたくなってしまいますの」

 

 言葉の最後に乗った、甘やかで毒を孕んだ声音。

 

 「あなたが夢破れて散っていく刹那に見せる、絶望の表情──それが、どうしても見てみたい!」

 

 光秀の瞳が細くなる。だが怒りでも、恐怖でもない。

 

 それはただ、冷たく、透徹した殺意だった。

 

 「……面妖なことを」

 

 じりっ……。

 

 じりっ……。

 

 戦場の只中で、ふたりの達人の間合いが、音を立てるように詰められていく。

 

 その気配に、両軍の兵たちは戦うことを忘れ、息を呑んだ。

 

 奇妙な静寂。血の臭いに満ちた戦場が、一瞬、無音の舞台へと変貌する。

 

 宝蔵院流の槍使い・松永久秀と、十兵衛光秀。

 まさに、神仏も息を潜めて見守る、超越者同士の決闘である。

 

 一歩。

 さらに一歩。

 

 ふたりの間に、もう“回避”という選択肢は残されていなかった。

 

 剣戟の達人に、膠着も引き分けもない。

 ──勝負は、初動の一撃で決する。

 

 速さこそが、すべて。

 

 しかも、すでに光秀は、卜伝流の奥義・一の太刀を披露してしまっている。

 常識的に考えれば、彼女は不利のはずだった。

 

が、一説によれば一の太刀とは、臨機応変、変幻自在の妙技とも言う。

だれも……松永久秀ですら、その奥義の真の神髄を知るものはない。

 

「……」 「……」

瞬きひとつせずにらみ合う二人の呼吸音のみが、静寂と闇の中から響いてくる。

そして。 二人の腕が稼働を開始した、その刹那──。

 

「そうそう。一つだけ、お教えしておきますわ」

 

 毒蛾が舞いながら鱗粉を撒くがごとく、音もなく忍び寄るような声音だった。

 久秀の厚く艶やかな唇が、不気味に蠢いた。

 

「噂では、甲賀の杉谷善住坊が、織田信奈さまを京街道で待ち伏せして撃ったそうですわ。……あの者、百発百中の狙撃手。信奈さまはもう──お亡くなりになったんじゃないかしら?」

 

「……な、なんですと……?」

 

 光秀の顔から血の気が引いた。

 

 頬をかすかにかすめた風のような、得体の知れぬ香りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。

 妙です……と、光秀の脳裏で警鐘が鳴るよりも早く。

 

 ──その“言葉”こそが、久秀の仕掛けた毒だった。

 

 心の奥底に埋め込まれた、不安と後悔の苗が、瞬く間に芽吹き、絡みつく。

 (あの信奈さまが……死んだ……!?相良良晴を、追って……私の、せいで……?)

 

 全身の血が逆流したような、悪寒。

 頭の中が、真っ白になる。

 思考が、熱砂に足を取られたように沈み込む。

 

 いや、そんなはずがない。

 信奈さまのそばには──“あの人”がいるのだ。

 そう、あの人がいれば、決して──!

 

 だが、その反証が脳内で形を取るには、ほんの一瞬……いや、瞬刻とはいえ、“遅れ”があった。

 

 久秀は見逃さなかった。

 その目は、光秀の呼吸がわずかに乱れたその瞬間を、狩人の眼で正確に捉えていた。

 

 ──隙が、生まれたのだ。

 

「……うふふ。わが春花の術に、かかりましたわねぇ……」

 

 久秀の嗜虐的な囁きと同時に、十文字槍が蛇のように唸りを上げた。

 滑るように空間を這い、鋭くうねりながら、光秀の喉元を狙って疾駆する。

 

 空気が裂ける。

 

「……しまったです……!」

 

 己の失態に気づいた光秀の顔が、蒼白に染まる。だが遅い。

 この速度、この角度。この距離。回避は不可能。受けも、ほぼ無理。

 誰の目にも、それは“詰み”だった。

 

 槍の穂先が、まさに白く細いその首筋に触れようと──

 

 だが──

 

「勝手に死なれては困るぞ、光秀」

 

 キィィン──!

 

  乾いた金属音が、戦場に鋭く弾けた。

 次の瞬間、信じがたい光景が、久秀と光秀の目に飛び込む。

 

 十文字槍と光秀の間に、突如として割って入った人影。

 銀色の閃光が、まるで意志を持つかのように走り、槍の穂先を正確無比に弾き返す。

 

 「なっ──!?」

 

 久秀の瞳が見開かれる。

 己の槍があっさりと弾かれた事実が信じがたいのか、舌打ちと共に後方へ飛び退いた。

 

「ッ、ぶしつけな……あなたは、誰ですの?」

 

 舌打ち混じりに言い放つ久秀。その問いに、刃は涼しい顔のまま、無造作に名を告げる。

 

「織田信奈様の懐刀をやらせてもらっている。織田家部将──天城刃」

 

 その声は静かで、それでいて圧倒的な威圧感を孕んでいた。

 

「ふふ、ふふふ……一騎打ちに割って入るとは、卑劣ですわねぇ?あなた様ほどの武人ともあろうものが」

 久秀がわざとらしい声で咎めるように言った。が、刃は鼻で笑った。

 

「一騎打ち? 卑劣? ……笑止千万」

 

 目の奥に、爛々と紅い光が灯る。剣士としての本能を剥き出しにし、刃は言葉を続けた。

 

「これは殺し合いだ。生き残った者が正義。……違うか? 卑怯だと喚くのは、負けた弱者の常套句だろう」

 

「……!」

 

「第一、貴様の槍が遅いのが悪い。そんな鈍重な刺突では──ハエ一匹も殺せんぞ」

 

 グッと柄を握りしめる久秀。その指が白くなるほどに、怒りに震えている。

 

「失礼な方ですわね、まったく……。ですが、“天の白刃”さま。あなたはここで私と遊んでいてもいいのですか? 姫さまを放って──甲賀の杉谷善住坊が、狙っておりましたでしょう」

 

「……ああ、あいつか」

 

 その名に、刃はあっさりとうなずいた。まるで、既に片が付いているとでも言いたげに。

 

「銃弾を斬り落としたら、逃げていったぞ」

 

さらりと返す刃。その何気ない一言に、周囲の兵たちの背筋が凍った。銃弾を……斬った?

それが事実だとすれば、もはや人の域を超えている。

 

「本来なら、地の果てまで追いかけてでも殺すところだったんだがな……姫様に止められてしまった。嫌な予感がするから京へ戻れとな」

 

 ふっと、刃の口調が僅かに和らぐ。信奈を想うその声に、ほんの一瞬だけ鋼のような鋭さが消え、柔らかさが差し込んだ。

 

「だが、今回ばかりは逃がして正解のようだ。斬っていたら、間に合わなかった。……流石は姫様、勘は俺以上だな」

 

 そして、ふたたび目を細め、久秀を冷ややかに見やる。

 

「あと、貴様の鈍重な槍にも感謝せねばな。おかげで──期待している可愛い後輩を失わずに済んだ」

 

 その言葉に、光秀が目を見開く。

 

(……“可愛い後輩”、です?)

 

ふいに胸の奥を撫でるように、宗久の言葉が脳裏に蘇った。

 

『明智はんも間違いなく天城はんにとって、大切な存在や』

 

 “ただの駒”でも、“使える剣士”でもなく――

 あの人にとって、自分は“守るに値する存在”であったのだ。

 それだけで、目の奥が熱くなり、頬に朱がさっと上気する。

 

 けれど、それ以上に胸を打ったのは──

 

(今……私は、生きている……)

 

 守られ、命を繋がれたという事実。

 その温もりが、震えるほどの感謝と共に心を満たしていた。

 

 だが、その刹那。

 

 久秀の額に浮かぶ怒気の走る青筋。

 次いで、ひとりの傭兵が、死角となっていた光秀の背後から無言で刀を振り上げていた。

 

(──しまったです!気づけなかった!)

 

驚愕と焦燥が胸をつかみかけたその瞬間、刃の方にも久秀の槍が容赦なく迫る。

 

「終わりですわァッ!!」

 

久秀の双眸に浮かぶのは、嘲笑と殺意の入り混じった愉悦。

 

(さあ、どうしますか? 天の白刃さま?この娘を見捨てて槍を受け止めれば、生き残れるでしょう? でも、守れば……あなたは──死にますわ!)

 

 選ばせる──否、強制する。

 

 たった一秒足らずの間に、ふたつの死角から突きつけられた殺意。

 どちらかを捨てなければ、どちらも救えない。まさに、選択の地獄。

 

 だが、刃は――微塵も迷わなかった。

 

 風が動いた。

 

 刹那、光秀の身体がふわりと浮かび、強い力に引き寄せられる。

 細い体が、鋼のように逞しい胸元に包み込まれる。

 抱き寄せる動作は、あまりに自然で、あまりに滑らかだった。まるで、心が先に動いていたかのように。

 

 そして――

 

 刃は光秀を庇う形で左肩を前に押し出しながら、右手の刀を閃かせた。

 

 久秀の十文字槍が閃光となって襲いかかる。

 しかしその刃は、すんでのところで彼の刀に乗る。

 刃は、刀身をあたかも滑走路のように使い、槍の勢いはそのままに上へと軌道を逸らす。

 

 だが、十文字槍の副刃──両脇に突き出た三日月の刃が、完全にはかわしきれなかった。

 

 シュッ──乾いた音と共に、左頬が裂け、さらに肩口に浅く刃が食い込む。

 

 白い肌に走った赤が、じわりと広がり、血の筋が静かに流れ落ちた。

 

その瞬間、傭兵の斬撃がちょうど彼の背後に到達する。

 

軌道を逸らした槍先と、背後からの斬撃が空中で激突し、ガキィィン!!という金属の悲鳴が戦場に響き渡る。

火花が散り、ほんの一瞬、視界が閃光で染まった。

 

……すべてが、わずか一瞬の出来事だった。

 

久秀は、絶句していた。

 

(な……何ですの、これは……!?あり得ませんわ!?)

 

自らの手で仕掛けた罠、完璧な二択。

どちらを選んでも、必ずどちらかが命を落とす状況。

そのはずだった。

 

それを――あの男は、両方救ってみせた。

光秀を庇い、自らを犠牲にするのではなく、わずかに傷を負いながらも、すべての殺意を逸らして見せた。

 

まさに、神業。

 

尋常ならざる技巧、瞬時の判断、動体視力、身体操作、反射神経、空間把握、そして何よりも、命の境を冷静に越える胆力。どれか一つでも欠けていれば、成立し得ない動き。しかもそれを、戦場のど真ん中、敵の凶刃が振り下ろされる刹那に、自然体のまま完遂する。

 

天の白刃――。

 

今や、天下人と謳われる織田信奈が傍らに置く、最強の懐刀にして、戦場を駆ける死神の名。

 

その異名には、虚飾も誇張も一切ない。

 

だが、何よりも衝撃的なのは――その“若さ”だ。

 

(あの年で……まさか、すでにこの“境地”に至っているの!?)

 

年端もいかぬ、二十歳にも届かぬかと思われるその少年の剣は、常人の剣士ならば生涯を費やしても一歩たりとも辿り着けぬ“剣の完成”に限りなく近い。

 

構えに無駄がなく、間合いの計算は狂いすらない。敵の気配を読む勘も常軌を逸し、斬撃の一手に込められる“殺意”は、もはや理を越えている。

 

それでいて――彼は、まだ成長途中なのだ。

 

 その背には、底知れぬ闇と光を兼ね備えた“気”がある。まるで天の意志をその身に宿したような圧倒的な覇気。思わず膝を折り、地に額を擦りたくなるような、威圧でも恐怖でもない“自然な畏れ”――王の威。

 

 それはもはや“天才”という陳腐な言葉では到底言い表せぬ。 

 

 ──覇王。

 

己が覇道を、在り方を、誰の手も借りず、誰の言葉にも耳を貸さず、ただ一人で貫き通す。孤高の王。誰にも屈することなく、己の力と信念だけで世界を切り拓いてきた者。

それは、もはや“才能”などという安易な言葉で語れる次元ではない。

天が望み、大地が受け入れ、人々が本能的にひれ伏す――“生まれながらの支配者”。

 

そんな“覇王”が――

自らの意志で、一人の少女のもとに膝を折った。

 

織田信奈という名の、若き姫大名のもとへ。

 

それも、打算でも利害でもない。

恐れでも媚びでもない。

まっすぐに、自らの魂の命ずるまま――彼は、その姫に惚れ込んだのだ。

 

ただ忠誠を誓ったわけではない。

ただ従属を選んだわけでもない。

魂の深奥から、その少女を“主”と定め、愛し、支え、守り抜くと誓った。

 

その事実こそが、逆説的に織田信奈という少女の“本質”を示している。

 

なぜなら――

刃のような男は、誰かの庇護を受けることを良しとしない。

誰かの下につくことなど、天地が裂けようとも容認しないはずの強者だ。人の上に立つことを宿命づけられた覇王であり、どれだけ好意を抱こうとも、屈服だけはしないはずの誇り高き者。

 

その刃が、信奈の元に身を寄せている。誰かに操られたわけでも、弱みに付け込まれたわけでもない。ましてや“恋”などという一過性の感情で語れるものではない。

 

彼が選んだのは、自らが信じる“主”を見出し、その歩みにすべてを賭けるという、揺るぎなき意志だった。

 

信奈という少女は、その男を無理やり従えたわけでも、甘い言葉で取り入ったわけでもない。

まっすぐな瞳で、何者にも屈せぬ心で、偽りなく夢を語り、嘘なく民を想い、ありのままに“織田信奈”を貫いた。そのただ一つの在り方が、天をも穿つ覇王を惹きつけたのだ。

 

懐に抱いたのは、ただの剣士ではない。

信奈は、“一国”どころか“天下”さえも上回る価値を持つほどの絶対者をその懐に招き入れた。

 

そして、その男の存在を傍らに置いたまま、なお――彼女は“少女”のままで在る。

 

王者として威圧するでもなく、仰ぎ見られることに酔うでもなく。

 

彼の前で、怒り、拗ね、笑い、照れ、夢を語り、時に弱さを見せながら、それでも真っ直ぐに未来を見つめる。

 

その姿に、刃は微笑み、膝を屈し、ただ一人の“姫”として彼女を守り続ける。

 

――そして、信奈はそんな覇王を従えながらも、彼の覇気に飲まれることなく、自らの信じる道を貫く。

 

どれほどの力を得ても、信奈自身は“王”として完成されきってなどいない。

だからこそ、未完成であるがゆえに、伸び続ける力がある。

だからこそ、刃という絶対者すら、彼女の傍に在ることを誇りとする。

 

天の白刃が、あの紅い眼差しで信奈を見つめ、忠誠と愛を誓い続ける限り――

 

織田信奈という一人の少女の天下は、誰にも侵すことなどできぬ。

その覇は、天より授かりしものではない。

愛され、信じられ、選ばれた者のみが手にする、真の“覇道”だった。

 

 

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